*“zero tolerance”を欠き、新たな具体策を先延ばしした性的虐待への対処
世界中で起きている聖職者による未成年者などへの性的虐待のスキャンダルについて、「若者シノドス」は27日採択した最終文書で「教会関係者による性的虐待は『生涯続き得る苦痛』をもたらしている」としたものの、“zero tolerance”(例外なく厳しく処罰する)の方針を明確に確認することを控えた。
これについて、最終文書が採択された27日の夜、司教の1人は「司教、司祭、修道者、そして一般信徒が犯した異なる形の虐待は、若者を多く含む被害者たちに生涯続き得る苦しみをもたらしました。それは悔い改めで癒すことはできません」とし、「シノドスは、虐待が繰り返されることの無いような断固として防止策をとる責任を再確認した。それを責任と教育を預かる人物を選び、訓練することから始める」と語った。
だが、最終文書の元になった草案には、司教たちが「“zero tolerance”(例外なく厳しく処罰する)の方針を確認し」とあった。この表現は、3分の2の賛成で採択された最終文書からなくなっていた。
最終文書を採択する前の全体会議の討議では、原案に対して340件以上の修正提案が司教や他の参加者たちから出され、原案のいくつかの重要な箇所について修正が加えられた。
結果、シノドスは、現在の性的虐待危機に対処するための具体的措置について何ら目新しい内容を提示せず、来年2月に開かれる児童保護に関する全世界司教協議会会長会議の結果を待つことになった。
「若者、信仰、召命の識別」をテーマにした1か月にわたるシノドスの最終文書は、ジェンダー、性、などの問題について微妙なバランス感覚を働かせ、「男らしさと女らしさの違い」を明確にしつつも、「LGBT」や 「ジェンダー」という言葉は使わなかった。それでも、同性愛者に対する司牧プログラムを促している。
*「女性の役割向上」は“間接表現”に
また教会において「女性に従来よりも大きな役割」を求める声が若者たちの間に強かった、ことも短く書き込まれた。シノドスに参加した先の司教は「協働制のスタイルをとろうとする教会は、教会における、社会における女性の状態と役割について、省みないでいることはできない。若者たちは強くそれを求めているのです」と解説した。
そして、「そうした省察は、大胆な文化的な転換と日々の司牧活動における変化の作業を通して実行されるようにとの要求に発展させました。これについて特に重要な対象となるのは、あらゆるレベルの教会の機関における女性の存在、責任ある立場、そして叙階された聖職者の役割を重視する教会の意思決定過程への女性の参加について、です」「イエスが当時の男性と女性に関してなさった振る舞いの中に、聖書における何人かの女性の役割の重要性の中に、救済の歴史の中に、そして教会の活動の中に、インスピレーションを見出すことは、公正の義務です」と私見を述べた。
最終文書には、“synodality(協働制)” の項が設けられたが、これは一部の司教たちを驚かせ、いらだたてさえした。シノドスでは討議されていなかったからだ。「今回のシノドスで、神の民への配慮の中で司教たちがcum Petro et sub Petro(ペトロとともにペトロの下に)一致するという collegiality(団体制)が、すべてのレベルで協働を通して明確にされ、豊かにされる、というように私たちは感じていました」と、その司教は違和感を否定しなかった。
*犠牲者に感謝はしたが、「虐待は性的なものだけでなく、さまざまある」と
最終文書で、司教たちは「権力、経済に関する、良心と性に関する」ことも含めた異なる虐待の形がある、という言い方から論じ始めている。
そして、「虐待が横行するような権力の行使の形を根絶し、多くの案件が取り扱われたような責任と透明性の欠如に挑戦することは、明確な義務である」とし、「支配への野望、対話と透明性の不足、各種の二重生活、霊的な空虚さ、精神的な脆弱さは、腐敗が繁栄する土壌になる」と述べている。
また、教皇フランシスコの言に従って、虐待がもたらしている危機の特別の原因として、聖職者主義を挙げている。教皇は今月初めに、聖職者主義は「エリート主義と召命についての排他的考え方から生まれ、聖職の地位を『無償の惜しみない奉仕』よりも『行使すべき権力』と解釈するものです」と警告の言葉を述べていた。
司教たちは、虐待の犠牲者たちに感謝を表明した。「シノドスは、悪を弾劾する勇気を持った人々に感謝を表します。彼らは、教会が何が起き高を知り、決然と対応する必要を認識するのを助けています」
