(2017.2.1 バチカン放送)教皇フランシスコは、バチカンで2月1日の水曜恒例の一般謁見の中で行われたカテケーシス(教会の教えの解説)で、前回に続いて「キリスト教的希望」をテーマに講話をされた。
これまでのカテケーシスで旧約聖書に見る「希望」を考察されてきた教皇は、この日、「新約聖書におけるイエス・キリストとその復活の光に照らされた『希望』」として、使徒聖パウロの「テサロニケの信徒への手紙1」( 5, 4-5.8-10)を取り上げられた。
テサロニケのキリスト教共同体は、キリストの受難と復活の出来事から、それほど時を隔てずに創立された若く熱心な共同体だった。そのために、パウロはこの共同体に対し、「歴史と一人ひとりの人生に唯一、決定的な出来事である主の復活」についてだけでなく、「死者の復活」についても理解させる必要があったことを紹介され、「私たちも自分の死を考えたり、親しい人の死に直面する時、信仰が試練にさらされるのを感じますが、このような時こそ、信仰の本質に立ち帰り、神がイエス・キリストを通して私たちのために行われたことを改めて知る必要があります」と話された。
さらに、パウロは、テサロニケの共同体に宛てた手紙の中で「既に眠りについた人たちの復活と、来るべき主の日」について、疑念や恐れを抱く信徒たちに対し、「救いの希望を兜(かぶと)としてかぶり、身を慎んでいるようにと、励ましている」とし、パウロの言う「救いの希望」とは何なのか、キリスト教的希望とはどういうものであるのか、を考察された。「一般に『希望』とは、何か素晴らしい物事を願うことですが、実現するかどうかは定かではない。この場合の『希望』は『それが実現するといい』という一つの『願い』に過ぎません」と指摘。「たとえば、『明日は晴れるといい』と願っていても、私たちは実際にはそうならない可能性も知っています」。これに対して「『キリスト教的希望』とは、すでに完成した出来事で、私たち一人ひとりに確かに実現する出来事を待つこと、なのです」と説かれた。
そして「キリスト教的希望」を「そこに扉があり、その扉にたどりつくのを願うこと」と喩えられ、「わたしたちのすべきことは、その扉に向かって歩くことであり、わたしたちはそこに扉があることを確信している」と話された。
また、「私たちは主との出会いを待ちながら生きることを学ばなければなりませんが、『待ち望みながら生きる』ことは、謙虚で清貧な心でなければできません。自分に満足し、多くを所有する人は、自分以外に信頼を置くことができないのです」と警告され、「主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(1 テサロニケ 5,10)を引用して、この聖パウロの言葉に「大きな平和と慰め、確かな希望を見出す」ように、そして、「亡くなった人々がキリストのうちに生き、キリストとの完全な交わりにあること」を祈るように、勧められた。
(写真は、2月1日、バチカン・パウロ6世ホールの一般謁見で参加者に応える教皇フランシスコ)
