Pope Francis prayed at the Peace Memorial Park in Hiroshima on November 24, 2019 (AFP or licensors)
(2024.8.11 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは11日の正午の祈りに続いて、広島、長崎の原爆投下による犠牲者をはじめ、今も戦争で引き裂かれている国・地域における犠牲者たちのために祈るよう、呼びかけられた。
教皇はこの祈りで、第二次世界大戦の終結直前に、日本の広島と長崎に原爆が投下された記念日を6日と9日に迎えたことを思い起こされ、さらに、今も続く、ウクライナ、バレスチナ・イスラエル、スーダン、そしてミャンマーなどすべての戦争の犠牲者のために祈るように、またこれらの国・地域の速やかな和平の実現を「力を込めて」祈るように求められた。
また9日にブラジル・サンパウロ州で起きた旅客機墜落で亡くなられた61人のためにも祈られた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.8.9 Vatican News Isabella Piro)
教皇フランシスコは イエズス会中国管区のペドロ・チア広報部長とのインタビューで、中国は「偉大な民族」であり「その遺産を無駄にしてはならない」と強調。同国への訪問を希望していることを改めて表明された。
*特に聖母マリアの佘山聖堂への訪問を希望
教皇は中国、特にキリスト教徒の助け主である聖母マリアに捧げられた松江区の佘山聖堂への訪問を希望され、「現地の司教たちや信仰深い神の民に会いたい。彼らは信仰深い民です… 多くのことを経験し、信仰を守り続けてきました」と語られた。
*忍耐強く待つ人々に希望のメッセージを送る
また、中国の若いカトリック教徒について、「希望の達人であり、忍耐強く待つ人々に対して希望のメッセージを送ることは、私にはエールの交換のようにも思われますが、とても素晴らしいことです」と指摘。そして、 中国の人々は「偉大な人々」であり、「自分たちの遺産を無駄にしてはなりません… 自分たちの遺産を、忍耐強く、引き継がなければならない」と強調された。
*批判と抵抗は、建設的でなくても、常に役に立つ
就任から10年を超える教皇職について尋ねられた教皇は、「バチカンの高官や全ての人々と力を合わせ、耳を傾け、協議しながら、務めを果たしてきました」と述べ、様々な批判を受けてきたことに対しては「批判は、たとえ建設的でなくても、常に役に立ちます… 常に有益であり、自分の行動を振り返るきっかけとなります」とされた。
そして、「抵抗の背後にさえ、時には良い批判があることがあります。時には、痛みもありますが、耐えることが求められます。例えば、今起きている、教会に対する『小さなグループ』からの抵抗に遭った時などがそうです。それでも、困難や絶望の瞬間は、常に主の慰めによって解決されるのです」と語られた。繰り返した。
*戦争とその他の課題
また、これまでの教皇職で直面した多くの課題の中で、特に、「新型コロナの世界的大感染」と、今も続く「ウクライナ、ミャンマー、中東での戦争」を挙げられ、 「私は常に対話を通じて問題を解決しようと努めています… それがうまくいかないときは、忍耐とユーモアのセンスを持って、聖トマス・モアの教えに従います」と語られた。
*イエズス会士として危機は人間として当然。克服の方法は
さらに、イエズス会士としての活動でいくつかの「危機」を経験したことを思い起され、「これらは(人間として)当たり前のことです。そうでなければ、私は人間ではない」とされたうえで、「危機は2つの方法で克服できます。それは”迷路”を乗り越えて”頂上”から脱出することですが、決して一人で抜け出すのではなく、助けや付き添いを得て抜け出すこと。なぜなら、助けを受けることがとても重要だからです… そのために私は、主に『赦しの恵みをくださいますように、私に忍耐してくださいますように』と願っています」と述べられた。
*イエズス会の四つの使徒的優先事項
教皇はまた、2019年にイエズス会の今後10年間に優先すべきこととして概説された四つの「普遍的な使徒的優先事項」について触れられた。その四つは、霊操と識別、貧しい人々や疎外された人々と共に歩むこと、希望の未来を創る若者への伴走、”私たちの共通の家”-地球ーへの配慮だ。教皇は、これらは切り離すことのできない、四つの統合された原則です。伴走、識別、宣教活動がイエズス会の礎なのです」と強調された。
*聖職者主義と世俗主義
教会の将来に目を向けられた教皇は、「一部の人々は、教会はますます”小さく”なり、聖職者主義と霊的世俗主義の疫病に陥ることのないように、注意する必要があることを。私に思い起こさせてくれます。故アンリ・ド・リュバック枢機卿は『(聖職者主義と霊的世俗主義の疫病は)教会を苦しめる最もひどい悪であり、放蕩な教皇の時代よりもさらにひどい』と語っておられます」と述べた。
