☩「内面性、一致、愛、希望の四つが教育のカギとなる要素だ」-「教育界の聖年」式典で教師たちに

Pope Leo arrives in St Peter's SquarePope Leo arrives in St Peter’s Square  (@Vatican Media)

*「内面性」-真理は人間的な深い出会いを通じて伝えられる

 

 聖トマス・アクィナスの教義における四つの核心的側面のうち、まず「内なるもの」について教皇は、聖アウグスティヌスの言葉「私たちの言葉の音は耳に届くが、真の教師は内なるもの」を引用し、「美しい言葉や設備の整った教室、実験室、図書館さえあれば教えられる、と思うのは誤りです。これらはあくまで手段であり、”物理的空間”に過ぎません。有用ではあるが、真の教師は”内なる存在”です… 真理は、音や壁や廊下を通じてではなく、人間同士の深い出会いを通じて伝えられる。そのような出会いがなければ、あらゆる教育の試みは失敗に終わります」と注意された。

 教皇は続けて、「現代の学生たちは、自らの内面に触れるための助けを必要としています」とされ、「”スクリーン”と”技術的フィルター”に支配された世界における表層性の課題」を提起。

 

 

*「一致」は、キリストにおいてのみ実現する

 

 

*「愛」を伴うことで、教育は真に実りあるものとなる

 

 

 

*AIは「他者は要らない」という幻想を抱かせる危険・人間的関わりが教師の役割

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年11月1日

☩「精一杯生きる勇気を持ち、高みを目指し、闇の中に希望の光を灯すように」-教皇、「教育界の聖年・中高生たちとの集い」で

(2025.10.30  バチカン放送)

 バチカンでは10月27日から11月1日にかけて「教育界の聖年」が開催されている。その聖年行事の一つとして30日、教皇レオ14世が中高生たちと集いをもたれ、「人生を精一杯生きる勇気を持ち、歴史の闇の中に希望の光を灯してください」と願われた。

 集いには、地元イタリアをはじめ、欧州、ラテンアメリカなどから中学生と高校生を中心に約8500人の生徒が、メイン会場のパウロ6世ホール内だけでなく、同ホールのエントランス・ギャラリーや、ホール前の広場に設けられた臨時の会場からも参加した。

 教皇はまず、ホールの外から大型スクリーンを通して参加する生徒たちとお会いになり、「メキシコ!」「ローマ!」「ポーランド!」と、青少年たちの出身国や所属教区の名を呼んで歓迎しつつ、「福音は『後にいる者が先になる』と言いますが、今日はその通りになりました」と話された。

 続いて、謁見ホールのエントランスの生徒たちにも同様にお会いになった後、メインホールに入場されると、若者たちの割れんばかりの歓声がわき起こり、元気あふれる生徒たちを前に、教皇は「皆さんとの出会いを心待ちにしていました… 皆さんのような生き生きとした若者たちに、数学を教えていた日々を、思い出します」と語りかけられた。

 そして、この聖年中の9月に列聖された若き聖人ピエル・ジョルジョ・フラッサーティの「信仰なく生きることは、生きるのではなく、生き延びるに過ぎない」と「高きに向かって」という2つの言葉を挙げながら、「精一杯生きる勇気を持ち、常に高みを目指しつつ、歴史の闇の中に希望の光を灯してください」と願われた。

 教皇はまた、前任の教皇フランシスコが始められた「グローバル教育協定プロジェクト」と、普遍的兄弟愛の推進において若い世代の参加を促す「教育・文化分野で働く人々のネットワーク」に言及され、「教育の受け手であると同時に主役となり、教育の新しい季節を切り開くために皆で一致し、真理と平和の信頼できる証し人となって欲しい」と希望された。

 さらに、「宇宙の星の数は1000兆個とも言われ、条件のよい空で肉眼で見える星はおよそ5000個です」とされ、広大な宇宙へ、若者たちに心の眼差しを向けるよう促された。

 続けて、「宇宙にある多くの星の中でも、私たちが見ているのは、近くにある星座たちであり、私たちに進むべき方向を示してくれる存在です」と語られ、「こうした星の集まりの中にも特に、指針・道しるべとなる星がありますが、皆さんの人生にとっての”導きの星”は、ご両親や、先生、司祭、よい友人たちです」と指摘。

 また、「星は、一つでは遠くに留まっていますが、他の星と一緒になり、星座を形作るように、皆さんも一人ひとりが一つの星であり、皆と一緒になって、未来の方角を指し示すように招かれているのです…私たちは、『神のきらめき』としての星。教育とはこの恵みを育むこと。教育は、高きを見つめるように私たちに教えます」と説かれた。

 今日の教育が取り組むべき新たな課題として教皇は、「デジタル教育」を挙げられ、「テクノロジーを賢明さを持って利用すること。テクノロジーに自分が利用されないように」と促されるとともに、AI(人工知能)についても、「情緒的、霊的、社会的、エコロジー的知性の構築に努め、デジタル環境に人間性をもたらし、兄弟愛と創造性の空間を築くことが必要です」と語られ、「インターネットに隷属せず、それを善のために活用し、美しい信仰を情報技術への情熱と結びつけた聖カルロ・アクティス」を見習うべき模範として示された。

 教皇は平和教育の重要性にも触れ、「平和のためには、武器を使わないようにするだけでなく、心の武装を解くことが必要です」と強調され、「家庭や、学校、スポーツ、友人間など自分が置かれた場所で、また異なる文化との出会いの中で、平和を作り出す者となるように」と求められた。

 挨拶の最後に教皇は若者たちに、「皆さんの眼差しが、淡い希望を託す流れ星ではなく、より高くへ、『正義の太陽』であるイエス・キリストへと向かうように。イエスは皆さんの人生の道のりを常に導いてくださいます」と励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2025年10月31日

☩「カトリック教会は反ユダヤ主義を容認しない」ー教皇、水曜恒例一般謁見の講話で

Pope Leo greets leaders and representatives of non-Christian leaders present for Wednesday's General Audience, which was dedicated to interreligious dialoguePope Leo greets leaders and representatives of non-Christian leaders present for Wednesday’s General Audience, which was dedicated to interreligious dialogue

(2025.10.29  Vatican News  Isabella H. de Carvalho) 

 教皇フランシスコは29日の水曜恒例一般謁見での講話で、ユダヤ教とカトリック教の関係の重要性、政治的な影響を排除することの必要性を強調、宗教が協力してより良い世界を築くことを訴えられた。 

 

非キリスト教宗教との関係に関する宣言『Nostra aetate』の意義

 

 講話で教皇は、「第2バチカン公会議の非キリスト教宗教との関係に関する宣言『Nostra aetate(私たちの時代)』以来、歴代教皇は明確な言葉で反ユダヤ主義を非難してきました」とされ、「私もまた、福音そのものに基づき、教会が反ユダヤ主義を容認せず、これと戦うことを確認します」と言明された。

 宗教間対話の重要性に焦点を当てたこの講話で、異なる信仰が共により良い世界を築くための道筋を示し、ユダヤ教とカトリックの関係の重要性も強調されたうえで、『Nostra aetate』発表から60年が経過する中で、「誤解や困難、対立があったことは否定できませんが、対話を継続させることを妨げることは、決してありませんでした」と指摘。

 そして 「今日においても、政治的状況や一部の者による不正が、友情から我々をそらすことを許してはなりません。特にこれまでに大きな成果を上げてきたのですから」と述べられ、一般謁見に出席した異なる信仰の指導者や代表者に対し、感謝の意を表明した。

*ユダヤ教とカトリックの対話の60年

 

 また教皇は、1965年の『Nostra aetate』公布以来「この60年間にユダヤ教とカトリックの対話で達成された全てを、今日私たちは感謝をもって振り返ることができます… これは人間の努力だけでなく、キリスト教の確信によれば、対話そのものである私たちの神の助けによるものです」と強調。

 さらに、『Nostra aetate』の「最初の焦点は、ユダヤ世界に向けられていました… 教会史上初めて、キリスト教のユダヤ的ルーツに関する教義的論文が形作られ、聖書的・神学的レベルで後戻りできない転換点となったのです」とされ、この文書はカトリック教会のユダヤ的ルーツを強調し、「その信仰の始まりと選民としての地位は、すでに族長たち、モーセ、預言者たちの中に認められます… この文書は、いかなる時代においても、いかなる者によってもユダヤ人を対象としたあらゆる形態の反ユダヤ主義を非難しており、その根拠は、政治的理由ではなく、福音の霊的な愛によるものです」と語られた。

*宗教が協力できる分野は

 教皇は続けて、この文書の公布から60年を経た今日、「異なる信仰が共に成し得ること」を思い起こされ、「答えは単純です。私たちは共に行動できるのです… 現代世界において、私たちの結束と友情、協力をこれまで以上に必要としています」と述べられた。そして、宗教が人々を結びつける分野として、「人間の苦しみを和らげ、私たちの共通の家である地球をケアすることへの貢献 」「真実、思いやり、和解、正義、平和を教えること」「あらゆる時代における人類への奉仕を再確認すること」、そして「神の名、宗教、対話そのものの悪用、ならびに宗教的原理主義や過激主義がもたらす危険に対して警戒すること」を挙げられた。

 また教皇は、今日「AI(人工知能)の責任ある発展に向き合うことの重要性」を強調。「人間に代わる存在として構想されるなら、人間の無限の尊厳を深刻に侵害し、根本的な責任を無効化する恐れがあるからです」と述べられ、異なる宗教が協力し合えば、「技術の人間化、ひいてはその規制の指針となり、基本的人権を保護する上で計り知れない貢献ができるのです」と訴えられた。

*今日の希望の必要性

 教皇はさらに、第二次世界大戦後、『Nostra aetate』が「出会い、尊重、精神的寛容の新たな地平」を開き、多くの人々に希望をもたらしたように、「戦争で荒廃させられ、自然環境が危機にある現在の世界で、私たちは、希望を再燃させるよう求められています…そして、宗教は平和は人間の心から始まることを教えます。個人の生活、家族、地域、学校、村、国、そして世界に希望を取り戻さねばなりませんが、その希望は宗教的信念、新たな世界が可能だという確信に根ざしているものです」と強調。

 さらに、「私たち異なる宗教が力を合わせれば、すべてが可能となる。何ものも私たちを分断しないようにしましょう…そして、この友情と協力の精神を次世代にも伝えましょう。それが対話の真の礎だからです」と訴えられた。

 そして、『Nostra aetate』は「他宗教の信徒を『よそ者』ではなく、真理への道程を共にする『旅の仲間」として迎え入れること、共通の人間性を認めつつ差異を尊重すること、あらゆる誠実な宗教的探求の中に、全被造物を包み込む唯一の神聖なる神秘の反映を見出すことを教えているのです」と述べられた。

*『Nostra aetate』―今日の教会の道しるべ

 教皇レオは特にカトリック教会に向けて、「『Nostra aetate』は今もなお」その道を照らし続けています」とされ、「この宣言は、司教、聖職者、奉献生活者、信徒を含む全てのカトリック教徒に対し、他宗教の信徒との対話と協力に誠実に取り組むよう招いています。彼らの伝統に存在する善きもの、真実なもの、聖なるものを認め、促進するように、です… 今日では、世界のほぼ全ての都市に多様な文化的・宗教的背景を持つ人々が存在するため、これが一層重要です」と説かれた。

 さらに、「『Nostra aetate』は、真の対話が愛に根ざしていることを想起させます。愛こそが平和、正義、和解の唯一の基盤であり、あらゆる形態の差別や迫害を断固として拒絶し、すべての人間の平等な尊厳を確言するものです」と続けられた。

 教皇の今回の講話は、ヨハネ福音書に登場する「文化、性別、宗教の障壁」を乗り越えて井戸端でサマリアの女性と語られたイエスのエピソードに触発されたもので、「この出会いは、あらゆる境界を越えた神の臨在と、畏敬と謙遜をもって共に神を求める招きを示しています」と語られた教皇は、「これが、誠実さ、傾聴、相互の豊かさに基づく対話の真髄を明らかにしています… サマリアの女性は、霊と真実において実現される礼拝の新たな理解を見出したのです」と述べられた。

 講話の最後に教皇は、「祈りは、私たちの態度、思考、言葉、行動を変容させる力を持ちます」とされ、参列者全員に黙祷の時間を取るよう呼びかけられた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年10月29日

・「戦いで荒廃した世界で尊厳・正義・信頼を育む教育を」ー教皇、教育をテーマとした使徒的書簡『新しい希望の地図を描く』で+全文英語版

教皇レオ14世、教育をテーマとした使徒的書簡に署名 2025年10月27日 バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇レオ14世、教育をテーマとした使徒的書簡に署名 2025年10月27日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (ANSA)

 「教育界の聖年」の初日の27日、教皇レオ14世が、教育をテーマとした使徒的書簡『新しい希望の地図を描く(仮訳)』に署名された。

 署名は、27日夕方、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた、教皇庁立大学の学生のためのミサの開始前に行われた。

