☩「 生まれながらのチャンピオンや聖人はいない、日々の鍛錬の結果だ」教皇、三位一体の祝日のミサでスポーツ選手たちに

Athletes bring up the Gifts to the Altar during the closing Mass for the Jubilee of SportAthletes bring up the Gifts to the Altar during the closing Mass for the Jubilee of Sport  (@Vatican Media)

*スポーツは「与えること」を必要とする

続けて教皇は、「スポーツの試合で観客が選手を応援するときに使うイタリア語は ”dai ”です。このことについて考えてみましょう。スポーツは単に肉体的な達成のためだけのものではなく、個人的な向上のため、競技の支援者のため、愛する人のため、コーチや同僚のため、より多くの人々のため、そして対戦相手のためですらあるのです」と強調。

さらに、聖ヨハネ・パウロ二世はご自分もスポーツ選手だったが、スポーツは、「その純粋な感謝の気持ち、友情の絆を築き、他者との対話と開放を促す能力によって、育まれなければなりません」と述べられた。

*孤独、デジタル、競争社会の中で

 

教皇はまた、スポーツが人間的、キリスト教的価値観を育む良い方法であることを、「孤独」「デジタル社会」「競争社会」という3つの観点から考察された。

第一に、「私たち 」から 「私 」へと重点が移った現代社会では、「孤独」が圧倒的に目立つ。そのため、他者への関心が薄れている。「しかし、スポーツは、この欠乏に対する解決策を提供するかもしれません」とされた教皇は、スポーツがいかに「協力し、分かち合うことの大切さ」を教えているかを強調され、その結果、スポーツは 「民族間、地域社会、学校、職場、家族内における和解と出会いの重要な手段となり得るのです」と語られた。

第二に、私たちが日々直面し、拡大し続ける「デジタル社会」について、「スポーツは、人々を分断しかねない、このような技術革新の負の影響に対抗するのに役立つ。仮想現実の世界に代わるものを提供し、本物の愛が体験できる自然や実生活との健全な接触を保つ」助けとなります」と指摘された。

そして第三に、現代の「競争社会」と取り上げ、「強い者だけに味方しているように見えますが、スポーツは私たちに”負け方”を教えてくれます。人間の状態の最も深い真実のひとつである『もろさ』『限界』『不完全さ』に私たちを向き合わせます… そして、このような経験を通じて、私たちの心は希望へと開かれていくのです」と説かれた。

さらに、教皇は、「負けたり、ミスを犯したりしないアスリートが存在するということはあり得ません… チャンピオンとは、”完璧に機能する機械”ではなく、転んでも立ち上がる勇気のある、本物の男女です」と語られた。

*生まれながらのチャンピオン人はいない

 

教皇ヨハネ・パウロ二世だけがスポーツ選手だったわけではない。スポーツは、「個人的な鍛錬として、また福音化の手段として、数多くの現代の聖人の人生において重要な役割を果たしてきた。

教皇は、今年9月7日に列聖されるスポーツ選手の守護聖人、福者ピエル・ジョルジョ・フラッサーティに思いを馳せ、「フラッサーティの生涯は、誰も生まれながらにしてチャンピオンにはなれないし、誰も生まれながらにして聖人にはなれない」ことを示しています」と指摘。「求められるのは、日々の訓練であり、それが最終的なチャンピオンに一歩近づくためのものなのです」と説かれた。

説教の最後に、教皇は、ミサに出席した選手たちに次のような使命を課された— 「自分自身のため、そして兄弟姉妹のために、三位一体の神の愛をすべての活動に反映させること。そして、永遠の命という最高の勝利」に向かって選手たちを導いてくださるマリアに、自分自身を委ねること」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2025年6月15日