☩「召命のために祈り、互いに奉仕しあおう!」「ウクライナ、ガザ…戦争は絶対に繰り返してはならない!」-教皇レオ14世、世界召命祈願日の正午の祈りで

(2025.5.11 Vatican News   Thaddeus Jones)

 教皇レオ14世は、世界正面祈願の日の11日の正午の祈りに先立つ説教で、聖ペトロ広場を埋めた10万人を超える信者たちを前に、「司祭職と奉献生活への召命のために、そして、人生の旅路において、愛と真理のうちに歩むことができるよう、互いに奉仕して生きるために、祈るように」と呼びかけられた。

 

*良い羊飼いの主日に

 

 新教皇は、11日が「良い羊飼いの主日」であることを思い起こされつつ、ローマ司教としての最初の日曜日に、このミサで読まれた福音書にある 「自分の羊を知り、愛し、羊のために命を捧げる、真の羊飼い」としてご自身を示されたイエス」を祝うことができるのは、「神からの賜物です」と語られた。

 

*世界召命祈願の日に

 

 11日はまた、世界召命祈願の日であり、ローマを訪れているバンドや大衆芸能のメンバーによる2025年聖年の巡礼の最終日でもあることも想起され、「良い羊飼いであるキリストの祭日を盛り上げ、聖霊によって教会を導いてくださる皆さん 」の音楽と演奏に感謝し、親愛の情をもってすべての人に挨拶を送られた。

 

*互いに助け合おう!

 

 続けて新教皇は、召命、特に司祭職と奉献生活への召命のために、すべての神の民とともに祈ることができる喜びを表されるとともに、「教会が、彼らを大いに必要としている 」のと同様に、「彼らが 、共同体の中で受け入れられ、耳を傾けられ、励まされ、神と兄弟姉妹への惜しみない献身の信頼できる模範を見い出す 」ことができるよう、私たち皆が、彼らの召命の旅路を支援するように、と促された。

 そして故教皇フランシスコの「世界召命祈願の日」のメッセージを思い起こしつつ、「皆が互いに奉仕し合い…互いに助け合って、愛と真理のうちに歩み、生きることができること」を神に願いながら、「若者を歓迎し、共に歩む」ように、信者たちを促された。

 

*恐れてはならない!

 特に召命に関して、新教皇は、若者たちを「教会の招きと主キリストの招きを喜んで受けなさい!」と励まされた。

 そして最後に、「主の呼びかけに応えた生涯であった聖母マリアが、イエスに従う私たちにいつも寄り添ってくださいますように」と願われ、説教を締めくくられた。

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(Vatican News   Francesca Merlo)

 また教皇レオ14世は、正午の祈りに続けて、故教皇フランシスコの言葉を引き継ぐ形で、ウクライナ、ガザ、インドとパキスタンの国境における紛争終結を訴えられた。

 「『断片的に戦われる第三次世界大戦』という今日の劇的な状況において…。戦争は絶対に繰り返してはなりません」。

 新教皇は、80年前の5月8日に6000万人の死者を出して終結した第二次世界大戦の甚大な悲劇を思い起こされ、今日の世界を苦しめている現代の戦争に目を向け、 「私は、愛するウクライナの人々の苦しみを胸に抱いています… 真の、公正で、永続的な平和に一刻も早く到達するためにあらゆる努力がなされるように」と訴えられた。

 さらに、「すべての捕らわれている人々が解放され、子どもたちが家族のもとに戻されますように」と願われ、ガザ地区で今も進む人道的大惨事について「何が起きているのか、私は深く心を痛めている。戦闘を直ちに停止させ、疲弊した市民に人道支援を提供し、すべての人質が解放されますように」と当事者たちに求められた。

 そして、強い希望の中で、インドとパキスタンの停戦合意が発表されたことを歓迎され、「今後の交渉を通じて、永続的な戦闘の停止が合意が速やかに達成されることを望みます」と語られた。

 続けて、新教皇は「世界には、このほかにもどれほどの紛争があるのでしょうか 」と問いかけられ、最後に、自らの「心からの願い」を平和の女王マリアに託されて、「聖母マリアが、その願いを主イエスに託され、私たちに平和の奇跡をもたらしてくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年5月11日

・教皇レオ14世、聖マリア・マジョーレ大聖堂の故教皇フランシスコの墓所で祈り

Pope Leo XIV praying before the tomb of his predecessor, the late Pope Francis, at St. Mary MajorPope Leo XIV praying before the tomb of his predecessor, the late Pope Francis, at St. Mary Major  (@Vatican Media)

 教皇レオ14世は10日、バチカンの外への最初の訪問の際、聖マリア・マジョーレ大聖堂においでになり、サルス・ポプリ・ロマーニの聖母マリアのイコンと故教皇フランシスコの墓に祈りを捧げられた。

 4月27日、復活節第2主日(神の慈しみの主日)の午後遅く、新教皇、当時のロベール・プレヴォスト枢機卿は枢機卿団のメンバーとともにサン・マリア・マジョーレ大聖堂に行かれ、一般公開されたばかりの教皇の墓で祈られていた。そして、教皇に選出されてから48時間も経たない10日、教皇レオとして初めてバチカンの外に出、同大聖堂のフランシスコの墓を訪れた。

 新教皇は、「教会から私に託された新しい聖職の最初の日に、ここに来ることを強く望んでいました 」と述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年5月11日

☩「産業革命が起こした社会的問題に対応されたレオ13世に倣い、AIが引き起こす革命に対応しよう」レオ14世が初の枢機卿会議で

Pope Leo XIV meets with cardinals Pope Leo XIV meets with cardinals   (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年5月11日

☩「私たちはキリストへの喜びに満ちた信仰を証しするよう求められている」-新教皇レオ14世、枢機卿たちとの初ミサで

(2025.5.9 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

     第267代教皇に選出された翌朝、教皇レオ14世はシスティーナ礼拝堂で枢機卿たちと共に教皇として初のミサを捧げられた。説教の中で新教皇は、枢機卿たちに、「私たちは、キリストへの喜びに満ちた信仰を証しするよう求められています 」とされ、キリストとの個人的な関係を常に深めるよう求めるとともに、「信仰がなければ、人生に意味はありません」と強調された。

