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☩「戦争は問題を解決しない」―教皇、待降節最初の一般謁見で改めて訴え
(2024.12.4 Vatican News Kielce Gussie)
教皇フランシスコは4日、待降節最初の水曜恒例の一般謁見で、世界平和への呼びかけを改めてなさった。
教皇は平和を祈る必要性を強調され、「戦争は、人間の敗北です… 戦争は問題を解決しません」と語られたうえで、世界中で続いている戦争、特に「殉教したウクライナ」、「パレスチナ」、「イスラエル」、そして「ミャンマー」のために祈りを捧げられた。
そして、これらの国々では「多くの子供たちが、多くの罪のない人々が死んでいます」と嘆かれ、「戦争は悪であり、戦争は破壊です」と強く批判。「主が私たちを平和へと導いてくださるよう、祈りましょう」と信者たちに呼びかけられた。
また、民主政府が軍事クーデターで倒されて3年を経てなお、国軍と反政府武装勢力の間で戦闘が続いているミャンマーの人々の悲劇についても思い起こされ、速やかな和平を願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦争への恐怖に麻痺し、無関心が蔓延すれば、人類全体が敗北する」教皇、1日の正午に祈りの終わりに

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「私たちの心を明るくし、歩みを支えてくださる神に目を向ける機会となるように」待降節第1主日の正午の祈りで
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「潜伏キリシタンの遺産が、信者たちが信仰の宝を伝えた証しとして役立つように」ー禁教期のキリシタン研究会の会員たちに
◎教皇連続講話「聖霊について」⑮ 「『聖霊の実』である喜びは、日々新たにされ、他者に伝わっていく」

(2024.11.27 バチカン放送)
教皇フランシスコは27日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は「聖霊の実である喜び」について話された。
教皇の連続講話の要旨は次の通り。
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「聖霊の聖化とカリスマの恵み」について話した後、今日は聖霊の働きがもたらすもの、「聖霊の実」について考えたいと思います。
使徒聖パウロは霊がもたらす様々な実を、ガラテヤの信徒への手紙の中で次のように語っています―「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。
カリスマとは異なり、聖霊はその実を、教会の益のために、誰にでも、いつでも与えます。霊の実は、恵みと自由による協力の結果です。これらの実は、「愛によって働く信仰」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)を通し、常に人の創造性を、時に驚くべき、喜びにあふれた方法で表します。教会の中で、皆が必ずしも、使徒的、預言的、福音的ではないかも知れません。しかし、皆が区別なく、慈愛に満ち、忍耐強く、謙遜で、平和のために働く人でいることはでき、またそのようにあるべきです。
使徒パウロが語った「霊の実」で、特にそのうちの一つ、「喜び」に注目しましょう。私は使徒的勧告『福音の喜び』の冒頭に、このように述べました―「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的な虚しさと孤独から解放されるのです。喜びは、常にイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」。
聖霊の実である「喜び」は、他のすべての人間的な喜びと同様に、ある種の充足感、充実感を伴い、それがいつまでも続くことを願わせます。しかし、私たちの経験からも分かるように、その通りにはいきません。それは、若さ、健康、体力、友情、愛のように、この世のすべてのものはすぐに過ぎ去るからです。これらがすぐに過ぎ去らないとしても、ある時点から、それが十分でない、と感じたり、退屈を与えたりさえします。それは「主よ、あなたは私たちをあなたのために造られました。ですから、私たちの心はあなたの中に憩うまでは、安らぐことはないのです」と、聖アウグスティヌスが神に向かって言った通りです。
