☩「『家庭の愛:召命と聖性への道』へ世界中の信徒の参加を」ー来年6月に「世界家庭大会」

(2021.7.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコが2日、来年6月にローマで開催される「第10回世界家庭大会」に向けたビデオメッセージを発出され、概要を説明するとともに、ローマでの本大会とともに世界中の教区で企画される催しに、多くの信徒たちが参加するよう呼びかけられた。大会は、今年6月に開催を予定していたが、新型コロナウイルスの世界的大感染のために1年延期されている。

 教皇のメッセージは以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 次回の世界家庭大会は、2022年6月にローマで開催されます。大会のテーマは、「家庭の愛:召命と聖性への道」です。新型コロナウイルスの世界的大感染による一年の延期の後、皆が再び出会うことへの思いは大きなものです。

 これまでの大会では、多くの家族は家にいて、大会は遠く離れたものとして認識されていました。テレビで中継を見るか、あるいは多くの家庭では、まったく知られていないものでした。

 次回の大会は、今までにない形で行われます。それは、すべての家族がこの大会に関わり、教会共同体の一部であると感じることのできるイベントを実現するための、摂理的な機会となるでしょう。

 大会は、多角的で広範な形をとり、世界中の教区の参加を助けるものとなるでしょう。メイン会場のローマでは、家庭司牧における代表者らが参加し、「家庭の祭典」、「司牧会議」、そしてミサが行われ、それは全世界に中継されます。

 この期間、各教区は地域の家庭や共同体のための集いの中心となることができます。こうして、ローマに来ることができない、すべての人々も大会に参加できることになります。

 こうしたことから、諸教区の中で可能なところは、教区の共同体でこの大会への取り組みを計画するようお招きします。その際、大会のテーマを基礎に、ローマ教区が現在準備している大会ロゴを用いてください。ローマでのイベントと歩調を合わせ、皆さんの教区の催しを家族たちと計画するにあたり、皆さんが活気にあふれ、行動的かつ創造的であることを願います。

 これは、夫婦や家族、司牧者らが一体となって、家庭司牧に情熱をもって貢献する貴重な機会です。

 世界中の教区や小教区でこの集いを計画するために、互いに助け合うよう、親愛なる司牧者の皆さん、家族の皆さんに励ましを送ります。

 次回の「世界家庭大会」に向けて良き歩みを!そして、私のために祈ることを忘れないでください。ありがとう!

(編集「カトリック・あい」)

 

2021年7月3日

◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」②神は、罪深い私たちを宣教者に変えられる

Pope Francis arrives for the weekly General AudiencePope Francis arrives for the weekly General Audience 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年6月30日

☩使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日ミサ「私たちも二人に倣い、主との出会いによって”解放”されよう」

(2021.6.29 バチカン放送)

 ローマの保護者、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日の29日、教皇フランシスコが聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられ、新型コロナウイルス感染拡大防止対策に従いつつ、多くの枢機卿や司教、信者たちのほか、カルケドン府主教エマニュエルを団長とする正教会のエキュメニカル総主教庁の使節団が参加した。

 説教で教皇は、教会を支える2本の重要な柱、偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの信仰を見つめられ、「2人の使徒の生涯の中心にあるものは、彼らの優秀さではなく、生涯を変えたイエスとの出会いでした… イエスの愛にいやされ、解放された彼らは、人々を解放するための使徒となったのです」と話された。

 そして、「ペトロは、イエスの無条件の愛によって、自分の不適格さに対する思いや失敗による挫折から救われた」とされ、イエスとペトロの絆を表す様々なエピソードを思い起こされた。

 ペトロについては、経験豊かな漁師でありながら、夜通し働いても、何も獲れず、敗北感を抱いていた時( ルカ福音書5章5節、ヨハネ同21章5節参照)、屈強で激しい性格である反面、すぐに恐れにとらわれる時( マタイ14章30節参照)、主の情熱的な弟子であっても、この世の論理にしばられ、キリストの十字架の意味を理解できない時(同16章22節)、イエスのために命を捧げる覚悟を表明しながらも、イエスと一緒にいたと疑われただけで、イエスを知らないと答えてしまった時(マルコ福音書14,章66-72節)の場面を想起された。

