◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑧「マリアとヨセフのように希望に満ちて主を捜しに行こう」

神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画 

(2025.3.5  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが5日、水曜恒例一般謁見のために準備されていた聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の8回目をバチカン広報局を通じで発表された。。

 今回は、「イエスの幼少期」の考察の中から、「神殿で見出されたイエス」をテーマに取り上げておられる。

 講話の要旨は次のとおり。

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 イエスの幼少期を扱うこのカテケーシスの最後に、イエスが十二歳の時、両親に告げずに神殿内に留まり、心配した両親がイエスを捜し回り、三日の後に見つけた、というエピソードを取り上げましょう。

 このエピソードは、マリアとイエスの間に交わされた非常に興味深いやり取りを示しています。そして、それは決して容易ではなかった「イエスの母の歩み」を観想させるものである。実際、マリアはその長い霊的な歩みの中で、御子の神秘を次第に理解していきました。

 マリアのこの歩みの様々な段階を、振り返ってみましょう。イエスを身ごもって間もなく、マリアはエリザベトを訪ね、小さなヨハネが生まれるまでの三か月ほどそこに滞在します。そして、月が満ちた時、マリアは住民登録のためにヨセフとベツレヘムに行き、そこでイエスを出産しました。

 四十日後、彼らは幼子を神殿で捧げるためにエルサレムに上ります。そして、毎年彼らは巡礼し、神殿に戻りました。

 しかし、イエスがまだ小さい頃、ヘロデ王からイエスを守るために彼らは長い間エジプトに避難していました。彼らが再びナザレに戻って住んだのは、王が死んでからのことです。

 イエスは成人され、宣教を開始されます。マリアはカナの結婚式に出席し、その主人公となりました。そして、エルサレムへの最後の旅、イエスの受難と死まで、「離れたところ」からイエスに付き添います。イエスの復活後、マリアは、弟子たちの母として、エルサレムに残り、聖霊降臨まで彼らの信仰を支えました。

 「御子の娘」、「御子の最初の弟子」となったマリアは、これらすべての歩みを通し、「希望の巡礼者」でした。マリアは、人類の希望であるイエスをこの世にもたらし、養い、育て、神のことばに従って自分を形作りながら、イエスに従ったのです。

 ベネディクト16世が記されたように、マリアは「神の言葉を住まいとし、自由にこの神の言葉の家を出入りすることができた。マリアは神の言葉で語り、神の言葉でものを考えた。[…] そこから、どれほどマリアの思いが神と一致し、どれほどマリアの意志が神のみ旨と一つになっていたかもわかる。神の言葉によって完全に満たされていたからこそ、マリアは受肉した神の言葉の母となることができた」(回勅「神は愛」41)のです。しかし、この類いまれな神の言葉との交わりにあっても、マリアは「修行時代」の苦労を免れてはいません。

 毎年恒例のエルサレム巡礼の間に12歳のイエスを見失った体験はマリアを驚かせ、イエスを見つけた時、ヨセフをも代弁して、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(ルカ福音書2章48節)と言わせたほどでした。

 マリアとヨセフは、子を見失った親の苦しみを経験しました。二人ともイエスが親類の道連れの中にいると信じていたが、一日中イエスを見なかったため、イエスを捜し始め、道を引き返した。神殿に戻ると、彼らは、つい先ほどまで保護すべき子どもに見えていたイエスが、突然成長したかのように、律法の学者たちと肩を並べ、聖書をめぐる議論に加わっているのを見つけます。

 とがめる母を前に、イエスはすげなく答えた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。マリアとヨセフは理解できなかった。幼子となられた神の神秘は、彼らの知性を超えるものでした。両親は愛の翼の下にいとも大切なその子を守りたいと思っていました。これに対して、イエスは、御父に仕え、御言葉に浸って生きる、御父の子としてのご自身の召命を生きたい、と望んでおられたのです。

 ルカ福音書のイエスの幼少期の物語は、このように、イエスに対するヨセフの父性を思い起こさせるマリアの最後の言葉と、そして、この父性というものが、明白な優位性を認める天の御父にいかに由来しているかを認識させる、イエスの最初の言葉で終わっています。

 私たちもマリアとヨセフのように、希望に満ちて、主を捜しに行きましょう。主は、私たちの狭い考えに収まることを許さず、場所ではなく、優しい神の父性に対する愛に満ちた答え、すなわち子としての生活の中に見出されるお方なのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

2025年3月6日

☩「世界が直面する”複合危機”に対処するために、科学の貢献、国際機関の強化が必要だ」-教皇庁生命アカデミー総会に呼びかけ

Pope Francis calls for multilateralism in a world facing "polycrisis"Pope Francis calls for multilateralism in a world facing “polycrisis”  (Copyright 2011 Brett Jorgensen Photography)

(なお、このメッセージは2月26日に用意されていたものだ。)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月3日