「福音の喜び」は、他の喜びと異なり、日々新たにされ、他者にも伝わっていくものとなります。「私たちを閉鎖性や自己中心性から救い出すのは、神の愛との出会い、あるいは再会のみです。この出会いは幸せをもたらす友情になります… そこにこそ、福音宣教の泉があります。なぜなら、人生の意味を取り戻すその愛を受け入れた人は、他の人に伝えずにはいられないからです」(『福音の喜び』8項)。
「聖霊の実である喜び」の特徴は2つあります。それは、時間による消耗は避けられませんが、他者と分かち合いながら、増やすことができる、という点です。
今から5世紀前、ローマにフィリポ・ネリという聖人がいました。喜びの聖人という名を残した人です。聖フィリポは、彼のオラトリオの貧しいく見捨てられた子どもたちに、「息子たちよ、明るくおやりなさい。遠慮や陰気さはいりません。ただ罪は犯してはいけません」「できることなら、善良でいてください」と言っていました。聖フィリポが神に対して持っていた愛は、あまりの大きさに胸が破裂しそうなほどでした。彼の持つ喜びは、文字どおり、霊の実だったのです。聖フィリポは1575年の聖年を経験し、7つの教会の巡礼などの実践を通して豊かなものとしました。彼はその時代、喜びを介した真の福音宣教者でした。
「福音」という言葉は、喜ばしき知らせを意味します。それゆえに、もったいをつけたり暗い顔でそれを告げず、隠された宝や貴重な真珠を見つけた人の喜びをもって告げなければなりません。聖パウロがフィリピの教会の信徒に向けた勧めを思い起しましょう。「主にあって、いつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4-5節)。
(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました)
☩「主の御言葉に耳を傾けることで、心と人生に光がもたらされる」ー王であるキリストの祝日・正午の祈り説教
(2024.11.24 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは24日、王であるキリストの祝日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書18章33∼37節を取り上げ、キリスト教徒たちに「自らをすべての人々の僕とされ、私たちの人生に希望と光をもたらしてくださる、宇宙の王の声に耳を傾けるように」と信者たちを促された。
福音書のこの箇所では、死刑判決を受けるためにピラトに引き渡されたイエスの対話が語られている。教皇は「二人の短いやり取りで、特に注目されるのは、『王』と『この世』という2つの言葉が変化し、新たな意味を持つようになったこと」と指摘。
教皇は、「皇帝に仕えるピラトは、目の前にいる男が、自分にとって脅威となるかどうか知りたいと思っています。それは、彼にとって、『王』が、すべての臣民を支配する権威を意味するからです」とされ、「ピラトの問いかけに対して、イエスは、ご自分が『王』だ、と断言されますが、それはまったく異なる意味で『王』と言われたのです」と語られた。
そして、「イエスは証人であるがゆえに『王』。真実を語るお方です。神の御言葉が肉体となったイエスの『王』としての力は、真実で効果のある言葉にあり、その言葉は世界を変えるのです」。さらに「イエスはピラトの治める『この世』の王ではない。『この世』は『強者が弱者を、富者が貧者を、暴力的な者が柔和な者を打ち負かす』世界。残念ながら私たちがよく知っている世界です… イエスは『王」ですが、その王国は『この世』のものではありません」と言明。
「イエスの世界は、神が私たちの救いのためにご自分の命を捧げることによって、すべての人々のために用意された新しい永遠の王国… キリストが恵みと真理を注ぎ込むことによって地上にもたらす天の王国です。イエスは私たちを解放し、赦し、そして平和と正義を与えてくださるのです」と説かれた。
