(2025.8.15 Vatican News Deborah Castellano Lubov )
教皇レオ14世は15日のカステル・ガンドルフォでの聖母被昇天の祝日ミサで、「マリア賛歌、マグニフィカトは、謙虚な者、飢えた者、神に忠実な僕たちの希望を強めます」と強調された。 ミサ中の説教で教皇は、今日は日曜日ではないが、「私たちは別の形で、歴史の 流れを変えたイエスの復活の神秘を祝っています」と指摘。「ナザレの聖母マリアにおいて、私たちは自分たちの歴史—教会の歴史、人類の共通の運命そのものの歴史を認識します。彼女において肉体を得た生命と自由の神は、死に打ち勝たれたのです」と語られた。
そして、この祝日は、私たちが、神が死を克服されることを見つめる機会となるが、「それは決して私たち抜きでは起こらないことを思い起させる」とされ、主の王国は主のものだが、「すべてを変えることのできる主の愛への『はい』は、私たちのもの… 十字架上で、イエスは自由意志で『はい』と宣言されて死の力を奪われましたが、その死は、私たちの手が主を十字架に釘付けにし、心が恐怖と不信に囚われているところどこにでも広がっています。十字架の上で、信頼が、未来を見据える愛が、赦しが勝利したのです」と述べられた。
*その『はい』は今も生きている
教皇は続けて、信者たちに、マリアが十字架のそばに、息子イエスと一つになって立っておられたことに注意を向けられ、「今の時代にあっても、マリアのように、逃げず、イエスの『はい』を自分のものとする時、私たちはマリアのようになります… その『はい』は、現代の殉教者たち、信仰と正義、優しさと平和の証人たちのうちに生き続け、死に抵抗しています。そのようにして、喜びの日は、『どのように、誰のために、私たちは生きるか』について、私たちに選択を迫る日ともなるのです」と説かれた。
さらに教皇は、聖ルカがマリアの召命における「決定的な瞬間」を記録した福音の箇所を思い起され、「彼女の生涯の頂点を祝うこの日を思い起こすことは素晴らしいこと。地上での人生は短い。神の母のマリアの物語でさえ、この地上では短く、終わりを迎えますが、人生が終わりを告げると、その唯一無二の輝きがより鮮明に輝くのです」と指摘。マリアの『マグニフィカト』が彼女の生涯の光を放ち、不妊のエリザベスの驚くべき実りがマリアの信頼を確固たるものにした。なぜなら、それは、神の刷新の言葉が受け入れられるたびに、教会の実りと全人類の実りに及ぶマリアの『はい』の実りを予告していたからです」と語られた。
*神は私たちの絶望を破る
続けて教皇は、「主の復活は、今日でも私たちの世界に入り込んでいます。今の世界では、死の言葉と選択が優勢に見えるかもしれないが、神の命は、兄弟愛の具体的な経験と新たな連帯のしぐさを通じて、私たちの絶望を打ち破ります。復活は、私たちの最終的な運命である前に、魂と身体の両方で、私たちの地上の住処を変容させます」とされ、「マリア賛歌、マグニフィカトは、謙虚な者、飢えた者、神の忠実な僕たちの希望を強いものとするのです」と強調。
「何かが不可能に思えても、神の言葉は引き続き明らかにされます。善で悪に、命で死に立ち向かう絆が生まれる時、私たちは『神にとって不可能なことは何もない』(ルカ福音書1章37節)ことを知るのです」と語られた。 さらに、教皇は、今の世界で自己依存が蔓延し、良心が鈍ることを警告され、「私たちには、古い世界が消え去るのを待つ代わりに、それに固執し、富と権力を持つ者たちの助けを求める傾向があります。その助けは、しばしば貧しい者や卑しい者への軽蔑を伴います」とされたうえで、「教会は、脆弱な成員たちの『マグニフィカト』によって刷新される。貧しく迫害されるキリスト教共同体、紛争の地に慈しみの証しを立てる者たち、壊れた世界に平和を築く者たちは、教会の喜びです。彼らは彼女の持続的な実りであり、来たるべき王国の初穂です」と述べられた。
*彼女たちの証しによって回心しよう