 そして「こうしたペトロの弱さにもかかわらず、イエスは彼を無償で愛し、彼という人間に賭け、励まし続けました… イエスは、ペトロを、恐れや打算、この世の心配などから解放され、彼に、すべてを投げ打つ勇気と、人間をすなどる漁師としての喜びを与えました。まさに兄弟たちの信仰を力づけるための使命を与えたのです( ルカ福音書22章32節)」と説かれた。

 次に、サウロ=パウロについて、「彼がイエスによって何から解放されたのか」を考察され、「イスラエル王国の初代王にちなむ『サウロ』という名を持つ彼は、自分自身の強いこだわりへの隷属から解放され、小さき者を意味する『パウロ』となりました。また、先祖からの伝承を守る熱心さ( ガラテヤの信徒への手紙1章14節)や、キリスト教徒を迫害する暴力からも解放され、形式的な規律の厳守から、神と兄弟への愛へと自らを開きました」と語られた。

 また一方で、「神はパウロから使徒職の試練や、体の弱さ( 同4章13-14節)、暴力、迫害、遭難、飢え、渇き、また彼自身の『身に与えられた一つのとげ』(コリントの信徒への手紙2・12章7-10節)を取り除くことはなかったが、これらの多くの弱さと困難は、彼の福音宣教の使命を豊かにしたのです」と指摘された。

 そのうえで、「私たちも主との出会いによって常に解放されることが必要です。そして、自由な教会だけが、信頼し得る教会なのです」と強調された。

 なお、この日のミサで祝別されたパリウムは、最近任命された世界の首都大司教らに託されるもの。聖アグネスの日(1月21日)に教皇が祝別した子羊の毛を用いた白く細長い織物を輪状に仕立て、6か所に十字を刺しゅうしたもの。輪に首を通し祭服の両肩にかけるパリウムは、羊を背負う「善き羊飼い」を象徴する。 首都大司教らは、教皇から与えられたパリウムを教皇大使の手を通し信者の前で着衣する儀式を、各自の国で行う。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月30日

☩「イエスは、愛の欠落で傷ついた心を癒やしてくださる」教皇、年間第13主日正午の祈りで

(2021.6.27 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは27日、年間第13主日の正午の祈りの説教で、イエスが、私たちの罪と偏見を超えて、傷や過去の過ちに苦しむ私たちの心を癒やしてくださる、と語られた。

 教皇は説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(5章21-42節)を取り上げ、この箇所で、イエスは2つの劇的な状況に遭われ、それを通して、死と病いついて私たちに語っている、と指摘され、「イエスは、私たちの苦しみと死に心を打たれます。そしては癒しの二つのしるしを働かせ、苦しみも死も、『決定的な言葉を持たない』ことを私たちに告げられるのです」と説かれた。

*健康と優しい愛

 新型コロナウイルスの世界的大感染が未だに終息しない中で、教皇は、特に出血で苦しむ女性をイエスが癒された箇所に注目され、「この女性は、健康以上に他人から優しい愛情を受けることのできない苦しみを味わっていました。出血の病いは当時は、不純であるとみなされ、ひどい目に遭わされ、夫や家族からも離されて、心は傷つき、孤独の中で日々を送っていたのです」とされたうえで、「私たちの人生で最も深刻な病いは愛の欠如であり、愛することができないことです」と指摘された。

*優しい愛の中で癒される

 さらに教皇は、私たち全員を代表するこの無名の女性の物語で、彼女がどのように癒しを見つけることができるかについて考察された。

 彼女は、治りたい一心で、さまざまな効果のない治療に多額のお金を費やしたが、それは病状を悪化させるだけだった。「私たちもまた、愛の欠如を癒やそうと役に立たない救済策を模索し、成功とお金を求めてオンラインを使って無駄な検索に身をやつしています」と嘆かれる一方で、「でも、彼女は最後に、イエスと直接の、物理的な接触を求めることを選んだのです」と説かれた。

