・連載・回勅「フマネ・ビテ」50周年②「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、「妥当性の是非を論じる」のは駄目

 回勅公布50周年に当たって、回勅の支持者たちは、「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、妥当性の是非を論じるのは認められない、と言う。50年前に、「フマネ・ビテ」が発表された時、経口避妊薬を「ノー」とするパウロ6世の衝撃的なこの回勅を、批判者たちは「的外れで世間の常識とかけ離れたもの」として排除した。当時のお調子者たちは、回勅を嘲笑し、ビートルズが前年に発表した「Fool on the Hill丘の上の愚か者」の曲、とくに「雲の中にある彼の頭…誰も彼のことを聞きたくない」と反復する箇所を歌ったものだった。

 それから半世紀、回勅の支持者たちは、この回勅が何であろうとも「的外れ」ではない、と言う。例えば、イタリアのギルフレド・マレンゴ師は「フマネ・ビテ」発表当時、「この回勅は、時のしるしをよく読んでいる」と語っていた。

 彼は「『フマネ・ビテ」が公表された時、世界の多くの地域で非植民地化が終わろうとしていた」とし、「多くの国際機関に指示された受胎調節の政策-コンドームの配布と堕胎の合法化のような政策は、多くの国々、とくに発展途上の国々の政策に影響を与えることを、多くの人々が支持するしるしとして懸念されました」。そして、「これらの政策はイデオロギーの植民地化と理解することが出来ます」と。(このような言い方は、教皇フランシスコの言い方に倣ったものだ。教皇は、多くの機会に、「西欧の国々とNGOが貧しい国や地域に対して人道援助の代わりに進歩的な性道徳を押し付けている」ことを「イデオロギーの植民地化」として批判してきた)

 昨年、教皇フランシスコは、この回勅がどのようになって来たかを調べる委員会を設けた。ローマの聖ヨハネ・パウロ2世研究所で神学的人類学を教えているマレンゴ師は、委員会のリーダーで、最近、「 The Birth of an Encyclical: Humanae Vitae in the Light of the Vatican Archives」を出版したが、現在のところ、同書はイタリア語版のみだ。1960年代末には「豊かな西側諸国に広がっていた『反出生』の考え方を、まだ貧しかった新興国に植え付けようとする意志が存在しました」と、彼はemailを通してCruxに語っている。

 バチカンの生命アカデミーの委員を長く務めているインド人医師、パスコール・カバロは、Cruxに対して、「カトリック教会が受胎調節を絶対に支持しないとする一方で、人々はしばしば教皇パウロ6世の「責任ある親の務め」に対する開かれた姿勢を見過ごしてきました」と指摘した。

 教皇フランシスコは2015年の飛行中の機内での会見で、前任の教皇に倣って、一人ひとりが司祭とともに「『責任ある親の務め』をどの様に果たしていくべきか」を追求していく必要性を説き、「ウサギを育てるようにして、良いカトリック信者とするために、という言い訳として、そのように考える人がいますが、そうではありません」と語っている。

 カバロによれば、いくつかの国際機関を駆り立てている課題は、何十年も前と同じように、今日も強力だ。「途上国に対する援助の中には、女性の性と妊娠に関するプログラムに避妊と堕胎の促進とつながるもの」があり、「フマネ・ビテ」のおかげで、そうした問題があり、他に多くの選択肢があることが広く知られるようになっている、と指摘する。

 そして、今、回勅の幅広いビジョンを実現するために、教会はあらゆる場面で積極的にならねばならない、と考えている-妊娠したが出産が難しい状況にある人を助け、養育に困難を感じている家庭を幅広い支援で支え、健康に育ち、社会に貢献する市民となるための教育とその他の手段を提供する、などでだ。

 一方で、マレンゴ師は、家庭生活の中で「教会の内外で、『フマネ・ビテ』の主張と指針が遠い存在とみられたり、まったく知られなくなったりしている」ことも認めている。原因は、回勅が出された当時の議論がもっぱら避妊薬の是非をめぐる意見対立に終始し、その結果、人間的な愛と「責任ある親の務め」となる意義について「フマネ・ビテ」が示した積極的で先見性のある側面を受け入れるようにする方策をイメージするのが、もっと難しくなったためだ、と見ている。

 米国の神学者でカリフォルニアのオレンジ教区の事務局長とケビン・バン司教の神学顧問を兼ねるピア・デ・ソレンニ女史は、「フマネ・ビテ」が今も極めて適切な文書であり続けているとみる1人だ。

 彼女はCruxに対して、「回勅は真の愛についての文書です」としたうえで、現在起きているマカリック枢機卿や他の教会指導者たちが関係する性的虐待について数多くの訴えが出ていることは「暮らしの中で貞節を守っていない時に何が起きるかを、はっきりと示しています」「そして、回勅の教えが無視されると何が起きるかを、とても良く示しているのです」と強調。

 さらに、教皇フランシスコが繰り返し指摘する「使い捨て文化」の考え方に同調する形で、「私たちは愛を軽視し、人々を利用しているのです」と述べ、「避妊しなければ、堕胎の必要もない。私たちが、まだ生まれていない人の命を、重荷であり存在すべきでないもの、とみる避妊の心理に取り込まれることで、堕胎は存在するのです」と断言した。

