+「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」と祈ろうー世界病者の日に

 

(2018.2.12)教皇フランシスコは11日正午のお告げの祈りの中の説教で、次のように話された。以下は、バチカン広報の公式発表文の英語訳の翻訳。

 このところの日曜のミサで読まれるマルコの福音書で、イエスはあらゆる病気の人たちを癒します。今日は「世界病者の日」、ルルドの聖母マリアを記念する日です。(聖母マリアが現れたとされる)「マッサビエルの洞窟」に心の目を向け、体と心の真の癒し手としてのイエス―罪とその結果で印をつけられた人類を癒すために、父なる神がこの世界に送られた方―を深く思い起こしましょう。

 今日のミサで読まれた福音書(マルコ1章40~45節)はハンセン病を患った男性の癒しについて語ります。この病は、旧約聖書ではひどく穢れたものとされ、その病にかかった者は地域社会から切り離され、孤立して生きる、とされていました。当時の一般の意識としては、彼らは、人々だけでなく神の前においてさえも穢れたものと考えられ、彼らのおかれた状況は本当に悲惨なのものでした。ですから、福音書に登場するハンセン病の患者は、イエスに、「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」(40節)を懇願するのです。

 この言葉をお聞きになって、イエスは、その苦しみに共鳴(feel compassion)(41節)されます。慈しみの特別聖年の間ずっと続けたように、イエスの内面の共鳴に注意を向けるのはとても重要なことです。苦しみへの共鳴と慈しみで満ちたイエスの心の中に入らない限り、私たちはキリストの業を理解しません。キリスト自身を理解しません。苦しみへの共鳴が、イエスをハンセン病の男性に手を差し伸べ、体に触れて、言われます。「私は望む、清くなれ!」(40節)と。

 一番驚かされるのは、イエスがハンセン病の患者に触れたこと。モーゼの律法で厳重に禁じられていたからです。ハンセン病患者に触れることは、魂まで伝染し、穢れるのを意味していました。しかし、この場合は、患者からイエスに影響を及ぼすことで病が伝染するのではなく、イエスが彼に影響を及ぼすことで、彼を清めたのです。このイエスの癒しの行為で、私たちが感動するのは、イエスの苦しみ人への共鳴、慈しみ、そして大胆さです。イエスは、伝染する恐れも、律法を破ることも、意に介しません。苦しみから患者を解放したい、という意志に動かされたのです。

 兄弟姉妹の皆さん。病気は不純の原因ではありません。病はその人全体を巻き込みますが、神との関係に影響を与えたり、妨げたりはしません。それとは反対に、病気の人は、そうでない人よりも、もっと神とつながります。利己主義、自慢、腐敗した社会への仲間入り・・このようなことは、私たちが清められねばならない病弊です。イエスに向かって、あの男の人と同じように願いましょう。「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」と。

 さあ、沈黙の時を持ちましょう。私たち一人ひとり―(お告げの祈りに集まっている)あなた方すべてと私、そして皆―が彼(今日の福音書の箇所に登場した病気の男性)の心について思い、内面を見つめ、彼自身の穢れ、彼自身の罪を思いましょう。そして、心の声でイエスにこう言いましょう。「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」と。皆で、沈黙のうちに。

 「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」「お望みになるなら、私を清めることがおできになります」。

 そして、私たちが、痛悔の心をもって和解の秘跡に与るたびに、主は私たちにこう繰り返し言われます。「私は望む、清くなれ!」と。

 そこにどれほど大きな喜びがあるでしょう!こうして罪の病は消え去り、私たちは喜びをもって、子としての神との関係に立ち戻り、共同体社会への完全な帰還を認められるのです。

 聖母マリア、無原罪の母の取り次ぎを通して、私たちは、病の人に健康をもたらされる主に願います。あなたの限りない慈しみをもって、私たちの心のうちの傷を癒し、私たちに希望と心の平安を取り戻させてください。

  (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2018年2月12日