また教皇は、(イエスに付き従う)多くの者が、年老いたエリザベスや若いマリアのように女性であることに触れ、「復活の使徒である女性たちの証しによって回心しましょう!」と願われた。そして、「この人生で『命を選ぶ』とき、私たちは天に上げられたマリアに、自分たちの運命を見いだすのは正しいことです… 彼女は、イエスの復活が孤立した出来事ではなく、単なる例外ではない、というしるしとして、私たちに与えられています」と語られた。
*マリア、恵みと自由の驚くべき結合
教皇が説教の最後に、「マリアは、恵みと自由の驚くべき結合であり、私たち一人ひとりに、神の民の生活への信頼、勇気、参加を促します… 『力ある方は、私のために偉大なことをなさった」 (ルカ福音書 1章49節)。このことを念頭に置いて、私たち一人ひとりがこの喜びを知り、新しい歌でそれを宣言しよう。人生を選ぶことを恐れてはなりません!」と信者たちを励まされた。
そして、「たとえそれが危険で無謀に見え、多くの声が『なぜそんなことをするんだ?放っておけ。自分の利益を考えろ』とささやいても、私たちは『キリストの弟子』。私たちの時代を駆り立てるのは、魂と身体を駆り立てる彼の愛なのです。私たち個々人として、そして教会として、自分自身のために生きないことで、命が広がり、命が勝利するのです」と強調して説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
長崎80回目原爆忌:「被爆マリア」像と共にろうそく行列 2025年8月9日 長崎・浦上教会前 (ANSA)
(2025.8.10 バチカン放送)
教皇レオ14世は10日、年間第19主日の正午の祈りの終わりに、広島と長崎の80回目の原爆忌に改めて言及され、平和への普遍的な願いを無視することがないように、と呼びかけられた。
教皇は、80回目の原爆忌は「『戦争を紛争の解決手段とすることを拒否せねばならない』という思いを、全世界に再び目覚めさせました」とされ、世界の指導者たちに、「自らの選択の責任を常に念頭に置くように」と訴えられた。
また、アルメニアとアゼルバイジャン間で署名された和平に向けた共同宣言に喜びを表明する一方、悲惨な状況が続くハイチに憂慮を示された。
教皇レオ14世の発言は以下のとおり。
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戦争の終結を祈り続けましょう。広島と長崎の80回目の原爆忌は、戦争を紛争の解決手段とすることを拒否すべきであるという思いを全世界に再び目覚めさせました。
物事を決定する立場にある人々は、自らの選択が住民に与える影響の責任を常に念頭に置くべきです。最も弱い立場に置かれた人々の必要と、平和への普遍的な願いを無視してはなりません。
こうした意味において、アルメニアとアゼルバイジャンが和平に向けた共同宣言の署名に至ったことをうれしく思います。この出来事が、南コーカサス地方の安定した恒久平和の実現に貢献することを祈ります。
こうした喜ばしい動きに対し、ハイチの住民が置かれた状況は、絶望的になる一方です。そこでは殺人、あらゆる暴力、人身取引、移住を余儀なくされる人々、誘拐等のニュースが相次いでいます。人質の即刻の解放を、すべての責任者に切に訴えます。そして、ハイチの人々が平和のうちに暮らせるような社会や制度の条件を整えるために、国際社会に具体的な支援を呼びかけます。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Leo greets pilgrims in St. Peter’s Square for his first General Audience of August (@Vatican Media)
(2025.8.6 Vatican News Kielce Gussie)
レオ14世教皇は6日の水曜恒例一般謁見での講話で、「備える」という言葉について考察され、私たち一人ひとりが日々の生活の中で聖体祭儀に備えるよう求められている理由について、「私たちを煩わせるものを取り除き、要求を減らし、非現実的な期待を抱くのをやめること」にある、と語られた。
