(2025.5.11 Vatican News Thaddeus Jones)
教皇レオ14世は、世界正面祈願の日の11日の正午の祈りに先立つ説教で、聖ペトロ広場を埋めた10万人を超える信者たちを前に、「司祭職と奉献生活への召命のために、そして、人生の旅路において、愛と真理のうちに歩むことができるよう、互いに奉仕して生きるために、祈るように」と呼びかけられた。
*良い羊飼いの主日に
新教皇は、11日が「良い羊飼いの主日」であることを思い起こされつつ、ローマ司教としての最初の日曜日に、このミサで読まれた福音書にある 「自分の羊を知り、愛し、羊のために命を捧げる、真の羊飼い」としてご自身を示されたイエス」を祝うことができるのは、「神からの賜物です」と語られた。
*世界召命祈願の日に
11日はまた、世界召命祈願の日であり、ローマを訪れているバンドや大衆芸能のメンバーによる2025年聖年の巡礼の最終日でもあることも想起され、「良い羊飼いであるキリストの祭日を盛り上げ、聖霊によって教会を導いてくださる皆さん 」の音楽と演奏に感謝し、親愛の情をもってすべての人に挨拶を送られた。
*互いに助け合おう!
続けて新教皇は、召命、特に司祭職と奉献生活への召命のために、すべての神の民とともに祈ることができる喜びを表されるとともに、「教会が、彼らを大いに必要としている 」のと同様に、「彼らが 、共同体の中で受け入れられ、耳を傾けられ、励まされ、神と兄弟姉妹への惜しみない献身の信頼できる模範を見い出す 」ことができるよう、私たち皆が、彼らの召命の旅路を支援するように、と促された。
そして故教皇フランシスコの「世界召命祈願の日」のメッセージを思い起こしつつ、「皆が互いに奉仕し合い…互いに助け合って、愛と真理のうちに歩み、生きることができること」を神に願いながら、「若者を歓迎し、共に歩む」ように、信者たちを促された。
*恐れてはならない!
特に召命に関して、新教皇は、若者たちを「教会の招きと主キリストの招きを喜んで受けなさい!」と励まされた。
そして最後に、「主の呼びかけに応えた生涯であった聖母マリアが、イエスに従う私たちにいつも寄り添ってくださいますように」と願われ、説教を締めくくられた。
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(Vatican News Francesca Merlo)
また教皇レオ14世は、正午の祈りに続けて、故教皇フランシスコの言葉を引き継ぐ形で、ウクライナ、ガザ、インドとパキスタンの国境における紛争終結を訴えられた。
「『断片的に戦われる第三次世界大戦』という今日の劇的な状況において…。戦争は絶対に繰り返してはなりません! 」。
新教皇は、80年前の5月8日に6000万人の死者を出して終結した第二次世界大戦の甚大な悲劇を思い起こされ、今日の世界を苦しめている現代の戦争に目を向け、 「私は、愛するウクライナの人々の苦しみを胸に抱いています… 真の、公正で、永続的な平和に一刻も早く到達するためにあらゆる努力がなされるように」と訴えられた。
さらに、「すべての捕らわれている人々が解放され、子どもたちが家族のもとに戻されますように」と願われ、ガザ地区で今も進む人道的大惨事について「何が起きているのか、私は深く心を痛めている。戦闘を直ちに停止させ、疲弊した市民に人道支援を提供し、すべての人質が解放されますように」と当事者たちに求められた。
そして、強い希望の中で、インドとパキスタンの停戦合意が発表されたことを歓迎され、「今後の交渉を通じて、永続的な戦闘の停止が合意が速やかに達成されることを望みます」と語られた。
続けて、新教皇は「世界には、このほかにもどれほどの紛争があるのでしょうか 」と問いかけられ、最後に、自らの「心からの願い」を平和の女王マリアに託されて、「聖母マリアが、その願いを主イエスに託され、私たちに平和の奇跡をもたらしてくださるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.5.9 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
第267代教皇に選出された翌朝、教皇レオ14世はシスティーナ礼拝堂で枢機卿たちと共に教皇として初のミサを捧げられた。説教の中で新教皇は、枢機卿たちに、「私たちは、キリストへの喜びに満ちた信仰を証しするよう求められています 」とされ、キリストとの個人的な関係を常に深めるよう求めるとともに、「信仰がなければ、人生に意味はありません」と強調された。
説教で教皇レオ14世は、まず英語でいくつかの言葉を述べ、その中で教皇選挙に参加した枢機卿たちの信頼に感謝した。そして、「答唱詩編の言葉を繰り返したいと思います― 主は驚くべきことをなさった… 私は主に向かって新しい歌を歌おう」とされ、「兄弟である枢機卿たち、今朝、私たちがミサを捧げるにあたり、主が成し遂げてくださった奇跡、主がペトロの聖職を通して私たち全員に注ぎ続けてくださっている祝福について考えていただきたい」と呼びかけられた。
