☩「スーダンで恐ろしい人道的惨事が起きている」と警告-四旬節第四主日の正午の祈りで

Displaced people from South SudanDisplaced people from South Sudan  (AFP or licensors)

 

 

2025年3月30日

☩「被災者に寄り添い、犠牲者に心からの祈りを捧げます」教皇、大地震のミャンマーやタイの人々に

A resident carries belongings over debris next to a damaged building in Naypyidaw on March 28, 2025, after an earthquake in central MyanmarA resident carries belongings over debris next to a damaged building in Naypyidaw on March 28, 2025, after an earthquake in central Myanmar  (AFP or licensors)
2025年3月29日

◎教皇聖年連続講話「イエス、私たちの希望」⑩イエスとの出会いによって、私たちは常に新たな旅立ちができる

(2025.3.26  Deborah Castellano Lubov)

 サンタ・マルタ館で療養中の教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見の聖年連続講話「イエス、私たちの希望」のために用意された原稿を発表され、「すべてを神に委ね、新たな旅立ちを迎えるのに『遅すぎる』ということは決してない… 神は常にやり直しの可能性を与えてくださるので、決して希望を失ってはなりません」と信者たちに呼びかけられた。

 この日の講話で教皇は、ヨハネ福音書の「イエスとサマリアの女」の箇所(4章5₋25節)を取り上げられた。サマリアの女と井戸で出会われたイエスは、彼女に水を求め、自分がメシアであることを明かす。そして、彼女の過去を明かし、永遠の命を象徴する「生ける水」をお与えになる。この出会いによって変えられた彼女は、水がめを置いて村に走り、他の人々をイエスのもとに連れて来る…。

 この出会いの逸話は、イエスが、サマリアの女性にされたように、私たちの人生の「岐路」で待っておられることを示している、と教皇は指摘され、「自分の人生に恥じらいを感じていたであろうサマリアの女性にとって、少々ショッキングなことだったかもしれません。自分が裁かれ、非難され、理解されていないと感じたでしょう。彼女には過去に5人の夫がおり、現在は6人目の夫ではない男性と一緒にいることを、イエスに言い当てられたからでした」と語られた。

 だが、イエスのお考えは違った。教皇は、「ユダヤからガリラヤへ行くために、イエスは別の道を通れば、サマリアを経由せずに済むはずでした。にもかかわらず、サマリアを通る道を選ばれ、まさにその井戸のところで立ち止まられたのです」とされ、「このことは、イエスが私たちを待っていてくださること、そして『自分には希望がない』と考えるまさにその時に、イエスは私たちを待ち、ご自分を見つけられるようにしてくださるのです」と強調。

 さらに、「もし彼女が『自分は理解され、歓迎され、赦されたこと』を悟らなかったら、彼女はどのような宣言をすることができたでしょうか?」と問いかけられ、 この出会いの場面は「福音宣教のための新しい方法を探求するうえでのヒントを与えてくれます」と付け加えられた。

 サマリアの女性は、水がめをイエスの足元に残した。教皇は、「(イエスと出会う前は)水がめを家に持ち帰るたびに、その重みが、苦悩に満ちた過去の人生を思い出させましたが、今、その水がめはイエスの足元に残されている。この時点で、過去はもはや重荷ではなく、彼女は過去と和解した。同じことが私たちにも言えるでしょう」とされ、「私たちもまず、自分の過去の重荷を主の足元に置き、主に委ねる必要があります」と語られた。

 そして、最後に教皇は、「愛する兄弟たち、愛する姉妹たち。希望を失わないようにしましょう! たとえ自分の過去が重荷のように感じられ、複雑で、破滅的であるように見えても、私たちは、常にそれを神に委ね、新たな旅立ちを始める可能性を持っているのです」と強調。「神は慈悲深く、常に私たちを待っておられます!」と講話を結ばれた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月26日