教皇は今回の講話のテーマとして、イエスの受難、死、そして復活の神秘について深く考察することを選ばれた。まず、「備える」という言葉について黙想するよう信者たちに勧められ、「この言葉は、単純なようでいて、キリスト教生活の貴重な意味を秘めているのです」と説かれた。
*愛は突然の衝動ではない
マルコ福音書の中で、過越祭の準備として、弟子たちはイエスに、極めて実際的な質問をする。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(14章12節)。教皇は、弟子たちが何か重要な出来事が起こることを予期していたこと、そしてイエスから非常に象徴的な答えを受け取ったことを指摘された。それは、「都へ行きなさい。すると水がめを運んでいる男に出会う」(14章13節)だ。
「水がめを運んでいる男、既に用意された部屋、そして見知らぬ主人。すべてが既に準備されていました。イエスは既に弟子たちのために、すべてを準備しておられたのです。これは、真の愛は、『偶然の結果』ではなく、『意識的な選択の結果』だということを示しています」と教皇は指摘。
そして、「愛には準備が必要です。イエスの『受難に耐える』という決断は、『自由に愛する』という選択です… イエスのご自分の命という贈り物が、突然の衝動ではなく、意識的な意図から生まれたものだ、と知ることは、私たちにとって慰めとなります」と説かれた。
*神は私たちのために場所を用意してくださっている
さらに「既に用意された部屋」について教皇は、「神が私たちのために、道を用意してくださっていることを、明らかにしています。私たちが『自分は歓迎される必要がある』と気づく前に、主はすでに私たちのために、自分自身を認識し、『自分は主の友だ』と感じられる場所を用意してくださっているのです。そして、私たち一人ひとりの心の中に、一人ひとりのために特別に作られたこの場所を見つけることができるのです。それはただ、見つけられ、満たされ、愛されるのを待っているのです」と説かれた。
教皇は、「このマルコ福音書の中で、イエスはすでに過越祭のすべてを準備しておられましたが、それでも、使徒たちにそれぞれの役割を果たすよう、お求めになりました。このことは、私たちの霊的生活にとって重要な教訓を教えてくれます… 恵みは私たちの自由を奪うのではなく、むしろ自由を目覚めさせるのです」と強調された。
*準備は幻想と同じではない
続けて教皇は、聖ペトロ広場に集まった巡礼者たちに、自分たちにも「準備すべき晩餐」があることを思い起こさせ、「典礼を超えて、聖体は私たちの日常生活の中に位置づけられています。そして、私たちはすべてを、感謝の気持ちとして体験する余地を残しておかなければなりません。そのために、人生における妨げとなるものを取り除く必要があります」と促された。
そして同時に、「準備を幻想と混同したり、準備を『惑わされること』と考えたりしないように。幻想は私たちの注意をそらしますが、準備は私たちを導きます。イエスは、宣教活動の間ずっと、弟子たちがご自分のことを理解できず、裏切ろうとする弟子がいた時でさえも、『聖体祭儀となる晩餐』を準備されたことで、このことを証明されました」と、注意を与えられた。
教皇はそのうえで信者たちに、「私たちも、『過越の食事の準備』をするよう求められています。これはミサの準備だけでなく、日々の生活のあらゆる瞬間への準備も意味します。最初の一歩を踏み出す準備をすること、もっと耳を傾けること、あるいは他の人が変わるのを待たないこと、などを意味するでしょう」とされた。
そして、「私たちが『神との聖餐に備える』という神の呼びかけに応じる決心をしたとき、私たちは孤独ではありません。私たちは、自分を支え、常に自分に先んじる無限の愛の神秘に、絶え間なく祝福されていること、広々とした、すでに準備された部屋へと自分を導くしるし、出会い、言葉に囲まれていることに気づくでしょう」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.8.5 バチカン放送)
