(2024.5.26 The Holy See)
教皇フランシスコは26日の「三位一体の主日」のミサを聖ペトロ広場で捧げられ、この日の「世界こどもの日」にちなんで、子供たち向けに説教をされた。内容以下の通り。
親愛な少年たち、親愛な少女たち、私たちは皆さんと一緒に神に祈るためにここにいます。 同意しますか? そうですか? そして私たちは父なる神、子なる神、そして聖霊なる神に祈ります。 「神」は何人いるのでしょうか?3人で一人です。私たちすべてを創造された父、私たちをとても愛してくださる父なる神。では、父なる神に祈るとき、私たち全員が祈る祈りとは何でしょうか?(子どもたちが答える―「『 il Padre Nostro(主の祈り)』です」)。
私たちはいつも、父である神に、私たちの人生に寄り添い、成長させてくださるように、とお願いします。その御子の名前は何でしょうか? 息子の名前は何ですか? よく聞こえません! イエスです! そして「イエス様、私たちを助けてください、私たちに近づいてください」と私たちはイエスに祈ります。
また、聖体拝領をするときに私たちはイエスを迎え、イエスは私たちのすべての罪を赦してくださいます。 「イエスがすべてを赦してくださる」というのは本当ですか? 聞こえません、何が起こっているのですか… 本当ですか? はい! イエスはいつもすべてを赦しますか? いつも、いつも、いつもですか? そして、男性あるいは女性の罪人、多くの罪を抱えた罪人がいる場合、イエスは彼らを赦してくださいますか? あなたは最も醜い罪人でも赦しますか? はい! これを忘れないでください。イエスはすべてを赦し、いつも赦してくださいます。
そして私たちは赦しを求める謙虚さを持たなければなりません。 「ごめんなさい、主よ、私は間違いを犯しました。 私は弱い。 人生で私は困難に出会いましたが、あなたはすべてを赦して下さいました。 私は自分の人生を変えたいと思っています、そしてあなたは私を助けくださいます」。 でも、よく聞こえなかったのですが、本当ですか、「すべてを赦してください」と… よく出来ました。これを忘れないでください。
難しいのは、「聖霊とは誰なのか」です。 ええ、それは簡単ではありません。聖霊は神であり、私たちの内におられるからです。 私たちは洗礼で聖霊を受け取り、秘跡でも受け取ります。 聖霊は私たちの人生に伴ってくださるものです。 このことを一緒に考えて、こう言いましょう―「聖霊は人生において私たちに同行してくださいます」。 皆でそろって… 「聖霊は人生において私たちと共にいてくださいます」。聖霊は、私たちがしなければならない良いことを、心の中で教えてくださるのです。 また別の時に…「聖霊は人生に私たちと共にいてくださいます」。 私たちが悪いことをしたときに心の中で叱ってくださる方です。 「聖霊…」忘れた、聞こえない…また今度! 聖霊は私たちに力を与え、困難なときに慰めてくださる方です。皆でそろって… 「聖霊は人生において私たちと共にいてくださいます」。
親愛な兄弟姉妹、少年少女の皆さん、私たちは皆、信じているので幸せです。 信仰は私たちを幸せにします。 そして私たちは「父と子と聖霊」である神を信じます。 全員そろって、「父と子と聖霊」と。 私たちを創造してくださった父、私たちを救ってくださったイエス、では、聖霊は何をなさっているのでしょうか?
キリスト教徒の皆さん、確かに私たちにも母親がいます。母親の名前は何ですか? 私たちの天の母の名前は何ですか? 聖母マリアに祈る方法を知っていますか? いいですか? 今すぐ、やりましょう!(全員で聖母マリアの祈りを唱える) 男の子も女の子も、良い子も…あなたは良い子です。 父は私たちを造られ、子は私たちを救ってくださいました。では、聖霊は何をしてくださったのでしょう? そうです!
神があなたがたを祝福してくださいますように。私たち皆が前に進めますように。そして、両親のために祈り、祖父母のために祈り、病気の子供たちのために祈ってください。 今、私の後ろに病気の子供たちがたくさんいます。 いつも祈り、そして何よりも戦争が起こらないように平和を祈りましょう。
説教はこのくらいにして、ミサを続けましょう。でも忘れないように、聖霊は何をしてくださいましたか? …その通り!それでは先に進みましょう!