そして、「教会として、イエスの友人の共同体として、信者として、福音を告げ知らせるために、私たちと共に歩むために、皆さん一人一人が頼りになることを知っています」と語られた。
*キリストは人間の聖性を示してくださった
新教皇は説教をイタリア語で行われ、初代教皇である聖ペトロを中心に、聖マタイによる福音書にある彼の言葉-「あなたは生ける神の子キリストです 」-を思い起こしながら、主への絶え間ない信仰によって可能となった「使徒的継承を通して教会が二千年の間守り、深め、伝えてきた 遺産」を指摘。
そして、ペトロとキリストとの関係を振り返りながら、「救い主であるイエスだけが、御父の御顔を現しておられること」を思い起こされ、「イエスのうちに、神は、ご自分を男女の身近な存在とするために、子どもの信頼に満ちた眼差しで、若者の生き生きとした心で、そして人間の成熟した顔立ちで、私たちにご自分を現されました… このようにして、イエスは、私たちのあらゆる限界と能力を超越する永遠の運命の約束とともに、私たち皆が倣うことのできる人間の聖性の模範を示してくださったのです 」と語られた。
*賜物と道
さらに、ペトロがキリストとの応答の中で、「それが 『神の賜物』」であると同時に、『その賜物によって自分が変えられるためにたどるべき道 』であることを理解していました… それらは、人類の善のために宣べ伝えられるよう教会に託された、救いの不可分の側面です 」と言明。「福音がすべての被造物に宣べ伝えられるために、私たちの限界を超え、私たち自身の功績もないのに、ここに連れて来られ、ここから送り出されるのです」と述べられた。
*教会のために忠実であるようにと召された
また新教皇は、8日の午後、第267代教皇に選出されたことで、神がペトロの後継者として自分を召されたことを思い起こされ、「神の助けによって、教会の神秘体全体のために、その忠実な管理者となるように、この宝を私に託されたのです」と述べたうえで、「ペトロが信仰告白をするのは、『人は人の子を誰だと言うのか』という具体的な質問に答えるためでした。この質問は取るに足らないものではなく、私たちの宣教の本質的な側面、すなわち、私たちが生きている世界、その限界と可能性、その疑問と確信 に関わるものなのです」と強調。
*キリストに対して人々が示す二つの異なる態度、だからこそ宣教活動が必要
さらに、「人は、人の子(イエス)を誰だと言うのでしょうか?」と問いかけ、「私たちが考えている場面を振り返れば、2つの異なる態度を特徴づけるものが見つかります」と指摘。まず、「イエスの存在が煩わしい 」となれば、「イエスの厳格な道徳的要求」のために、イエスを拒絶し、排除することを躊躇しない 反応がある」と語った。そして、イエスの問いかけに対するもう一つの可能な反応は、イエスを 「勇気のあるまっすぐな人 」と見る普通の人々の反応であり、「彼らにとっては、イエスはただの人であり、それゆえ、危険な時、受難の時、彼らもイエスを見捨て、失望して去っていくのです」とされた。
そして、「この2つの態度は、今日にも通じるもの」とされ、「たとえ本質的には同じであっても、異なる言葉で表現されているとしても、現代に生きる多くの男女の口から出てくる観念を体現しているのです」、さらに「今日でも、キリスト教信仰が『不条理で、弱者や無知な者のためのもの』とされる状況が数多くあります。 テクノロジー、お金、成功、権力、快楽などが好まれるような状況です」と指摘。
「これらの状況では、福音を宣べ伝え、その真理を証しすることは容易ではなく、信者は嘲笑され、反対され、軽蔑されるか、せいぜい大目に見られ、同情されるにとどまるでしょう。しかし、それゆえにこそ、そのような場所は、私たちの宣教活動が切実に必要とされている場所なのです」と語られた。
*信仰の欠如は、実質的な無神論の状態で生きることに繋がる
続けて、現在社会の信仰の欠如は、「人生の意味の喪失、慈しみの軽視、人間の尊厳に対するひどい侵害、家庭の危機、その他私たちの社会を苦しめている多くの傷を、しばしば悲劇的に伴っています…そして、イエスは一人の人間として評価されてはいるが、一種のカリスマ的指導者やスーパーマンに成り下がっている。洗礼を受けていない人たち間だけでなく、多くの洗礼を受けたキリスト者の間でも このようなことが起こっています 。そのような人々は、実質的な無神論の状態で生きることになるのです 」と警告された。
そして、「これが私たちに託された世界であり、教皇フランシスコが何度も説かれたように、私たちは救世主キリストへの喜びの信仰を証しするよう求められている世界なのです… それゆえ、私たちも、ペトロと共に、『あなたはキリスト、生ける神の子です』と繰り返さねばなりません」と訴えられた。