インタビューの最後に、教皇は、「ペトロの座を継承する者が誰であろうと、祈ることの重要性に変わりはありません。主は、祈りの中で語られるからです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Aftermath of Israeli strikes in Deir Al-Balah in the central Gaza Strip (REUTER
(2024.8.7 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは7日の水曜恒例の一般謁見で、中東での紛争の即時停止を当事者たちに強く訴えるとともに、ウクライナ、ミャンマー、スーダンでの速やかな平和の実現を祈り、パキスタンとアフガニスタンでの民族差別を終わらせるためにさらなる努力と祈りを呼びかけられた。
教皇はまず、「平和への真摯な探求が争いを鎮め、愛が憎しみに打ち勝ち、復讐が赦しによって無力化されることを祈ります」と語られた。
そして、紛争拡大が強く懸念される中東情勢を「大きな懸念をもって、引き続き注視しています」と述べ、ガザをはじめとしたあらゆる面での即時停戦を繰り返し訴えるとともに、「ガザの人道状況は非常に深刻で、持続不可能です」と強調された。
*ウクライナ、ミャンマー、スーダンの平和実現のために
また、多くの”殉教者”を出し続けている「ウクライナ、ミャンマー、スーダンの戦争で人心を荒廃させられている人々」のために祈るように、信者たちに求められた。
2014年のロシアによるクリミアの違法併合、それに続くドンバス紛争、そして2022年のウクライナへの全面侵攻以来、ウクライナでは数十万人が殺害または負傷させられ、数百万人の民間人が避難を余儀なくされている。
ミャンマーでは、2021年2月に国軍が民主的に選出された政府をクーデターによって打倒した後、内戦が続いており、少なくとも5万人が死亡し、約230万人が避難を余儀なくされている。
またスーダンでは、2023年4月から軍事勢力間の争いが続いており、少なくとも1万3000人から1万5000人が死亡、33,000人以上が負傷している。国内避難民は約770万人、さらに200万人以上が国外に避難している。
教皇は「戦争で試練を受けているこれらの国の人々が、速やかに平和を得ることができますように」と祈られた。
*パキスタンとアフガニスタンでの民族差別撤廃を訴え
さらに、教皇は、「パキスタンとアフガニスタンの地域での民族差別、特に女性に対する差別がなくなるように」と祈りと共に、現地の政治指導者など関係者たちの努力を求められた。教皇はこの日の一般謁見の前に、イタリアのアフガニスタン人コミュニティを代表する小規模なグループと会見されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis smiles at pilgrims at the weekly General Audience (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.8.7 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは7日、夏季休暇を終えられ、水曜恒例の一般謁見を再開された。
そして、「聖霊について」の連続講話も再開され、「聖霊による御言葉の受肉」をテーマに、イエスが「聖霊によって聖母マリアから受肉し、人間となった」という私たちの信条の確認から始められた。
教皇は、「これはキリスト教会全てに一致する信条です。すべてのキリスト教徒が同じ信条を共に公言しているからであり、それは、日々のお告げの祈りという伝統的なカトリックの信心業に反映されています」説かれた。
そして、「これは、聖母マリアと教会を比べ合わせる根拠にもなります。第二バチカン公会議でも取り上げられましたが、聖母マリアが処女懐胎し、キリストをお生みになったように、教会も『信仰をもって神の言葉を受け入れ、自ら母となる』ことでキリストを迎え入れます」とされ、「まず神の言葉を受け入れなければ、教会の『活動と説教』は不毛になってしまいます」と指摘された。
続けて教皇は、受胎告知を受けたマリアの「どうして、そのようなことが可能なのですか」という問いかけについて考察された。「教会も、同じ問いかけをしています。『この世の幸福だけを求めているように見える世界に、イエス・キリストとその救いを宣べ伝えることがどうして可能なのですか』と」。