 署名の翌日、28日発表の、教皇のこの使徒的書簡は、『新しい希望の地図を描く(仮訳)』とタイトルされたもので、第二バチカン公会議公文書『キリスト教的教育に関する宣言』の公布(1965年10月28日)から60年を機会に記された。

 中央祭壇の前に設けられた席に着かれた教皇レオ14世は、「上智の座」である聖母の眼差しのもとに、教皇庁文化教育省長官ジョゼ・トレンティノ・デ・メンドンサ枢機卿とミサ参加者らが見守る中、同文書に署名を行われた。

(編集「カトリック・あい」)

 

(2025.10.28 Vataican News)

 10月28日に発表された使徒的書簡『希望の新たな地図を描く』は、公会議宣言『教育の重大性』発表60周年を記念するものだ。教皇はこの文書で、同宣言の理念を再確認し拡大解釈し、現代の課題に応用している。

 基礎教育すら受けられない数百万の子どもたち、戦争・移民・不平等・貧困が引き起こす教育危機を顧みつつ、教皇は現代のキリスト教教育がどう応答すべきかを問う。2025年10月27日に署名され、公会議宣言Gravissimum Educationis発表60周年を記念して発表された使徒的書簡『新たな希望の地図を描く』において、教皇は『Gravissimum Educationis』の洞察が、今日の分断化・デジタル化された環境においても依然として関連性を持ち、教育コミュニティが創造性をもって橋を架け、市民的・職業的形成を提供するよう鼓舞し続けていると指摘している。この方向性は、第二バチカン公会議によって初めて示され、教会にとって霊的・教育的な宝である豊かな活動とカリスマを生み出してきた。

*教育カリスマとしての生きた応答

 書簡は、教育カリスマが固定された公式ではなく、各時代の必要に応える生きた応答であることを強調する。聖アウグスティヌスが「真実と自由への渇望を目覚めさせる者」こそ真の教育者だと教えたことを想起しつつ、教皇は修道共同体から托鉢修道会、そしてスコラ思想とイグナチオの霊性が融合した『ラティオ・スディオルム』に至る伝統を概観する。

 教皇は、聖ヨセフ・カラサンツ、聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール、聖マルセラン・シャンパニャ、聖ヨハネ・ボスコといった教育者たちの貢献を想起する。彼らはそれぞれ、貧しい人々や社会から疎外された人々に奉仕する独自の教育方法を推進した。また、女子教育・移民・恵まれない者への教育機会を拡大した女性修道者や信徒——ビセンタ・マリア・ロペス・イ・ビクーニャ、フランチェスカ・カブリニ、ジョセフィーヌ・バキータ、マリア・モンテッソーリ、キャサリン・ドレクセル、エリザベス・アン・セトン——の先駆的な証しを強調する。

*教育という共有された使命

 教皇は、教育が常に教師、生徒、家族、管理者、司牧者、市民社会が共に参加する共同の営みであることを強調する。聖トマス・アクィナスと共に教育界の共同守護聖人に列せられた聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの思想を、深い人間性と結びついた知的厳密性の模範として想起する。

 教皇は共感と開放性による教育環境の刷新を促し、教育は知識と心、判断力を統合し人間全体を形成すべきだと主張する。カトリック学校・大学は探究が導かれ支援される場であり、抑圧される場であってはならない。教育は奉仕の召命として理解され、時間・信頼・能力・思いやりを提供し、正義と慈悲を結びつけるべきだと付け加える。

*人間を中心として

 この書簡は、教育を機能的な訓練や経済的生産性に還元することへのパウロ6世の警告を再確認する。レオ14世教皇は、教育は人間の尊厳と共通善に奉仕しなければならないと記す。人は測定可能な技能の集合体や予測可能なデジタルプロファイルに閉じ込められるべきではなく、顔と物語と召命を持つ唯一無二の個人として認識されなければならない。

*葛藤の中での信頼回復

 教皇はノスタルジーに溺れることなく、考察を確固として現代に据える。教育を導く原理を恒星のイメージで表現し、真理は交わりの中で発見され、自由は責任を伴い、権威は奉仕として行使されねばならないと強調する。

 教皇はカトリック教育に対し、恐怖と分断に彩られた世界で信頼を再構築し、民族や国家間の兄弟愛を育む共有の帰属意識を培うよう呼びかける。

*信仰・文化・生活の織りなすもの

 ペルー・チクラヨ教区での奉職時代を振り返り、教皇は教育を献身と忍耐によって築かれる漸進的な成長の旅と位置づける。カトリック学校を、信仰・文化・生活が調和して結ばれた共同体として提示する。

 技術的更新だけでは現代の課題に対応できず、必要なのは洞察力と一貫したビジョンであると記す。教育者の知的・精神的証しは、教室での指導と同様に重要である。このため、教師の養成—学術的、教育的、文化的、精神的—はカトリック教育の使命に不可欠と述べられる。

*家庭という第一の教育者

 教皇は、家庭が依然として教育的役割を担う第一かつ根本的な場であることを再確認する。他の機関は補助的役割を果たすことはできても、決してその代わりにはなりえない。家庭、学校、そしてより広いコミュニティ間の協力は、傾聴、責任の共有、相互信頼に基づいて不可欠である。

 相互に結びついた世界において、養成もまた相互に結びついていなければならない。教皇は、教区・教区内の学校、大学、専門機関、運動団体、デジタル・牧的イニシアチブ間のより一層の協力を促す。方法や構造の違いは、障害ではなく資源として捉え、一貫性と実りある全体形成に寄与すべきだと指摘する。未来は協力の深化と目的の一致を要求すると述べている。

*社会的正義と環境的正義の連結

 この書簡は、総合的教育が人間のあらゆる側面を統合し、信仰を単なる追加科目ではなく、あらゆる学びに命を吹き込む息吹として扱うことを強調する。このようにしてカトリック教育は、現代の喫緊の課題に応える総合的人間主義の育苗床となる。

 教皇はこの理念を、紛争と暴力に傷ついた世界の中に位置づける。平和のための教育は受動的ではなく能動的であると説明し、攻撃性を拒絶し、和解を教え、慈悲と正義の言葉を育むと述べる。この使命を社会正義と環境正義の連結の必要性と結びつけ、地球が苦しむ時、貧しい人々が最も苦しむことを読者に想起させる。したがって教育は、単に有利な選択ではなく正しい選択ができる良心を形成し、持続可能で質素な生活様式を促進するものでなければならない。

*人類に奉仕する技術

 教皇レオ14世は再び第二バチカン公会議の教えに依拠し、教育を市場原理や金銭的利益に隷属させることへの警戒を促す。技術は人間関係や共同体生活を弱めるのではなく、学びを豊かにする責任ある使用を呼びかける。

 魂を欠いた純粋な技術的効率性や、人間の精神を貧しくする画一的な知識に対して警鐘を鳴らす。いかなるデジタルシステムも、教育を真に生き生きとしたものにする人間の能力―想像力、芸術、創造性、共感、そして失敗から学ぶ意欲さえも―に取って代わることはできないと指摘する。人工知能やデジタル環境は、倫理的考察と人間の尊厳、正義、労働の価値への配慮によって導かれなければならないと付け加える。

*出会いへの文化を目指して

 教皇フランシスコと『教育に関するグローバル・コンパクト』の遺産を踏まえ、教皇レオ14世は三つの現在の優先事項を特定する:若者の深みへの探求に応える内面的生活の育成、アルゴリズムよりも人間を優先する人道的なデジタル文化の形成、そして平和、対話、和解の道を次世代に教育することである。

 教皇は、競争ではなく協力、硬直した階層構造ではなく共有された識別によって特徴づけられる新たな教育文化を呼びかけている。

*霊の交響曲

 結論として、この書簡は教育者に対し、癒す言葉を用い、開かれた識別力ある心を保ち、勇気と寛大さをもって今日の課題に立ち向かうよう招いている。教皇は現代の現実的な困難—ハイパーデジタル化による注意力の断片化、脆弱な人間関係、社会的不安、不平等—を認めている。

 こうした脅威に対して、教皇は包摂の精神と福音的な無償の精神を呼びかけ、それが正義と連帯の具体的な行為として現れるよう求めています。教育が貧しい人々を見失うとき、それはその魂そのものを失うと教皇は警告している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(2025.10.28 バチカン放送)

教皇レオ14世は、10月28日、教育をテーマとした使徒的書簡、『新しい希望の地図を描く(仮訳)』を発表された。

同文書(原題 DISEGNARE NUOVE MAPPE DI SPERANZA)は、第二バチカン公会議の公文書『キリスト教的教育に関する宣言』(GRAVISSIMUM EDUCATIONIS)の公布(1965年10月28日)から60年を機会に記された。

この文書は序言を含む11のブロックから構成されている。

 序言において、レオ14世は、公布60年を迎えた公会議文書『キリスト教的教育に関する宣言』について、「人間生活における教育の極めて重要な意義と現代性」を主題とし、「教育は付随的な活動ではなく、福音宣教そのものの基盤を形成し、福音が教育的行為・関係・文化となるための具体的方法である」ことを教会に思い出させるもの、と述べている。

「複雑で、断片化、デジタル化された教育環境」を生きる今日だからこそ、立ち止まり、「世紀にわたり自らを刷新し、教育のあらゆる側面に前向きな刺激を与え続けてきた『キリスト教的教育の宇宙観』を取り戻す」ように教皇は招く。

「カトリック教育の歴史は、聖霊の働きの歴史である。『母であり師』である教会は、支配のためではなく奉仕のためにある。それは信仰を生み出し、自由の成長を見守り、皆が『命を受けるため、しかも豊かに受けるため』(ヨハネ10,10)に、神なる師の使命を引き受ける」と教皇は記している。

 ダイナミックな歴史

そして、教皇は、たとえや格言をもって教えた砂漠の教父たちの時代から、ギリシャとローマの伝統に聖書の叡智を継木した聖アウグスティヌス、その伝統を継承し文化に奉仕してきた修道院生活、思索を科学的領域にまで発展・体系化した托鉢系の修道会や、教育における社会的先見性を育てた各種の修道会の歴史をたどり、また聖イグナチオ・デ・ロヨラ、聖ヨセフ・カラサンス、聖ヨハネ・バプティスタ・デ・ラ・サール、聖ヨハネ・ボスコら、学問や教育のあり方に影響を与えた聖人たちを振り返っている。

 生きた伝統

キリスト教教育は共同作業であり、誰も単独で教育を行うことはできない。教育共同体とは、教師、生徒、家族、事務職員、司祭、市民社会が一体となり、いのちを生み出す「わたしたち」である。そして、その基礎として常にあるものは、神の似姿として造られた人間である(創世記1,26)。

「宗教的真理は、単に知識全体の一部ではなく、その条件である」 という聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉を引用しつつ、教皇はこのたびの「教育界の聖年」を機に、同聖人を、聖トマス・アクィナスと一緒に、教会の教育的使命の保護者として宣言する喜びを述べている。

教育するとは、希望の行為であり、人類の未来に見る約束を表明するものとして、絶えず新たにされる情熱である。

 『キリスト教的教育に関する宣言』が方向づけるもの

公会議文書『キリスト教教育に関する宣言』は、すべての人が教育を受ける権利を再確認し、家庭を人間性の最初の学舎として位置づけている。教会共同体は、信仰と文化を統合し、すべての人の尊厳を尊重し、社会と対話する環境を支えるよう求められている。

キリスト教教育は、精神性、知性、愛情面、社会性、身体性といった、人間全体を包括するものである。

カトリック教育は、紛争や恐怖が広がる世界において、信頼を再構築する使命を担っている。われわれは孤児ではなく、神の子であることを思い出させることで、その自覚から兄弟愛が生まれる。

 人間の中心性

人間を中心に据えるとは、アブラハムの(天を仰いで、星を数える)彼方への眼差し(創世記15,5)を教えること、人生の意味、不可侵の尊厳、他者に対する責任を発見させることである、と教皇は言う。教育とは、単なる知識の伝達ではなく、徳を学ぶことである。教育は、奉仕することができる市民、証しができる信者、より自由で、もう独りではない人々を育成する。

カトリック校は、信仰、文化、生活が交わる環境である。単なる教育機関ではなく、キリスト教的な見方があらゆる教科や交流に浸透している生きた環境である。

教育者は雇用契約を超えた責任に召されている。彼らの証しは、授業と同様の価値を持つ。それゆえに、教師の科学的、教育的、文化的、精神的な育成は、決定的な要素となる。

家庭は教育の場として第一の役割を担い続ける。カトリック校は、親たちと協力する一方、親に取って代わるものではない。なぜなら「教育の任務、特に宗教教育の任務は、父母の第一の務め」だからである。

 アイデンティティと補完性

『キリスト教教育に関する宣言』は、すでに補完性の原則と、各地の教会の環境によって状況が異なるという事実を非常に重要視していた。その一方で、第二バチカン公会議は、教育を受ける権利とその基本原則を普遍的に有効なものとして規定している。

「キリスト教教育は、コレオグラフにたとえられる」と言うレオ14世は、ワールドユースデー・リスボン大会での教皇フランシスコの「人間を中心に据えた新しいコレオグラフの主役になってください。いのちというダンスの振付師になってください」という言葉を思い起こしている。

