ウクライナ侵攻から1000日をしるすキャンドル 2024年11月19日 ウクライナ・キーウ (ANSA)
(2024.11.20 Vatican News Joseph Tulloch )
教皇フランシスコは20日の水曜恒例の一般謁見で、前日、ウクライナへの侵攻から1000日を迎えたのを受け 、今も続くウクライナの人々の苦しみを振り返り、謁見に参加したウクライナのオレナ・ゼレンスカ大統領夫人を激励。
ウクライナの大学生から寄せられ手紙を読み上げ、「この日は、侵攻がもたらした犠牲者と破壊、同時に全人類にとって恥ずべき災いを思い起こさせる」とされ、「私たちは、苦しむウクライナの人々と共に立ち、平和のために働くことを思いとどまってはならない… ウクライナの人々に寄り添い、平和を祈り求め、武力が対話に、対立が出会いに場を譲るように、働き続けなくてはなりません」と訴えられた。 。
*ウクライナの大学生の手紙を読み上げー「苦しみだけでなく、信仰の証しを」
教皇が読み上げられたウクライナの大学生からの手紙は、 冒頭で、「水曜日(一般謁見の日)、全世界に向けて、この恐ろしい戦争が1000日目を迎えたことを話す機会があるでしょう。どうかその時に、私たちの苦しみだけでなく、私たちの信仰の証しについても語ってください」と希望を述べた。
そして、「たとえ、つたない信仰でも、その価値は変わりません。それは復活されたキリストを痛ましい筆遣いで描くものです」とし、「ここ数日、自分の人生であまりにも多くの死を見ました。『逃げたい』『母の腕に抱かれた子どもに戻りたい』『沈黙と愛の中にいたい』と正直に思いました。しかし、この苦しみの中で、より多くの愛を学べることを、神に感謝したいと思います」と語っている。
最後に「苦しみが痛みを伴うのは、愛があるからです。ですから、私たちの苦しみを、1000日の苦しみを話される時、どうか1000日の愛についても話してください。なぜなら、ただ愛と信仰と希望だけが、この傷に真の意味を与えるからです」と訴えている。
教皇はこのウクライナの若者の手紙を紹介することを通して、皆と平和への思いを分かち合われた。
(編集「カトリック・あい」)
パレスチナ・ガザ地区北部から上がる煙 2024年11月17日
(2024.11.17 Vatican News)
2025年の聖年を前に、教皇フランシスコの新刊『希望はあざむかない。より良い世界を目指す巡礼者たち(仮訳)』が19日にイタリア、スペインと中南米諸国で、追って他の国々でも出版される。
原題を「La speranza non delude mai. Pellegrini verso un mondo migliore」(Edizioni Piemme刊)とするこの本の中で、教皇は戦争の避難民の状況について語りながら、パレスチナの飢餓について触れ、特にガザの状況について、”ジェノサイド”とされている実態を調査するよう希望されている。
この本で、教皇は戦争の避難民たちの受け入れについて語りながら、「中東において、ヨルダンやレバノンのように扉を開いた国々は、地域の紛争から逃れる無数の人々の救いであり続けている」とされ、「私は特に、飢餓が広がる中でガザを離れる人々を思う。この飢餓は、彼らの領土に食料や援助をもたらすことが難しい状況に直面する中で、パレスチナの兄弟姉妹たちを襲った」と述べた。
そして、教皇は「ある専門家たちによれば、ガザで起きていることは、”ジェノサイド”の特徴を持っているという。それが法学者と国際組織が主張している専門的な定義に当てはまるかどうか、注意深く調査する必要があるだろう」と続けている。
Pope Francis presides over Holy Mass for World Day of the Poor (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.11.17 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは17日、貧しい人々のための世界祈願日のミサでの説教で、貧しい人々の苦しみの中に神の存在を見、不正に対して、希望と慈悲を持って行動するよう呼びかけられた。
教皇はミサで読まれたマルコ福音書に記された終末論的なイメージを取り上げ、「今日もなお響き渡る深い苦しみ」から説教を始めた。
その箇所には次のように書かれている。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」。
教皇は「これは世界の苦悩を反映しています。飢饉、戦争、不平等、そしてそれに対する無関心です」と指摘。
*ソーシャルメディアが恐怖や不安を拡大する世界に警告
そして「ソーシャルメディアが恐怖や不安を拡大するような世界では、絶望に屈しやすくなります」と警告され、「そのようにして諦めてしまうと、今度は神の手による働きを見る能力を奪われ、信仰が『無害な信心』に変質し、有意義な慈善活動への意欲を失う可能性があります」と注意された。