☩「未成年者・弱者保護に規定順守以上のものが必要、性的虐待被害者への”癒し”が重要」バチカン未成年者・弱者保護委員会の総会へ

2021.11.18 abusi su minori, abuso, tutela del minore

*虐待防止は、緊急時の”毛布”ではない、福音に忠実な共同体の基盤の一つだ

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月26日

☩教皇、退院前に病院バルコニーから祝福、ガザ地区へ爆撃停止など、世界各地の戦闘停止訴え

Palestinians mourn during the funeral of loved ones killed in Israeli strikes in Khan Yunis in the southern Gaza Strip on 23 MarchPalestinians mourn during the funeral of loved ones killed in Israeli strikes in Khan Yunis in the southern Gaza Strip on 23 March  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月23日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑨ニコデモのように、私たちもイエスとの出会いに希望を見出そう

 

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年3月20日

☩「勇気をもって人生をキリストに捧げる若者たちを世界は必要としている」-5月11日の「世界召命祈願の日」に向けて

(2025.3.19  バチカン放送)

 5月11日に記念される第62回「世界召命祈願の日」に先立ち、教皇フランシスコのメッセージが19日発表された。今回のテーマは、「希望の巡礼者:人生の贈り物(仮訳)」だ。

 メッセージで教皇は、自らの人生を寛大に捧げることで「希望の巡礼者」となるように、喜びと励ましのうちに呼びかけられた。「召命とは、神が心の中に種をまかれる尊い贈り物、愛と奉仕の歩みを始めるために自分自身の外に出るようにとの呼びかけ」とされ、その召命が信徒としてのものであっても、また聖職者や奉献生活者のものであっても、「教会の中のあらゆる召命は、神が世界とご自分の子らに抱いておられる希望のしるしです」と説いておられる。

 教皇は、「自らの召命を受け入れる」ことの大切さに触れながら、「すべての召命は、希望により生かされ、それは摂理への信頼へとつながっていきます」、「キリスト者にとって『希望を持つ』とは、単に人間的な楽観ではなく、各自の人生の中で働かれる神への信仰に根差す確信、と言えます」と述べ、若者たちに向け、「神における希望は欺くことがない。神はご自分に信頼する者の一歩一歩を導いてくださるからです。『希望の巡礼者』として、勇気をもって自らの人生をキリストに捧げる、あなたがた若者たちを、世界は必要としています」と強調された。

 次に教皇は「自らの召命の歩みを識別する」ことを取り上げ、「召命の発見は、識別の歩みを通してもたらされます。その道のりは決して孤独ではなく、キリスト教共同体の中で、共同体と一緒に発展していくのです」と語られ、召命を個人だけの問題ではなく、共同体のものとすることに注意を向けられた。

 また、「私たちが自分の人生を贈り物とするなら、深い潜心は、誰もが希望の巡礼者となれることを教えてくれます」とされ、「心に語りかける神」に沈黙と祈りの中で耳を傾けるよう若者たちに促され、さらに、すべての人の召命について、「神の呼びかけに耳を傾ける人は、『疎外され、傷つけられ、見捨てられた』と感じている多くの兄弟姉妹たちの叫びを無視できない。すべての召命は、光と慰めを最も必要とする場所でキリストの現存となる使命へと開かせます。特に信徒は社会的・職業的な努力を通し、神の国の『塩、光、パン種』となるよう呼ばれています」と強調。

 最後に「召命の歩みに寄り添う」ことについて、司牧・召命担当者、特に霊的指導者たちに対し、「希望と忍耐強い信頼をもって、若者たちの歩みを神の教育のなさり方に委ね、彼らを助けながら、その歩みに神のしるしを注意深く認める、信頼できる賢明な指導者となるように」と願われ、またすべての信者に対して、「『キリストに従うことが、すなわち喜びの源泉』だということを、自らの生き方を通して告げる『希望の証し人』を、世界はしばしば無意識のうちに求めています」と述べられ、収穫のために働き手を送ってくださるように絶えず主に祈りつつ、「福音の道を常に希望の巡礼者として歩んで行こう」と呼びかけておられる。

