☩「未成年者・弱者保護に規定順守以上のものが必要、性的虐待被害者への”癒し”が重要」バチカン未成年者・弱者保護委員会の総会へ

2021.11.18 abusi su minori, abuso, tutela del minore

*虐待防止は、緊急時の”毛布”ではない、福音に忠実な共同体の基盤の一つだ

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月26日

☩教皇、退院前に病院バルコニーから祝福、ガザ地区へ爆撃停止など、世界各地の戦闘停止訴え

Palestinians mourn during the funeral of loved ones killed in Israeli strikes in Khan Yunis in the southern Gaza Strip on 23 MarchPalestinians mourn during the funeral of loved ones killed in Israeli strikes in Khan Yunis in the southern Gaza Strip on 23 March  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月23日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑨ニコデモのように、私たちもイエスとの出会いに希望を見出そう

 

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年3月20日

☩「勇気をもって人生をキリストに捧げる若者たちを世界は必要としている」-5月11日の「世界召命祈願の日」に向けて

(2025.3.19  バチカン放送)

 5月11日に記念される第62回「世界召命祈願の日」に先立ち、教皇フランシスコのメッセージが19日発表された。今回のテーマは、「希望の巡礼者:人生の贈り物(仮訳)」だ。

 メッセージで教皇は、自らの人生を寛大に捧げることで「希望の巡礼者」となるように、喜びと励ましのうちに呼びかけられた。「召命とは、神が心の中に種をまかれる尊い贈り物、愛と奉仕の歩みを始めるために自分自身の外に出るようにとの呼びかけ」とされ、その召命が信徒としてのものであっても、また聖職者や奉献生活者のものであっても、「教会の中のあらゆる召命は、神が世界とご自分の子らに抱いておられる希望のしるしです」と説いておられる。

 教皇は、「自らの召命を受け入れる」ことの大切さに触れながら、「すべての召命は、希望により生かされ、それは摂理への信頼へとつながっていきます」、「キリスト者にとって『希望を持つ』とは、単に人間的な楽観ではなく、各自の人生の中で働かれる神への信仰に根差す確信、と言えます」と述べ、若者たちに向け、「神における希望は欺くことがない。神はご自分に信頼する者の一歩一歩を導いてくださるからです。『希望の巡礼者』として、勇気をもって自らの人生をキリストに捧げる、あなたがた若者たちを、世界は必要としています」と強調された。

 次に教皇は「自らの召命の歩みを識別する」ことを取り上げ、「召命の発見は、識別の歩みを通してもたらされます。その道のりは決して孤独ではなく、キリスト教共同体の中で、共同体と一緒に発展していくのです」と語られ、召命を個人だけの問題ではなく、共同体のものとすることに注意を向けられた。

 また、「私たちが自分の人生を贈り物とするなら、深い潜心は、誰もが希望の巡礼者となれることを教えてくれます」とされ、「心に語りかける神」に沈黙と祈りの中で耳を傾けるよう若者たちに促され、さらに、すべての人の召命について、「神の呼びかけに耳を傾ける人は、『疎外され、傷つけられ、見捨てられた』と感じている多くの兄弟姉妹たちの叫びを無視できない。すべての召命は、光と慰めを最も必要とする場所でキリストの現存となる使命へと開かせます。特に信徒は社会的・職業的な努力を通し、神の国の『塩、光、パン種』となるよう呼ばれています」と強調。

 最後に「召命の歩みに寄り添う」ことについて、司牧・召命担当者、特に霊的指導者たちに対し、「希望と忍耐強い信頼をもって、若者たちの歩みを神の教育のなさり方に委ね、彼らを助けながら、その歩みに神のしるしを注意深く認める、信頼できる賢明な指導者となるように」と願われ、またすべての信者に対して、「『キリストに従うことが、すなわち喜びの源泉』だということを、自らの生き方を通して告げる『希望の証し人』を、世界はしばしば無意識のうちに求めています」と述べられ、収穫のために働き手を送ってくださるように絶えず主に祈りつつ、「福音の道を常に希望の巡礼者として歩んで行こう」と呼びかけておられる。

