・ディアスポラ(離散)とグローバル化-カトリック教会の”今”をカール・ラーナーは65年前に予測していた(LaCroix)

(2019.7.30 LaCroix international  Massimo Faggioli )

  ドイツのカトリック信徒数が減少を続けている。昨年一年だけで21万6000人以上が政府が義務付けた教会税の納入を停止することで”教会を離れる”ことを決めた。

 これは、西欧世界でゆっくりと着実に進む教会離れの、ごく最近の実例だ。受洗者の減少はすでに20世紀前半から始まっていたが、それが過去60年の間に加速している。このことは、キリスト教が消滅しつつある、ということを意味しない。だが、教会が信仰に対するしっかりとしたコントロールを無くしつつあるのを示しているのだ。

*”ディアスポラ・キリスト教”についてのカール・ラーナーの予言

 このことについて、イエズス会士の故カール・ラーナー(1904-84) ならどう考えるか、と思いめぐらすのは、好奇心をそそることだ。

 偉大なドイツ人神学者であり、第二バチカン公会議 (1962-65) とその後の何十年かの教会の動きに極めて大きな影響を与えたラーナーは、1954年に先見性のある評論「diaspora Christianity(ディアルポラ・キリスト教)」を発表している。ヨハネ23世が教皇に選出され、就任3か月で公会議の招集を発表した1958年に先立つこと4年だった。

 そして65年を経た今、この評論は私たちが置かれた現在の状況に、たくさんの光を当てることができるー第二バチカン公会議から54年を経た今、カトリックは(注:公会議を招集した教皇23世と思いを同じくする)教皇フランシスコの治世下にあるのだ。

 そして、このラーナーの評論は、フランスの権威ある神学雑誌Recherches de Science Religieuse最新刊に “Doing theology in diaspora Christianity”というタイトルで特集されている。

 編集長のクリストフ・テオバルド師はドイツ系フランス人のイエズス会士で現代を代表する神学者だ。何人かの執筆者による評論に加えて、テオバルド師自身も、「ディスポラ・キリスト教」のラーナーの洞察を教会の現状にあてはめるいくつかの手法について検討する評論を載せている。

 その評論で、彼は、現在の世界の教会が少数派を代表するのに加えて、分散化と宗派化の過程にある、と指摘するところから始め、さらに、こうした教会は文化的な複数化と制度的弱体化の挑戦を受けており、教会内部で誰が何をするかをめぐる構造的変革に取り組むことを余儀なくされている、これらすべてが、神学と教会-教会の根本的な使命の理解の仕方の要一に新しいあり方を求めている、としている。

 また、キリスト教の”ディアスポラ”は、“霊性”の消滅を意味しないことから、必然的に破滅をもたらすものではなく、逆に、教会、社会、政治分野でのキリスト教を統制する力の弱まりが、”宗教的”あるいは”霊的”な新たな潮流の登場を可能にし得る、と言う。

 ラーナーは1954年の評論で、ディアスポラを「歴史における偶然の出来事」というよりも、「救済の歴史に固有の必然の出来事」としている。現在の教皇職と関連し、それが表面化させた緊張状態だ。

 彼は、第二次大戦後のドイツで教会、国、社会の関係を支配したキリスト教国のモデルに極めて批判的だった。彼は評論を書いた時点で、世界のカトリック教会が欧州と西側世界によって制度的、神学的に支配され続ける限り、その矛盾が表に出されるのは、教会外部からだけだ、と見ていた。そして、教会がグローバル化すれば、矛盾は激しい不一致の形で教会内部から噴出するだろう、と予想した。

 教会が”すべての民の教会”になり始める時が、それだ。なぜなら教会が欧州と西側世界との一体感から自らを解き放つからだ。それがまた、教会が全てに対する宣教活動において一つの教会となり始める時でもある。だが、西側世界の確立した教会から、全世界の教会への宣教における転換は、自然に起きるものではない。これが、ラーナーの洞察を我々がどのように現在の状況に当てはめればいいか、についてのテオバルドの省察が示す、規範的な転換である。

 テオバルドは、ラーナーの「1954年の明快な予測」を「教皇フランシスコのもとで起きていること」と結び付けるのを助けてくれる。それは、歴史神学において新たな神学的、制度的枠組みのための場を作る試みに他ならない。それは、我々の住む多文化的、多宗教的における教会の複数化、断片化について”政治学的”あるいは”社会学的”に難詰するのではなく、この状況を、聖書と教会の伝承の光の下で”神学的”に理解することだ。

*ディアスポラにある教会のための三つのステップ

 テオバルドは言う。このようなディアスポラに対して教会が取るべき第一のステップは「識別」-現在の制度ないしは制度を支える文化を反射的に守るのでなく、我々自身の置かれた状況と世界についての理解力を基礎にして現在の危機を耐え抜く信仰の可能性を守り、確かなものとすることである。それは、世界に対する批判と自己批判を合わせた仕方で、”時のしるし”を読み取ることを意味する。

 第二のステップは、教会が少数派であるという考え方の「受容」-これは、福音に対して常に存在する障害をセンセーショナルに騒ぎ立てる「我々の世界と教会内部に働く反福音的な力」の誘惑を拒絶することを意味する。センセーショナリズムは、戦士のメンタリティー-それ自体が福音と矛盾する-を作り出す。

 第三のステップは学術的な神学と教会の間の関係の「再考」だ。現地の教会は、制度の福音的改革につながる神学的な思考の主役となる必要がある。今日、高度に特化した神学の専門職の加速的な断片化と、キリスト教共同体の生きた文化の間に大きなギャップができている。テオバルドは”神学のキリスト教徒による共有化”-神学者と教会指導者、教会共同体の新しいパートナーシップ-の必要性を説いている。

