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◎教皇連続講話「聖霊について」⑰ 最終回*聖霊が私たちを希望に満ちあふれさせてくださいますように!
(2024.12.11 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは11日、水曜恒例の一般謁見で、連続講話「聖霊について」の締めくくりに、聖霊は「絶えることなく流れ出るキリスト教徒の希望の源」をテーマに取り上げられた。
講話で教皇はまず、終末論的な呼びかけであるヨハネの黙示録にある「来たりませ」(22章17節)という言葉が、復活したキリストに「霊と花嫁」が呼びかけたものであることに目を向けられ、「イエスの最終的な到来に対する私たちの希望は、常に教会の中に存在しているもの」と指摘。同時に、教会は「現在と巡礼の状況」において、「キリストが到来され続けることも期待しています」と語られた。
また、教皇は、「来たりませ」という祈りに対する教会の理解が進歩してきたことにも言及され、かつては「習慣的に」キリストのみに祈りを捧げていたが、現在では、『Veni Creator Spiritus』や『Veni Sancte Spiritus』のように、聖霊にも祈りを捧げている、とされた。
そして、「主が復活された後、聖霊はキリストの真の分身であり、教会においてキリストがおられ、働かれるようにする存在… だからこそ、キリストと聖霊は、救いにおいても不可分なのです」と説かれた。
教皇は続けて、「聖霊は、キリスト教徒の希望の、絶えることのない泉であり、教会を歴史の海へと進める『帆』です」とされ、「希望とは、空虚な言葉や漠然とした願望ではなく、神の忠実さに基づく確信であり、したがって神学的徳目なのです」と指摘。
さらに、「キリスト教徒は希望を持つだけで満足してはなりません… 希望を”放射”する必要があります。なぜなら、希望は、教会が全人類に与えることのできる最も美しい贈り物だからです」と強調された。
教皇は講話の最後に、聖ペトロの言葉を引用する形で、「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、優しく、敬意をもって、正しい良心で、するように」(ペトロの手紙1.3章15、16節)と信者たちに勧められた。
そして、「なぜなら、人々は説明の力強さよりも、その説明がもたらす愛によって納得するからです… そして、これは最も効果的な宣教の仕方です。この仕方は、すべての人に開かれているのです」と説かれた。
教皇は、聖霊が私たちを常に「希望に満ちあふれさせる」よう助けてくださるように、と祈られ、「聖霊について」の17回にわたる講話を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
☩「戦争で人間の最も基本的な権利を奪われた人々の叫びを聴け」-教皇、国際人権デーに世界の指導者たちに訴え

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「マリアからお生まれになったイエスに、心の扉を開こう」-無原罪の聖母の主日・正午の祈りで

(2024.12.8 バチカン放送)
教皇フランシスコは「無原罪の聖母マリア」の祭日の8日、新たに叙任された21人の枢機卿たちと共に、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられた後、正午の祈りを聖ペトロ広場に集った巡礼者たちと共に唱えられた。
祈りの前の説教で教皇は、ルカ福音書(1章26-38節)に記された天使からおとめマリアが神の子イエスの懐妊のお告げを受ける場面を観想された。要旨は次の通り。
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無原罪の聖母マリアの祭日、福音は人類の歴史上、最も重要な出来事、「受胎告知」の場面(ルカ福音書1章26-38節)を印しています。マリアが大天使ガブリエルのお告げに「はい」と答えたことが、神の御子イエスの受肉を可能にしました。
これは大きな驚きと感動をもたらすシーンです。いと高き、万能の主である神が、天使を介して、ナザレにいる一人のおとめと対話され、ご自分の救いの計画のための協力を求められているのです。