レオ14世は、カトリック教育を人間社会における「パン種」として示す。それは、相互性を生み、還元主義を乗り越え、社会的責任へと開く。今日のその課題は、源泉を見失うことなく、現代の問いに根ざした総合的なヒューマニズムを追求することである。

 被造物の観想

キリスト教的人類学は、尊重、個人的な寄り添い、識別、そして人間性のあらゆる側面の発達を促進する教育スタイルの基盤となっている。中でも、被造物の観想を通じて実現、強化される霊感は、決して二次的なものではない。

環境への責任は、技術的なデータだけで完結するものではない。それらは必要だが、それだけでは足りない。そのために頭、心、手を使う教育が必要である。

平和とは紛争が存在しないことではなく、暴力を拒む柔和な力である。「武装せず、武装を解かせる」平和教育は、攻撃的な言葉や人を裁く見方という武装を解き、いつくしみと、和解した正義の言葉を学ばせる。

 星の集まりとしての教育

レオ14世は、生きた多様なネットワークであるカトリック教育の世界を、「星座・星の集まり」という言葉を用いて表現している。それは、小教区のスクールや、カレッジ、大学、高等教育機関、職業訓練センター、運動団体、デジタルプラットフォーム、サービスラーニング、学校・大学・文化における司牧活動などからなる。それぞれの「星」が独自の輝きを放ち、それらが集まって一つの指針を描き出す。

 新しい空間を航海する

60年前、『キリスト教教育に関する宣言』は、メソッドや表現の更新を励ますことで、信頼の季節を切り開いた。今日、この信頼はデジタル環境の中で試されている、と教皇は述べる。

技術は、人間に奉仕すべきであり、人間に取って代わるべきではない。学習のプロセスを豊かにすべきであり、人間関係やコミュニティを貧しくすべきではない。ビジョンを持たないカトリック系の大学や学校は、魂のない効率主義や知識の標準化に陥る危険がある。それはやがて、霊的な貧しさをもたらすだろう。

大事な点は、技術そのものではなく、その使い方にある。人工知能とデジタル環境は、尊厳や、正義、労働の保護に向けられるべきである。それは公共の倫理と参加の規範に基づき管理され、それに対応できる神学的・哲学的考察を伴う必要がある。

 教育協定という道しるべの星

こうした中、道しるべとなる星の一つは、グローバル教育協定である。レオ14世は、前任者フランシスコから託されたこの預言的な遺産を、感謝と共に受け取っている。

グローバル教育協定は、普遍的な兄弟愛を育むための協力関係とそのネットワークを築くように招いている。人間を中心に据える、子どもや若者への傾聴、女性の尊厳と完全な参加の促進、第一の教育者である家庭への認識、受容と包摂に心を開く、人間に奉仕する経済と政治の刷新、私たちの共通の家の保護からなる7つの行程は、わたしたちの基盤であり続ける。

 新しい希望の地図

『キリスト教教育に関する宣言』公布から60年、教会は豊かな教育の歴史を記念する傍ら、時代のしるしに照らして、その提案を更新するという課題にも直面している。

カトリック教育の「星座」は、いかに伝統と未来を矛盾なく結びつけるかという問題にインスピレーションを与えるイメージである。それは、新しい存在と奉仕の形に向けて広がる、生きた伝統である。星座は、様々な経験のあいまいで平板な連鎖として矮小されてはならない。星座を単なるつながりではなく、驚異と刷新に満ちた組み合わせとして捉えてみよう。これらは、福音への忠実さを失うことなく、様々な挑戦の間を、希望そして勇気ある見直しをもって、航海する力を包有している。

カトリック教育は灯台となり得る。それはノスタルジックな避難所ではなく、識別と、教育的刷新、預言的な証しの実験室である。新しい希望の地図を描くこと、レオ14世はそれを緊急の務めとして示している。

 

 

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*使徒的書簡の全文英語版からの全文暫定和訳(「カトリック・あい」)

使徒的書簡 新たな希望の地図を描く 教皇レオ14世 公会議宣言60周年を記念して

『教育の重大性』

1. 前文

1.1. 新たな希望の地図を描く。2025年10月28日は、人間の生活における教育の極めて重要な意義と現代的意義について述べた公会議宣言『教育の重大性』の60周年を記念する日である。この文書において、第二バチカン公会議は教会に対し、教育が補助的な活動ではなく、福音宣教の基盤そのものを形成するものであることを想起させた。すなわち、福音は教育的な行為、関係性、文化として具体化する道なのである。今日、急速な変化と方向を見失わせる不確実性に直面する中で、この遺産は驚くべき回復力を示している。教育共同体がキリストの言葉に導かれるとき、後退するのではなく活力を取り戻し、壁を築くのではなく橋を架ける。学校、大学、職業・市民教育、学校・青少年牧会、研究において、知識と意味を伝える新たな可能性を開く創造性をもって応える。なぜなら福音は古びることなく「すべてのものを新しくする」(黙示録21:5)からである。各世代はそれを再生をもたらす新たなものとして聞く。各世代は福音と、その種を蒔き増殖させる力を発見する責任を負っている。

1.2. 私たちは複雑で断片化され、デジタル化された教育環境の中に生きている。まさにこの理由から、立ち止まり「キリスト教パイデイアの宇宙観」へと視線を再び向けることが賢明である。このビジョンは、何世紀にもわたり自らを刷新し、教育のあらゆる多面的な側面に前向きな刺激を与え続けてきた。福音は起源より「教育的星座」を生み出してきた。それは謙虚でありながら力強く、時代を解釈し、信仰と理性、思考と生活、知識と正義の統一を保つ経験である。荒天時には命綱となり、穏やかな時には広げられた帆となった。航路を導く夜の灯台である。

1.3. 教令『教育に関する重要事項』(Gravissimum educationis)はその力をまったく失っていない。受容以来、今日なお道を示す一連の事業とカリスマを生み出してきた:学校や大学、運動や研究所、信徒団体、修道会、国内外のネットワークである。これらの生きた共同体は、21世紀を貫き、最も差し迫った課題に応えることのできる精神的・教育的遺産を確固たるものにしてきた。この遺産は石に刻まれたものではない。それは道筋を示し続け、旅の美しさを語りかける羅針盤である。今日の期待は、60年前に教会が直面したものに劣らない。むしろ拡大し、より複雑化している。世界中で依然として初等教育を受けられない何百万もの子どもたちを前に、どうして行動を起こさずにいられようか。戦争、移民、不平等、様々な形態の貧困によって引き起こされる劇的な教育上の緊急事態に直面して、私たちの取り組みを新たにすることの緊急性をどうして感じないことができようか。私の使徒的勧告『ディレクシ・テ』で述べたように、教育は「キリスト教的愛の最も高い表現の一つ」[1]である。世界はこの形の希望を必要としている。

 

2. 躍動する歴史

2.1. 教会は「母であり教師」[2]である。それは優越性によるのではなく、奉仕を通してである。教会は自由の成長に寄り添い、神の師の使命を引き受ける。それは「人々がいのちを得、それを豊かに持つ」ためである(ヨハネ10:10)。歴代の教育様式は、真理と善へと召された神の像としての人のビジョンを示し、この召命に奉仕する多様な方法を示してきた。教育のカリスマは硬直した公式ではない。それは各時代の必要に対する独創的な応答である。

2.2. 初期の世紀において、砂漠の教父たちは寓話や格言を通して知恵を教えた。彼らは本質への道、言葉の規律と心の守護を再発見し、あらゆる場所に神を見出す視線の教育学を伝えた。聖アウグスティヌスは、聖書の知恵をギリシャ・ローマの伝統に接ぎ木し、真の教師とは真理への渇望を喚起し、自由を教育して徴を読み取り内なる声に耳を傾けさせる者であると理解した。修道生活はこの伝統を最も隔絶された地で継承し、数十年にわたり古典作品を研究・講評・教授した。この文化奉仕の黙想的労苦なくしては、多くの傑作が今日まで伝わることはなかったであろう。その後、「教会の中心」から最初の大学が誕生し、その起源から「人類の益となる知識の創造と普及における比類なき中心」[3]であることを示した。その講堂において、思索的思考は托鉢修道会を介して、自らを堅固に構造化し、科学の最前線へと押し進める可能性を見出した。多くの修道会がこれらの知識の分野で歩み始め、教育を教育学的に革新的かつ社会的に先見的な方法で豊かにした。

2.3. それは様々な形で表現されてきた。Ratio Studiorum(教育綱領)では、スコラ哲学の伝統の豊かさがイグナチオの霊性と融合し、体系的でありながら学際的で実験に開かれたカリキュラムを適応させている。17世紀のローマでは、聖ヨセフ・カラサンツが貧しい人々のための無料学校を開設した。彼は読み書きや計算能力が、単なる技能以前に尊厳の問題であると確信していた。フランスでは、聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サールが「労働者や庶民の子どもたちが教育制度から排除される不正義」[4]を痛感し、キリスト教学校兄弟会を創設した。19世紀初頭、再びフランスにおいて、聖マルセラン・シャンパニャは「教育へのアクセスが依然として少数の特権であった時代に、特に最も必要とする子どもや若者への教育と福音宣教の使命に全身全霊を捧げた」[5]。同様に、聖ヨハネ・ボスコは「予防法」によって規律を理性に、そして親密さへと変容させた。ビセンタ・マリア・ロペス・イ・ビクーニャ、フランチェスカ・カブリニ、ジョセフィーヌ・バキータ、マリア・モンテッソーリ、キャサリン・ドレクセル、エリザベス・アン・セトンといった勇気ある女性たちは、少女たち、移民、社会から疎外された者たちのために門戸を開いた。『ディレクシ・テ』で明確に述べたことを繰り返す:「キリスト教信仰にとって、貧しい人々の教育は恩恵ではなく義務である」[6]。この実践の系譜は、教会において教育学が決して抽象的な理論ではなく、血肉と情熱と歴史であることを証ししている。

 

3. 生ける伝統

3.1. キリスト教教育は共同の営みである:教育は単独で行われるものではない。教育共同体とは、教師、生徒、家族、管理・サービス職員、司牧者、市民社会が生命を生み出すために集う「私たち」である[7]。この「私たち」は、水が「昔からこうしてきた」という沼に停滞するのを防ぎ、流れ、養い、潤すことを強いる。基盤は変わらない:神のかたち(創世記1:26)として、真理と関係性を担う人間である。ゆえに信仰と理性の関係性は選択的課題ではない:「宗教的真理は一般知識の一部分ではなく、その条件である」[8]。この教育の世界の聖年の文脈において、聖トマス・アクィナスと共に教会の教育使命の共同守護聖人として宣言する喜びを深く感じる聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉は、知的責任と厳密さを持ちつつ深く人間的な知識への取り組みを新たにするよう招いている。また、信仰(fides)が理性(ratio)のみと結びついた啓蒙主義の罠に陥らないよう注意しなければならない。浅瀬から抜け出すには、共感的で開かれた視座を取り戻し、現代の人間が自らをどう理解しているかをより深く把握し、教育を発展・深化させる必要がある。だからこそ、知識から欲望と心を切り離してはならない。それは人間を分裂させることに等しい。カトリック大学や学校は、疑問が封じられず、疑念が排除されるのではなく、共に歩まれる場所である。そこでは心が心と対話し、方法は他者を脅威ではなく財産として認める傾聴である。Cor ad cor loquitur(心は心に語りかける)は聖ヨハネ・ヘンリー・ニューマン枢機卿のモットーであり、聖フランシスコ・サレジオの書簡に由来する:「言葉の多さではなく、心の誠実さが人々の心に響く」。

3.2. 教育とは希望の行為であり、人類の未来に宿る約束を現すゆえに新たになる情熱である[9]。教育行為の特異性、深み、広がりは、プラトンの『ソクラテスの弁明』(30a–b)に記される「存在を花開かせること……魂を育むこと」という、神秘的でありながら現実的な営みである。それは「約束の職業」である:時間と信頼と技量を約束し、正義と慈悲を約束し、真実の勇気と慰めの癒しを約束する。教育とは、世代から世代へと受け継がれる愛の労働であり、断絶した関係性の布を縫い直し、言葉に約束の重みを回復させる営みである。「人は皆、真理に到達する能力を持つ。しかし他者の助けを得て進む時、その旅路ははるかに耐えやすいものとなる」[10]。真理は共同体の中で探求される。

 

4. 『教育に関する重要宣言』の指針

4.1. 公会議宣言『教育に関する重要宣言』は、あらゆる人の教育を受ける権利を再確認し、家族を人間性の最初の学校として示している。教会共同体は、信仰と文化を統合し、すべての人の尊厳を尊重し、社会との対話に取り組む環境を支えるよう招かれている。この文書は、教育を機能的な訓練や経済的手段に還元することへの警戒を促す。人は「スキルプロファイル」ではなく、予測可能なアルゴリズムに還元できる存在ではない。人は顔であり、物語であり、召命である。