 そして、「主は私たちが、ご自分に出会うのを待っておられます。彼女がイエスの衣に触れて病を癒されたように、私たちの心を主に開くようにしましょう。イエスと親しく接することで、私たちは優しい愛の中で癒されるからです」と強調された。

 

*イエスの癒しの眼差しを求めて

 さらに、教皇は、イエスがこの女性がご自分の衣に触れたことに気付かれ、押し迫っている群衆の中に、彼女を見つけようとされたことに注目され、「これこそ、イエスの眼差しです。イエスの周囲には多くの人がいましたが、信仰に満ちた顔と心を持った人を探されました。イエスは群衆全体を見ているのではなく、個人を見ておられます」と述べ、イエスの眼差しは、「過去の傷や過ちにこだわらず、罪や偏見を超えて、心に届きます… イエスは、すべての人に拒絶されたその女性を癒し、彼女の信仰を讃え、『娘よ』と呼ばれたのです」と言われた。

*愛のみが命を癒す

 最後に、教皇は、信徒たち全てに対して、「イエスに、あなたの心を診て、癒してもらう」ことを勧められた。そして、「もしあなたが、イエスの眼差しをすでに経験しているのなら、愛が足りないために傷つき、孤独に苦しんでいるかもしれない周りの人たちに目を向ける必要があります… イエスはあなたに、周りの人たちに対する、外見にとどまらず、心に届く眼差しをを求めます。それは、判断するためではなく、心から受け入れる眼差し。愛だけが命を癒すからです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月27日

☩回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」を戴して、聖地や中東、エチオピアの平和を願うー東方教会支援事業会議関係者と共に

教皇フランシスコ、教皇庁東方教会支援事業会議の総会参加者と  2021年6月24日教皇フランシスコ、教皇庁東方教会支援事業会議の総会参加者と  2021年6月24日  (Vatican Media)

(2021.6.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日、バチカン宮殿で教皇庁東方教会支援事業会議の総会参加者とお会いになり、今年3月のイラク司牧訪問を思い起されて、念願であったこの訪問の実現に協力したすべての人に感謝された。

 また、この一年間の東方教会援助事業会議の活動を振り返る中で、昨年8月4日にベイルート港で発生した大規模爆発後の支援対応に言及。来月1日にバチカンで、レバノンのキリスト教諸共同体の指導者たちと「レバノンの憂慮される情勢について考察し、平和と安定の賜物を祈る一日」を予定しているが、「この集いのために聖霊の導きを祈って欲しい」と願われた。

 聖地の状況について教皇は、「イスラエルとパレスチナの間に平和の虹がかかること」を望まれる一方で、その空に「死と恐怖をもたらす兵器の轟音が響いていること」に遺憾の意を表明された。

 また新型コロナウイルスの世界的大感染がもたらしている経済危機と、人々が聖地に巡礼できなかった影響で、2020年度の「聖地のための献金」が、前年の約半分に減少したことにも触れ、聖地の教会や人々への連帯のために使われる献金の重要さを強調された。

 10年にわたる内戦で多くの犠牲者と避難民を出し続けるシリアの状況については、「当事者がそれぞれの論理から抜け出し、傷ついた国の善と復興のために勇気ある決断をする必要」を指摘された。

 また、エチオピアのティグレ州における内戦を憂慮され、民族間の争いと権力闘争に対し、教皇ご自身が回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」に込められたメッセージを改めて強調された。

 さらに、2016年のアルメニア訪問で「アルメニア使徒教会における全アルメニアの最高総主教・カトリコス、カレキン2世と平和の象徴である鳩を空に放ったこと」を振り返られ、最近の紛争でコーカサス地方の平和が再び傷つけられたことに、悲しみを表わされた。

 最後に教皇は、今回の東方教会支援事業会議の総会で特にアルメニア、ジョージアの状況に光が当てられたことに触れ、これらの国々で「カトリック共同体が福音的生活のしるし、パン種であり続けるように」と希望された。

