8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。
現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。
できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。
全国に目を向けると、私自身も5月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になった、との報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。
【年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年8月28日】
「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(回勅「兄弟の皆さん」87項)ー教皇フランシスコは、このように語られています。その上で教皇は、「命があるのは、絆、交わり、兄弟愛のあるところです… 自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだ、とうぬぼれるなら、そこに命はありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べておられます。
ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だ、とするこの話がここで終わっていたら、”マナーを教える話”に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。
宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、「『神の国に招かれる』とは一体どういう意味であるのか」を説き明かしているからに他なりません。
すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは、「自分が勝ち得た権利の行使」ではなく、徹頭徹尾、「神からの恵み」でしかあり得ない事実であります。そして、すべての命を神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。
その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いの絆、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところには命がないことが示されています。
現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られた、と教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。
第二バチカン公会議の現代世界憲章は「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69 項)。そこにはこう記されています。
「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち『富が自分だけでなく他人にも役立ちうる』という意味において共同のものである、と考えなければならない」
教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しておられます。
「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118 項)」。
神ご自身がそうされるのですから、私たちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。