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 カトリック教会は、「善き牧者の主日」と呼ばれる復活節第4主日に「世界召命祈願の日」を記念する。この日は、特に司祭や修道者への神の招きに、より多くの人が応えることができるように、またそれぞれの信者がキリスト者として自らの召命を見出せるように、全教会が祈りを捧げる。

(編集「カトリック・あい」)

2025年3月20日

☩「体は弱っても、『希望の輝くしるし』となるのを妨げるものは何もない」入院中の教皇、四旬節第二主日の正午の祈りの説教

Pope Francis continues treatment at Gemelli Hospital in RomePope Francis continues treatment at Gemelli Hospital in Rome 

 

2025年3月16日

☩「私たちも誘惑を受けるが孤独ではない、イエスが導いてくださるから」ー四旬節第一主日、「ボランティアの聖年」記念ミサで

(2025.3.9 Vatican Newes   Tiziana Campisi)

 「ボランティアの聖年」が8、9の両日、バチカンとローマ市内で世界100カ国からおよそ2万5千人の参加して行われ、9日、その記念のミサが、聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコの代理、チェルニー枢機卿の司式で行われた。

*社会の”砂漠”に、ボランティアの人たちが希望をもたらす

 

 一般信徒を含め約3万人が参加、枢機卿、司教、司祭など100人を超える共同司式者が参加したミサの説教は、教皇が用意された原稿をチェルニー枢機卿が代読する形で行われた。説教の冒頭で、教皇は、世界中のボランティアたちが多くの人々と共に奉仕し、献身してきたことを称え、「親愛なる皆さん、私は心から感謝いたします。なぜなら、皆さんはイエスの模範にならって惜しみなく隣人への奉仕を行っているからです。街角や家庭で、病人や苦しむ人々、投獄された人々と共に、また若者や高齢者と共に、皆さんの寛大さと献身は、私たちの社会全体に希望をもたらしています」と述べられた。

 続いて、ミサで読まれたルカ福音書の箇所(4章1₋13節)を取り上げ、イエスが「聖霊に導かれて」砂漠で直面した誘惑について考察され、初めに、「私たちの四旬節の旅は、主について行き、主が私たちのためになさった経験を分かち合うことで始まります。それは、『沈黙の場』が『傾聴の場』となり、傾聴する能力が試されるからであり、私たちは2つの全く異なる声の間で取るべき道を選ばねばならないからです」と指摘。 

 そして、「砂漠で、イエスは飢えを経験され、悪魔の言葉に誘惑されますが、それを拒絶します。私たちも誘惑を受けますが、決して孤独ではありません。イエスは私たちと共におられ、砂漠を歩む私たちを導いてくださいます。神の子である方は、悪と戦う方法を私たちに示してくださるだけではありません。それよりはるかに大きなものを与えてくださる。悪の攻撃に抵抗し、旅を続けるための強さを与えてくださるのです」と強調された。

*誘惑の3つの特徴

 

 教皇は、イエスが誘惑された際の3つの側面と、私たち自身の誘惑の3つの側面について語られ、「誘惑の始まり、誘惑の方法、誘惑の結果」について「誰もがイエスと自分の経験を比べ、自身の『回心の旅』の支えを見出すように… 主は、自らの意志の強さを示すために砂漠に向かうのではなく、父なる神の導きを素直に受け入れる、親に尽くす心から御霊に身をゆだねますが、私たちが受ける誘惑は、悪が内側から私たちを攻撃し、内なる影のように、絶え間なく脅威をもたらします」とされた。

 そして、「誘惑に遭わせないでください、と神に願うときには、神はすでにその祈りに応えられていることを思い起こす必要があります。神は、御言葉であるイエスを通して、常に私たちと共にいてくださいます。主は私たちの傍におられ、試練や不安の時に、誘惑者が声を荒らげるときに、私たちを気遣ってくださるのです」と説かれた。