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=イタリア語の原文より)
教皇フランシスコ 2024年5月22日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.5.22 バチカン放送)
教皇フランシスコは22日の水曜恒例一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話の最終回となる今回は「謙遜」の徳を取り上げられた。講話の要旨は以下の通り。
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「悪徳と徳」をテーマにした連続講話を、キリスト教生活の基盤であるもう一つの徳、「謙遜」の徳の考察をもって締めくくりたいと思います。
「謙遜」の徳は、様々な悪徳の中でも最も深刻な「高慢」の悪徳への”偉大な対抗者”です。うぬぼれと高慢が、自分を実際以上のものに見せながら、人の心を膨らませるのに対し、謙遜はそれをあるべきサイズに戻してくれます。
私たちは素晴らしい被造物ですが、長所と短所によって限界づけられた存在でもあります。聖書は、その始めから「塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る」(創世記3章19節参照)ことを、私たちに教えています。ラテン語の「謙遜な」(humilis)は、「土」(humus)から来ているのですが、人の心にはしばしば、大変危険な「万能だ」という妄想が膨らみます。
高慢から解放されるためには、星空を見上げ、人の本来のスケールに改めて気づくことです。それは詩編が歌うとおり、「あなたの指の業である天を、あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは」(詩編8章4-5節)。現代の科学は、私たちの地平線をより広げ、私たちを取り囲み、私たちの中にある神秘をより大きく感じさせます。
自身の小ささについての知る人は幸いです。そうした人は、「傲慢」という悪徳から守られるでしょう。イエスは「山上の説教」で八つの幸いを、まさに、そうした人々から始められます。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ福音書5章3節)。これが「幸い」の最初に取り上げられるのは、その後に続く「幸い」の基礎になっているからです。柔和、憐み、心の清さは、この内的小ささから生まれます。「謙遜」はすべての徳への入口なのです。
福音書の初めの部分で、「謙遜」と「心の貧しさ」は、すべての源のように思われます。天使のお告げは、エルサレムの城門の前ではなく、ずっと辺境のガリラヤの小村で起きました。その場所はあまりにも重要性がなかったので、人々から「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われるほどでした。しかし、まさにそこから、世界は新たにされるのです。
そのためにあらかじめ選ばれたヒロインは、小さな女王のごとく甘やかされて育った女性ではなく、まったく知られることのない少女、マリアでした。そして、天使が神のお告げを知らせた時、最初に驚いたのはマリア自身でした。マリアの賛歌で際立つのは、まさにこの驚きです―「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです」(ルカ福音書1章47-48節)。神は、マリアの「小ささ」、特に「内的な小ささ」に惹かれたと言えるでしょう。そして、私たちが神を受け入れる時、それは私たちの「小ささ」でもあります。
そして、これ以降、表舞台を降りたところからマリアを見るようになります。マリアはエリザベトを訪ねるためにユダの山地へ向かいます。それは身ごもり、出産を間近にしたエリザベトを支えるためでした。神以外の誰がマリアのこの行為を見ているでしょう。マリアはこの隠れた生き方から出ることを望まなかったように思われます。
群衆の中から、一人の女が、イエスに向かって声を張り上げて言います―「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ福音書11章27節)。そして、イエスは、すぐにこう答えられました―「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(同28節)。「神の母」であるという人生の最も聖なる真理でさえも、マリアにとっては人々の前で自慢する理由とはなりません。マリアは、ただ神の恵みの力によって、「高慢」とは反対の方向へ、しっかりと歩みました。
マリアは、信仰とともに闇の中を進むような困難な時を体験したに違いありません。しかし、それによって、マリアの「謙遜」が揺らぐことはなかったのです。マリアは常に「小さき者」であり、自分を脱ぎ棄て、野心から自由な女性。マリアの「小ささ」こそが、その無敵の力。「勝利のメシア」の幻想が打ち砕かれた時も、マリアは十字架の下に留まりました。そのマリアが、たった一時間もイエスと共に目を覚ましていることができなかった弟子たち、嵐が近づく中でイエスを見捨てた弟子たちを、聖霊降臨に先立つ日々に集めることになるのです。
