・「天国の記憶」①宗教芸術を作る際には、それが聖なるものとなるように、神やイエス、聖母、聖人の仲介をうながすことが必須

 

 日本語で文章を書く際に注意をすることは、説得力を持たせないことです。いや、ふざけてるわけではないんです。その代わりに、神髄のある観察力をこっちやあっちに分散させる、とでも言いましょうか。それは、俳句にも見られる日本特有の対話の形なのでしょう。しかし、本質は本質としてどのような形にしろ残るわけで、それがゆえに文化を越えた相互理解が私たち人間には可能なのでしょう。何か、急に大きな話になりましたか?

 では、具体的な私の体験から見てみましょう。

 フィレンツェで洗礼を受けた後、もう10年以上前の話ですが、以前働いていた聖芸術学校で、生徒の一人が、「あなたは聖芸術家です!」(インターナショナルな学校なので、英語で ”You are a sacred artist!”)と私に言った。特に、画家のキャリアをイタリアで始めた時期は主に宗教画制作の注文を受けていたので、もちろん職種という視点から見れば、私は聖芸術家だったのでしょう。

 しかし、もちろん彼女は聖人に言及していたわけではないし、その時点で、では聖芸術って何ですか? と聞かれたら、その本質に触れる回答をできたであろうか?などとも思う。なぜなら、本質は聖芸術の枠内に見つかるだけではなく、そのジャンル外の芸術にも見出せるからです。

 よく出来た「型」は、空手や武術だけでなく、信仰でも芸術でも大切です。それが伝統、または文化などと呼ばれるわけです。それと同時に、信仰の深さは、おそらくどれだけ宗教礼儀に参加しているかという形式的事実を越え、どう実際の生活の中で人との関わりの中で体現されているか、ということに本質を見出せるのでしょう。イエスが聖霊を通じて今も直接私たちに神の愛を示してくれるのが、実際の隣人愛に比例するように。

 芸術でも、宗教芸術という枠にも入らない題材にも、信仰の実が表現されることは可能で、そういった見方で日本伝統芸術または現代芸術を分析してみると、ある箇所はイエスの教えに反するかもしれないが、他の箇所はとてもカトリックであったりする場合があるのです。特に自然の神秘を表現する日本芸術は、神の創造の神秘を称えるものでしょう。実際の例は、また別のコラムで取り上げたいと思いますが、こういった見方で日本芸術を読み返すことはどんなに大切なことでしょう。

 同じことを裏返してみると、すべての宗教芸術が聖なるものかというとまったくそうではありません。もちろん、私が宗教芸術を作る際には聖なるものつまり、聖なる人・顔となるように、自力に制限せず、神や、イエス・聖母・聖人の仲介をうながすことが必須だと、個人的には思います。

 ただ、奇跡を待つ、というわけではなく、天国の記憶とでもいいましょうか、それは受け入れるよう、心と頭の清掃を日々の生活の中で続けることが大切なのでしょう。そのために、どれだけ、秘跡が助けてくれることでしょうか!それでは、また次回のコラムで。

(谷本おさむ=ミラノ在住日本人画家・版画家・3D彫刻家。HP: www.osamutanimoto.com/jp インスタグラム:https://www.instagram.com/osamugiovannitanimoto)

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2025年9月29日