☩「イエスの公生活は、同郷の人々の拒絶と死の脅迫から始まった」-日曜正午の集いで

2019.2.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日日曜正午の祈りの中での説教で、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書のナザレの会堂におけるイエスと、イエスを受け入れることのできないナザレの人々の反応(4章21-30節)を取り上げられた。

 <ナザレの会堂で説教するイエスに対し、人々はその恵み深い言葉に驚き、「この人はヨセフの子ではないか」(22節)と言った。教皇は、カファルナウムでされたように、ここでも奇跡を期待するナザレの人々の思いを読み取ったイエスは、偉大な預言者エリヤとエリシャが、イスラエルの人々ではなく、彼らの言葉を信じた他の民族を癒し、救ったことを例に引いて語られた。>

 イエスがナザレで奇跡をなさらなかったのは「神が望まれるのは信仰であるのに、人々は奇跡を望み、神は全ての人を救うことを望まれるのに対し、人々は自分たちに都合の良いメシアを望んでいたからです」と教皇は説明された。

 <イエスは人々に救いの無償性と普遍性に心を開くよう招いたが、ナザレの人々の憤慨は、「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し…山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」(29節)するほどだった。>

 ここで、教皇は「イエスの公生活が、逆説的に同郷の人々の拒絶と死の脅迫から始まった」ことを指摘され、「イエスは御父から託された使命を生きるうえで、苦労や、拒絶、迫害、敗北に遭わねばならないことを知っておられましたが、どんなに厳しい拒絶も、イエスの歩みと預言的な言動を止めることはなかったのです」と強調された。

 最後に、「今日も、キリスト教的召命に勇気と忍耐をもって応え、御父の御旨を受け入れ、それを人々に証しする、預言者的な主の弟子たちの存在」を思い起こされた教皇は「私たちも同じ使徒的熱意のうちに歩み成長することができるように」と聖母の助けを祈られた。

 また、教皇はこの集いで、5日に極東をはじめ各地で旧暦の正月を迎える人々にお祝いを述べ、人々が自分自身、他の人々、自然と共に、平和のうちに生活できるよう祈られた。そして、ローマのカトリックアクションの子どもたちと、世界平和を願い、風船を空に放たれた。

(編集「カトリック・あい」)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年2月4日