「謙遜」がすべて。「謙遜」は私たちを悪から、悪の共犯となる危険から救ってくれます。「謙遜」は世界と教会における平和の源です。「謙遜」のないところに、戦争や不和や分裂が生じます。神は、私たちの救いと幸福につながるようにと、「謙遜」の模範をイエスとマリアに与えられました。「謙遜」はまさに救いの道であり歩みなのです。
(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
Pope Francis’ video message broadcast at the Pontifical Urban University
(2024.5.21 Vatican News Devin Watkins)
上海で中国のカトリック教会で初めてConcilium Sinense(中国評議会)が開かれて100周年を記念するシンポジウムが21日、ローマの教皇庁立ウルバノ大学で開かれ、教皇フランシスコがビデオメッセージで、上海での評議会100周年を振り返りつつ、「社会的共存の調和を図りつつ、博愛と慈悲の活動を通じて信仰を証しするように」と、中国のカトリック教徒に求められた。
*100年の記念は「多くの理由で、貴重な機会」となる
メッセージで教皇は、上海での中国協議会開催から100周年を記念することは「多くの理由で、貴重な機会となります」とされたうえで、この中国協議会開催は「中国のカトリック教会にとって重要な前進でした。聖霊は彼らを一つにまとめ、彼らの間に調和を育み、彼らの多くが想像もしていなかった道に導き、困惑や抵抗さえも乗り越えるようにしてくださったのです」と強調された。
*「中国の顔」を持った教会になる
当時、評議会の出席者は遠く国々の出身で、彼らの多くは中国生まれの司祭や司教が教区を率いるのを認めることに抵抗した。にもかかわらず、評議会は、「キリストの救いの宣言は、それぞれの国の『母国語』で語られる場合にのみ、すべての人間社会とすべての人に届くことができる。したがって、中国の教会は『中国の顔』を持たねばならない」ということで合意したのだった。
また教皇はメッセージで、教皇ピオ11世から公会議の組織化の任務を託された最初の中国駐在バチカン大使、セルソ・コスタンティーニ大司教の重要な貢献に言及。「コスタンティーニ大司教の努力により、バチカンと中国教会との交わりは、すべての中国人民にとって有益な成果をもたらすことができまたし」と述べられた。
*評議会に参加した人々の視線は現代の教会に繋がっている
そして、この上海での初の評議会は「『戦略の変更』ではなく、教会の性質とその使命に最も適合する道をたどることを課題としました。出席者たちは、キリストの恵みを信頼しており、彼らの未来への視線が、現代の教会に繋がっています」とし、「中国において、主は、(当時から今に至る)過程で、神の民の信仰を守ってくださいました… そして神の民の信仰は、上海での初の公会議の前後、そして今日に至るまで、この時代を通して道を示す羅針盤となったのです」と語られた。
*イエスに従う人々は平和を愛する
このように上海での初の評議会の成果を語られたうえで、教皇は、中国のカトリック教徒に対して、「ローマ司教との交わりにおいて、今の時代を歩んでほしい」と希望され、「博愛と慈悲の活動を通じて、あなた方の信仰を証しし、それによって社会的共存の調和を図り、”共通の家”の構築に貢献するように」と勧められた。
さらに、「イエスに従う人々は、平和を愛します。そして、『世界の終末を加速させようとする非人道的な勢力』が働いているのを目の当たりにしているこの時代に、平和のために活動するすべての人々と自分が共に働かねばならないことを知っているのです」と強調された。
メッセージの最後に教皇は、5月24日を祝日として祝われている上海近郊、佘山の聖母に対する中国のカトリック教徒の献身を賞賛され、中国の教会が「どこにおいても、平和を勝ち取れる」ように、聖母に執り成しを祈られた。
そして、「上海での評議会を思い起すことは、今日、教会全体にとっての新たな道を示唆するものとなり、現在において福音を宣べ伝え、証しするために大胆に取り組むべき道を開くことにもなり得えます」とメッセージを締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
爆撃後の黒煙が上がるウクライナ・ハルキウ 2024年5月17日 (ANSA)
(2024.5.19 バチカン放送)
教皇フランシスコは19日、聖霊降臨の主日の正午の祈りで、世界の調和と平和を祈られた。
「聖霊は、調和を作り出す方。降臨を祝う今日、聖霊が、御父と御子の愛が、心に、家庭に、社会に、全世界に、調和を生み出してくださるように祈りましょう」と促され、「聖霊が、諸キリスト教教会の信者たちの間に、交わりと兄弟愛を育ててくださるように」と願われた。
そして、「戦争を終結に導くために、治世者たちに対話を行う勇気を与えてくださるように」。特にロシア軍の攻撃を受けたウクライナのハルキウ、さらにパレスチナ、イスラエルをはじめ、戦争が行われている多くの地域に思いをはせながら、「聖霊が、国々の責任者と私たち皆に、平和の扉を開くよう促してくださるように」と祈られた。