☩「祈り、治療してくださっている方々に感謝。世界の平和への祈りも絶やさずに!」-教皇、年間第8主日の説教原稿で

People pray for Pope Francis outside Rome's Gemelli Hospital in Rome, where the Holy Father is cotinuing to receive treatment People pray for Pope Francis outside Rome’s Gemelli Hospital in Rome, where the Holy Father is cotinuing to receive treatment  

 また、この日のミサで朗読された福音の箇所について、「この福音は、人間の五感のうちの2つ、視覚と味覚に焦点を当てています」とされ、まず、「視覚」について、「世界をよく観察し、隣人を慈愛をもって判断できるよう、目を鍛えるように、とイエスが私たちに求めています… 他の人々への非難ではなく、思いやりのある眼差しだけが、真の美徳である兄弟的な矯正を可能にするのです。”兄弟的”でなければ、それは矯正ではありません!」と強調。

 次に「味覚」については、「すべての木はその実によって知られる」というイエスの教えを思い起こされ、「人間から生まれる『実』とは、例えば、その人の唇から発せられる言葉」とされ、さらに、暴力的で偽りの多い下品な言葉である「腐った実」と、公正で誠実な言葉であり、私たちの対話に味わいを与える「良い実」とを対比された。

 そして、これらの2つの側面について考え、教皇は信者たちに自分自身の生活を振り返るよう信者たちを促され、次のように自問するよう求められた—「私は兄弟姉妹である他の人々をどのように見ているだろうか? そして、私は他の人々からどのように見られていると感じているだろうか? 私の言葉は良い味わいを持っているだろうか、それとも苦味や虚しみに満ちているだろうか?」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月2日

☩「豪華さを避け、『自分が主役』でなく『イエスに従う者』として典礼を行うように」-教皇、司教の典礼責任者育成セミナー参加者たちに

儀式における教皇フランシスコ(写真資料)  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

    教皇フランシスコは28日、教皇庁立聖アンセルモ典礼学研究所で行われた「司教の典礼責任者の育成」を目的とした国際セミナーの参加者らにメッセージをおくられ、「典礼は、常に(現地の)文化の中に受肉されなければならず、また、神の民の生活に触れ、その民に真の霊的性格を啓示するものでなくてはなりません」と説かれた。

 教皇は、セミナーの参加者たちとの会見を予定されていたが、入院・治療中のため、挨拶文をメッセージの形で主催者に託された。

 メッセージで教皇は、また、「神の民の苦しみや夢や心配を無視せず、無用な豪華さや、自分が主役になろうとする姿勢を避け、イエスに従う者としての姿を表わす典礼スタイルを推進するように」と促された。

 そして、「世界のそれぞれの教区が、司教とそのカテドラルを典礼において倣うべきモデルとして見つめなければなりません」とされたうえで、典礼責任者の「共同体の祈りの奉仕のために置かれた教え手」としての役割を強調。典礼責任者の役割を「すべての儀式を賢明さをもって、会衆の善のために準備すること」とされ、「典礼書の中で表現される神学的本質が儀式の実践の中に反映されるように」と願われた。

 教皇はまた、「典礼を重んじることは、祈りを重んじること。それはすなわち、主との出会いを重んじることにほかなりません」と指摘。典礼に配慮する人々が「常に神の民を思い」、「叡智と愛ある礼拝」においてその民に寄り添うことを希望された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月1日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑦シメオン夫妻のように、外見を超えて物事を見つめる澄んだ眼差しを持とう

「主の奉献」 アルメニアのイコン「主の奉献」 アルメニアのイコン 

(2025.2.26  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが26日の水曜恒例の一般謁見のために用意された聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の7回目のテキストが同日、バチカン広報局から発表された。

 今回の講話では、「I.イエスの幼少期」の考察として、「イエスの神殿への奉献」がテーマに取り上げられている。要旨は次のとおり。

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 今日は「「イエス・キリスト、私たちの希望」の素晴らしさを、イエスの神殿への奉献の神秘において観想しましょう。

 福音記者ルカは、イエスの幼少期のエピソードの中で、マリアとヨセフが主の律法とすべての規定に従順であったことを示しています。

 実際には、イスラエルでは子を神殿に奉献する義務はありませんでした。しかし、主の御言葉に耳を傾けながら暮らし、その御言葉に従いたいと望む人々は、これを実践すべき大切なこと、と考えていたのです。たとえば、預言者サムエルの母ハンナには子供がいませんでしたが、神は彼女の祈りを聞き、男の子を授けられました。ハンナはその子を神殿に連れて行き、永遠に主に捧げました。(サムエル記上・1章24∼28節参照)。

 ルカは、聖都エルサレムでのイエスの最初の礼拝行為を語っています。エルサレムは、イエスがそこに向かう決意を固められた時(ルカ福音書9章51節)から、ご自身の使命の完遂を目指す、宣教の旅全体の目的地となっていきました。