だが、「まさにそのように、すべてが崩れてしまいそうになった時に、神がおいでになり、私たちを救うために集めてくださいます… イエスは、その死と復活によって、人類史上最も暗い瞬間を救済の夜明けへと変えられたのです」と説かれた。
続けて教皇は、このマルコ福音書の箇所の後半、イエスが語られた「春に芽吹くイチジクの木」のたとえを取り上げ、「このように、最も厳しい現実の中でも希望の兆しを見出すように」と信者たちを促さらた。そして「貧しい人々や苦しむ人々の間に主がおられることは、不正、苦痛、貧困だけがあるように見える場所でも、主が近づいて私たちを解放してくださることを思い起されてくれます」と語られた。
そして、「キリストの弟子の務めは、このような希望を、目に見える形にすること。正義、連帯、慈愛の実践を通して、私たちはそれぞれが『主の存在のしるし』となり、苦しむすべての人々に主が寄り添っていることを示すことができるのです」と強調された。
説教の結びで、教皇は信者たちに、変化は「日々の小さな行動」から始まることを思い起させ、「私たちがどのように生き、環境をどのように保護し、資源をどのように共有するかに関わらず、思いやりのある行動は、すべて希望の兆しとなります。私は、教会に、政府に、国際機関に、そして一人ひとりにこう言いたい―『どうか、貧しい人々を忘れないでほしい』」と訴えられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.11.14 バチカン放送)
教皇フランシスコは、アゼルバイジャンの首都バクーで開かれている第29回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP29)に、ピエトロ・パロリン国務長官による会場での代読の形でメッセージを送られた。
この中で、会議参加者たちに精神的な寄り添いを表された教皇は、「この会議が、自らの利益に固執する態度を超えた視点を持ち、人類のための善と、神が私たちに世話と責任を委ねられた『共に暮らす家』を中心に置くことができるように」と願われた。
そして、「被造物の保護が今日の最も急務の課題の一つであり、もはやこれ以上の遅れは許されないことを、科学的データは明らかに示しています」と訴えられた。
また教皇は、「環境保全が、平和の維持と緊密に結びついている事実」を認識するように求められた。
さらに、「多国間の機関への失望と、壁を築く風潮が高まる中でこのCOP29が開かれたこと」に触れ、「互いに繋がった同じ地球村の唯一の家族の一員として行動、生活すべきであるにもかかわらず、個人、国家、権力集団のエゴイズムが不信と分裂を煽っている」と今の世界の現状を深く憂慮された。
そのうえで、教皇は「社会のグローバル化によって、私たちは互いに近づきましたが、兄弟になることはなく、経済発展によって、不平等が解消されることもありませんでした」と指摘。「最も弱い立場の人々の保護を犠牲にしながら、一部の利益や関心が優先され、環境問題の悪化が加速している現状」に改めて注意を向けられ、このような中で、豊かな国々に対し、返済が不可能と思われる国々の債務を放棄するように、と2025年の聖年を前にしたアピールをここでも改めて繰り返された。
そして、「軌道を修正し、真に人間的で包括的な統合的発展のサイクルを追求するための、人的・技術的資源を私たちは持っています… 軌道修正はいつでも可能であり、問題解決のためにいつでも何かできる… 人類の能力に希望を見出すべきです」と強調。「今、無関心でいる時間はありません。『自分は関係ない』とこの問題から距離を置き、構わないでいることはできません。これは、まさに今世紀の課題なのです」と訴えられた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis writing
(22024.11.14 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは14日、同日バチカンで開かれた生命科学アカデミー主催「共通善に関する対話:理論と実践」シンポジウムの参加者たちにメッセージを送られ、 共通善は「カトリック教会の社会教説」の礎であり、生命の問題を考える際に常に心に留めておかなければならない、と強調された。
メッセージで教皇は、共通善というテーマに関する幅広い考察の中で、「今回の会合は、少なくとも2つの理由から特に意義深いものだと考えています」とされた。
一つ目の理由として、教皇は、この会合が教皇庁生命科学アカデミーの主催によることを挙げ、「あらゆる状況や文脈の中で人間の生命を守ることを真に願うのであれば、生命に関するテーマを、社会的・文化的文脈の中に位置づけることを無視することはできません」と指摘された。