 説教で教皇レオ14世は、まず英語でいくつかの言葉を述べ、その中で教皇選挙に参加した枢機卿たちの信頼に感謝した。そして、「答唱詩編の言葉を繰り返したいと思います― 主は驚くべきことをなさった… 私は主に向かって新しい歌を歌おう」とされ、「兄弟である枢機卿たち、今朝、私たちがミサを捧げるにあたり、主が成し遂げてくださった奇跡、主がペトロの聖職を通して私たち全員に注ぎ続けてくださっている祝福について考えていただきたい」と呼びかけられた。

First Mass of Pope Leo XIV with Cardinals in Rome

 そして、「教会として、イエスの友人の共同体として、信者として、福音を告げ知らせるために、私たちと共に歩むために、皆さん一人一人が頼りになることを知っています」と語られた。

*キリストは人間の聖性を示してくださった

 新教皇は説教をイタリア語で行われ、初代教皇である聖ペトロを中心に、聖マタイによる福音書にある彼の言葉-「あなたは生ける神の子キリストです 」-を思い起こしながら、主への絶え間ない信仰によって可能となった「使徒的継承を通して教会が二千年の間守り、深め、伝えてきた 遺産」を指摘。

 そして、ペトロとキリストとの関係を振り返りながら、「救い主であるイエスだけが、御父の御顔を現しておられること」を思い起こされ、「イエスのうちに、神は、ご自分を男女の身近な存在とするために、子どもの信頼に満ちた眼差しで、若者の生き生きとした心で、そして人間の成熟した顔立ちで、私たちにご自分を現されました… このようにして、イエスは、私たちのあらゆる限界と能力を超越する永遠の運命の約束とともに、私たち皆が倣うことのできる人間の聖性の模範を示してくださったのです 」と語られた。

 

*賜物と道

 

 さらに、ペトロがキリストとの応答の中で、「それが 『神の賜物』」であると同時に、『その賜物によって自分が変えられるためにたどるべき道 』であることを理解していました… それらは、人類の善のために宣べ伝えられるよう教会に託された、救いの不可分の側面です 」と言明。「福音がすべての被造物に宣べ伝えられるために、私たちの限界を超え、私たち自身の功績もないのに、ここに連れて来られ、ここから送り出されるのです」と述べられた。

 

 

*教会のために忠実であるようにと召された

 また新教皇は、8日の午後、第267代教皇に選出されたことで、神がペトロの後継者として自分を召されたことを思い起こされ、「神の助けによって、教会の神秘体全体のために、その忠実な管理者となるように、この宝を私に託されたのです」と述べたうえで、「ペトロが信仰告白をするのは、『人は人の子を誰だと言うのか』という具体的な質問に答えるためでした。この質問は取るに足らないものではなく、私たちの宣教の本質的な側面、すなわち、私たちが生きている世界、その限界と可能性、その疑問と確信 に関わるものなのです」と強調。

*キリストに対して人々が示す二つの異なる態度、だからこそ宣教活動が必要

 

 さらに、「人は、人の子(イエス)を誰だと言うのでしょうか?」と問いかけ、「私たちが考えている場面を振り返れば、2つの異なる態度を特徴づけるものが見つかります」と指摘。まず、「イエスの存在が煩わしい 」となれば、「イエスの厳格な道徳的要求」のために、イエスを拒絶し、排除することを躊躇しない 反応がある」と語った。そして、イエスの問いかけに対するもう一つの可能な反応は、イエスを 「勇気のあるまっすぐな人 」と見る普通の人々の反応であり、「彼らにとっては、イエスはただの人であり、それゆえ、危険な時、受難の時、彼らもイエスを見捨て、失望して去っていくのです」とされた。

 そして、「この2つの態度は、今日にも通じるもの」とされ、「たとえ本質的には同じであっても、異なる言葉で表現されているとしても、現代に生きる多くの男女の口から出てくる観念を体現しているのです」、さらに「今日でも、キリスト教信仰が『不条理で、弱者や無知な者のためのもの』とされる状況が数多くあります。 テクノロジー、お金、成功、権力、快楽などが好まれるような状況です」と指摘。

 「これらの状況では、福音を宣べ伝え、その真理を証しすることは容易ではなく、信者は嘲笑され、反対され、軽蔑されるか、せいぜい大目に見られ、同情されるにとどまるでしょう。しかし、それゆえにこそ、そのような場所は、私たちの宣教活動が切実に必要とされている場所なのです」と語られた。

*信仰の欠如は、実質的な無神論の状態で生きることに繋がる

 続けて、現在社会の信仰の欠如は、「人生の意味の喪失、慈しみの軽視、人間の尊厳に対するひどい侵害、家庭の危機、その他私たちの社会を苦しめている多くの傷を、しばしば悲劇的に伴っています…そして、イエスは一人の人間として評価されてはいるが、一種のカリスマ的指導者やスーパーマンに成り下がっている。洗礼を受けていない人たち間だけでなく、多くの洗礼を受けたキリスト者の間でも このようなことが起こっています 。そのような人々は、実質的な無神論の状態で生きることになるのです 」と警告された。

 そして、「これが私たちに託された世界であり、教皇フランシスコが何度も説かれたように、私たちは救世主キリストへの喜びの信仰を証しするよう求められている世界なのです… それゆえ、私たちも、ペトロと共に、『あなたはキリスト、生ける神の子です』と繰り返さねばなりません」と訴えられた。

*日々の回心の旅に身を捧げる

 そのために私たちは、まず第一に、「主との個人的な関係において、『日々の回心の旅』に自らを捧げること。そして教会としても、同じことをする必要があります。主への忠誠を共に体験し、すべての人に福音を伝えるのです 」と強調された。

 そして、「ローマの司教としての使命を始めるにあたり、ペトロの後継者である私自身に対して、まずこのように言明します」とされ、「それは、アンティオキアの聖イグナチオのよく知られた言葉-『普遍的な教会を、慈愛のうちに司る』です。聖イグナチオは鎖につながれたまま、生け贄を捧げる場所であるこの町に導かれ、そこでキリスト教徒たちにこう書き送っています―『 その時、私は真にイエス・キリストの弟子となる』とも」と語られた。

