今回新たに列聖が決まったヌンツィオ・スルプリツィオは、貧困と、過酷な生活、重い病苦を背負いながらも、純粋で力強い信仰に支えられた生涯を送った。19世紀初頭、イタリア中部アブルッツォ地方の寒村に生まれ、父は靴職人、母は糸を紡いで生計を立てていたが、3歳で父を失い、5歳で母を失った。
引き取った母方の祖母も3年後に亡くなり、母方の叔父に引き取られたが、叔父は幼い甥を労働力としか見なさず、教育も、十分な食事も、防寒に必要な衣服も与えなかった。鍛冶場で一日中働かせ、運ぶ手段も道具もないままに、厳しい気候の中、大人でも重い物を持たせ、山道を歩いて遠距離に届けさせた。
ヌンツィオの慰めは、教会に入って、聖櫃の前で祈り、イエスと共にいることだけだったが、苛酷な環境の中で、ヌンツィオの片足は壊疽を患い、14歳の時、ラクィラの病院に入院。十分な治療もさらないまま、家に戻され、再び叔父から労働を強いられた。だが、ナポリで軍役に就いていた父方の叔父が、ヌンツィオの噂を聞いてナポリに呼び寄せ、「貧しい人々の父」と呼ばれていた信仰篤いヴォーキンガー大佐との出会いによって、彼はナポリの病院で治療を受けることになった。
入院中、ヌンツィオは、病者たちの使徒となり、患者たちを見舞い、信仰に満ちた言葉で彼らを励まし、自らの苦しみを捧げる価値を教えた。子どもたちに公教要理を教え、大人たちを信仰生活へと導いた。奉献生活を志していた彼は、第二の父となった大尉の家に引き取られてからも、祈りや、ミサ、黙想を通し、一日をくまなく神に捧げ、修道者のような生活をおくった。一時小康状態を得たものの、病状は急激に悪化。自らの苦しみを神に捧げたヌンツィオ・スルプリツィオは、1836年、19歳の若さで帰天。彼の聖性に対する人々の声は、すぐに広まった。
教皇ピオ9世は1859年、ヌンツィオ・スルプリツィオの英雄的徳を認め、尊者として宣言。教皇パウロ6世は第2バチカン公会議中の1963年、彼を福者として宣言し、青少年と、若い労働者たちの模範とされた。
(「カトリック・あい」編集)