また、教皇は、前日18日のイタリア北部ヴェローナへの司牧訪問を振り返り、同地の人々の温かい歓迎と愛情に感謝された。そして、この訪問で刑務所を訪れ「塀の向こうに、命と人間性、希望が息づいていることを、受刑者たちは今回も証ししてくれた」と話し、同刑務所のすべての関係者に改めてお礼を述べられた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.5.19 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
聖霊降臨の主日、19日のミサの説教で、教皇フランシスコは「力と優しさをもって教会の中で働いておられる聖霊は、決して私たちを一人にせず、私たちが聖霊に任せれば、一人では不可能な目的を達成するため、傍にいて、賜物が与えられます」とされ、「ひどく困難な時期や苦闘の日々の最中にあっても、傍にいてくれる聖霊と賜物によって、私たちは耐え忍ぶことができるのです」と説かれた。
説教で教皇は、このミサで読まれた使徒言行録第二章の聖霊降臨の箇所を取り上げられ、「この記述は、聖霊が、力と優しさをもって、私たちと宣教の両方に働いていることを示しています」と指摘。聖霊がどのように弟子たちに降り、「彼らの心を変え、イエスの経験と彼らを動機付けた希望を他の人に伝えるよう促す静かな勇気を植え付ける Paraclete(弁護者、傍にいる者)」として、彼らの傍に留まったか、を振り返られた。
*弟子たちと同様に、私たちも福音宣教に送り出されている
そして、「このことは、洗礼と堅信によって聖霊を受けた私たち皆にも当てはまります… このミサを捧げている大聖堂の『上の部屋』から、私たちも弟子たちと同じように、すべての人に福音を宣べ伝えるために送り出されているのです」と強調。「傲慢、押し付け、打算なしに、聖霊が私たちの心の中で教え、育ててくれる『真理への忠実』から生まれるエネルギーをもって、福音を宣べ伝える必要があります」と語られた。
*平和、赦し、命を倦むことなる宣言する
教皇はさらに、「私たちは倦むことなく、戦争を望む人々に絶えず平和を語り、復讐を求める人々に赦しを語り、扉を閉ざし障壁を築く人々に歓迎と連帯を語り、 死を選ぶ人々には命を、軽蔑と侮辱、拒絶を好む人々には敬意を、あらゆる絆を断ち切ろうとする人々には忠誠を語ります… 私たちのうちに聖霊の力強い働きがなければ、自分の力だけで悪を倒すことも、肉の欲望に勝つことも決してできません。世ではなく、聖霊に身を委ねるべきです」と訴えられた。
*聖霊は、私たちを助け、励ましてくれる
続けて、「聖霊に任せれば、私たちの努力を鼓舞し、助け、支えてくださいます」とされた教皇は、「それによって、私たちは苦闘の時を、成長の機会、危機から私たちがより良く立ち直れる機会に変えることができ、より強く、より自由に他者を愛することができるようになります… イエスもまた、霊に導かれて荒れ野で40日間の断食をされ、悪魔から誘惑を受けられましたが、その試練によって、人として成長し、強められ、宣教に備えることができたのです」と述べて、信者たちを励まされた。
また、聖霊の優しさについても言及され、「聖書には、神のなさり方を特徴づける記述がよく出てきますが、私たちの宣教活動も、どこにいても他者を励まし、強めるために、すべての人を優しく歓迎するものである必要があります… イエスがなさったように、謙虚さと優しさをもって、善意を持つすべての男女に接することです」と説かれた。
*聖霊の臨在を信じる心を新たにしよう
最後に教皇は、「平和、友愛、連帯への道には、曲がりくねった上り坂もありますが、私たちは一人で歩くのではない。聖霊と賜物の助けによって、共に歩み、その道をさらに前に進むことができるのです」と励まされ、「私たちを啓発し、心を恵みで満たし、歩みを導き、恵みを与えるために、私たちの傍にいて慰めてくれる聖霊の臨在」を信じる心を新たにするよう、全ての信者に呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコと気候変動をめぐる国際会議参加者たち 2024年5月16日 バチカン宮殿 (Vatican Media) 教教皇フランシスコは、気候変動をめぐる国際会議の参加者らとの出会いを持たれた。
(2024.5.16 バチカン放送)
教皇フランシスコは16日、教皇庁立科学アカデミー、社会科学アカデミー共催の気候変動危機に関する国際会議の参加者たちとお会いになった。
15日から17日まで両アカデミーの本部で開かれた会議には、国際機関の関係者や、研究者、宗教指導者、そして横浜市など世界の自治体の首長たちが参加。気候危機への対処だけでなく、危機からの回復力を高める方策について、専門や経験を分かち合った。
教皇は参加者たちへのあいさつで、「環境破壊は神に対する侮辱。最も弱い立場の人々はもとより人類すべてを深刻な危険に陥れ、世代間の闘争を引き起こしかねない、個人的だけでなく組織的な罪です」と指摘。
「私たちは『命の文化』のために働いているのでしょうか、それとも、『死の文化』のために働いているのでしょうか」と問いかけ、「あなたがたのこの会議は、この問いに対して、『大地の叫びに注意を払い、貧しい人の嘆願に耳を傾け、若者の望みや子どもたちの夢を感じ取らねばならない』と答えています」と語られた。
そして、「気候変動や、生態系の多様性の喪失、環境汚染、不平等の拡大、食料不安、人間の尊厳への脅威など、個別でありながら相互に関連し合った制度上の挑戦を、私たちは前にしています」とされ、「皆で力を合わせ、緊急に対応しない限り、これらの問題は人類の、そしてすべての生態系の存続に関わる脅威となるに違いありません」と警告された。