 さらに、「聖イグナチオは、闘技場で野獣に食い荒らされることについて語りました。具体的には、『キリストが残るために身を引くこと、キリストが知られ、栄光を受けるために自分を小さくすること、すべての人がキリストを知り、キリストを愛する機会を持つために自分を最大限に使うこと』だと 」と付け加えられた。

 そして説教の最後を次のような祈りで、締めくくられた—「教会の母であるマリアの愛に満ちた執り成しによって、今日も、そしてこれからも、神がこの恵みを与えてくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年5月10日

☩「私たちは、復活された主と共に、希望の巡礼者、愛の勝利の証人、武装解除された力の証人となる!」教皇、Urbi et Orbi(ローマと世界へ)で宣言

(2025.4.20 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは20日、アンジェロ・コマストリ枢機卿が司式を代行した復活祭の主日ミサに続いて、聖ペトロ大聖堂の広場に面したバルコニーにお出になり、復活祭のメッセージと祝福”Urbi et Orbi(ローマと世界へ)”を世界の人々に向けて発表された。

 以下、バチカン広報発表のUrbi et Orbiの全文以下の通り。

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 キリストは復活された、アレルヤ。 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとう!

 今日、教会で再び「アレルヤ」の歌声が響き渡り、口から口へ、心から心へと伝わり、世界中の神の民が喜びの涙を流す。エルサレムの空の墓から、私たちは思いがけない良い知らせを聞く― 十字架につけられたイエスは、「ここにはおられず、よみがえられた」(ルカ福音書24章5節)。イエスは墓の中ではなく、生きておられます!

 愛は憎しみに、光は闇に、真実は偽りに打ち勝った。赦しは復讐に勝利した。悪は歴史から消えたわけではない。最後まで残るでしょうが、悪はもはや優勢ではありません。

 姉妹、兄弟たち、特に痛みや悲しみを経験している人たち、あなた方の静かな叫びは聞かれ、あなた方の涙は数え上げられました!イエスの受難と死において、神はこの世のすべての悪を自らの身に負われ、その無限の憐れみのうちに悪を打ち破られました。人間の心を毒し、あらゆる面で暴力と腐敗をもたらす極悪非道な高慢を、根こそぎにされたのです。神の小羊は勝利したのです! だからこそ今日、私たちは喜びをもって叫ぶことができます― 「私の希望であるキリストはよみがえられた!」と。

 イエスの復活は、まさに私たちの希望の基盤です。この出来事に照らせば、希望は、もはや幻想ではないからです。十字架につけられ、死者の中からよみがえられたキリストのおかげで、希望は期待を裏切りません!Spes non confundit!(ローの信徒への手紙5章5節参照)。希望は、逃避ではなく、挑戦であり、私たちを惑わすのではなく、力づけるのです。

 神に望みを託す者は皆、その弱い手を、神の強く力強い御手の中に置きます。復活されたイエスと共に、希望の巡礼者となり、愛の勝利の証人となり、生命の武装解除された力の証人となるのです。

 キリストはよみがえられました!私たちは、死のために造られたのではなく、生のために造られたのです。復活祭は、命の祝祭です! 神は私たちを命のために創造し、人間の家族が再びよみがえることを望んでおられます!神の目には、すべての命が尊く映ります!

 母親の胎内にいる子どもの命も、高齢者や病人の命も、多くの国で捨てられるべき存在と見なされています。私たちは毎日、世界のさまざまな地域で起きている多くの紛争の中で、死と殺戮へのなんと大きな渇望を目の当たりにしていることでしょう!しばしば家族の中でさえ、女性や子どもに向けられる暴力を、私たちはどれほど目にしていることでしょう!社会的弱者、社会から疎外された人々、移住者に対して、どれほどの侮蔑がかき立てられることでしょうか!

 この日、私は私たち全員が新たな希望を抱き、自分たちとは異なる人々や、遠い国からやって来て、馴染みのない習慣や生活様式、考え方をもたらす人々を含め、他者への信頼をよみがえらせたいと望みます!私たちは皆、神の子なのですから!

 「平和は可能だ」という希望を新たにしたい!今年、カトリックと正教会が同じ日に復活祭を祝っている聖墳墓・復活教会から、平和の光が聖地と全世界に輝きますように。

 私は、パレスチナとイスラエルのキリスト教徒、そしてイスラエルのすべての人々とパレスチナの人々の苦しみに寄り添うことを表明します。世界中で反ユダヤ主義の風潮が高まっていることは憂慮すべきことです。しかし同時に、私は、恐ろしい紛争が死と破壊を引き起こし、劇的で嘆かわしい人道的状況を作り出し続けるガザにおられる方々、特にそのキリスト教共同体のことを思います。私は戦争当事者に訴えます。停戦を呼びかけ、人質を解放し、平和な未来を熱望する飢餓に苦しむ人々を救いに来てください!

 現在、歴史の微妙な転換期を経験しているレバノンとシリアのキリスト教共同体のために祈りましょう。彼らは安定とそれぞれの国の生活への参加を熱望しています。私は全教会が、愛する中東のキリスト者たちを思い、祈り続けるよう強く求めます。

 また、戦争のために世界で最も深刻かつ長期にわたる人道危機を経験しているイエメンの人々のことを特に思い、建設的な対話を通じて解決策を見出すようすべての人に呼びかけます。

 復活されたキリストが、戦争で荒廃したウクライナに復活祭の贈り物である平和を与え、すべての関係者が公正で永続的な平和を達成するための努力を追求するよう励ましてくださるように。

 この祝祭の日に、南コーカサスを思い起こし、アルメニアとアゼルバイジャンの間の最終的な和平協定がまもなく調印され、実施され、この地域で待望されていた和解につながるよう祈りましょう。

 復活祭の光が、バルカン半島西部の融和を促進する努力を鼓舞し、政治指導者たちが緊張と危機を和らげ、この地域のパートナー諸国とともに、危険で不安定な行動を拒否する努力を支えることができるように。