・・・・・・・・・・

 カトリック教会は、「善き牧者の主日」と呼ばれる復活節第4主日に「世界召命祈願の日」を記念する。この日は、特に司祭や修道者への神の招きに、より多くの人が応えることができるように、またそれぞれの信者がキリスト者として自らの召命を見出せるように、全教会が祈りを捧げる。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月20日

☩「体は弱っても、『希望の輝くしるし』となるのを妨げるものは何もない」入院中の教皇、四旬節第二主日の正午の祈りの説教

Pope Francis continues treatment at Gemelli Hospital in RomePope Francis continues treatment at Gemelli Hospital in Rome 

 

2025年3月16日

☩「私たちも誘惑を受けるが孤独ではない、イエスが導いてくださるから」ー四旬節第一主日、「ボランティアの聖年」記念ミサで

(2025.3.9 Vatican Newes   Tiziana Campisi)

 「ボランティアの聖年」が8、9の両日、バチカンとローマ市内で世界100カ国からおよそ2万5千人の参加して行われ、9日、その記念のミサが、聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコの代理、チェルニー枢機卿の司式で行われた。

*社会の”砂漠”に、ボランティアの人たちが希望をもたらす

 

 一般信徒を含め約3万人が参加、枢機卿、司教、司祭など100人を超える共同司式者が参加したミサの説教は、教皇が用意された原稿をチェルニー枢機卿が代読する形で行われた。説教の冒頭で、教皇は、世界中のボランティアたちが多くの人々と共に奉仕し、献身してきたことを称え、「親愛なる皆さん、私は心から感謝いたします。なぜなら、皆さんはイエスの模範にならって惜しみなく隣人への奉仕を行っているからです。街角や家庭で、病人や苦しむ人々、投獄された人々と共に、また若者や高齢者と共に、皆さんの寛大さと献身は、私たちの社会全体に希望をもたらしています」と述べられた。

 続いて、ミサで読まれたルカ福音書の箇所(4章1₋13節)を取り上げ、イエスが「聖霊に導かれて」砂漠で直面した誘惑について考察され、初めに、「私たちの四旬節の旅は、主について行き、主が私たちのためになさった経験を分かち合うことで始まります。それは、『沈黙の場』が『傾聴の場』となり、傾聴する能力が試されるからであり、私たちは2つの全く異なる声の間で取るべき道を選ばねばならないからです」と指摘。 

 そして、「砂漠で、イエスは飢えを経験され、悪魔の言葉に誘惑されますが、それを拒絶します。私たちも誘惑を受けますが、決して孤独ではありません。イエスは私たちと共におられ、砂漠を歩む私たちを導いてくださいます。神の子である方は、悪と戦う方法を私たちに示してくださるだけではありません。それよりはるかに大きなものを与えてくださる。悪の攻撃に抵抗し、旅を続けるための強さを与えてくださるのです」と強調された。

*誘惑の3つの特徴

 

 教皇は、イエスが誘惑された際の3つの側面と、私たち自身の誘惑の3つの側面について語られ、「誘惑の始まり、誘惑の方法、誘惑の結果」について「誰もがイエスと自分の経験を比べ、自身の『回心の旅』の支えを見出すように… 主は、自らの意志の強さを示すために砂漠に向かうのではなく、父なる神の導きを素直に受け入れる、親に尽くす心から御霊に身をゆだねますが、私たちが受ける誘惑は、悪が内側から私たちを攻撃し、内なる影のように、絶え間なく脅威をもたらします」とされた。

 そして、「誘惑に遭わせないでください、と神に願うときには、神はすでにその祈りに応えられていることを思い起こす必要があります。神は、御言葉であるイエスを通して、常に私たちと共にいてくださいます。主は私たちの傍におられ、試練や不安の時に、誘惑者が声を荒らげるときに、私たちを気遣ってくださるのです」と説かれた。

