Pope Leo responds to journalists’ questions at Castel Gandolfo
(2025.10.7 Vatican News Daniele Piccini – Castel Gandolfo)
パレスチナ・ガザ地区のイスラム組織ハマスがイスラエルを攻撃し現在の悲惨な戦闘が始まてて2周年を迎えた7日、教皇レオ14世は、ローマ郊外の離宮カステル・ガンドルフォで記者団の質問に応じ、テロリズムと最近の反ユダヤ主義的攻撃の両方を非難するとともに、双方に速やかな和平実現への努力を改めて訴えられた。そして、教皇就任後初の海外訪問として11月27日から12月2日にかけてトルコとレバノンを訪問され、中東に平和のメッセージを伝えることを強調された。
記者団に教皇は、ハマスのイスラエル攻撃について「この2年間は非常に苦痛に満ちていました。2年前、テロ攻撃で1200人が命を落とした。私たちは世界にどれほどの憎悪が存在するかを考え、自らに何ができるかを問い始めねばなりません。この2年で約6万7000人のパレスチナ人が殺害された。憎悪を減らし、対話する能力を再発見し、平和的解決を模索することが強く求められています」と述べられた。
続けて、「テロリズムに加担する集団を容認できないことは確かです。この種の憎悪は常に拒絶されねばなりません。同時に、反ユダヤ主義の存在は、増えているか否かにかかわらず懸念すべき事象。私たは平和とあらゆる人の尊厳への敬意を常に、宣言する必要がある。これが教会のメッセージです… 教会は、特にこの10月の間、平和のために祈るよう皆に求めてきました。教会は可能なあらゆる方法で、常に対話を促進するよう努めます」とし、対話と和解の促進に向けた教会の取り組みを再確認するとともに、世界のすべての信者に対して、聖地における流血の紛争終結のために祈り続けるよう呼びかけられた。
*11月27日からのトルコ、レバノン訪問の目的は…
また、この日、バチカンから発表された11月27日から12月2日にかけてのトルコとレバノン訪問について、記者団から、政治的に敏感で緊張した地域を訪問する理由について問われたのに対し、教皇はまずトルコ訪問について、「訪問は、ニカイア公会議1700周年を記念するもの。真に重要な瞬間だと確信しています。教皇フランシスコが望まれた巡礼でした。全てのキリスト教徒にとって、信仰における真の結束の時となるでしょう。この歴史的機会を逃してはなりませんが、今回の訪問は、過去を振り返るためではなく、未来を見据えるためのものです」と説明。
また、レバノン訪問については、「2020年8月4日のベイルート港爆発以来、次々と打撃を受けてきた人々に慰めをもたらすことが主な目的です」とされ、「レバノンでは、中東の平和のメッセージを改めて宣言する機会を得られるでしょう。この国は多大な苦難を経験してきました。教皇フランシスコ教皇も訪問を希望されていました。港の爆発後、レバノン国民が耐えてきた全てを経た今、彼らを抱きしめたかったのです。私たちは、この平和と希望のメッセージを届けます」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo arrives in St Peter’s Square for the Jubilee Audience (@Vatican Media)
(2025.10.4 Vatican News Linda Bordoni)
教皇レオ14世は4日、聖ペトロ広場での「移民と宣教の世界のための聖年」の一般謁見での説教で、アッシジの聖クララを「福音に生きる勇気の模範」として注意を向けられ、キリスト教の希望の意味について考察、希望を持つために「福音に根ざした勇気ある選択をするように」と信者たちに促された。
教皇は、この日のミサで読まれた福音書(ルカ16章13-14節)を引用され、富ではなく神に仕えることの難しさについて語り、アッシジの聖クララを「若き信仰と徹底した弟子としての生き方の輝かしい模範」として示された。
この福音書の箇所で、イエスの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との言葉を聞いたファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑う。教皇は、「彼らにとって、イエスの貧しさに関する説教は荒唐無稽に思えました。より正確に言えば、金銭への執着ゆえに、彼らは個人的にイエスの言葉に脅威を感じたのです」と語られた。