4.2. キリスト教的形成は人間全体——霊的、知的、感情的、社会的、身体的——を包含する。それは手作業と理論的技能、科学と人文主義、技術と良心を対立させるのではなく、専門性に倫理を浸透させ、倫理を抽象概念ではなく日常の実践とすることを求める。教育の価値は効率性の軸のみで測られるのではない。尊厳、正義、公益に奉仕する能力によって測られるのである。この総合的人間観はカトリック教育学の礎であり続けねばならない。聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの思想に倣い、今日の教育を機能性や実用性のみで測ることを強いる厳格な功利主義的アプローチに抗うものである[11]。

4.3. これらの原則は過去の記憶ではない。それは指針となる星である。それらは、真理は共に探求されるものであること、自由は気まぐれではなく答えであること、権威は支配ではなく奉仕であることを語る。教育の文脈において、決して「問題の分析においても、具体的な解決策の提案においても、真理の独占を主張してはならない」[12]。むしろ、「物事がなぜ起こるのか、あるいはそれらにどう対処すべきかについて即座に答えを与えることよりも、それらにどう向き合うべきかを最もよく知ることが重要である。目的は問題と向き合う方法を学ぶことにある。なぜなら問題は常に異なるからだ。あらゆる世代は新しく、新たな挑戦、夢、疑問に直面するからである」[13]。カトリック教育は、紛争と恐怖に裂かれた世界において信頼を再構築する任務を負っている。私たちは孤児ではなく息子や娘であることを思い起こすこと。この自覚から兄弟愛が生まれるのである。

 

5. 人間中心主義

5.1. 人を中心に据えるとは、アブラハムの先見性(創世記15:5)をもって物事を見るよう教育することを意味する。すなわち、人生の意味、不可侵の尊厳、他者への責任を発見する手助けをすることである。教育は単なる内容の伝達ではなく、徳の学びでもある。奉仕できる市民と証しできる信者、より自由で孤独ではない男女を育成する。そして、形成は即興でできるものではない。私は、愛するチクラヨ教区で過ごした年月を懐かしく思い出す。サン・トリビオ・デ・モグロベホ・カトリック大学を訪れ、学界に向けてこう語る機会を得たのだ。「私たちは生まれながらの専門家ではない。あらゆる大学の歩みは、一歩一歩、一冊一冊、一年一年、犠牲を重ねて築かれるのだ」[14]。

5.2. カトリック学校は、信仰と文化と生活が交錯する環境である。単なる機関ではなく、あらゆる教科とあらゆる交流にキリスト教的視点が浸透する生きた環境だ。教育者は労働契約を超えた責任を求められている。彼らの証しは授業と同じ価値を持つ。ゆえに教師の養成―科学的、教育的、文化的、霊的―が決定的に重要なのである。共通の教育使命を共有するには、共通の養成の道も求められる。「現代の教育的課題を把握し、それらに対処する最も効果的な手段を提供できる、初期かつ継続的な養成計画…これは教育者が学び知識を深める意欲を持ち、方法論の刷新と更新に開かれていると同時に、霊的・宗教的養成と分かち合いにも開かれていることを意味する」[15]。技術的な更新だけでは不十分である。傾聴する心、励ます眼差し、見極める知性を育む必要がある。

5.3. 家庭は依然として教育の第一の場である。カトリック学校は保護者と協力するが、彼らに代わるものではない。なぜなら「その責務は…主に彼らに帰属する」[16]からである。教育同盟には意図性、傾聴、共同責任が求められる。それはプロセス、ツール、共有された評価によって構築される。それは困難な作業であると同時に祝福でもある:機能すれば信頼を生むが、失敗すれば全てが脆くなる。

 

6. 同一性と補完性

6.1. Gravissimum educationis は既に補完性の原則と、異なる地域の教会的状況に応じて事情が異なるという事実に大きな重要性を認めていた。しかし第二バチカン公会議は、教育を受ける権利とその基本原則を普遍的に有効なものとして明文化した。親と国家の双方に課せられた責任を強調し、生徒が「正しい良心をもって道徳的価値を評価する」[17]ことを可能にする教育の提供を「神聖な権利」と位置づけ、市民当局にこの権利を尊重するよう求めた。また、教育を労働市場や、しばしば非情で非人間的な金融の論理に従属させることへの警戒も促した。

6.2. キリスト教教育は振り付けに似ている。故教皇フランシスコはこう述べた:「人間を中心に据えることで、人生という『踊り』を尊重する新たな『振り付け』を実現するよう努めよ」[18]。「人間全体」を育成するとは、分断化を避けることを意味する。真の信仰は追加された「科目」ではなく、他のあらゆる科目に酸素を供給する息吹である。こうしてカトリック教育は人間共同体における酵母となる:相互性を生み出し、還元主義を克服し、社会的責任へと開かれる。今日の課題は、その源を見失うことなく現代の課題に取り組む、総合的人間主義を追求する勇気を持つことである。

 

7. 創造の黙想

7.1. キリスト教的人間観は、尊重、個人に合わせた伴走、識別、そして人間性のあらゆる側面の発達を促進する教育スタイルの基盤である。その中でも霊的霊感は二次的なものではなく、創造の観想を通じて成就され強化される。この側面はキリスト教哲学・神学の伝統において新たなものではない。そこでは自然の研究もまた、この世界における神の痕跡(vestigia Dei)を示す目的を持っていた。『六日創造論考』(Collationes in Hexaemeron)において、聖ボナヴェントゥラは次のように記している。「全世界は影であり、道であり、刻印である。それは外側から書かれた書物(エゼキエル2:9)である。なぜなら、あらゆる被造物には神聖な原型の反映が存在するが、それは闇と混ざり合っているからだ。したがって世界は、光と混ざり合った不透明さのような道である。この意味で、それは道なのである。窓から差し込む一筋の光が、ガラスの各部分の異なる色に応じて色づくのを見るように、神の光線はあらゆる被造物において異なって反射し、異なる性質を帯びる」[19]。これは、創造の美とその保全に収束する多様な性格に合わせた教育の柔軟性にも当てはまる。それは「学際的かつ分野横断的な…知恵と創造性をもって遂行される」教育プロジェクトを必要とする[20]。

7.2. 共通の人間性を忘却することは分裂と暴力を生み出す。そして大地が苦しむ時、貧しい人々が最も苦しむ。カトリック教育は沈黙してはならない。社会的正義と環境的正義を結びつけ、節度ある持続可能な生活様式を促進し、単に都合の良い選択ではなく正義に基づく選択ができる良心を形成しなければならない。あらゆる小さな行動——無駄を避け、責任ある選択をし、共通の善を守る——が文化的・道徳的リテラシーを構成する。

7.3. 生態学的責任は技術的データに限定されない。それらは必要だが十分ではない。知性、心、そして手を伴う教育が必要である:新たな習慣、共同体の在り方、徳ある実践。平和とは紛争の不在ではない。それは暴力を拒む穏やかな力である。「武装せず、武装解除する」[21]平和の教育は、攻撃的な言葉や批判的な視線という武器を置き、慈悲と和解した正義の言葉を学ぶことを教えてくれる。

 

8. 教育の星座

8.1. 私が「星座」と表現するのは、カトリック教育の世界が生き生きとした多元的なネットワークだからである:教区学校・カレッジ、大学・高等教育機関、職業訓練センター、運動団体、デジタルプラットフォーム、サービス・ラーニング活動、そして学校・大学・文化牧会プログラム。それぞれの「星」は独自の輝きを持つが、共に航路を示す。かつては競争があったが、今や私たちは各機関に収束を求める:一致こそが私たちの最も預言的な力である。

8.2. 方法論的・構造的な差異は重荷ではなく資源である。カリスマの多様性は、適切に調整されれば、一貫性と実りある全体像を構成する。相互接続された世界では、ゲームは二つの盤上で行われる:ローカルとグローバル。教師と学生の交流、大陸を越えた共同プロジェクト、優良事例の相互承認、宣教的・学術的協力が必要である。未来は、より協働し共に成長することを学ぶことを求めている。

8.3. 星座は無限の宇宙に自らの光を映す。万華鏡のように、その色彩は混ざり合い、さらなる色彩の変奏を生み出す。カトリック教育機関においても同様のことが起こる。これらの機関は、市民社会、政治・行政当局、生産部門や専門職の代表者との出会いと対話に開かれている。理論を経験と実践で支えるため、教育の道を共有し改善するべく、彼らとの協働をさらに積極的に推進することが求められる。歴史はまた、私たちの機関が、信仰を持たない者や他の信仰を公言する者であっても、真に人間的な教育を望む学生や家族を受け入れてきたことを教えている。このため―すでにそうであるように―私たちは、一般信徒、修道者、家族、学生が、公的・私的機関と共に教育使命の責任を分かち合う、参加型の教育共同体を促進し続けなければならない。

 

9. 新たな領域への航海

9.1. 60年前、『教育に関する教令』(Gravissimum educationis)は信頼の時代を告げた。それは方法と言語の更新を促した。今日、この信頼はデジタル環境によって試されている。技術は人間に奉仕すべきであり、人間に取って代わるべきではない。学習プロセスを豊かにすべきであり、人間関係や共同体を貧しくすべきではない。ビジョンを持たない大学やカトリック学校は、魂のない効率性、知識の標準化に陥る危険があり、それはやがて精神的貧困へとつながる。

9.2. こうした領域に根ざすためには牧会的創造性が求められる:デジタル領域を含む教師養成の強化、能動的教授法の促進、サービス・ラーニングと責任ある市民性の推進、そしてあらゆる技術恐怖症の回避である。技術に対する私たちの姿勢は決して敵対的であってはならない。なぜなら「技術的進歩は神の創造計画の一部」[22]だからだ。しかしそれは、教育計画・評価・プラットフォーム・データ保護・公平なアクセスにおける識別力を必要とする。いずれにせよ、教育を人間たらしめるもの―詩、皮肉、愛、芸術、想像力、発見の喜び、さらには成長の機会としての失敗からの学び―をアルゴリズムが代替することはできない。

9.3. 決定的な点は技術そのものではなく、その活用方法である。人工知能とデジタル環境は、尊厳・正義・労働の保護に向けられ、公共倫理と参加の基準に基づいて統治され、適切な神学的・哲学的考察を伴わねばならない。カトリック大学には決定的な任務がある。それは「文化への奉仕」を提供すること、すなわち教授職を減らし、不必要な階層なしに共に座る机を増やし、歴史の傷に触れ、聖霊に導かれて人々の生活から湧き出る知恵を求め続けることである。

 

10. 教育に関するグローバル・コンパクトの指針

10.1. 我々の道を導く星の一つが「教育に関するグローバル・コンパクト」である。教皇フランシスコが託したこの預言的な遺産を感謝して受け入れる。これは普遍的兄弟愛を育むための同盟とネットワーク形成への招きである。その七つの道筋は今も私たちの礎である:人間を中心におくこと;子どもや若者の声に耳を傾けること;女性の尊厳と完全な参加を促進すること;家族を第一の教育者として認めること;受け入れと包摂に向けて自らを開くこと;人類に奉仕する経済と政治を刷新すること;そして私たちの共通の家を大切にすること。これらの「星」は世界中の学校、大学、教育共同体にインスピレーションを与え、人間化のための具体的なプロセスを生み出してきた。

10.2. 『教育に関する重要教書』発表から60年、教育協定から5年を経た今、歴史は新たな切迫感をもって我々に呼びかけている。急速かつ深い変化が、子どもや青少年を前例のない脆弱性に晒している。これを保存するだけでは不十分である。再始動させねばならない。全ての教育機関に対し、新たな世代の心に響く季節を幕開けし、知識と意味、能力と責任、信仰と生活を再構築するよう求める。この協定は、より広範な「グローバル教育の星座」の一部である。カリスマと機関は多様でありながら、統一された輝かしい設計図を形成し、現代という暗闇の中を歩む私たちの足取りを導く。

10.3. 七つの道に加え、三つの優先事項を提示したい。第一は内面的生活に関するものである。若者たちは深みを求め、沈黙と識別、良心と神との対話のための空間を必要としている。第二にデジタル人間性:技術とAIの賢明な使用を教育し、アルゴリズムより人間を優先させ、技術的・感情的・社会的・精神的・生態的知性を調和させよう。第三に非武装かつ武装解除する平和:非暴力の言語、和解、壁ではなく橋を架けることを教育しよう。「平和をつくる者は幸いである」(マタイ5:9)が学びの方法と内容となる。

10.4. カトリック教育ネットワークが他に類を見ない広がりを持つことを私たちは認識している。これはすべての大陸にまたがる星座であり、特に低所得地域に存在感を示している:教育機会の流動性と社会正義の具体的な約束である[23]。この星座は質と勇気を要求する:教育計画、教員養成、ガバナンスにおける質;最貧層へのアクセス確保、脆弱な家庭の支援、奨学金と包括的政策の推進における勇気。福音的無償性は修辞ではない。それは関係性の様式であり、方法であり、目標である。教育へのアクセスが特権である限り、教会は扉を開き新たな道を創造するよう努めねばならない。なぜなら「貧しい者を失う」ことは学校そのものを失うことに等しいからである。これは大学にも当てはまる。包摂的な視野と心の配慮が標準化から我々を救い、奉仕の精神が想像力を蘇らせ愛を再燃させるのである。