*日々の回心の旅に身を捧げる
そのために私たちは、まず第一に、「主との個人的な関係において、『日々の回心の旅』に自らを捧げること。そして教会としても、同じことをする必要があります。主への忠誠を共に体験し、すべての人に福音を伝えるのです 」と強調された。
そして、「ローマの司教としての使命を始めるにあたり、ペトロの後継者である私自身に対して、まずこのように言明します」とされ、「それは、アンティオキアの聖イグナチオのよく知られた言葉-『普遍的な教会を、慈愛のうちに司る』です。聖イグナチオは鎖につながれたまま、生け贄を捧げる場所であるこの町に導かれ、そこでキリスト教徒たちにこう書き送っています―『 その時、私は真にイエス・キリストの弟子となる』とも」と語られた。
さらに、「聖イグナチオは、闘技場で野獣に食い荒らされることについて語りました。具体的には、『キリストが残るために身を引くこと、キリストが知られ、栄光を受けるために自分を小さくすること、すべての人がキリストを知り、キリストを愛する機会を持つために自分を最大限に使うこと』だと 」と付け加えられた。
そして説教の最後を次のような祈りで、締めくくられた—「教会の母であるマリアの愛に満ちた執り成しによって、今日も、そしてこれからも、神がこの恵みを与えてくださいますように」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.4.19 Vatican News Thaddeus Jones)
復活徹夜祭のミサが19日夜(日本時間20日未明)、聖ペトロ大聖堂で行われ、教皇フランシスコは、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿が代読した説教の中で、「キリスト復活の光が私たちの道を一歩ずつ照らし、歴史の闇を打ち破り、私たちの心を照らす」と強調された。教皇はミサの数時間前、聖ペトロ大聖堂においでになり、祈りを捧げ、集まった信者たちに挨拶をされた。大聖堂と聖ペトロ広場には5000人を超える信者が集まった。
説教で教皇は、復活の光は「勝利至上主義を排した謙虚な信仰の応答 を求めています。私たちの心にゆっくりと静かに根を下ろす”小さな光の種”のようなものです」とされ、さらに、復活の光は「私たちの心に宿る夜や、私たちの世界にしばしば立ちはだかる死の影に対処する助けとなります。私たちはそのプロセスの一部であり、その” 小さな光の種 ”が守られ、成長するのを助けるように託されているです」と説かれた。
Easter Vigil in Saint Peter’s Basilica (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
*復活祭がもたらす希望を花を咲かせよう
そして、教皇は、「兄弟姉妹の皆さん、特にこの聖年において、私たちは、『復活祭がもたらす希望を、私たちの生活と世界に咲かせるように』との呼びかけを、私たちの内に強く感じる必要があります」と語られた。
「私たちの世界における死や暴力、悪の暗い影が、いかに私たちに重くのしかかり、希望の光を曇らせるか」を認められたうえで、「私たちが暗闇の中にいても、光は静かに輝き出しています。新しい命と最終的に自由にされた世界の約束が、私たちを待っている。新しい始まりは、それがどんなに不可能に思えても、キリストが死に打ち勝ったことで、私たちを驚かせることができるのです」と強調。
さらに、「復活されたイエスを祝って私たちの心を満たすこの新たな希望のメッセージは、私たちが、人生の闇夜を乗り越えるのを助けてくださる 『神の御手』の中にある ことを思い起す助けとなるはずです。その大いなる愛において、神は私たちをくじけさせず、悪が最後の言葉を持つことを許さない。同時に、キリストにおいてすでに成就したこの希望は、私たちにとっては到達すべき目標であり続けます」と語られ、「この希望が私たちに委ねられているのは、私たちがこの希望について信頼に足る証しをすることができるように、そして、神の国が私たちの時代の女性と男性の心にその道を見出すことができるようにするためなのです」と説かれた。
*キリストの復活がもたらす希望の使者になろう
Easter Vigil in Saint Peter’s Basilica (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
続けて教皇は、キリストの復活がもたらす希望は、私たち自身の生活にそれを反映させ、「多くの死の風がまだ私たちを苦しめている中で、希望の使者となり、希望の建設者となる ことを私たちに求めています」と強調。「私たちが使う言葉、私たちが示す思いやりと愛の 日々の小さな行為 が、信仰を欠き、道を見失い、貧困や抑圧によって苦しみに打ちひしがれている人々のためにも、私たちの人生全体が希望の存在となることができるのです 」とされ、「辱められ、殺される多くの女性たち、胎児、虐待される子どもたち、戦争の犠牲者たちを思い起こし、その一人ひとりに、そしてすべての人に、復活祭の希望をもたらしましょう!」と信者たちに呼びかけられた。