広島と長崎への原爆投下から80年を前に教皇レオ14世が5日、広島教区の白浜満司教にメッセージを寄せられた。
同日は、広島のエリザベト音楽大学セシリアホールで、被爆者団体と日米韓の有志枢機卿・司教によって「被爆80年・核廃絶のための協働をめざして」をテーマに平和集会が開かれ、続けて、世界平和記念聖堂で平和を祈願するミサが捧げられ、教皇の白浜司教あてのメッセージが、駐日教皇大使のフランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教から伝えられた。
メッセージで教皇は、被爆者たちへの敬意と親愛の念を表され、「その喪失と苦しみの体験は、より安全な世界の構築と、平和な環境の醸成のために、私たち皆にとっての緊急の呼びかけ」と述べられた。
そして、 「長い年月にもかかわらず、広島と長崎の二つの都市は、核兵器がもたらした底知れない恐怖を生き続け、その街や、学校、家々は、あの運命的な1945年8月の、目に見える傷跡と精神的の傷跡の二つながら今に残している」とされ、こうした現実を前に、前任の教皇フランシスコが繰り返し語られていた「戦争は常に人類にとっての敗北である」という言葉を繰り返された。
また教皇は、長崎への原爆で被爆した永井隆博士の「愛の人とは、武器を持たない『勇気』の人」という言葉を胸に留めつつ、「真の平和には、勇気をもって武器を、特に言語に絶する大惨事を引き起こす力を持つ武器を、捨てることが必要です」と強調。
さらに、「核兵器は、私たちが共通に持つ人間性を傷つけ、その調和を守る使命を託された『被造物の尊厳』を裏切るもの」と強く批判された。
続けて「世界中で緊張と敵対する動きが強まる今日、広島と長崎は、 『記憶の象徴』として、”相互確証破壊”の考え方に基づく”安全保障の幻想”を打ち捨てるよう、促しています。これに代わるものとして、私たちは、正義、兄弟愛、共通善に根ざしたグローバルな倫理を築き上げなければなりません」と訴えられた。
メッセージの最後の教皇は、この厳粛な記念日が、人類という家族全体のための恒久平和、「武装しない、武装を解かせる平和」を追求する決意を新たにせねばならない、と世界中の指導者たち、全ての人々に訴えるものとなるように、と祈られた。そして、この日を記憶に留めるすべての人々に、神の豊かな祝福をあるように、祈り求められた。
(編集「カトリック・あい」)
(2025.7.30 バチカン放送)
教皇レオ14世は7月30日の水曜恒例の一般謁見で、8月1日に署名から50年を迎える「ヘルシンキ宣言」に触れ、「宣言の精神を守ることは今、これまでになく重要になっている」と強調。対話を忍耐強く続け、協力を強め、紛争の予防と解決のために外交を優先よう、世界の指導者たちに訴えられた。
「ヘルシンキ宣言(ヘルシンキ合意)」は、1975年7月~8月、フィンランドの首都ヘルシンキで開かれた全欧安全保障協力会議の最終合意文書で、国家主権尊重、国境不可侵など国際関係上の原則や、信頼醸成措置の促進など安全保障上の原則、また、経済・技術協力、人の移動や交流の拡大など人道分野での協力の原則がまとめられ、採択されたもの。
教皇は、「世界冷戦を背景に、安全保障を望む動きの中で、ヘルシンキ宣言に署名した35の国に新たな地政学的な時代をもたらし、東西の和解を促進したこと」を振り返られ、この出来事が、「『バンクーバーからウラジオストックまで』という当時生まれつつあった国際的な協力体制の基盤の一つとなるとともに、特に宗教の自由に注目した人権への新たな関心を促した」と指摘された。
そして、当時のアゴスティーノ・カサローリ大司教を代表とするバチカンのヘルシンキ会議への積極的な参加は、「平和のための政治的・倫理的取り組みの推進に寄与することとなった」と回想された。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Leo greets pilgrims during his weekly General Audience in St Peter’s Square (ANSA)