 

11. 希望の新たな地図

11.1. 『教育に関する教令』公布60周年を迎え、教会は豊かな教育の歴史を祝うと同時に、時代の徴しに照らして自らの提供内容を更新する緊急の課題に直面している。カトリックの「教育の星座」は、伝統と未来が矛盾なく絡み合う姿を示す感動的なイメージである。それは新たな存在と奉仕の形態へと広がる生きた伝統だ。星座とは、異なる経験の中立的で無機質な連鎖に還元されるものではない。鎖ではなく、星座を敢えて考えよう。その絡み合いは驚嘆と目覚めに満ちている。そこには福音への忠実さを失うことなく、希望をもって、また勇気ある見直しをもって困難を乗り越える力が宿る。我々は困難を認識している:過度のデジタル化は注意力を断片化し、関係性の危機は精神を傷つけ、社会的不安と不平等は欲望を消し去りかねない。しかし、まさにここでカトリック教育は灯台となり得る:ノスタルジックな避難所ではなく、識別力・教育的革新・預言的証しの実験室として。希望の新たな地図を描くこと――これが使命の緊急性である。

11.2. 教育共同体へ問う:言葉の武装を解き、目を上げ、心を守れ。言葉を解き放て。教育は論争ではなく、傾聴を知っている柔和さによって進むからだ。目を上げよ。神がアブラハムに言われたように「天を見上げ、星を数えよ」(創世記15:5):自らに問うことを知れ、どこへ向かうのか、なぜなのかと。心を守れ:意見より関係が先立ち、プログラムより人が先立つ。時と機会を無駄にしないでください。「アウグスティヌスの言葉を借りれば、私たちの現在は直感であり、指の間から滑り落ちる前に生き、活用すべき時なのです」[24]。最後に、愛する兄弟姉妹よ、使徒パウロの勧告を私のものとして受け入れます。あなたがたは「いのちの言葉にしっかりと立ち、世の光として輝く」べきです(フィリピ2:15-16)。

11.3. この歩みを聖母マリア、知恵の座(Sedes Sapientiae)ならびに聖なる教育者たちすべてに託します。司牧者、奉献生活者、信徒、教育機関の責任者、教師、学生の皆さんへ訴えます:教育の世界の奉仕者となり、希望の振付師となり、知恵のたゆまぬ探求者となり、美の表現を信頼をもって創造する者たれ。レッテルは減らし、物語を増やそう。不毛な対立を減らし、聖霊による調和を増やそう。そうすれば、私たちの星座は輝くだけでなく、私たちを導いてくれるでしょう。私たちを自由にする真理へ(参照 ヨハネ 8:32)、正義を確かなものとする兄弟愛へ(参照 マタイ 23:8)、失望させない希望へ(参照 ローマ 5:5)。

聖ペトロ大聖堂 2025年10月27日 60周年記念前日 レオ14世

*使徒的書簡の全文英語版以下の通り。

Apostolic Letter DRAWING NEW MAPS OF HOPE of Pope Leo XIV on the occasion of the 60th Anniversary of the Conciliar Declaration

Gravissimum educationis

 

1. Preamble

1.1. Drawing new maps of hope. 28 October 2025 marks the 60th anniversary of the Conciliar Declaration Gravissimum educationis, on the extreme importance and current relevance of education in human life. With that text, the Second Vatican Council reminded the Church that education is not an ancillary activity, but forms the very fabric of evangelization: it is the concrete way in which the Gospel becomes an educational gesture, a relationship, a culture. Today, in the face of rapid change and disorienting uncertainties, that legacy is showing surprising resilience. Where educational communities allow themselves to be guided by the word of Christ, they do not retreat, but are revitalized; they do not build walls, but bridges. They respond with creativity, opening up new possibilities for the transmission of knowledge and meaning in schools, universities, professional and civic training, school and youth ministry, and research, because the Gospel does not grow old but makes “all things new” (Rev 21:5). Each generation hears it as a regenerating novelty. Each generation is responsible for the Gospel and for discovering its seminal and multiplying power.

1.2. We live in a complex, fragmented, digitized educational environment. Precisely for this reason, it is wise to pause and refocus our gaze on the “cosmology of Christian paideia”: a vision that, over the centuries, has been able to renew itself and positively inspire all the multifaceted aspects of education. Since its origins, the Gospel has generated “educational constellations”: experiences that are both humble and powerful, capable of interpreting the times, of preserving the unity between faith and reason, between thought and life, between knowledge and justice. In stormy weather, they have been a lifeline; in calm weather, they have been a sail unfurled. A beacon in the night to guide navigation.

1.3. The Declaration Gravissimum educationis has lost none of its potency. Since its reception, it has given rise to a constellation of works and charisms that still guide the way today: schools and universities, movements and institutes, lay associations, religious congregations, and national and international networks. Together, these living bodies have consolidated a spiritual and pedagogical heritage capable of traversing the twenty-first century and responding to the most pressing challenges. This heritage is not set in stone: it is a compass that continues to point the way and speak of the beauty of the journey. Expectations today are no less than those the Church faced sixty years ago. Indeed, they have expanded and become more complex. Faced with the many millions of children around the world who still do not have access to primary education, how can we fail to act? Confronted with the dramatic educational emergencies caused by wars, migration, inequalities and various forms of poverty, how can we not feel the urgency to renew our commitment? Education, as I recalled in my Apostolic Exhortation Dilexi te, “is one of the highest expressions of Christian charity”[1]. The world needs this form of hope.

 

2. A dynamic history

2.1. The Church is “mother and teacher”[2] not by supremacy, but through service: she accompanies the growth of freedom, taking on the mission of the Divine Master so that everyone “may have life, and have it abundantly” (Jn 10:10). The educational styles that have succeeded one another show a vision of man as the image of God, called to truth and goodness, and a multiplicity of methods at the service of this calling. Educational charisms are not rigid formulas: they are original responses to the needs of each era.

2.2. In the early centuries, the desert Fathers taught wisdom through parables and apophthegms; they rediscovered the path to the essential, to discipline of speech and guardianship of the heart; they transmitted a pedagogy of the gaze that recognizes God everywhere. Saint Augustine, grafting biblical wisdom onto the Greco-Roman tradition, understood that the authentic teacher arouses the desire for truth, educates freedom to read the signs and listen to the inner voice. Monasticism perpetuated this tradition in the most inaccessible places, where for decades the classical works were studied, commented on and taught, so much so that without this silent work in the service of culture, many masterpieces would not have survived to the present day. Then, “from the heart of the Church”, the first universities were born, which from their origins proved to be “an incomparable centre of creativity and dissemination of knowledge for the good of humanity”[3]. In their halls, speculative thought found, through the mediation of the Mendicant Orders, the possibility of structuring itself solidly and pushing itself to the frontiers of science. Many religious congregations took their first steps in these fields of knowledge, enriching education in a pedagogically innovative and socially visionary way.

2.3. It has expressed itself in many ways. In the Ratio Studiorum, the richness of the scholastic tradition blends with Ignatian spirituality, adapting a curriculum that is as articulated as it is interdisciplinary and open to experimentation. In seventeenth-century Rome, Saint Joseph Calasanz opened free schools for the poor, sensing that literacy and numeracy are a matter of dignity even before they are a matter of competence. In France, Saint John Baptist de La Salle, “realizing the injustice caused by the exclusion of the children of workers and ordinary people from the educational system”[4], founded the Brothers of the Christian Schools. At the beginning of the nineteenth century, again in France, Saint Marcellin Champagnat dedicated himself “wholeheartedly to the mission of educating and evangelizing children and young people, especially those most in need, during a period when access to education continued to be the privilege of a few”[5]. Similarly, Saint John Bosco, with his “preventive method”, transformed discipline into reasonableness and closeness. Courageous women such as Vicenta María López y Vicuña, Francesca Cabrini, Josephine Bakhita, Maria Montessori, Katharine Drexel and Elizabeth Ann Seton opened doors for girls, migrants and the marginalized. I reiterate what I clearly stated in Dilexi te: “For the Christian faith, the education of the poor is not a favour but a duty”[6]. This genealogy of practical action testifies that, in the Church, pedagogy is never disembodied theory, but flesh, passion and history.

 

3. A living tradition

3.1. Christian education is a collective endeavour: no one educates alone. The educational community is a “we” where teachers, students, families, administrative and service staff, pastors and civil society converge to generate life[7]. This “we” prevents water from stagnating in the swamp of “it has always been done this way” and forces it to flow, to nourish, to irrigate. The foundation remains the same: the person, image of God (Gen 1:26), capable of truth and relationship. Therefore, the question of the relationship between faith and reason is not an optional chapter: “Religious Truth is not only a portion, but a condition of general knowledge”[8]. These words of Saint John Henry Newman – whom, in the context of this Jubilee of the World of Education, I have the great joy of declaring co-patron of the Church’s educational mission together with Saint Thomas Aquinas – are an invitation to renew our commitment to knowledge that is as intellectually responsible and rigorous as it is deeply human. We must also be careful not to fall into the trap of an enlightenment of a fides paired exclusively with ratio. We need to emerge from the shallows by recovering an empathic and open vision, and to understand better how humankind understands itself today in order to develop and deepen our teaching. This is why desire and the heart must not be separated from knowledge: it would mean splitting the person. Catholic universities and schools are places where questions are not silenced, and doubt is not banished, but accompanied. The heart, there, dialogue with the heart, and the method is that of listening that recognizes the other as an asset, not a thread. Cor ad cor loquitur was Saint John Henry Newman’s cardinal’s motto, taken from a letter of Saint Francis de Sales: “Sincerity of heart, not abundance of words, touches the hearts of men”.

3.2. Educating is an act of hope and a passion that is renewed because it manifests the promise we see in the future of humanity[9]. The specificity, depth and breadth of educational action is the work – as mysterious as it is real – of “making the being flourish […] is taking care of the soul”, as we read in Plato’s Apology of Socrates (30a–b). It is a “profession of promises”: it promises time, confidence, skill; it promises justice and mercy, it promises the courage of the truth and the balm of consolation. Educating is a labour of love that is handed down from generation to generation, mending the torn fabric of relations and restoring the weight of promise to words: “Every man is capable of truth, yet the journey is much more bearable when one goes forward with the help of another”[10]. Truth is sought in community.

 

4. The compass of Gravissimum educationis

4.1. The Conciliar Declaration Gravissimum educationis reaffirms the right of every person to education, and indicates the family as the first school of humanity. The ecclesial community is called upon to support environments that integrate faith and culture, respect the dignity of all, and engage in dialogue with society. The document warns against reducing education to functional training or an economic tool: a person is not a “skills profile”, cannot be reduced to a predictable algorithm, but is a face, a story, a vocation.

4.2. Christian formation embraces the entire person: spiritual, intellectual, emotional, social, physical. It does not pit manual and theoretical skills, science and humanism, technology and conscience against each other; rather, it demands that professionalism be imbued with ethics, and that ethics be not an abstract concept but a daily practice. Education does not measure its value only on the axis of efficiency: it measures it according to dignity, justice, the capacity to serve the common good. This integral anthropological vision must remain the cornerstone of Catholic pedagogy. Following in the wake of the thought of Saint John Henry Newman, it goes against a strictly mercantilist approach that often forces education today to be measured in terms of functionality and practical utility[11].

4.3. These principles are not memories from the past. They are guiding stars. They say that the truth is sought together; that freedom is not a whim, but an answer; that authority is not domination, but service. In the educational context, one must never “claim to possess a monopoly on truth, either in its analysis of problems or its proposal of concrete solutions”[12]. Instead, “knowing best how to approach them is more important than providing immediate responses to why things happen or how to deal with them. The aim is to learn how to confront problems, for these are always different, since every generation is new, and faces new challenges, dreams and questions”[13]. Catholic education has the task of rebuilding trust in a world riven with conflicts and fears, remembering that we are sons and daughters, not orphans; fraternity is born of this awareness.

 

5. The centrality of the person

5.1. Putting the person at the centre means educating them to see with the far-sightedness of Abraham (Gen 15:5): helping them discover the meaning of life, their inalienable dignity, and their responsibility towards others. Education is not only the transmission of content, but also the learning of virtues. It forms citizens capable of serving and believers capable of witnessing, men and women who are freer, no longer alone. And formation cannot be improvised. I fondly remember the years I spent in the beloved Diocese of Chiclayo, visiting the Catholic University of San Toribio de Mogrovejo, the opportunities I had to address the academic community, saying: “We are not born professionals; every university itinerary is built step by step, book by book, year by year, sacrifice after sacrifice”[14].