 私たちの希望である復活したキリストが、暴力と紛争の犠牲となっているアフリカの人々、特にコンゴ民主共和国、スーダン、南スーダンの人々に平和と慰めを与えてくださるように。サヘル地域、アフリカの角、五大湖地域の緊張に苦しむ人々と、多くの場所で信仰を自由に表明することができないキリスト者たちを支えてくださるように。

 宗教の自由、思想の自由、表現の自由、他者の意見の尊重なくして平和はありえません。

 また、真の軍縮なくして平和はありえません!すべての国民が自国の防衛のために備える、という要求が、再軍備競争になってはなりません。主の復活の光が、「分裂を生み、政治的・経済的に重大な結果をもたらす障壁」を取り払うよう、私たちに促しています。互いを思いやり、相互の連帯を強め、一人ひとりの人間の統合的な発展のために働くよう、私たちを促しています。

 長い年月にわたって武力紛争に悩まされてきたミャンマーの人々が、勇気と忍耐をもって、数千人の死者と、孤児や高齢者を含む多くの被災者に大きな苦しみをもたらしたサガインの大地震の余波に対処しているのを支援することを怠ってはなりません。私たちは、犠牲者とその愛する人々のために祈るとともに、救援活動を行っているすべての寛大なボランティアに心から感謝します。ミャンマー国内のさまざまな関係者による停戦の表明は、ミャンマー全体にとっての希望の兆しです。

 私は、この世界で政治的責任を負う立場にあるすべての人々に、他者からの孤立を招くだけの恐怖の論理に屈することなく、困窮者を助け、飢餓と闘い、開発を促進する取り組みを奨励するために、利用可能な資源を活用することを訴えます。これらは、平和の「武器」、死の種をまくのではなく、「未来を築く武器」なのです!

 人間性の原則が、私たちの日々の行動の特徴であり続けるように。無防備な市民を巻き込み、学校、病院、人道支援者を攻撃する紛争の残酷さを前にして、「攻撃されるのは標的ではなく、それぞれが魂と人間の尊厳を持っている人間であること」を、私たちが忘れることは許されません。

 この聖年において、復活祭が戦争捕虜や政治犯の解放にふさわしい機会となるように!

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 主の慈しみの秘義において、「死と生は壮絶な闘いの中で争ったが、主は今、永遠に生きておられる」(イースター・シークエンス参照)。腕のぶつかり合いや死のざわめきが聞こえなくなるとき、私たちもまた、終わりを知らない命を分かち合うよう召されている、という確信で、主は、私たちを満たしてくださいます。「主だけが、すべてを新しくすることができる」(ヨハネの黙示録21章5節参照)のです!

 皆さん、主のご復活、おめでとう!

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年4月20日

☩「主よ、あなたと共にに、すべてが新しく始まります」教皇、復活の主日のミサ説教で

(2025.4.20  カトリック・あい)

 教皇フランシスコは20日、主の復活の主日のミサの中で、代読による説教をされた。バチカン広報発表の説教の全文以下の通り。

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 マグダラのマリアは、墓の石が転がされたのを見て、ペテロとヨハネに伝えに走った。衝撃的な知らせを受けた二人の弟子も外に出て、福音書にあるように、「二人はいっしょに走って行った」(ヨハネ福音書20章4節)。

 主の復活の物語の主要人物は、みな走っていました!「走る 」ということは、「主の遺体が持ち去られたことへの懸念」を表わしているのかも知れませんが、他方では、マグダラのマリア、ペテロ、ヨハネの急ぎ足は、「イエスを捜すために旅立った人々の願望、心の切望、内なる態度」を表しています。イエスは死からよみがえられたのですから、もはや墓の中にはおられない。私たちは、イエスを別の場所で探さなければなりません。

 これが主の復活のメッセージです。キリストはよみがえられ、生きておられる! だから、キリストをおとぎ話の中に閉じ込めることも、古代世界の英雄にすることも、博物館の彫像のように考えることもできません!私たちは彼を探さなければなりません。 日々の暮らしの中で探し、兄弟姉妹の顔の中に探し、日常の仕事の中で探し、墓以外のあらゆる場所で探すのです。

 私たちは絶え間なく、彼を探さなければなりません。死者の中からよみがえられたのであれば、主はどこにでもおられ、私たちの間に住まわれ、私たちが道すがら出会う姉妹や兄弟たちの中に、私たちの人生の最も平凡で予測不可能な状況の中に、今日でさえ、ご自分を隠し、現されるからです。主は、生きておられ、いつも私たちと共におられ、苦しむ人々の涙を流し、私たち一人ひとりが行う小さな愛の行為を通して、人生の美しさを増してくださいます。

 このような理由から、復活の主との出会いへと私たちを開き、私たちの人生に主を迎え入れる準備を整える主の復活の信仰は、ある種の 「宗教的安心感 」に安住するものではありません。安住するどころか、私たちを行動へと駆り立て、マグダラのマリアや弟子たちのように走り出させるのです。

 私たちに「向こう側を見る」ことができる目を持ち、生きておられるお方であるイエスを、今日でさえご自身を現し、現存させ、私たちに語りかけ、私たちの前に進み、私たちを驚かせる神として知覚するよう招いておられる。マグダラのマリアのように、私たちは毎日、主を見失う経験をすることができますが、毎日、主がご自身を私たちが見出すことができるようにされ、復活の光で私たちを満たしてくださる、という確信を持って、再び主を探しに走ることもできるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、これが私たちの人生の最大の希望なのです。キリストは死に打ち勝ち、私たちの暗闇に打ち勝ち、この世の影に打ち勝ち、私たちを永遠に喜びのうちにキリストと共に生きるようにしてくださるのですから。これこそ、使徒パウロが言うように、私たちが後方にあるものを忘れ、前方にあるものに向かって邁進する目標なのです(フィリピの信徒への手紙3章12-14節参照)。マグダラのマリア、ペテロ、ヨハネのように、私たちは、キリストに会うために急ぐのです。