*キリストは人類史の決定的な転換点、色あせることのない希望、愛
さらに教皇は、「復活されたキリストは、人類史における決定的な転換点です。キリストは色あせることのない希望です。私たちに寄り添い、私たちを支えてくれる愛です… 復活された主の光を受け入れる場所を作りましょう!そして、私たちは世界の希望の建設者となるのです」と訴えられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
The Stations of the Cross at Rome’s Colosseum (Vatican Media)
(2025.4.18 Vatican News Tiziana Campisi)
18日夜、聖金曜日(主の受難)のローマ・コロッセオでの十字架の道行きは、例年、教皇フランシスコが主宰されているが、今回は、療養中の教皇に代わってバルド・レイナ枢機卿が主宰。教皇は、黙想のために用意された説教で、私たちが 計算とアルゴリズム、冷たい論理と冷酷な利害関係の上に築かれた非人間的な経済に直面したとき、「唯一の選択は、救い主に立ち返ることです」と強調された。
教皇は、十字架の道行きが、イエスが「神が愛しておられるこの世界に向かって」歩まれた道であることを示され、それはまた、キリストによる「応答であり、責任の受容」でもある、と指摘された。
十字架に釘付けにされたキリストは、ご自分を 「対立する当事者の間 に置いて執り成され、彼らを神のもとに運ばれる。そして、イエスの十字架は壁を取り壊し、負債を帳消しにし、裁きを打ち消し、和解を確立する。「真の十字架」であるイエスは、ご自分の衣をはぎ取られ、「ご自分が死ぬのを見る人々にさえ」姿を現され、「御父から託された最愛の者として」彼らを見つめ、「私たちすべて、一人一人を」救いたいとの願いを示される。
”神の経済”
教皇は、「私たちが自分たちの計画から脱却し、”神の経済”—殺さず、破棄せず、砕かないこと―を理解するように」と促された。そして、それは謙虚で、地に足がついている—イエスの道,山上の垂訓の至福の教え―打ち砕かず、耕し、修繕し、保護する道—に従うように。
また、教皇は、”神の経済”―今日の 「計算とアルゴリズム、冷徹な論理と冷酷な利害 」の経済とは全く異なる—に目を留められた。そして、「キリストは、十字架を受け入れ、その重みは『主であり、命を与える聖霊の息吹』を語る。対照的に、私たちは、与えられた責任を回避することで息切れしてしまいますが、逃げることなく、私たちに与えてくださったもの、私たちを置いてくださった状況にとどまることが必要です」とされ、「私たちに本当に重荷を負わせているのは、『利己主義』と 『無関心』なのです」と説かれた。
キリストは「世界を変えるために来られた」のであり、私たちもまた「方向を変え、キリストの痕跡のすばらしさを見なければならない」が、「 そうすることは、すべてが計算ずくのこの世界 では、高くつき、高価な代償を伴いますが、それでも、派閥に分かれ、紛争に引き裂かれた世界が和解に向かえるように、”乾いた敬虔さ”が神の約束の新鮮さを再発見できるように、”石の心”が肉の心に変われるようにせねばなりません」と教皇は語られた。
人間の自由
イエスの死の宣告は、「私たち一人ひとりの自由の劇的な相互作用」についての考察を促す。神が 「私たちの手の中」に 御自身を置かれ、「聖なる落ち着きのなさ 」をもたらす「取り返しのつかない信頼」から、驚きが生まれる。 「不当に告発された人々を解放し、複雑な状況を見極め、人を殺す裁きに対抗する。だが、私たちは、人生の方向性が変わることによる不都合を恐れ、しがみつこうとする役割の”囚人”のまま。多くの場合、私たちは十字架の道の可能性を見逃してしまいます」と教皇は指摘。
キリストは、「裁きと偏見にさらされるすべての姉妹と兄弟の中で、静かに私たちの前におられ」、挑戦しておられるが、「私たちは、千差万別の理由(宗教的な議論、法的な屁理屈、他人の運命に関わることを避けるいわゆる”常識”)によって、ヘロデ、祭司、ピラト、群衆の側に引きずり込まれてしまいます。それでもイエスは手を洗わず、沈黙のうちに 、私たちを愛しておられます」と教皇は指摘。
第十一留で、イエスは釘を打たれながら、「どのような状況においても、選択すべきことがあることを示され」、「『私たちの自由』の驚くべき現実を示され」、二人の犯罪者に寄り添い、一人の侮辱を受け流し、もう一人の嘆願を歓迎し、「 父よ、彼らをお赦しください」と、 十字架につける者たちのために執り成しさえされる。
