(2019.12.1 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは1日、日曜恒例の正午の祈りに先立って、この日から始まる待降節の意味について触れ、私たちの周りで苦しんでいる人々に注意を向けるように促された。
聖母マリアのお告げの祈りの前に、教皇はまず、待降節が「イエスが常に私たちの暮らしに入って来られるのを、思い起こさせる機会」となることを指摘され、「イエスが時の終わりに、私たちに信頼と希望を持って未来を見つめるよう促すために帰って来られること」の確かさについて語られた。
そしてこの日のミサで読まれた第一朗読で、「預言者イザヤは、 全ての国がそこに向けて描かれるであろう神の家である山の絵を描いています」と述べ、「イエスは人となられた後、ご自身がその山の頂にある、真の神殿であることを明らかされました」とされた。
そして「イザヤの素晴らしい展望は、神の約束にあり、巡礼-『歴史の意味であり、目標であるキリスト』への旅-の心構えをするように促しています」と説かれ、待降節は「神のなさり方を私たちにお示しになる平和の使いとして来られるイエスを、喜びを持って迎える時」とされた。
また、この日のミサで朗読された福音の箇所で、イエスは私たちに「目を覚ましていなさい」と勧めてるが、「これは、文字通りに『常に目を見開いている』ことを意味しません… 他者のために自分自身を捧げ、奉仕することで、自分の心を自由にし、正しい方向に向けることを意味するのです」とされたうえで、「私たちが目を覚まさねばならないのは、無関心や虚栄心によって、人間関係を作ること、孤独な、見捨てられた、あるいは病にある兄弟姉妹の世話をすることができないこと、によって、生まれる”睡眠”です」と強調された。
教皇は、私たちがイエスの到来を期待して待つためには「神の行動と神の驚きに驚嘆する」という形で目覚めていることが求められる、とされ、「それは、困難のなかにある隣人に注意を払い、彼らが私たちに助けを求めるのを待つことなく、彼らの必要に応えることです」と説明。
最後に、教皇は乙女マリアに待降節の旅への導きを願って祈られた-「マリア、目覚めておられる乙女、そして希望の母が、私たちの眼差しを、『主の山』-全ての人をご自身に引き寄せられるイエス・キリスト-に向けてくださいますように」。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)