 今年、2025年の聖年は、私たちの内にある希望の賜物を新たにし、苦しみや心配事を希望に委ね、旅の途中で出会う人々と希望を分かち合い、私たちの人生の未来と人類家族の運命を希望に委ねるよう私たちを招いています。ですから、私たちは、この世のはかないものに安住したり、悲しみに屈したりしてはなりません。イエスに向かって走り、イエスの友であるという計り知れない恵みを、再発見しましょう。

 イエスの命と真理の御言葉が私たちの人生を輝かせるようにしましょう。偉大な神学者アンリ・ド・リュバックはこう言っています―「 キリスト教とはキリストである。キリスト教とはキリストである。キリストにおいて、私たちはすべてを持っている」(Les responsabilités doctrinales des catholiques dans le monde d’aujourd’hui, Paris 2010, 276)。

 そして、復活したキリストであるこの「すべて」は、私たちの人生を希望へと開いてくれます。キリストは生きておられ、今日も私たちの人生を新たにしようとしておられる。罪と死に打ち勝ったキリストに、私たちは言いたい—「主よ、この祭日に、私たちも新しくされ、この永遠の新しさを経験することができますように。神よ、習慣、疲れ、無関心という悲しい埃から私たちを清めてください。毎朝、驚きと共にに目覚める喜びを、お与えください」。「主よ、すべてが新しく、同じものは何一つなく、古いものは何一つありません」(A.ザッリ『Quasi una preghiera』)。

 姉妹たち、兄弟たち、復活祭の信仰のすばらしさの中で、平和と解放へのあらゆる期待を胸に抱きながら、私たちはこう言いたい―「主よ、あなたと共にに、すべてが新しく始まります」と。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年4月20日

☩「歴史の闇を打ち破り復活された主の光を受け、希望の建設者になろう!」-教皇、復活徹夜ミサの説教で

(2025.4.19 Vatican News  Thaddeus Jones)

 復活徹夜祭のミサが19日夜(日本時間20日未明)、聖ペトロ大聖堂で行われ、教皇フランシスコは、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿が代読した説教の中で、「キリスト復活の光が私たちの道を一歩ずつ照らし、歴史の闇を打ち破り、私たちの心を照らす」と強調された。教皇はミサの数時間前、聖ペトロ大聖堂においでになり、祈りを捧げ、集まった信者たちに挨拶をされた。大聖堂と聖ペトロ広場には5000人を超える信者が集まった。

 説教で教皇は、復活の光は「勝利至上主義を排した謙虚な信仰の応答 を求めています。私たちの心にゆっくりと静かに根を下ろす”小さな光の種”のようなものです」とされ、さらに、復活の光は「私たちの心に宿る夜や、私たちの世界にしばしば立ちはだかる死の影に対処する助けとなります。私たちはそのプロセスの一部であり、その” 小さな光の種 ”が守られ、成長するのを助けるように託されているです」と説かれた。

Easter Vigil in Saint Peter's Basilica
Easter Vigil in Saint Peter’s Basilica   (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

*復活祭がもたらす希望を花を咲かせよう

 そして、教皇は、「兄弟姉妹の皆さん、特にこの聖年において、私たちは、『復活祭がもたらす希望を、私たちの生活と世界に咲かせるように』との呼びかけを、私たちの内に強く感じる必要があります」と語られた。

 「私たちの世界における死や暴力、悪の暗い影が、いかに私たちに重くのしかかり、希望の光を曇らせるか」を認められたうえで、「私たちが暗闇の中にいても、光は静かに輝き出しています。新しい命と最終的に自由にされた世界の約束が、私たちを待っている。新しい始まりは、それがどんなに不可能に思えても、キリストが死に打ち勝ったことで、私たちを驚かせることができるのです」と強調。

 さらに、「復活されたイエスを祝って私たちの心を満たすこの新たな希望のメッセージは、私たちが、人生の闇夜を乗り越えるのを助けてくださる 『神の御手』の中にある ことを思い起す助けとなるはずです。その大いなる愛において、神は私たちをくじけさせず、悪が最後の言葉を持つことを許さない。同時に、キリストにおいてすでに成就したこの希望は、私たちにとっては到達すべき目標であり続けます」と語られ、「この希望が私たちに委ねられているのは、私たちがこの希望について信頼に足る証しをすることができるように、そして、神の国が私たちの時代の女性と男性の心にその道を見出すことができるようにするためなのです」と説かれた。

*キリストの復活がもたらす希望の使者になろう

Easter Vigil in Saint Peter's Basilica
Easter Vigil in Saint Peter’s Basilica   (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 続けて教皇は、キリストの復活がもたらす希望は、私たち自身の生活にそれを反映させ、「多くの死の風がまだ私たちを苦しめている中で、希望の使者となり、希望の建設者となる ことを私たちに求めています」と強調。「私たちが使う言葉、私たちが示す思いやりと愛の 日々の小さな行為 が、信仰を欠き、道を見失い、貧困や抑圧によって苦しみに打ちひしがれている人々のためにも、私たちの人生全体が希望の存在となることができるのです 」とされ、「辱められ、殺される多くの女性たち、胎児、虐待される子どもたち、戦争の犠牲者たちを思い起こし、その一人ひとりに、そしてすべての人に、復活祭の希望をもたらしましょう!」と信者たちに呼びかけられた。

 

*キリストは人類史の決定的な転換点、色あせることのない希望、愛

 

 さらに教皇は、「復活されたキリストは、人類史における決定的な転換点です。キリストは色あせることのない希望です。私たちに寄り添い、私たちを支えてくれる愛です… 復活された主の光を受け入れる場所を作りましょう!そして、私たちは世界の希望の建設者となるのです」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年4月20日

☩「 アルゴリズム、計算ずくの世界で、”神の経済”を貫く」教皇、聖金曜日の十字架の道行きで

The Stations of the Cross at Rome's ColosseumThe Stations of the Cross at Rome’s Colosseum  (Vatican Media)

 

 

 

2025年4月18日

☩「司祭にとって、聖年は回心の道における新たな出発への特別な召命」-聖木曜日(主の晩餐)のミサ説教で

(2025.4.17  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

   教皇フランシスコは17日、聖木曜日(主の晩餐)のミサのために準備された説教の中で、2025年の今祝われている聖年は、「私たち司祭にとって、回心の道における新たな出発への特別な召命を意味します」と強調された。