 これに対して悪魔は「偽りの父であり、ゆがんだ存在。彼は神の言葉を理解することなく、知っています。父なる神とは、まったく逆です。エデンの園のアダムの時代からそうであったように、イエスという新しいアダムが、砂漠でその試練に遭うのです」と付け加えられた。

*キリストは神と人間を結びつける

 

 キリストが試練に遭う理由について、教皇は「悪魔は(神と人間を)分断し、分裂させる存在であるのに対し、イエスは神と人間を結びつけ、仲介する存在です。悪魔がその絆を断とうと企むとき、イエスは、誰も排除することなく、すべての人を受け入れる関係を築き、私たちの救済のために世界と分かち合う贈り物となれる。悪魔が私たちに、神から遠く離れていると信じ込ませ、絶望に誘惑しようとするまさにその時、神は、私たちに近づき、世界の贖いのためにご自分の命をお捧げになるのです」と説かれた。

 

 

*イエスが悪を打ち負かされ、私たちを贖われる

 

 続けて教皇は、「イエスは悪魔を打ち負かします。これは『誘惑の結果』ですが、福音書が語るように、悪魔は、イエスを誘惑するために戻って来ます。ゴルゴタで、イエスは再び誘惑を受けます―『神のであるなら、十字架から降りてみろ』と。しかし、過ぎ越しの神秘である死と復活において、キリストは、誘惑する者を完全に打ち負かしました」と語られた。

 一方、「私たち人間は、誘惑に打ち勝つことが常にできるわけではありません。誘惑に直面すると、私たちは時に落ちる。私たちは皆、罪人」だが、「私たちの敗北は決定的なものではありません。なぜなら、私たちが倒れるたびに、神は無限の愛と赦しによって、私たちを立ち上がらせてくださるからです。キリストにあって、私たちは悪から贖われたのですから、私たちの試練は失敗で終わるわけではありません」と強調。

 説教の最後に、教皇は「イエスご自身が、私たちに解放と贖罪の新たな道を開いてくださっている」ことを強調され、「信仰によって。イエスに従うことで、”放浪者”から”巡礼者”となるのです」と信者たちを励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
2025年3月10日

☩「病気や戦乱に苦しむ人々に『優しさの奇跡』が訪れるように」ー教皇、四旬節第一主日の正午の祈りで

Thousands of volunteers gathered in St. Peter's Square for Mass on Sunday as the Pope recovers in hospitalThousands of volunteers gathered in St. Peter’s Square for Mass on Sunday as the Pope recovers in hospital  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

2025年3月10日

☩「愛に満ちた社会は、中絶の圧力から女性たちを解放せねばならない」-教皇、8日の「国際女性デー」に

(2025.3.8 Vatican News   Devin Watkins)

 世界中の女性が自分らしく、健康に生きる権利を祝う「国際女性デー」の3月8日、教皇フランシスコは、人工中絶に反対するItalian Movement for Lifeの巡礼者たちにメッセージを送られ、「声なき人々を代表する胎児の側に立つように」と呼びかけられた。

 メッセージは、8日、聖ペトロ大聖堂に集まった巡礼者たちのミサで、入院・治療中の教皇に代わり、パロリン国務長官が伝えた。

 その中で教皇は、「女性たちを信頼し続けてください。彼女たちのもつ歓迎する力、寛大さ、そして勇気を信頼し続けてください… 女性たちは、市民社会と教会社会全体の支援を当てにできるはずです」と訴えられ、現代社会が「所有、行動、生産、外見」に重点を置くことで女性に圧力をかけていることを嘆かれた。

