(2025.3.25 Vatican News Lisa Zengarini)
教皇フランシスコが25日、バチカンで開かれている未成年者・弱者保護委員会の年次総会にメッセージを送られ、「未成年者や弱者にとって教会が安全な場所であることを確実にするための重要な活動」を続けるよう促され、被害者たちを「癒やすこと」の重要性を強調された。
2014年にバチカンに設立された委員会は現在、教理省の独立機関として、未成年者・弱者の保護に関する教皇への助言や、バチカン各機関および世界の司教協議会との協力による教会での性的虐待防止のための政策策定、提言、被害者支援の取り組みを支援し、教会内の説明責任を推進している。
*虐待防止は、緊急時の”毛布”ではない、福音に忠実な共同体の基盤の一つだ
メッセージは、教皇がジェメリ病院を退院される前、20日に署名されていたもので、その中で、で教皇は、委員会メンバーの「貴重な奉仕」に改めて感謝され、「子供や弱者が安全である場所では、キリストへの奉仕と尊敬が行われている。それは教会や信仰共同体にとって『酸素』のようなものです」と語られた。
そして、虐待を防ぐことは、「緊急事態に広げる”毛布”ではなく、福音に忠実な共同体を築くための基盤のひとつです」と強調。弱者保護の使命は「単に定められた規定を適用するだけでは達成できません。保護策の提唱、教育、予防、癒しにつながる傾聴などを含むものです」と指摘された。
さらに教皇は、「最も辺境にある共同体で防止策を確立することを通して、委員会は、すべての子供と弱者が教会の中で安全を見出せるよう、集団的な取り組みに貢献している。これが、私たちにとって不可欠な回心となるべき原動力です」と語られた。
*委員会の活動を効果的なものにする3つの誓約を
そのうえで、教皇は委員会に、使命を遂行するために3つの誓約をするよう求められた。その第一は、委員会とバチカンの各部署との協力強化で、「これは、教会における性的虐待という惨劇に対処するには、組織的な協力が不可欠であることを意味します」とされた。
第二に、善きサマリア人のように、被害者や生存者の精神的な傷に対して、「もてなしとケアを提供する」こと。「官僚的な手続きを超え、慈悲によって真の癒しを育む対応の仕方です」と説明。
そして第三に、「保護が普遍的な言語となる」ように、「教会外の組織、市民当局、専門家、団体などとの連携体制を構築すること」の重要性を強調された。
教皇は、教会内の安全ネットワーク構築が過去10年に進歩を遂げていることを評価したうえで、「虐待被害者の苦痛に耳を傾けることの重要性」を改めて強調され、「苦痛を癒やそうとしない、苦痛を無視する誘惑」に陥らないよう警告され、「生きた記憶の教師である聖霊が、悲しみを癒すのではなく、悲しみを無視しようとする誘惑から私たちを守ってくださいますように」と願われた。
メッセージを教皇は、励ましの言葉で締めくくり、委員たちがご自分の回復を祈ってくれたことを感謝し、ご自分が、委員たちの活動の精神的な支えとなることを約束された。
(2025.3.19 バチカン放送)
5月11日に記念される第62回「世界召命祈願の日」に先立ち、教皇フランシスコのメッセージが19日発表された。今回のテーマは、「希望の巡礼者:人生の贈り物(仮訳)」だ。
メッセージで教皇は、自らの人生を寛大に捧げることで「希望の巡礼者」となるように、喜びと励ましのうちに呼びかけられた。「召命とは、神が心の中に種をまかれる尊い贈り物、愛と奉仕の歩みを始めるために自分自身の外に出るようにとの呼びかけ」とされ、その召命が信徒としてのものであっても、また聖職者や奉献生活者のものであっても、「教会の中のあらゆる召命は、神が世界とご自分の子らに抱いておられる希望のしるしです」と説いておられる。
教皇は、「自らの召命を受け入れる」ことの大切さに触れながら、「すべての召命は、希望により生かされ、それは摂理への信頼へとつながっていきます」、「キリスト者にとって『希望を持つ』とは、単に人間的な楽観ではなく、各自の人生の中で働かれる神への信仰に根差す確信、と言えます」と述べ、若者たちに向け、「神における希望は欺くことがない。神はご自分に信頼する者の一歩一歩を導いてくださるからです。『希望の巡礼者』として、勇気をもって自らの人生をキリストに捧げる、あなたがた若者たちを、世界は必要としています」と強調された。
次に教皇は「自らの召命の歩みを識別する」ことを取り上げ、「召命の発見は、識別の歩みを通してもたらされます。その道のりは決して孤独ではなく、キリスト教共同体の中で、共同体と一緒に発展していくのです」と語られ、召命を個人だけの問題ではなく、共同体のものとすることに注意を向けられた。