 マリアとヨセフは、家族の、民の、そして主なる神との契約の物語に、イエスを接ぎ木したにとどりません。イエスを守り育てることに専念し、イエスを信仰と礼拝の環境に導きました。そして、自分たちをはるかに超える一つの召命への理解を次第に深めていったのです。

 「祈りの家」(ルカ福音書19章46節)である神殿で、聖霊は一人の老人の心に語りかけます。神の聖なる民の一員であるシメオンは、預言者らを介して神がイスラエルにされた約束の成就への願いを育み、期待と希望を心に抱いていました。シメオンは、主の油が注がれた方が神殿内におられるのに気づき、「闇の中」に沈んだ民の間に光が輝く(イザヤ書9章1節参照)のを見ました。そして、イザヤが預言したように、「私たちのために生まれ」「私たちに与えられた」「平和の君」(イザヤ書9章5節)である、その幼子に会いに行きました

 シメオンは、小さく、か弱いその幼子を腕に抱きます。そして、幼子を抱きしめることで、慰めを得、人生が満たされたのは彼自身でした。その気持ちを深い感動と感謝に満ちた賛歌で表したシメオンの歌は、教会において一日の終わりの祈りとなりました。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です」(ルカ福音書2章29-32節=「聖書協会・共同訳」)。

 シメオンは、「見て、認めた者の喜び」を歌い、イスラエルと異邦人の救い主との出会いを他の人々に伝えることができました。賜物として受け、他者に伝える信仰の証人です。欺くことのない希望の証人、人の心を喜びと平安で満たす神の愛の証人である。この霊的な慰めに満たされた老人シメオンは、死を「終わり」としてではなく、「成就、充満」として捉え、人を無にするのではなく、彼が待望し、信じている真の命へと導く「姉妹」としてそれを待っています。

 その日、幼子イエスのうちに受肉した救いを見たのは、シメオンだけではありません。同様のことがアンナにも起きました。八十歳を超えた未亡人で、神殿の奉仕に尽くし、祈りに身を捧げていました。彼女は、幼子イエスを見て、まさにその幼子によってご自分の民を贖われたイスラエルの神を賛美し、人々に伝え、預言的な言葉を惜しみなく告げ広めます。

 二人の老人の贖いの歌は、すべての民と世界のために聖なる年を告げさせるものです。エルサレムの神殿で、希望が再び心に灯った。なぜなら、その中に、私たちの希望であるキリストがお入りになったからです。

 私たちも、シメオンとアンナに倣いましょう。この「希望の巡礼者たち」は、外見を超えて物事を見つめられる澄んだ眼差しを持っています。「小ささの中におられる神の存在に気づき、神の訪れを喜びをもって迎え、兄弟姉妹の心に希望を再び灯す術」を知る人たちなのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月27日

☩「関係者の責任と良心が必要」-バチカンなど主催の会議「AI(人工知能)と性的虐待:防止に向けた新たな課題」へメッセージ

FILE PHOTO: Illustration shows words 'Artificial Intelligence AI'FILE PHOTO: Illustration shows words ‘Artificial Intelligence AI’  (REUTERS)

 

 

*インターネットに革命をもたらすAI

 

 そしてこの会議が、「AI(人工知能)」というテーマを選んだことを思い起こされ、「津波のように進化し続けるインターネットが、世界の現実を革命的に変えています… 高齢の司祭にとって、これらのトピックの技術的な要素は理解するのが難しいかもしれません。また、ウェブという、私たちが『パラレルワールド』と呼ぶ世界におけるあらゆる進歩について、最新の状況を把握し続けるのは困難です。しかし、真実、つまり『大文字のT』で始まる真実、すなわちイエス・キリストは、新しいものとして現れるあらゆる主題について考察する上で有効です」と指摘。

 さらに、「AIに関して生じる可能性のある多くの問題について、確かに体系的に議論で取り上げることになるでしょうが、その中には『責任』も含まれます」と述べられた。

 

 

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年2月26日

☩「希望を持って、共に旅をする機会にしよう」-教皇が四旬節を前にメッセージ

2025.02.24 Mercoledì delle Ceneri - Quaresima (Mirek Krajewski)

*信仰生活は回心の旅

 

教皇は、聖書に登場するイスラエルの民がエジプトから約束の地へと向かった出エジプトを思い起こされ、「私たちの人生もまた、旅であり、その旅は神へと向かうべきもの。この旅は単なる比喩的なものではなく、絶え間ない『回心』への呼びかけを伴うもの」であり、罪を犯す機会や人間の尊厳を損なう状況を後に残ことのないよう促すもの、とされた。

そのうえで、四旬節のこの時期に、自らの人生を振り返るように、「自分は積極的に精神の刷新の道を歩んでいるのか」、それとも「恐れや絶望感に足止めされているのか」、あるいは「居心地の良い領域から出ることをためらっているのか」と自らに問いかけるように勧められた。