そして、聖ペトロ広場に集まった数千人の巡礼者に向けて、教皇は、「聖年が『具体的な希望の時』であり、私たちの心が赦しと慈悲を見出し、全てが新たに始まる瞬間です」と強調。「この年において、私たちは、正義か不正義か、神か金か、誰あるいは何に仕えるかを選択しなければなりません」と信者たちに決断を迫られた。
教皇は続けて、「真の希望は、個人の決断と切り離せません… 希望を持つことは、選択することです」とされ、選択に関わる二つの重要な側面-第一に「我々が変われば世界も変わる」、第二に「選択を拒む者は絶望に陥る危険がある」-を示された。そして、「霊的な憂鬱、すなわち怠惰(アセディア)がもたらす最も一般的な結果は、『何も選ばないこと』だ」と警告。「それを経験する者は、死よりも悪い内なる怠惰に囚われる。一方で、希望を持つことは『選択すること』です」と説かれた。
次に教皇は次に、アッシジの聖クララの例に言及し、彼女を「勇気ある反体制的な若い女性。神の恵みによって、福音のために決定的な選択をしました」と指摘。アッシジのフランシスコは家族との決別さえ厭わず福音的貧困を受け入れたが、クララの決断は「さらに驚くべきものでした。フランシスコのようになりたいと願い、女性として、あの兄弟たちのように自由な生き方を望んだ若い女性だったのです」と語られた。
さらに、「キリスト教都市と自認する街でさえ、クララの福音への徹底的な献身は革命的に映りました… 当時も今も、選択は必須。そしてクララは選択したのです。これが私たちに大きな希望を与えます」と述べたうえで、彼女の決断がもたらした二つの永続的な実りとして、①多くの若い女性たちに貧しさの中でキリストに従うよう促した霊感②その選択が「一時の流行ではなく、時を超えて私たちにまで続く証し」となったこと、を挙げられた。
教皇は再びルカ福音書の16章13節に戻られ、「二つの主人に仕えることはできない」というイエスの言葉に注意を向け、「教会が福音に忠実に生きる時、若さと活力を保ちます… クララは、福音が若者に訴えかけることを思い出させてくれます。若者たちは、選択をし、その選択の結果を生きる人々を好む。そしてそれは他の人々にも選択を希望させます。これは『聖なる模倣』です。福音を選択する時、人は『コピー』になるのではなく、それぞれが自分自身を選択するのです。失った自分を見つけるのです」と説かれた。
説教の最後に、教皇は、信者たちに「祈りましょう… 金や自分のためではなく、神の王国とその正義に奉仕する教会であるように。聖クララのように、異なる方法で『都市に住む勇気』を持つ教会であるように。そのような教会が、希望を与えるのです!」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo XIV at General Audience (@Vatican Media)
(2025.10.1 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は1日、バチカンでの水曜恒例一般謁見で、聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」を続けられ、今回は復活をテーマに「イエスの復活こそ、私たちの希望の源泉…神は赦し、高め、信頼を回復してくださる。傷から恨みを持たずに立ち直る完璧な模範は御子にこそあり、内なる平和を育むことができるのです」と信者たちに説かれた。
講話の冒頭に教皇は、私たちの信仰の中心と希望の核心がキリストの復活に確固として根ざしていることを指摘、「福音書を注意深く読むと、この神秘が驚くべきものである理由は、一人の人間―神の子―が死からよみがえったことだけでなく、その方法にもあると気づきます」と語られた。
そして、「確かに、イエスの復活は大々的に誇るべき勝利でもなければ、敵に対する復讐や報復でもありません… それは、愛が大きな敗北の後にあっても再び立ち上がることができ、止められない旅を続けることができるという、素晴らしい証しなのです」と強調。
また教皇は、「私たちの考え方と反応がキリストのそれと大きく異なる傾向にあること」を指摘。「他者によって引き起こされたトラウマの後、再び立ち上がる時、私たちの最初の反応は往々にして怒りであり、『自分が受けた苦しみの代償を、誰かに払わせたい』という欲求です。しかし、復活された方は、死の冥界から戻られ、復讐はされません。力による威圧的な態度で戻られるのではなく、むしろ柔和さをもって、いかなる傷よりも大きく、いかなる裏切りよりも強い愛の喜びを示されるのです」と語られた。