 

*神学的、制度的な課題

 だが、このような三つのステップを踏む前に、いくつもの神学的、制度的な課題を解決せねばならない。

 ディアスポラにある教会にとって、第一の、最も重要な課題は「教会の伝承の概念」に関するものだ、とテオバルドは言う。「今日の伝承は受容と言う作業を通して伝えられている。それは同時に再生する作業でもある」。そして、伝承の複雑さと一致を保ち続けるために、第二バチカン公会議の「神の啓示に関する教義憲章」が「ディアスポの中で教会に奉仕する神学の内的な基軸」を構成している。

 伝承の問題は、フランシスコが教皇職を務めている間に表面化してきた。例えば、synodality(協働性)の進展という教皇の強い主張は、sensus fidelium(信仰者の感覚)を基礎において教会の意志一致を見出すことのできる方法を再考する必要性を、別の仕方で説明するものだ。これは新しい均衡、今日、「キリスト教徒であること」を意味するものの新たな核を求めている。

 これは知的な問題であるだけでなく、現代のすべてのキリスト教徒にとっての霊的挑戦だ。これはまた、新たな普遍性に向けた神学の包括的な転向と、無数の相違へ細心の注意を払う必要性、個々の共同体と人間集団の特定の状況の均衡を図ることを意味する。

 第二の課題は「文化の役割」だ。ラーナーは “exculturation” -西欧社会は、教会の制度によって明確にされたように、カトリックとキリスト教文化から自身を切り離してきた、という事実-という問題を避けない。

 だが、”exculturation”はキリスト教の構成要素なのか、それとも、解決可能な問題なのか?カトリック教会は、伝統的なキリスト教国におけるキリスト教文化の消滅を超えて生き残ることができるのか?それとも、その一方で、キリスト教文化は宣教する教会への障害となるのか?

 言葉を換えれば、”exculturate”された少数化のキリスト教は(多くの宗派の)一つとなる危険を冒す、ということだが、それは、重要な宣教共同体となる潜在力を持っている、ということでもある。

 そして第三の課題は、「神学の民主化」-教会について考えるキリスト教徒の人数と人種の拡大-を必然的に伴う、ということだ。

 10月に開かれるアマゾン地域シノドス(代表司教会議)での議論を前もって妨げようとする論争からも分かるように、教会の上層部と聖職者の一部はそれに強硬に反対している。教会における女性の役割と説教をめぐる議論は、ディアスポラの状況に置かれた教会を”非聖職化”する必要性に関するより大きな文脈の小さな一部でしかない。

 

*西欧の、既成組織化した教会から… グローバルな、宣教する教会へ

 テオバルドの1954年のラーナーの評論再読は私たちに、現代のカトリックの危機の本質-制度的(聖職の役割、教会における司祭の構成)、神学的(性、ジェンダー)、社会的(宗派化、断片化)、そして政治的(受動的同化と新統合主義の間のカトリックの政治)-を包括的に示している。

 これらすべての要素は私たちに、ディアスポラ-教会のグローバリゼーションと正反対ではなく、表裏の関係にある-の状況と切り離すことができない、という問題を提起している。

 「主要な課題は、キリスト教の伝統についての歴史的な偶発の受容である。その伝統は今、グローバルな再構成を必要としている」とテオバルドは書いている。

 それには、宣教する教会になる必要がある。具体的には、我々の仲間の人間たちとキリスト教の経験を生きた分かち合いをしながら前に進むこと。教会の多面的なビジョンの展開、そしてキリスト教徒のアイデンティティーを規定する新たな形を作ることも求められている。

 教皇フランシスコの教皇職をめぐる全体の議論は、教会の置かれた状況の認識の不一致と関係している。教会をディアスポラとグローバリゼーションの文脈でとらえる人は、フランシスコの教皇職を受け入れている-少なくとも、心を開いている。だが、”キリスト教国”の時代に戻ることができると未だに信じている人は、どうして変革が必要なのか理解しない。

 このような不協和は、世界中で異なる形で明らかになっている。教会のディアスポラとグローバリゼーションは、いくつかの国では、他の国よりもはるかに明確になっている。しかし、国による程度の違いはあれ、ディアスポラの状況は、全てのキリスト教徒、そして全てのカトリック教徒、そして、欧州に始まった宗教の世俗化が何十年かたって上陸した米国のような国する人々にも、に影響を与えている。

 フランシスコの教皇職をめぐる意見の不一致はまた、今日まで生き続けてきた”キリスト教国”カトリックの形-欧州と西側の学界あるいは知的エリートに支配されてきた神学的思考、それと、聖職者の位階制度、あるいは聖職化した一般信徒によって支配された教会の統治組織-から離れる用意がどこまでできているかの、程度の違いの問題でもある。

 だが、世界共通の一つの典礼形式、共通の一つの聖職者の規範、一つの神学的律法を持つ、11世紀、12世紀に作られた教会制度に戻る道はない。今日の教会は、当時とはすっかり異なった世界に生きている。過ぎ去った時代に戻ることはできない。それはもう終わったのだ。

 話は変わるが、現在続いている聖職者による性的虐待と教会財政をめぐるスキャンダルは、”キリスト教国”の終焉とディアスポラのおかげで、明らかにされた。教会のディアスポラとグローバリゼーションを否定することは、これらのスキャンダルを否定する別の道に、容易になりうるだろう。

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(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2019年8月2日