 そして、「教会は、人間の尊厳を推進し、世間から最も弱い立場にある人々を優先することで、社会のメッセージに対抗しようとしています」と強調された。

 また教皇は、「まだ生まれていない子供たちは、最も完全な意味で、声を持たず、数えられないすべての男女を象徴しています… 彼らの側に立つことは、世界から見捨てられたすべての人々と連帯することです」とされ、女性を「子供を産まないようにと迫るプレッシャー」から解放する「愛の文明」を育むように、信者たちに呼びかけ、「胎児を『私たちの一員』として認識するには『心の眼差し』が必要なのです」と説かれた。

 1975年に設立され、妊娠中の困難を抱える女性や中絶を迫られている女性を支援する複数のセンターを運営するItalian Movement for Lifeを称賛された教皇は、その活動は「率直さ、愛、粘り強さをもって、すべての人に対する真実と慈愛を密接に結びつけながら、生命の文化を推進している」と述べられたうえで、この運動が50周年を迎えるにあたり、生命の尊重を推進するすべての人々に「母性と、あらゆる段階における人間の生命の受容に対する社会的保護を推進するように」と促された。

 教皇はさらに、「この半世紀の間、一部のイデオロギー的偏見が弱まり、若者たちの創造物を大切にする感受性が育まれる一方で、残念ながら使い捨て文化が広がっています」とされ、「特に最も壊れやすく傷つきやすい人間の生命の奉仕に、すべての人々が献身するように」と信者たちに求められ、「生命は神によって創造された神聖なものであり、偉大で美しい運命のためにある。望まれない胎児、もはや自立できない高齢者、末期患者を排除することで、公正な社会が築かれるわけではありません」と強調。

 メッセージの最後に教皇は、聖母マリアに人間の生命を尊重する人々を見守ってくださるよう祈られ、また巡礼参加者たちに、ご自分とご自分の健康のために祈ってくれるよう願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月9日

☩「皆さまの祈りに感謝します。私も皆さまと共にいます!」-教皇、病院からメッセージ

Recitation of the Rosary in St. Peter's SquareRecitation of the Rosary in St. Peter’s Square  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2025.3.6   Vatican News)

教皇フランシスコ教皇が6日、21日前に入院して以来、自身の回復を祈り続けてくれたすべての人々に対して、感謝と親密さのメッセージを送られた。

「聖ペトロ広場から私の健康を祈ってくださっている皆さまに、心から感謝いたします。私も皆さまと共にいます。神のご加護がありますように。聖母が皆さまを守ってくださいますように。ありがとうございます」

教皇の感謝のメッセージは、愛と親密さの証として、ローマ時間6日夜9時に聖ペトロ広場で放送された。メッセージは、奉献・使徒的生活会省のアーティメ枢機卿が主導したロザリオの祈りの冒頭で、スペイン語で放送された。

教皇が入院された2月24日から、何千人もの信者が、ローマ在住の枢機卿、バチカンおよびローマ教区のすべての協力者と共に聖ペトロ広場に集まり、教皇の早期回復を祈り、聖なるロザリオを唱えている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月7日

☩「灰は、私たちを現実に引き戻し、希望をくれる」-教皇、「灰の水曜日」ミサの説教原稿で

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月6日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑧「マリアとヨセフのように希望に満ちて主を捜しに行こう」

神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画 

(2025.3.5  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが5日、水曜恒例一般謁見のために準備されていた聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の8回目をバチカン広報局を通じで発表された。。

 今回は、「イエスの幼少期」の考察の中から、「神殿で見出されたイエス」をテーマに取り上げておられる。

 講話の要旨は次のとおり。

**********

 イエスの幼少期を扱うこのカテケーシスの最後に、イエスが十二歳の時、両親に告げずに神殿内に留まり、心配した両親がイエスを捜し回り、三日の後に見つけた、というエピソードを取り上げましょう。

 このエピソードは、マリアとイエスの間に交わされた非常に興味深いやり取りを示しています。そして、それは決して容易ではなかった「イエスの母の歩み」を観想させるものである。実際、マリアはその長い霊的な歩みの中で、御子の神秘を次第に理解していきました。