さらに、教皇は、ヘブライ人の「奴隷から自由への苦難に満ちた道」と現代の移民や難民の苦境を比べながら、この四旬節を「よりよい生活を求めて悲惨と暴力の状況から逃れざるを得ない人々」の苦闘と、自らの人生をどう関連付けるかを考える機会として活用し、「そうすることで神が私たちに何を求めているのかを発見するに… そうすれば、放浪者である私たち全員にとって良い『心の整理』となるでしょう」と述べられた。

そして、「聖書の出エジプトを考えるとき、自分自身や愛する人たちのよりよい生活を求めて、悲惨と暴力の状況から逃げている現代の兄弟姉妹たちのことも考えずにはいられくなります。 このように、『回心』の最初の呼びかけは、私たち全員がこの世で巡礼者である、という認識から来るのです」と強調された。

*共に歩む旅への呼びかけ:交わりの呼びかけ

 

教皇の四旬節のメッセージの根本的な側面は、共同体と交わり(synodality=共働性)の強調にあう。つまり、キリスト者は「孤立してではなく、共に歩むべきだ」という考えだ。教皇は、「聖霊は私たちを自己中心的な状態に留めるのではなく、神と兄弟姉妹に向かって歩み続けるよう促しています」とされ、「『共に歩む』とは、『誰一人、取り残したり排除したりすることなく、神の子としての共通の尊厳を基盤とした一致を強化すること』にあります」と強調。

また、信者たちに対して、「自己中心的な考えに陥る誘惑に抵抗し、家族や職場、地域社会において他者と共に歩むことができるかどうかを考える」よう求められ、次のように自らに問いかけるよう勧められた―「私たちは他者を歓迎しているだろうか? 疎外感を感じている人々を受け入れているだろうか?」、さらに、「神の御前で、司教、司祭、修道者、信徒として神の国に仕える者として、私たちが他者と協力しているだろうか?」「身近な人にも遠くにいる人にも、具体的な行動で歓迎の意を示しているだろうか?」「他者を共同体の一員と感じさせているだろうか、それとも距離を置かせているだろうか?」。

*希望を持って旅する呼びかけ

教皇のメッセージの、四旬節の旅の3つ目の基本的な次元は「希望」だ。それは、イエスの復活における救いと永遠の命という神の約束、罪と死に対する勝利に根ざしており、抽象的なものではなく、具体的に、それを生きるものでなければならない。

教皇は、「私たちが神の慈悲を本当に信頼しているかどうかを吟味するように」とされ、具体的に、「私たちは神の赦しを信じているだろうか、それとも自己信頼の罠に陥っているだろうか?」、そして、「私たちは、正義と友愛への献身、私たちの共通の家を大切にし、誰もが疎外感を感じないような方法を鼓舞する希望を具体的に経験しているだろうか?」と自問するよう促された。

 

メッセージの最後に教皇は、アヴィラの聖テレサの言葉を引用され、「このメッセージは、『神の約束は、神の時が来れば果たされる』ということを理解し、警戒を怠らず忍耐強くあるように。アヴィラの聖テレサはこのように祈っています―『希望よ、わが魂よ、希望よ。汝は日も時も知らず。汝の焦りが確かなものを疑わしくさせ、ごく短い時を長く感じさせるとしても、すべてはすぐに過ぎ去る。だからよく見張れ』と」と語られた。

そして、この希望の旅を「希望の母」である聖母マリアの取り成しに委ね、主の復活の喜びを祝う準備をする中で、聖母マリアが私たちと共ににいてくださるよう祈られている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年2月26日

☩「全人類にとって、痛ましく恥ずべき記念日だ」-病床の教皇、ロシアのウクライナ侵攻開始3周年に

War-torn towns in Ukraine's Donetsk regionWar-torn towns in Ukraine’s Donetsk region 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年2月24日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑥「希望の巡礼者」、東方の三博士に倣おう

(2025.2.19 バチカン放送)

 入院治療中の教皇フランシスコが、19日の水曜恒例一般謁見のために用意された聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の原稿を発表された。

 「イエスの幼少期」における「王である幼子への三博士の訪問」をテーマにされた今回の内容は以下の通り。

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 イエスの幼少期をめぐる福音書中のエピソードに、マタイが語る「学者たちの訪問」があります。多くの文化の中で特別な人々の誕生の前兆と考えられていた「星の出現」に惹かれた学者たちは、東方から行き先も定かでない旅へと出発します。東方の三博士と呼ばれる彼らは、契約の民には属さない人々でした。

 前回、私はベツレヘムの羊飼いたちについてお話ししました。彼らはユダヤ教の社会では「清くない」とみなされ、疎外された存在でした。今日、取り上げる東方の三博士は、「異邦人」という別のカテゴリーの人々です。彼らは、これまでにまったく前例のない王権をもって歴史の中に入った神の御子にただちに敬意を表しにやって来ます。