そのうえで教皇は、「気候危機に立ち向かうには、調和ある協力と国際的な連帯が必要です… CO 2削減や、生活様式の見直し、資金の有効活用、自然に基礎を置く実証された解決策の利用などを通して、干ばつをはじめ、気候変動の影響への対応力を強めることができるように」と願われ、さらに、特に気候による大きな被害を受けている開発途上国や島国の必要に応えられる新しい財政構造を発展させる必要を説かれた。
最後に教皇は、会議参加者たちの気候変動問題への取り組みに感謝され、「平等と社会正義を通して、現在の気候危機から気候回復への移行のための協力を続けてください」と激励された。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis at General Audience (Vatican Media)
(2024.5.15 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられた。今回は「神的美徳」の中で「慈愛」を取り上げ、神的美徳は「神から来て神に向けられ、私たちが神を愛すること…そして神が隣人を愛するように隣人を愛することを可能にします」と語られた。
この日の講話を、教皇は、新約聖書のコリントの信徒への手紙1・13章13節「信仰、希望、愛の中で最も大いなるものは、愛です」という聖パウロの言葉から考察を始められた。
「この言葉は、聖体祭儀においても分裂と争いに苦しんでいたコリントのキリスト教徒に向けられたものでした」とされ、「今となっては誰にも分かりませんが、おそらく当時のコリントの教会共同体では、誰も『自分が罪を犯している」とは思っていなかったでしょう。 そうだとしたら、彼らは自分たちの争いに対するパウロの非難を『理解できない』と思ったかもしれません」と述べられた。
そして、「彼らは『自分たちは、善良で愛情深い人間だ』と思っていたかもしれませんが、パウロは、神から来る真の慈愛を取り上げました。パウロは、現在の私たちと同じように、コリントの信徒たちの間でも混乱が生じており、神的美徳、神から私たちにもたらされる美徳のしるしが実際には存在しないのではないか、という疑念がありました」と述べた。
続けて教皇は、「キリスト教徒にも、あらゆる人たちと同じように、ロマンチックな愛、友人への愛、国への愛、人類への愛など、世界のあらゆる形の愛を持つことができます。しかし、もっと大きな愛は、神から来て神に向けられ、それによって私たちが神を愛し、神のように隣人を愛することができるようになるのです」とされ、「これが、『慈愛』の美徳であり、それによって私たちは友人や家族を愛するだけでなく、愛するのが難しい人々さえも愛することができるようになります。それは神から来るものであり、私たちの内にある聖霊の働きだからです」と説かれた。
さらに、教皇は山上の説教を思い起されて、イエスが「慈愛」の名を借りた神的愛を明らかにされた、と述べたうえで、「 それは実践が難しい美徳であり、私たちが神のうちに生きていなければ不可能なことですらあります。しかし、人間の心の通常の愛や愛情を超えて、キリスト教の愛は、愛せないものを受け入れ、赦しを与え、呪う人々を祝福します… それはほとんど不可能に思えるほど熱烈な愛ですが、それでも私たちに残る唯一のものなのです」と強調。
説教の最後に、「私たちは最後の瞬間に、一般的な愛によって裁かれるのではなく、まさに慈愛によって裁かれることになります」と語られ、イエスの言葉を引用して次のように締めくくられた― 「よく言っておく、この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイ福音書25章40節)。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)
Pope Francis greets the elderly during the World Day for Grandparents and the Elderly, 2023 (Vatican Media)
(2024.5.14 Vatican News Sr. Francine-Marie Cooper, ISSM)
教皇フランシスコは14日、7月28日の第四回「世界祖父母と高齢者の日」に向けたメッセージを発表され、世界の多くの高齢者たちが今おかれている状況を踏まえて、「神は決してご自身の子供たちを見捨てたりはしません」と言明された。
第四回となる今年のテーマとして、教皇は詩編の中から、「老いた時、私を見捨てないでください」(詩篇 71章9節 参照)という心からの訴えを選ばれた。
メッセージで教皇は、「神は決してご自身の子供たちを見捨てたりはしません」と、世界の祖父母、高齢者たちを励まされ、さらに、「あなたがたは、霊の家の建設に参加するために、新しい石を置くことのできる『堅固な基礎』(ペトロの手紙1・ 2章5 節参照)」と語られた。
*高齢者の孤独への恐れ
そして、「聖書には、『人生のあらゆる段階における神の近さへの確信』と、『老年期や苦しみの時に見捨てられることへの恐怖』の両方が書かれていますが、これらの言葉は、明白な現実を反映している… 高齢者や祖父母としての私たちの生活には、孤独が暗いものとして付きまとうことがよくあります」と指摘。「この孤独には多くの理由があります。多くの場所、特に貧しい国では、子供たちが強制移住させられているため、高齢者が孤独を感じている」とされ、戦争で荒廃した国に取り残された高齢者の状況を、「放棄と死が最も支配的であるように見える地域での唯一の生命のしるし」とされた。
