
- (2025.9.10 Vatican News Kielce Gussie)
- 教皇レオ14世は10日、水曜恒例一般謁見で、聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」を続けられ、今回はイエスの十字架刑について考察された。
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この中で教皇は、「十字架上のイエスの叫びは、『最後まで捧げられた愛の最終段階』を明らかにすることだった」と強調され、「”叫ぶ”ことを、『弱さ』ではなく『究極の祈り』の行為と見なすように、信者たちに促された。
- イエスの地上での生涯の頂点である、十字架上の死について教皇は、「イエスは沈黙のうちに死んだのではありません… 灯火が消えるように徐々に消えていくのではなく、”叫び”と共に、この世を去られたのです」と指摘。その”叫び”は、単なる肉体の屈服ではなく、「捧げられる命の最終的なしるし」と述べられた。
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十字架上での死の前に、イエスは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?(マルコ福音書15章34節)と叫ばれる。教皇は「これは父と常に交わりを持っていた御子が、受難の苦難の瞬間に、沈黙と不在と深淵を経験したことを示しています」とされたうえで、「これは信仰の危機ではなく、最後まで捧げられた愛の最終段階なのです… イエスが十字架上で叫ばれたのは、絶望からではなく、『誠実さ、限界まで追求された真実、全てが沈黙する中でも耐え抜く信頼』の表れだったのです」と説かれた。
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マルコ福音書は、イエスが大声を出して息を引き取られた、まさにその時、空は暗くなり、神殿の垂れ幕は真っ二つに裂けた(15章38節)と記している」。教皇は「まるで全創造物がイエスの苦痛に共鳴するかのように。しかしこの暗闇の瞬間は、新たな真実も示しました。それは、『神はもはや、垂れ幕の向こうに隠れておられない。その御顔は今や十字架にかけられた御子に完全に現れている」ということです」とされた。
さらに教皇は「十字架に打ち付けられたイエスの傷だらけの身体こそが、究極の愛を体現しているのです。神は私たちから遠く離れているのではなく、私たちの苦しみ、人生の旅路の終わりまで共に歩んでくださるのだ、ということを… そして、十字架の下にいた一人の男がこれを理解しました。異教徒である百人隊長は、イエスの死に様を目撃した後、信仰を持つようになります」とされ、イエスの死後の最初の彼の「まことに、この人は神の子だった」という信仰告白は、一時の口先だけのものではなく、真に心を揺さぶられた結果だった、と指摘。
教皇は続けて、「人は時に、言葉では表せない思いを、声で表現します。心が満ちあふれた時、人は泣きますが、これは『弱さ』を示すのではなく、『深い人間性の現れ』なのです」とされたうえで、「福音書は、私たちの”叫び”に計り知れない価値を与えます。”叫び”は、様々な感情や葛藤を表現できる。言葉では足りない時、私たちの”叫び”は、『祈り』となり得えます」と述べられた。
そして、「最後の”叫び”の中で、イエスは自らの内に残された全てをお捧げになりました 。”叫び”が『諦めや運命への屈服』を意味しないという模範を示されたのです。人は『まだ誰かに聴いてもらえる』と信じるからこそ、”叫ぶ”… 絶望からではなく、願いから”叫ぶ”のです。イエスは、父なる神にagainst(逆らって)ではなく、to(向かって)叫ばれた… イエスは、私たちに、たとえ全てが失われたように見えても、信頼と希望を持って叫ぶことができることを示しておられるのです」と強調された。
さらに、「”叫び”は、霊的な行為。私たちが生まれた時に最初に行う行為であり、生き続けるための手段、人生の一部です。苦しむ時、愛する時、他者に呼びかけようとする時… ”叫ぶ”ことは、自分たちが誰であるかを語り、沈黙の中で消え去りたくないこと、まだ捧げるものがあることを示します」。
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また、「人生の困難な瞬間において、十字架上のイエスの叫びは、『恐れるな』です。『愛から生まれた叫び』は決して無意味ではありません。神は、ご自分に向けられた叫びを、決して無視されません」と言明。「”叫ぶ”ことは、冷笑を拒絶し、『別の世界が可能だ』という信念を持ち続けることを意味します」とも言われた。
講話の最後に教皇は信者たちに、「試練に遭う中でも、心から”叫ぶ”ように。心を開くための叫びは、新たな光、新たな誕生への入り口となることができるからです」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)