☩「イエスの最初の弟子たちのように、私たちも主の招きを喜びをもって受け入れよう」教皇、年間第三主日の正午の祈りで

(2026.1.25  カトリック・あい)

 教皇レオ14世は25日、年間第四主日の正午の祈りに先立ち、以下の説教をされた。バチカン広報発表の全文次の通り。

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 兄弟姉妹の皆さん、幸せな日曜日を過ごされますように。

 イエスは洗礼を受けた後、説教を始め、ペトロと呼ばれるシモン、その兄弟アンドレ、そしてヤコブとヨハネを、最初のでき師として招かれました(マタイ福音書 4章12-22節 参照)。今日の福音書に記された場面についてより深く考察すると、私たちは二つの問いを頭に浮かべます。一つは、イエスの使命の時期について、もう一つは、イエスが説教と使徒たちの召命のために選んだ場所についてです。いつ始められたのか?どこで始められたのか?

 まず、福音書は、イエスが「ヨハネが捕らえられたと聞いた時」(同4節12節)に説教を始めた、と伝えています。つまり、イエスは、一見、不適切な時期に始めたことになります。洗礼者ヨハネが投獄されたばかりで、民の指導者たちはメシアの新たな使命を受け入れることに消極的でした。明らかに慎重さが求められる時でした。しかし、まさにこの暗闇の中で、イエスは福音の光をもたらし始められたのです。「天の国は近づいた」(同17節)と。

 私たちの人生においても、個人としても教会としても、内面の葛藤や不利と思われる状況が「福音を宣べ伝える時ではない」「決断を下す時ではない」「選択をする時ではない」「状況を変える時ではない」と思わせてしまうことがあります。そのようにして私たちは、決断できずに麻痺したり、過度の慎重さに囚われたりする危険にさらされます。ですが福音は、あえて「信頼する」ことを私たちに求めているのです。神は常に働いておられます。私たちが「準備ができていない」と感じる時や、状況が不利に見える時でさえ、あらゆる瞬間が「神の時」なのです。

 福音書はまた、イエスが公の使命を始めた具体的な場所についての洞察も与えてくれます。イエスは、「ナザレを出て、カファルナウムに住まわれた」(同13節)と記されています。そしてイエスは、ガリラヤに留まりました。ガリラヤは主に異教徒の地域でしたが、交易によって交差点と出会いの場へと変貌していました。多様な出自や宗教的背景を持つ人々が往来する、多文化地域と表現できるでしょう。

 この意味で福音書は、メシアがイスラエルで宣教を始められたにもかかわらず、国の境界を超え、すべての人に近づく神を宣べ伝えられたこと、を明らかにしています。その神は誰をも排除せず、「清い者」のためだけでなく、人間の状況や関係の複雑さの中に、完全に踏み込まれる方です。ですから、私たちキリスト者もまた、孤立への誘惑を克服しなければなりません。福音はあらゆる環境において宣べ伝えられ、実践されなければなりません。それはあらゆる個人、文化、宗教、民族の間における兄弟愛と平和の酵母として機能するのです。

 兄弟姉妹の皆さん、最初の弟子たちのように、私たちは主の招きを喜びをもって受け入れるよう招かれています。私たちの生活のあらゆる時と場所が、主の臨在と愛に満たされていることを知りながら。聖母マリアに祈りましょう。この内なる信頼を私たちに授け、私たちの旅路に同行してくださいますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月25日

☩「カトリック教会の社会教説は平和的共存への道を示している」教皇、2026年欧州会議へのメッセージで

(2026.1.23 Vatican News  Devin Watkins)

     教皇レオ14世は23日にルクセンブルクで開かれたCentesimus Annus Pro Pontifice Foundation(CAPP=教皇レオ13世の社会回勅『レールム・ノヴァールム』発表100周年を記念して1991年に教皇ヨハネ・パウロ2世が発表した回勅『チェンテジムス・アンヌス』(Centesimus Annus、「100年」の意)にちなんで名付けられた、バチカンに関連する組織)主催の2026年欧州会議にメッセージを送られ、「カトリック教会の社会教説が、社会に真の尊重と平和的共存への道を示している」と強調された。

 メッセージで教皇は、今回の会議のテーマ「欧州における平和構築:カトリック社会思想と普遍的価値の役割は何か」への賛意を示され、「宗教が提唱する普遍的価値と公共の福祉への貢献について議論することを社会が拒む現代において、このテーマが特に重要です」とされ、「社会の抵抗は様々な理由から生じますが、根底にある危機は『相対主義の蔓延』と『真理が単なる意見に貶められること』です」と指摘。「どの大陸や共同体も、規範や価値観の基盤となる共通の真理なしに、平和に生き、繁栄することはできない」と言明。

 さらに教皇は、人間が神の姿に似せて創造されたことを想起され、聖ヨハネ・パウロ二世の回勅『Centesimus Annus』における言葉を引用し、「真理を知り、その真理に従って生きる、という自然かつ根本的な権利を尊重しなければ、真の進歩はありえません」と強調された。

 そして、カトリック教会の社会教説は、「自らを『道であり、真理であり、命』として示されたイエス・キリストの言葉と行いに根ざしています」と述べ、「教会の社会教導は、国境を越え、集団的利益と生き方の基盤を提供することによる平和的共存を可能にするため、多くのものを提供できます」と語られた。

 結論として、教皇は、今回の会議が「より平和で公正な欧州大陸の構築において、カトリック的価値観の役割を推進し、欧州にその深いキリスト教的ルーツを想起させる一助となること」に期待を表明された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月23日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」③「私たちは、神の愛する子、その愛から引き離されることはない」

(2026.1.21 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

    教皇レオ14世は21日の水曜恒例一般謁見で、第二バチカン公会議を学び直す連続講話で、前回に引き続き、『神の啓示に関する教義憲章(神の言葉=Dei Verbum)』を取り上げ、「イエスのおかげで、私たちキリスト教徒は父なる神を知り、確信をもって神に身を委ねます… 誰も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません」と説かれた。

 教皇は先週の講話で、この憲章を公会議の「最も素晴らしく、重要な文書の一つ」とされていた。21日の講話で教皇はまず、「神は、契約の対話の中でご自分を啓示され、友として語りかけられることを、私たちは学びました。これは単なる思想の伝達ではなく、歴史を共有し、相互の交わりを求める関係的な認識です」とされ、「啓示の成就は、神がご自身を私たちに与え、現存し、私たちが最も深い真実において知られていることを発見する、歴史的かつ個人的な出会いの中で起こります」と語られた。

 そして、「これは、イエス・キリストにおいて起こる… 教義憲章は、『神と人間の救いに関する最も深い真理は、すべての啓示の仲介者であり、充満であるキリストにおいて、私たちのために輝きを放つ」と記しています」と指摘された。

*キリストは父なる神を私たちに啓示される

 教皇はさらに、「イエスは、自らと父なる神との関係に私たちを巻き込むことで、父なる神を啓示されます。父なる神によって遣わされた御子において、人類は聖霊によって父なる神に近づき、神の性質にあずかることができる… そうして、私たちは、御子の父なる神との関係に入り、聖霊の働きによって、神についての完全な知識に到達するのです」と強調。

 「イエスのおかげで、私たちは、自分が神に知られているように、神を知る… キリストにおいて、神はご自分を私たちに伝え、同時に、御言葉の姿に造られた御子としての私たちの真のアイデンティティを明らかにされたのです」と重ねて強調された。

*隠れたところで見ておられる父が報いてくださる

 続けて教皇は、マタイ福音書を取り上げられた。そこではイエスが「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる… あなたの父は、あなたがたに必要なすべてのものを知っている」と語られている。

 「イエス・キリストこそが、私たちが父なる神の真実を認める場所です。そして、私たちは御子において子として神に知られ、完全な命という同じ運命に召されていることを発見するのです」と説かれた。