また、「高齢者を『若者の生命力を奪うために魔術を使っている』と疑い、若者たちに影響を与える運命の責任を負わせる、世界の一部地域の文化の風潮」を非難され、「高齢者が『若者の未来を奪っている』という非難は、今日どこにでも存在します。最も先進的な社会においてさえ、別の装いで現れています」と指摘された。
*高齢者の人生を巡る”陰謀”
今回選ばれたテーマに関連して教皇は、テーマに引用した詩編の箇所(71節)は「高齢者の人生をめぐる”陰謀”について述べています」とされ、「高齢者の遺棄は偶然でも必然でもなく、政治的、経済的、社会的、そして個人的な決定など、『それぞれの人の尊厳を認めない決定』の結果。現代社会では、多くの女性と男性が、可能な限り独立した、他人から切り離された人生の中で個人的な充足を求めています。その中で、孤独と放棄は、今日の社会情勢において繰り返し起こる要素となっているのです」と語られた。
教皇は、旧約聖書ルツ記の1章から始まるナオミの物語を取り上げられた。
二人の息子と夫に先立たれ、年老いたナオミは、息子たちの二人の嫁に、自分のもとを離れ、それぞれの実の母の家に帰るように言った。 ナオミは自分自身が重荷になっていると考えており、一人になるほうがいい、と思ったのだ。二人の嫁のうちの一人は彼女の言うことを聞いたが、教皇は、「もう一人の嫁、ルツは、『あなたを見捨て(るような)、ひどいことをさせないでください』(ルツ記1章16節)と言いました。ルツは、習慣や伝統的な思考パターンに挑戦することを恐れなかったのです」と指摘された。
メッセージの締めくくりに教皇は、「孤独と放棄につながる自己中心的な態度の代わりに、『私はあなたを捨てません』と言う勇気を持つ、広い心と喜びに満ちた顔で、別の道を歩み始めましょう」と世界の全ての人に呼びかけられ、愛する祖父母や高齢者、皆の近くにいるすべての人たちに祝福と祈りを贈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
*カトリック中央協議会による全文訳は次の通り。
第4回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ 「老いの日にもわたしを捨て去らないでください」(詩編71・9参照))
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
神は決してご自分の子らを見捨てません。齢(よわい)を重ね力が衰えようとも、髪が白くなって社会での役割が少なくなろうとも、活動の生産性が下がって無駄として見られかねないとしても、そうなのです。神は外見には目をお向けにならず(サムエル上16・7参照)、多くの人には大したことはないと映る人を選ぶことに躊躇しません。神はどんな石も捨てません。それどころか、もっとも「古くなった」石が、「新しい」石の乗る確かな土台となることで、霊的な家をともに建てるのです(一ペトロ2・5参照)。
聖書は全体として、主の忠実な愛の物語です。この愛から、慰めの確信が生まれるのです。神は、人生のいかなるときも、わたしたちがどのような状況にあろうとも、たとえ裏切っていたとしても、いつでも、ご自分のあわれみを示し続けておられます。詩編は、取るに足らないわたしたちを顧みてくださる神を前にした、人間の心にわく驚きに満ちています(詩編144・3−4参照)。神がわたしたち一人ひとりを母の胎内に組み立ててくださったこと(詩編139・13参照)、そして、陰府(よみ)にわたしたちのいのちを渡すことはないこと(詩編16・10参照)を、詩編は保証しています。ですからわたしたちは、老年期にも神は寄り添ってくれる、ますますそばにおられると確信できます。聖書では、老いは祝福のしるしだからです。
けれども詩編には、主への心からの願いも記されています。「老いの日にもわたしを見放さないでください」(詩編71・9参照)。切実で、直截な表現です。十字架上で叫ばれた、イエスの極限の苦しみが思い浮かびます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。
つまり聖書の中には、人生のどの年代においても神が近くにいてくださるという確信と、そしてまた老年期や苦しいときに強まる見捨てられることへの恐怖との、両方が見いだせるのです。ここに矛盾はありません。周囲を見渡せば、これらのことばが現実をありありと映し出していることがすぐに分かります。わたしたち高齢者、また祖父や祖母の生活には、いやでも孤独がついて回ります。わたしがブエノスアイレスの司教であったとき、老人ホームを訪問する機会がしばしばあり、ホームの人たちにはほとんど面会が来ないことを知りました。何か月も家族と会っていない人もいました。
