教皇権の歴史的展開を大まかに見ますと、「形成期」→「絶頂期」→「衰退・分裂期」→「宗教改革」→「近代・現代の改革教皇権」といった流れだと言えます。そのことは高校の「世界史」の参考書でもかなり詳しく記述されていますので、以下に少し紹介します。
*高校生でも知っているカトリック教会と教皇の歴史!
よく読まれている山川出版社の『詳説世界史研究』から教皇についての記述を見てみましょう。教皇については第6章「ヨーロッパ世界の形成と発展」のなかで、帝政末期のローマでキリスト教が公認され、国教化されて、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキアなどの5つの有力教会があったこと、このうちローマ教会は帝国の首都に位置することと使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張し、ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇と尊称されたと。
その後、「教会の権威」の一節で、ローマ教皇を頂点に、大司教・司教・司祭、修道院長などの聖職階層制(ヒエラルヒー)が成立したこと、前回紹介したカノッサ事件(1077年)や十字軍を宣言して教皇権の強化に努めたウルバヌス2世、そしてインノケンティウス3世など11世紀末から13世紀初めにかけて、教皇権は絶頂に達したと。その後、十字軍について述べたあと、「教会勢力の衰微」という一節でカタリ派異端のことやアナーニ事件(1303年)、そして「教皇のバビロン捕囚」、教会大分裂(大シスマ)、教会改革運動がおこり、ウィクリフやフスが登場したこと 第9章「近代ヨーロッパの成立」のところでルター等の宗教改革、カトリックの改革について記述されています。教会が主題として取り上げられるのは、このときまでです。
*教皇の至上権;「権力の充溢」
では教皇が持っている「至上権」とは何でしょうか?皆さん、聞いたことがありますか?公会議文書には至上権についてはすでに前提されていて、当たり前のことのように書いてあるので、特別気にすることもなく読んでいるのではないかと思います。
鈴木宣明(イエズス会士・元上智大学教授)の『ローマ教皇史』によると、例えば教皇レオ1世(5世紀)はマタイ16章で主イエスがペトロに「あなたはペトロ。この岩の上に私の教会を建てる。私はあなたに天の国の鍵を授ける。・・」と言われましたが、その鍵とは「権能」のことであり、全教会に関わる一切の権能、「最高の権能」のことです。教皇の「至上権」plenitudo potestatis、藤崎氏の訳では「権力の充溢」と言われるものです。
教皇が首位権を主張したことに基づく権利 権力がこの至上権です。前回紹介した教会法学者のグラティアヌスは教皇ニコラウス1世(9世紀)の書簡から「第一の座(ペトロ)は何人(なんぴと)の裁きも受けない」ことになると解しました。「至上権」は「統治における支配的権力の充溢」のことです。以下、至上権の盛衰について簡単に見てみましょう。
*十字軍・・・教皇の至上権を示し強化した
改革教皇グレゴリウス7世は東方キリスト教徒をサラセン人から救援するために軍事的な遠征軍を計画していましたが、出来ずにいました。その精神を受け継いだのがウルバヌス2世です。ウルバヌスは対立教皇を排し、種々の教会改革を軌道に乗せ、フランスの諸都市や修道院や諸侯に自分の意思を伝えていたようで、そのあとフランス中部の古都クレルモンで十字軍を提唱します(1095年)。その時演説されたことは、東方の苦難とそれに対する聖戦の招喚 この戦いに参加すると贖宥と東方の富(財貨や土地)が得られること。そして参加者は十字の印を縫い付けるべしといった内容のようです。
第1回十字軍の参加者は十数万人。教皇はキリスト教世界を統一する者としての権威を聖俗両面で確かなものにしていきます。ただ、その後の十字軍には教皇みずからの私利私欲に基づくものと思われるものがあったり、また騎士修道会が出来たりして、必ずしもキリスト教と一致するものなのか疑われるものも出てきますが
*異端審問
至上権がもっとも発揮されたのが異端審問でした。教皇が考える正しい信仰、正統な信仰の純粋さが汚される、侵害されるような場合は、そのような信仰や人物は存在が許されませんでした。通常の法的な手続きをすっ飛ばして処理されていく。重要なのは社会全体の健康を守ることであり、社会全体のために個々の成員は存在している、という考えです。そんな社会に君主として教皇は存在しました。