 これに対して悪魔は「偽りの父であり、ゆがんだ存在。彼は神の言葉を理解することなく、知っています。父なる神とは、まったく逆です。エデンの園のアダムの時代からそうであったように、イエスという新しいアダムが、砂漠でその試練に遭うのです」と付け加えられた。

*キリストは神と人間を結びつける

 

 キリストが試練に遭う理由について、教皇は「悪魔は(神と人間を)分断し、分裂させる存在であるのに対し、イエスは神と人間を結びつけ、仲介する存在です。悪魔がその絆を断とうと企むとき、イエスは、誰も排除することなく、すべての人を受け入れる関係を築き、私たちの救済のために世界と分かち合う贈り物となれる。悪魔が私たちに、神から遠く離れていると信じ込ませ、絶望に誘惑しようとするまさにその時、神は、私たちに近づき、世界の贖いのためにご自分の命をお捧げになるのです」と説かれた。

 

 

*イエスが悪を打ち負かされ、私たちを贖われる

 

 続けて教皇は、「イエスは悪魔を打ち負かします。これは『誘惑の結果』ですが、福音書が語るように、悪魔は、イエスを誘惑するために戻って来ます。ゴルゴタで、イエスは再び誘惑を受けます―『神のであるなら、十字架から降りてみろ』と。しかし、過ぎ越しの神秘である死と復活において、キリストは、誘惑する者を完全に打ち負かしました」と語られた。

 一方、「私たち人間は、誘惑に打ち勝つことが常にできるわけではありません。誘惑に直面すると、私たちは時に落ちる。私たちは皆、罪人」だが、「私たちの敗北は決定的なものではありません。なぜなら、私たちが倒れるたびに、神は無限の愛と赦しによって、私たちを立ち上がらせてくださるからです。キリストにあって、私たちは悪から贖われたのですから、私たちの試練は失敗で終わるわけではありません」と強調。

 説教の最後に、教皇は「イエスご自身が、私たちに解放と贖罪の新たな道を開いてくださっている」ことを強調され、「信仰によって。イエスに従うことで、”放浪者”から”巡礼者”となるのです」と信者たちを励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
2025年3月10日

☩「病気や戦乱に苦しむ人々に『優しさの奇跡』が訪れるように」ー教皇、四旬節第一主日の正午の祈りで

Thousands of volunteers gathered in St. Peter's Square for Mass on Sunday as the Pope recovers in hospitalThousands of volunteers gathered in St. Peter’s Square for Mass on Sunday as the Pope recovers in hospital  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

2025年3月10日

☩「愛に満ちた社会は、中絶の圧力から女性たちを解放せねばならない」-教皇、8日の「国際女性デー」に

(2025.3.8 Vatican News   Devin Watkins)

 世界中の女性が自分らしく、健康に生きる権利を祝う「国際女性デー」の3月8日、教皇フランシスコは、人工中絶に反対するItalian Movement for Lifeの巡礼者たちにメッセージを送られ、「声なき人々を代表する胎児の側に立つように」と呼びかけられた。

 メッセージは、8日、聖ペトロ大聖堂に集まった巡礼者たちのミサで、入院・治療中の教皇に代わり、パロリン国務長官が伝えた。

 その中で教皇は、「女性たちを信頼し続けてください。彼女たちのもつ歓迎する力、寛大さ、そして勇気を信頼し続けてください… 女性たちは、市民社会と教会社会全体の支援を当てにできるはずです」と訴えられ、現代社会が「所有、行動、生産、外見」に重点を置くことで女性に圧力をかけていることを嘆かれた。

 そして、「教会は、人間の尊厳を推進し、世間から最も弱い立場にある人々を優先することで、社会のメッセージに対抗しようとしています」と強調された。

 また教皇は、「まだ生まれていない子供たちは、最も完全な意味で、声を持たず、数えられないすべての男女を象徴しています… 彼らの側に立つことは、世界から見捨てられたすべての人々と連帯することです」とされ、女性を「子供を産まないようにと迫るプレッシャー」から解放する「愛の文明」を育むように、信者たちに呼びかけ、「胎児を『私たちの一員』として認識するには『心の眼差し』が必要なのです」と説かれた。