 アメリカ・カトリック大学の学生で神学と哲学を専攻するジャンヌ・マリー・ハサウエイも、教皇の回勅で書かれた女権拡張運動への訓戒は、その当時、「女性の権利の否定を意味するもの」と広く受け止められていた、と見ている。「結局のところ、避妊と堕胎は、社会が、女性の扱いで重大な改善をしないようにする”バンド・エイド”です」「教会は、人間の尊厳のレンズを通してすべての問題を見るようにする文化への移行を提唱し、避妊と堕胎を否定したのです」。生殖能力啓発(Fertility Awareness)を基礎にした家族計画の手法は、女性に彼らの体の中に異なる道を提示している-それは、男性に、命の複雑さを認識し、敬意を払うように求めるものだ、という。

 「堕胎や避妊(あるいは両方)は、人類の繁栄-もっと言えば、女性の繁栄-のために必要、とする考え方は、人生は、私たちが望むことと実際に起きることの間の均衡をとる行為、とする壊れた世界観からくるもの」「性は『私たちが望むもの』で、生まれてくる子供たちは『私たちに起きること』という考え方です」。これに対して教会は「より深い現実への強力な声です-人生はそれほどきちんと整ったものではない」、そして「これは特に性の領域で真実です。そこでは、二つの命が三つと一つになるように、共に力を合わせるのです」としている。

 生物倫理を教える倫理神学者のスペイン人司祭、ホセ・ラミロ・ガルシア師は、「フマネ・ビテ」が、すべてのキリスト教の教会の基本的に共通の教えとして使われることで教会一致の運動にも意味をもつ、と主張する。それは常にはっきりとは見えないが、当時の教会内部の反応によって影響されている、と言う。

 さらに、「当時、司教たちの中に、回勅に反対する人がいたことは、回勅の実施に、とても否定的な影響を与えました」とし、具体的に、全世界で、四つの司教会議が、回勅公布後に司牧書簡を出し、バチカンの指針に拘束されない旨を表明した事を挙げた。その一つがカナダの司教協議会で、司教団として、「ウイニペグ声明」として知られることになった、回勅に反対する立場を示す書簡を出した。

 ただし、カナダ司教協議会は今年になって、その改訂版として「結婚の愛の喜び」と題する声明を出し、前の生命よりも回勅に前向きな姿勢を明らかにしている。「多くの人が、回勅を、避妊を否定するメッセージに矮小化し、誤解していましたが、回勅の本当のメッセージが、イエス・キリストが私たちに約束された命の豊かさへの力強い”イエス”だということを、今、再確認しているのです」とガルシア師は語った。

 そのカナダのクリスチャン・レピーネ、モントリオール大司教は、カナダ司教団の態度の変化は時の流れるに一因がある、と見ている。「回勅が公布された時、もっぱらの関心は避妊にありました」とCruxの電話インタビューに語った。「しかし、時とともに、避妊が人々の生活にいきわたると同じように、視野が広がり、回勅が示す他の側面すべてとその基礎を知るようになったのです」と。

 さらに、「回勅が出た1968年は今とは違っていた」とし、この回勅とその教えを前向きに捉えなおすために、なお多くのことをする必要があるが、「その基礎」は、回勅を補強するヨハネ・パウロ2世の神学とともにある、と説明。「このtheology of the body(身体の神学)の中に、愛することの使命、他に対する使命、互いが互いのためにあるという賜物、を見る人が時を追って増えています。夫婦の霊的交わりと愛の豊さとともに、です」と語っている。

 (「theology of the body」はヨハネ・パウロ2世が教皇となって初めの何年かに、129回行ったサンピエトロ広場での毎週水曜の一般謁見のテーマだった)

 Pew Research Center(ワシントンに本部を置く独立系の社会研究所)が2016年に行った世論調査によると、毎週教会のミサに出ている米国のカトリック信者の中で「避妊が道徳的に誤った行為である」と考えている人は、わずかに13パーセントだった。

 学生のハサウエイにとって問題なのは、一般の信徒が教会の教えを拒んでいることではなく、そもそも、教えを理解していないことだ。「私たちは教会の教えを一行か二行にしてしまっています-『避妊は悪いことだ、だからできない』と言うようなものです」。そして、こう言う。「私たちの社会は、こう言います-避妊は人間の命において大きな部分をつなぐ欠かすことのできない小さな部分だ、生粋の、恋愛に適した関係、自由と冒険、充足と安定だ、と」。

 だが、彼女にとって、そうした見方は「疲労困憊で嫌気のさる生き方」につながる。ばらばらになった部品は全体で一つになる、という現実を見損なっている。回勅は、全体についての『青写真』-「人類は神と関係を持つために創造され、家庭は関係を学ぶ学校、家庭の基礎は男性と女性の友情にあることを、基本に置いているのです」。そして彼女は言う。「パウロ6世は、避妊をばらばらになった部分としてとらえていました。それは人間生活の接着剤ではない、と」。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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