そのうえで、「特定の側面や瞬間だけに限定し、すべての実存的、社会的、文化的側面を統合的に考慮せずに生命を守ろうとしても、効果がない。現実の人間よりも抽象的な原則を守ろうとする”イデオロギー的アプローチ”の誘惑に陥る危険性があります」と警告。
そして、「すべての人間の生命、特に”私たちが生活している生態系全体に関する共通善と正義の追求は、最も壊れやすく無防備な人間の生命を守るための核であり、不可欠です」と強調された。
理由の二つ目は、「このイベントに異なる責任と経歴を持つ2人の女性が参加していること」とされた教皇は、「私たちは、社会においても教会においても、女性の声に耳を傾ける必要があります」と語られた。
続けて教皇は「私たちは、人類の未来について広く賢明な考察を深めるために、さまざまな形の知識をもった人々が協力する必要があります… 世界のすべての文化の真の貢献が必要です」と語られ、回勅『Fratelli tutti(兄弟の皆さん)』の第3章「開かれた世界を描き、生み出す」を引用する形で、「必要を満たし、”資源”を活用することによってのみ、私たちは 『開かれた世界』を考え、生み出す”ことができるのです」と訴えられた。
さらに、教皇は、普遍的な友愛とは、ある意味で、共通善を理解するための”個人的”な温かい方法であり、「単なる思想、政治的、社会的プロジェクト」ではなく、むしろ「顔、物語、人々の交わり」であることを強調され、「共通善とは、何よりも、友愛の受容と、真理と正義の探求の共有からなる実践です」と語られた。
教皇はまた、「この世界において見られる多くの対立や分裂は、しばしば、個人の利益を超えた見方ができないことから起きています」と指摘されたうえで、「教会の社会教説の礎石の一つである共通善を思い起こすことは、非常に重要です」と念を押された。
さらに、教皇は「政治的な意思決定における効果的な指針となるように、共通善を具体的なテーマとして採用し、発展させる確かな経済理論が必要です」と提案。「これを頻繁に口にされるだけで、実際には無視される”分類項目”にとどめおいてはなりません」と訴えられた。
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なお、このシンポジウムでは、生命科学アカデミー会長のヴィンチェンツォ・パリア大司教が教皇のメッセージを読み上げた後、同アカデミー会員のロンドン大学ユニバーシティ・カレッジのマリアナ・マズカート教授とバルバドスのミア・モットリー首相との対談が行われた。
対談では、共通善の新しい経済学が、健康、生物多様性、気候、水などの環境、人工知能の未来に関連する、私たちの経済的・社会的問題に対して、早急にうまく設計された行動を生み出すのにどのように役立つかについて、意見が交わされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ 2024年11月13日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.11.13 バチカン放送)
教皇フランシスコは13日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は「生ける神の霊によって書かれた手紙:マリアと聖霊」をテーマに話された。
講話の要旨は次のとおり。
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御言葉、秘跡、祈りなど、聖霊が教会において聖化の業を行う様々な手段の中に、一つの特別な方法、「マリアへの信心」があります。
カトリック教会の伝統には、「マリアを通してイエスへ」という言葉があり、マリアは私たちをイエスに会わせてくださる。そして、いつも扉を開けてくださる。マリアは私たちの手を取り、イエスのもとに導いて下さるお母さんです。聖母はご自身を示すことなく、イエスを示されます。「聖母の手を通してイエスへ」-これが聖母への信心です。
聖パウロは、キリスト教共同体を「キリストが私たちを用いてお書きになった手紙であって、墨ではなく、生ける神の霊によって、石の板ではなく、人の心の板に記されたもの」(コリントの信徒への手紙2・3章3節)と表現しています。
マリアも、イエスの最初の弟子、教会の象徴として、生ける神の霊によって書かれた手紙です。それゆえに、聖母は「すべての人から知られ、読まれる」(コリントの信徒への手紙2‣3章2節参照)存在と言えます。聖母は、神学の本を読まない人も、神が御国の神秘を啓示される「幼子のような者」( マタイ福音書11章25節)も読むことができる手紙なのです。