 マリアのこの歩みの様々な段階を、振り返ってみましょう。イエスを身ごもって間もなく、マリアはエリザベトを訪ね、小さなヨハネが生まれるまでの三か月ほどそこに滞在します。そして、月が満ちた時、マリアは住民登録のためにヨセフとベツレヘムに行き、そこでイエスを出産しました。

 四十日後、彼らは幼子を神殿で捧げるためにエルサレムに上ります。そして、毎年彼らは巡礼し、神殿に戻りました。

 しかし、イエスがまだ小さい頃、ヘロデ王からイエスを守るために彼らは長い間エジプトに避難していました。彼らが再びナザレに戻って住んだのは、王が死んでからのことです。

 イエスは成人され、宣教を開始されます。マリアはカナの結婚式に出席し、その主人公となりました。そして、エルサレムへの最後の旅、イエスの受難と死まで、「離れたところ」からイエスに付き添います。イエスの復活後、マリアは、弟子たちの母として、エルサレムに残り、聖霊降臨まで彼らの信仰を支えました。

 「御子の娘」、「御子の最初の弟子」となったマリアは、これらすべての歩みを通し、「希望の巡礼者」でした。マリアは、人類の希望であるイエスをこの世にもたらし、養い、育て、神のことばに従って自分を形作りながら、イエスに従ったのです。

 ベネディクト16世が記されたように、マリアは「神の言葉を住まいとし、自由にこの神の言葉の家を出入りすることができた。マリアは神の言葉で語り、神の言葉でものを考えた。[…] そこから、どれほどマリアの思いが神と一致し、どれほどマリアの意志が神のみ旨と一つになっていたかもわかる。神の言葉によって完全に満たされていたからこそ、マリアは受肉した神の言葉の母となることができた」(回勅「神は愛」41)のです。しかし、この類いまれな神の言葉との交わりにあっても、マリアは「修行時代」の苦労を免れてはいません。

 毎年恒例のエルサレム巡礼の間に12歳のイエスを見失った体験はマリアを驚かせ、イエスを見つけた時、ヨセフをも代弁して、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(ルカ福音書2章48節)と言わせたほどでした。

 マリアとヨセフは、子を見失った親の苦しみを経験しました。二人ともイエスが親類の道連れの中にいると信じていたが、一日中イエスを見なかったため、イエスを捜し始め、道を引き返した。神殿に戻ると、彼らは、つい先ほどまで保護すべき子どもに見えていたイエスが、突然成長したかのように、律法の学者たちと肩を並べ、聖書をめぐる議論に加わっているのを見つけます。

 とがめる母を前に、イエスはすげなく答えた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。マリアとヨセフは理解できなかった。幼子となられた神の神秘は、彼らの知性を超えるものでした。両親は愛の翼の下にいとも大切なその子を守りたいと思っていました。これに対して、イエスは、御父に仕え、御言葉に浸って生きる、御父の子としてのご自身の召命を生きたい、と望んでおられたのです。

 ルカ福音書のイエスの幼少期の物語は、このように、イエスに対するヨセフの父性を思い起こさせるマリアの最後の言葉と、そして、この父性というものが、明白な優位性を認める天の御父にいかに由来しているかを認識させる、イエスの最初の言葉で終わっています。

 私たちもマリアとヨセフのように、希望に満ちて、主を捜しに行きましょう。主は、私たちの狭い考えに収まることを許さず、場所ではなく、優しい神の父性に対する愛に満ちた答え、すなわち子としての生活の中に見出されるお方なのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

2025年3月6日

☩「世界が直面する”複合危機”に対処するために、科学の貢献、国際機関の強化が必要だ」-教皇庁生命アカデミー総会に呼びかけ

Pope Francis calls for multilateralism in a world facing "polycrisis"Pope Francis calls for multilateralism in a world facing “polycrisis”  (Copyright 2011 Brett Jorgensen Photography)