そして、その答えとして、使徒言行録にある「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける」(1章8節)というイエスの使徒たちへの言葉は、「当時も今も変わらない。聖霊から力を受けなければ、教会は前に進むことができず、成長できず、説教もできません」と強調。
さらに、「教会について言われていることは、洗礼を受けたすべての人にも当てはまります」とされ、私たちが自分の力を超えた状況に陥ったとき、天使がマリアに語った「聖霊が降り、いと高き方の力があなたを覆う… 神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章35~37節)という言葉を思い起し、この励ましの言葉に力を得て、旅を再開するように」と説かれ、この天使の言葉を信じるなら、「私たちは奇跡を起こすでしょう。神にとっておできにならないことは、何一つありません」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.8.5 Vatican News Christopher Wells)
ローマの「聖マリア大聖堂」の献堂を記念する5日、教皇フランシスコは同大聖堂で夕べの祈りに参加され、戦争で荒廃している世界の平和を祈られた。
この大聖堂は、もともとは教皇リベリウス(在位352-366)によって建設された。伝承によれば、385年の8月4日から5日にかけての夜、「ジョヴァンニ」という名のローマの貴族と教皇リベリウスの夢に聖母が現れ、「しるしによって示す場所に教会を建てるように」と勧め、翌朝、真夏にもかかわらず、エスクィリーノの丘には雪が積もっていた。教皇は、積雪の形に沿って外郭を定め、同じ夢を見たジョヴァンニの協力を得て、西洋最古の聖母巡礼地となる教会を建てた。約100年後、教皇シスト3世(在位432-440)が聖堂を修復・再建し、8月5日をその献堂の日とした。この献堂の祭日が早くから祝われていたことは、5世紀の『ヒエロニムス殉教者暦』などの史料からも明らかになっている
教皇は説教で、奇跡的な降雪の「驚異」と「驚き」を強調し、その素晴らしさと無償性から「恵みの象徴」とされ、「恵みは当然ながら、自分で得ることはできず、買うこともできません。賜物として受け取るしかありません… ですから、ローマの真夏の降雪のように、まったく予測不可能です」と述べられた。
そして「このような受け止め方をすれば、大聖堂に関係する重要な『しるし』、つまり聖母マリアの聖画像、Salus Populi Romani すなわち『ローマの人々の救い』を理解することができます」と語られ、この聖母マリアと幼子の像が「宗教の領域に常に潜んでいるあらゆる神話的、魔術的、霊的装いが剥ぎ取られた、具体的な形での恵みを表現しています… つまり、すべての時代の前に選ばれ、降りたての雪のように汚れのないマリアと、その幼子にのみ、神性の豊かさのすべて宿っているのです」と強調された。
さらに、「これが、信者たちが神の聖母に祝福を求めに来る理由です。なぜなら、聖母は聖霊の働きによって常にイエス・キリストを通してのみ得られる恵みの仲介者だからです」と説かれた。
また教皇は、5日の祝祭に参加した人々は、ローマと全世界のためにマリアの執り成しを願いながら、来年の聖年のためにローマに来る多くの巡礼者たちに先駆ける、一種の「先鋒」になっている、と指摘され、「巡礼者たちは特別な方法で、『真の平和』の賜物を求め、マリアに執り成しを求めます。そして、『真の平和』は、『悔い改め赦された心』、『キリストの十字架から来る平和』、そして『キリストが私たちの罪の赦しのために流された血から来る平和』によってのみ、もたらされるのです」と強調された。
最後に教皇は、聖母マリアに語りかけアレクサンドリアの聖キリルの言葉で説教を締めくくりられた―「神の聖母マリアよ、光の担い手、汚れのない器よ。母であり侍女である聖母マリアよ、おとめよ、あなたから生まれた神の御名のために。母よ、あなたが腕に抱いた神の御名のために… おとめよ、マリアよ、あなたは全世界で最も尊い存在です… 消えることのない灯火よ。あなたから正義の太陽が生まれたのです。神の聖母よ、私たちのためにお祈りください」。
(2024.8.4 Vatican News Michele Raviart )
中東での新たな戦乱の危機が迫る中で、教皇フランシスコは4日、年間第18日の正午の祈りで、聖地での平和を呼びかけ、暴力を非難するとともに、ベネズエラでの対話を促し、インドの洪水被害者のために祈り、新たに列福されたレバノン人のステファノ・ドゥアイを称えられた。
*中東での血なまぐさい紛争をこれ以上拡大するな
教皇は中東情勢と、紛争がガザとイスラエルから他の国々に広がる恐れが強まっていることを強く懸念され、「すでに特に暴力的で血なまぐさい紛争がこれ以上拡大しない」よう切望されている。