 福音書は、貧しい人や異邦人が、幼子となられた神、世の救い主に、最初に会うために招かれた人々であることを明確に語っています。

 東方三博士は、ノアの3人の息子たちから生じた最初の民族の象徴とも、古代に知られていた三大陸、アジア・アフリカ・ヨーロッパの、あるいは人間の人生の3つの段階、若年期・成熟期・老齢期の象徴とも考えられていました。

 このようなあらゆる解釈を超え、これらの博士たちは、聖書の歴史の中で召し出された偉大な人々のように、留まることなく、動き、歩み出すようにとの招きを、感じ取っていました。彼らは自分自身を超えて、高きを見つめることができる人たちです。

 空に現れた星に惹かれ、ユダの地に向かった彼らは、エルサレムに着き、そこでヘロデ王と出会った。ユダヤ人の王として生まれた幼子の情報を尋ねる博士たちの純粋さと信頼は、ヘロデ王の狡猾さに出くわします。ヘロデは王座を失う恐れに駆られ、すぐに状況を把握しようと、律法学者たちを集め、問いただしました。

 地上の支配者の権力は、このようにすべての弱さを呈しています。聖書に詳しい専門家たちは、ミカの預言に従い、イスラエルの民の指導者にして牧者である方が生まれる場所を王に報告した。その場所とは、偉大なるエルサレムではなく、いと小さきベツレヘムでした(ミカ書5章1節参照)。それは、使徒パウロが「神は力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(コリントの信徒への手紙1・1章27節)と、コリントの信徒たちに思い起こさせたのと同じです。

 しかし、メシアがお生まれになった場所を正確に見出した律法学者たちは、他者に道を示しながらも、自分たちはまったく動きませんでした。神の”周波数”に自分を合わせるには、預言書の知識だけでは十分ではなかったのです。自分の内面を掘り起こし、神の御言葉によって、神に対する熱望を掻き立てられ、「神を見たい」という願いに火をつけられる必要がありました。

 人を欺く、暴力的な者たちがするように、この時点で、ヘロデは密かに、星が現れた正確な時期を博士たちに尋ね、旅を続けるようにと励まし、自分も幼子を拝みに行けるよう、知らせに戻って欲しい、と頼みます。権力にしがみつく者にとって、イエスは受け入れるべき希望ではなく、排除すべき脅威だったのです。

 博士たちが再び出かけると、星がまた現れ、イエスのもとまで導いた。彼らはその星を見て、喜びにあふれました。真剣に神を求める者の心を揺さぶる聖霊は、同時にその心を喜びで満たしてくださるからです。

 家に入った博士たちは、ひれ伏して幼子イエスを拝み、王に、そして神にふさわしい、貴重な贈り物を捧げます。なぜでしょう。彼らは何を見たのでしょうか。古代の著者はこう記しています。彼らが見たのは「御言葉が負われたつつましい小さな体であったが、神としてのその栄光は彼らには隠されてはいなかった。そこに見えるのは一人の幼子であったが、彼らは神を拝んだ」(アクイレイアのクロマツィオ、335年頃-407年頃)。こうして東方の三博士は、あらゆる異教徒の中で最初の信者となり、あらゆる言語と国々から集められた教会の象徴となったのです。

 私たちも、東方の三博士に倣いましょう。「希望の巡礼者」である彼らは、大きな勇気をもって、イスラエルだけでなく、すべての民族の希望であるお方に、自分たちの歩み、心、持っているものを向けました。彼らから、小ささの中におられる神を礼拝することを学びましょう。その王権は、私たちを押しつぶさず、私たちを解放し、尊厳をもって仕えることを可能にしてくれます。私たちの信仰と愛を表すために、最も美しい贈り物を神に捧げましょう!

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月20日

☩「すべての人々が『世界を救う美の歌い手、芸術家』となるように」-教皇フランシスコが病床から呼びかけ

People waiting outside the Gemelli HospitalPeople waiting outside the Gemelli Hospital 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年2月16日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑤「お生まれになったイエスは”飼い葉おけ”に置かれた」

教皇フランシスコ 2025年2月12日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコ 2025年2月12日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2025.2.12  バチカン放送)

 教皇フランシスコは12日の水曜恒例一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」をテーマにした連続講話を続けられた。今回は「ベツレヘムでのイエスの誕生」を中心に考察された。

 なお、教皇は長引いている気管支炎のため、予定原稿の本文の代読をバチカン国務省のピエルルイジ・ジロリ師に委ねられた。

 講話の要旨は以下の通り。

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 聖年の「イエス・キリスト、私たちの希望」をめぐる連続講話。今日は、ベツレヘムでのイエスの誕生について考えましょう。

 神の御子は、私たちの旅の同伴者となって歴史の中に入られ、まだ母の胎内にいる時から旅を始められます。

 福音記者ルカは、イエスは母の胎に宿るとすぐに、ナザレからザカリヤとエリザベトの家に行かれたことを語っています。マリアは月が満ちると、ヨセフと共にナザレからベツレヘムへ、住民登録のために向かわれます。ダビデ王の町に行かざるを得なくなったのです。それはヨセフが生まれた町でもありました。人々に待ち望まれたメシア、いと高き神の御子は、他のどの市民とも同じように、自らを数えられ、住民登録されました。御子は、「自分こそが全地の支配者だ」と考える皇帝アウグストゥスの勅令に従ったのです。