また、「私たちが自分の人生を贈り物とするなら、深い潜心は、誰もが希望の巡礼者となれることを教えてくれます」とされ、「心に語りかける神」に沈黙と祈りの中で耳を傾けるよう若者たちに促され、さらに、すべての人の召命について、「神の呼びかけに耳を傾ける人は、『疎外され、傷つけられ、見捨てられた』と感じている多くの兄弟姉妹たちの叫びを無視できない。すべての召命は、光と慰めを最も必要とする場所でキリストの現存となる使命へと開かせます。特に信徒は社会的・職業的な努力を通し、神の国の『塩、光、パン種』となるよう呼ばれています」と強調。
最後に「召命の歩みに寄り添う」ことについて、司牧・召命担当者、特に霊的指導者たちに対し、「希望と忍耐強い信頼をもって、若者たちの歩みを神の教育のなさり方に委ね、彼らを助けながら、その歩みに神のしるしを注意深く認める、信頼できる賢明な指導者となるように」と願われ、またすべての信者に対して、「『キリストに従うことが、すなわち喜びの源泉』だということを、自らの生き方を通して告げる『希望の証し人』を、世界はしばしば無意識のうちに求めています」と述べられ、収穫のために働き手を送ってくださるように絶えず主に祈りつつ、「福音の道を常に希望の巡礼者として歩んで行こう」と呼びかけておられる。
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カトリック教会は、「善き牧者の主日」と呼ばれる復活節第4主日に「世界召命祈願の日」を記念する。この日は、特に司祭や修道者への神の招きに、より多くの人が応えることができるように、またそれぞれの信者がキリスト者として自らの召命を見出せるように、全教会が祈りを捧げる。
(編集「カトリック・あい」)
Recitation of the Rosary in St. Peter’s Square (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.3.6 Vatican News)
教皇フランシスコ教皇が6日、21日前に入院して以来、自身の回復を祈り続けてくれたすべての人々に対して、感謝と親密さのメッセージを送られた。
「聖ペトロ広場から私の健康を祈ってくださっている皆さまに、心から感謝いたします。私も皆さまと共にいます。神のご加護がありますように。聖母が皆さまを守ってくださいますように。ありがとうございます」
教皇の感謝のメッセージは、愛と親密さの証として、ローマ時間6日夜9時に聖ペトロ広場で放送された。メッセージは、奉献・使徒的生活会省のアーティメ枢機卿が主導したロザリオの祈りの冒頭で、スペイン語で放送された。
教皇が入院された2月24日から、何千人もの信者が、ローマ在住の枢機卿、バチカンおよびローマ教区のすべての協力者と共に聖ペトロ広場に集まり、教皇の早期回復を祈り、聖なるロザリオを唱えている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis calls for multilateralism in a world facing “polycrisis” (Copyright 2011 Brett Jorgensen Photography)
(2025.3.3 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコが、3日に「世界の終わり? 危機、責任、希望」をテーマに始まった教皇庁生命アカデミー総会の参加者にメッセージを送られた。
そして、「世界が直面する”polycrisis(複合危機=複数の危機が絡み合い、大きな影響を及ぼす状況 を指す”』に対処するためには、宇宙に対する理解を再評価し、科学の貢献に耳を傾け、国際機関を強化する必要がある」と訴えられた。
メッセージで教皇は、「戦争、気候変動、エネルギー問題、伝染病、移民、技術革新など、世界が直面する複合危機、すなわち”polycrisis”が、世界の運命と、私たちがそれをどのように理解しているかについて問いを投げかけている、と指摘。
この問いに対して、「まず私たちは、世界と宇宙に対する理解を検証し、個人として、また社会として、変化に対する根深い抵抗を克服せねばなりません」とされ、それにもかかわらず、世界的なコロナ大感染などの過去の危機から学ぶ機会を逃し、「良心と社会慣習を変革する」ことができなかったことを嘆かれた。
また、教皇は「立ち止まらないこと」と「科学的知識の貢献に耳を傾けること」の必要性を強調。教皇庁のアカデミーの活動は、「傾聴」をキーワードの一つとした昨年10月閉幕の世界代表司教会議(シノドス)とも響き合うもの、と述べられた。