よって個々人の思想とか表現の自由とかはありません。何であれ 逸脱 は教皇への反逆として処断される。審問官にひとたび怪しいと思われると、反論する機会を与えられることなく、巧妙に誘導されて、種々の苦痛を与えられ、拷問に付される。無罪放免されることは、ありませんでした。異端審問官の多くはドミニコ会士、フランシスコ会士でした。
*教皇権の衰微
また至上権を振るって自分の意に添わない王や国々を聖職停止にしたり、十字軍に従軍することを命じた りしたので、あちこちから疑問の声が上がるようになりました。そして制度としての教皇制は公然と批判されるようになり、権威は落ちていきます。
例えば、教皇に何度か破門されたドイツのフリードリッヒは再び十字軍遠征をし、聖地エルサレムを奪還し、エルサレム王となる戴冠式を行ないますが、その際同行した司祭たちはフリードリッヒが破門の身であることを理由に彼の頭上に王冠を載せることを拒みます。するとフリードリッヒは自らの手で王冠を自分の頭に載せます。また彼が1231年にシチリア両王国に公布した新法典にはローマ教皇の神権政治的国家秩序を排し、皇帝の意志の独立」を明記しました。またナポリ大学の創立も 教皇のいう神意に捉われない官僚組織を育成するためでした。
*教皇のバビロン捕囚 と大分裂(大シスマ)で権威失墜
1309年、クレメンス5世の時、フランス王権は教皇庁をアヴィニョンに移転させます。教皇はフランス王権に従属していきます。ローマの政情不安もありました。神聖ローマ帝国のルートヴィッヒ4世は1328年ローマで教皇からではなくローマ貴族から帝冠を受けます。神聖ローマ帝国の「神聖」はローマカトリック教会に従順という意味の「神聖」ではなく、皇帝自身が直接神から統治権を頂いているのだという主張が込められています。ローマ教皇の至上権は軽んじられているというか、もはや認められていないのです。
大シスマ(1378~1417年)において、アヴィニョン派はフランス、イベリア諸国、ナポリ、スコットランドで、ローマ派はイタリア、ドイツ、イングランドで分裂して、それぞれの教皇を支持しました。1409年のピサ公会議のときはローマとアヴィニョンにそれぞれの教皇がいて、さらにピサ選立教皇が立てられるという3人が鼎立するという事態になりました。神の意思をどの教皇が体現していると言えるのでしょうか。教皇制がきわめて人間的なものであることの現れと言えますし、これでは教皇の至上権の神聖性を主張することは困難です。
*公会議至上主義の登場・・
大シスマで混乱している最中の1414年 コンスタンツ公会議が開かれ、大要次のような決議(教令「ヘク・サンクタ」)が出されました。「この聖なる公会議は・・まず第一に以下のように宣言する。これは聖霊において正統に集められ、普遍的公会議を構成し、カトリック教会を代表し、キリストから直接権限を授けられている。したがって、どのような身分・位階にある者でも、たとえ教皇位にある者でも、信仰、シスマの根絶、頭部と肢体にわたる教会の改革に関する事柄については服従の義務を負う」としかしその後、バーゼル公会議が開催されますが、教皇と公会議主義者の間で対立があり、公会議主義者たちが立てた対立教皇が退いてしまったので「公会議主義は失敗した」と言われる事態に。
次のピウス2世教皇は「教皇をさしおいて公会議に訴えること自体が破門になる」と宣言します。形としては「教皇権が公会議主義に勝利し」ました。しかし14 世紀の司教デュランや司教ル・メールの「<権力の充溢といった制限なき権力を廃絶し、司教と教会会議の独立した権威を回復して古代の体制に回帰しようという思想が、15世紀に公会議主義として現れたことは重要です。デュランやル・メールは教皇の身勝手な振る舞いによって地域の司教たちが損害を被っている事態を重く見て、教皇権よりも司教と教会会議の権利が優先されるべきことを主張したのでした。
*教皇庁内部でも腐敗が・・
教皇庁内部でも腐敗が進みました。教皇の下における枢機卿の権限が大きくなっていきました。彼らは自分たちの利益のためになると思える教皇を次々に選んでいきます(アヴィニョン期)。「枢機卿たちは教会の真の支配者となって教皇を傀儡にし始めていた。」枢機卿は団体として権力を持ち、自分たちの身分と財産の保全のために「1352年の選挙要綱」を作って、新しい枢機卿の任命やその人数、教皇庁の財産や役職を決めたりするときは枢機卿団の承認が必要であると定めました。また教皇権は世俗権力からだけでなく内側からも圧迫されていきました。
*中世教皇制の最後の段階へ