続けて、イエスがピラトに非常に近い距離から語りかけたにもかかわらず、ピラトが『別の世界に生きる者』として距離を保ったことを指摘され、「ピラトは、真実が目の前にあるにもかかわらず、真実に対して自らを開こうとしなかった。彼はイエスを十字架につけ、十字架に『ユダヤ人の王』と刻むように命じましたが、その言葉の意味を理解していなかった」と語られた。
最後に教皇は、キリストがこの世界、すなわち「私たちの世界」に来られたことを、信者たちに思い起こさせ、「真実を知る者は、私たちを救う宇宙の王の声を聴く。主の声を聴くことは、私たちの心と生活に光をもたらします」とされ、「神の御言葉が自分たちの指針となっているだろうか?」「キリストの中に、私たちを常に赦す慈悲深い神の顔を見ているだろうか?」と自問するよう促された。
そして、「神の僕であるマリアと共に祈り、神の国を希望をもって待ち望もうではありませんか」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「ミャンマーで暴力の終結と平和のための真摯な対話がされるように」ー王であるキリストの祝日・正午の祈りで
(2024.11.24 Vatican News Francesca Sabatinelli) 1920年11月14日のビルマ最初の学生ストを記念
教皇フランシスコは24日、王であるキリストの祝日の正午の祈りに続いて、ミャンマーの人々を引き裂いている長期の紛争を取り上げ、「特に最も弱い立場にある子供、高齢者、病人、ロヒンギャ族を含む難民」を思い起こされ、同国をはじめ戦乱に苦しむウクライナ、パレスチナ、イスラエル、レバノン、スーダンについても、皆が忘れることのないようにと、聖マルコ広場に集まった人々に呼びかけられるとともに、誠実で包括的な対話が、平和を達成するために必要であることを改めて強調された。
ミャンマーでは、毎年11月14日の国慶節を英国による統治下の1920年11月14日に学生たちが行った史上初のストを記念日としている。
教皇は「ミャンマーは、自国の独立への道を開いた最初の学生デモを記念しています。その今も、平和で民主的な時代が到来する見通しが、立たないこの国の現状を踏まえて、そこに住む全ての人々、特に現在も続く戦闘で苦しむ人々、最も弱い立場にある人々―子供、高齢者、病人、ロヒンギャ族を含む難民の人々に心からの同情を表明します」と述べられ、すべての関係者に対して、「武器を捨て、永続的な平和を確保できる、誠実で包括的な対話を始めるように」と訴えられた。
また、同じように紛争解決の展望が立たず、人々が苦しみ続けるウクライナ、パレスチナ、イスラエル、レバノン、スーダンの平和のためにも、引き続き熱心に祈るよう、全ての人に皆に求められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「キリストの私たちへの愛は限りない。『愛と真実』から逃げてはならない」-「王であるキリスト」の祝日ミサで

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「希望と愛の巡礼者として旅を続けよう」-教皇の「世界青年の日」メッセ―ジ
2024年第39回「世界青年の日」に 教皇メッセージ 2024年11月24日
「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)
親愛なる若者の皆さん
昨年、私たちは、「希望をもって喜びなさい」(ローマ12・12)というパウロのことばを黙想し、聖年に向けた希望の旅を歩み始めました。まさに、2025年の聖年の旅の準備のため、今年は「主に望みをおく人は、……歩いても疲れない」(イザヤ40・31)と語る預言者イザヤからヒントをもらいます。この句は、慰めの書(イザヤ40~55章)と呼ばれる箇所から取られたものです。これは、イスラエルのバビロン捕囚の終わりと、歴史において、主がその子らに開いてくださる新たな「道」(イザヤ40・3参照)のおかげで祖国帰還を果たす神の民の希望と再生に満ちた新時代の始まりとを告げる箇所です。
今日も、打ちのめされて、将来を晴れやかな気持ちで見ることなどできない、悲惨な状況が目立つ時代にあります。戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。高い付けを払うのは、大抵若者の皆さんです。