天の御父の指が人間の指と触れ合おうとする、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いたあのアダムの創造の場面のように、私たちの贖いの始まりにおいても、おとめマリアが「はい」と応える、あの祝福された瞬間に、人間と神とが出会うのです。
小さな辺境の村の一人の女性が、歴史の中心へと永遠に召されす。人類の運命は、おとめマリアの答えにかかっていました。そして、人類は、再び微笑み、希望をもつことができるようになりました。それは、運命が確かな手の中に置かれたからです。
大天使ガブリエルの挨拶にあるように、マリアは「恵まれた方」(ルカ福音書1章28節)、無原罪の方、神の御言葉に身と心をもって仕える方、常に主と共にいて、主に完全に信頼する方です。
マリアの中には、神の御旨に逆らう、いかなるものもなく、真理と愛を拒む何ものもありません。これこそ、代々に歌われるマリアの至福です。私たちも大いに祝いましょう。無原罪の御母は、私たちの救いであるイエスをもたらしてくださったのですから。
この神秘を観想しながら、自分に問いかけましょう。「戦争に揺れ、所有と支配の欲にまみれたこの時代に、私はどこに希望を置こうとしているのか?」「力やお金や有力な友人の中にだろうか。それとも、神の無限の慈しみの中にだろうか?」「メディアやインターネットの中をただようキラキラとした偽のモデルを前に、私はどこに自分の幸福を見つけようとしているだろうか?」「私の心の宝はどこにあるのだろうか?」「神は、私を無償で、先立って愛してくださり、回心のたびに赦してくださる、という事実の中にだろうか。それとも、何が何でも自我を、自分の欲望を、通そうという思い違いの中にだろうか?」。
聖年の扉の開門が近づく中で、心と精神の扉を、無原罪のマリアからお生まれになった主イエスに開きましょう。そして、主が私たちの人生の中に住まわれるよう、御母の取り継ぎを祈りましょう。
(編集「カトリック・あい」)
☩「『2025年聖年へ心の準備を』というあなたの声を聴く」-教皇、スペイン広場の聖母のモニュメントで献花と祈り
(2024.12.8 バチカン放送)
無原罪の聖母マリアの祭日の8日、教皇フランシスコはローマ市内スペイン広場の聖母のモニュメントに献花され、市民と共に祈りの時を持たれた。
スペイン広場に向かわれる前に、教皇は聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・マッジョーレ)を訪問、同大聖堂に古くから伝わる聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ(ローマ人の救い)」の祭壇で祈られた。スペイン広場に到着された教皇は、前日枢機卿に叙任されたばかりのローマ教区教皇代理司教、バルダッサーレ・レイナ枢機卿と、ローマ市のロベルト・グアルティエーリ市長に迎えられ、ブロンズの壺に盛った白いバラを祝別、スペイン広場に隣接するミニャネッリ広場の無原罪の聖母のモニュメントに、2人のバチカン職員の手を通して献花をされた。
ミニャネッリ広場にそびえる無原罪の聖母のモニュメントは、1854年12月8日、教皇ピオ9世によって無原罪の御宿りが正式に信仰箇条として宣言されたことを記念して、3年後の1857年に建てられた。 毎年、12月8日の朝、ローマ市の消防団員らによって、記念碑の頂上に立つ無原罪の聖母マリア像の腕に花輪がかけられるほか、市民やカトリック団体による献花がされる。
教皇はこの記念碑を見上げながら、聖母に語りかけるように、祈りを捧げられ、無原罪の聖母に、「あなたにお捧げした花は、私たちの愛と感謝のしるしです… しかし、あなたは特に『祈り』という隠された花、特に小さき人々、貧しい人々の祈りとため息に耳を傾け、その涙をご覧になる方です」と呼びかけられた。
また、「様々な危機と戦争に苦しむ人類への希望のメッセージとして、ローマは再び聖年を迎えようとしています」とされた教皇は、「その準備のために市内のいたるところで工事が行われています。その中で『息子たちよ、これらの工事はよいことです。でも、魂の工事を忘れないように気をつけてください。本当の聖年は、あなたがたの心の中に、家族や社会の絆の中にあるのです。来られる主の道を整えるために、仕事をするのは心の中です』と言われる聖母の声を聞く思いです」と聖母に語りかけられた。
