・「マグダラのマリア」は現代の “#MeToo” 運動に採り入れられる存在?(Crux)

 (注:“#MeToo” =私も」を意味する英語ハッシュタグ(#)を付けたSNS用語。セクシャルハラスメント性的暴行の被害体験を告白・共有する際にソーシャル・ネットワーキング・サービスで使われている。欧米では、被害を告発する「私も」運動と、被害の撲滅を訴える「タイムズ・アップ(Time’s Up)」運動が存在するが、日本では、二つが混同されて、「#MeToo」だけが使われいる。)

 22日はマグダラの聖マリアの祝日だった。彼女はおそらく、新約聖書に登場する女性として、聖母マリアに次いで最重要の存在であり、教皇フランシスコが2016年にカトリック教会の典礼歴で祝日と定めた。

*マグダラのマリアは誰なのか?

 聖書を見ると、マリアに関して、あることが分かる-福音書に登場する重要な女性のほとんどがマリアという名前だということだ。しかも、イエスの母マリア、ベタアのマリア(マルタの姉妹)、そしてマグダラのマリア、というように、わずかしかいない。

 十字架にかけられたイエスの足元にいたのは2人のマリアであり、二人を際立たせているのは、平均的なカトリック信徒にとっての「偉業」である。聖母マリアはカトリックの聖人たちの中で最も高い地位にあるが、マグダラのマリアは、復活したイエスと最初に会った人物であり、ご自身が復活したことを他の弟子たちに知らせる役割をイエスが委ねた人物だったことから、聖トマス・アクイナスによって「弟子の中の弟子」というタイトルを授けられたのだ。

 カトリック関係者の間では、マグダラのマリアは、罪を悔いて赦された売春婦であり、それまでの罪深い人生と決別して、イエスに付き従った、と一般的に言われている。ごく最近、人気のある”説”は、演劇や小説に出てくる、彼女がイエスの愛人だった、というものだ。例えばロイド・ウエバーはミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」で、マグダラのマリアを、イエスと恋に落ちた、罪を悔いた売春婦として描き、ダン・ブラウンは小説「ダビンチ・コード」で彼女をイエスの妻、最近上映された映画「Risen」も彼女を罪を悔いた売春婦として描いている。

 だが、ペルー人の神学者、ロシオ・フィゲロア女史は、そのような仮説はどれもが真実ではない、と指摘する。彼は、ニュージーランドのGood Shepherd Collegeで組織神学を教え、国立総合大学であるオタゴ大学の神学・公共問題センターの客員研究員を務めているが、カトリック教会で性的区別に関するトピックを研究してきた。そして、Cruxのインタビューに、こう語ったー聖書からマグダラのマリアについて知ることができるのは、とてもわずかだが、初期教会においては彼女の重要性について多くの事が語られている、と。

 フィゲロラによれば、ルカ、マタイ、ヨハネの福音書に登場するマグダラのマリアについて、これらの福音書に書かれた情報は、彼女についてのいくつかの明確な事実を示しているー彼女がマグダラ出身であること、12人の弟子と共にイエスに付き従った何人かの女性たちの中にいたこと、イエスが宣教活動を始められた当初から、十字架上の死に至るまで、彼と行動を共にしていたこと、イエスの復活を他の弟子たちに最初に告げた人物であることーである。また、マタイ福音書によれば、マグダラのマリアは弟子たちを財政面で支えており、おそらく、裕福で社会的地位の高い女性であった、と判断される、という。

 また、マグダラのマリアが売春婦だ、というような説は、西暦591年ごろ、当時の教皇”大”グレゴリオが福音書に登場する3人の女性-マグダラのマリア、ベタニアのマリア、そして自分の涙でイエスの足を洗った罪深い女性-を”混同”してしまうまで、存在していなかった、と彼女は指摘する。

 教皇グレゴリオはある時の説教でこう述べたというー「ルカが罪深い女と呼び、ヨハネがマリアと呼んだ女は、マルコによれば七つの悪霊が追い出されたマリアである、と我々は信じている。そして、こらがすべてが堕落した行為でないなら、この七つの悪霊は何を意味するのか?」と。そして「兄弟たちよ、この女が禁じられた行為の際に、その肉体を香り良くする軟膏を前もってつけていたのは明らかだ… それがこの女が恥ずかしいほどに飾り立てていたものだ。それが今は、賛美される価値のあるやり方で、神への捧げものとしているのである」と説いた。

 この説教以来、「悔い改めた売春婦」というマグダラのマリアの”定説”が出来上がってしまった。例えば、アイルランドでは、”マグダラの洗濯屋”は、いわゆる”堕落した女性たち”を置いた店のことであり、「マグダラ」ということばそのものが、しばしば売春婦を示す言葉にされている。

