♰「人は語る存在。日々の物語を紡ぎながら、豊かにされていく」-5月の「世界広報の日」に向けて(全文試訳付き)

(2020.1.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコが24日、今年のカトリック教会の「世界広報の日」(5月24日)に向けて、メッセージを発表された。

 今年のテーマは「『あなたが語り伝え、知るために』(出エジプト記10章2節)生きることが語りとなる(仮訳)」。メッセージで教皇は、「語ること」をテーマに、「破壊的ではなく建設的なストーリー、皆で前進するためのルーツと力を見出させる良いストーリーの真理に触れる必要」を説いている。

 教皇は、「人間は語る存在。人間は小さい時から、食べ物を必要とするように、話を必要としています… 人は、自身の脆さを覆い、自分の生き方を守るために己を語ることを必要とする唯一の存在… 成長する存在ゆえに、語る存在でもあり、日々の物語を紡ぎながら、人は豊かにされていくのです」と指摘。だが、「すべての語り(ストーリー)が良いものであるとは限りません。ストーリーが何らかの目的のために利用されている時は、その命は短い」とされ、「それが良いストーリーである場合は、時空を超えて残っていきます」と語っている。

 聖書については、「多くのストーリーを集めた一つのストーリーであり、実に様々な出来事、人々が登場します。聖書は、神が創造主であると同時に、語り手であることを示しています」とされ、「聖書は、神と人類の間の偉大な愛のストーリーであり、中心にイエスがいます」としたうえで、「人は、世々に、この聖書の重要な出来事を『語り伝え、記憶に刻む』よう求めておられます」と述べて、「神の語り、イエスの語りに耳を傾け、イエスと似た者に変容されていく必要」を説いている。

 さらに、キリストのストーリーは「過去のものでなく、常に今日を生きる私たちのもの」とし、人となられ、人の歴史に入って来られるまでに、人々を心にとめられる神のストーリーは「人間のストーリーで、意味のないもの、小さいものは、一つもないこと」「それぞれの人間のストーリーはかけがえのない尊厳を持っていること」を語っている、とも指摘。

 「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙、として公けにされています」(コリントの信徒への手紙②3章3節) と聖パウロが語っているように、聖霊、神の愛は、「私たちの中に記し、善を刻み、それを思い起こすようにと願われています」と語った。

 そして、「すべての偉大な物語が、私たちのストーリーに影響を及ぼすように、私たちを創り、救ってくれた愛を記憶に刻む時、私たち自身もページをめくり、『自分の心を閉じ込めていたもの』から解放され、他者に心を開き、ストーリーの語り手である神のビジョンに自分を開かなければなりません」と述べた。

 さらに、「自分を主に語ることは、『自分や他の人々への憐みにあふれた愛の眼差し』の中に入ることです… 神という偉大な語り手の眼差しをもって、私たちの側にいる登場人物たち、私たちの兄弟姉妹たちに近づきましょう。なぜなら、誰もが世界のシーンの端役ではなく、それぞれのストーリーは変化の可能性に開かれているからです」とされ、「私たちが悪について語る時も、贖いのための余地を残し、悪に囲まれた中にも善のダイナミズムを見出せるように」と求められた。

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 「世界広報の日」は、福音宣教の中でも特に新聞、雑誌、テレビ・ラジオ、インターネット、映画などのメディアを用いて行う宣教について教会全体で考えることを目的としている。聖霊降臨の直前の日曜日(今年は5月24日)に記念されるが、日本の教会では、1週間早い日曜日(復活節第6主日・今年は5月17日)とされている。

(編集「カトリック・あい」)

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メッセージの日本語訳全文は以下の通り(Sr.岡立子訳)

 教皇フランシスコ 第54回「世界広報の日」メッセージ[試訳]

(*注:訳の中でLa storiaは「物語」「語り」、La narrazioneは「語り」「叙述」「物語」

  「あなたが子や孫に語り伝えるように」(出エジプト記10章 2節) 人生が物語(語り)となる

 私は今年の「メッセージ」を、「物語(語り) 」のテーマに捧げたいと思います。私たちが道に迷わないためには、善い物語の真実を呼吸する必要があると信じるからです。破壊するのではなく、建設する物語;一緒に前に進むために、ルーツ(根源)と力を再発見するのを助ける物語。

 私たちを取り囲む混乱する声やメッセージの中で、私たちは、自分について、またそこに住む美しさについて語る、人間的な「物語」を必要としています。世界と出来事を、やさしさtenerezzaをもって見つめることを知っている「物語」、生き生きとした織物の部分である私たちの存在を語り、私たちが互いに結びつけられている糸の絡み合いを明らかにする「物語」を。