 聖ペトロ大聖堂でのミサには、枢機卿、司教、そして司祭たち合わせて1800人以上が参加。療養中の教皇に代わって、この日のミサの司式を委ねられたドメニコ・カルカーニョ枢機卿は、ミサ中の説教も教皇が準備された説教を代読した。

 その説教で、教皇はまず、「私たち司祭に自分たちの歴史がある 」と指摘。司祭叙階式で約束を新たにした時を振り返られ、「もし私たちが神に教えられさえすれば、私たちの務めは希望のものとなります。なぜなら、神は、私たちの物語のそれぞれに、恵みの時とオアシスである聖年を与えてくださるからです」と述べられた。Cardinal Domenico Calcagno presides over Chrism Mass and reads Pope Francis' homily

 そして、「司祭にとって、聖年は、私たちが再び歩み始めるための重要な瞬間… 希望の巡礼者として、司祭の私たちは、聖職者主義を捨て、希望の使者となるよう求められているのです 」と説かれた。

 さらに「自分の民を愛する羊飼いは、どのような犠牲を払ってもコンセンサスや承認を求めません」とされ、「愛の忠実さが心を変える」ことを司祭たちに思い起こさせ、「親愛なる兄弟たちよ、私たちは『アーメン』を自分のものとし、繰り返すためにここに集まっているのです 」、さらに「私たちが追体験しようとしているイエスの受難、死、復活は、教会を、そしてその中で私たちの司祭職をしっかりと支える土壌です」と強調された。

 また教皇は、「司祭一人ひとりが、神の言葉と長年にわたる関係を持っています」と指摘され、「聖書が私たちの最初の故郷であり続けるときにのみ、私たちは聖書を他者のために役立てることができます… 聖書の中には、私たち一人ひとりが、他のページよりも心に響くページがある。 それは素晴らしく、重要なこと! 例えば、新婚カップルが結婚式のための朗読を選ぶときや、悲しみにくれている人たちが、亡くなった大切な人を、神の憐れみと共同体の祈りに委ねるための箇所を探すときなどです」と語られた。

 さらに「信じられないことに、召命のためのページが、通常、それぞれの旅路の始まりにある。このページを読むたびに、私たちがそれを大切にし、愛が冷めてしまわないようにさえすれば、神は今も、私たちを呼んでおられるのです」と司祭たちを激励。そして「『見なさい、私はすべてのものを新しくしている』という主の慰めの言葉を思い出すように」と促された。Chrism Mass in the Vatican

 続けて教皇は、「聖霊が、司祭の奉仕の静かな主人公であり続けていること」を思い起こさせ、 「私たちの言葉が自分の生活の中で現実のものとなるとき、人々は主の息吹を感じるのです」と述べられた。

 そのうえで、「今日、私たちが奉献する聖香油は、キリスト教生活のさまざまな段階において働く変容の神秘を封印するもの」とされたうえで、教皇は司祭たちにいくつかの宿題を出された。

 そして、「信じなさい!神が、私と共に過ちを犯したのではない、と信じなさい! 神は決して間違いを犯されません」。「私たちの司祭叙階式で語られた言葉を、いつも思い出しましょう。あなたがたのうちに良いわざを始められた神が、それを成就させてくださいますように。これは神の御業であって、私たちの業ではない」と注意され、「主が私たちの目を開き、肩の荷を下ろしてくださること」を司祭たちに想起させた。

 説教の最後に教皇は、すべての信者に対して、「希望の民として、司祭の喜びのために今日、祈るように」と呼びかけられた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年4月17日

☩「15日で紛争開始2年目となるスーダンに、そしてレバノン、ウクライナ…に速やかな平和を」-「主の受難の主日」正午の祈りで

(2025.4.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、「受難の主日(枝の主日)」の正午の祈りに向けた言葉をバチカン広報局を通して発表された。この中で教皇は、ルカ福音書が語る「主の受難」(22章14節-23章56節)を観想され、「受難に向かうイエスの御父に対する言葉と思いを、私たちのものにしよう」と信者たちに呼びかけられた。また、内戦開始からまもなく2年が経過し、住民たちを悲惨な状態に追い込んでいるスーダンの当事者たちに、速やかな戦闘の停止と対話を呼びかけられた。

 教皇の正午の祈りの言葉は以下の通り。

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 今日、私たちはルカ福音書が語る「主の受難」に耳を傾けました。イエスが何度も御父に語りかけるのを聞きました。

 「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」(22章42節=聖書協会・共同訳)。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか分からないのです」(23章34節同)。「父よ、私の霊を御手に委ねます」(同46節)。無防備に侮辱を受けるイエスが、父の首に抱きつく子どものような思いと心をもって、十字架へと向かっていくのを私たちは見ました。その肉体はもろくても、御腕の中で死の眠りにつくまで、御父にすべてを委ねる強い信頼に満ちていました。

 典礼はイエスのこれらの思いを観想し、それを自分たちのものとするように招いています。私たちは皆、肉体的、あるいは精神的な苦しみを抱えています。しかし、信仰は、絶望に陥ることなく、辛い思いに自らを閉ざすことなく、イエスのごとく、御父の摂理と慈愛に満ちた抱擁を感じながら、それらに立ち向かえるように助けてくれます。

 姉妹たち、兄弟たち、皆さんの祈りに深く感謝します。身体が弱っている今、神の寄り添い、慈しみ、優しさをより感じることができます。私も皆さんのために祈ります。苦しむすべての人々、特に戦争や貧困、自然災害に苦しむ人を、私と共に主に託してくださるようお願いします。特にサント・ドミンゴにおけるクラブの屋根崩落の犠牲者の方々のご冥福と、遺族の方々への神の慰めを祈ります。