 次に教皇は、ガラテヤの信徒への手紙を引用する形で、「時が満ち、神は御子を遣わされた…それは私たちが子としての地位を得るためである。あなたがたが子であるゆえに、神は御子の霊を私たちの心に遣わされた。その霊は『アッバ、父よ!』と叫んでいます」と語られた。

*キリストにおける神を知るためには、その完全な人間性を受け入れる必要

 また教皇は、「御言葉が受肉し、人々の間に住まわれる方であるからこそ、イエスはご自身の真実で完全な人間性をもって神を私たちに示されます… キリストにおける神を知るためには、その完全な人間性を受け入れねばなりません」とされ、「神の真理は、人間性から何かを奪うところで完全に啓示されるのではありません。イエスの人間としての完全性が神の賜物の充満を減じることのないのと同じです。父なる神の真実を語るものは、イエスの完全な人間性なのです」と言明された。

*神の真理の伝達は、イエスの肉体において実現される

 さらに、「私たちを救い、集めるのは、イエスの死と復活だけではなく、その方そのもの。受肉し、生まれ、癒し、教え、苦しみ、死に、復活し、私たち間に留まる主そのものです」と強調。「もしイエスに実体のある肉体があるなら、神の真理の伝達は、その肉体において実現される。現実を認識し、感じる独自の方法、世界に存在し通り抜ける独自の方法をもって、です。このようにして、イエスご自身が、現実の認識を分かち合うよう、私たちを招いておられるです」と説かれた。

 講話の最後に、教皇は信者たちに対して、「イエスの道を最後まで歩むことで、何ものも神の愛から私たちを引き離すことができない、という確信に到達するのです」と言明され、聖パウロの言葉を再び引用して、「神が私たちと共におられるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう?」と念を押された。

*講話の全文以下の通り。

第二バチカン公会議文書集。第一巻 教義憲章『神の言葉』。2. イエス・キリストは父を啓示される

 本日は、神の啓示に関する第二バチカン公会議の教義憲章『神の言葉』についてのカテケージスを続けます。これまで見てきたように神は契約の対話においてご自身を啓示されます。そこでは神は友として私たちに語りかけられます。

 したがって、これは関係性に基づく知識であり、単なる思想の伝達にとどまらず、歴史を共有し、相互性における交わりを求めるものです。この啓示の完成は、歴史的かつ個人的な出会いの中で実現します。そこでは神ご自身が私たちに自らを捧げ、臨在を示され、私たちは自らの最も深い真実において知られていることを発見するのです。

 これはイエス・キリストにおいて起こる出来事です。文書は、神と人間の救いに関する最も深い真理が、私たちのためにキリストにおいて輝き出ていると述べています。キリストはすべての啓示の仲介者であり、その充満です(参照:DV, 2)。

 イエスは、ご自身と父との関係に私たちを巻き込むことによって、父を私たちに啓示されます。父なる神によって遣わされた御子において、「人は聖霊によって父に近づき、神の性質にあずかることができる」のです(同上.)。したがって、私たちは御霊の働きによって、御子が御父と結ばれている関係の中に入ることで、神についての完全な知識に到達します。

 このことは、例えば福音記者ルカが主の歓喜の祈りを記した箇所で証言されています。「父よ、天と地の主よ、感謝いたします。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者から隠して、幼子たちに現わしてくださいました。父よ、まさにそれがあなたの慈しみ深い御心でした。父なる神は、すべてのものを私に委ねられました。父なる神が誰であるかを、子である私以外に知る者はおらず、また子である私が父なる神を明らかにしようとする者に、父なる神が誰であるかを示す者もいません」(ルカによる福音書10:21-22)。

 イエス様のおかげで、私たちは神様を知ることができ、また神様にも知られているのです(参照:ガラテヤ人への手紙4:9;コリントの信徒への手紙一13:13)。確かに、キリストにおいて、神様はご自身を私たちに伝え、同時に、御言葉の像に造られた神の子としての私たちの真のアイデンティティを明らかにしてくださいました。この「永遠の御言葉…はすべての人を照らします」(DV 4)。それは父の御目における人間の真実を明らかにするのです。

 「あなたがたの父は、隠れたところで見ておられ、報いてくださいます」(マタイ 6:4, 6, 18)とイエスは語り、さらに「あなたがたの父は、あなたがたに必要なすべてのものを知っておられます」(マタイ 6:32参照)と付け加えられました。イエス・キリストこそが、私たちが父なる神の真実を認める場所であり、同時に御子において御子として知られ、完全なる命という同じ運命へと招かれている自分自身を発見する場所です。

 聖パウロはこう記しています。「時が満ち、神は御子を遣わされました…それは私たちが子としての地位を受けるためです。そしてあなたがたが子であるゆえに、神は御子の霊を私たちの心に遣わされました。その霊は『アッバ、父よ!』と叫んでいるのです」(ガラテヤ4:4-6)。(ガラテヤ4:4-6)。

 最後に、イエス・キリストはご自身の人性をもって父を現わされます。まさに御言葉が人となって私たちの間に住まわれた方であるゆえに、イエスはご自身の真実で完全な人間性をもって神を私たちに示されるのです。「イエスを見ることは父を見ることに等しい」(ヨハネ14:9)。このゆえに、イエスは御自身を現し、御言葉と御業、しるしと奇跡、とりわけ死と死からの栄光の復活、そして真理の御霊の最終的な遣わしを通して、御自身の現存を確立し、啓示を完成させられました」(DV, 4)。

 キリストにおける神を知るためには、私たちはイエスの完全な人間性を受け入れなければなりません。神の真理は、人間性から何かを奪うところで完全に啓示されるのではありません。同様に、イエスの人間性の完全性は、神の賜物の豊かさを損なうものではありません。イエスの完全な人間性こそが、私たちに父なる神の真実を告げ知らせるのです(ヨハネ1:18参照)。

 私たちを救い、集いへと招くのは、イエスの死と復活だけではなく、その御人そのものです。すなわち、受肉し、生まれ、癒し、教え、苦しみ、死に、復活し、今も私たちと共にいてくださる主です。ゆえに、受肉の偉大さを称えるには、イエスを単なる知的真理の伝達経路と見なすだけでは不十分です。

 イエスが実体ある肉体を持つなら、神の真理の伝達は、その肉体において実現されるのです。現実を感知し感じる独自の方法をもって、この世に存在し、この世を通り抜ける独自の方法をもって。イエスご自身が、現実の認識を分かち合うよう私たちを招いておられます。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に蓄えもしない。それでも、天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは、彼らよりもはるかに尊いではないか」(マタイ6:26)。

 兄弟姉妹の皆さん、イエスの道を最後まで歩むことによって、私たちは、何ものも神の愛から私たちを引き離すことはできないという確信に至ります。「神が私たちのために働いてくださるなら、誰が私たちに敵対できましょうか」と聖パウロは再び記します。「ご自分の御子を惜しまず、私たちすべてのためにささげられた方が、どうして御子とともに、すべてのものを私たちに与えてくださらないことがあろうか」(ローマ8:31-32)。イエス様のおかげで、キリスト教徒は父なる神を知り、確信をもって神に身を委ねることができるのです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月22日

☩「国際的な緊張が高まり、人間の尊厳が失われる今、キリスト教徒が分裂を克服し、強固な一致の絆を築けるように」教皇、水曜恒例一般謁見で

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

2026年1月21日

☩「私たちはキリスト教的な希望の使者としての使命を共に担っている」教皇、フィンランドのエキュメニカル使節を歓迎

教皇レオ14世とフィンランドのエキュメニカル使節 2026年1月19日 バチカン宮殿教皇レオ14世とフィンランドのエキュメニカル使節 2026年1月19日 バチカン宮殿  (@VATICAN MEDIA)

(2026.1.19  バチカン放送)