 教皇庁東方教会支援事業会議は、東方教会省(長官:レオナルド・サンドリ枢機卿)の管轄下にある組織で、21日から第94回総会を開き、中東やアフリカから多くの関係者・専門家を招いて、聖地問題のほか、エチオピア、アルメニア、ジョージアなど、中東域の状況について幅広く意見を交換した。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月25日

◎教皇連続講話「聖パウロの『ガラテヤの信徒への手紙』」①「パウロの危機と今の状況に通じるものは」

*聖パウロの福音宣教

 この聖パウロの手紙でまず指摘すべき特徴について、教皇は、「宣教の旅の間に少なくとも2回、ガラテヤの教会共同体を訪れた聖パウロによる『福音宣教の偉大な働き』」とされた。また、「この手紙を読む限り、聖パウロが、彼が訪れた正確な場所、日時は定かでないが、ガラテヤ人は、現在のトルコの首都・アンカラを含むアナトリア地方に入植した古代ケルト族でした」と説明した。

 さらに、聖パウロは、病の為に、この地方に留まることを余儀なくされたが、聖ルカは使徒言行録の中で「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられていたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(16 章6節)としており、人体的だけでなく、精神的な動機がガラテア地方滞在の理由であったことを示唆している、と教皇は指摘。

 ここで見られるように、「福音宣教の道は、私たちの意志と計画に必ずしもよりません。それでも、あえて、自分が決めた道を改め、予見されない他の道を選ぶことのできる積極性が必要です… 私たちが知っているのは、聖パウロが不屈の宣教活動によって、ガラテヤ地方全域に分散する小さな信仰共同体を設けることに成功したということです」と続けられた。

 

*危機の最中の司牧的関心

 教皇は、パウロの司牧的な関心に焦点を移し、「パウロは、いくつもの教会を設立した後、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒の中に、自身の教えに反する諸説の種を蒔き始めている者がいることを知りました… 彼らは、『異邦人もモーセの律法に従って割礼を受ける必要があり、ガラテヤの人々はユダヤ人の規範や慣習に従うために自らの文化的アイデンティティを放棄しなければならない』とし、『パウロは真の使徒ではなく、福音を宣べ伝える権限がない』と主張しました」。

 そして、教皇は、この危機の最中にガラテヤの信徒たちの心を占めた確信の無さに注目された。特に、『ローマ皇帝に服従されたことも含めた奴隷制で織り混ぜられた自分たちの歴史にもかかわらず、イエスによってもたらされた救いが、新しい人生の始まりだ』ということを知り、信じるようになったからだ。

*パウロが置かれた危機と今の状況との類似性

 教皇は、今私たちが置かれている状況に視野を転じ、宣教者たちの存在ー特に新しいコミュニケーション手段を通して、キリストの福音を説く代わりに、自分たち自身が、キリスト教徒となる最良の道についての”真理の管理者”であることを示す存在-に言及された。

 「こうした宣教者たちは、『真のキリスト教は、自分たちが固守しているものーしばしば過去と変わらぬキリスト教ーそして今の危機に対する解決策として提示されるもの、”信仰の正当性を失わない”ための過去への回帰ーだ』と考えている」と指摘。「過去の伝統の中で獲得された確信に身を寄せたい、という誘惑が存在するのです」と警告された。

 最後に教皇は、「パウロのガラテヤの信徒への手紙の教えは、『私たちが、どの道をたどるか』を知るのに役立ちます… それは、十字架につけられ、復活したイエスの、縛られない、常に新しい道、謙遜と友愛を通して達成される信仰宣言の道、聖霊があらゆる時代に教会で働かれる、という確信を持った柔和で従順、信頼の道です」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月23日

☩「福音を告げる”仕事”に定年はない」ー7月25日「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向けて

7月25日「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向け教皇メッセージ(2021.6.22 バチカン放送)

 教皇フランシスコが22日、7月25日の第1回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向けたメッセージを発表された。