この日の正午の祈りに続いて、教皇は、すべての犠牲者、「特に罪のない子供たち」と「パレスチナ、イスラエル、レバノンの人々」のために祈りを捧げ、先週ロケット弾攻撃で、サッカー場で遊んでいた12人の子供と若者が死亡した聖地のドゥルーズ教徒のコミュニティに哀悼の意を表された。そして、紛争当事者たちに「ガザとすべての前線での戦闘がの即時停止と、人質解放のために、対話を再開する勇気」を求め、「爆撃、殺人、暴力は何の役にも立ちません」と強調された。
さらに、「標的を絞った攻撃、殺人は、決して解決にはならない。正義の道、平和の道を歩む助けにはならず、憎しみと復讐をさらに生み出すだけです。兄弟姉妹の皆さん、もうたくさんです!もうたくさんです!平和の神の言葉を押し殺してはならない。平和を聖地、中東、そして全世界の未来にしましょう!戦争は敗北です!」と強く訴えられた。
*ベネズエラで当事者全員が真実を求める必要
また教皇は、マドゥロ大統領の再選をめぐる争いから「危機的な状況に直面している」ベネズエラの情勢に懸念を表明され、「私はすべての当事者に、真実を求め、自制し、あらゆる種類の暴力を避け、対話を通じて紛争を解決し、党派的利益ではなく国民の真の利益に配慮するよう心から訴えます」と述べられた。
*インドにおける豪雨の被害者たちに祈りを捧げる
教皇は、インド、特に「豪雨に見舞われ、多数の土砂崩れを引き起こし、死者、多数の避難民、そして甚大な被害をもたらした」ケララ州の人々にも思いを寄せられ、「命をなくした人々と、このような壊滅的な災害の被害を受けたすべての人々」のために祈るよう、すべての人に呼びかけられた。
*ベイルート港爆発の被害者に対する正義と真実
先週金曜日にレバノンで行われたマロン派の故ステファノ・ドゥアイ総主教の列福式を思い起こされた教皇は、ドゥアイ総主教が1670年から1704年までマロン派教会の指導者だった時期は「迫害を特徴とする困難な時代」であり、そうした中で「信仰の教師であり勤勉な牧者でもあった彼は、常に人々の傍らにいて希望の証人でした」と称えたうえで、「今日でも、レバノンの人々は大きな苦しみを味わっています。特に、ベイルート港爆発の犠牲者の家族のことが、私の頭に浮かびます。正義と真実がただちに実現するように」と願われた。
また、4日は、聖ヨハネ・ビアンネを偲ぶ日であり、一部の国で教区司祭の祝日が祝われるが、教皇は「熱意と寛大さをもって、時には多くの苦しみの中でも、神と人々に身を捧げるすべての教区司祭」に親しみと感謝の意を表された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ、高齢者と若者の集いで 2024年4月27日 バチカン・パウロ6世ホール (Vatican Media)
(2027.7.28 バチカン放送)
カトリック教会の「第4回祖父母と高齢者のための世界祈願日」が28日、世界中で記念された(日本の教会は9月15日)。教皇フランシスコは同日の正午の祈りで、今年の祈願日のテーマ「老いの日にも、見放さないでください」(詩編71章9節参照)を紹介され、「『高齢者を見放す』という、悲しむべき現実を、決して当たり前のことにしてはなりません」と強調された。
教皇は、特にこの夏の日々は「多くのお年寄りたちにとって、孤独は耐えがたい重荷になりがちです」と指摘。
この日記念された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、「『私を見放さないでください』というお年寄りたちの声に耳を傾け、その声に対して『私はあなたを見放すことはありません』と答えるように、私たちに求めています」と語られた。
そして、「孫と祖父母、若者とお年寄りとの絆を強めるように」と信者たちに勧められた教皇は、「『高齢者たちの孤独』に『ノー』と言いましょう!」とアピール。「私たちの未来は、祖父母と孫たちが共に生きることをいかに学ぶかにかかっています… お年寄りたちを忘れてはなりません」と強調された。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.7.28 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは28日の年間第17主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた「パンと魚の奇跡」を語る福音を振り返られ、主が日々、私たちに与えてくださる恵みの奇跡を味わい、感謝するよう、全ての信者に呼びかけられた。
説教で教皇は、この「パンと魚の奇跡」の場面で、イエスが最後の晩餐でなさった3つの行為、すなわち「捧げる」「感謝する」「分かち合う」がされていることを指摘され、「これらがすべて聖体の儀式で行われる行為であること」を思い起こされた。