 ルカはイエスの誕生を 「正確に推定可能な時代」と「正確に示された地理的環境」に置きました。そのため「普遍的なものと具体的なものが互いに触れ合う」ようになりました(ベネディクト16世、『イエスの幼年時代』 2012、77)。歴史の中に入られた神は、世界の構造を解きほぐすのではなく、それを内側から照らし、再び創造しようとされます。

 ベツレヘムとは「パンの家」を意味します。そこでマリアは月が満ちて、イエスはそこで、世の飢えを満たすために天から降ってきたパン( ヨハネ福音書6章51節参照)としてお生まれになります。天使ガブリエルは、メシアである王の誕生を、偉大なしるしのうちに告げます。「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ福音書1章31-33節)。

 しかしながら、イエスは王としてまったく前例のない形で誕生されました。実際、「彼らがその場所にいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」( ルカ福音書2章6-7節参照)。神の御子は、王宮ではなく、家の裏側、動物たちがいる場所でお生まれになったのです。

 このように、ルカは、神は物々しい宣言と共にこの世に来られるのでも、センセーショナルに登場するのでもなく、謙遜のうちにその旅を始められることを示しています。

 では、この出来事の最初の証人たちは誰なのでしょう。それは数人の羊飼いたちでした。羊飼いたちは、教養に乏しく、常に接している動物たちの匂いをまとい、社会の片隅で暮らしていました。にもかかわらず、彼らは、神がご自分の民にご自身を教えるための職業、「牧者」を実践していました( 創世記48章15節、49章24節、詩編23章1節、80章2節、イザヤ40章11節参照)。

 神は羊飼いたちを、歴史上これまで聞いたことのない最も素晴らしい知らせを受け取る者として選ばれました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章10-12節)。

 メシアに会いに行くための場所とは、飼い葉桶でした。実際、長く待たれた「世の救い主、御子において万物が造られたにもかかわわらず(コロサイの信徒への手紙1章16節参照)、御子のための場所はなかった」(ベネディクト16世、『イエスの幼年時代』 2012、80)のです。

 羊飼いたちはこうして、動物たちにあてがわれた大変貧しい場所で、待ち望んだメシアが「彼らのために」彼らの救い主、彼らの牧者となるために生まれたことを知ります。それは、彼らの心を驚きと賛美と喜びの告知へと開く知らせでした。「羊飼いたちは、他のたくさんのことに熱心な多くの人々とは異なり、本質的なもの、すなわち、与えられた救いについての最初の証人となった。受肉の出来事を受け入れられるのは、最も謙遜で貧しい人々である」(使徒的書簡『アドミラビレ・シニュム』5項)

 私たちもまた、羊飼いたちのように、神の御前で驚嘆と賛美を抱く恵みを、主が私たちに託された才能・カリスマ・召命、そして主が私たちのそばに置いてくださった人々を守る恵みを祈りましょう。弱さの中で、神なる幼子の素晴らしい強さに気づくことができるよう主に願いましょう。神なる幼子は、世界を新たにし、全人類のための希望に満ちたご計画によって、私たちの人生を変えるために来られたのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月13日

☩「ウクライナ、パレスチナ… 紛争地域の平和実現へ、日々祈るように」-教皇、カトリック信者たちに訴え

A Palestinian man stands on the rubble of a destroyed building in central GazaA Palestinian man stands on the rubble of a destroyed building in central Gaza  (AFP or licensors)

(2025.2.12 Vatican News  Joseph Tulloch)

 教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、世界のカトリック信者たちに「平和のために祈り、平和のために懺悔しなさい」と促された。

 一般謁見の終わりに教皇は、用意していたイタリア語を話す人たちへのあいさつ文を脇におかれ、”即席”で平和への呼びかけをなさった。「私は、戦争状態にあるすべての国々を思い浮かべます… 姉妹たち、兄弟たちよ、平和のために祈りましょう。皆でそれぞれの役割を果たそうではありませんか」と。

 さらに教皇は、「私たちは人を殺すために生まれてきたのではなく、人を成長させるために生まれてきたのです。平和への道を見出そうではありませんか」と信者たちに呼びかけ、「日々の祈りの中で平和を求める」よう促された。

 そして、ウクライナでの戦争勃発以来、一般謁見でほぼ毎回なさっておられるように、「苦しむウクライナ」について言及。「どれほど苦しんでいることか!」と強く嘆かれた。続けて、世界で最も悲惨な紛争地域としてウクライナに加え、「パレスチナ、イスラエル、ミャンマー、北キブ、南スーダン」を挙げ、「どうか平和のために祈ってください。平和のために懺悔してください」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年2月12日

☩「移民の権利と尊厳を守る取り組みを支持する」-米国の司教団あての書簡で

An "illegal" migrant is deported by a US Immigration and Customs enforcement officialAn “illegal” migrant is deported by a US Immigration and Customs enforcement official  (Public Domain)

 

 

 * 教皇が米司教団に送られた書簡の全文以下の通り。

Dear Brothers in the Episcopate,

I am writing today to address a few words to you in these delicate moments that you are living as Pastors of the People of God who walk together in the United States of America.