 「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、教皇が今年1月に創設を発表されたもので、イエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの日(7月26日)に近い、7月の4番目の日曜日に記念される。初回にあたる今年の同祈願日のテーマは「私はいつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節参照)。

 教皇はメッセージで、イエスが昇天前に弟子たちに言われた「私はいつもあなたがたと共にいる」という約束は、「高齢者の方々にも向けられたもの」とされ、「全教会もまた、皆さんに寄り添い、皆さんを独りにしてはならない、と願っています」と記された。

 また、現在起きている新型コロナウイルスの世界的大感染と取り上げられ、「思いがけない嵐のようにそれぞれの生活に試練を与えましたが、とりわけお年寄りに与えた影響は、厳しいものでした」と語られた。

 そして、多くの高齢者が感染し、亡くなり、あるいは配偶者や家族を失い、長い間孤立した生活を強いられている最近の状況を振り返られる中で、「主は私たち一人ひとりの苦しみを知り、痛ましい経験をした人々の側におられ、その孤独を心にかけておられます… 子に恵まれないために共同体から遠ざけられた聖ヨアキムをなぐさめるために、主が天使を遣わされたように、主は私たちにも、孤独を和らげるために天使を遣わしてくださします」と、世界中で悩み、苦しむお年寄りたちを励まされた。

 さらに、「これらの天使たちは、時には皆さんの孫や家族や友人の顔を持っています… しかしながら、いまだに、多くの場所で、親しい人たちと会うことができないでいるのは、悲しいこと」。それでも、「主はみ言葉を通しても、メッセージを送ってくださるのです」とされ、福音書を毎日1ページ読み、詩編で祈ることで、主の誠実さに感動し、主が今日、私たちに願われていることを理解することができるでしょう」と勧められた。

 また教皇は、「主はご自分のぶどう畑に、あらゆる時、人生のいかなる季節でも、働くよう人を遣わされます… 福音を告げるための仕事に定年はありません。 高齢者の召命とは、”ルーツ”を守り、若い人に信仰を伝え、小さな子どもたちの世話をすること… 社会に兄弟愛、友愛を築くためには、お年寄りたちの力が必要です」と強調。新しい社会の構築に必要な柱として「夢」「記憶」「祈り」の3つを挙げられた。

 まもなく列聖される福者シャルル・ド・フーコー神父がアルジェリアの砂漠で隠遁士として孤独な生活を送りながらも、すべての人が兄弟であることを証ししたことを思い起こされた教皇は、「福者フーコー神父に倣い、私たちも貧しい人々の苦しみに心を開くことができますように」と祈られ、高齢者たち一人ひとりが、「私はいつもあなたがたと共にいる」という慰めに満ちた主の言葉を、「若い人をはじめ、すべての人に伝えることができるように」と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月23日

☩教皇が訴え「ミャンマーの人々に救いの手を、難民の人々に心を開こう」

CORRECTION-MYANMAR-POLITICS-MILITARY

(2021.6.20 Vatican News)

 教皇フランシスコは20日の年間第12主日の正午の祈りで、故郷を追われ、飢えに苦しむミャンマーの何千人もの人々に手を差し伸べようとする同国の司教たちに声に合わせられた。また、難民の人々に心を開くように、信徒たち、世界の人々に訴えられた。

 教皇は、ミャンマーの司教団が人道的な”援助回廊”の設定の呼び掛けに留まらず、教会や修道院、回教寺院や仏教寺院、学校や病院が中立的な避難場所として安全が確保されるように求めていることに理解と支持を表明。「キリストの心が、すべての人の心を動かし、ミャンマーに平和をもたらしますように」と願われた。

 また、20日が「私たちが共に、学び、輝く」をテーマにした国連の世界難民の日であることにも注目され、「私たちが、難民の人々に心を開き、彼らの悲しみと喜びを分かち合い、彼らの勇気ある回復力から学び、世界が『人道的な共同体社会、一つの大きな家族』になることを、改めて訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月21日