まず「捧げ物」について、教皇は、「このポイントは、私たちが自分の持っている何か良いものを差し出すよう求められていることを認識し、それが、必要とされているものよりも少なすぎるとしても、『はい』と答えることです」と指摘。「ミサで司祭が祭壇でパンとワインを捧げ、それぞれが自分自身、自分の命を捧げるときに、このことが強調されるのです」と語られた。
そして、「何千人もの群衆の前で5つのパンと2匹の魚を捧げるのと同じように、人類が必要としていることの膨大さを考えると、私たちのできることは小さな行為に思えるかもしれません。しかし、神はそれを大きな奇跡の材料になさる。つまり、主が世界を救うために私たちの間に、自らを現される、ということです」と説かれた。
次に「感謝」について、教皇は、「神が私たちを祝福してくださったことを喜ばなければなりませ」とされ、「私たちは謙虚に、そして喜びをもって、主に言うべきです―『私が持っているのは、あなたの賜物だけです。あなたに感謝するために、あなたがくださったものに、あなたの息子イエスと共に、私ができる限りのものを付け加えながら、あなたにお返しすることしかできません。それが、私のかすかな愛です』と」と語られた。
さらに、これが「祝福」の瞬間であり、私たちが神の素晴らしさを讃える瞬間であると認識し、「神が私たちの脆弱な努力の『2枚の銅貨』を聖別し、倍増させてくださるのです」と述べられた。
最後に、「分かち合う」ことについて、教皇は、ミサで私たちが共に祭壇に近づき、キリストの体と血をいただくとき、「賜物の果実が、主によって、すべての人の食物に変えられる」ことを思い起こされ、これは「素晴らしい瞬間」であり、「愛のあらゆる行為を恵みの賜物として生きること、与える者にとっても受け取る者にとっても、兄弟姉妹として共に成長し、慈愛においてさらに結ばれる機会として生きること」を私たちに教えてくれる、と語られた。
教皇は、以上のことを念頭に置かれながら、信者たちに、いくつかの質問を自分に投げかけるように求められた。
「自分は神の恵みによって、兄弟姉妹に与える特別な何かを持っている、と本当に信じているだろうか?それとも、自分は匿名の、『大勢の中の一人』だと感じているだろうか?」「神が絶えず愛を現す賜物に対して、自分は神に感謝しているだろうか?」。そして、「自分は、他者と分かち合うことを、出会いと相互の豊かさの瞬間として生きているだろうか?」と。
教皇は最後に、聖母マリアに対して、私たちが信仰をもっていつも聖体祭儀に参加し、神の恵みの「奇跡」を認識し、日々、「味わう」ことができるように、助けを願われて、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り (ANSA)
(2024.7.21 バチカン放送)
教皇フランシスコは21日、年間第16主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読、マルコ福音書の、イエスが、宣教から戻った弟子たちに、人里離れた所へ行ってしばらく休むようにと命ずる一方で、ご自分のもとにやって来る群衆の、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れむ場面(6章30-34節)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
**********
今日の典礼の福音は、宣教から戻った使徒たちがイエスのもとに集い、自分たちが行ったことを報告する様子を語っています。
そこでは、報告を聴かれたイエスが彼らに「あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われましたが、人々は彼らの動きに気づいてしまった。彼らが舟から上がった時、イエスは大勢の群衆を目にし、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れみ、彼らに教え始め(34節参照)られます。
ここには、イエスの弟子たちに「休息」を取るように、との招きの一方で、イエスの群衆に対する「憐れみ」があります。休息と憐れみ、これらは二つの相入れない事柄のように見えますが、実は互いに関係しています。これについて考えてみましょう。
イエスは弟子たちの疲れを心配されました。おそらく私たちの生活や使徒職にありがちな危険を感じておられるのかもしれません。
たとえば、宣教や仕事を進める上での熱心、託された役割や課題が、私たちを”活動主義”の犠牲者にしてしまうことがあります。やるべきことや、その結果で、頭をいっぱいにしてしまいます。すると、心が乱れ、本質を見失い、エネルギーを消耗し、心身の疲労に陥ることになるます。これは忙しさに囚われがちな私たちの生活や社会、また教会や司牧奉仕に対する、警告です。私たちは”すべきことの独裁”に注意せねばなりません。