 しかし、「マグダラのマリアを売春婦とするような表現は聖書のどこにもないのです」とフィゲロアは強調。福音書で一箇所だけ指摘されているのは、マグダラのマリアが七つの悪霊から解放された、というところだが、当時は身体的、精神的な事柄は霊的な病と結びつけられており、彼女が解放された「悪霊たち」という言葉は、どのような病気をも意味して使われていたし、それは必ずしも、性的なみだらな行為をする生き方を意味するものではなかった、と言明している。

 カトリック教会が、マグダラのマリアを、ベタニアのマリア、”罪深い女”と関連づけることを、聖人の祝日を載せたローマ典礼暦から外したのは、教皇パウロ6世。1969年のことだった。東方教会では、マグダラのマリアを売春婦としたことは一度たりともなかった。

 フィゲロアは言う。教皇フランシスコご自身は、マグダラのマリアのイメージを回復したいと望まれ、2016年に、毎年7月22日を彼女をたたえる祝日とすることで、福音書における彼女の重要な役割を確認された。「イエスに付き従う者としてこれほど重要な模範的女性を、売春婦と決めつけて陰に追いやっていたのは、残念なことです」と述べ、これまでマグダラのマリアの「歪曲されたイメージ」が広められてしまった、という事実を指摘した。

*性行為に関するカトリックの理解に問題が?

 フィゲロアの見方では、マグダラのマリアについての理解の誤りは歴史的な視点から見て問題であるだけでなく、カトリックの思考の中にあるもっと深い問題を示している、という。重要な女性を取り上げて、その性的な身分だけに焦点を絞った議論に矮小化することは、「女性たちが社会の中、そして聖書の物語の中で、性的に差別されてきたか、を示しているのです」。そして、旧約聖書で、性的な罪は「いつも女性と関連付けられ、すべての性的な罪は女性の責任、とされていました」「旧約聖書では、”レイプ文化”が当たり前のこととされています」と述べ、創世記で、タマルという女性は、当時の慣行によって、子孫を残すために、主に殺された夫の兄弟に渡された(注:創世記38章によれば、夫の兄弟と再婚できないと分かったタマルは、遊女の姿をして夫の父、ユダと関係を持ち、双子を生んだ、と書かれている。これは誤りと思われる)ことを挙げた。

 また、「女性を性の対象にすることは、彼女たちを軽んじ、支配するやり方です」とも語り、カトリックの文化は女性の処女性を重視し、賛美するのに、男性の童貞についてはそうしていないことも指摘した。「私たちの家父長的な社会は自分たちの権力を維持しようとし、無意識的に、多くの男性が、女性を恵まれない者と誘惑する者、あるいは純潔、貞節、そして天使のような存在、などと極端な見方に走ります」。こうした極端に走る傾向は、”強い女性に対する反感”から来るもの、と彼女は考えている。

 そして、いわゆる”悪い女たち”は、声を上げ、発言することを恐れない女性を指す言葉になっている、と言う。ある心理の下では、「初期教会を財政的に支援する指導的な弟子である女性」よりも「悔い改めた売春婦」について話すのが容易なのだ、とも語った。女性を性の対象とすることは「男性にとって、自分たちの力を守る手段なのです」と述べ、マグダラのマリアが果たした指導的役割は、理解し、受け入れようとする者たちにとっても「挑戦的」な存在になり得たのです、と付け加えた。

 さらに彼女は、「性に関する新たな神学」が求められている、と言い、この問題についてのどのような真剣な対話も、科学、心理学、人類学による発見が取り入れられねばならず、既婚の一般信徒をもっと参加させる必要がある、と提案した。教皇フランシスコは、時として、「私たちの道徳や性倫理に集中するやり方、信仰の核心ーイエス・キリストに付き従い、他者を愛することーについて語らないことに、苦言を呈されます」。

 そして、カトリックの哲学者、エマニュエル・モーニエールの言葉を引用して、「カトリック教会は、性の問題に心を奪われ過ぎている」とも言う。ムーニエールによれば、「カトリックの教理が、独身の司祭たちによって書かれているという事実は、独身のまま生きることの難しさとともに、性の問題に関心を奪われているのを反映している… 人々が知っているすべての罪の中で性的な罪が最も悪いという考えに、多くの人が固執している」。

 「これは不健全なことです」と批判するフィゲロアは、「誇りと偏見を持った”冷血”な罪は、”熱血”の罪と同じように有害です」と言う。マグダラのマリアは「#MeToo運動と#NunToo運動(注:セクハラ被害に臆せずに声を上げる修道女たちの動き) に容易に取り入れられるでしょう。イエスの弟子たちがイエスの復活についての彼女の証言を信じようとしなかったのと同じように、私たちは、彼女を性的問題の対象に貶めることで教会における彼女の指導的役割に疑問を呈し続けているのです」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年7月27日