☩「主を信じ、主を求めるのに疲れてはならない」教皇、年間第12主日正午の祈りで

Pope Francis at the Sunday AngelusPope Francis at the Sunday Angelus  (Vatican Media)

(2021.6.20 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは20日年間第12主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(4章35-41節)ーご自分と弟子たちが乗った舟を翻弄する嵐を、イエスが鎮められたーを取り上げ、 私たちの日々の暮らしの試練を、その高波と強風になぞらえて、「(嵐の中でも)主を追い求めることに決して疲れない信仰の恵みを願うように」と信徒たちに勧められた。

 この箇所で、高波と強風に「溺れてしまう」と恐怖を感じた弟子たちが、眠っておられたイエスを起こして助けてくれるように願る。

 教皇は、弟子たちが恐れ、戸惑っている様を、私たちが人生で試練に遭っている時になぞらえ、「私たちも主に向かって、『なぜ黙って、何もしてくださらないのですか』と叫ぶでしょう。職を失ったり、病気になったりして、”安全な港”が見つからないまま不安の波に翻弄されるとき、私たちの舟が『このまま沈んでしまうのではないか』と感じることがあります」とされた。

 そして、「そうしたときに、私たちは、最も重要なことを見失う危険を冒すことが、時としてあります。しかし、イエスは、眠っておられ、あるいは見えなくなっておられるように、私たちには見えても、実際には、私たちの側におられ、起こっていることすべてをご存じなのです。そのようにして、私たちは試されるのです」と語られた。

 さらに教皇は、「主はいつも側におられ、私たちが主と関わり、主を呼び起こし、私たちが経験していることの中心に主を置くのを待っておられるのです… 私たちは神を信じるだけでなく、神に立ち会い、神と共に声を上げ、神に叫ぶこともしなければなりません」と説かれ、騒乱から逃れるために船に乗り、欧州の港に向かおうとする移民・難民の悲壮な姿を思い浮かべられた。

 また、私たちが出会っている苦難をすべて主に告げ、分かち合う必要がある、とされた教皇は、「それは、主が、私たちに『予期しない生命の危機から避難する所、慰め、助けを見つけることができるように』と願っておられるからです。イエスを起こして呼びかける、という弟子たちの行為は、私たちが倣うべきものです」とされ、「このような弟子たちの振る舞いは、私たちが『一人では浮かんでいられない』ことを理解するのに役立ちます。船乗りが空の星を見て進路を確認するように、私たちも主に目を向ける必要がある」と説かれた。

 さらに、「私たちは、『自分が主に完全に依存していること、主の恵みこそ信仰の基本であること』を知り、『神を煩わさずに自分自身で問題に対処できる』と考える誘惑に注意する必要があります… 私たちが神に『あなたは、私たちの中に驚くようなことをなさいます』と願うとき、祈りのやさしく並外れた力が奇跡を起こすのです」と教皇は強調。

 説教の締めくくりに、「イエスが、助けを求める弟子たちにこう問いかけられましたー『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか?』と。これは私たちへの問いかけでもあるのです。特に、私たちが問題に凝り固まって、そこにしか注意が行かないとき、心を主に向け、主に信頼することしないとき、あるは、必要な時だけ主を起こそうとするとき、にです」と語られ、「私たちは、主を追い求め、主の心の扉をたたくことに決して疲れることのない信仰の恵みを願わねばなりません」と強く訴えられた。

 そして、最後に、聖母マリアに、「あなたの神に対する絶えることのない信頼が、『日々、神に身を委ねるという基本的な姿勢』を私たちに呼び覚ましてくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月20日

☩「助祭は教会での典礼奉仕の守護者」教皇、ローマ教区の終身助祭たちに語る

Pope meets permenent deacons of Rome Diocese along with thier families. 家族とともに参加した終身助祭に話しかけられる教皇フランシスコ  (Vatican Media)