同時に、イエスが勧める「休息」は、「この世からの逃避」や、「心地よい世界に引きこもること」ではありません。イエスは「休息」を弟子たちに勧めながら、迷える群衆を前にして「憐れみ」を覚えられるのです。こうして、私たちは福音から、「休息」と「憐れみ」という二つの現実が結びついていることを知ります。「休息」することを学ぶなら、「憐れみ」を持つことができるのです。
私たちの心が、「何かをしなければならない」という不安で憔悴しないなら、立ち止まって沈黙の祈りのうちに神の恵みを受け取ることができるなら、私たちは、他の人々に憐れみ深い眼差しを持ち、彼らが必要としていることを認識することができるのです。
自分に問いかけましょう。「私は一日の中で、立ち止まることができているだろうか?」「また主と共にいる時間を持つことができているだろうか?」「いつも何かすべきことに追われているだろうか?」「毎日の騒がしさや活動の中で、内的な『砂漠』をわずかでも見つけることができているだろうか?」
聖なるおとめマリアよ、私たちが日常的なあらゆる活動の中にあっても「聖霊のうちに休む」ことを知り、他者に対して快く応じ、憐れみを持つことができるように、お助けください。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.7.14 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは14日、年間第15主日の正午の祈りに先立つ説教で、「必要な物だけを持ってキリストに近づくように」と信者たちに呼びかけられ、「神の喜びと愛を十分に体験するには、私たち荷を重くし旅の邪魔になるだけの物を手放す必要があります」と説かれた。
説教で教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(6章7~13節「12人の弟子の派遣」)を取り上げられた。ここで、イエスは、弟子たちを福音宣教に派遣するにあたって、杖一本のほかは何も持たず、履物ははき、下着は一枚だけにするよう告げておられる。
教皇の説教の要旨は次のとおり(バチカン放送)
**********
今日の福音は、イエスがご自分の弟子たちを宣教に遣わされた時のことを語っています。イエスは弟子たちを二人ずつ組にして遣わされ、そして、必要な物以外は持っていかないように命じられました。
一緒に派遣され、必要な物だけを身に付けた、この弟子たちの姿を考えてみましょう。
福音は一人では告げるものではなく、共同体として共に告げるものです。そうするためには、節制が大切です。それは、物の使用における簡素さ、財・能力・才能の分かち合い、贅沢を慎むことなどであす。なぜそうすべきなのでしょう。それは自由であるため、皆が尊厳ある生活をし、活発に宣教に貢献できるように、必要なものを持てるようにするためです。
さらに、先入観や頑なさを捨て、考えや感情において節度を保つことが必要です。これらは無用に重い鞄のように、歩みを困難にし、妨げます。これに対し、検討や傾聴は、証しをより効果的なものもします。
家族や共同体の中で、たとえそれがわずかでも、神の助けによって、私たちが必要において満たされ、前に進み、皆が調和し、あるものを分かち合い、各自が何かを断念し、互いに支え合うなら、そこで何が起きるかを考えてみましょう( 使徒言行録4章32-35節)。言葉で表す以前に、すでに一つの福音宣教となります。なぜなら、それは日常の生活を通して、イエスのメッセージの素晴らしさを具現化しているからです。
そのように暮らす家族や共同体は、実際、自分たちの周りに愛にあふれた環境を生み出します。そこでは、信仰と福音に心を開くことが容易になります。そして、そこからは、よりよい形で、またより安心して再出発することができるのです。
これに対し、それぞれが自分勝手に振る舞い、物質的なことだけにこだわり、相手の話に耳を傾けず、自己中心主義と妬みが勝るなら、雰囲気は重苦しく、生活は難しくなり、出会いは喜びではなく、不安と悲しみと失望の機会に変わってしまうでしょう。
キリスト教的生活にとって、交わりと節度は重要な価値があります。あらゆるレベルで宣教的な教会のために不可欠な価値です。
では、ここで自分に問いかけてみましょう。「私は、福音を伝え、主との出会いから来る喜びと光を生活の場にもたらす味わいを感じているだろうか」「そうするために、開いた精神と寛大な心をもって、他の人々と考えや能力を分かち合いながら、彼らと共に歩む努力をしているだろうか」「節度ある生活スタイルを育み、兄弟たちの必要に配慮しているだろうか」。
使徒の女王、マリアよ、私たちが交わりと節度ある生活を通して、真のイエスの弟子、宣教者となれるようお助けください。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)