落下と上昇
十字架の道は、大地の近くをたどるものだが、天は低く垂れ下がる。キリストは道行きの途中で再度倒れられる(第7留)。それは、「倒れては復活し、また倒れては復活する 」、罪と回心の間で揺れる私たち人間を暗示している。教皇は、「私たちはためらい、迷い、道に迷う。しかし、喜びも経験します。新しい始まりの喜び、再生の喜びです。人間は 「手づくり 」であり、恵みと責任が混ざり合ったユニークな存在です」と述べられた。
そして、「『私たちの一人』となられたイエスは、つまずくことを恐れなかった。しかし私たちは、キリストが選ばれた道を拒み、つまずきを隠すことが多い。今日の世界は、計算とアルゴリズム、冷徹な論理と冷酷な利害関係によって成り立っているが、”神の経済 ”はこれと対照的です。『倒れても立ち上がるキリスト』に立ち返ることは、進路の変更であり、ペースの変更。喜びを回復し、私たちを家に連れ戻す回心なのです」と説かれた。
キレネ人のように
第5留では、その場を通りかかったキレネのシモンに、キリストの十字架が背負わされる。シモンは進んで十字架を求めたのではなかったが、十字架を背負った。「キリストのくび木は軽く、その荷は軽い。そして、地を耕し、新たに種を蒔く、その業に私たちを巻き込むことを愛しておられる。私たちには、その驚くべき軽さが必要。神なしには、労苦は無駄になるのです」と教皇は語られた。
カルワリオへの道を歩む女性たち
第4、第6、第8留では、女性たちにスポットが当てられている。 マリア、ベロニカ、エルサレムの娘たちだ。マリアのキリストの弟子としての生活は 「犠牲ではなく、絶え間ない発見 」だ。キリストの最初の弟子 である彼女は、「神において、言葉は行いであり、約束は現実」であることを示している。ベロニカのベールにはキリストの顔が描かれている。「愛は死と同じくらい強い 」というキリストの決意の証しだ。そして、エルサレムの娘たちは、「自分自身と自分たちの子供たちのために 」泣くように促されている。
イエスは希望する人々の中におられる
第13留では、「善良で正しい人… 神の国を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフ」がイエスの遺体を引き取る。キリストは「希望を持ち続ける人の手の中にあり、不正義が常に勝つと考えることを拒否する人の一人」であり、「大きな責任」を与えられ、私たちを勇気づける。
最後に、第14留は、聖土曜日の安息日の沈黙だ。 「ただ待つことが求められる時に、何もしない方法を教えてほしい。 大地の季節に対する感受性を教えてください」と祈る 。墓に横たえられた イエスは、「私たちの人間の状態を共有し、私たちが恐れる深みに下り、休息することを教え、すべての被造物に復活の平和を準備させる」。
結びの祈り
「Laudato sì, mi’ Signore”(主よ、あなたをたたえます)。アッシジの聖フランシスコの聖歌では、私たちの共通の家は、私たちが彼女に与えた害のために泣き叫ぶ姉妹。教皇は「兄弟姉妹の皆さん」と呼びかけ、福音を味わうよう、求めている。「主は私たちを愛された」と聖パウロは記し、「その愛から私たちを『引き離す』ものは何一つないことを悟らせるために」と記している。
最後に教皇は、「私たちは十字架の道を歩きました。 何ものも私たちを引き離すことのできない愛に目を向けました。 今、王が眠り、大いなる静寂が全地に降り注ぐ中で、聖フランシスコの言葉を借りて、心からの回心の賜物のために祈りましょう」と信者たちに促され、次のように祈られた。
「いと高く栄光ある神よ、私の心の闇にあなたの光を投げ入れてください。私に正しい信仰、確固とした希望、完全な慈愛、深い謙遜をお与えください。主よ、私に知恵と理解をお与えください。アーメン」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.4.17 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは17日、聖木曜日(主の晩餐)のミサのために準備された説教の中で、2025年の今祝われている聖年は、「私たち司祭にとって、回心の道における新たな出発への特別な召命を意味します」と強調された。
聖ペトロ大聖堂でのミサには、枢機卿、司教、そして司祭たち合わせて1800人以上が参加。療養中の教皇に代わって、この日のミサの司式を委ねられたドメニコ・カルカーニョ枢機卿は、ミサ中の説教も教皇が準備された説教を代読した。
その説教で、教皇はまず、「私たち司祭に自分たちの歴史がある 」と指摘。司祭叙階式で約束を新たにした時を振り返られ、「もし私たちが神に教えられさえすれば、私たちの務めは希望のものとなります。なぜなら、神は、私たちの物語のそれぞれに、恵みの時とオアシスである聖年を与えてくださるからです」と述べられた。