*司祭叙階を考えない終身助祭が「聖職者主義」克服に役立つ

 教皇は、司祭叙階を前提とする者に限られていた従来の助祭と異なる、司祭叙階を前提としない「終身助祭」は「『司祭という特権階級を、神の民の上に置く『聖職者主義』の悪習を克服するのに役立つ」とされ、「これが克服されないと、教会における聖職者主義が続いてしまうでしょう」と語られた。

 さらに、「助祭は、神の民への奉仕に捧げられているからこそ、『教会では、誰も自分自身を他の人よりも上位につけることができない』ことを、私たちに思い起こさせてくれます。教会では、『身を低くする』論理が適用されねばならない… 最も小さい者、全ての人の奉仕者としてご自分の身を低くされたイエスに倣って、私たちは皆、自分自身を低くするように求められているのです」と強調。

 「ですから、イエスの弟子にとって『愛することは、仕えること』であり、『仕えることは、治めること』だということを忘れないでください。権力は奉仕にある。他にありません…助祭は教会における奉仕の守護者ー真の『力』の守護者ーであり、誰も奉仕の力を超える者はいません」と説かれた。

 さらに、ご自身が「構造的に助祭的な教会」と呼ばれるものについて言及された教皇は、終身助祭たちに、「もしもあなた方がこの奉仕の特質を生かさなければ、助祭職は不毛となり、実を結ぶことができず、ゆっくりと世俗的になっていくでしょう」とも注意を与える一方、 助祭の役目は「愛をもって燃え、謙遜と喜びをもって奉仕する心」を持つことを教会に気付かせることにある、とされ、「”最前線”を求めることなく職務に励む助祭の寛容さは、福音の香りがし、ご自分に背を向ける人々にさえお会いになろうとする神の謙遜の素晴らしさを語っています」とその役割を高く評価された。

 

*助祭職が専念すべきは「愛と管理」

 司祭の召命が減っている現状が、代替措置としての助祭の貢献を求める結果にもなっているが、教皇は「そのことが、助祭職に新たな役割を設けることはありません。第二バチカン公会議は、教会憲章で、助祭職をキリスト教の初期教会のように、『愛と管理の務めに専念』することを強調しています。大帝国の首都ローマでは、7つの場所が組織され、教区とは別に下部の行政体に所属し、助祭たちはそこで、キリスト教共同体コミュニティ全体ーとくに『最も小さい者』、使徒言行録にある『必要とされない者』のために幅広く働きました」と指摘された。

 

*助祭は”半司祭”ではない

 教皇はまた、ローマ司教区が聖スタニスラオ教会やカリタスなどが貧困者に奉仕する地域で、 diakonia (ギリシャ語で「奉仕」)によって初期教会の伝統を回復しようとしていることを明らかにしたうえで、「このように、助祭は自分の方向を見失うことなく、”半分あるいは第二分類の司祭”、”熟練を要する祭壇奉仕者”になりますが、誰も区別することなく世話するー主の愛が具体的な仕方で人々の命の営みに触れていることを確かなものとするー奉仕者となるのです」と言明。

 そして、「助祭の霊性は、ひとことで言うと『内に用意が出来ていること、外に開かれていること』です。『はい』と心から言う用意があり、従順で、人生を自分が決めた課題を中心に展開させない、心を外に開き、すべての人、特に落ちこぼれた人、社会からのけ者にされていると感じる人に目を向けるのです」と語られた。

 

*期待される”助祭像”とは

 最後に、教皇は、「助祭の皆さんに、3つのことを期待しています」とされ、まず、「助祭は、謙虚であらねばなりません。孔雀のように見せびらかしたり、自分を中心に置いたりしないこと」。二つ目は、「良き夫、父親、あるいは祖父であることによって、困難の中にあるカップルに手を差し伸べて、希望と慰めをもたらすこと」。そして、最後に、「遠くにいる人たち、貧しい人たちに見つける方法を知っているだけでなく、貧しい人々や遠くにいる人々の中におられ、彼らを通して私たちの心の扉をたたかれるイエスを、教会共同体が見つけるのを助ける”番兵”になるように」と、終身助祭たちに強く求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月20日