(なお、このメッセージは2月26日に用意されていたものだ。)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月3日

☩「祈り、治療してくださっている方々に感謝。世界の平和への祈りも絶やさずに!」-教皇、年間第8主日の説教原稿で

People pray for Pope Francis outside Rome's Gemelli Hospital in Rome, where the Holy Father is cotinuing to receive treatment People pray for Pope Francis outside Rome’s Gemelli Hospital in Rome, where the Holy Father is cotinuing to receive treatment  

 また、この日のミサで朗読された福音の箇所について、「この福音は、人間の五感のうちの2つ、視覚と味覚に焦点を当てています」とされ、まず、「視覚」について、「世界をよく観察し、隣人を慈愛をもって判断できるよう、目を鍛えるように、とイエスが私たちに求めています… 他の人々への非難ではなく、思いやりのある眼差しだけが、真の美徳である兄弟的な矯正を可能にするのです。”兄弟的”でなければ、それは矯正ではありません!」と強調。

 次に「味覚」については、「すべての木はその実によって知られる」というイエスの教えを思い起こされ、「人間から生まれる『実』とは、例えば、その人の唇から発せられる言葉」とされ、さらに、暴力的で偽りの多い下品な言葉である「腐った実」と、公正で誠実な言葉であり、私たちの対話に味わいを与える「良い実」とを対比された。

 そして、これらの2つの側面について考え、教皇は信者たちに自分自身の生活を振り返るよう信者たちを促され、次のように自問するよう求められた—「私は兄弟姉妹である他の人々をどのように見ているだろうか? そして、私は他の人々からどのように見られていると感じているだろうか? 私の言葉は良い味わいを持っているだろうか、それとも苦味や虚しみに満ちているだろうか?」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月2日

☩「豪華さを避け、『自分が主役』でなく『イエスに従う者』として典礼を行うように」-教皇、司教の典礼責任者育成セミナー参加者たちに

儀式における教皇フランシスコ(写真資料)  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

    教皇フランシスコは28日、教皇庁立聖アンセルモ典礼学研究所で行われた「司教の典礼責任者の育成」を目的とした国際セミナーの参加者らにメッセージをおくられ、「典礼は、常に(現地の)文化の中に受肉されなければならず、また、神の民の生活に触れ、その民に真の霊的性格を啓示するものでなくてはなりません」と説かれた。

 教皇は、セミナーの参加者たちとの会見を予定されていたが、入院・治療中のため、挨拶文をメッセージの形で主催者に託された。

 メッセージで教皇は、また、「神の民の苦しみや夢や心配を無視せず、無用な豪華さや、自分が主役になろうとする姿勢を避け、イエスに従う者としての姿を表わす典礼スタイルを推進するように」と促された。

 そして、「世界のそれぞれの教区が、司教とそのカテドラルを典礼において倣うべきモデルとして見つめなければなりません」とされたうえで、典礼責任者の「共同体の祈りの奉仕のために置かれた教え手」としての役割を強調。典礼責任者の役割を「すべての儀式を賢明さをもって、会衆の善のために準備すること」とされ、「典礼書の中で表現される神学的本質が儀式の実践の中に反映されるように」と願われた。

 教皇はまた、「典礼を重んじることは、祈りを重んじること。それはすなわち、主との出会いを重んじることにほかなりません」と指摘。典礼に配慮する人々が「常に神の民を思い」、「叡智と愛ある礼拝」においてその民に寄り添うことを希望された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月1日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑦シメオン夫妻のように、外見を超えて物事を見つめる澄んだ眼差しを持とう

「主の奉献」 アルメニアのイコン「主の奉献」 アルメニアのイコン 

(2025.2.26  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが26日の水曜恒例の一般謁見のために用意された聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の7回目のテキストが同日、バチカン広報局から発表された。

