(2019.10.2 VaticanNews Robin Gomes)
教皇フランシスコは2日の一般謁見中のカテケーシスで、使徒言行録についての講話を続けられた。
教皇はまず、ステファノの殉教に続くエルサレムの教会に対する迫害の後、福音を広めようとする使徒たちの努力がいかに逆境に出会っていったのか(使徒言行録8章以降参照)を語られ、「しかし、キリストの弟子たちの証しとなった迫害は、福音宣教の火を消すのではなく、一層、燃え立たせたのです」と語られた。
・・・助祭フィリポ、サマリアで多くの人を癒し、彼らから汚れた霊を追い出して、神の言葉を告げ知らせた。彼は、神に開いた心をもって見知らぬ人と出会うように、聖霊に突き動かされた。情熱をもって、荒涼とした危険な旅に出、エチオピア女王の全財産を管理する高官に出会った。そのユダヤ人の改宗者-宦官-は、エルサレムに礼拝に行って、帰る途中だった。彼は、馬車の中で、預言者イザヤの書の「主の僕」の箇所を読んでいたが、何も理解していなかった。フィリポは馬車に近づき、「読んでいることが分かるか」と尋ねると、宦官は「手引きしてくれる人がいないと、分からない」と答えた。(8章26~33節参照)・・・
この箇所について、教皇は「このように権力のある人が『 神の言葉を理解するために指導してくれる人が必要だ』と認めたのです… 彼は女王の全財産を管理し、その国の経済を取り仕切る大臣で、財政・金融の全権を握っていました。それでも、彼は、説明を受けなければ、理解することができないことを、分かっていたのです。謙遜な人でした」と説かれた。
このフィリポと高官の言葉のやり取りから得られる教訓を、「聖書を読むだけでは十分ではない、その意味するところを理解すること、”皮”の下にある”果汁”を見つけること、命を吹き込んでいる聖霊を引き寄せること、が必要だ」ということ、と教皇は強調された。
これに関して、教皇は、前教皇のベネディクト16世が聖書註解で語られた言葉-聖書の真の読解は、文学的な現象であるだけでなく、その存在の活動だーを引用され、「『神の言葉に入っていく』ということは、神と出会うため、そして父の生ける言葉であるキリストに自らをゆだねるために、自分の限界を進んで超えようとすること、を意味するのです」と説明された。
さらに教皇は、フィリポが、高官が自分の読んでいた箇所、「『じっと耐え、苦しむ僕』は、全教会が宣明するキリストに他ならない」ということを理解するのを助け、高官はキリストを理解し、洗礼を望み、主イエズスにおいて信仰を告白した、とされた。
そして、この人と会うために砂漠に行くようにフィリポの肩を押したのは聖霊であり、「聖霊は、福音宣教の主役なのです。聖霊がおられなければ、福音宣教はありません… 聖霊なしでは、改宗の習慣、宣伝などなどになるでしょう」「福音宣教で、聖霊は、あなた方を発たせ、証しを、時には殉教と言葉をもって信仰を宣言するように、あなた方の肩を押すのです」と強調。
さらに教皇は「福音宣教の主役は聖霊です」と繰り返され、それが、人がキリスト教徒、宣教者、喜びの殉教者であることのしるし、と付け加えられた。最後に、「聖霊がキリスト教徒に福音の宣言をさせますが、それは人々を自分たちに惹きつけるためではなく、キリストに惹きつけるため」とされ、「キリスト教徒が、神の活動の場を作り、主のみ前で人々が自由に、責任ある行動をするようにする」ように強く求められた。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)