この孤独にはさまざまな理由があります。多くの国で、とくに貧しい国々では、子どもたちが移住せざるをえなくなるため、高齢者が独りぼっちになってしまうのです。ほかに、たくさんの紛争状況も思い浮かびます。どれほど多くの高齢者が取り残されているでしょうか。男たちは、若者も大人も戦場に駆り出され、女たちは、なかでも小さな子どもを抱えた母たちは、子の身の安全のために国を離れるからです。戦争で荒廃した町や村には、多くの高齢者が取り残されています。捨て置かれ、死が支配しているような地域では、彼らは唯一の生存者です。また世界の別の場所では、その土地の何らかの文化に深く根をもつ誤った俗信があり、高齢者に対する敵意を生んでいます。高齢者は魔術を使って若者の活力を奪っているとされ、若者が早死や病気、その他の不幸に見舞われると、その原因は高齢のだれかのせいにされています。このような考え方は根絶しなければなりません。こうした根拠のない迷信のたぐい――キリスト教の信仰は、そうしたものから解放してくれます――は、依然として若者と高齢者の世代間対立をあおり続けているのです。
しかし考えてみれば、高齢者が「若者から未来を奪う」というこの非難は、最近ではどこででも見られます。先進的で近代化した社会にさえ、それは別のかたちで現れています。たとえば、高齢者が必要とする社会サービスの費用を若者に背負わせることで、国の発展のための資金、ひいては若者のための資金を吸い取っている、という考え方が広まっています。この現状認識は歪んでいます。高齢者の生存が若者の生存を危うくしているとでもいわんばかりです。若者を支援するには、高齢者をないがしろにする、あるいは抹殺することが必要だといわんばかりです。世代間対立は錯誤であり、敵対文化に毒されていることの産物です。老人と若者を対立させることは、容認できない一種の操作です。「世代間の一体性が危険にさらされています。つまり、人間のいのちをその全体の中で理解し、大事にするための真の評価基準が揺らいでいるのです」(教皇フランシスコ「老齢期についての連続講話1.時の恵みと世代間交流(2022年2月23日)」)。
先に引用した詩編――老いても捨て去らないでくださいと願う箇所――は、高齢者の生活を巡る陰謀を取り上げています。大げさに思えるかもしれませんが、高齢者の孤独や切り捨ては偶然でもやむをえないものでもなく、むしろ、「あらゆる環境、状態、各人が遭遇するいかなる状況をも超えて所持」(教理省宣言『無限の尊厳』1[Dignitas infinita])する一人ひとりの無限の尊厳を認めない、政治的、経済的、社会的、個人的選択の結果だと考えればお分かりでしょう。ひとたび個々人の価値が見失われると、人間はただのコストと化し、場合によっては割に合わないとみなされてしまうのです。さらに悪いことに、高齢者自身がこうした考え方に支配されてしまうこともしばしばで、自分たちは重荷なのだと考えてしまい、率先して身を引くべきだと感じるようになるのです。
他方、今日は、多くの人が、できるだけ自足した、他人と接点のない生活において自己実現を図ろうとしています。仲間意識が危機に瀕し、個人主義がもてはやされています。「わたしたち」から「わたし」への流れは、現代を顕著に表すものの一つです。家庭は、自分の力だけで自分を救うことができるという考え方に対する、第一の、そしてもっとも基本的な反証であり、こうした個人主義的な文化の犠牲となっているものの一つです。けれども歳を取り、次第に力が衰えていけば、だれも必要ではない、人とのつながりなしに生きていける、という個人主義の幻想は、その実態を露呈することとなるのです。まさに、自分には何もかもが必要になっていると気づいても、もはや独りとなっていて、助けもなく、頼れる人もいないのです。多くの人が、手遅れになってようやく気づく厳しい事実です。
孤独や切り捨ては、今日の社会情勢においては頻繁に見られる事象となっています。その原因は複数あります。計画的な排除、嘆かわしいある種の「社会の陰謀」の結果である場合もあれば、痛ましいことに個人の決断ゆえである場合もあります。さらに、それがあたかも自らの自由意思による選択であるかのようにさせられている場合もあります。わたしたちはますます「兄弟愛の味わいを失って」(回勅『兄弟の皆さん』33)、孤独以外の状況を思い描くことすら難しくなっています。
多くの高齢者に、ルツ記に記されているようなあきらめの気持ちが見て取れます。夫と息子らを亡くした老齢のナオミが、二人の嫁オルパとルツに、自分の生まれ故郷に、実家へと帰るよう勧める様子が語られています(ルツ1・8参照)。ナオミは、現代の多くの高齢者と同じように、独りになるのを恐れていますが、そうならないことは想像できません。やもめである自分は、社会から見れば価値のない存在だという自覚があり、自分と違って前途ある二人の若い女性にとって、自分は重荷なのだと考えています。だから彼女は身を引くほうがいいと考え、若い嫁たちが自分のもとを去り、別の地で未来を築くよう勧めます(ルツ1・11−13参照)。彼女のことばは、当時の厳格で、行く末を決定づける、社会的・宗教的慣習を反映しています。
聖書の記述はここで、ナオミの勧めに対する、つまりは老いた人に対する、二つの異なる選びを示します。二人の嫁の一人、オルパもナオミを愛していますが、彼女に愛を込めて接吻し、自分にとってもそれが唯一の解決策と思えるものを受け入れ、己の道を行きます。ところがルツはナオミのそばを離れず、驚くようなことばを告げます。「あなたを見捨てるなどと……そんな……ことを強いないでください」(ルツ1・16)。ルツは、慣習や常識に立ち向うことを恐れません。年老いた女性が自分を必要としていることを感じ取り、勇気をもって彼女のそばにとどまります。そうして二人の新たな旅路が始まるのです。孤独は避けられない定めだという考えに慣らされているわたしたち皆に対し、ルツは教えます。「わたしを見捨てないで」という願いに、「わたしはあなたを見捨てません」と答えることは可能だと。ルツは、どうにもならないと思える現実を臆することなく覆します。孤独に生きることだけが、唯一の選択肢ではないのです。年老いたナオミのそばに残ったルツが、メシアの祖先であるのは偶然ではありません(マタイ1・5参照)。メシアであるイエスこそが、インマヌエル、「わたしたちとともにいる神」であり、あらゆる境遇、あらゆる年齢の、すべての人に、神の近しさと寄り添いをもたらすかたなのです。