将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません(大勅書『希望は欺かない』12参照)。ですから、親愛なる若者の皆さん。バビロンでイスラエルの民が知らされたように、皆さんにも希望の知らせを届けたいのです。今日もなお、主は皆さんの前に道を開き、喜びと希望をもってその道を歩むよう招いておられます。
1.命の旅とその困難
イザヤは、「歩いても疲れない」と預言しています。そこで、この二つの要素、「歩く」と「疲れる」について考察しましょう。
私たちの人生は旅であり、それは、自分自身を超えようとする旅、幸福を探し求める旅です。とくにキリスト者の人生は、私たちの救いであり、すべての善の充満である、神へと向かう旅です。旅路にある成果、収穫、成功が、物質的なものにとどまるなら、一瞬、満足はしても、依然として渇きは癒えず、深い意義を求め続けることになります。事実、それらは私たちの魂を十分に満足させません。なぜなら私たちは、無限である方に創造されたものであるため、内に超越への願いを宿し、大いなる願望の充足へと、「より偉大なもの」に向かう焦燥感へと、駆られ続けるからです。ですから何度も申し上げてきましたが、若者の皆さんには、「観客席から人生を眺める」だけでは物足りないのです。
とは言え、情熱をもって旅に出ても、いずれは疲れを感じるようになるのは普通のことです。勉強や仕事、私生活において、一定の成功を収めなければならないという社会的圧力によって、不安や心の疲弊が生じることもあります。そうしたことが悲嘆を生じさせる一方で、無数のことがらで一日を埋め尽くしているにもかかわらず、十分ではない、まだまだ足りないという気にさせる、むなしい活動至上主義に息を切らして生きているのです。
こうした疲弊に倦怠が加わることもよくあります。それは、歩き出さず、決断せず、選択せず、リスクを冒さず、楽なところにとどまろうとして、自分の殻に閉じこもり、問題や他者や生活に触れて「手を汚す」ことは決してせずに、画面越しでしか世界を見ずに裁く人の、無関心や不平を抱いた状態のことです。この種の疲労はセメントのようなもので、私たちの足がそこに浸かると、次第に固まり、重くなり、不随にして動けなくします。私は、歩いている人の疲れの方が、歩く気もなくじっとしている人の倦怠よりも、好ましく思います。
逆説的ですが、疲労の解消法は、じっと休んだままではいないことです。そうではなくて、出発して、希望の巡礼者となるのです。私から皆さんに掛ける声はこれです――希望を持って歩んでください。
希望はどんな疲れも危機も不安も、ことごとく打ち破り、前進するための力強い動機づけを与えてくれます。というのも、この希望は、神ご自身からいただくプレゼントだからです。神は、私たちの時間のすべてを意味あるもので満たし、私たちの道を照らし、人生の道筋と目標を示してくださいます。使徒聖パウロは、勝利を収めようと走る競技場での選手のたとえを用いました(一コリント9・24参照)。皆さんの中でも、観客ではなく選手として競技に参加したことのある人なら、ゴール到達に必要な内なる力をよくご存じでしょう。
希望とはまさに、神がわたしたちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、「先を見つめる目」をもてるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠の命の充満へと導かれるのです。すばらしいフィニッシュラインがあるのだから、人生の行き着く先が無ではないのだから、夢見て、思い描き、なし遂げたものは何ら失われないのだから、歩き続けること、汗を流すこと、障害を耐え忍ぶこと、疲れに負けないことに価値があるのです。終わりの日の報いは、すばらしいものだからです。
2.荒れ野の旅人
人生の旅には、立ちはだかる不可避の難局が存在するものです。昔の長旅では、季節や気候の変化に対応しなくてはなりませんでした。心地よい草原や涼しい森もあれば、雪を頂く山々や灼熱の荒れ野もありました。信者にとっても、人生の旅、そして遠い目的地までの歩みは、苦労の多いものです。イスラエルの民の、約束の地へと向かう荒れ野の旅と同じです。