 4月15日は、スーダンの紛争開始から、2度目の悲しい記念日に当たります。この紛争では数千人が亡くなり、数えきれない家族が避難を余儀なくされました。子どもたち、女性たち、弱い立場に置かれた人々の苦しみは、天に向かって叫び、私たちに行動を促します。暴力を止め、対話の道を歩むよう、双方の当事者に改めて訴えると同時に、住民に必要不可欠な援助が欠けることがないよう、国際社会にお願いしたいと思います。

 また、50年前、悲劇的な内戦が始まったレバノンを心に留めましょう。レバノンの人々が、神の助けによって平和と繁栄のうちに生きることができますように。苦しむウクライナ、パレスチナ、イスラエル、コンゴ民主共和国、ミャンマー、南スーダンに、待たれる平和が訪れますように。

 私たちがこの恵みを得られるように、また聖週間を信仰をもって生きることができるように、御悲しみの聖母、マリアの助けを祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月14日

☩「神の慈しみは、私たちに思いやりを呼びかける」-教皇、主の受難の日のミサ説教で

 

2025年4月13日

◎教皇聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」⑫ イエスは金持ちの男性を孤立から救い、”匿名性”から抜け出させた

(2025.4.9  バチカン放送)

 教皇フランシスコが9日の一般謁見の聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」のために用意された原稿が、同日、バチカン広報局から発表された。

 この日の講話は、サブ・テーマ「イエスの生涯・出会い」の4回目として、マルコ福音書10章に記されたイエスと金持ちの男との出会いが取り上げられている。要旨は次の通り。

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 今日は、福音書が語るもう一つのイエスの出会いを考察しましょう。ところで、今回イエスが出会う人には、名前がありません。福音記者マルコは、この人を単に「ある人」(10章17節)としています。この人は若い頃から戒律を守ってきましたが、自分の人生の意味をまだ見出せず、それを探し求めていました。熱心な見かけにかかわらず、実は心底まで決断できない人だったのかもしれません。

 私たちの行為や、犠牲、成功を超えて、幸せであるために、本当に重要なものは、心に抱いているものです。ある船が海洋を航海するために、港を出ようとするとき、それが素晴らしい船で、優れた乗組員に恵まれていても、係留している錨を上げなければ、出航することはできません。つまり、この人は自分で立派な船を作りながら、港に停泊したままだったのです。

 イエスが旅に出ようとされると、この人は走り寄って、ひざまずいて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10章17節)。

 この人の言葉の動詞に注目しましょう。「受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。律法を守っても、自分は救われた、という幸福感と安心は得られなかったので、イエスに尋ねたのです。この人の言葉で印象的なのは、「無償」という概念がないことです。すべては義務によって得られるかのようです。すべては義務。永遠の命は、彼にとって、遺産のように、決まりごとを綿密に守ることで、権利として得られるものでした。でも、たとえそれが善い動機からだったとしても、このように生きたところで、愛が入る余地はどこにあるのでしょう。

 いつもそうであるように、イエスは外見を超えて物事をご覧になります。この人がイエスの前で、申し分のない人となりを示したのに対し、イエスはそれを超えて内面を見つめられます。マルコが用いる動詞「見つめる」(マルコ10章21節)は大変意味のあるものです。イエスは私たち一人ひとりの内面をご覧になり、ありのままの私たちを愛してくださいます。では、イエスは、この人の中に何をご覧になったのでしょう。イエスが、私たちの中をご覧になる時、怠りや罪にもかかわらず、何をご覧になるのでしょう。イエスは私たちの脆さと同時に、「ありのままを愛されたい」という私たちの願いを見つめられます。

 福音書は、イエスがこの人を見つめ、「慈しまれた」(マルコ10章21節参照)としています。イエスは、ご自分に従うように、と招く前から、この人を慈しまれたのです。イエスは、彼そのものを慈しまれたのです。イエスの愛は無償です。それはこの人がこだわっていた功績に準じる論理とは、正反対でした。このように、神の恵みによって、無償で愛されていることに気づく時、私たちは真の幸福を知ります。私たちの人間関係でも同じです。愛を買い求めたり、愛情を乞うなら、そのような関係は、決して私たちを幸せにしません。

 イエスのこの人に対する招きは、彼の生き方と、神との関わり方を変えることでした。イエスは、私たちの中と同じように、彼の中に欠けたものがあることを見抜かれました。それは、私たちが心に抱く「愛されたい」という願望です。人間として、私たちは皆、一つの傷を持っています。その傷を通して愛が入ってくるのです。

 この欠かけたものを補うために、承認や、愛情、評価を「買う」必要はありません。そうではなく、自分を重くしているすべてのものを「売り払い」、自分の心をもっと解放しなくてはならないのです。自分自身のために取り続けることをやめ、貧しい人々に与え、仕え、分かち合わなくてはならないのです。

 最後に、イエスは、この人を孤立しないように招かれました。イエスは、ご自分に従い、絆の中に留まり、関係を生きるようにと、彼を招いたのです。そうすることで初めて、彼はその”匿名性„から抜け出せるでしょう。私たちが自分の名前を耳にすることができるのは、誰かが自分を呼んでくれる関係の中だけです。孤立し続けるなら、自分の名前を呼ばれることもなく、匿名の 「この人 」であり続けるだでしょう。おそらく、今日、私たちは自己充足的で個人主義的な文化の中にあるために、自分をもっと不幸に感じるのでしょう。それは、自分を無償で愛してくれる誰かから、自分の名前が呼ばれるのを聞くことがないからです。

 この人は、イエスの招きに応えることなく、一人、留まりました。人生の”錨”が彼を港に留めていたからです。「悲しみ」とは、彼が旅立てなかったしるしです。「豊かさ」だと思っていることが、自分を妨げる重荷でしかないことがあります。希望とは、私たち皆がそうであるように、遅かれ早かれ、この人が自分を変え、”沖に出る”ことです。

 兄弟姉妹の皆さん、悲しみ、決断できないでいるすべての人をイエスの聖心に委ねましょう。優しさをもって私たちを見つめ、心を動かされる主の愛に満ちた眼差しを、彼らが感じることができますように。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月10日