ルツの自由と勇気によって、わたしたちは新しい道へと導かれます。彼女の道に従いましょう。この若い異邦人の女性と年老いたナオミとともに旅をしましょう。今の習慣を変えることを恐れず、わたしたち高齢者のために、違う未来を想像しましょう。たくさんの犠牲を払いながら、ルツの模範を実践して高齢者の世話をする人、また一緒に生活する人のいない親戚や知人に日常的にそっと寄り添いを示している人、皆さんに感謝の意を表したいと思います。ナオミのそばにいることを選んだルツは、幸せな結婚をし、子をもうけ、新たな家を得る恵みを受けました。これはいつも、だれにでも当てはまることです。高齢者に寄り添うこと、彼らの、家庭、社会、教会でのかけがえのない役割を認めることで、わたしたち自身も多くのたまもの、多くの恵み、多くの祝福を受けるのです。
この第4回祖父母と高齢者のための世界祈願日には、祖父母や高齢の家族に、優しい愛を示しましょう。自信を失い、別の未来が可能だという希望をもてずにいる人々を訪ね、ひとときをともにしましょう。切り捨てや孤独につながる自己中心的な態度に抗し、「わたしはあなたを見捨てません」と臆することなくいって別の道を歩む人の、開かれた心と喜びの顔を示しましょう。
親愛なるすべての祖父母と高齢者の皆さん、そして皆さんに寄り添うかたがたに、祈りとともに祝福を送ります。皆さんもどうか、わたしのために祈ることも忘れないでください。
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2024年4月25日 フランシスコ
第4回「祖父母と高齢者のための世界祈願日(2024年7月28日)」の祈り(日本では2024年9月15日*)
主なる神、誠実なかた、
あなたは、わたしたちをご自分の似姿としてお造りになりました。
わたしたちを決して独りにすることなく、
人生のいかなる時も、ともにいてくださいます。
わたしたちを見捨てず、見守ってください。
わたしたちが自分自身を見いだし、
あなたの子であると思い起こさせてください。
みことばによってわたしたちの心を新たにし、
だれひとり見捨てられることがないようにしてください。
愛の霊が、あなたの優しさでわたしたちを満たしてくださいますように。
旅の途中に出会う人に、
「あなたを見捨てません」と言えるよう教えてください。
愛する御子の助けによって、
わたしたちが友愛の心を失わず、
孤独の悲しみに屈することがありませんように。
新たな希望をもって未来に目を向けることができるよう助けてください。
「祖父母と高齢者のための世界祈願日」を、
孤独のない一日、
あなたの平和の初穂に満ちた一日としてください。
アーメン。
(2024年7月19日 日本カトリック司教協議会常任司教委員会認可)*2023年7月の第1回臨時司教総会で、日本では9月の「敬老の日」の前日に移動することが承認されました。
教皇フランシスコとローマ教区の司祭との集い 2024年5月14日 ローマ、サン・ジュゼッペ・アル・トリオンファーレ教会
(2024.5.14 バチカン放送)
教皇フランシスコは14日、ローマ市内の教会でローマ教区の叙階40年以上の司祭たちとの集いを持たれ、祈りに続くあいさつで、「『記憶の証し人』となり、若々しい勇気を出し合って、皆で前に進みましょうい」と励まされた。
集いは、バチカンに近い、ローマ市内トリオンファーレ地区の聖ヨセフ教会(サン・ジュゼッペ・アル・トリオンファーレ)の司祭館で行われ、ローマ教区で働く、叙階40年以上の司祭らおよそ70名が参加した。
意見交換では、ローマ教区とその小教区における取り組みなど、司牧的テーマが中心となり、教皇は、「小教区の主任司祭と、社会の中で司牧する司祭たちの奉仕の価値」を強調。「『群』を率いるためには『優しさ』が必要。人々は司牧者の優しさを知る時に、近づいて来ます」と話された。
さらに、「赦しの秘跡や、教区の巡礼聖堂における仕事」なども意見交換のテーマとなり、高齢の司祭たちの問題として、「人々の間で長年奉仕した後の孤独」「変化に対応するための苦労」「祈りによって克服する苦悩」「神に対する愛の思い出」「聖母への子としての愛」などが取り上げられた。
教皇は、「高齢の司祭と若い司祭との絆の重要性」を繰り返し説かれた。
約2時間の対話の終わりに、教皇は参加者らに感謝を述べ、これからも祈り続け、教会を導き見守って欲しいと願われた。司祭一人ひとりに挨拶された教皇は、初聖体を準備する70人の子どもたちや、近くの聖ヨセフ学園の生徒約100名、そして数百人の信者たちともお会いになった。
ローマ教区の声明によれば、このところ行われていたローマ教区内のブロック別訪問を完了された教皇は、今後は叙階年数ごとにグループに分けながら、司祭たちとの出会いを継続されるという。
(編集「カトリック・あい」)