そして教皇は、「聖なる御母、ありがとうございます。なぜなら、希望が失われている今この時、私たちの希望であるイエスを再び与えてくださるからです」と聖母に感謝を捧げられた。
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聖母への祈りに続き、教皇は広場の病者やお年寄りに声をかけられ、会衆に祝福をおくられた。スペイン広場を後にされた教皇は、コルソ通りの美術館に立ち寄られ、聖年への導入行事として企画された展覧会「ローマでのシャガール:白い磔刑」を鑑賞され、バチカンに戻られた。
(編集「カトリック・あい」)
☩「クリスマスまでに世界中の全ての戦線で停戦を実現するように」教皇、世界の指導者たちに訴え
(2024.12.8 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは8日、「無原罪の聖母マリア」の祭日の正午の祈りで、関係国と世界の指導者に対して、戦争で苦しむ世界のすべての国々で、クリスマスまでに停戦が合意されるよう、強く訴えられた。
「関係国と世界の全ての国の指導者に訴えます。クリスマスの祝いの日までに、すべての戦線で停戦が実現することを」。この言葉は、世界中の紛争国における平和を祈るために、世界のすべての人々に祈りに参加するよう呼びかけた後に述べられた。
そして、「苦しむウクライナ、中東(パレスチナ、イスラエル、レバノン、そして新たにシリア)、ミャンマー、スーダン、そして戦争や暴力に苦しむ人々が存在するあらゆる場所のために、平和を祈り続けようではありませんか」と教皇は世界の全ての人に呼びかけられた。
教皇はこれまで、繰り返し、戦いを止めるよう関係国と世界の指導者に訴えておられる。昨年10月7日のハマスによるイスラエル攻撃以来、ガザ地区へのイスラエル軍の爆撃、破壊が続き、すでに4万人以上が命を落とし、イスラエル軍のレバノンへの攻撃がここ数か月でエスカレートし、ウクライナへのロシア軍のウクライナ軍事侵攻が長期化し、多大の犠牲をもたらし続け、ミャンマーでも2021年の軍事クーデターによる民主政府崩壊以来、内戦が続き、スーダンでは昨年4月以来、軍と準軍事組織の反政府勢力との戦闘で6万人以上が死亡し、数百万人が避難を余儀なくされている…。
また、シリアでは14年にわたる紛争が、反政府軍事勢力による首都ダマスカス制圧、アサド大統領の国外脱出など、状況が急展開していることにも触れ、これが速やかな同国の平和回復につながることを願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「全世界の教会に対する私の司牧的奉仕を助けてくれるように」新枢機卿および枢機卿団と共に無原罪の聖母マリアの荘厳ミサでの説教
(2024.12.8 Holy See)
教皇の新枢機卿および枢機卿団による無原罪の聖母マリアの荘厳ミサでの説教全文以下の通り。
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「おめでとう、恵まれた方」(ルカ福音書1章28節)。この挨拶の言葉をもって、天使はナザレの貧しい家で、マリアに、受胎の瞬間から「原罪のあらゆる汚れから守られ」(『Ineffabilis Deus(神は不可能を可能にする)』教皇ピウス9世、1854年12月8日)てきた汚れなき心の神秘を明らかにしました。
キリスト教徒は、さまざまな方法で、何世紀にもわたって、その贈り物を言葉やイメージで表現しようとしてきました。聖母の優しさと恵みを強調するために、あらゆる民族や文化の特色や特徴を反映した姿で聖母を描いてきました。「女の中で祝福された方」(ルカ福音書1章42節参照)です。
聖パウロ6世が述べておられるように、神の母は私たちに「私たち全員が心の奥底に抱いているもの、すなわち、真の人間像、無垢で聖なるもの」を示している。マリアの存在は純粋な調和、誠実さ、純真さであり、完全な透明性、優しさ、完璧さであり、究極の美である」(1963年12月8日「無原罪の聖母の祝日に関する説教」)。マリアは純粋な調和、誠実さ、純真さです。
神の言葉に照らしてマリアの美しさを考えるために、しばし立ち止まり、マリアが私たちに身近な存在であることを思い起させてくれる彼女の生涯の3つの側面に注目しましょう。その3つの側面とは何でしょうか―マリアは娘、花嫁、母なのです。