  教皇レオ14世が19日、フィンランドのエキュメニカル使節とバチカン宮殿でお会いになった。

 同使節のローマ訪問は、フィンランドの使徒、ウプサラの聖ヘンリック司教・殉教者の祝日(1月20日)を記念し、毎年行われているものだが、使節を歓迎された教皇は、18日からの「キリスト教一致祈祷週間」と重なるこの訪問を喜ばれた。

 教皇は挨拶で、今年の同祈祷週間のテーマ、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(エフェソの信徒への手紙4章4節)に言及。

 「人々が絶望感に誘惑されがちなこの時代に、私たちはキリスト教的な希望の使者としての重要な使命、すなわち、この世界の最も暗い隅々に主の光をもたらす使命を担っています」と語られた。

 そして、フィンランドのキリスト者の間にある多くの希望のしるしを称賛された教皇は、「お国が『エキュメニズムの模範国』と呼ばれていることを知り、大変うれしく思います」と述べられ、その一例として、ヘルシンキの司教たちが、正教会・ルーテル教会・カトリック教会の三者による共同声明の中で、「希望、尊厳、思いやりの文化」の促進を目指し、また「緩和ケアと終末ケアの発展は継続されなければならない」と共に表明していることを挙げられた。

 また、「聖ヘンリックの祝日を共に祝う、という古くからの伝統は、具体的かつ実り多いエキュメニズムの雄弁な証しです…これらのしるしは、来月始まるルーテル・カトリック国際対話の第6段階を励ますもの」とも指摘された。

 集いの最後に、教皇と使節団は、教皇が「キリストにおける私たちの友情の証し」と呼ぶ「主の祈り」を英語で共に唱えた。

(編集「カトリック・あい」)

2026年1月21日

☩「すべてのキリスト者の『完全な目に見える一致』のために祈ろう」教皇、キリスト教一致祈祷週間の初めに

(2026.1.18 バチカン放送)

 教皇レオ14世は18日、2026年度の「キリスト教一致祈祷週間」の開始にあたり、すべてのキリスト者の完全な目に見える一致のための祈りを呼びかけられた。

 「キリスト教一致祈祷週間」は、毎年1月18日から25日まで、キリスト教諸教会の間で行なわれるもので、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書 17章21節)という最後の晩餐でのイエスの祈りを心に留め、同じキリスト者として、共に祈り、分かち合い、一致の精神を示すことを目的としている。

教皇18日、年間第2主日の正午の祈りで、「キリスト教一致祈祷週間」の始まりを告げられ、この取り組みの由来は2世紀前にさかのぼること、レオ13世教皇がこれを強く奨励されたこと、ちょうど100年前に初めて『キリスト教一致祈祷週間のための提案』が発表されたことなど、その歴史を振り返られた。

そして、今年のテーマである「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(エフェソの信徒への手紙4章4節)を示されるとともに、今年の祈祷週間のための祈りと黙想がアルメニア使徒教会の諸宗教間関係部門が調整するエキュメニカルなグループによって準備されたことを紹介された。

そのうえで、この一週間、すべてのキリスト者の完全な目に見える一致のために祈りを強めるよう、すべてのカトリック共同体に呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2026年1月21日

☩「私たちは、神にとって、かけがえのない存在。日々、『荒野』に退いて主と出会おう」-教皇、年間第二主日の正午の祈り

 (2026.1.18 Vatican New    Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は年間第二主日の18日の正午の祈りに先立つ説教で、信者たちに、「警戒を怠らず、本質に集中し、私たちが神の目にどれほど、かけがえのない存在であるかを、決して忘れてはなりません… 毎日、祈りと黙想の時間を持ち、私たちを愛する主と出会いましょう」と呼びかけられた。

 説教で教皇はまず、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所に注意を向けられた。この箇所で、洗礼者ヨハネは、イエスを神の小羊、メシア、救い主であることを認め、イスラエルの民にその神性と使命を宣言した。そして自らの使命を終えると、一歩退き、「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである」(1章30節)と証言している。

 教皇は、「洗礼者ヨハネが民衆から深く愛され、エルサレムの権力者たちさえ恐れるほどの名声を持っていたこと」を想起され、「彼はこの名声を利用することも容易にできました。しかし、成功や人気という誘惑に屈せず、イエスの前に自らの小ささを認め、イエスの偉大さのために道を譲った… ヨハネは主の道を整えるために遣わされたことを知っていました。主が現れた時、喜びと謙遜をもって神の臨在を認め、自らスポットライトから退いたのです」と説かれた。

  教皇は「この証しが、現代の私たちにとって、どれほど重要でしょう!」とされ、さらに、「人々が承認や合意、注目といった幸福をもたらすと考える要素に、どれほど頻繁に頼っているでしょう。それらは、しばしば、苦しみや分裂をもたらし、脆く、失望させ、束縛する生活様式や人間関係を招くにもかかわらず、です」と指摘。

 「真実を言うなら、私たちにはこうした『幸福の代用品』など必要ありません… 私たちの喜びと偉大さは、成功や名声という儚い幻想に立脚するのではなく、『天の父に愛され、望まれている』ことを自覚することにあります」、さらに、「イエスが語る愛とは、今日もなお私たちの間に来られる神の愛であり、それは壮大な見せ物で私たちを眩惑するためではなく、私たちの苦闘を分かち合い、私たちの重荷を自ら背負うためなのです」と訴えられた。

 そして、 「そうすることで、神は私たち自身の本質と、神の御目にどれほど尊い存在であるかを、明らかにされるのです」と説かれた。

 説教の最後に教皇は、「主が私たちの間におられる、という事実から目をそらしてはなりません。”見せかけ”を追いかけて時間とエネルギーを無駄にしてはなりません」と信者たちに注意をされ、「洗礼者ヨハネから学びましょう。警戒を怠らず、簡素を愛し、言葉に誠実であり、質素に生き、心と精神の深みを育むことを。本質的なものに満足し、可能であれば毎日、特別な時間を設けて沈黙の中で立ち止まり、祈り、省察し、耳を傾けること、言い換えれば『荒野に退く』ことによって主と出会い、主と共にいるのです」と強く勧められた。

 そして、簡素さと知恵と謙遜の模範である聖母マリアに、この決意を助けてくださるよう懇願することで、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月18日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」②『神の啓示に関する教義憲章』は「キリストとの友情」を呼びかけている

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

 

*講話の全文以下の通り。

第二バチカン公会議文書集。第一巻 教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)。第一章 神は友として人々に語られる(朗読箇所:ヨハネによる福音書 15章15節)

 

 第二バチカン公会議に関するカテケージスのシリーズを開始しました。本日は、神の啓示に関する教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)について、より詳しく見ていくことから始めましょう。これは公会議において最も美しく重要な文書の一つであり、その導入として、イエスの次の言葉を思い起こすことが役立つでしょう。

 「私はもはやあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。しかし、わたしはあなたがたを友と呼ぶ。わたしが父から聞いたことはすべて、あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)。これはキリスト教信仰の根本的な点であり、『神の言葉』が私たちに思い出させてくれることです。すなわち、イエス・キリストは人間と神との関係を根本的に変革し、それ以降、その関係は友情の関係となったのです。したがって、新しい契約の唯一の条件は愛です。

 聖アウグスティヌスは、第四福音書のこの箇所を解説する中で、恵みの視点に強く焦点を当てています。この恵みによってのみ、私たちは御子における神の友となれるのです(『ヨハネ福音書講解』第86講)。実際、古代の格言にこうあります。「Amicitia aut pares invenit, aut facit」、すなわち「友情は対等な者同士に生まれるか、あるいは対等な者同士を作り出す」。私たちは神と対等ではありませんが、神ご自身が御子において私たちを御自身に似た者となさってくださるのです。