皆さんにしても同じです。信仰のたまものを受け取った人でも、神がいてくださる、そばにおられると感じられる幸せなときもあれば、孤独を味わうときもあります。勉学や仕事に対する当初の熱意、あるいはキリストに従おうとする熱い思い――結婚生活において、司祭職において、奉献生活において――が、荒れ野を歩む困難な旅に人生が思える危機の時に転じてしまうことは起こりえます。ですがこのような危機の時は、空しい時でも無駄な時でもなく、成長のための重要な時となりえるのです。それは、希望が純化される機会なのです。危機においてこそ、私たちの心には見合わない、多くの偽りの「希望」が消失します。その仮面が剥がれると、私たちはただ独り、人生の根本的な問いの前に、まやかしもなく、裸の姿で立たされるのです。そしてそのとき、それぞれが自らに問うはずです。自分はどんな希望を支えに生きているのか、それは本物か、それともまやかしか…と。
そのようなときに、主は私たちを見捨てません。私たちのそばに父として来られ、力を取り戻して再び旅路に赴くためのパンを、必ず与えてくださいます。思い出してください。神が荒れ野の民にマナを与えてくださったことを(出エジプト16章参照)。さらに、疲れ果て気落ちしていた預言者エリヤに、「神の山ホレブ」まで「四十日四十夜歩き続け」ることができるよう、二度にわたってパン菓子と水とをお与えになったことを(列王記上19・3−8参照)。
こうした聖書の物語に、教会の信仰は、聖体という尊い賜物の前表を見てきました。旅するわたしたちを支えるべく神が与えてくださる、まことのマナ、まことの旅路の糧です。福者カルロ・アクティスが語ったように、聖体は天へと続く高速道路です。この若者は、聖体を、日々のもっとも大事な、神と会うための約束としていました。そのように主と親しく結ばれていれば、主が一緒に歩んでおられるのですから、私たちは疲れることなく歩むのです(マタイ28・20参照)。皆さんが、聖体という素晴らしい贈り物を再発見しますように。
この世の旅路では避けようのない疲弊の最中には、イエスのように、そしてイエスのうちに、休息することを学びましょう。宣教から戻った弟子たちに休息するよう勧めたイエスは(マルコ6・31参照)、あなたがたには肉体の休息が必要なことを、友人と過ごしたり、スポーツをしたり、睡眠も含め、くつろぐ時間が必要なことを知っておられます。
ですが、もっと深いレベルの休息があります。多くの人が求めていながら、わずかな人しか見いだすことのない、キリストにおいてのみ得られる、魂の休息です。内的疲労はすべて、主において慰めを得るのだと理解してください。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。旅の疲れに押しつぶされそうなときは、イエスに立ち帰ってください。イエスのうちに憩い、イエスのうちに留まることを学んでください。「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)のですから。
3.観光旅行から巡礼の旅人へ
親愛なる若者の皆さん。私が招いているのは、愛の軌跡に沿って、神のみ顔を探し求めつつ、人生を明らかにしようとする旅への出発です。ですが皆さんに勧めるのは、単なる観光客としてではなく、巡礼者として旅に出ることです。皆さんの旅が、人生の各場面を表面的に通過するだけで、出会ったものがもつ美を捉えることもなく、たどった道の意味も見いだせないまま、細切れの時間、束の間の体験を、自撮りするようなものとならないよう祈ります。それは観光旅行ですることです。
一方巡礼者は、行き着いた地の深部に分け入り、その土地に語らせ、その土地を自分の幸せの探求の一要素とするのです。ですから聖年の巡礼は、最終の目的地に達するため、私たち全員に求められている、「内なる旅」のしるしでなければならないのです。
このような姿勢で、皆で聖年を準備しましょう。若者の皆さんの多くが、巡礼としてローマに来て、聖なる扉をくぐれるよう願っています。いずれにせよ、すべての人のために、この巡礼を部分教会でも行う機会が用意されます。聖なる忠実な神の民の信仰と信心を大事に守る、地方の多くの聖地・聖堂を再発見する機会となるでしょう。