ヨーロッパ世界で封建制が揺らいでいくと同時に、各地の国民国家が成長していき、教皇の至上権に基づく中央集権的な統制は徐々に緩んでいきます。教皇の諸外国に対する影響力は失せ、イタリア中部だけの狭い領域に至上権行使は限られていきます。すでに13,14 世紀には、各国の世俗君主たちは教皇権に対してみずからの権威を主張し、教皇の上級領主権を否定し、領内の教会に対する統制の権限を奪っていきます。
教皇が聖職者から受ける税の一部を国王たちのものとしたり、聖職叙任に当たっても国王たちの推す候補者を司教職に就けたりなど。君主たちは霊的な問題にも干渉していきます。皇帝が大司教に聖職者集団を改革するよう命じたり、多くの君主たちは高位聖職者に自らの司教区に常駐するよう命じたり、教会暦上の祝祭日に干渉したり、またプラハ、ウィーン、ハイデルベルクに世俗権力によって大学を設立したりなど教皇権の影響を排除しました。
14世紀から16世紀はルネッサンスの時期ですが、同時に人文主義(フマニスムス)やコペルニクスなどの天文学・自然科学も開花し大航海時代でもあります。1493年、アレキサンデル6世は2つの大勅書で地球を二分割し、スペインとポルトガルの「征服に属する地域」と定めたことは、前にも述べました。「地上の国を統一するのはキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ」という論理によってです。教皇の 至上権 の行使は、この時期、ヨーロッパ世界の外だからできたことですヨーロッパではまもなく宗教改革が起こり、教皇権の影響の及ぶ範囲は狭くなっていきます。
*第2バチカン公会議(1962年~)以降 至上権はどうなっているか?
第2バチカン公会議文書 教会憲章」第22項に「ローマ教皇は、その任務、すなわちキリストの代理者ならびに全教会の牧者としての任務によって、教会の上に完全・最高・普遍の権能をもち、それを常に自由に行使することができる」とあり、「完全な権能 plenam potestatem 」、英訳では full power となっています。
また 教会における司教の司牧任務に関する教令」第2項で「十全の権能」と。ラテン語では同じくplena potestate。 新教会法典(1983年)では、第331条に 教皇は教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる。
第332条に「ローマ教皇は・・教会において十全かつ最高の権限を取得する」と。「plena potestas」で 「十全な権限」と訳されています。訳は 「権能 」「権限」 となっていますが、「 権力」 としてもいいものです。つまり現代でもplena potestas、つまり 教皇の至上権 は、厳然と存在しているのです。「教会において」という限定付きではありますが。
*至上権の行使は現在も続いている・・・
公会議文書に至上権が明記されているということは、今も至上権は生きているということです。藤崎衛氏(東大西洋中世史)によると、教皇に「至上権 を認めるということは、十字軍であれ異端審問であれ教皇の指示のもとに行なわれるなら、それは正当化されるし、また教皇の政敵やローマカトリック教会や教皇の権威に服従しないものへの武力行使も正当化されるということです。「唯一確かなことは<教皇による十字軍終了宣言はいまなお出されていない>ということです。つまり十字軍は正式には終わっていないのです」と藤崎氏が書いているのを読んだ時、正直、私は驚きました。
また現在バチカンの「教理省」は、その前は「検邪聖省」という名称であり、その前は「異端審問局」という名称だったことは、よく知られています。「異端審問は終わっていない」と考えるべきです。また、教皇の至上権があって初めて完璧なものと言える「教皇、司教、司祭、助祭・・」といったヒエラルキーもそのままです。
私が若い頃、プロテスタントだったキリスト教史家石原謙氏が「ローマ教皇は、ローマ教会の司教に戻るべきだ」と書いていたのを覚えています。シノダルな教会、すなわち逆ピラミッドの教会になるには、またエキュメニカルな教会になるには、教皇の至上権が 中世的なままであってはならない、と思います。
*参考&引用図書;G.バラクロウ『中世教皇史』、Walter Ullmann,A Short History of the Papacy in the Middle Ages藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』、その他
(西方の一司祭)
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