5.2. The Catholic school is an environment in which faith, culture and life intertwine. It is not simply an institution, but rather a living environment in which the Christian vision permeates every discipline and every interaction. Educators are called to a responsibility that goes beyond the work contract: their witness has the same value as their lessons. For this reason, the formation of teachers – scientific, pedagogic, cultural and spiritual – is decisive. Sharing the common educational mission also demands a path of common formation, “an initial and permanent project of formation that is able to grasp the educational challenges of the present time and to provide the most effective tools for dealing with them… This implies that educators must be willing to learn and develop knowledge and be open to the renewal and updating of methodologies, but open also to spiritual and religious formation and sharing”[15]. Technical updates are not enough: it is necessary to cultivate a heart that listens, a gaze that encourages, and an intelligence that discerns.

5.3. The family remains the first place of education. Catholic schools collaborate with parents; they do not substitute them, because the “duty … devolves primarily on them”[16]. The educational alliance requires intentionality, listening and co-responsibility. It is built with processes, tools, shared assessments. It is both hard work and a blessing: when it works, it inspires trust; when it fails, everything becomes more fragile.

 

6. Identity and subsidiarity

6.1Gravissimum educationis already accorded great importance to the principle of subsidiarity and the fact that circumstances vary according to different local ecclesial contexts. However, the Second Vatican Council articulated the right to education and its founding principles as universally valid. It highlighted the responsibilities placed on both parents and the state. It considered the provision of an education that enables students to “evaluate moral values with a right conscience” [17] to be a “sacred right” and called on civil authorities to respect this right. It also warned against subordinating education to the labour market and to the often harsh and inhuman logic of finance.

6.2. Christian education resembles a choreography. My late Predecessor Pope Francis said: “work to bring about a new ‘choreography’, one that respects the ‘dance’ of life by putting the human person at the centre”.[18] To form the “whole” person means avoiding compartmentalization. When it is true, faith is not an added “subject,” but a breath that oxygenates every other subject. Thus, Catholic education becomes leaven in the human community: it generates reciprocity, overcomes reductionism, and opens up to social responsibility. The task today is to dare to pursue an integral humanism that addresses the questions of our time without losing sight of its source.

 

7. The contemplation of Creation

7.1. Christian anthropology is the basis of an educational style that promotes respect, personalized accompaniment, discernment and the development of all the human dimensions. Among these, spiritual afflatus is not secondary, and it is fulfilled and strengthened also through the contemplation of Creation. This aspect is not new in the Christian philosophical and theological tradition, in which the study of nature also had the purpose of demonstrating the traces of God (vestigia Dei) in our world. In the Collationes in Hexaemeron, Saint Bonaventure of Bagnoregio writes that “The entire world is a shadow, a pathway, an imprint. It is a book written from outside (Ez. 2:9), because in every creature there is a reflection of the divine model, but mixed with darkness. The world is, therefore, a path similar to opacity mixed with light; in this sense, it is a path. Just as you see how a ray of light entering through a window is coloured according to the different colours of the different parts of the glass, the divine ray is reflected differently in each creature and takes on different properties”[19]. This applies also in the plasticity of teaching tailored to different characters which, in any case, converge on the beauty of Creation and its preservation. It requires educational projects that are “inter-disciplinary and cross-disciplinary … carried out with wisdom and creativity”[20].

7.2. Forgetting our common humanity has given rise to divisions and violence; and when the earth suffers, the poor suffer the most. Catholic education cannot be silent: it must combine social justice and environmental justice, promote sobriety and sustainable lifestyles, and form consciences capable of choosing not merely what is convenient, but what is just. Every small gesture – avoiding waste, choosing responsibly, defending the common good – constitutes cultural and moral literacy.

7.3. Ecological responsibility is not limited to technical data. These are necessary, but they are not enough. There is a need for education that involves the mind, the heart and the hands: new habits, community styles, virtuous practices. Peace is not the absence of conflict: it is the gentle strength that rejects violence. An education in “unarmed and disarming”[21] peace teaches us to set down the weapons of the aggressive word and the judgmental look, in order to learn the language of mercy and reconciled justice.

 

8. An educational constellation

8.1. I speak of a “constellation”, because the world of Catholic education is a living and pluralistic network: parish schools and colleges, universities and institutes of higher education, professional training centres, movements, digital platforms, service-learning initiatives and school, university and cultural pastoral programmes. Each “star” has its own brightness, but together they chart a course. Where in the past there was rivalry, now we ask the institutions to converge: unity is our most prophetic strength.

8.2. Methodological and structural differences are not burdens, but resources. The multiplicity of charisms, if well-coordinated, composes a coherent and fruitful picture. In an interconnected world, the game is played on two boards: local and global. There is a need for exchanges of teachers and students, joint projects across continents, mutual recognition of good practices, and missionary and academic cooperation. The future demands that we learn to collaborate more and to grow together.

8.3. Constellations reflect their own light in an infinite universe. As in a kaleidoscope, their colours intermingle, creating further chromatic variations. This is what happens in Catholic educational institutions, which are open to meeting and listening to civil society, political and administrative authorities, as well as representatives of the productive sectors and professional categories. They are required to collaborate even more actively with them in order to share and improve educational pathways so that the theory may be supported by experience and practice. History also teaches that our institutions welcome students and families who do not believe or who profess other faiths, but who desire a truly human education. For this reason – as is already the case – we must continue to promote participatory educational communities, in which lay people, religious, families and students share responsibility for the educational mission, together with public and private institutions.

 

9. Navigating new spaces

9.1. Sixty years ago, Gravissimum educationis heralded a season of trust: it encouraged the updating of methods and languages. Today this trust is being tested by the digital environment. Technologies must serve, not replace, the person; they must enrich the learning process, not impoverish relationships and communities. A university and a Catholic school without vision risks soulless efficiency, the standardization of knowledge, which then becomes spiritual impoverishment.

9.2. Pastoral creativity is needed in order to inhabit these spaces: strengthening the formation of teachers, including in the digital sphere; enhancing active teaching; promoting service-learning and responsible citizenship; and avoiding any technophobia. Our attitude towards technology can never be hostile, because “technological progress is part of God’s plan for creation”[22]. But it requires discernment in didactic planning, evaluation, platforms, data protection, and equitable access. In any case, no algorithm can substitute what makes education human: poetry, irony, love, art, imagination, the joy of discovery and even learning from mistakes as an opportunity for growth.

9.3. The decisive point is not technology, but the use we make of it. Artificial intelligence and digital environments must be oriented towards the protection of dignity, justice and work; they must be governed according to criteria of public ethics and participation; they must be accompanied by adequate theological and philosophical reflection. Catholic universities have a decisive task: to offer a “diakonia of culture”, fewer chair professorships and more tables to sit around together, without unnecessary hierarchies, to touch the wounds of history and seek, in the Spirit, the wisdom that springs from the lives of peoples.

 

10. The lodestar of the Compact on Education

10.1. Among the stars that guide our path is the Global Compact on Education. I gratefully accept this prophetic legacy entrusted to us by Pope Francis. It is an invitation to form an alliance and networks to educate in universal fraternity. Its seven pathways remain our foundation: putting the person at the centre; listening to children and young people; promoting the dignity and full participation of women; recognizing the family as the first educator; opening ourselves to welcome and inclusion; renewing the economy and politics in the service of humanity; and caring for our common home. These “stars” have inspired schools, universities and educational communities around the world, giving rise to concrete processes of humanization.

10.2. Sixty years after Gravissimum educationis and five years after the Compact, history calls to us with fresh urgency. Rapid and deep changes expose children, teenagers and young people to unprecedented fragility. It is not enough to conserve it: it must be relaunched. I ask all the educational bodies to inaugurate a season that speaks to the heart of the new generations, reconstituting knowledge and meaning, competence and responsibility, faith and life. The Compact is part of a broader Global Educational Constellation: charisms and institutions, though diverse, form a unified and luminous design that guides our steps in the darkness of the present time.

10.3. To the seven paths, I would add three priorities. The first regards the inner life. Young people ask for depth; they need spaces for silence, discernment, and dialogue with their conscience and with God. The second regards the digital human: let us educate in a judicious use of technology and of AI, placing the person before the algorithm and harmonizing technical, emotional, social, spiritual and ecological intelligence. The third regards unarmed and disarming peace: let us educate in non-violent languages, reconciliation, bridges and not walls. “Blessed are the peacemakers” (Mt 5:9) becomes the method and content of learning.

10.4. We are aware that the Catholic educational network has a unique reach. It is a constellation that spans every continent, with a particular presence in low-income areas: a concrete promise of educational mobility and social justice[23]. This constellation demands quality and courage: quality in pedagogical planning, teacher training and governance; courage in ensuring access for the poorest, in supporting fragile families, in promoting scholarships and inclusive policies. Evangelical gratuitousness is not rhetoric: it is a style of relationship, a method and an objective. Where access to education remains a privilege, the Church must push to open doors and invent new paths, because “losing the poor” is equivalent to losing the school itself. This also applies to universities: an inclusive outlook and attention to the heart save us from standardization; a spirit of service revives the imagination and rekindles love.

 

11. New maps of hope

11.1. On the sixtieth anniversary of Gravissimum educationis, the Church celebrates a fruitful educational history, but also faces the imperative of updating her offerings in light of the signs of the times. Catholic educational constellations are an inspiring image of how tradition and future can intertwine without contradiction: a living tradition that extends towards new forms of presence and service. Constellations are not reduced to neutral and inert concatenations of different experiences. Instead of chains, let us dare to think of constellations, their intertwining full of wonder and awakening. In them lies the ability to navigate challenges with hope, but also with courageous revision, without losing fidelity to the Gospel. We are aware of the difficulties: hyper-digitalization can fragment attention; the crisis of relationships can wound the psyche; social insecurity and inequalities can extinguish desire. Yet, precisely here, Catholic education can be a beacon: not a nostalgic refuge, but a laboratory of discernment, pedagogical innovation and prophetic witness. Drawing new maps of hope: this is the urgency of the mandate.

11.2. I ask educational communities: disarm words, raise your eyes, and safeguard the heart. Disarm words, because education does not advance with polemics, but with meekness that knows how to listen. Raise your eyes. As God said to Abraham, “Look toward heaven, and number the stars” (Gen 15:5): know how to ask yourselves where you are going, and why. Safeguard the heart: relationships come before opinions, people before programmes. Do not waste time and opportunities: “to quote an Augustinian expression: our present is an intuition; a time we live and must take advantage of before it slips through our fingers”[24]. In conclusion, dear brothers and sisters, I make my own the exhortation of the Apostle Paul: you must “shine as lights in the world, holding fast the word of life” (Phil 2:15-16).

11.3. I entrust this journey to the Virgin Mary, Sedes Sapientiae, and to all the sainted educators. I appeal to Pastors, consecrated men and women, laypeople, those responsible for institutions, teachers and students: be servants of the world of education, choreographers of hope, tireless seekers of wisdom, credible creators of expressions of beauty. Fewer labels, more stories; fewer sterile contrasts, more harmony in the Spirit. Then our constellation will not only shine, but it will also guide us: towards the truth that sets us free (cf. Jn 8:32), towards the fraternity that consolidates justice (cf. Mt 23:8), towards the hope that does not disappoint (cf. Rom 5:5).

 

Saint Peter’s Basilica, 27 October 2025 Eve of the 60th Anniversary LEO PP. XIV

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[1] LEO XIV, Apostolic Exhortation Dilexi te (4 October 2025), no. 68.

[2] Cf. JOHN XXIII, Encyclical Letter Mater et Magistra (15 May 1961).

[3] JOHN PAUL II, Apostolic Constitution Ex corde Ecclesiae (15 August 1990), no. 1.

[4] LEO XIV, Apostolic Exhortation Dilexi te (4 October 2025), no. 69.

[5] LEO XIV, Apostolic Exhortation Dilexi te (4 October 2025), no. 70.

[6] LEO XIV, Apostolic Exhortation Dilexi te (4 October 2025), no. 72.

[7] CONGREGATION FOR CATHOLIC EDUCATION, Instruction “The Identity of the Catholic School for a Culture of Dialogue” (25 January 2022), no. 32.

[8] JOHN HENRY NEWMAN, The Idea of a University (2005), p. 76.

[9] Cf. CONGREGATION FOR CATHOLIC EDUCATION, Instrumentum laboris Educating today and tomorrow: A renewing passion (7 April 2014), Introduction.

[10] BISHOP ROBERT F. PREVOST, O.S.A., Homily at the  Cattolica Santo Toribio de Mogrovejo (2018).

[11] Cf. JOHN HENRY NEWMAN, Writings on the University (2001).

[12] LEO XIV, Audience with Members of the Centesimus Annus Pro Pontifice Foundation (17 May 2025).

[13] Ivi.

[14] BISHOP ROBERT F. PREVOST, O.S.A., Homily at Santo Toribio de Mogrovejo Catholic University (December 2016).

[15] CONGREGATION FOR CATHOLIC EDUCATION, Circular Letter Educating Together in Catholic Schools (8 September 2007), no. 20.

[16] VATICAN ECUMENICAL COUNCIL II, Pastoral Constitution on the Church in the Contemporary World, Gaudium et spes (29 June 1966), no. 48.

[17] VATICAN ECUMENICAL COUNCIL II, Declaration Gravissimum educationis (28 October 1965), no. 1.