 このため、聖書全体に見られるように、契約にはまず距離の瞬間があり、そこでは神と人類との契約は常に非対称のままです。神は神であり、私たちは被造物です。しかし、御子が人間の肉体をまとって来られたことで、契約は最終目的へと開かれます。イエスにおいて、神は私たちを御子・御娘とし、たとえ脆い人間性の中にあっても、御子に似た者となるよう招いておられるのです。したがって、私たちが神に似ることは、蛇がエバに示唆したように(創世記3:5参照)、背きや罪によって達成されるのではなく、人となられた御子との関係において達成されるのです。

 私たちが思い起こした主イエスの言葉「わたしはあなたがたを友と呼んだ」は、教令『神の言葉』(Dei Verbum)において繰り返され、次のように断言されています: 「かくして、この啓示によって、見えない神(コロサイ1:15、テモテへの手紙一1:17参照)は、その豊かな愛から、友として(出エジプト記33:11、ヨハネによる福音書15:14-15参照)人々に語りかけ、人々の間に住まわれ(バルク書3:38参照)、ご自身との交わりへと招き入れられるのです」(第2項)。

 『創世記』の神は、すでに私たちの最初の両親と対話し、彼らと対話しておられました(『神の言葉』3参照)。そして、この対話が罪によって中断されたとき、創造主は被造物との出会いを求め、彼らとの契約を結ぶことをやめませんでした。キリスト教の啓示において、すなわち神が御子において人となられ、私たちを探し求めてくださったとき、中断されていた対話は決定的に回復されました。契約は新しく永遠のものであり、何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできません。したがって、神の啓示は友情の対話的な性質を持ち、人間の友情の経験と同様に、沈黙を許容せず、真実の言葉の交わりによって育まれるのです。

 教義憲章『神の言葉』もまた、このことを私たちに思い出させます。神は私たちに語りかけられます。言葉とおしゃべりの違いを認識することが重要です。後者は表面的なものに留まり、人々の間の交わりをもたらしません。一方、真の関係において、言葉は情報や知らせを交換するだけでなく、私たちが何者であるかを明らかにするために用いられます。言葉には啓示的な次元があり、他者との関係を創り出します。このように、私たちに語りかけることで、神はご自身を、私たちを御自身との友情へと招く「味方」として示してくださるのです。

 この観点から、まず養うべき姿勢は「聴く」ことです。そうすることで神の言葉が私たちの心と魂に浸透します。同時に、私たちは神と語り合うことが求められています。それは神が既に知っておられることを伝えるためではなく、私たち自身が自分自身に打ち明けるためなのです。

 ゆえに祈りの必要性が生じます。そこにおいて私たちは主との友情を生き、育むよう招かれているのです。これはまず第一に、典礼的・共同体の祈りにおいて実現されます。そこでは私たちが神の言葉から何を聞くかを決めるのではなく、教会を通して御自身が私たちに語られるのです。そしてそれは、心と精神の内面性において行われる個人的な祈りにおいても実現されます。祈り、黙想、内省に捧げる時間は、キリスト者の日々の生活や週の過ごし方において欠かすことはできません。神と共に語り合うときこそ、初めて神について語ることができるのです。

 私たちの経験が示すように、友情は劇的な決別の行為によって終わることもあれば、日々の軽視の積み重ねによって関係が蝕まれ、失われることもあります。もしイエスが私たちに友となるよう招いておられるなら、この招きを無視してはなりません。この招きを受け入れ、この関係を大切にしましょう。そうすれば、神との友情こそが私たちの救いであることに気づくでしょう。

 

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2026年1月14日

☩教皇、ベネズエラの野党指導者でノーベル平和賞受賞者のマチャド氏と会見

教皇レオ14世、マリア・コリーナ・マチャド氏と 2026年1月12日 バチカン宮殿  (@Vatican Media)

 教皇レオ14世が12日、ベネズエラの野党指導者で2025年度ノーベル平和賞受賞者のマリア・コリーナ・マチャド氏とバチカン宮殿でお会いになった。

  会談は、マドゥロ大統領とその妻シリア・フローレス夫人が、3日にベネズエラの首都カラカスで米軍が実施した「絶対決意作戦」と呼ばれる作戦により逮捕されてから約10日後にされた。

 米国から麻薬密売と麻薬テロリズムの容疑で告発、拘束されたマドゥロ大統領は、現在ブルックリンのメトロポリタン拘置所に収監されている。

 ベネズエラの政治家であり人権活動家でもあるマチャド氏は、マドゥロ政権に一貫して反対してきた自由保守政党「ベント・ベネズエラ」を率いている。マドゥロ政権による弾圧で国外逃亡を余儀なくされた彼女は、ノーベル平和賞の授賞式に出席するため先月、オスロを訪れた。

 ベネズエラは現在、デルシー・ロドリゲス副大統領の暫定政権で統治され、国際社会の支援による政権移行が進められている(ここ数日、複数の政治犯が釈放されたというニュースも報じられている)。一方、マチャド氏は、ドナルド・トランプ大統領との会談のためにワシントンを訪れる予定であると、同副大統領が発表していた。

*ベネズエラに対する教皇の訴え

 4日にマドゥロ大統領が逮捕された翌日、教皇は正午の祈りの集いで、ベネズエラの情勢を「深い懸念を持って見守っている」とされ、「最愛のベネズエラ国民のためになることが、他のあらゆる考慮事項よりも優先されなければならない。これは暴力の克服へと導かれ、正義と平和の道を追求し、国家の主権を保証するものでなければなりません」と言明。「一人ひとりの人間的・市民的権利」の尊重を求め、「協力と安定と調和に満ちた平和な未来を共に築くこと」を呼びかけ、特に「厳しい経済状況により苦しむ最も貧しい人々」への配慮を強調されていた。

 9日の在バチカン外交団への年頭の挨拶でも、ベネズエラに言及され、「正義、真実、自由、友愛に基づく社会を築く努力」を促し、「長年にわたり苦しめられてきた深刻な危機から国が立ち直れるように」と訴えるとともに、すべての人たちに「ベネズエラ国民の意思を尊重し、すべての人々の人権と市民権を保護し、安定と調和の未来を保証するように」と呼びかけられていた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月13日

☩教皇、イラン、シリアでの速やかな和平を願い、ロシアによるウクライナのエネルギーインフラ攻撃を非難

(2026.1.11   Vatican News)

    教皇レオ14世は11日、「主の洗礼の祝日」の正午の祈りの終わりに、抗議活動が続くイランと、アレッポ市でクルド人勢力と戦闘を続けるシリアの平和を祈られるとともに、最近のロシアによる厳冬期のウクライナのエネルギーインフラへの攻撃を非難された。

 教皇は、騒乱が続く世界各地の対話による和平実現を呼びかけ、特に中東の二カ国、イランとシリアを取り上げ、「持続的な緊張が多くの人の死を招いている」と述べられた。

 昨年12月下旬以降、イランでは急激なインフレに苦しむ人々による政権への抗議活動が国内の多くの州に広がり、治安部隊によって多くの死傷者が出ている。シリアでは、北部都市アレッポでここ数日、政府軍とクルド人勢力との間で大規模な戦闘が続いています。

 教皇はこれら二国について、「忍耐をもって対話と平和が育まれ、社会全体の公益が追求されることを願い、祈っている」と語られた。

 また、間もなく4年目に入るロシアによるウクライナ侵攻で苦しみ続けるウクライナ国民の窮状にも触れられた。ウクライナでは、寒さが厳しさを増す中、主にエネルギーインフラを標的としたロシア軍のドローンやミサイルによる攻撃目立っており、「エネルギー危機を深刻化させ、民間人に甚大な被害をもたらしている」と非難された。

 そして、教皇はこうした世界各地の現状を踏まえ、苦しむ人々のために祈るとともに、「暴力の終結と平和達成に向けた一層の努力」を改めて関係国指導者や国際機関の責任者たちに強く求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月12日