 今回の講話では、「I.イエスの幼少期」の考察として、「イエスの神殿への奉献」がテーマに取り上げられている。要旨は次のとおり。

**********

 今日は「「イエス・キリスト、私たちの希望」の素晴らしさを、イエスの神殿への奉献の神秘において観想しましょう。

 福音記者ルカは、イエスの幼少期のエピソードの中で、マリアとヨセフが主の律法とすべての規定に従順であったことを示しています。

 実際には、イスラエルでは子を神殿に奉献する義務はありませんでした。しかし、主の御言葉に耳を傾けながら暮らし、その御言葉に従いたいと望む人々は、これを実践すべき大切なこと、と考えていたのです。たとえば、預言者サムエルの母ハンナには子供がいませんでしたが、神は彼女の祈りを聞き、男の子を授けられました。ハンナはその子を神殿に連れて行き、永遠に主に捧げました。(サムエル記上・1章24∼28節参照)。

 ルカは、聖都エルサレムでのイエスの最初の礼拝行為を語っています。エルサレムは、イエスがそこに向かう決意を固められた時(ルカ福音書9章51節)から、ご自身の使命の完遂を目指す、宣教の旅全体の目的地となっていきました。

 マリアとヨセフは、家族の、民の、そして主なる神との契約の物語に、イエスを接ぎ木したにとどりません。イエスを守り育てることに専念し、イエスを信仰と礼拝の環境に導きました。そして、自分たちをはるかに超える一つの召命への理解を次第に深めていったのです。

 「祈りの家」(ルカ福音書19章46節)である神殿で、聖霊は一人の老人の心に語りかけます。神の聖なる民の一員であるシメオンは、預言者らを介して神がイスラエルにされた約束の成就への願いを育み、期待と希望を心に抱いていました。シメオンは、主の油が注がれた方が神殿内におられるのに気づき、「闇の中」に沈んだ民の間に光が輝く(イザヤ書9章1節参照)のを見ました。そして、イザヤが預言したように、「私たちのために生まれ」「私たちに与えられた」「平和の君」(イザヤ書9章5節)である、その幼子に会いに行きました

 シメオンは、小さく、か弱いその幼子を腕に抱きます。そして、幼子を抱きしめることで、慰めを得、人生が満たされたのは彼自身でした。その気持ちを深い感動と感謝に満ちた賛歌で表したシメオンの歌は、教会において一日の終わりの祈りとなりました。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です」(ルカ福音書2章29-32節=「聖書協会・共同訳」)。

 シメオンは、「見て、認めた者の喜び」を歌い、イスラエルと異邦人の救い主との出会いを他の人々に伝えることができました。賜物として受け、他者に伝える信仰の証人です。欺くことのない希望の証人、人の心を喜びと平安で満たす神の愛の証人である。この霊的な慰めに満たされた老人シメオンは、死を「終わり」としてではなく、「成就、充満」として捉え、人を無にするのではなく、彼が待望し、信じている真の命へと導く「姉妹」としてそれを待っています。

 その日、幼子イエスのうちに受肉した救いを見たのは、シメオンだけではありません。同様のことがアンナにも起きました。八十歳を超えた未亡人で、神殿の奉仕に尽くし、祈りに身を捧げていました。彼女は、幼子イエスを見て、まさにその幼子によってご自分の民を贖われたイスラエルの神を賛美し、人々に伝え、預言的な言葉を惜しみなく告げ広めます。

 二人の老人の贖いの歌は、すべての民と世界のために聖なる年を告げさせるものです。エルサレムの神殿で、希望が再び心に灯った。なぜなら、その中に、私たちの希望であるキリストがお入りになったからです。

 私たちも、シメオンとアンナに倣いましょう。この「希望の巡礼者たち」は、外見を超えて物事を見つめられる澄んだ眼差しを持っています。「小ささの中におられる神の存在に気づき、神の訪れを喜びをもって迎え、兄弟姉妹の心に希望を再び灯す術」を知る人たちなのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年2月27日