[18] POPE FRANCIS, Address to university students on the occasion of World Youth Day (3 August 2023).

[19] SAINT BONAVENTURE OF BAGNOREGIO, Collationes in Hexaemeron, XII, in Opera Omnia (edited by Peltier), Vivès, Paris, t. IX (1867), pp. 87-88.

[20] POPE FRANCIS, Apostolic Constitution Veritatis gaudium (8 December 2017), no. 4c.

[21] LEO XIV, Greeting from the Central Loggia of Saint Peter’s Basilica after his election (8 May 2025).

[22] DICASTERY FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH AND DICASTERY FOR CULTURE AND EDUCATION, Note Antiqua et nova (28 January 2025), no. 117.

[23] Cf. Statistical Yearbook of the Church (updated on 31 December 2022).

[24] BISHOP ROBERT F. PREVOST, O.S.A., Message to Santo Toribio de Mogrovejo Catholic University on the occasion of the 28th anniversary of its founding (2016).

2025年10月29日

☩「謙虚で、もっと喜んで人を迎え入れる教会を作ろう」-教皇、”シノドスの道”の関係者・機関の聖年記念ミサで

Pope Leo presides over Holy Mass for the Jubilee of Synodal Teams and Participatory BodiesPope Leo presides over Holy Mass for the Jubilee of Synodal Teams and Participatory Bodies  (@Vatican Media)
(2025.10.26  Vatican News  Kielce Gussie)

 教皇レオ14世が26日、聖ペトロ大聖堂で、”シノドスの道”の関係者・機関の聖年記念ミサを捧げられ、この日読まれたルカ福音書のたとえ話に登場する徴税人のように「自らを低くし、教会における緊張の中でも一致を見いだすように」と呼びかけられた。

 ミサ中の説教で教皇は参加者全員に「教会の神秘」について省察するよう勧められ、「教会は単なる階層や構造を持つ宗教機関ではありません。『神と人類の結合の可視的なしるし』であり、神が『愛によって結ばれた一つの家族』として全ての人を集める場所です」と語られた。

 さらに、聖霊によって創られ、保たれる教会的交わりを熟考することで、”シノドスの道”に関わる人々や参加型組織の本質を理解し始めることができる、と指摘。

 「これらは教会内で起こる事象を表現しています。そこでは互いの権力の論理ではなく愛の論理に従っています… そして、キリスト教共同体において最も重要なのは霊的生活です」と述べられた。

*愛こそが教会における最高の規範

 

 そして教皇は、「何よりもまず、愛こそが、教会における最高の規範であることを心に留めるように」と促され、「支配するために召された者はいない。皆が奉仕するために召されています。排除される者はいない。私たちは皆、参加するために召されています… 私たちは皆、共に完全な真理を求めよと招かれています。この『共に』という招きは、教会内における交わりの呼びかけを、改めて示すもの。教皇フランシスコが四旬節のメッセージで語られていたように、キリスト者は他者と肩を並べて歩むように招かれているのです。決して孤独な旅人として歩んではなりません」と強調された。

*ファリサイ派の人と徴税人の”分断”は教会でも起こり得る

 

 続けて、「この『共に』こそ、この日の福音書のたとえ話のファリサイ派の人と徴税人が欠いていたもの。彼らは同じ場所にいながら分断され、交流がなかった。二人とも同じ道にいるが、共に歩んではいない。父なる神に祈るが、兄弟としてではなく、何の共通点もなく祈っているのです」と指摘。

 「この隔たりは、とりわけファリサイ派の態度に起因しています。彼の祈りは、神に向けられているように見えても、実は『自分自身を見つめ、正当化し、称賛』する鏡に過ぎない。徴税人に優越感を抱き、見下している。神や他者との関係よりも、自分自身に焦点を当てているからです」と語られた。

 そのうえで教皇は、「このようなことは、キリスト教共同体でも起こり得ます。共同体よりも自分自身が優先されると、真の兄弟愛的な関係を不可能にする個人主義が生まれます。自分が他者より優れている、と考える場合にも起こり得るのです」と警告。

 「ファリサイ派の人に注目するのでなく、徴税人に目を向けるべきでしょう。彼の謙遜は、私たち教会員全員が神と互いを必要としていることを思い起させます。互いに耳を傾け、愛し合い、共に歩む喜びを分かち合う必要があります。それは、キリストは『謙遜な者たちのもの』だからです」と勧められた。

 そのうえで教皇は、”シノドスの道”の参加者や組織が「互いに交わりながら生きる教会の姿」であることを強調。「対話と兄弟愛、そしてパレーシア(真実を率直かつ勇気をもって語る姿勢)をもって聖霊に耳を傾けることで、私たちは『神を求めて共に歩む』という招きに応えられるのです」と語られた。

 

 

*「聖職者主義」と「虚栄心」を排除することが必要

 

 さらに、「私たちが『聖職者主義』と『虚栄心』を排除するなら、もっと喜んで人々を迎え入れる共同体としての教会を築くことができます。私たちは教会の緊張関係―一致と多様性、伝統と革新、権威と参加―の中で確信を持って生きることができます」と強調。

 「一方を他方に還元することで(緊張関係を)解決するのではなく、聖霊によって清められ、調和し、共通の識別へと導かれるようにすることが必要です。”シノドスの道”の参加者や組織は、教会の識別には内的な自由、謙遜、祈り、信頼が必要であることを理解している(はずです)。決して一人の意見だけで決まるものではありません」と参加者たちを促された。

 そして最後に教皇は、参加者全員に「人類の足を洗うために身をかがめる、ファリサイ派の人が徴税人を裁いたように裁かず、すべての人を受け入れる場所となる、もっと謙虚な教会を目指し、その建設に挑むように」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年10月26日

◎教皇聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑲イエスの復活は『悲しみ』を癒す特効薬、救いの真理を私たちに悟らせる

Pope Leo greets crowds outside in St. Peter's Square for his Wednesday General AudiencePope Leo greets crowds outside in St. Peter’s Square for his Wednesday General Audience  (@VATICAN MEDIA)

 

2025年10月22日

☩「多くの人を苦しめているミャンマーでの戦いを速やかに止めるように」ー教皇が訴え

 (2025.10.20     バチカン放送)
 教皇レオ14世は18日、7人の新聖人のための列聖ミサに続いて、正午の祈りの前に、内戦状態が続くミャンマーの情勢に言及され、 暴力や、不安、多くの困難に苦しんでいる人々に、寄り添い続けることを表明。「この国から伝えられるニュースは痛ましいものです」とされたうえで、速やかに効果的な停戦が実現するよう、関係者たちに強く訴えるとともに、「包括的かつ建設的な対話を通して、武器が平和に道を譲ることができるように」と祈られた。

 そして、教皇は、聖地や、ウクライナ、その他の紛争地の平和を願う絶え間ない祈りを、聖母マリアとこの日列聖された聖人たちの取り次ぎに託しながら、公正で恒久の平和追求のために、すべての責任者に知恵と忍耐力を授けてくださるようにと、神に祈り求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2025年10月22日

☩「聖人たちはキリストへの信仰の火を灯し続ける」-教皇、7人の列聖ミサで

2025.10.19 Santa Messa e Canonizzazione(2025.10.19  Vatican News  Devin Watkins)
 教皇レオ14世は19日、聖ペトロ広場で、7人の新たな聖人の列聖ミサを捧げられ、試練や苦難に直面する中において、熱心に信頼をもって神に祈る必要性を、信者たちに強調された。
 教会が「世界宣教の日」を祝う日曜日、教皇は以下の男女の福者7人を新たに聖人とされた。
 イグナチオ・シュクララ・マロヤン、ピーター・ト・ロット、ヴィンチェンツァ・マリア・ポロニ、マリア・デル・モンテ・カルメロ・レンディレス・マルティネス、マリア・トロンカッティ、ホセ・グレゴリオ・エルナンデス・シスネロス、バルトロ・ロンゴ。
 教皇は説教の中で、「人の子が来るとき、果たして地上に見出すだろうか」というイエスの問いについて考察され、「この主の問いは、信仰が神とその民との間の貴重な愛の絆であることを明らかにしています」と語られた。
 そして、「今日、私たちは 7 人の証人、すなわち、神の恵みによって信仰の灯を燃やし続けた新しい聖人たちを目の前にしています… 彼ら自身が、キリストの光を広めることができる灯となったのです」と言明された。
 
 また教皇は、「この世界の物質的、文化的、科学的、芸術的な偉大な財産を過小評価してはならない」とされる一方で、「信仰がなければ、その真の意味は失われます… 信仰のない世界は、父のない子供たちで溢れ、彼らの心には救いへの希望が残っていないため、生きる意欲も失われてしまうでしょう」と警告。
 そうならないように、「イエスは私たちに、絶えず祈るよう求めておられます。絶えず祈ることで、神との愛の絆が保たれ、私たちの心が神の救いを受け入れることができるのです」と強調された教皇は、「呼吸が身体の命を支えるように、祈りは魂の命を支えます… 信仰は祈りによって表現され、真の祈りは信仰によって生きます」と説かれた。
 そして、キリスト教徒が祈る際にしばしば直面する二つの誘惑についても言及された。一つの誘惑は、「悪の衝撃に打ち負かされ、神が私たちの苦境を顧みてくださらない」と考えること。また別の時には、「祈りを神への命令として扱い、現実に対する私たちの解釈に従って神に公正な行動を求めよう」とする誘惑に駆られること、とされた。
 教皇は、「十字架上の祈りで『神の御心がなされますように』と願われたイエスが、この二つの誘惑から私たちを解放してくださいます… 試練の中で、神がどこで働いておられるのだろう、と疑問に思うとき、この疑いを祈りへと変えましょう。人々が苦しむ場所には必ず、神がおられる、と悟るのです」と述べられた。
 続けて、「痛みや暴力、憎しみや戦争によって私たちが『十字架につけられる』とき、キリストはすでにそこにおられます。私たちのために、私たちと共に十字架にかけられておられるのです」とされ、「神が慰めてくだされない叫びはなく、神の心から遠く離れた涙はありません」と強調された。
 また、イエスが「地上に信仰を見い出すだろうか」と問われたことに触れ、教皇はキリスト教徒に対し、「生活のあらゆる局面で信仰を抱くよう二」と促され、「信仰こそが正義への献身と、神の愛による世界の救済への願いを支えるからです」と説かれた。
 説教の最後に教皇は、「7人の新たな聖人たちが、私たちの聖性への召命を助けてくださいますように… 地上の信仰は、そうして天への希望を支えるのです」と語られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年10月19日

 ☩「平和は可能だ、単なる夢ではない」-教皇「ロマ・シンティ・移動する生活を送る人々の聖年」の記念式典で

Pope Leo XIV greets participants in the Jubilee of Roma, Sinti, and Traveller PeoplesPope Leo XIV greets participants in the Jubilee of Roma, Sinti, and Traveller Peoples  (@VATICAN MEDIA)

(2025.10.18  Vatican News  Devin Watkins)

 教皇レオ14世は18日、バチカンのパウロ6世ホールで「ロマ・シンティ・移動する生活を送る人々の聖年」の記念式典を行われ、移動する人々に対する教会の司牧的配慮を表明されるとともに、家族・労働・祈りの尊厳を受け入れるよう、参加者たちに求められた。

 参加者たち、とくに子供たちや若者たちからの質問に答えられた教皇は、世界中で続いている戦争に関しての問いに、「平和は確かに実現可能だと信じるように」と呼びかけ、まず、自分自身、家族、周囲の人々との平和を築くよう促された。

  そして、「私たちは皆、戦争のない世界に住みたいと願っています。そして常に平和の推進者、架け橋の建設者となるよう努めなければなりません。平和が可能であること―それは単なる夢ではなく、私たちが平和の中で生きられるのだと、自らを確信させながら」と語られた。

 教皇は、この聖年のテーマを思い起こされた— 「希望は歩み続ける—わが父と母はアラムの放浪者だった」(申命記26章5節参照)。そして、「今日、あなたがたが教皇にもたらす贈り物—揺るぎない信仰、神のみへの揺るがぬ希望、社会の周縁で生きる困難にも屈しない確固たる信頼—によって、私たちは皆、自らの旅路を新たに感じている」と述べられた。

 教皇は、この聖年行事が1965年に教皇パウロ6世がポメツィアで移動民と歴史的な会合を持ち、聖母の像を「ロマ、シンティ、旅する人の女王」として戴冠してから60年後に開催されることを想起。司牧者を通じて彼らの共同体と共に歩む、という教会の願いを改めて表明された。 「移動する人たちは三つの本質的真理を証ししています… 神のみを信頼すること、世俗の富に執着しないこと、そして言行を通じて模範的な信仰を示すこと、です」。

 また教皇は、彼らの民族が千年以上も巡礼者・遊牧民として移動を続けてきた、と指摘。「他の人々が自分たちの社会から彼らを排除し、都市の周辺部へ追いやった結果、権利・教育・文化から締め出されてきました…しかし、あなた方を疎外し、安らぎも歓迎もない放浪者とした社会モデルこそが、過去一世紀にわたり世界規模で最大の社会的不正を生み出したのです。個人や民族間の巨大な経済格差、未曾有の金融危機、環境災害、そして戦争です」と強調。