さらに、現在、世界中で顕著になっている「功利主義的かつ地球規模の規制緩和への迎合」を批判され、それは「非人間的な」「最強者の法」の強要につながる、と警告。そうした傾向に抗する「世界に対する新たな見方や進化」は「私たちに希望の兆しをもたらすことができ、私たちの歩みを支え、真の人生に向かって勢いよく手を差し伸べるよう私たちを鼓舞するのです」と説かれた。
同時に、「このような努力は、必然的に共同体的な文脈の中で行われるもの」であり、「複雑かつ地球規模の危機」に対する解決策を見出すことが強く求められている中で、「特定の国益を守ろうとする近視眼的な態度によって弱体化している国際機関が、徐々に無意味な存在になっていくこと」への懸念を表明。
そして、そのような懸念を払しょくするためにも、「人類社会は、世界全体の共通善、飢餓と貧困の根絶、基本的人権の確実な保護を確保する権限を付与された、より効果的な世界的な組織を目指さなければなりません… そうすることで、政治の浮き沈みや一部の利益に左右されない多国間主義を推進し、安定した効果を発揮することができるのです」と強調された。。
最後に教皇は、「これこそ、アカデミーの幅広い活動の背景にあるもの」とされ、メンバーたちに感謝されたうえで、「知恵の座であり、希望の母であるマリア」に取り次ぎを願われた。
(なお、このメッセージは2月26日に用意されていたものだ。)
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
People pray for Pope Francis outside Rome’s Gemelli Hospital in Rome, where the Holy Father is cotinuing to receive treatment
(2025.3.2 Vatican News Francesca Merlo)
バチカン報道官室は年間第8主日の2日、ジェメリ病院で療養を続ける教皇フランシスコが用意された正午の祈りの説教原稿を公開した。なお、報道官室の同日朝の発表では、「1日夜は順調に経過した。教皇はお休みになっている」という。
説教原稿で教皇は、「弱さ」に直面している自分のための祈ってくれている世界の人々と治療にあたっている医師団に感謝されるとともに、世界の平和へ祈りを絶やさないように呼びかけられた。
教皇は信者たちにも祈りを捧げると約束され、「あなた方のことも祈っているます。そして何よりも平和を祈っています」と述られたうえで、「ここ(ジェメリ病院の10階の病室)から見ると、戦争はさらに馬鹿げたものに見えます」と語られ、世界、特に「苦しむウクライナ、パレスチナ、イスラエル、レバノン、ミャンマー、スーダン、キブ」のために祈るよう、世界の人々に重ねて求められた。
また、ご自身の治療にあたってくれている医師団、医療関係者たちに「私を気遣ってくれていること」を感謝され、自身の病に秘められた恵みについて振り返っって、「まさにこのような時にこそ、私たちは主をより一層信頼することを学ぶのです。同時に、私は神に感謝しています。なぜなら、神は私に、多くの病に苦しむ人々の状態を、肉体と精神の両面で分かち合う機会を与えてくださったからです」と述べられた。
そして最後に、教皇は世界中の信者たちの心から湧き上がる祈りに深く感謝され、「皆さんの愛情と親密さを感じています。そして、この特別な時には、神の民の皆さんに『支えられ』ているように感じています。皆さん、ありがとうございます!」と語られた。
また、この日のミサで朗読された福音の箇所について、「この福音は、人間の五感のうちの2つ、視覚と味覚に焦点を当てています」とされ、まず、「視覚」について、「世界をよく観察し、隣人を慈愛をもって判断できるよう、目を鍛えるように、とイエスが私たちに求めています… 他の人々への非難ではなく、思いやりのある眼差しだけが、真の美徳である兄弟的な矯正を可能にするのです。”兄弟的”でなければ、それは矯正ではありません!」と強調。
次に「味覚」については、「すべての木はその実によって知られる」というイエスの教えを思い起こされ、「人間から生まれる『実』とは、例えば、その人の唇から発せられる言葉」とされ、さらに、暴力的で偽りの多い下品な言葉である「腐った実」と、公正で誠実な言葉であり、私たちの対話に味わいを与える「良い実」とを対比された。