*性の問題-「LGBT」や「ジェンダー」は避けたが、同性愛には”好意的”
最終文書は、「LGBT」や「ジェンダー」と言う言葉を使うことは避けたが、当初の草案よりも慎重な表現ながら、「性的適合」という表現でこの問題に触れた。
「地域レベルから普遍的レベルまで最も現実に合った方法で解決するため、もっと深い人類学的、神学的、司牧的な検討が必要なものに、身体に関係する-適合と性の問題がある」とし、「それらの中に、特に、男と女の特性の間の相違と調和、そして性的傾向に関係する問題が出てきている」と述べたうえで、「このような見地から、シノドスは、神が一人ひとりの人間を愛しており、教会もそうであることを確認し、性を基にするすべての差別と暴力に反対する決意を新たにする」と言明した。
これらの箇所の大半は、バチカンの教理省が1986年に出した文書からの引用だが、それにもかかわらず、27日の最終文書を決定するパラグラフごとの採決で、もっとも多くの反対票が出された。賛成票が178票と、採択に必要な票数166票を上回ったため、否決には至らなかったが、反対票は65票あった。
また、シノドスは「男と女の間の相違と相互性についての人類学的な妥当性を判断することを再確認し、『性的適合』によってのみ人の独自性を定義することは、物事を単純化していると考える」とした。
だが、同性愛の人々には対応することを促し、「多くのキリスト教共同体は、同性愛の人々に対し、信仰において寄り添う方法を持っており、シノドスは彼らに好意的に対応することを勧める」としている。
そして、「そうした方法は、彼らが自己の歴史を学び、洗礼の招きに対する自由と責任をつなぎ、教会共同体の活動に参加し、貢献したいという熱意を確かめ、そうすることの最善の形を見分けるのを助けることになる」と述べ、「このようにして、一人ひとりの若者が、誰ものけ者にされることなく、人々との質の高い関係と自身の賜物に向けた旅の中で成長し、性的な次元を彼らの人格の中にさらに溶け込ませるように助けられる」としている。
ほかに、最終文書の採決に先立って、司教たちの間に不満が出たものの、手を付けずに残されたのは、第3パラグラフの「最終文書は、(シノドスの事前に発表された)準備要綱と合わせて読まれねばならない」とした箇所だ。これは、この二つの文書がともに権威をもったものだ、ということを示唆しているように読むことができる。
そうだとすれば、草案に合った「LGBT」という用語が、採決された最終文書から消えたことは、実際的に大した差がないのかも知れない。「LGBT」は準備要綱のパラグラフ197に、「ジェンダー問題」はパラグラフ53に出ていたからだ。
*“synodality(協働性)”には異論も
“synodality(協働性)”の概念はシノドスの討議の中で大きく扱われることはなかったが、関係筋がCruxに語ったところによると、会議に参加した若者たちからは強い支持があった、という。それは一つには、若者たちへの賛辞として、最終文書にその表現がされたことによるかも知れない。
「このシノドスで、若いキリスト教徒たちとの共同責任が司教たちの深い喜びの源となっている、と感じている」「私たちはこのような体験の中に、洗礼を受けたすべての人と善意の人々、いかなる年齢や人生と召命の段階にある人の参加も促し、教会を刷新し続け、存在し行動する手段としての協働制を進める呼びかける聖霊の実りを実感する」とも最終文書は述べている。
また、今回のシノドスは、教会における「協働性」の意識を「覚醒させた」とし、「協働性のある教会では、誰もが脇に追いやられるべきでない」と言明。「それが、多くの人を意思決定の過程から排除する『聖職者主義』、世の中での宣教の決意に向けて外に出すよりも内に閉じ込める『一般信徒の聖職者化』を避ける道である」とも述べている。
最終文書は、「協働性」は教会の管理運営のためでもある、として、「逆さのピラミッド」を裏書きし、若い一般信徒と若い修道者、司祭の「指導性を鍛える」中における共同行動を促している。
原案を否決するには至らなかったものの意味のある数の反対票を集めたパラグラフで、最終文書は「生きた経験が、信仰の宣言と伝達のために教会の協働性が重要だということを、シノドスの参加者たちに教えた」「意見を交換し、話すうちに、シノドスは協働性のスタイルの基本的な運びを助けた、そうして、私たちは皆、変わり、浮上するように求められている」と表明した。賛成203票に対して反対は39票だった。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)