☩「神が遠くから世界を見つめず、私たちの間に来られ、愛の計画に引き入れてくださる」ー教皇、主の洗礼の祝日の正午の祈りで

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月11日

☩「教会における性的虐待スキャンダルは『扉が閉ざされ、被害者が受け入れられず、真の牧者たちの親身な支援がなかったこと』が原因だ-教皇、枢機卿会議の閉会挨拶で

Pope Leo at the third session of the Extraordinary Consistory Pope Leo at the third session of the Extraordinary Consistory   (@VATICAN MEDIA)

 

*枢機卿たちは提示された四つのテーマに関する考察の書面提出を求める

 

 

*1月7,8日の臨時枢機卿会議での教皇の閉会挨拶全文、「カトリック・あい」日本語仮訳とイタリア語原文は以下の通り。

 

【臨時枢機卿会議 [1月7日~8日] 教皇レオ14世の閉会の辞 シノドスホール 2026年1月8日(木曜日)

 私たち一人ひとりが枢機卿に選出されたとき、そのときの教皇は「ローマ市およびより遠い地域において、キリストとその福音について勇敢な証人となる」よう命じられました(枢機卿叙任式参照)。この使命は、まさに私たち全員が取り組んでいることの核心、本質です。

 今回の枢機卿会議は、教会の使命を、皆が共に、一致して表現する絶好の機会となりました。この1日半の間、聖霊は明らかに、その多様な賜物を惜しみなく与えてくださいました。皆さんのご出席とご参加に深く感謝いたします。皆さんは、ペトロの後継者としての私の奉仕を支えてくださるために、一丸となってお集まりくださいました。ご高齢の方々が、ご苦労をおかけしながらも、ご出席くださったことに感謝いたします。皆さんの証しは、実に貴重なものです。同時に、さまざまな理由でご出席いただけなかった世界各地の枢機卿の皆様にも、特に思いを馳せております。私たちは皆さんと共におり、皆さんが近くにおられることを感じています。

 この会合は、私たちが教皇選挙で経験したことと深く関連しています。教皇選挙、つまりペトロの後継者の選出に先立ち、皆さんは互いに知り合い、支援と協力をしたいという気持ちを示してくださいました。昨年5月9日に最初の体験をしました。そして、この2日間、私たちが出会い、よりよく知り合うことができるよう、単純ではあるが必ずしも容易ではない方法を用いて、その体験を続けました。私は個人的に、皆さん全員、そして多くの発言の中で、深い親和感と調和を感じました。私たちは、組織的な手法としてではなく、傾聴と人間関係を育む手段としての、共議制の経験もしました。そしてもちろん、こうした会合を継続し、さらに深めていく必要があります。

 この挨拶の最後に、私たちがどのように継続できるかについて、より具体的なアイデアをいくつかご紹介いたします。しかしその前に、この数日間で浮かび上がったいくつかのヒントについて、改めて触れておきたいと思います。おそらく、この最後のセッションでも何度も繰り返された言葉から始めましょう。

 

 

 私たちの使命の中心にキリストを見出すこと。福音を宣べ伝えること、それは皆さんもよくご存じのとおり、イエス・キリストが中心です。私たちはキリストの御言葉を宣べ伝えたい、そしてそれゆえ、私たち自身も、今日の世界において証しとなりうる、真に霊的な生活を実際に送ることの重要性を認識したいのです。

 選ばれたテーマは、第二バチカン公会議と、公会議から生まれたすべての道筋に深く根ざしています。公会議によって開かれた道を歩み続けることの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはありません。皆様にもそうされるようお勧めいたします。ご存じのように、私は今年の公開謁見のために、このテーマ、すなわち公会議の文書と経験を選びました。そして、この道筋は、教会全体の生活、回心、刷新のプロセスです。福音の喜びと共議制は、この道筋の重要な要素です。

 

 

 また、同時に、提案された他の2つのテーマは、この2日間の作業では必ずしも中心的なテーマではありませんが、他のテーマや公会議と強く関連していることも申し上げたいと思います。それらは忘れられたわけではなく、今後も忘れられることはありません。セメラロ枢機卿は、シノダリティと聖体との関連性をよくご指摘されました。ちなみに、シノダル集会に関連する研究グループが、まさにこのテーマについて深く掘り下げているところです。カスティーヨ枢機卿は、2028年の集会についてお話されました。もちろん、シノド事務局との進行中の作業は、研究グループとともに継続されます。

 教会共同体の歩みは、私たち全員が参加を求められている、宣教のための交わりの歩みです。そのため、私たち間の絆は重要です。皆様は、特に聖父と司教協議会および地方教会とのつながりの重要性と、大陸別総会の重要性を強調されました。しかし、これらもまた、リストに追加する「余分な」会合ではなく、司教と司祭、信徒、そして教会間の出会いの場、関係構築の場であり、真の宣教の創造性を促進する上で非常に役立つものでなければなりません。

 

 

 次に、もう一つのテーマ、すなわち、(教皇フランシスコが出された使徒憲章)「Praedicate Evangelium (福音を宣教せよ)」の精神に基づく各省庁の活動、すなわち、教皇および各教会への奉仕について再び触れておきます。この使徒憲章は、「今日の教皇庁の奉仕の遂行を、特にこの時期に教会が経験している福音宣教の歩みとよりよく調和させる」必要性を強調しています(I章3項)。この観点から、私は、自身の役割を果たし、皆さんと教会全体に、皆さんと各地方教会を支援し、支えることのできる関係と奉仕の体制を提供し、現在の宣教の課題により適切かつ効果的に共に立ち向かうことをお約束いたします。

 この道を歩み続けるために、皆さんは、形成の重要性について話されました。聴くことの形成、聴くことの霊性の形成です。特に、神学校において、そして司教たちにとっても重要であると、皆さんは強調されました。

 

 

 ここでは、今回の会合の具体的な対話テーマではありませんでしたが、今日でも多くの場所で、教会の活動において、真に傷跡となっている問題、すなわち性的虐待による危機について触れておきたいと思います。

 私たちは、目も心も閉じてはいけません。皆さんにも、このことを司教たちにお伝えいただきたいと思います。多くの場合、被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっています。虐待そのものは、おそらく一生続く深い傷跡を残します。

 しかし、多くの場合、教会におけるスキャンダルは、「扉が閉ざされ、被害者が受け入れられず、真の牧者たちの親身な支援を受けられなかったこと」が原因です。つい先日、ある被害者が「自分にとって最も辛かったのは、司教の誰も、私の話を聴こうとしなかったことです」と私に話してくれました。この場合にも、耳を傾けることが非常に重要なのです。

 

 

 すべての人の養成。神学校、司祭、司教、信徒協力者たちの養成は、地元の教会、教区、そして人々が、特に苦しんでいる人々が集まる他の多くの重要な場所での、日常的かつ具体的な生活に根ざしていなければなりません。ここでご覧になったように、このようなテーマを深く理解し、それを生きるためには、1日や2日、あるいは1週間で十分なわけではありません。

 したがって、私たちが日常的に協力し合う方法が、教区からローマ教皇庁に至るまで、あらゆるレベルで、私たちが共に働く人々にとって、教育と成長の機会となることが重要です。日常的に、シノダルのスタイルで成長できる例としては、牧会訪問があります。また、あらゆる参加組織も活性化すべきです。

 しかし、これらすべては、2028年に予定されている教会総会という重要な段階を経て、現在も継続しているシノドスの実施の過程と関連しています。皆様がこの道のりの原動力となってくださるようお勧めいたします。これは、教会の使命のための道であり、キリストの福音を宣べ伝えるための奉仕の道なのです。

 

 

 さて、親愛なる兄弟たちよ。しかし、これらは私が皆さんから伺ったことに対する、最初の感想に過ぎません。議論は今後も続くでしょう。四つのテーマすべて、枢機卿会議全体、そして枢機卿と教皇様、ローマ教皇庁との関係について、皆様のご意見を文書でお送りくださいますようお願いいたします。私も、皆様からの報告や個人的なメッセージをじっくりと読み、その後、フィードバック、つまりご返答を差し上げ、対話を続けていきたいと考えています。

