「罪は疑うことでなく、他者との出会いを放棄することに」世界難民・移民の日のミサで

(2018.1.14 Crux Editor Johon.L.Allen Jr.) 教皇フランシスコは14日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、世界難民移住移動者の日のミサを捧げ、その中で極めて印象深い説教をされた。このミサには、世界の49か国から移民・難民を代表する人々が参加し、中でもフィリピン人2000人、ウクライナ人1200人、ルーマニア人800人、インド人650人をはじめ、レバノン、シリア、マダガスカル、スリランカ、カポベルデ、そして中国からも多くの姿が目立った。

・・以下、Sr. 岡によるミサ説教全文の試訳

 今年、私は世界難民移住移動者の日を、特にあなた方、移住者、難民、保護を申請している皆さんと共に祝いたいと望みました。あなた方の中には、最近イタリアに着いた人もいれば、長年働いている人、また、いわゆる「第二世代の人々」もいます。この集会の中で、皆のために、神のみことばが響き渡りました。それは今日、私たちを、主が私たち一人ひとりに向ける特別な呼びかけを深めるよう、招いています。

 主は、サムエルにしたように(サムエル記上3章 10 ~19節参照)私たちを、私たち一人ひとりを、名前で呼びます。そして私たちに「唯一の、かけがえのない(繰り返せない)存在として造られた」という事実を尊重するよう、呼びかけます―私たちは、みな違います。そして、世界の歴史において独自の役割をもっています―。

 福音(ヨハネ福音書1章 35~ 42節参照)の中で、洗礼者ヨハネの二人の弟子は、イエスに尋ねます:「どこにお泊りですか(留まっていますか)」(38節)―「ナザレの先生」に関する彼らの評価は、この質問の答えに依るということを意図させながら―。イエスの答えは明確です:「来なさい。そうすれば分かる」(39節)。そして、個人的(パーソナルな)出会いへと開きます。その出会いは、相手を受け入れ、知り、認める(認識する)accogliere,conoscere e riconoscere l’altroために相応した時間を予見します。

 今日の世界難民移住移動者の日のメッセージの中で私は書きました:「私たちの扉を叩く、あらゆる外国人(他国人)は、イエス・キリストとの出会いの機会です。イエスは、あらゆる時代の外国人、または排斥された人と、ご自分を同一化(一体化)します(マタイ福音書25章 35 ~43節参照)。そして、外国人、移住者、亡命者、難民、保護を申請している人にとって、新しい地のあらゆる扉は、イエスとの出会いの機会でもあります。

 イエスの招き「来なさい。そうすれば分かる」は、今日、私たちみなに-地方共同体(地方教会)に、新しく到着した人々に―向けられています。それは私たちに「恐れを乗り越えるように」という招きです-他者と出会いに行くために、その人を受け入れ、知り、認めるために-。それは、その人が、どこに住んで(留
まって)いて、どのように生きているかを見るために、私を、相手の隣人とする機会を差し出す招きです。

 今日の世界の中で、新しく到着する人々にとって、受け入れ、知り、認めることは、その中に受け入れられた国の法律、文化、伝統を知り、尊重することを意味しています。それはまた、その国の人々の恐れや、将来への不安をも理解することを意味しています。そして、地方共同体(地方教会)にとって、受け入れ、知り、認めることは、先入観なしに、違いの豊かさに開くこと、新しく到着した人々の可能性(潜在力)と希望を理解すること、そして同じように、彼らの傷つきやすさ、彼らの恐れを理解することを意味しています。

 他者との出会いは、受け入れることに留まりません。それは私たちに、私が「メッセージ」の中で強調した、その他の三つのアクション(行動)を義務付けます(負わせます):守る(保護する)こと、促進すること、融合(合体)することproteggere, promuovere e integrare そして、隣人との真の出会いにおいて、私たちは、受け入れられ、守られ、促進され、融合されることを求めているイエス・キリストを認めることが出来るようになるでしょう。

 普遍的審判(公審判)に関する福音のたとえ話が私たちに教えているように:主は、飢え、渇き、裸、病気、外国人であり、牢獄にいました。そして、何人かの人々によって助けられ、その他の人々によってはそうではありませんでした(マタイ福音書25章41~ 46節参照)。この、キリストとの真の出会いは、救いの源です―使徒アンデレが私たちに示すように、すべての人々に告げられ、運ばれるべき救い―。アンデレは、彼の兄弟シモンに「私たちは、メシアを見つけた」(ヨハネ福音書1章 41節)と明かした後、シモンをイエスのところに連れていきます―同じ出会いの経験をするように―。

 他の人々の文化の中に入ること、私たちとこんなにも違う人々の立場になって考えること、彼らの思いや経験を理解することは、簡単ではありません。そして、このようにして、しばしば私たちは、他者との出会いを放棄し、自分たちを防御するためにバリア(壁)を建てます。地方共同体は、時に、新しく到着した人々が、すでに形成された秩序を乱すのではないか、苦労して造り上げたものの何かを「奪う」のではないかと恐れます。新しく到着した人々もまた、恐れをもっています:対比、評価(判決)、差別、失敗を恐れています。

 これらの恐れは、正当です。それらは、疑い-人間的観点から十分理解できる疑い-の上に成り立っています―。疑いをもつことは、罪ではありません。

 罪は、これらの恐れが、私たちの答えを決定し、私たちの選択を左右し、尊敬や寛容さを危うくし、憎しみと拒否をあおるにまかせてしまうことにあります。罪は、他者との出会い―異なる人との出会い、隣人との出会い―を放棄することにあります。

 実際、その出会いは、主との出会いの、特権的機会なのです。この、貧しい人、捨てられた人、難民、保護を求める人の中にいるイエスとの出会いから、私したちの今日の祈りがあふれ出ます。それは、互いの祈りです:移住者、難民のみなさんは地方共同体(地方教会)のために、地方共同体(地方教会)は新しく到着した人々や、より長く住んでいる移住者たちのために。

 最も聖なるマリアの、母の執り成しに、世界中のすべての移住者、難民の希望と、彼らを受け入れる共同体の渇望を委ねましょう。神の至高の掟―愛、隣人への愛の掟―との一致の中に、私たちみなが、他者を、外国人を、わたしたち自身を愛するように愛することを学ぶように。

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2018年1月16日