まず、無原罪の聖母を「娘」として考えてみましょう。
福音書は、マリアの幼少期について語りません。歴史の舞台に登場したマリアを「深い信仰心を持ち、謙虚で素朴な少女と」して紹介しています。マリアは「おとめ」(ルカ福音書1章27節参照)であり、そのまなざしには父の愛が反映されています。マリアの清らかな心の中で、彼女の無償の愛と感謝の気持ちが、彼女の聖性を色づけ、香りを添えています。聖母は、「気づかれることなく育ち、自己を捧げる」という贈り物として花開く美しい花として、私たちの前に姿を現します。マリアの生涯は、「自己を捧げる」という贈り物を絶え間なく与え続けることでした。
これは、マリアの素晴らしさの第二の側面、すなわち、神の救済計画の同伴者として神に選ばれた「花嫁」としての側面(第二バチカン公会議「教会憲章」61項参照)につながります。
教会憲章は次のように述べています。「神はマリアを選ばれた。神は救済計画を遂行する助け手として一人の女性を選ばれた。教会そのものが女性である以上、女性なしに救済はありえない」。
マリアは天使ガブリエルの受胎予告に「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)と答えました。彼女は「仕え女」ですが、それは「卑しい」とか「屈辱的」という意味ではなく、主が最も大切な宝や最も重要な使命を委ねるに足る者として「信頼」され「尊重」されているという意味なのです。
ダイヤモンドのように多面的なマリアの素晴らしさは、新たな側面を明らかにする。それは、忠実さ、誠実さ、そして愛情に満ちた思いやりであり、これらはすべて、夫婦間の愛に典型的なもの。聖ヨハネ・パウロ2世は、無原罪の聖母が「夫婦間の愛に導かれ、神の子の母としての召命を受け入れ、その愛は人間を完全に神に『奉献』する」と書いたとき、まさにこのことを理解していた(「Redemptoris Mater(あがない主の母))」39項)」と語っておられます。
そしてマリアの素晴らしさの第3の側面。マリアは「母」です。
マリアは、幼子イエスを抱いたり、飼葉おけに横たわる神の子に身をかがめて世話をしたりしている姿で描かれることが多い(ルカ福音書2章7節参照)。彼女は生涯を通じて、常に謙虚な姿勢で身を隠しながらも、母としての深い愛情を注ぎ、息子のそばに寄り添っていた。
この親密な関係は、カナの婚宴で花嫁と花婿のために取り成しをした場面(ヨハネ福音書 2章3-5節参照)、神の言葉に耳を傾けたことで称賛されたカファルナウムの場面(ルカ福音書 11章27-28節参照)、そして最後に、死刑囚の母として十字架の足元で、イエスご自身が彼女を私たちの母として私たちに与えてくださった場面(ヨハネ福音書 19章25-27節参照)。十字架の足元で、汚れなき聖母は、実り多い素晴らしさにあふれています。なぜなら、「命を与えるためには、自分自身を捨て、聖母のもとにやってくる貧しく弱い人々を世話するためには、自分自身を忘れる必要がある」と聖母は理解しているからです。
これらのすべては、罪から清められ、聖霊の働きに素直に従う(「Redemptoris Mater」13項参照)マリアの清らかな心、愛から「知性と意志の完全な服従」(「Dei Verbum(神の言葉)」5項および「Dei Filius」3項参照)を神に捧げる心構えができている心です。
しかし、マリアの素晴らしさは「どこか遠く、手の届かない、手の届かないものだ」と考えてしまう恐れがありますが、そうではない。私たちも洗礼によって罪から解放され、神の子となった時に、この素晴らしさを贈り物として受け取っています。聖母マリアのように、私たちはこの素晴らしさを、親としての愛、配偶者としての愛、母としての愛をもって育むよう呼びかけられているのです。彼女のように、私たちが受け取ったものに感謝し、お返しするものにも寛大であるように。
私たちは、言葉だけでなく、何よりも行動によって「ありがとう」と「はい」と答えられる人間でありたい。行動によって「ありがとう」と「はい」と答える人間を見つけるのは素晴らしいことです。私たちの計画や希望の中に常に神の居場所を作り、道中で出会う兄弟姉妹を母の優しさで抱きしめることを熱望する人間です。
「無原罪の聖母」は、神話でも抽象的な教義でも、実現不可能な理想でもありません。彼女は素晴らしい具体的なプロジェクトの模範であり、私たちの人間性の完璧な手本です。私たちが彼女の模範にならうように、神の恵みによって、私たち全員が世界をより良いものに変えていくことができるでしょう。