1.物語を織る

 人間は物語を語る存在です。小さい時から、私たちは、食べ物を渇望するように、物語を渇望しています。私たちは、おとぎ話、小説、映画、歌、情報…の中にいるので、物語は私たちの人生に影響を与えます 。たとえ私たちが、それに気づいていなくても。しばしば、何が正しくて、何が間違っているのかを、自分が同化した人物や物語を土台にして判断します。物語は、私たちを印し、私たちの確信や態度を形づくり、自分が誰であるかを理解し、言うことを助けることが出来ます。

 人間は、自分のもろさを覆うための衣を必要としている、唯一の存在であるだけではなく(創3 21参照)、自分を語ること、自分の人生を保つために物語を「まとうrivestirsi」必要を持っている、唯一の存在でもあります。私たちは、衣を織るだけでなく、物語も織ります:実際、「織る」ことの出来る能力は、「織物tessuti」と「テキストtesti」の両方につながります。あらゆる時代の物語は、共通の「織機(骨組み)telaio」を持っています:構造は「英雄たち」-日常の英雄たちも-を想定しています。彼らは、夢を追求するために、困難な状況に立ち向かい、悪と戦います。彼らに勇気を与える力 愛の力に駆り立てられて。物語の中に入りながら、私たちは、人生の挑戦(課題)に立ち向かうための、英雄的動機(モチーフ)を再発見することが出来ます。

 人間は、物語を語る存在です。なぜなら、人生の日々の横糸の中で、自分を見出し、自分を豊かにする、「なりつつある」存在だからです。けれど、最初から、私たちの物語は脅かされています:物語の中に、悪が蛇行(だこう)しています。

2.すべての物語が善いのではない

 「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3章5節):蛇の誘惑は、歴史の緯糸の中に、解くべき結び目を挿入します。「もしこれを持つなら、あなたは…になる、…に到達する」と、手段としての目的で、いわゆる「ストーリーテリング(物語を話すこと)」を使う人は、今日もまた、ささやきます。これらの物語は、私たちを麻痺させます。幸せになるためには、絶え間なく持つこと、所有すること、消費することが必要だと、私たちを説得しながら。

 ほとんど、私たちは気づきません。どんなに私たちが、おしゃべり(噂話)をし、陰口をたたくことを渇望しているか、どんなに暴力と偽りを消費しているか、に。しばしば、伝達(コミュニケーション)の横糸の上に、社会的つながりと文化的構造(織物)の接着剤である、建設的な物語の代わりに、共生のもろい糸を消耗させ破壊する、破壊的で挑発的な物語が生み出されます。検証(実証)されていない情報を一緒にまとめ、ありふれた(陳腐な)、偽りの説得力のある話(スピーチ)を繰り返し、憎しみの叫び声をあげながら、人間的な物語を織るのではなく、人間から尊厳をはぎ取ります。

 しかし、道具や権力の目的で使われた物語は短命であり、他方、善い物語は、空間と時間の境を越えることが出来ます。数世紀の距離は、今日的に留まります。なぜならそれは、人生(生命)を養うからです。

 偽造が 指数関数レベル(ディープフェークil deepfake)に達しながら ますます精巧になった時代において、私たちは必要としています-美しい、真実の、善い物語を集め、造り出すための知恵を。私たちは必要としています-これらの 偽りで悪意のある物語を拒否する勇気を。私たちは必要としています-今日の、たくさんの裂傷の間の糸を失わないよう、私たちを助けることが出来る物語を再発見するための、忍耐と識別を。日々の生活の中で無視された英雄性(ヒロイズム)の中にあってさえ、私たちが誰であるかの真実を明らかにする物語を。

3.物語の中の「物語」

 聖書は、物語の中の「物語」una Storia di storieです。それは、どんなにたくさんの出来事、民、人々を示しているでしょうか!聖書は私たちに、最初から示しています-創造主であり、同時に、物語を語る方(語り手 である神を。神は実際、ご自分の「ことば」を発し、物事は存在しました(創世記1章参照)。ご自分の「語り」を通して、神は、物事を命へと呼び(招き)、その頂点に、男と女を創造しました-ご自分の自由な話し相手、神と共に物語を造り出すものとして。

 詩編の中で、被造物は創造主に語ります。「まことにあなたは私のはらわたを造り、母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。私は畏れ多いほどに、驚くべきものに造り上げられた。あなたの業は不思議。私の魂はそれをよく知っている。私が秘められた所で造られ、地の底でおりなされたとき、あなたは私の骨を隠されてはいなかった」(詩編139章 13-15節)。