(2025.7.30 Vatcian News)
教皇レオ14世は30日、水曜恒例の一般謁見での聖年連続講話で、信者たちに「癒す言葉を使い、傷つける言葉を使わないことを学ぶように」と促された。
講話の中で教皇はまず、現在の世界の状況に注意を向けられ、「今の世界は、『暴力と憎しみ』に特徴付けられ、人間の尊厳が深く傷つけられている。社会は、孤立からではなく、一種の”過負荷”で病んでいます」と指摘。
さらに、「私たちは過度に”接続”され、偽りや歪曲された画像に襲われています… ソーシャルメディアは、感情的な”過食症”のような状態を生み出し、過剰な情報摂取が私たちを疲労と混乱に陥れているのです」と警告された。
そして、「このような状況の中、多くの人々は心を閉ざす誘惑に駆られています… 『何も感じない方が良い』とさえ思ってしまうかもしれません」と述べ、「言葉そのものが、ますます脆くなっている」と強調された。
関連して教皇は、マルコ福音書の書かれた、耳が聞こえず口が利けない男の癒しの物語を取り上げ、「その男は自分自身のために癒しを求めませんでした。彼は他の人たちによってイエスのもとに連れて来られたのです。ここに登場する彼を連れて来た人たちは、教会の姿として見ることができます。特に声や聴く能力を失った人々に寄り添う姿です」と指摘。
そして、「この男は、イエスの前に連れて来られて、話し始めます。おそらく彼は、話す方法を知らなかったか、自分はそれにふさわしくない、と感じていたからかも知れません」とされ、信者たちに問いかけられた。「では、私たちは、『自分が理解されていない』と感じることで、どれほど話すことをやめてしまうことがあるでしょうか?」。
講話の終わりに教皇は、「真のコミュニケーションは、、癒しであり、言葉で他者を傷つけないこと。正しく話すことは旅の始まりです。そして、この旅は、イエスの受難と十字架を通って、イエスご自身へ私たちを導きます」と語られた。そして「主に願いしましょう。私たちのコミュニケーションが癒しとなり、教会が、誰もが主の言葉を聞き、癒され、主の救いの使者となる場所であり続けるよう助けてくださいますように」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
File photo of the aftermath of violence in the DRC (AFP or licensors)
(2025.7.28 Vatican News )
コンゴ民主共和国東部のイトゥリ州コマンダで27日の日曜、反政府勢力が聖アヌアリテ教会を襲撃、ミサに与っていた女性や子供を含む少なくとも38人を殺害した。近くの村でも5人が殺されている。
この残虐行為に、教皇レオ14世は28日、深い悲しみを表明。犠牲者や家族と心を一つにして冥福を祈るとともに、「殉教者たちの血が、コンゴ人民のための平和、和解、兄弟愛、そして愛の種となるよう二」と願われた。
バチカンのパロリン国務長官も同日、コンゴ司教協議会のムガルー会長(大司教)に弔電送り、「教皇レオ14世は、聖アヌアリテ教会で礼拝に集まった信徒の命を奪った攻撃について、驚きと深い悲しみをもって知りました」とし、この悲劇は、地域で紛争に苦しんでいる人たちの物心両面の平和と安全に緊急に努めるよう、私たちに呼びかけている、と強調した。
コンゴ政府当局によると、紛争地域にあるコマンダでの教会襲撃は、イスラム系武装組織”イスラム国(IS)”の支援を受けた「連合民主勢力(ADF)」によって実行された。
ADFは1990年代にウガンダで結成され、イドイ・アミン独裁政権の崩壊後に政権を握ったヨウェリ・ムセベニ大統領に対する不満勢力が連合し、強力な勢力となった。その後、ウガンダ国内から追放され、現在ではウガンダとコンゴの国境地帯で活動、遠隔地の村落の民間人を標的としている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)