 次回の枢機卿会議は、今年の聖ペトロと聖パウロの祝日に近い時期に開催することを、すでに提案したいと思います。そして、今年は2日間の会合を2回開催し、将来的には、おそらくはより多くの日数、年に1回、3、4日間、いくつかのグループが提案しているように、会合を継続することを検討したいと考えています。1日目は、熟考、祈り、交流の日とし、その後2、3日間は作業の日といたします。しかし、今年はこの方法で継続いたします。

 

 続けて、皆様が心からお力添えいただけると思う支援について、6月の次期枢機卿会議について考えてみましょう。ここで付け加えたいのですが、経済的な理由などで参加が難しい方がいらっしゃいましたら、ぜひお申し出ください。私も、私たちも、お互いに少しの連帯感を持って生活できると思いますし、寛大な方々が支援してくださる方法もあるでしょう。

 

 さて、この枢機卿会議の終わりに、私は、主の公現の祭日での説教で述べたことを繰り返したいと思います。「神はご自身を明らかにされ、何も変わらないままではいられません。ある種の平穏、つまり、憂鬱な人々が「太陽の下には新しいことは何もない」(コヘレトの言葉 1章9節)と繰り返すような”平穏”は終わりを迎えます。これが、私たちに与えられた希望です。

 私たちが「この世界に伝えたい」と思う希望です。そして、このことを通して、対話や個人的な出会い、またグループでのいくつかの発言の中で共有した、世界中で苦しんでいるすべての人々への懸念を、皆で一緒に表明したいと思います。

 私たちは、多くの地方教会を苦しめている貧困、苦しみ、戦争、暴力という現実を無視して、ここに集まっているわけではありません。そして、彼らを心の中に抱きながら、私たちは彼らに寄り添っていることをお伝えしたいと思います。皆さんの多くは、暴力や戦争という苦しみの中で暮らしている国々から来られています。

 私たちは、若い世代の前でも、この希望の道を歩む責任があります。今日私たちが経験し、決定することは、現在だけに関わることではなく、近い将来、そしてより遠い将来にも影響するのです。

 それは、今まさに幕を閉じた聖年において私たちが経験した希望です。これはまさに、私たちが世界に向けて伝えたいメッセージです。聖なる扉は閉じましたが、覚えておいてください。「キリストとその愛の扉は、いつまでも開かれたままである」ということを。

 最後に、聖父が私たちを枢機卿に任命した日に祈ってくださったように、お互いのために祈りましょう。「人間の弱さでは達成できないことを、あなたの恵みによってお与えください。そうして、あなたの僕たちが、絶えずあなたの教会を築き上げ、信仰の誠実さと精神の純粋さによって輝きを放つことができますように」(『新枢機卿の叙任式典』参照)。そして、聖ペテロが私たちのために執り成してくださいますように。私たちは、共同体の精神をもって、彼の舟である教会に奉仕しようと努めます。

 

2026年1月11日

改☩「対話に基ずく外交が、力と戦争の論理に取って代わられつつある」-教皇、外交団への年頭挨拶で警鐘

(2026.1.9  Vatican News)

 教皇レオ14世は、9日、教皇就任後初となる在バチカンの外交団への年頭挨拶で、「戦争が再び”流行”し、外交が『力と戦争の論理』に取って代わりつつあり、『人権と自由』が圧迫されている」と警告。「外交における謙虚さ、対話、そして多国間主義への新たな取り組み」を強く訴えられた。 挨拶で教皇は、「対話に基づく外交が、力と戦争の論理に取って代わられつつあり、国際共存の基盤が着実に損なわれています。第二次世界大戦後に確立された『国家が武力行使で他国の領土を侵犯することを禁じる原則』が完全に損なわれています」と語られ、「このような考え方が、あらゆる平和的市民共生の基盤である法の支配そのものを、深刻に脅かしています」と世界の現状に強い懸念を示された。

 そして、第二次世界大戦後に確立された「武力による他国の領土への侵犯を禁じる」という原則が弱められていることを嘆かれ、「平和が、自らの支配を正当化する手段としての武器によって、壊される傾向が強まっています」と訴えられた。

 さらに、「傲慢、権力、安全」という幻想について考察した聖アウグスティヌスの著書『神の国』を引用し、「戦争を仕掛ける者でさえ、究極的には平和を望んでいます。ただし、その平和は、『共有される善としての平和』ではなく、『独占する平和』です。アウグスティヌスは言います。『彼らは平和そのものを望んでいるのではなく、自らが望む平和だけを望んでいるのだ』と」と語られた。

 教皇が示唆したのは、まさにこの”歪み”が20世紀に人類を破滅へと導いた、という事実だ。教皇は「その悲劇を繰り返さないようにと生まれたのが国連であり、80年前に『平和の維持、基本的人権の擁護、持続可能な開発の促進』を目的とした多国間協力の中心として設立されたのです」と指摘された。

 また、戦争の具体的な代償として、特に民間人が標的となり、重要インフラが破壊される現状に注意を向け、「国際人道法の重要性に特に注目してほしい。単なる状況や軍事的・戦略的利益に依存してはなりません。人道法は『国家が順守の責任を負う約束』であり、常に交戦者の野望よりも優先されねばならないのです」と強調。

 「病院、エネルギー・インフラ、住宅、日常生活に不可欠な場所への攻撃は、人道法に重大に違反する行為です… 道徳的基準は”利益”ではなく、尊厳。人間の尊厳の不可侵性と生命の聖性という原則の保護は、いかなる国家利益よりも常に優先されねばなりません」と言明された。

 

*世界的な危機が続いている、ウクライナ、ガザ、スーダン、ミャンマ―…即時停戦を

 

 教皇はこの道徳的枠組みに関連して、世界の具体的な危機を取り上げ、「ウクライナで続く戦争と民間人の苦難」に言及。「即時停戦の緊急性」を再確認され、「平和への道筋を誠実に模索する意思に基づく対話」の実施を関係国指導者たちに強く求め、バチカンが「平和と調和を促進するあらゆる取り組みを支援する用意をしている」ことを改めて表明した。

聖地で、昨年10月に停戦が宣言されたにもかかわらず、民間人が「深刻な人道危機」に直面し続けていることにも言及され、ガザ地区のパレスチナ人に「永続的な平和と正義の未来」を保証する取り組みの必要を再確認し、「二国家解決案がパレスチナ人とイスラエル双方の願望を満たす制度的展望であり続けること」を強調。西岸地区におけるパレスチナ民間人への暴力増加を嘆かれ、彼らの「自らの土地で平和に生きる権利」を擁護された。

さらに「カリブ海及びアメリカ太平洋沿岸における緊張の高まり」への懸念を表明され、平和的解決の必要性を改めて訴えた。ベネズエラの危機にも言及し、国民の意思尊重と人権・市民権の保護を求めた。昨年10月に列聖されたベネズエラ人聖人ホセ・グレゴリオ・エルナンデスとカルメン・レンディレス修道女の証しを引用し、「正義、真実、自由、友愛」に基づく社会構築の模範として示された。

ハイチの暴力と不安定化についても言及され、具体的な国際支援を求めた。同様に、アフリカのグレートレイクス地域、スーダンと南スーダン、東アジアの緊張、そして昨年3月の地震で悪化したミャンマーの人道危機にも触れ、「平和と包括的対話」ならびに人道支援へのアクセスを求められた。

 

 

*核リスクへの対処とAIの倫理的ガバナンスの必要

 