 私たちは完成されて生まれたのではありません。私たちは絶え間なく、「織られtessuti」「刺繍されるricamati」必要があります。人生は、あの「驚くべき不思議meraviglia stupenda -それが私たちで
す-を織り続ける招きとして、私たちに与えられたのです。

 この意味で、聖書は、神と人間の間の偉大な愛の物語です。真ん中にイエスがいます。イエスの物語は、神の人間に対する愛を完成に導き、同時に、人間の神に対する愛を完成に導きます。人間はこのようにして、幾世代にもわたって、この 物語の中の「物語」Storia di storieの、最も重要なエピソード 起こったことの意味を伝達することが出来るエピソードを語り聞かせ、記憶の中に留めるraccontare e fissare nella memoriaよう招かれています。

 この「メッセージ」のタイトルは、出エジプト記-神が、ご自分の民の物語(歴史)の中に介入するのを見る、聖書の根本的な物語(叙述)-から採られています。実際、奴隷であったイスラエルの子らが神に叫びをあげた時、神は耳を傾け、思い起こします。「神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(出エジプト記2章 24 -25節)。

 神の記憶から、抑圧からの解放-それは徴と奇跡を通して起こります-がほとばしり出ます。主がモーセに、これらのすべての徴の意味を託したのは、その時です。「私が… どのようなしるしを行ったかをあなたが子や孫に語り伝え、私が主であることをあなたがたが知るためである」(出エジプト記10章2節)。出エジプト記の経験は、私たちに、神についての知識は、何よりも先ず、世代から世代へ、どのように神がご自分を現存させ続けているかを、語りながら伝えられることを教えています。

 イエスご自身、神について、抽象的な講話(スピーチ)でななく、日常生活から取った、たとえ話、短い物語をもって語りました。ここで、生活(人生)は物語になり、そして、それを聞く人にとって、物語は生活(人生)になります。あの物語は、それを聞く人の生活(人生)の中に入り、それを変容します。

 福音もまた、偶然ではなく、物語(語り)です。それらは私たちに イエスについて知らせながら、私たちをイエスに 成し遂げます」[イエスに変えます]、私たちをイエスに形造ります。福音は、読む人に、同じ命(生き方)を共有するために、同じ信仰に参与することを求めます。

 ヨハネの福音は私たちに、最高の「物語を語る方il Narratore」-みことばil Verbo, la Parola-が、物語になったsi è fatto narrazioneと言っています-「父のふところにいる独り子である神、この方が、神を啓示された[語ったraccontato]のである」(ヨハネ福音書1 章18節)。私は「語ったraccontato」という用語を使いました。なぜなら、原語exeghésato は、「啓示されたrivelato」とも、「語られたraccontato」とも訳せるからです。

  神は,私たちの人性umanitàの中に、個人的に(人格的に)自らを織り込みました。それによって、私たちに、自分の物語を織る新しい方法を与えながら。

4.新たにされる物語

 キリストの物語は過去の遺産ではありません。わたしたちの物語―常に現実の―です。それは私たちに、神が、人間、人間の肉、私たちの物語に心を留めたこと-ご自分が人間に、肉に、物語になるまでに-を示しています。それは私たちに、人間の、無意味な物語や小さな物語は存在しない、と言っています。

 神がご自分を物語にしたDio si è fatto storia後、あらゆる人間の物語は、ある意味で神の物語です。あらゆる人間の物語の中に、御父は、地上に降りたご自分の御子の物語を再び見ます。あらゆる人間の物語は、除去することの出来ない尊厳をもっています。ですから、人類はあの高さ、イエスが引き上げた、あの目も眩むほど魅力的な高さの物語に値します。

 聖パウロは書いています。「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです」(コリントの信徒への手紙二3章3節3)。

 聖霊-神の愛-は、私たちの内に書きます。そして、私たちの内に書きながら、私たちの中に善を定め、私たちにそれを思い出させます。記憶する(思い起こす Ri-cordareは、実際、心に運ぶportare al cuore、心に「書く」“scrivere” sul cuoreという意味です。聖霊のわざを通して、あらゆる物語は―最も忘れられている物語、最もねじれた線で描かれた物語のように見えても-、インスピレーションを得ることが出来ます。福音の追加appendiceとなりながら、生まれ変わることが出来ます。

  教皇ベネディクト十六世回勅『希望による救い』:「キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音はあることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」。