マリアは、天使のお告げに「お言葉どおり、この身に成りますように」」と答え、イエスの母となることを受け入れました。マリアの「はい」という言葉は、「私は、主がお望みのように書かれるための、一枚の板です」と神に答えているかのようです。ある聖書学者は、マリアの天使に対する「はい」という返事は、「神の御前におけるあらゆる宗教的態度の中で、頂点をなすものである」(H. Schürmann, Das Lukasevangelium )と述べています。
マリアは、神の母として、聖霊の聖化の業における道具となりました。神、教会、聖性について話し、記した、とどまることなくあふれる言葉の中で、マリアはいかなる状況でも口にすることができる、単純な二つの言葉を教えてくれます。それは、「私はここにおります」と、「はい」という言葉です。主に「はい」と答えたマリアの模範と取り次ぎは、従順さが求められる状況や、超えるべき試練を前に、私たちも「はい」と主に答えることができるように励ましてくれるのです。
教会の歴史のすべての時代において、そして特に今日、教会は、イエスの昇天後にキリスト教共同体が置かれた状況を体験しています。それは、「すべての人に福音を告げる」という使命を前に、「高きからの力」を待っている状態です。使徒言行録にあるように、その時、弟子たちが「イエスの母マリア」(使徒言行録1章14節)のまわりに集っていたことを忘れてはなりません。マリアと一緒に他の婦人たちがいたことは確かですが、マリアの存在は、その中でも唯一、特別でした。
マリアと聖霊は、キリストご自身という、唯一にして永遠の絆で結ばれています。私たちが「使徒信条」で唱えるように、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれた」からです。福音記者ルカは、お告げの時にマリアに訪れる聖霊と、聖霊降臨の際に弟子たちに降る聖霊の一致を意図的に強調し、それぞれの場面でいくつかの同じ表現を用いています。
アッシジの聖フランシスコは、ある祈りの中で、「王なる天の御父の娘にして、仕え女、至聖なる主イエス・キリストの御母、聖霊の花嫁」と乙女マリアを呼び、挨拶をおくっています。御父の娘、御子の母、聖霊の花嫁、マリアと三位一体の唯一無二の関係を、これ以上に単純な言葉で言い表すことができるだでしょうか。
すべてのイメージと同様に、この「聖霊の花嫁」のイメージも絶対化することなく、そこにある真理、非常に美しい、その真理を通して理解すべきです。マリアは花嫁ですが、それより先に聖霊の弟子-マリアは花嫁にして弟子なのです。
聖霊が与える息吹に従順であることをマリアから学びましょう。天使が去った後、マリアがすぐに「出かけて、急いで行った」(ルカ福音書1章39節参照)ように、マリアは「あなたがたも、助けを必要とする人のところへ出かけて行くように」と勧めています。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
(2024.11.10‐ Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは10日、年間第32主日の正午の祈りに先立つ説教で、偽善を避け、謙虚に優しさをもって仕えるように、との主の呼びかけを繰り返された。
「偽善者に気をつけ、忠実で、愛にあふれ、信頼できる者となりましょう……」-教皇は説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書のイエスがエルサレムの神殿で律法学者の偽善を糾弾した箇所(12章38∼44節)を取り上げ、こう呼びかけられた。
そして、この場面に登場する律法学者は「イスラエルの共同体社会で、重要な役割を担っていました。聖書を読み、書き写し、解釈し、高く評価されていたが、見かけによらず、その行動は、自分が教えていることと、しばしば一致しませんでした… 自分たちが享受してきた名声と権力を頼りに、他者を見下し、傲慢に振る舞い、見せかけの立派さと律法主義の陰に隠れた者もいたのです」と指摘、「このような振る舞いは非常に醜い。他者を見下すことはとても酷いことです」と強調された。
さらに、こうした律法学者だけでなく、現在でも、「多くの人々の祈りが、主との出会いの瞬間としての意味を失い、代わりに信心深さや偽りの美徳を誇示する機会になってしまう危険があります」と注意され、「イエスは、そのような人々には近づかないように、『彼らに気をつけなさい』、そして彼らを真似ないように、と警告されています 」と語られた。
そのうえで教皇は、イエスはご自身の言葉と模範をもって、権威について、こうした振る舞いとは全く異なることを教えておられることに注意を向けられ、「主は権威について、自己犠牲と謙遜な奉仕、他者、特に困っている人々に対する母性的、父性的な優しさ、という観点から語っておられます… 主は権威ある立場にある者たちに対して、彼らを辱めるためではなく、彼らを引き上げ、希望と助けを与えるため に、他者を見つめるように招いているのです」と説かれた。