悲しいことに、私たちの周りを見まわすと、最初の罪を犯すきっかけとなった「神のようになれる」という思い上がり(創世記 3章1-6節参照)が、今も私たちの人間家族を傷つけ続けていることが分かります。この自己充足の思い上がりからは、愛も幸福も生まれません。
「人生における安定した永続的な絆を拒絶することが進歩である」と考える人々は、自由を認めません。父親や母親を尊敬の念から遠ざける人々、子供を欲しがらない人々、他人を単なる物として見なしたり、厄介者として扱う人々、他人と分かち合うことを無駄と考えたり、連帯を貧困とみなしたりする人々は、喜びを広めたり、未来を築くことはできません。
たとえ銀行口座がいっぱいで、快適な家があり、バーチャルな関係が充実していても、心が冷たく、空っぽで閉ざされたままであれば、何の意味があるでしょう? 特権的な国々で経済が大きく成長しても、世界の半分が飢えや戦争に苦しみ、他の人々は無関心でいるとしたら、何の意味があるでしょう? 世界中を旅しても、出会いは一過性の印象や写真に過ぎず、数日、数か月もすれば誰も覚えていないとしたら、何の意味があるでしょうか?
兄弟姉妹の皆さん、無原罪の聖母に目を向け、その愛に満ちた御心によって私たちを征服してくださるよう、彼女に求めようではありませんか。彼女が私たちを
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変え、親孝行、夫婦愛、母性愛が生活の規範であり基準となる共同体にしてくださるように。そうして初めて、家族は一つになり、夫婦は本当にすべてを分かち合い、両親は子供たちのそばにいて、子供たちは両親を大切にするようになるのです。 無原罪の聖母の素晴らしとは、まさにそれです。「世界を救う素晴らしさ」です。
私たちもマリアのように、主に向かってこう応えたい―「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)と。
私たちはこのミサを新枢機卿たちと共に捧げています。私は兄弟である新枢機卿たちに、全世界の教会に対する私の司牧的奉仕を助けてくれるよう願いました。世界の様々な地域からやって来て、神の国の成長と普及に貢献するために、偉大な知恵をもたらします。今こそ、私たちの救い主の母のとりなしに、新枢機卿たちを特別に委ねる必要があります。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「世界中で悲劇に見舞われ苦しむ数多くの人たち、戦争はもう、たくさんだ!」キリスト降誕の準備で

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「権力の誘惑に惑わされ、イエスの道からはずれることのないように」教皇、21人の新枢機卿たちに
(2024.12.7 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコ7日夕、21人の新枢機卿任命の枢機卿会議での説教で、「権力の誘惑に目を奪われることなく、常にイエスの道を歩み、出会いに情熱を傾けるように」、そして、「謙虚さ、驚き、喜びと共に、イエスの道を共に歩むように」と新枢機卿たちを戒められた。
説教で教皇は、「イエスがエルサレムに登られたのがこの世の栄光のためではなく、神の栄光のためであったように、あなたがたも主を真ん中に置き、交わりと団結の建設者となる必要があります」と念を押され、枢機卿とは「地上のすべての人々に神の慈悲深い愛を告げ続ける教会の普遍性を表現するもの」と指摘された。
*神の御前で謙虚に立て
教皇は、マルコ福音書を引用して「イエスは、エルサレムで十字架上で亡くなられることにより、人々を復活へと導く… 弟子たちは勝利を収めた救世主の”円滑な下山ルート”を考えていましたが、イエスは、『カルヴァリオへ続く困難な上り坂』を選ばれたのです」とされた。
そして、「私たちにも同じことが起こり得ます… 私たちの心は迷うことがあります。権威の魅力や権力の誘惑、主に対する行き過ぎた熱心さに目を奪われることがあります… だからこそ、私たちは内省し、謙虚な姿勢で神の御前に立ち… 自問する必要があります―『私の心はどこに向かっているのか? どこに向いているのか?』『 もしかしたら間違った道を選んでしまったのではないか?』と。私たちは自己を顧み、謙虚な気持ちで神の御前に立つ必要があるのです」と説かれた。
