
聖母被昇天の祝日の15 日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、私が司式しました。
ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。
以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。
聖母被昇天 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年8月15日
聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めている私たちは、命の創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。
あらためて繰り返すまでもなく、私たちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえに命を守り、また命が十全に生きることができるように努めることは、私たちの使命であります。また神は、ご自身の似姿として命を創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、命には尊厳がその始まりから与えられています。ですから命の始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、私たちに与えられた大切な使命です。
実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。私たち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物である命に対する暴力を肯定してきました。そういった命に対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、命に対する暴力は、自然に発生するものではなく、私たち自身が生み出したものであります。
今、私たちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、命を暴力的に奪い去る出来事で彩られています。命に対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。
ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人が命を奪われました。
毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜなら平和とは、単に「戦争がない」ことだけを意味してはいないからです。
ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」
果たして私たちが生きている今の世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。
そう考えるとき、「平和とは、単に戦争がないことではない」と気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。今の世界に神の平和は実現していません。
今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「『正義』とは『報復』を意味するのではなく、『互いを認めること』と『悔い改め』を意味します」と強調されています。
今必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、共に歩み寄り、互いの声に耳を傾けあうことです。
平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。
教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。
エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。
そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく、周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、慈しみが向けられていることが記されています。
聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な「救い主の母となる」という役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。
また「身分の低い、この主の仕え女にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。
すなわち、すべての命はご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、という、神の命に対する価値観が、そこに明示されています。私たち人間が価値がないと見なすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。
エリザベトは、「神の祝福は、神の言葉が実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。私たちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。「自分の利益のために、他者の命を犠牲にしよう」などと考える、利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。
命に対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日も私たちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天に上げられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、共に歩んで参りましょう。
(編集「カトリック・あい」)