説教の最後に教皇は、信者たちに、このように自問するように促された。「私は、自分の責任ある分野でどのように振る舞っているだろうか?謙遜に振る舞っているだろうか、それとも自分の地位を誇っているだろうか?」「私は、他者に対して寛大で敬意を払っているだろうか、それとも無礼で威圧的に接しているだろうか?」。そして、「私は、傷つきやすい兄弟姉妹に寄り添い、立ち直るのを助ける用意ができているだろうか?」 。
そして、「私たちが自分の中にある偽善の誘惑と闘い、見せびらかすことなく善を行い、簡素さをもって行動できるように」と聖母マリアに祈りを捧げられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコ、ローマのグレゴリアン大学で講話 2024年11月5日 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.11.5 バチカン放送)
教皇フランシスコが5日、ローマの教皇庁立グレゴリアン大学を訪問され、講演された。
グレゴリアン大学は、イエズス会の創立者の一人で、同会の最初の総長となった聖イグナチオ・デ・ヨヨラが1551年に創始した、コレッジョ・ロマーノを前身とする長い歴史を持つ大学。
2019年の教皇フランシスコによる同大の再編をめぐる教令を経て、「教皇庁立聖書研究所」と、「教皇庁立東洋研究所」を、その名前を残しながら合併。この二つの研究所と、同大に以前から所属する学部・研究所等からなるアカデミック共同体「コレジウム・マキシムーム」とを合わせて、「グレゴリアン大学」という一つの総体を形作っている。教皇の今回の訪問は、同大の再編完成後、初めて。
教皇は大学構内のアトリウムで行われた講演で、同大の基礎となったコレッジョ・ロマーノの黎明期、地味な家の扉に「文法学、人文学、キリスト教教理の学校、無料」と書かれていたことに注目。それは、信仰の知識を人間的なものとし、人類に恵みの火花を灯し、学科を超えた研究と教えを育むことへの招きでした、と話された。
また、この学校の扉に明記されていた「無料」という言葉について、教皇は、無償性は「主人を作らず、すべての人を仕える者とし」、「自由の熱望を解き放ちながら、いつくしみ深い神への驚きに自らを開かせ」、「愛である神の神秘の存在を啓示する」ものであると語った。
教皇は、「心を失った世界において、こうした神の寄り添い、憐れみ、優しさこそが、誰をも排除せず、すべての人に向かうための常なる最初の一歩となると述べ、そのためにも、差異や混じり合うことを恐れない、人間と民の匂いのする大学が必要とされています」と述べられた。
そして、「この大学が教会の宣教の道具となるためには、神から来る知識を研究し、それを人類との対話の中で証明し、『自分たちとその他の人々』というアプローチを捨てなければなりません」とも話された。
教会の学問は長い世紀にわたり上から皆を見下ろしてきたが、それによって多くの過ちを犯した、と語る教皇は、今は謙虚になり、自らの無知と他者の必要性を認める時と述べられ、「今日の複雑な世界にあって、研究には皆の寄与が必要であり、異なるレベルにおいて問題に対応するには、一人の人間の考えだけでは答えを出せません」と語られた。
そして、「教壇を減らし、ヒエラルキーのないテーブルに皆がつき、歴史の傷に触れながら、知識を求め合うスタイル」を提案され、「それを実現するには、このアカデミックな空間を『一つの心の家』へと変えていく必要があります」と説かれた。
教皇はこの訪問で、イエズス会関係者とお会いになったほか、同大学の礼拝堂で祈りの時を持たれた。
(編集「カトリック・あい」)
(2024.11.6 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは6日、水曜恒例の一般謁見で「聖霊について」の連続講話を続けられた。今回は「聖霊が私たちの祈りに、どのように応じてくれるか」をテーマに話され、「キリスト教徒の祈りは、電話の一方の端に立つ人間が、もう一方の端にいる神に語りかけるものではありません。そうではなく、私たちの内に祈るのは、神なのです!私たちは、神を通して神に祈るのです」と、聖ペトロ広場に集まった信者たちに説かれた。
「聖霊について」の連続講話で教皇は、これまでの「秘跡」から、「キリスト教徒の祈り」に重点を移された。「神の言葉と秘跡に加えて、聖霊の働きは祈りで表現されます」とされた教皇は、聖霊はキリスト教徒の祈りの主題であり対象でもあることを指摘、「聖霊は祈りを与える方であり、祈りによって与えられる方でもあります… 私たちは聖霊を受け取るために祈り、真の祈りを捧げるために聖霊を受け取るのです… そのようにして私たちは奴隷としてではなく、神の子として祈るのです」と語られた。