そして、「司祭にとって、聖年は、私たちが再び歩み始めるための重要な瞬間… 希望の巡礼者として、司祭の私たちは、聖職者主義を捨て、希望の使者となるよう求められているのです 」と説かれた。
さらに「自分の民を愛する羊飼いは、どのような犠牲を払ってもコンセンサスや承認を求めません」とされ、「愛の忠実さが心を変える」ことを司祭たちに思い起こさせ、「親愛なる兄弟たちよ、私たちは『アーメン』を自分のものとし、繰り返すためにここに集まっているのです 」、さらに「私たちが追体験しようとしているイエスの受難、死、復活は、教会を、そしてその中で私たちの司祭職をしっかりと支える土壌です」と強調された。
また教皇は、「司祭一人ひとりが、神の言葉と長年にわたる関係を持っています」と指摘され、「聖書が私たちの最初の故郷であり続けるときにのみ、私たちは聖書を他者のために役立てることができます… 聖書の中には、私たち一人ひとりが、他のページよりも心に響くページがある。 それは素晴らしく、重要なこと! 例えば、新婚カップルが結婚式のための朗読を選ぶときや、悲しみにくれている人たちが、亡くなった大切な人を、神の憐れみと共同体の祈りに委ねるための箇所を探すときなどです」と語られた。
さらに「信じられないことに、召命のためのページが、通常、それぞれの旅路の始まりにある。このページを読むたびに、私たちがそれを大切にし、愛が冷めてしまわないようにさえすれば、神は今も、私たちを呼んでおられるのです」と司祭たちを激励。そして「『見なさい、私はすべてのものを新しくしている』という主の慰めの言葉を思い出すように」と促された。
続けて教皇は、「聖霊が、司祭の奉仕の静かな主人公であり続けていること」を思い起こさせ、 「私たちの言葉が自分の生活の中で現実のものとなるとき、人々は主の息吹を感じるのです」と述べられた。
そのうえで、「今日、私たちが奉献する聖香油は、キリスト教生活のさまざまな段階において働く変容の神秘を封印するもの」とされたうえで、教皇は司祭たちにいくつかの宿題を出された。
そして、「信じなさい!神が、私と共に過ちを犯したのではない、と信じなさい! 神は決して間違いを犯されません」。「私たちの司祭叙階式で語られた言葉を、いつも思い出しましょう。あなたがたのうちに良いわざを始められた神が、それを成就させてくださいますように。これは神の御業であって、私たちの業ではない」と注意され、「主が私たちの目を開き、肩の荷を下ろしてくださること」を司祭たちに想起させた。
説教の最後に教皇は、すべての信者に対して、「希望の民として、司祭の喜びのために今日、祈るように」と呼びかけられた。
(2025.4.9 バチカン放送)
教皇フランシスコが9日の一般謁見の聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」のために用意された原稿が、同日、バチカン広報局から発表された。
この日の講話は、サブ・テーマ「イエスの生涯・出会い」の4回目として、マルコ福音書10章に記されたイエスと金持ちの男との出会いが取り上げられている。要旨は次の通り。
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今日は、福音書が語るもう一つのイエスの出会いを考察しましょう。ところで、今回イエスが出会う人には、名前がありません。福音記者マルコは、この人を単に「ある人」(10章17節)としています。この人は若い頃から戒律を守ってきましたが、自分の人生の意味をまだ見出せず、それを探し求めていました。熱心な見かけにかかわらず、実は心底まで決断できない人だったのかもしれません。
私たちの行為や、犠牲、成功を超えて、幸せであるために、本当に重要なものは、心に抱いているものです。ある船が海洋を航海するために、港を出ようとするとき、それが素晴らしい船で、優れた乗組員に恵まれていても、係留している錨を上げなければ、出航することはできません。つまり、この人は自分で立派な船を作りながら、港に停泊したままだったのです。
イエスが旅に出ようとされると、この人は走り寄って、ひざまずいて尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10章17節)。
この人の言葉の動詞に注目しましょう。「受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。律法を守っても、自分は救われた、という幸福感と安心は得られなかったので、イエスに尋ねたのです。この人の言葉で印象的なのは、「無償」という概念がないことです。すべては義務によって得られるかのようです。すべては義務。永遠の命は、彼にとって、遺産のように、決まりごとを綿密に守ることで、権利として得られるものでした。でも、たとえそれが善い動機からだったとしても、このように生きたところで、愛が入る余地はどこにあるのでしょう。