 教皇は、こうした危機の根底には「平和は武力と抑止力によってのみ可能だ」という根強い信念があると指摘した。しかし平和は、特に破壊能力が最も高い者たちによって、絶え間ない構築と警戒を必要とするのだと警告した。 教皇は核軍縮の緊急性を強調し、新START条約が今年2月に期限切れとなることを指摘。AI(人工知能)によって形作られる兵器を含む、高度化する兵器による軍拡競争への回帰を警告した。AIは「適切かつ倫理的な管理」を必要とし、自由と人間の責任を保護する規制枠組みが不可欠だと述べた。

 

 

*移民、囚人の扱い、そして司法制度に「聖年の精神」が影響を与えるように

 

 教皇の尊厳擁護は移民と囚人にも及んだ。この二つの集団はしばしば人間ではなく問題として扱われる。

 「あらゆる移民は人間である」と教皇は述べ、したがって「あらゆる状況で尊重されなければならない不可侵の権利」を有すると強調した。全ての移住が自発的な選択ではない。多くの人々が「暴力、迫害、紛争、さらには気候変動の影響」から逃れていると説明した。国際移住機関(IOM)創設75周年を記念し、教皇は犯罪や人身取引対策が「移民や難民の尊厳を損なう口実」になってはならないと警告した。

 また受刑者について言及し、彼らは「決して犯した犯罪に還元されるべきではない」と主張され、教皇フランシスコの聖年恩赦の呼びかけに応じた各国政府に謝意を示し、聖年の精神が司法制度に、恒久的かつ構造的に影響を与え、人道的な環境と比例した刑罰を保証することを期待する」と述べられた。

 とりわけ、教皇は「赦しと再生の希望をすべて破壊する」と表現した死刑制度の廃止がこれに含まれると強調。「多くの国で政治的理由で拘束されている囚人たちを忘れることはありません」とも述べられた。

 

*言葉が現実との繋がりを失い、人を欺き、攻撃し、傷つける武器に

 

 教皇の挨拶のもう一つのテーマは、「言葉」そのものへの警鐘だった。言葉の弱体化、操作、そして害をなす道具への変質だ。

 「言葉の意味を再発見することは、おそらく現代の主要な課題の一つだ」とされ、「なぜなら言葉が現実とのつながりを失う時、現実そのものが議論の余地のあるものとなり、最終的には伝達不能なものになるからです」と語られた。

 教皇は聖アウグスティヌスが、共通の言葉を持たいまま共にいることを強いられた二人の人間を、どのように描写したかを想起され、「無言の動物たち…この二人の人間よりも互いを理解しやすい、とアウグスティヌスは語っています。実際、人は外国人と話すより、自分の犬と会話する方がずっと楽です!」と逆説的に述べられた。

 しかし教皇は、「今日の語義の曖昧さは、単なる偶然ではない」とされ、「言葉はますます、欺くための武器となり、あるいは敵を攻撃し傷つける武器となっています」と警告。言葉が「明確で異なる現実を疑いなく表現する」ように、家族、政治、メディア、ソーシャルメディア、国際関係において真の対話が再開されるように、と訴えられた。

 そして、「この言葉の弱体化はしばしば、表現の自由の名のもとに擁護されますが、よく見れば真実は逆です。なぜなら言葉が真実に基づいている時こそ、自由は守られるからです」と語られ、「特に西洋において、真の表現の自由の空間が急速に縮小している様子を見るのは痛ましい。他者を迎え入れるように見せながら、結局は順応しない者を排除してしまう」とされ、「新たなオーウェル的な言語」の危険性に警鐘を鳴らされた。

 

 

*「良心の自由」と「信教の自由」が危機に瀕している

 

 続いて教皇は、現代社会で脅威に晒される権利-良心の自由と信教の自由-に話題を移され、まず「良心の自由」に関連して、良心的兵役拒否を「尊厳を守る手段」として支持し、「良心的兵役拒否は反抗ではなく、自己への忠実な行為です。これは自由な社会が画一性を強いるのではなく、良心の多様性を守る、という真実を反映し、権威主義的傾向を防ぎ倫理的対話を育みます」と述べられた。

 「信教の自由」については、ベネディクト16世教皇の言葉を引用する形で「信教の自由」を「あらゆる人権の第一」と位置付け、「世界中で(信教の自由への)侵害が増加しており、世界人口の64%がこの権利の深刻な侵害に苦しんでいます」と指摘。

 「聖座はキリスト教徒への完全な尊重を求めます。他の全ての宗教共同体についても同様です」とされ、第二バチカン公会議の公文書『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate=私たちの時代に)』公布60周年に際し、あらゆる形態の反ユダヤ主義を断固として拒否する姿勢を再確認し、ユダヤ教とキリスト教の対話及び共通のルーツの深化の重要性を訴えられた。

 さらに、「キリスト教徒への迫害は、今日最も広範な人権危機の一つであり、全世界で3億8千万以上の信徒が深刻な、あるいは極度の差別と暴力に直面しています」と語られ、バングラデシュ、サヘル地域、ナイジェリアでの暴力被害者、昨年6月にダマスカスの聖エリアス教会で起きたテロ攻撃の犠牲者、モザンビーク・カボデルガドでのジハード主義者による暴力の犠牲者を悼まれた。

 また、キリスト教徒が多数派を占める社会、特にヨーロッパやアメリカ大陸においても、キリスト教徒が福音宣教を制限されるなど、「微妙な差別が存在する」ことを指摘。特に「最も弱い立場にある人、胎児、難民、移民の尊厳を守り、家族を擁護する活動を行う際に、制限が加えられることが起きています」と述べられた。

 

 

*あらゆる権利の基盤、「生命の権利」が侵害され、暴力と抑圧の余地が生まれている

 

 教皇は、「生命の権利が他のあらゆる権利の基盤であること」を再確認され、「この権利が、現実や真実から切り離されると、現代の人権の枠組みは活力を失う危険があります」と警告された。

 そして、「現在の状況をみると、人権の『短絡』が実際に起きています… 言論、良心、信教、さらには生命といった根本的に自由であるべきものが、いわゆる”新たな権利”の名の下に」制限され、暴力と抑圧の余地が生まれています」と批判された。

 さらに、家族が「人間が愛と生命への奉仕を学ぶ特権的な場」であるにもかかわらず、世界的に家族の役割を軽視する傾向が強まり、困難や家庭内暴力に苦しむ脆弱な家族の痛ましい現実が顕著になっている、とも指摘。 「生命の起源を否定または搾取する行為や、それを助長する計画に対し、教会は断固として拒否することを改めて表明され、「公的資源は、生命を抑制するのではなく、母と家族を支えるべきです」と訴えられた。

 

 

*だが、希望の兆しはある、平和の種を育てよう!「謙虚で平和を愛する心」を持とう!

 

 このような深刻な世界の現状分析のうえで、教皇は「平和は、困難ではあるが現実的な善であり続けます」と言明され、アウグスティヌスの言葉を引用して、平和を「私たちの善の目標」と呼び、「地上の都の中にあってさえ、神の都を予感させるもの」と強調。

 そして、平和構築には「真実を生きる謙虚さと、赦す勇気」が必要であり、これらの美徳は、真理が謙虚な肉となる主の降誕の祭りと、裁かれた義人が赦され、復活者として命を与える主の復活の祭りに示されている、と指摘された。

 挨拶の締めくくりに、教皇はまた、希望の兆しの具体例として、三十年前にボスニア・ヘルツェゴビナ戦争を終結させたデイトン合意(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意)、昨年八月署名されたアルメニアとアゼルバイジャンの共同平和宣言、そしてベトナム当局による聖座との関係改善努力、を挙げ、「これらは”平和の種”であり、育てねばなりません」と訴えられた。

 そして、平和と対話の人であるアッシジの聖フランシスコの没後800年を迎える今年10月を見据え、謙虚さと真実の証人である聖人の模範を呼び起こし、新しい年に入った全ての人々に、「謙虚で平和を愛する心」を願って締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月9日