そのために、教皇は、まず第一に、「聖霊を受け取るために祈らなければなりません」とされ、「この点について、イエスは福音書の中で非常に明確な言葉を残しておられます―『あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる』(ルカによる福音書11章13節)。私たちの祈りは、神の霊に対して私たちができる唯一の『力』であり、聖霊こそが、私たちに真の祈りの賜物を与えてくださる方なのです」と強調された。
そして、「確かに、私たちは祈り方を知りません… 確かに、聖霊は私たちの弱さを助けてくれますが、それよりもはるかに重要なことをしてくれます… 聖霊は、私たちが神の子であることを証しし、私たちの唇に『アッバ、 父よ!』という叫びを浮かべてくださるのです」と説かれた。
さらに教皇は、「祈りにおいて、聖霊は、『弁護者』、すなわち私たちの弁護者、擁護者としての役割を明らかにされます… 聖霊は、私たちを父なる神の前に告発するのではなく、私たちを守るのです… たとえ私たちの心が、何かについて自分を責めていても、聖霊は、『神は私たちの心よりも偉大だ』ということを私たちに思い起させます」と述べられた。
また「聖霊は、私たちのために執り成してくださるだけでなく、兄弟姉妹のためにどのように執り成しをすればよいかを教えてくれる… 聖霊は、私たちに執り成しの祈りを教えてくれるのです」とされ、さらに、「祈りは、最も無償で利他的なものであるため、特に神に喜ばれます…「誰かが皆のために祈るとき、聖アンブローズが指摘したように、誰もが誰かのために祈るようになり、祈りが倍増するのです」と強調された。。
そして講話の最後に、教皇は、来年の聖年に備えて、「神の計画に従って聖徒のために執り成し、祈る」聖霊と自らを結びつけるように、と信者たちを促された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
“What counts are not the exterior practices,” Pope Francis explained, “but the readiness of heart with which you open yourself to God and to brethren in love.” (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.11.3 Vatican News Kielce Gussie)
教皇フランシスコは3日、年間第31主日の正午の祈りの説教でマルコによる福音書の「最も重要な戒めとは何か」という箇所について考察され、この問いは聖書が書かれた時代だけの問題ではなく、「私たちにとっても、日々の生活や信仰の旅にとって不可欠なもの」と説かれた。
日々の生活、なすべきことや課題に追われていると、それらに圧倒されて迷ってしまうことがある。教皇は「すべてのものが広がっていく、その中心はどこにあるのか」という問いを投げかけられ、イエスが福音書の中で語られているように、その答えは2つの戒め、すなわち、「神への愛」と「隣人への愛」にある、と強調。これらを「キリスト教的生活の中心」と呼ばれた。
教皇は、正午の祈りに聖ペトロ広場に集まった人々に対し、「人生と信仰の核心に立ち返る」よう呼びかけ、「それは、心こそが、私たちの強さ、信念、情熱、決断の根源的な源であるからです」と語られた。そして、「重要なのは外見上の実践ではなく、神と兄弟たちに対して愛をもって自らを開く心の準備です」とさら、「私たちは人生の終わりに、自分が与えた愛と与えなかった愛について説明しなければならない」ことを、皆に思い起こさせられた。
説教の最後に、教皇は人々に、「自分は神と隣人をどのように愛しているか」を振り返り、日々、自らの良心を確かめるよう求められた。
「『中心』に立ち返ることの重要性」というメッセージは、教皇の最新の回勅『Dilexit nos 』の中心テーマだ。この回勅は、イエス・キリストの心の人間的・神的な愛に捧げられ、聖心への信仰の刷新を呼びかけている。教皇は、「私たちは、まず自分の心を変えることから始めれば、世界を変えることができます」と強調されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.11.3 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは3日、世界中を苦しめている紛争の調停による解決を、改めて世界の当事者たちに求めるとともに、スペイン・バレンシア地方を襲った壊滅的洪水の被災者への支援に協力するよう信者たちに呼びかけられた。