 1975年に設立され、妊娠中の困難を抱える女性や中絶を迫られている女性を支援する複数のセンターを運営するItalian Movement for Lifeを称賛された教皇は、その活動は「率直さ、愛、粘り強さをもって、すべての人に対する真実と慈愛を密接に結びつけながら、生命の文化を推進している」と述べられたうえで、この運動が50周年を迎えるにあたり、生命の尊重を推進するすべての人々に「母性と、あらゆる段階における人間の生命の受容に対する社会的保護を推進するように」と促された。

 教皇はさらに、「この半世紀の間、一部のイデオロギー的偏見が弱まり、若者たちの創造物を大切にする感受性が育まれる一方で、残念ながら使い捨て文化が広がっています」とされ、「特に最も壊れやすく傷つきやすい人間の生命の奉仕に、すべての人々が献身するように」と信者たちに求められ、「生命は神によって創造された神聖なものであり、偉大で美しい運命のためにある。望まれない胎児、もはや自立できない高齢者、末期患者を排除することで、公正な社会が築かれるわけではありません」と強調。

 メッセージの最後に教皇は、聖母マリアに人間の生命を尊重する人々を見守ってくださるよう祈られ、また巡礼参加者たちに、ご自分とご自分の健康のために祈ってくれるよう願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月9日

☩「皆さまの祈りに感謝します。私も皆さまと共にいます!」-教皇、病院からメッセージ

Recitation of the Rosary in St. Peter's SquareRecitation of the Rosary in St. Peter’s Square  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2025.3.6   Vatican News)

教皇フランシスコ教皇が6日、21日前に入院して以来、自身の回復を祈り続けてくれたすべての人々に対して、感謝と親密さのメッセージを送られた。

「聖ペトロ広場から私の健康を祈ってくださっている皆さまに、心から感謝いたします。私も皆さまと共にいます。神のご加護がありますように。聖母が皆さまを守ってくださいますように。ありがとうございます」

教皇の感謝のメッセージは、愛と親密さの証として、ローマ時間6日夜9時に聖ペトロ広場で放送された。メッセージは、奉献・使徒的生活会省のアーティメ枢機卿が主導したロザリオの祈りの冒頭で、スペイン語で放送された。

教皇が入院された2月24日から、何千人もの信者が、ローマ在住の枢機卿、バチカンおよびローマ教区のすべての協力者と共に聖ペトロ広場に集まり、教皇の早期回復を祈り、聖なるロザリオを唱えている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月7日

☩「灰は、私たちを現実に引き戻し、希望をくれる」-教皇、「灰の水曜日」ミサの説教原稿で

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月6日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑧「マリアとヨセフのように希望に満ちて主を捜しに行こう」

神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画 

(2025.3.5  バチカン放送)

 入院・治療中の教皇フランシスコが5日、水曜恒例一般謁見のために準備されていた聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」の8回目をバチカン広報局を通じで発表された。。

 今回は、「イエスの幼少期」の考察の中から、「神殿で見出されたイエス」をテーマに取り上げておられる。

 講話の要旨は次のとおり。

**********

 イエスの幼少期を扱うこのカテケーシスの最後に、イエスが十二歳の時、両親に告げずに神殿内に留まり、心配した両親がイエスを捜し回り、三日の後に見つけた、というエピソードを取り上げましょう。

 このエピソードは、マリアとイエスの間に交わされた非常に興味深いやり取りを示しています。そして、それは決して容易ではなかった「イエスの母の歩み」を観想させるものである。実際、マリアはその長い霊的な歩みの中で、御子の神秘を次第に理解していきました。