今回の聖年の巡礼が、わたしたち一人ひとりにとって、「救いの『門』である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会い」(大勅書『希望は欺かない』1)となるよう願っています。この巡礼の旅を、三つの基本的な姿勢でもって味わうよう勧めます。感謝の姿勢――、あなたの心を、受けた恵みゆえの、とりわけ命の恵みゆえの、賛美へと開くためです。探し求める姿勢…、心の渇きを鎮めるのではなく、尽きることなく主を探し求める思いを、旅で表すためです。そして最後は、悔い改めの姿勢…、この姿勢が、自分自身の内面を見つめられるよう、自分の誤った道や選びを認められるよう、そうして主へと、その福音の光へと回心できるよう助けてくれます。
4.宣教に向かう希望の巡礼者
皆さんの旅に向けて、もう一つ、魅力的な情景を紹介しましょう。ローマの聖ペトロ大聖堂に来るには、名高い建築家にして彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計した柱廊で囲まれた広場を通ります。柱廊全体が、大きな抱擁の形をしています。つまり、わが子ら皆を迎える、私たちの母、教会の広げた両腕なのです。来る希望の聖年に、あなたがた若者皆に、あわれみ深い神の抱擁を体験してほしいと思います。神の赦しを、聖書にあるヨベルの年の習わしのように、私たちの「内的負債」の全免除を、体験してほしいと思います。
そうして、神に迎え入れられ、神において新たに生まれることで、皆さんもまた、広げた腕となってほしいのです。あなたがたが歓迎することで、父なる神の愛に触れることを必要としている、多くの友人や同世代の人のためにです。皆さん一人ひとりが、「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としての眼差し、真摯な傾聴、無償の奉仕を、……それがイエスの霊において豊かな希望の種となることを感じつつ」(同18)差し出し、そうして、疲れを知らない喜びの宣教者となることができますように。
歩むうえでは、視線を上げ、信仰の眼差しをもって、聖人たちを見つめましょう。この道を先に行き、すでにゴールにいる彼らは、私たちに励ましの証しを与えてくれています。「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです。しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」(二テモテ4・7−8)。諸聖人の模範は、私たちを導き、支えてくれます。
頑張っていきましょう。私は皆さんのことを心に留め、聖母マリアに一人ひとりの道をゆだねます。聖母の模範に倣って、あなたがたが希望するものを忍耐強く信頼して待ち、希望と愛の巡礼者として旅を続けることができますように。
☩「学校に通えない子供たちが世界に2億5000万人、彼らの未来を奪う文化的ジェノサイドだ」バチカン文化教育省の初総会で

文化教育省は、教皇が推進されているバチカン改革の一環として、教育省と文化評議会を統合して2022年6月に発足したが、今回の総会が初となる。
あいさつで教皇は、二つの機関の統合の目的である「対話、相互作用、革新の潜在能力を最大限に活用し、両者の効果を高める」を確認したうえで、文化教育省の使命の重要性を指摘。
「単に結果を出すだけの教育モデルの作成」に留まらないように注意されるとともに、「私たちの世界は『automaton(ロボット、自動人形)』を必要としているわけではない。私たちの持つ豊かな人的資源の『新しい振付師』『新しい解釈者』『新しい社会詩人』を必要としているのです」と強調された。
さらに教皇は、成功や昇進を最終目標とするのではなく、「まったく異なる何かを」行うよう求められ、次のようなエミリー・ディキンソンの詩を引用する形で、その意向を示された。
あたかも私が、ありふれた施しを求めたかのように、そして、私が不思議に思っているその手で 見知らぬ人が王国を握りしめ、私は当惑しながら立ち尽くす。
まるで私が東方に 私に朝が訪れるよう求めたかのように そして、その紫の堤防が持ち上げられ、夜明けとともに私が打ち砕かれるのだ!