  さらに、ロマ、シンティ、旅する人々に、2019年に教皇フランシスコが彼らに向けて発した呼びかけに耳を傾けるよう促された。フランシスコ教皇は、彼らに恨みを抱くことなく、「家族の尊厳、労働の尊厳、日々の糧を得る尊厳、そして祈りの尊厳」をもって前進するよう求めていた。

 「労働の尊厳と祈りの尊厳が、不信と恐怖の壁を打ち破る力となりますように」と願われた教皇は、「移動生活を送る民族は教会における福音宣教の使命を受け入れる必要があります」と述べ、自らの文化の美しさを示すよう呼びかけられた。さらに、「今まさに進行中の時代の変革の主人公となりなさい… どこに住んでいようと、善意ある人々と共に歩み、相互不信を乗り越え、自らの文化の美しさを示し、信仰と祈り、そして誠実な労働から得られるパンを分かち合いなさい」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 「カトリック・あい」注:「Roma(ロマ)」とは、インドを起源とする少数民族。現在、欧州を中心に世界中で暮らしている。かつて「ジプシー」などと呼ばれていましたが、これは差別的なニュアンスを含むため、「ロマ」という呼称が正式なものとして定められている。また「Sinti(シンティ)」は、ロマ人のグループの一つ。主にドイツ、フランス、イタリア、中欧に居住している。伝統的に移動生活を送っていたが、現在では定住している人が大半。ナチス・ドイツ時代に迫害を受けたが、シンティ・ロマの運動などを通じて権利回復が進められた。

 

2025年10月18日

☩「この豊かさの時代に飢餓が持続しているのは、集団的道徳的失敗だ」教皇、世界食糧デー・FAO創立80周年に

Pope Leo XIV addresses FAO on World Food DayPope Leo XIV addresses FAO on World Food Day  (@Vatican Media)
(2025.10.16 Vatican News  Linda Bordoni)

 教皇レオ14世は17日、世界食料デーおよび国連食糧農業機関(FAO)創設80周年を記念してローマのFAO本部を訪問。演説の中で、バチカンが同機関と緊密な関係にあることを再確認し、飢餓と栄養不良を終わらせるための世界的な共同の取り組みを呼びかけられた。

 あらゆる人間の尊厳を守りつつ、持続可能な方法で飢餓・食料不安・栄養不良を克服するというFAOの使命は、紛争・気候危機・強制移住・貧富の格差拡大が蔓延する現代において、正義と平和の名のもとに「人間を利益より優先させる」という国際社会の善意に疑問が投げかけられる世界で、強く共鳴する。

  FAO本部の会場に集まった国連や世界の指導者、大使たちを前に、まさにこの点を強調。「価値観を宣言するだけでは不十分です。体現しなければならない… スローガンは人々を貧困から救いません。人間を利益より優先し、食料安全保障、資源へのアクセス、持続可能な農村開発を保証する必要があります」と述べられた。

 1970年のパウロ6世以来、歴代教皇が歩んだ足跡をたどる今回の訪問は、バチカンが長年支援してきた国連機関への支持を改めて表明する機会となった。

 同時に教皇は、飢餓・栄養失調・食料不安という「人類全体を苦しめる道徳的傷」を根絶すべく、国際社会が努力を倍加するよう求め、「飢餓との闘いは、単なる政治的・経済的課題ではなく、人間的かつ道徳的な義務です… 飢えに苦しむ者は見知らぬ人ではありません。彼は私たちの兄弟であり、私たちは遅滞なく彼らを助けねばならない」と訴えられた。

 さらに、FAO創設から80年を経た今もなお、数多くの人々が十分な食糧と栄養を欠いていることを指摘され、「こうした悪を終わらせるには、政府、機関、市民社会、そして一人ひとりの貢献が必要です」と強調された。世界で6億7300万人以上が空腹のまま就寝し、23億人が栄養価の高い食事を欠いているという最新データを挙げ、「これらは抽象的な数字ではなく、壊れた人生と、子供に食べ物を与えられない母親たちなのです」と述べた。

 そしてク教皇は、「魂のない経済」と、膨大な人口を貧困に陥れる資源分配システムを厳しく批判され、豊かさの時代に飢餓が持続している現状を「集団的道徳的失敗であり、歴史的過ちです」と断じられた。

 また教皇は、食糧が戦争の武器として利用されている現状に深い懸念を表明され、「男性、女性、子どもたちの最も基本的な権利—生きる権利—を否定する残酷な戦略」と糾弾。国連安全保障理事会が過去に飢餓を戦争犯罪として非難したことを指摘され、「この合意は薄れつつあるようです」と嘆かれた。そして、「飢えで死にかけている人々の沈黙は、人類の良心の中で叫び続けている」と述べ、世界の全ての国に断固たる行動を求めた。

 「飢餓は人類の宿命ではなく、人類の堕落です…単なる解決すべき問題ではなく、天に届く叫びなのです」と強調された。

 教皇は前任者であるフランシスコ教皇が繰り返し強調された言葉—食料を捨てることは人を捨てることに等しい—を改めて確認され、「飢える人々がいる中で食料を浪費すること」を非難。世界の指導者たちに「許しがたい矛盾を終わらせ、私たちの思いやりを鈍らせる無気力から目覚める」よう促された。また子としての今年の世界食料デーのテーマに触れ、「水は命、水は食糧。誰も取り残さない」というメッセージが全ての人々に共に行動するよう呼びかけていると述べられた。

 そして、「分断と無関心が特徴的なこの時代において、協力による結束は、単なる理想ではなく義務です… 手を取り合うことによってのみ、食料安全保障が特権ではなく、権利となる未来を築けるのです」

 教皇は特に女性たちの役割を強調。「生存の静かな設計者、希望を最初に蒔く者、創造物の慎重な管理者… 女性たちの貢献を認めることは、正義の問題であるだけでなく、より人間的で持続可能な食糧システムの保証です」と語られた。

 また、多国間主義と国家間の対話の重要性を再確認。貧困層の声が直接届くよう促され、「世界を形成するあらゆる主体が、奉仕すべき人々の真の必要に効果的に応えられるビジョンを構築しなければなりません」と述べられ、ウクライナ、ガザ、ハイチ、アフガニスタン、マリ、中央アフリカ共和国、イエメン、南スーダンで飢餓と暴力に苦しまされている多くの人々に対し、「世界の国々、国際機関は、目を背けることはできません」と強く訴えられた。

 演説の結びに教皇は、イエスが弟子たちに語った「彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ福音書6章37節)という言葉を取り上げ、「この命令は、今も、世界にとって差し迫った課題です」とされ、「永続的で有益な結果をもたらす正義のために働く勇気と活力を、神に願い求めることを倦むことなく、バチカンと全世界の教会が、最も貧しく恵まれない人々のために奉仕する用意があることを、常に頼りにしていただきたい」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年10月17日

◎教皇レオ14世の聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑱いかなる困難の中でも、イエスは私たちを支えてくださる

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

*私たちは「満たされないため」に創造されたのではない

 

 

 

 

*キリストは私たちと共に歩まれ、行先でもある

また教皇は、「復活されたイエスは、私たちの痛みから切り離された『上から』の答えを与えるのではありません… しばしば困難で、苦痛に満ち、神秘に包まれた道において、私たちと共に歩まれるのです… 私たちの水筒が空になり、渇きが耐え難くなるとき、それを満たすことのできる方は、ただイエスだけです」と語られた。

さらに、「イエスは、私たちと共に歩まれる方であるだけでなく、私たちの行先でもあります… イエスの愛がなければ、私たちの人生は目的を失い、真の『終わりなき、悲劇的な旅』となってしまいます… 「罪の傷が私たちを転ばせ、諦めさせ、絶望させることがあっても、私たちは倒れたままではいられません」とされ、「私たちは再び立ち上がり、足元を固めねばなりません。なぜなら復活されたキリストは、私たちが必ず(目的の地に)到達することを保証してくださり、私たちを『故郷』へと導いてくださるから。そこでは私たちが待ち望まれ、愛され、救われるのです」と信者たちに説かれた。

2025年10月15日

☩19日は「世界宣教の日」ー「世界のすべての小教区が参加するように」教皇が強く呼びかけ

 教皇レオ14世が13日、来週19日の主日に記念される「世界宣教の日」に世界のすべての小教区が参加するよう、ビデオメッセージを通して以下のように呼びかけられた。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 毎年、世界宣教の日曜日には、全教会が一致して、特に宣教者たちとその使徒的働きの豊かな実りを祈ります。

 私がペルーで宣教司祭、また司教として奉仕していた時、世界宣教の日に示される信仰や、祈り、寛大さが、いかに共同体全体を変容させるかを目の当たりにしました。

 世界中のすべてのカトリックの小教区に、世界宣教の日への参加を強く呼びかけたいと思います。皆さんの祈りと支援は、福音を広め、司牧や要理教育のプログラムを支え、新しい教会の建設を助け、宣教地における兄弟姉妹たちの健康と教育上の必要に応えることに貢献するでしょう。

 この10月19日、「人々の中の希望の宣教者」になるという洗礼の召命について共に考えながら、私たちの希望、イエス・キリストを地の果てまで伝えるという、甘美で喜びに満ちた努めに対する誓いを新たにしましょう。

 世界中の宣教者を支援するための、皆さんの私へのすべての助けに感謝します。神の祝福が皆さんにありますように。

(編集「カトリック・あい」)

 

2025年10月14日

☩「マリアの私たちへの愛は、共にイエスの弟子となるよう導いてくれる」-教皇、マリアの霊性記念ミサで

Pope Leo delivers homily during Mass for the Jubilee of Marian Spirituality in the VaticanPope Leo delivers homily during Mass for the Jubilee of Marian Spirituality in the Vatican  (@Vatican Media)

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年10月13日

☩「聖地とウクライナに平和を、ペルーに安定を」-教皇、マリア霊性の聖年ミサの後の祈り

Palestinians in Gaza return to their destroyed homes following the partial withdrawal of Israeli forcesPalestinians in Gaza return to their destroyed homes following the partial withdrawal of Israeli forces  (ANSA)

 

Pope prays for peace in Holy Land, Ukraine, and for stability in Peru

Following the Mass for the Jubilee of Marian Spirituality, Pope Leo XIV turns his thoughts and prayers to the suffering people of the Holy Land, of Ukraine, and of Peru, where political turmoil has brought instability to the nation.

 

At the conclusion of the Mass for the Jubilee of Marian Spirituality in St Peter’s Square, Pope Leo XIV turned his thoughts to those suffering the consequences of conflict, political instability, and other forms of injustice around the world.

Peace in the Holy Land

His thoughts and prayers, first, turned to the Holy Land, and especially to the human cost of the violence.

“Two years of conflict have left death and destruction everywhere,” the Pope said. “Especially in the hearts of those who have brutally lost their children, their parents, their friends – everything.”

Assuring those affected that the Church stands beside them, Pope Leo reminded them of God’s unwavering presence, even in the darkest of moments and in doing so quoted: “Dilexi te – I have loved you.”

These words of the Pope’s followed a message of hope in which he encouraged the recent agreement between Israel and Hamas. Pope Leo urged all parties involved to continue, with courage, along the path toward “a just, lasting peace” that honours the legitimate aspirations of both the Israeli and Palestinian peoples.

Pope Leo prayed that humanity might rediscover the ability to see the other “not as an enemy, but as a brother,” capable of forgiveness and worthy of reconciliation.

Humanitarian aid trucks head to Gaza following peace agreement
Humanitarian aid trucks head to Gaza following peace agreement   (ANSA)

Peace in Ukraine

Then turning his thoughts to Ukraine, Pope Leo addressed the new waves of violence and destruction that have struck cities and civilian infrastructure, killing many civilians, including children and depriving families of basic necessities like electricity and heating.

“My heart is united with the suffering of the population,” said the Pope, before renewing his appeals, once again, for an end to the violence, and for dialogue to prevail.

Pope Leo XIV also extended his closeness to the people of Peru who are facing a period of political transition.

In recent months, tensions have risen over leadership changes and calls for reform.

The Pope offered prayers for national unity, saying, “I pray that Peru may continue on the path of reconciliation, dialogue, and national unity.” His words come as many Peruvians seek stability and a renewed commitment to democratic governance through peaceful means.

Protection for workers

Finally, as Italy marked its National Day in memory of victims of workplace accidents, the Pope called for prayers for those who have died and for the protection of all workers.

2025年10月12日

☩「『剣を収めよ』というイエスの言葉は、世界の権力者たち、諸国民の運命を導く人々へのメッセージ」教皇、マリアの霊性聖年徹夜祭で

(2025.10.11  Vatican News   Christopher Wells)

 教皇レオ14世が11日、聖ペトロ広場でマリアの霊性聖年の祈りの徹夜祭を主宰され、3万人以上の巡礼者と共にロザリオの祈りを捧げ、聖体の礼拝を行われた。

2025年10月12日