アウグスチヌスの『告白 Confessioni 』のように。イグナチオの『巡礼者の話il Racconto del Pellegrino』のように。幼きイエスのテレジアの『魂の物語la Storia di un’anima』のように。『いいなづけi Promessi Sposi』、『カラマーゾフの兄弟』のように。神の自由と、人間の自由の間の出会いを、すばらしく脚色した、その他の無数の物語のように。私たちの一人ひとりは、福音の香りに満ちた物語、命(生き方)を変容する「愛」を証しした、さまざまな物語を知っています。

 これらの物語は、共有され、語られ、あらゆる時代において体験されることを要求します。あらゆる言語、あらゆる手段をもって。

5.私たちを新たにする物語

 あらゆる偉大な物語の中に、私たちの物語が介入します(絡まります)。私たちが、聖書、聖人たちの物語、また、人間の魂を読み、その美しさを明らかにすることの出来たテキストを読む時、聖霊は、自由に、私たちの心の内に書きます。私たちの中に、神の目に、私たちがそうであるものの記憶la memoria di quello che siamo agli occhi di Dioを新たにしながら。私たちが、私たちを造り、私たちを救った愛を記念する時、私たちの日々の物語の中に愛を入れる時、私たちの日々の横糸をいつくしみで織る時。その時、私たちはページをめくります。

 私たちはもはや、私たちの心を閉じ込める病んだ記憶に結びつけられ、嘆きや悲しみに縛り付けられたまま留まりません。そうではなく、他の人々に開きながら、私たちは、「物語を語る方Narratore」のヴィジョンそのものに自分を開きます。神に私たちの物語を語ることは、決して無駄ではありません。たとえ出来事の年代記が変わらなくても、それらの意味と視点は変わります。主に自分のことを語ることは、主の、私たちへの、また他の人々への、いつくしみ深い愛amore compassionevoleの眼差しの中に入ることです。

 主に、私たちは、自分が生きている物語を語り、人々を運び、状況を委ねることが出来ます。主とともに、私たちは、人生の織物を結び直すことが出来ます-ほころびや裂け目を縫合しながら。私たちはどんなにそれを必要としているでしょうか。私たち皆!

 「物語を語る方Narratore」-最終的な視点をもつ唯一の方-の眼差しで、私たちは、今日の物語の主人公、私たちの兄弟姉妹、私たちの近くの俳優たちに近づきます。

 そうです、誰も、世界の舞台の中で端役(エキストラ)ではなく、一人ひとりの物語は、変化の可能性に開かれています。私たちは、悪を語るときも、贖いへの空間(スペース)を残すことを学ぶこと
が出来ます。悪のただ中で、善のダイナミズムを認識し、それに空間(スペース)を与えることが出来ます。

 ですから、それは、「ストーリーテーラーstorytelling」の理論を追求することでも、宣伝をする、または自分を宣伝することでもなく、神の目に、私たちがそうであるところのものを記憶する(思い起こす)ことfare memoria di ciò che siamo agli occhi di Dio、霊が心の中に書いたものを証しすること、一人ひとりに、それぞれの物語が驚くべき不思議を含んでいることを明らかにすることです。

 それが出来るために、胎の中に神の人性を織った女性、そして-福音が言っています-自分に起こったすべてのことを一緒に織った女性に、私たちを委ねましょう。おとめマリアは、実際、すべてを心の中で思いめぐらしながら、収めました(ルカ福音書2章 19節参照)。愛の柔和な力をもって、命(人生)の結び目を解くことが出来たマリアに、助けを求めましょう。「マリアよ、女性であり母である方、あなたは胎の中で、神のみことばを織りました。あなたは、あなたの人生をもって、神の驚くべきわざを語りました。私たちの物語に耳を傾け、それをあなたの心の中に収め、あなたの物語としてください-誰も聞くことを望まない物語をも。私たちに、物語を導く善い糸を認識(識別)することを教えてください。

 結び目の山-その中で、私たちの記憶を麻痺させながら、私たちの人生がもつれています-に目を向けてください。あなたの繊細な手は、あらゆる結び目を解くことが出来ます。「霊」の女性、信頼の母よ、私たちにもインスピレーションを与えてください。平和の物語、未来の物語を構築するのを助けてください。共にそれらの物語を進むための道を、私たちに示してください。

ローマ、ラテラノ、聖ヨハネ大聖堂のかたわらで、2020年1月24日、聖フランシスコ・サレジオの祝日に。フランシスコ

(編集「カトリック・あい」南條俊二、聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

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2020年1月25日