*イエスの道を歩むことは、すべてにおいてイエスを中心に据えること
また教皇は、「新枢機卿たちがイエスの道を歩むためにあらゆる努力をするよう求められていること」を強調。「イエスの道を歩むこととは、何よりもまず、イエスのもとに戻り、すべてにおいてイエスを再び中心に据えることです」と述べ、「本当に重要なことを覆い隠してしまうような、二次的なことや外見に目を向けるように」と注意された。そして、「『枢機卿』という言葉は、ドアを固定し、支え、補強するためにドアに挿入される蝶番を意味します… 愛する兄弟たちよ、イエスは私たちの真の支えであり、私たちの奉仕の『重心』、私たちの生活全体に方向性を与える『基点』です」と語られた。
*出会いに情熱を傾け、「敵対の壁」に捕らわれないように
続けて「イエスの道を歩むことは、出会いに情熱を傾けることでもあります」、そして、「イエスは決して一人では歩みませんでした」とされた教皇は、「イエスは、傷ついた人間性を癒し、心の重荷を軽くし、罪の汚れを清め、奴隷状態の絆を断ち切るために来られました… その道中で、苦しむ人々や希望を失った人々の顔に出会われました。倒れた人を起こし、病める人々や心の傷ついた人々を癒されました」と述べられた。
そして、「『イエスの歩まれた道を歩む』ということは、つまるところ、一致と団結を築くことなのです」と語られ、「同じ父の子供である」という自覚を妨げる「競争という虫」と「敵対の隔ての壁」に捕らわれないように、新枢機卿たちに警告された。
説教の最後に教皇は、(異なる背景や文化を持つ中でカトリック教会の普遍性を象徴している)新枢機卿たちに対し、「兄弟愛の証人、交わりの職人、そして団結の建設者」となるよう促され、聖パウロ6世教皇の枢機卿任命式における演説を引用して、「私たちの願いは、教会の家族の誰もが居心地良く感じ、排除や孤立がなく、愛の一致にとって有害であることを証明し、他者の犠牲のもとに一部の者が優位に立つような努力をすることのないようにすることです」と強調。「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに仕え、福音の奉仕者となりなさい」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「聖霊について」⑯ 教会での説教を構成するのは「福音」と「聖霊の支え」
☩「戦争は問題を解決しない」―教皇、待降節最初の一般謁見で改めて訴え
(2024.12.4 Vatican News Kielce Gussie)
教皇フランシスコは4日、待降節最初の水曜恒例の一般謁見で、世界平和への呼びかけを改めてなさった。
教皇は平和を祈る必要性を強調され、「戦争は、人間の敗北です… 戦争は問題を解決しません」と語られたうえで、世界中で続いている戦争、特に「殉教したウクライナ」、「パレスチナ」、「イスラエル」、そして「ミャンマー」のために祈りを捧げられた。
そして、これらの国々では「多くの子供たちが、多くの罪のない人々が死んでいます」と嘆かれ、「戦争は悪であり、戦争は破壊です」と強く批判。「主が私たちを平和へと導いてくださるよう、祈りましょう」と信者たちに呼びかけられた。
また、民主政府が軍事クーデターで倒されて3年を経てなお、国軍と反政府武装勢力の間で戦闘が続いているミャンマーの人々の悲劇についても思い起こされ、速やかな和平を願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦争への恐怖に麻痺し、無関心が蔓延すれば、人類全体が敗北する」教皇、1日の正午に祈りの終わりに

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「私たちの心を明るくし、歩みを支えてくださる神に目を向ける機会となるように」待降節第1主日の正午の祈りで
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「潜伏キリシタンの遺産が、信者たちが信仰の宝を伝えた証しとして役立つように」ー禁教期のキリシタン研究会の会員たちに
◎教皇連続講話「聖霊について」⑮ 「『聖霊の実』である喜びは、日々新たにされ、他者に伝わっていく」