 マリアのこの歩みの様々な段階を、振り返ってみましょう。イエスを身ごもって間もなく、マリアはエリザベトを訪ね、小さなヨハネが生まれるまでの三か月ほどそこに滞在します。そして、月が満ちた時、マリアは住民登録のためにヨセフとベツレヘムに行き、そこでイエスを出産しました。

 四十日後、彼らは幼子を神殿で捧げるためにエルサレムに上ります。そして、毎年彼らは巡礼し、神殿に戻りました。

 しかし、イエスがまだ小さい頃、ヘロデ王からイエスを守るために彼らは長い間エジプトに避難していました。彼らが再びナザレに戻って住んだのは、王が死んでからのことです。

 イエスは成人され、宣教を開始されます。マリアはカナの結婚式に出席し、その主人公となりました。そして、エルサレムへの最後の旅、イエスの受難と死まで、「離れたところ」からイエスに付き添います。イエスの復活後、マリアは、弟子たちの母として、エルサレムに残り、聖霊降臨まで彼らの信仰を支えました。

 「御子の娘」、「御子の最初の弟子」となったマリアは、これらすべての歩みを通し、「希望の巡礼者」でした。マリアは、人類の希望であるイエスをこの世にもたらし、養い、育て、神のことばに従って自分を形作りながら、イエスに従ったのです。

 ベネディクト16世が記されたように、マリアは「神の言葉を住まいとし、自由にこの神の言葉の家を出入りすることができた。マリアは神の言葉で語り、神の言葉でものを考えた。[…] そこから、どれほどマリアの思いが神と一致し、どれほどマリアの意志が神のみ旨と一つになっていたかもわかる。神の言葉によって完全に満たされていたからこそ、マリアは受肉した神の言葉の母となることができた」(回勅「神は愛」41)のです。しかし、この類いまれな神の言葉との交わりにあっても、マリアは「修行時代」の苦労を免れてはいません。

 毎年恒例のエルサレム巡礼の間に12歳のイエスを見失った体験はマリアを驚かせ、イエスを見つけた時、ヨセフをも代弁して、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(ルカ福音書2章48節)と言わせたほどでした。

 マリアとヨセフは、子を見失った親の苦しみを経験しました。二人ともイエスが親類の道連れの中にいると信じていたが、一日中イエスを見なかったため、イエスを捜し始め、道を引き返した。神殿に戻ると、彼らは、つい先ほどまで保護すべき子どもに見えていたイエスが、突然成長したかのように、律法の学者たちと肩を並べ、聖書をめぐる議論に加わっているのを見つけます。

 とがめる母を前に、イエスはすげなく答えた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。マリアとヨセフは理解できなかった。幼子となられた神の神秘は、彼らの知性を超えるものでした。両親は愛の翼の下にいとも大切なその子を守りたいと思っていました。これに対して、イエスは、御父に仕え、御言葉に浸って生きる、御父の子としてのご自身の召命を生きたい、と望んでおられたのです。

 ルカ福音書のイエスの幼少期の物語は、このように、イエスに対するヨセフの父性を思い起こさせるマリアの最後の言葉と、そして、この父性というものが、明白な優位性を認める天の御父にいかに由来しているかを認識させる、イエスの最初の言葉で終わっています。

 私たちもマリアとヨセフのように、希望に満ちて、主を捜しに行きましょう。主は、私たちの狭い考えに収まることを許さず、場所ではなく、優しい神の父性に対する愛に満ちた答え、すなわち子としての生活の中に見出されるお方なのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

2025年3月6日

☩「世界が直面する”複合危機”に対処するために、科学の貢献、国際機関の強化が必要だ」-教皇庁生命アカデミー総会に呼びかけ

Pope Francis calls for multilateralism in a world facing "polycrisis"Pope Francis calls for multilateralism in a world facing “polycrisis”  (Copyright 2011 Brett Jorgensen Photography)

(なお、このメッセージは2月26日に用意されていたものだ。)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年3月3日