1. The journey from slavery to freedom that the People of Israel traveled, as narrated in the Book of Exodus, invites us to look at the reality of our time, so clearly marked by the phenomenon of migration, as a decisive moment in history to reaffirm not only our faith in a God who is always close, incarnate, migrant and refugee, but also the infinite and transcendent dignity of every human person.[1]

2. These words with which I begin are not an artificial construct. Even a cursory examination of the Church’s social doctrine emphatically shows that Jesus Christ is the true Emmanuel (cf.Mt1:23); he did not live apart from the difficult experience of being expelled from his own land because of an imminent risk to his life, and from the experience of having to take refuge in a society and a culture foreign to his own. The Son of God, in becoming man, also chose to live the drama of immigration. I like to recall, among other things, the words with which Pope Pius XII began his Apostolic Constitution on the Care of Migrants, which is considered the “Magna Carta” of the Church’s thinking on migration:

“The family of Nazareth in exile, Jesus, Mary and Joseph, emigrants in Egypt and refugees there to escape the wrath of an ungodly king, are the model, the example and the consolation of emigrants and pilgrims of every age and country, of all refugees of every condition who, beset by persecution or necessity, are forced to leave their homeland, beloved family and dear friends for foreign lands.”[2]

3. Likewise, Jesus Christ, loving everyone with a universal love, educates us in the permanent recognition of the dignity of every human being, without exception. In fact, when we speak of “infinite and transcendent dignity,” we wish to emphasize that the most decisive value possessed by the human person surpasses and sustains every other juridical consideration that can be made to regulate life in society. Thus, all the Christian faithful and people of good will are called upon to consider the legitimacy of norms and public policies in the light of the dignity of the person and his or her fundamental rights, not vice versa.

4. I have followed closely the major crisis that is taking place in the United States with the initiation of a program of mass deportations. The rightly formed conscience cannot fail to make a critical judgment and express its disagreement with any measure that tacitly or explicitly identifies the illegal status of some migrants with criminality. At the same time, one must recognize the right of a nation to defend itself and keep communities safe from those who have committed violent or serious crimes while in the country or prior to arrival. That said, the act of deporting people who in many cases have left their own land for reasons of extreme poverty, insecurity, exploitation, persecution or serious deterioration of the environment, damages the dignity of many men and women, and of entire families, and places them in a state of particular vulnerability and defenselessness.

5. This is not a minor issue: an authentic rule of law is verified precisely in the dignified treatment that all people deserve, especially the poorest and most marginalized. The true common good is promoted when society and government, with creativity and strict respect for the rights of all — as I have affirmed on numerous occasions — welcomes, protects, promotes and integrates the most fragile, unprotected and vulnerable. This does not impede the development of a policy that regulates orderly and legal migration. However, this development cannot come about through the privilege of some and the sacrifice of others. What is built on the basis of force, and not on the truth about the equal dignity of every human being, begins badly and will end badly.

6. Christians know very well that it is only by affirming the infinite dignity of all that our own identity as persons and as communities reaches its maturity. Christian love is not a concentric expansion of interests that little by little extend to other persons and groups. In other words: the human person is not a mere individual, relatively expansive, with some philanthropic feelings! The human person is a subject with dignity who, through the constitutive relationship with all, especially with the poorest, can gradually mature in his identity and vocation. The trueordo amoristhat must be promoted is that which we discover by meditating constantly on the parable of the “Good Samaritan” (cf.Lk10:25-37), that is, by meditating on the love that builds a fraternity open to all, without exception.[3]

7. But worrying about personal, community or national identity, apart from these considerations, easily introduces an ideological criterion that distorts social life and imposes the will of the strongest as the criterion of truth.

8. I recognize your valuable efforts, dear brother bishops of the United States, as you work closely with migrants and refugees, proclaiming Jesus Christ and promoting fundamental human rights. God will richly reward all that you do for the protection and defense of those who are considered less valuable, less important or less human!

9. I exhort all the faithful of the Catholic Church, and all men and women of good will, not to give in to narratives that discriminate against and cause unnecessary suffering to our migrant and refugee brothers and sisters. With charity and clarity we are all called to live in solidarity and fraternity, to build bridges that bring us ever closer together, to avoid walls of ignominy and to learn to give our lives as Jesus Christ gave his for the salvation of all.

10. Let us ask Our Lady of Guadalupe to protect individuals and families who live in fear or pain due to migration and/or deportation. May the “Virgen morena”, who knew how to reconcile peoples when they were at enmity, grant us all to meet again as brothers and sisters, within her embrace, and thus take a step forward in the construction of a society that is more fraternal, inclusive and respectful of the dignity of all.

