もともと、ミサができない日があります。年に一回必ずあります。それが「主の死」のみ記念する「聖金曜日」です。そうです。「ミサ」(感謝の祭儀)とは、「主の死と復活」を記念する儀式です。聖金曜日は「死」(ご受難を含めて)を記念して、復活の記念は翌日(聖土曜日~復活徹夜祭)から、その次の「復活の主日」に祝われます。ミサができるようになるのです。
時々、こんな問い合わせのお電話を受けます。聖金曜日に、です。「今日の夜のミサは何時からですか?」。受けたほうも、えっ、と思うわけです。
「本日ミサはございませんが」とお答えすると、「そんな、だって今日は『♩見よ十字架の木~』ってやる日でしょ」。そこで、「ああ、あれはミサではなく『主の受難』という礼拝なんですよ」と言うと、「だってご聖体いただくじゃない」と、とその人。
なので、またそこで、「もちろん、聖体拝領はありますが、それだけではミサとは言いません。昨日(聖木曜日『主の晩餐のミサ』)で聖別したご聖体を、今日、いただくわけです」。すると、「へ~、そうなんだ、知りませんでした」。
「ちなみに、今日の聖金曜日(主の受難)の典礼は午後7時からです」。「分かりました。ありがとうございました」。
・・・・・・・・・
今回は「公開のミサ中止」ということなので、主日だけでなく、公開であれば週日もこれに含まれるのですから、毎朝ミサに出席している人(修道者に限らず)からすれば、まるで「ミサをしてはいけない日である聖金曜日」のような日々が続いているような感覚ではないでしょうか。もっとも、そこまでのミサ理解に及ばない上記の例もあるわけですが…
最近では、主日であってもミサが行われない(というよりそれが無理な条件下に置かれた地方の)教会や、司祭不足ゆえに主日は月一回のペースでミサの代わりに信徒が司式する「(聖体拝領を伴う)集会祭儀(言葉の祭儀)」を行なっている共同体もあるでしょう。
ですから、あまり「あるのか、ないのか」だけを、共同体的な問題にしわ寄せしてはいけない、と思います。こうした時こそ、私たち一人一人が自らのミサ理解を振り返り、ミサの意味などを深く味わう準備の機会として生かしたいですね。
ミサが共同の祈りの形を採るのは言うまでもないことですが、一人一人の思いには色々な差があることでしょう。人によっては、日々の労苦の慰めとしての心の拠り所、また、人によっては習慣的な営み、また、人によっては何かのお恵みをいただくための場。これらは確かにミサがもたらす要素ですが、むしろミサはこれら以前に「捧げる場」です。
皆さんにとって、「いいミサ」とはいったい、どのようなミサでしょう。「歌が綺麗」「説教が面白い」「朗読や奉仕が丁寧で整っている」「深く祈れそうな雰囲気がある」「儀式もさることながら、その前後の対応が親切」などなど、でしょうか。
確かに、そういうことが整っているのが望ましいかも知れません。しかし、本来のミサの重要性は「ミサそのもの」にあります。それ以外の”オプション”の部分にだけ「良さ」を見出しているとすれば、ミサを捧げることができない時に、ミサから離れてしまうこともあり得るのではないでしょうか。
そもそも、今回のようにミサが行えない状況では、あれこれ言っていられなくなるわけですが、ミサが行えるようになった時、ミサ理解が少しでも熟したものとなっていれば幸いです。私自身も、今回、そうした思いで改めてミサを理解し直したい、と思っています。
(日読みの下僕「教会の共通善について」より)