教皇はこの日、世界9か国で紛争や貧困の被害者への支援活動を行っている慈善団体「エマージェンシー」のローマ支部を訪問された際、戦争拒否に関するイタリア憲法第11条を引用し、世界中の戦争当事者たちに対し、対話を開始し、紛争を終わらせるように、求めたもの。同団体が支持するイタリア憲法第11条には「イタリアは、他国民の自由に対する侵害の手段としての戦争、および国際紛争解決の手段としての戦争を否認する」と記されている。
教皇は「この原則が世界中で適用されるように。戦争を禁止し、法律と交渉によって問題に対処できるように。武器を黙らせ、その代わりに対話を実現しよう。戦争が禁止され、法と交渉によって問題が解決されるように。武器が沈黙し、対話がその代わりとなるように」と呼びかけられ、さらに、信者たちに「苦しむウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマー、南スーダン」のために祈りを捧げるように求められた。
また、フランシスコ法王は、少なくとも214人が死亡し、数十人が行方不明となっている壊滅的な洪水の被害を受けたバレンシアやスペインの他の地域の人々にも思いを馳せ、「バレンシアや、最近大きな被害を受けているスペインの人々のために、引き続き祈りを捧げましょう」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2024.11.1 バチカン放送)
教会の典礼暦で「諸聖人」の祭日を迎えた11月1日、教皇フランシスコはバチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。 そして、祈りの前に、教皇は、この日の福音朗読箇所、イエスが「真福八端」(マタイ福音書5章1-12a説)の教えを述べる場面を取り上げて、説教をなさった。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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諸聖人の祭日を迎えた今日、福音書(マタイ 5章1-12節参照)の中で、イエスは、キリスト者の身分証明書であり、聖性への道である「真福八端」を宣言されています。その中でイエスは、ご自身が人となられることで歩まれた道を、私たちにとって神の贈り物であると同時に、私たちの応答でもある愛の道を示されます。
この聖性への道が神の贈り物であるのは、聖パウロが言うように、私たちを聖なる者としてくださるのは神だからです(コリントの信徒への手紙1・6章11節参照)。それゆえ、私たちは、聖なる者にしてくださるよう、私たちの心を主の御心に似たものにしてくださるようにと、何よりも主にお願いするのです。
主がその恵みによって私たちを癒され、愛してくださったように、主は、私たちが愛することを妨げるすべてのものから解放してくださいます(ヨハネ福音書13章34節参照)。こうして、福者カルロ・アクティスの言葉にあるように、私たちの中で、常に「神に場所を譲るために、自分が少なくなっていく」のです。
そして、これが、二つ目の点、私たちの応答へとつながっていきます。天の御父は、ご自身の聖性を私たちに差し出されながらも、それを押し付けることは、なさいません。主は私たちに聖性の種を蒔かれ、そのすばらしさを見せ、味わわせつつも、私たちの「はい」という返事を待ち、尊重されます。
主は私たちに、ご自身が与えられる良い霊感に従う自由、主のご計画に加わる自由、主のお気持ちを自分のものにする自由を与えてくださいます。主は、すべての人、全世界に向けて開かれた、より普遍的な愛をもって、他者に仕えることを私たちに教え、それを可能にしてくださるのです。
私たちは、聖人たちの生涯の中に、今日においても、これらすべてを見出すことができます。例えば、聖マクシミリアン・コルベは、アウシュビッツで、死刑を宣告された一人の父親の身代わりになることを申し出ました。コルカタの聖テレサは、最も貧しい人々に奉仕するために生涯を捧げました。聖オスカル・ロメロ司教は、横暴な者たちの権力の濫用から、最も貧しい人々の権利を守ったために、祭壇で殺されました。
このほかにも、私たちが祭壇で崇敬する聖人や、私たちが毎日を共にしている「身近な」聖人など、多くの聖人たちの中に、真福八端の精神によって形作られた、貧しく、柔和で、憐れみ深く、義に飢え渇く、平和を実現する兄弟姉妹たちを認めることができます。彼らは「神に満たされた」人々、隣人の必要に無関心でいられない人々、光り輝く道の証し人です。そして、そうすることは、私たちにも可能なのです。
ここで自分に問いかけてみましょう。祈りの中で、私は神に聖なる人生の賜物を願っているだろうか? 主の霊が私の中にかき立てる、善なる衝動に従っているだろうか? 自分の生活環境の中で、福音の「真福八端」の実践に進んで努力しているだろうか?
諸聖人の女王、マリアよ、私たちの人生が聖性の道となるよう、どうかお助けください。
(編集「カトリック・あい」)