Fraternally,

Francis

From the Vatican, 10 February 2025

_____________________

[1]Cf. DICASTERY FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH, DeclarationDignitas infinitaon human dignity, 2 April 2024.

[2]PIUS XII, Apostolic ConstitutionExsul Familia, 1 August 1952: “Exsul Familia Nazarethana Iesus, Maria, Ioseph, cum ad Aegyptum emigrans tum in Aegypto profuga impii regis iram aufugiens, typus, exemplar et praesidium exstat omnium quorumlibet temporum et locorum emigrantium, peregrinorum ac profugorum omne genus, qui, vel metu persecutionum vel egestate compulsi, patrium locum suavesque parentes et propinquos ac dulces amicos derelinquere coguntur et aliena petere.”

[3] Cf. FRANCIS, Encyclical LetterFratelli tutti, 3 October 2020.

2025年2月12日

☩「人間の存在の意味は『心』からしか生まれない」ーパリの人工知能(AI)サミットへメッセージ

パリで開催された「人工知能(AI)アクションサミット」 2025年2月11日 パリで開催された「人工知能(AI)アクションサミット」 2025年2月11日   (AFP or licensors)

(2025.2.11  バチカン放送)

 教皇フランシスコが11日、パリで開かれた「人工知能(AI)アクションサミット」の主催国フランスのマクロン大統領にメッセージをおくられた。

 この中で教皇は、2024年6月のイタリア・プーリアでの先進7カ国首脳会議(G7)でAIをテーマにスピーチをされた際、「人工知能プログラムを選択するプロセスにおいて、人間によるコントロール可能な空間を保証し、保護すること」に言及したことを思い起こされた。

 そして、回勅『ディレクシット・ノス』を引用する形で、「アルゴリズムというカテゴリーを『心』というカテゴリーと区別する必要がある」とされたうえで、「アルゴリズムが人間を欺くために使用されることがあっても、最も内面的で真実の感情の座である『心』は決して人間を欺きません」と強調。

 会議のすべての参加者に、「人間の存在の意味は『心』からしか生まれない(パスカル『パンセ』)ことを、忘れないように」と呼びかけられた。

 教皇は、2024年のカトリック教会の「世界平和の日メッセージ」で述べられた「人工知能の規制をめぐる議論では、貧しい人や社会から疎外された人など、グローバルな政策決定プロセスで普段、耳にすることのない人々の声をも含む、すべての関係者の声を考慮に入れる必要があります」という言葉を改めて示された。

 そして、こうした視点から、パリのAIサミットに、「人工知能に関し皆が参加できるプラットフォームの創設や、すべての国が人工知能を、発展促進や、貧困との闘い、地域の文化・言語の保護に役立てることができるような取り組み」がなされるように希望され、このようなことによってのみ、「地球上のすべての人々が、人工知能に利用される、全人類の特徴である真の多様性と豊かさを反映するデータの作成に寄与できるでしょう」と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月12日

☩「先住民族の権利の擁護は、持続可能な未来の保証につながる」-IFAD主催の先住民族グローバルフォーラムへ

教皇フランシスコと先住民族の代表者たち 教皇一般謁見で (写真資料)教皇フランシスコと先住民族の代表者たち 教皇一般謁見で (写真資料)  (Vatican Media)

(2025.2.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、国際農業開発基金(IFAD)が10,11両日ローマで開催したにメッセージをおくられた。

「先住民族の自主決定権:食糧上の安全保障と主権への道のり」をテーマにしたフォーラムへのメッセージで、教皇は、「このテーマは先住民族とその古くから伝えられてきた遺産を人類家族を豊かにするものとして認識するように私たちを招いています」とされ、「先住民族とその伝統遺産は、複雑な挑戦と少なからぬ緊張を帯びた現代に、希望の地平を切り開くもの」と述べられた。

さらに、「先住民族の独自の文化とアイデンティティーを守りぬく権利を擁護することは、先住民族の人々の社会貢献の価値を認め、その存在と、その生活に不可欠な天然資源を保護する必要につながります」と指摘。

また、さらなる脅威として、多国籍企業や大口投資家、国家による耕作可能な土地の収奪の拡大を挙げ、「これらの行為は、尊厳ある生活を営むべき共同体の権利を脅かし、害をもたらすもの」と警告。 教皇は、「土地、水、食料は単なる商品ではなく、人々の生活、人と自然の絆の基盤そのもの」と強調され、「先住民族の権利を擁護することは、正義の問題であるのみならず、すべての人にとって持続可能な未来を保証することでもあります」と語られた。

最後に、「会議の実りが各国の指導者に適切な対応を促すことに役立ち、人類家族が誰一人排除され、取り残されることなく、皆が共通善の追求のために一致して歩めるように」と神に祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年2月11日