いつもそうであるように、イエスは外見を超えて物事をご覧になります。この人がイエスの前で、申し分のない人となりを示したのに対し、イエスはそれを超えて内面を見つめられます。マルコが用いる動詞「見つめる」(マルコ10章21節)は大変意味のあるものです。イエスは私たち一人ひとりの内面をご覧になり、ありのままの私たちを愛してくださいます。では、イエスは、この人の中に何をご覧になったのでしょう。イエスが、私たちの中をご覧になる時、怠りや罪にもかかわらず、何をご覧になるのでしょう。イエスは私たちの脆さと同時に、「ありのままを愛されたい」という私たちの願いを見つめられます。
福音書は、イエスがこの人を見つめ、「慈しまれた」(マルコ10章21節参照)としています。イエスは、ご自分に従うように、と招く前から、この人を慈しまれたのです。イエスは、彼そのものを慈しまれたのです。イエスの愛は無償です。それはこの人がこだわっていた功績に準じる論理とは、正反対でした。このように、神の恵みによって、無償で愛されていることに気づく時、私たちは真の幸福を知ります。私たちの人間関係でも同じです。愛を買い求めたり、愛情を乞うなら、そのような関係は、決して私たちを幸せにしません。
イエスのこの人に対する招きは、彼の生き方と、神との関わり方を変えることでした。イエスは、私たちの中と同じように、彼の中に欠けたものがあることを見抜かれました。それは、私たちが心に抱く「愛されたい」という願望です。人間として、私たちは皆、一つの傷を持っています。その傷を通して愛が入ってくるのです。
この欠かけたものを補うために、承認や、愛情、評価を「買う」必要はありません。そうではなく、自分を重くしているすべてのものを「売り払い」、自分の心をもっと解放しなくてはならないのです。自分自身のために取り続けることをやめ、貧しい人々に与え、仕え、分かち合わなくてはならないのです。
最後に、イエスは、この人を孤立しないように招かれました。イエスは、ご自分に従い、絆の中に留まり、関係を生きるようにと、彼を招いたのです。そうすることで初めて、彼はその”匿名性„から抜け出せるでしょう。私たちが自分の名前を耳にすることができるのは、誰かが自分を呼んでくれる関係の中だけです。孤立し続けるなら、自分の名前を呼ばれることもなく、匿名の 「この人 」であり続けるだでしょう。おそらく、今日、私たちは自己充足的で個人主義的な文化の中にあるために、自分をもっと不幸に感じるのでしょう。それは、自分を無償で愛してくれる誰かから、自分の名前が呼ばれるのを聞くことがないからです。
この人は、イエスの招きに応えることなく、一人、留まりました。人生の”錨”が彼を港に留めていたからです。「悲しみ」とは、彼が旅立てなかったしるしです。「豊かさ」だと思っていることが、自分を妨げる重荷でしかないことがあります。希望とは、私たち皆がそうであるように、遅かれ早かれ、この人が自分を変え、”沖に出る”ことです。
兄弟姉妹の皆さん、悲しみ、決断できないでいるすべての人をイエスの聖心に委ねましょう。優しさをもって私たちを見つめ、心を動かされる主の愛に満ちた眼差しを、彼らが感じることができますように。
(編集「カトリック・あい」)
(2025.4.6 バチカン放送)
教皇フランシスコは6日、四旬節第五主日の正午の祈りの説教を、バチカン広報局を通して発表された。説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の「姦通の現場で捕えられた女性」(8章 1-11節)を観想され、「病者と医療従事者の聖年」の日にあたり「神の指」が苦しむ人々に触れ、彼らをいたわる人々を励ましてくださるように、と祈られた。
教皇の説教は以下の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
四旬節第五主日、福音は「姦通の現場で捕えられた女」のエピソードを語っています。律法学者たちや人たちがファリサイ派の人々が彼女を石打ちの刑にしようとする中、イエスはこの女性に失われた美しさを取り戻されました。彼女は塵の中に倒れました。しかし、イエスはその塵の上を指でなぞりながら、彼女のための新しい歴史を書かれました。それは、ご自分の子らを救い、悪霊から解放する「神の指」(出エジプト記8章15節、ルカ福音書11章20節)でした。
親愛なる皆さん、私は入院中も、そして療養中の今も、この「神の指」が優しく触れてくださるのを感じています。「病者と医療界の聖年」の日に、神の愛の指が苦しむ人々に触れ、彼らをいたわる人々を励ましてくださるよう、主に祈ります。
必ずしもふさわしい条件の下で働けるように支援されず、時には攻撃の犠牲にさえなる医師や、看護師、医療従事者たちのために祈りたいと思います。彼らの使命は容易なものではありません。彼らが支えられ、尊重されることを願います。また、医療システムが受容的で、最も弱く貧しい人々に配慮するものとなりますように。
