
教皇レオ14世が7月10日、同月27日の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向けたメッセージを発表された。今年のテーマは「希望を失うことのない人は、幸いだ」( シラ書14章2節参照)
「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、2021年に教皇フランシスコによって制定され、教会暦中のイエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの日(7月26日)に近い7月の第4日曜日に祝われる。日本の教会では、9月の「敬老の日」に合わせて、その前日の日曜日(今年は9月14日)に記念することになっている。
バチカン報道官室が7月10日公表したメッセージ全文の仮訳以下の通り。
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2025年第五回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のために
希望を失わない人は幸いである(シラ書 14章2節 参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
私たちが今祝っている聖年は、年齢がどうであれ、希望が喜びの絶え間ない源であることを理解する助けとなります。その希望がまた、長い人生の中で火によって鍛えられたとき、それは深い幸福の源となるのです。
聖書は、主がその救いの計画の一翼を担うために人生の後半に召された男女の例を数多く示している。年老いたアブラハムとサラは、神が彼らに子を授けると約束されたとき、それを信じることが難しかった。子供がいなかったため、将来への希望が持てなかったようです。
洗礼者ヨハネ誕生の知らせに対するゼカリヤの反応も同じでした。「私は老人ですし、妻も年を取っています」(ルカ福音書1章18節)。老齢、不妊、肉体の衰えは、明らかにこれらの男女の生命と豊穣への希望を閉ざした。ニコデモが、師から「生まれ変わる」ことについて話しかけられたときにイエスに尋ねた質問も、純粋に修辞的なもののように思われます。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハネ福音書3章4節)。しかし、私たちが物事を変えられないと思うときはいつでも、主は救いの力で私たちを驚かせてくださいます。
*希望のしるしとしての高齢者
聖書では、神は晩年の人々に目を向けることで、ご自身の摂理的配慮を繰り返し示している。アブラハム、サラ、ゼカリヤ、エリザベスだけでなく、すでに80歳になっていたモーセも、民を解放するために召された(出エジプト記7章7節参照)。こうして神は、神の目には高齢は祝福と恵みの時であり、高齢者は神にとって希望の最初の証人であることを教えています。
アウグスティヌスは、「老年とは何を意味するのか?」と問いかけます。そして、神ご自身がその問いに答えておられる、と語ります―「 私の力があなたがたのうちにとどまるように、あなたがたの力を衰えさせなさい。そうすれば、使徒と同じように、『私が弱ったとき、私は強い』と言うことができる」(Super Ps. 70章11項)と。高齢者の増加は、この歴史の瞬間を正しく解釈するために、私たちが識別するよう求められている時代のしるしです。
教会と世界の活動は、世代の経過を踏まえて初めて理解できます。高齢者を受け入れることは、人生とは今この瞬間以上のものであり、表面的な出会いやつかの間の人間関係で無駄にすべきではないことを理解する助けとなります。人生は常に私たちを未来へと導いているのです。
創世記には、年老いたヤコブが孫であるヨセフの息子たちに祝福を与えた感動的なエピソードがあります。彼は、神の約束が成就する時であるとして、希望をもって未来を見つめるよう訴えています(創世記48章8-20節参照)。
高齢者の弱さが若者の強さを必要とするのは事実ですが、若者の未熟さが知恵をもって未来を築くために高齢者の証しを必要とするのも、また事実です。私たちの祖父母は、信仰と献身、市民としての美徳と社会的コミットメント、記憶力と試練の中での忍耐の模範なのです! 祖父母が希望と愛をもって、私たちに伝えてくれた貴重な遺産は、常に感謝の源となり、忍耐への呼びかけとなります。