さらに、「イエスは自らの優位性を繰り返し主張する必要を感じることなく、友人の前に現れ、極めて控えめに、彼らが受け入れるように強いることもされず、ひたすら交わりを取り戻し、罪悪感を克服させることを願ってお現れになるのです… イエスは、恐怖に麻痺した者たちの閉ざされた部屋に入られ、誰も望み得なかった贈り物、すなわち平和をもたらされました」と述べられた。
そして、「『あなたがたに平和があるように』という主の挨拶は、とても率直で日常的であるかのように私たちに響きますが、その言葉は、当惑するほど美しい身振りと共に現れます。イエスが弟子たちに、受難の痕跡を残した御手と脇腹を見せた時の身振りです」とされ、その身振りには、「イエスが今やご自身が受けたすべての苦しみに完全に和解されているため、恨みの影すら見られません」と指摘。
「主が傷跡を見せられたのは、弟子たちを非難するためではなく、いかなる不誠実よりも強い愛を確証するためであり、それは、私たちが失敗した瞬間でさえ、神が退かなかった、私たちを見捨てなかったという証拠です… たとえ私たち失敗した瞬間でさえ、神は退かれなかった。神は私たちを見捨てられなかったのです」と説かれた。
教皇はまた、「裏切りが自分を傷つける時、私たちはしばしば『どうでもいい』『過去のことだ』と言い、真の平安には至らないことがあります… でも、主イエスの働き方や考え方はそうではない。主は「ご自身の傷跡を『赦しの保証』として差し出され、復活とは『過去を消し去る』ことではなく、『慈悲の希望へと変容させる』ことを、お示しになるのです」と強調された。
続けて教皇は、「主は、平和の言葉をもって、使徒たちに『世界の和解の道具』となる責任を託されました… 彼らに息を吹きかけ、聖霊を与えられました。それは父への従順と十字架に至る愛の中で主を支えた、あの同じ霊です」とされ、「その瞬間から、使徒たちはもはや自分たちが目撃し、聴いたこと、すなわち『神が赦し、高め、信頼を回復される』という事実について沈黙を守れなくなったのです」と指摘。
「これが教会の使命の核心。他者に対する権力を振るうことではなく、まさに値しない時に愛された者たちの喜びを伝えることです… そして、これがキリスト教共同体を誕生させ、成長させた力です」と説かれた。
講話の最後に、教皇は信者たちに、「私たちもまた、遣わされています… 主は御自身の傷跡を示され、『平安あれ』と言われる。主は、私たちに御自身の平和の証人となるよう求めておられるのです」と与えられた使命を果たすよう、強く促された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo XIV greets the faithful at the start of the Wednesday General Audience (@Vatican Media)
(2025.9.24 Vatican News Christopher Wells)
教皇レオ14世は24日、水曜恒例の一般謁見で、聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」をお続けになり、今回は聖土曜日(復活祭前夜)にイエスが冥界(死者の魂が住むとされている地下の世界)へ降りてこられ、人間の存在の闇に光をもたらされたことについて考察された。
講話の中で教皇はまず、聖土曜日(十字架刑の後、復活の前)におけるイエスの「冥界」降下は、「神が私たちに示された愛の最も深く、最も根本的な行為」と指摘。
*『死』は、決して最後の言葉ではない
そして、「イエスは私たちのために死なれただけでなく、迷った私たちを探し求められ、闇を貫く光のみが到達し得る場所へと降りて行かれた」とされ、この文脈における冥界は「”場所”というより”状態”であり、生命力が枯渇し、苦痛、孤独、罪悪感、そして神や他者からの分離が支配している状態を意味します… イエスは、死の住まいの奥深くに入られ、そこに住む一人ひとりの手を取って導き出し、解放するために、冥界に赴かれたのです」と語られた。
さらに教皇は、「この御業の中に、復活のメッセージの力強さと優しさのすべてが込められています。死は決して、最後の言葉ではありません」と強調された。
*父なる神の愛を証しする