レビッビア女子刑務所の受刑者たちが送ってくださったカードに感謝します。彼女たちとその家族のために祈ります。
「開発と平和のためのスポーツ国際デー」にあたり、平和と社会的包摂を必要とする多くの人々にスポーツが希望のしるしとなることを願います。また、兄弟愛を具体的に教える、様々なスポーツ団体に感謝します。
平和のために祈り続けましょう。苦しみ続けるウクライナでは、攻撃を受け、たくさんの子どもたちをはじめ、多くの市民が犠牲になっています。ガザ地区でも同様のことが起きています。そこで人々は、避難所も、食料も、清潔な水もない、想像を絶する状態で暮らしています。武器を収め、対話を取り戻し、すべての人質を解放し、住民に助けの手を差し伸べるべきです。
中東全域に、スーダンと南スーダンに、コンゴ民主共和国に、地震で深刻な被害にも見舞われたミャンマーに、暴力がはびこり、先日二人の修道女が殺害されたハイチにも、平和を祈りましょう。
おとめマリアが私たちを守り、私たちのために取り次いでくださいますように。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis greets the pilgrims gathered in St Peter’s Square for the Mass (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.4.6 Vatican News Francesca Merlo)
病者・医療従事者のための特別聖年の行事が5,6の両日行われた。6日午前にバチカンの聖ペトロ広場で、福音宣教省のフィジケッラ世界宣教部門副長官の司式でミサが捧げられたが、教皇フランシスコも参加され、先月24日の退院以来初めて人々の前に姿を見せられ、祝福を送られた。
ただ、慎重を期して、説教は教皇フランシスコが準備された原稿を副長官が代読する形で行われ、その中で教皇は、「病床は聖なる場所となり得ます。そこでは慈愛が冷淡さを焼き払い、感謝が希望を育みます」と述べられた。
この日のミサでは第一朗読でイザヤの預言(43章16‐21節)が読まれたが、教皇は、ここに書かれた「追放されたイスラエル人の状況」について熟考するよう促され、「彼らは、すべてを失ったように思われたが、試練の時にこそ、新しい国が誕生したのです」と指摘。
この彼らの経験を、続けて読まれたヨハネ福音書(8章1-11節)に搭乗する登場する「罪を犯したために非難され、のけ者にされた女性」と比べられ、「最初の石を投げようとしていた告発者たちは、イエスの静かな権威によって制止され、イエスは彼女に『行きなさい。あなたは自由だ。あなたは救われたのだ』と言われました」と語られた。
教皇は、このいずれの場合も、「神が、私たちの傷の中に入り込んでくださること」を示しており、「私たちの苦しみを無視されるのではなく、その苦しみをご承知で、私たちの扉をノックしてくださるのです」と説かれた。
*病気の人、医療従事者たちに
続いて教皇は、病気の人々や彼らを支援する人々に対して、「病気がもたらす深い苦しみ」を認めたうえで、「それは私たちを亡命者のように感じさせたり、福音書に出てくる女性のように感じさせたりします。しかし、それはまた、出会いの場ともなり、謙虚さと優雅さをもって愛することを学び、愛されることを学ぶ『学校』ともなり得るのです」と励まされた。
そして、ご自身の病について振り返され、他者に頼らざるを得なくなったことは「重荷ではない。信頼、感謝、希望の教訓となるものです。世話をしてくださる人たちの行為を押し戻してはなりません。自分が愛されることを受け入れましょう」と説かれた。
また、医療従事者たちに対して、その仕事に感謝されたうえで、「すべての患者を、人間性を取り戻す機会として受け入れるように。病床は聖なる場所となり得ます。そこでは慈善が冷淡さを焼き払い、感謝が希望を育むのです」と強調された。
*思いやりへの呼びかけ
説教の結びに、教皇は前任者のベネディクト16世が、教会に対して「真の人間性は、苦しみとの関連において決定される」と教えられたことを思い起こされ、「弱者に背を向ける社会は、残酷で非人間的になる」と警告された。
そして最後に、「高齢者や病人、あるいは人生の苦難に打ちのめされた人々を疎外したり、忘れたりする誘惑に抵抗するように」と聖ペトロ広場に集まったすべての人に呼びかけられ、「弱者を排除してはなりません。私たちは、神の愛が私たちの心に注がれることを受け入れねばなりません。そして、その愛によって、苦しみさえも交わりと成長の場へと変えていくのです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)