☩教皇、次回の枢機卿会議を6月に、毎年開催も。”シノドスの道”の仕上げの教会会議2028年10月開催も確認

(2026.1.8 Vatican News    Salvatore Cernuzio )

 臨時枢機卿会議が8日夜、2日間の討議を終えた。終了後、教皇レオ14世はこの方針を継続する意向を表明された。これは「継続性」を保ちつつ、昨年5月の教皇選挙前の枢機卿総会で求められた内容に沿うものであり、この線に沿って、今年6月、聖ペトロと聖パウロの祝日に近い時期に、臨時枢機卿会議が再び招集されることも決まった。また会議では、教皇フランシスコが”シノドスの道”の仕上げとして昨年3月に発表された2028年10月の教会会議の開催も確認した。

 6月の第二回臨時枢機卿会議の開催は、8日午後の第三回全体会議の締めくくりの挨拶で、教皇が発表された。会議には選挙権を持つ枢機卿と持たない枢機卿、計170名が参加。教皇は、この二日間の会議が「昨年5月の教皇選挙前の枢機卿会議で求められた内容と連続性を持っていた」とされ、今後も毎年、3日ないし4日間の枢機卿会議を開く意向を示された。教皇は7日の挨拶でも、今回の臨時枢機卿会議が「私たちの未来の旅路の前兆」とされ、継続の方針を示しておられた。

 あいさつで教皇は、会議出席者への参加と支援への感謝を表明、特に高齢の枢機卿たちには、出席の労をねぎらう言葉をおくられた。そして、「皆さんの証言は貴重だ」とされると同時に、会議に出席できなかった枢機卿たちにも、「私たちは皆さんと共にあり、皆さんのそばにいます」と言葉をかけられた。

 教皇は、この二日間の会議で体験した「非技術的なシノダリティ(共働性)―深い調和と交わり」について語られ、「これは、各人の背景や経験の多様性を踏まえ、相互理解を深めるために選ばれた方法論によって可能になったもの」とされ、教会の歩みと刷新の礎である第二バチカン公会議に言及し、また、7日の会議初日に教皇ご自身が提案された四つの討議テーマ候補のうち採決されなかった二つ—典礼と『福音宣教』—は、「公会議と密接に関連しており、忘れてはならないこと」と指摘された。

 最後に、教皇と枢機卿団全員の双方から、世界の全体的な状況への注意深い視線が向けられた。それは教会の対応を「一層緊急のもの」であり、戦争と暴力に苦しむ地方教会に寄り添う教会だ。

ベネズエラへの思い

 枢機卿会議で扱われた二つのテーマは、そうした流れの中で、まったく異なる「『福音の喜び』に照らした共働性」と「宣教」だったが、ラテンアメリカ出身の枢機卿たちからは、ベネズエラの状況に対する特別な思いが示された。

 コロンビアのボゴタ大司教であるルイス・ホセ・ルエダ・アパリシオ枢機卿は会議後の記者団への説明で、劇的な出来事の翌日にあたる1月4日の正午の祈りで教皇が語られた言葉を取り上げ、「教皇は、ベネズエラで起きている事態への深い懸念を示され、対話と合意形成の促進に尽力すると約束された。平和を呼びかけ、武装せず武装を解く平和を築くこと。それは人権と主権を尊重しつつ、人々を結びつける平和です」と語った。

 そして、「あの教皇のメッセージが、この数日間の私の考察の基調となりました。今回の枢機卿会議の密会議の公式テーマではなかったが、枢機卿団のメンバーが現状を憂慮し、進むべき方向について自問し、ラテンアメリカの地政学がどう変化しているか、教会がどのように民衆に寄り添えるかについて考えることは、避けられないことでした。ベネズエラ問題は、私たちの心に刻まれ、皆を悲しませている。近い将来の最善の展開を願っています」と説明した。

「旅路の伴侶」として生きる共議制

 その後、三人の枢機卿が記者団に対し、8日の午前から午後にかけて行われた討議と全体的な雰囲気について報告した。討議は、聖歌と祈りの時間もあり、パウロ6世ホールのアトリウムで昼食休憩を挟みながら進められた。教皇が同席し、参加者一人ひとりに自身の在位記念メダルを授与された。

 言語グループごとの分科会での議論は、シノダリティ(共働性)に焦点が当てられ、「旅路の伴侶」として実践する必要性、権威の行使や養成、教皇大使の職務に反映されること、そして「より一層の国際化」をもってバチカンで実践されることなどが話し合われた。また、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』が再読された。この勧告は、教皇フランシスコが亡くなり、在位が終わったことで「期限切れ」になったわけではなく、今も教区やローマ教皇庁、教皇自身に課題を与え続けている。

 バチカン報道局のマッテオ・ブルーニ局長によると、分科会では20のグループが設けられ、うち11グループは教皇選挙権を持たない枢機卿、9グループは選挙権を持つ枢機卿で構成された。

「教皇はメモを取り、非常に注意深く聞いていた」

 会見の3人の説明者の一人、ブリスリン枢機卿は、この経験を「非常に豊かなものだった。多様な視点が、世界が必要としていることへの理解を深めることを可能にし、互いを知り、理解し合う機会となったからです。6月に次回会合が予定されることになったのは、教皇が、ペトロの後継者としての役割を私たちが助けることを非常に真剣に受け止めておられる証しです」と語った。

 ルエダ枢機卿は「教皇選挙から8か月、教皇は私たち意見を聞くために会議を招集された。これは、教会の使命において私たちを力づけるもの」と述べ、デイビッド枢機卿は”時差ぼけ”や会議の素晴らしい会場について冗談を交えつつ、討議の進め方を称賛し、次に「誰もが発言できた」聖霊による対話を評価。さらに教皇が「話すより多く聴いておられたこと」を高く評価して、「教皇はメモを取られ、非常に注意深く聞いておられました。その意見は私たち我々全員にとって非常に豊かなものでした」と述べた。

互いを知ることの重要性

 ある記者が、「既に2023年、2024年の二度にわたるシノドス(世界代表司教会議)総会で広く議論されたテーマが、今回も討議されたが、今回の枢機卿会議での新たな要素が何でしょうか」と質問したのに対し、ブリスリン枢機卿は「新しさは、議論の中だけに求めるべきではなく、互いを知り、互いの声に耳を傾ける機会そのものにありました。このことは重要です。私たちは世界の様々な地域から集まり、新たに枢機卿となった者もいれば、長年その地位にある者もいるからです」と答えた。

 さらに、「教皇は、共働的な姿勢を示され、耳を傾け、世界各地から集う枢機卿たちの経験と知見を汲み取りたい、と考えておられる。それが教会の導きに役立つからです。枢機卿たちの経歴は異なるが、討議は、画一的ではない調和の中で進められました」とルエダ枢機卿は結論づけた。

信徒と女性の役割

 

  記者団からは、「信徒の参加や教会における女性の役割が議論にどう影響した」とも質問もなされた。

 デイヴィッド枢機卿は「教会における女性の役割と奉仕を認めないわけにはいきません。女性の問題は常に念頭にある」としし、女性助祭職研究委員会の結果を想起させた。また「聖職者主義」に言及し、第二バチカン公会議に由来する「民全体の司祭職」という考え方を改めて提示。「私たちは、教会の”体”について語る。教会の”頭”は存在するが、それだけではありません。”体”も存在する。人々は教会の生活と使命に参加する力を持っているのです」と強調した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月9日

☩「教会に『命』はあるか?神を愛し、福音を述べ伝えているか?大胆に、創造的に『歩むべき道』を拓こう」教皇、臨時枢機卿会議の初日の最後に

Pope Leo XIV speaking at the conclusion of the first session of the extraordinary Consistory in the Vatican's Paul VI Hall Pope Leo XIV speaking at the conclusion of the first session of the extraordinary Consistory in the Vatican’s Paul VI Hall   (@Vatican Media)

 

2026年1月9日