教皇は続けて、この「キリストの降下」が過去のみならず現代にもつながるものであり、「死者の状態である冥界に入られたイエスは、孤独、恥、放置、そして人生の闘いという私たちの日々の地獄にも入り込まれ、それによって、父なる神の愛を証しすることを可能にされるのです」と強調。
「イエスが冥界でアダムと出会われたことは、神と人のあらゆる出会いの象徴。神は、人を闇から導き出し、名を呼ばれ、完全な権威をもって、同時に、『もはや自分は愛されていないのではないか』と恐れる子供に対する父親のように、無限の優しさをもって、光へと連れ戻されます」と説かれた。
*慈悲に触れられないものはない
このように、「聖土曜日とは、『天が最も深く地を訪れる日』なのです。イエスの冥界への降下は、私たちに、イエスの贖いから除外されるものは何もないことを示しています。私たちの”夜”でさえ、最も前の過ちでさえ、断ち切られた絆でさえも除外されません。慈悲に触れられないほど荒廃した過去も、妥協した歴史も存在しないのです」と語られた教皇は、次のように講話を締めくくられた。
「聖土曜日とは、キリストが全被造物を父に捧げ、救いの計画へと回復させるための、静かな抱擁の時なのです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.9.21 カトリック・あい)
教皇レオ14世が21日、年間第25主日の正午の祈りに先立つ説教で語られた全文は、バチカンのホームページThe Holy Seeによると次の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主の日の祝福を!
今日の福音(ルカ16章1-13節)でイエスが語られるたとえ話は、私たちが物質的な富をどう扱うか、そして最も尊い財産である命そのものをどう管理するか、を深く考えさせます。
このたとえ話では、金持ちが管理人に「会計報告」を求めます。ここには重要な真理が示されています。私たちは自らの命や享受する財産の主人ではなく、すべては主からの賜物であり、この恵みは私たちの管理、自由、責任に委ねられているのです。 いつの日か、私たちは自分自身と所有物、そして地球の資源をどのように管理してきたかについて、神と人々の前で、社会の前で、そして特に後世の人々の前で説明することを求められるでしょう。
ここに登場する管理人は、これまでただ自分の利益だけを追求してきました。 しかし、それが露見して管理権を奪われた時、彼は自らの将来を守るために何をすべきか考えざるを得なくなる。この困難な状況の中で、彼は「物質的な富の蓄積が、最高の価値をもつものではない」と悟ります。この世の富は過ぎ去るものだからです。
そこで彼は素晴らしい考えを思いつきます。債務者たちを呼び寄せ、彼らの負債を「切り捨て」、自分に帰属するはずだった利益を放棄したのです。 こうして彼は物質的な富を失う代わりに、自らを助け支える用意のある友人を得るのです。
この物語をもとに、イエスは私たちにこう勧められます—「不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。
確かに、たとえ話の中の管理人は、この世の不正の富を管理しながらも、友を作る方法を見出し、自己中心の孤独から脱することに成功しました。そうであるなら、福音の光の中で生きる弟子である私たちはなおさら、この世の財産と私たちの命そのものを、「主と兄弟姉妹との友情」という真の富を目指して用いるべきではありませんか。
愛する友よ、このたとえ話は私たちに問いかけています。「神が託された物質的財産、地の資源、そして私たちの命そのものを、私たちはどのように管理しているのか?」。
私たちは利己主義の道を選び、富を何よりも優先し、自分だけを考えることもできますが、それは他者から私たちを孤立させ、競争という毒を広め、しばしば対立を煽ることになるでしょう。 でも私たちは、自分が持つすべてのものを神の賜物として認め、分かち合いの道具として管理し、用いる道を選ぶこともできます。友情と連帯のネットワークを築き、共通善のために働き、より公正で公平、そして兄弟愛に満ちた世界を構築するために。
聖母マリアに祈りましょう。私たちのために取り成し、主が託されたものに対して、正義と責任をもって管理する忠実な管理者となれるよう、助けてくださいますように。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)