教皇は、この詩は、「他者に視野を広げ、内なる活力に溢れ、新たな可能性のためのスペースを作り、受け取った賜物を分かち合うよう呼びかける」という文化教育省の使命遂行を助けることができる、と語られた。
さらに教皇は、総会参加者たちに、「恐れる必要はありません。案内役であり、仲間であるキリストと共に、あなたがたは自分を超えた『文化と教育の資産の守り手となるのです」とされ、「現在ある哲学、神学、詩、科学の背景には、聖アウグスティヌスやモーツァルト、マーク・ロスコ、ブレーズ・パスカルといった先人たちの仕事や研究の成果があります。それをすべての人に広めるように。希望を忘れてはなりません!」と強く訴え、「袖をまくり、行動を起こすように」と促された。
また教皇は、「今日、世界には歴史上、最も多くの学生が存在しているが、 それにもかかわらず、約2億5000万人の子供たち、十代の若者たちが学校に通えずにいます」と指摘。「子供たちが将来の可能性を最大限に発揮できるような条件を整えられないことで、彼らの未来を奪うことは、文化的な大量虐殺です」と強く批判された。
そして講話の最後に、文化教育省に対し、最近の科学の発展と技術革新のもたらす「利益と危険性」を理解する研究を行うよう求められた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「聖霊について」⑭「一人一人のカリスマは一致と奉仕のための聖霊の賜物」

*カリスマは個人の聖化だけでなく教会の構築を目的とする
続いて、教皇は、カリスマを定義する2つの重要な要素を示され、まず、「カリスマは『共通善』のために与えられるものであり、個人の聖化だけでなく、教会の構築を目的としています」、次に、「カリスマは聖霊の意志に従って、唯一無二に、個人に合わせて分配されます」と説明。「これはカリスマを秘跡や徳行と区別するものであり、信者たちに普遍的に共有されるもの… カリスマは、聖霊がキリストの花嫁をより美しくするために配る『宝石』や装飾品のようなものです」と語られた。
*カリスマは女性の地位向上を促進する
カリスマの重要性を考察する中で、教皇は、カリスマを再発見することが、信徒、特に女性の地位向上について「制度上および社会学的側面だけでなく、聖書的および霊的側面からも理解を促す」のを保証する、とされ、「信徒は単に聖職者の協力者や補助部隊ではなく、彼ら自身にもカリスマと賜物があるのです」と強調された。
*カリスマについての誤解を解く
さらに、教皇は、「カリスマについての”誤解”を解きたい、と思います… 多くのキリスト教徒は、カリスマについて耳にしたとき、『自分にはカリスマがない』と思い込んでいるため、悲しみや失望を覚え、自分たちは仲間はずれにされている、あるいは”二流のキリスト教徒”だ、と感じることがある。でも実際には、カリスマは、並外れた、あるいは目を見張るような現象に限定されるものではなく、むしろ、愛と聖霊に触発されたときに、『並外れた価値を持つ普通の賜物』となることが多いのです」と語られた。
そして、 そのような賜物に恵まれていない、と感じている人々に対して、「あなたがたは、除外されているわけではありません」と断言され、 聖アウグスティヌスの言葉を引用して、もしあなたが愛しているなら、それはあなたが何も持っていない、ということではありません。 愛はカリスマを増殖させます。 ある人のカリスマを、すべての人のカリスマにするのです」と説かれた。
講話の最後に教皇は、慈善を「さらに優れた方法」と表現し、「慈善は、教会の一致の中で、すべてのカリスマを共有することを可能にします… 慈善は、私に教会を愛させ、そして、一致の中で、すべてのカリスマは私のものとなる。私のものはすべての人に属しているのと同じように」と述べられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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☩「世界で苦しむ子どもたちを支援、保護するための方策を議論する」-来年2月3日にバチカンで「子どもの権利に関するサミット」開催
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「子どもに対する司牧的ケアが一層、優先事項となるように」ー教皇、世界子どもの日のための教皇庁委員会を新設

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「核戦争の脅威にさらされた世界。平和の神を信じる全ての人が祈り、行動するように」-イランとの異宗教間対話で

*イランにおけるカトリック教会の課題
*良心と信教の自由
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)