*高齢者には祝福がある
聖書の時代から、聖年は、「解放の時」と理解されてきた。奴隷は解放され、借金は赦され、土地は元の所有者に戻されました。聖年は、神によって定められた社会秩序が回復され、長年にわたって蓄積された不平等や不公正が是正される時でした。イエスはナザレの会堂で、貧しい人に福音を、目の見えない人に視力を、囚人や虐げられている人に自由を告げ知らせました(ルカ福音書4章16-21節参照)。
この聖年の精神にそって高齢者に目を向けると、私たちは、彼らが解放される、特に孤独や疎外から解放されるのを、助けるよう求められているのを知ります。今年はそのためにふさわしい年です。神の約束への忠実さは、老年期には祝福があること、高齢者がしばしば閉ざされている無関心の壁を打ち破るよう私たちを鼓舞する本物の福音的喜びがあることを教えています。私たちの社会は、世界中どこでも、人生の重要で豊かな部分が疎外され、忘れ去られることに慣れきってしまっています。
このような状況を踏まえ、教会全体が責任を引き受けることで容易に理解できるような意識の転換が求められています。高齢者を定期的に訪問し、高齢者のために、また高齢者と共に、支援と祈りのネットワークを作り、「自分は忘れられている」と感じている人々に、希望と尊厳を回復させる関係を築くことでもたらされる、感謝と配慮の 「革命 」の主人公となるよう、すべての小教区、協会、教会団体が求められているのです。
キリスト教的な希望は、常に、私たちに「大胆になるように、大きく考えるように、現状に満足しないように」と促しています。高齢者が受けるべき尊敬と愛情を回復できるような変化のために働くよう、私たちに促しているのです。
だからこそ教皇フランシスコは、「世界祖父母と高齢者の日」を主に、一人暮らしの高齢者を探す取り組みを通して祝うことを望まれたのです。そのため、この聖年にローマに巡礼に来ることができない人は、「適切な時間、独りでいる高齢者を訪問し… ある意味で、彼らのうちにおられるキリストのもとへ巡礼する(マタイ福音書25章34-36節参照)」(『APOSTOLIC PENITENTIARY』, 『Jubilee Indulgence』, III)ことができます。高齢者を訪問することは、私たちを無関心と孤独から解放してくださるイエスに出会うことです。
*高齢者として、私たちは願うことができる
シラ書は、希望を失わない者を「幸いな者」と呼んでいます(14章2節参照)。おそらく、特に私たちの人生が長い場合、私たちは未来ではなく、過去に目を向けたくなるかも知れません。しかし、教皇フランシスコが最後の入院中に記されたように、「私たちの身体は弱っていますが、それでも、信仰をもって、希望の輝くしるしとして、愛し、祈り、自らをささげ、互いに寄り添うことを妨げるものは何もありません」(2025年3月16日の正午の祈りの説教)。私たちには、どんな困難も奪うことのできない自由があります。それは、「愛する自由」であり、「祈る自由」です。
愛する人への愛情—人生の大半を共に過ごした妻や夫への愛情、子どもへの愛情、日々を明るく照らしてくれる孫への愛情—は、私たちの力が衰えても、衰えることはありません。彼らの愛情が、私たちの活力をよみがえらせ、希望と安らぎをもたらしてくれることも多いのです。
神ご自身にルーツを持つ、これらの生きた愛のしるしは、私たちに勇気を与え、「たとえ外側の自分が衰えていくとしても、内なる自分は日々新たにされていく」(コリントの信徒への手紙2・4章16節)ことを思い出させてくれます。特に私たちが年を重ねる中で、主を信じて前進しましょう。祈りと聖ミサにおける主との出会いによって、日々新たにされましょう。
私たちが長年培ってきた信仰を、家族の中で、また日々の人との出会いの中で、愛情をもって伝えていきましょう。常に神の慈しみを賛美し、愛する人たちとの一致を培い、遠くにいる人たち、とりわけ、困っているすべての人たちに心を開くことができるように。そうすることによって、私たちは年齢にかかわらず、希望のしるしとなるのです。
2025年6月26日、バチカンより 教皇レオ14世
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)