☩「『神の指』が、苦しむ人々に触れてくださるように」教皇、四旬節第五主日の正午の祈りで

(2025.4.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日、四旬節第五主日の正午の祈りの説教を、バチカン広報局を通して発表された。説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の「姦通の現場で捕えられた女性」(8章 1-11節)を観想され、「病者と医療従事者の聖年」の日にあたり「神の指」が苦しむ人々に触れ、彼らをいたわる人々を励ましてくださるように、と祈られた。

 教皇の説教は以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 四旬節第五主日、福音は「姦通の現場で捕えられた女」のエピソードを語っています。律法学者たちや人たちがファリサイ派の人々が彼女を石打ちの刑にしようとする中、イエスはこの女性に失われた美しさを取り戻されました。彼女は塵の中に倒れました。しかし、イエスはその塵の上を指でなぞりながら、彼女のための新しい歴史を書かれました。それは、ご自分の子らを救い、悪霊から解放する「神の指」(出エジプト記8章15節、ルカ福音書11章20節)でした。

 親愛なる皆さん、私は入院中も、そして療養中の今も、この「神の指」が優しく触れてくださるのを感じています。「病者と医療界の聖年」の日に、神の愛の指が苦しむ人々に触れ、彼らをいたわる人々を励ましてくださるよう、主に祈ります。

 必ずしもふさわしい条件の下で働けるように支援されず、時には攻撃の犠牲にさえなる医師や、看護師、医療従事者たちのために祈りたいと思います。彼らの使命は容易なものではありません。彼らが支えられ、尊重されることを願います。また、医療システムが受容的で、最も弱く貧しい人々に配慮するものとなりますように。

 レビッビア女子刑務所の受刑者たちが送ってくださったカードに感謝します。彼女たちとその家族のために祈ります。

 「開発と平和のためのスポーツ国際デー」にあたり、平和と社会的包摂を必要とする多くの人々にスポーツが希望のしるしとなることを願います。また、兄弟愛を具体的に教える、様々なスポーツ団体に感謝します。

 平和のために祈り続けましょう。苦しみ続けるウクライナでは、攻撃を受け、たくさんの子どもたちをはじめ、多くの市民が犠牲になっています。ガザ地区でも同様のことが起きています。そこで人々は、避難所も、食料も、清潔な水もない、想像を絶する状態で暮らしています。武器を収め、対話を取り戻し、すべての人質を解放し、住民に助けの手を差し伸べるべきです。

 中東全域に、スーダンと南スーダンに、コンゴ民主共和国に、地震で深刻な被害にも見舞われたミャンマーに、暴力がはびこり、先日二人の修道女が殺害されたハイチにも、平和を祈りましょう。

 おとめマリアが私たちを守り、私たちのために取り次いでくださいますように。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月8日

☩「病床は『聖なる場所』となり得る、弱者に背を向ける社会は残酷で非人間的になる」-教皇、病者・医療従事者のための特別聖年ミサの説教で

Pope Francis greets the pilgrims gathered in St Peter's Square for the MassPope Francis greets the pilgrims gathered in St Peter’s Square for the Mass  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

2025年4月6日

◎教皇聖年連続講話「イエス、私たちの希望」⑪「自分は変われない」と思っても、希望を失ってはならない

(2025.4.2  Vatican News   Deborah Castellano Lubov) 

 サンタ・マルタ館で療養中の教皇フランシスコは2日、水曜恒例の一般謁見のために準備された聖年連続講話の原稿をバチカン報道官室を通じて発表された。

 11回目となる聖年連続講話で、イエスの生涯における出会いに焦点を当てた講話の続きとして、教皇は、ルカ福音書にある徴税人ザアカイのエピソード(19章1₋10項)を取り上げ、「たとえ『自分が変われない』と思い込んでいても、希望を失ってはなりません」と説かれた。

 「ザアカイはある意味で『道』を見失っていました」とされた教皇は、「おそらく彼は誤った選択をし、あるいは彼の人生が苦闘して逃れようとする状況に追い込んだのかもしれません… 彼は他人の犠牲のうえに富を得ていたようです」と語られた。

 しかし、イエスが、ザアカイのいるエリコの町を通られることを耳にした時、「彼は『イエスに会いたい』という望みを持ちました。障害はありましたが、その強い望みを実現することをあきらめなかったのです」と教皇は指摘。

 「私たちも、彼のように解決策を見つける必要がある。ただし、そのためには勇気と、社会通念を無視する意思、子供のような素朴さを受け入れ、自分が周りからどう見られるかを気にし過ぎないことが求められます」と説かれた。そして、ザアカイはまさにそうしたのだ。「まるで子供のように、木に登りました」。

 続けて教皇は、「主においては、常に思いがけないことが起こります。イエスは、その場所に来られると、上を見上げられます。ザアカイは自分が見られていることを知り、おそらくは群衆の前で叱責されると思ったでしょう。群衆もそれを期待していたかも知れませんが、その期待は裏切られます。イエスはザアカイに、すぐに降りてくるように、そして『今日は、あなたの家に泊まらることにしている』と言われたたのです」と語られた。

 そして、「神は、失われた人々を探し求めずに、その場を通り過ぎることがおできになりません」とされ、ルカ福音書がザアカイの心の喜びを強調していることに注意を向けられ、「それは、見守られ、認められ、何よりも『赦された』と感じる人の喜びです… イエスのまなざしは、非難ではなく、慈しみです。私たちが受け入れるのに苦労するとき、私たちがふさわしくないと思う人々を赦されるときに示される慈しみです」と語られた。

 まら教皇は、ザアカイについて「彼はただ、望むだけの人ではなく、具体的な一歩を踏み出す人でもありました… 彼の決意は漠然としたものでも抽象的なものでもなく、自身の歴史から始まった。彼は自分の人生を振り返り、変化を起こす出発点を見極めたのです」と指摘、「私たちも、ザアカイから学び、疎外感を感じたり、変化を起こすことができないと感じたりするときも、希望を失わないようにしましょう」と信者たちを励まされた。

 講話の最後に、教皇は、世界のすべての信者に、「『イエスに会いたい』という願いを育み、何よりも神の慈悲によって『見出される』ようにしましょう… 神は、私たちがどこで道を見失っても、常に私たちを探しに来てくださるのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年4月3日