そして、これらの2つの側面について考え、教皇は信者たちに自分自身の生活を振り返るよう信者たちを促され、次のように自問するよう求められた—「私は兄弟姉妹である他の人々をどのように見ているだろうか? そして、私は他の人々からどのように見られていると感じているだろうか? 私の言葉は良い味わいを持っているだろうか、それとも苦味や虚しみに満ちているだろうか?」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
「主の奉献」 アルメニアのイコン
(2025.2.26 バチカン放送)
入院・治療中の教皇フランシスコが26日の水曜恒例の一般謁見のために用意された聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の7回目のテキストが同日、バチカン広報局から発表された。
今回の講話では、「I.イエスの幼少期」の考察として、「イエスの神殿への奉献」がテーマに取り上げられている。要旨は次のとおり。
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今日は「「イエス・キリスト、私たちの希望」の素晴らしさを、イエスの神殿への奉献の神秘において観想しましょう。
福音記者ルカは、イエスの幼少期のエピソードの中で、マリアとヨセフが主の律法とすべての規定に従順であったことを示しています。
実際には、イスラエルでは子を神殿に奉献する義務はありませんでした。しかし、主の御言葉に耳を傾けながら暮らし、その御言葉に従いたいと望む人々は、これを実践すべき大切なこと、と考えていたのです。たとえば、預言者サムエルの母ハンナには子供がいませんでしたが、神は彼女の祈りを聞き、男の子を授けられました。ハンナはその子を神殿に連れて行き、永遠に主に捧げました。(サムエル記上・1章24∼28節参照)。
ルカは、聖都エルサレムでのイエスの最初の礼拝行為を語っています。エルサレムは、イエスがそこに向かう決意を固められた時(ルカ福音書9章51節)から、ご自身の使命の完遂を目指す、宣教の旅全体の目的地となっていきました。
マリアとヨセフは、家族の、民の、そして主なる神との契約の物語に、イエスを接ぎ木したにとどりません。イエスを守り育てることに専念し、イエスを信仰と礼拝の環境に導きました。そして、自分たちをはるかに超える一つの召命への理解を次第に深めていったのです。
「祈りの家」(ルカ福音書19章46節)である神殿で、聖霊は一人の老人の心に語りかけます。神の聖なる民の一員であるシメオンは、預言者らを介して神がイスラエルにされた約束の成就への願いを育み、期待と希望を心に抱いていました。シメオンは、主の油が注がれた方が神殿内におられるのに気づき、「闇の中」に沈んだ民の間に光が輝く(イザヤ書9章1節参照)のを見ました。そして、イザヤが預言したように、「私たちのために生まれ」「私たちに与えられた」「平和の君」(イザヤ書9章5節)である、その幼子に会いに行きました
シメオンは、小さく、か弱いその幼子を腕に抱きます。そして、幼子を抱きしめることで、慰めを得、人生が満たされたのは彼自身でした。その気持ちを深い感動と感謝に満ちた賛歌で表したシメオンの歌は、教会において一日の終わりの祈りとなりました。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です」(ルカ福音書2章29-32節=「聖書協会・共同訳」)。
シメオンは、「見て、認めた者の喜び」を歌い、イスラエルと異邦人の救い主との出会いを他の人々に伝えることができました。賜物として受け、他者に伝える信仰の証人です。欺くことのない希望の証人、人の心を喜びと平安で満たす神の愛の証人である。この霊的な慰めに満たされた老人シメオンは、死を「終わり」としてではなく、「成就、充満」として捉え、人を無にするのではなく、彼が待望し、信じている真の命へと導く「姉妹」としてそれを待っています。
その日、幼子イエスのうちに受肉した救いを見たのは、シメオンだけではありません。同様のことがアンナにも起きました。八十歳を超えた未亡人で、神殿の奉仕に尽くし、祈りに身を捧げていました。彼女は、幼子イエスを見て、まさにその幼子によってご自分の民を贖われたイスラエルの神を賛美し、人々に伝え、預言的な言葉を惜しみなく告げ広めます。
二人の老人の贖いの歌は、すべての民と世界のために聖なる年を告げさせるものです。エルサレムの神殿で、希望が再び心に灯った。なぜなら、その中に、私たちの希望であるキリストがお入りになったからです。
私たちも、シメオンとアンナに倣いましょう。この「希望の巡礼者たち」は、外見を超えて物事を見つめられる澄んだ眼差しを持っています。「小ささの中におられる神の存在に気づき、神の訪れを喜びをもって迎え、兄弟姉妹の心に希望を再び灯す術」を知る人たちなのです。
(編集「カトリック・あい」)