☩「 主は限りない慈しみで、いつもすべてを赦してくださる」教皇、聖ステファノ殉教者の祝日、正午の祈り

Pope Francis at AngelusPope Francis at Angelus  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇フランシスコは、最初のキリスト教徒殉教者である聖ステファノの祝日、26日の正午の祈りに先立つ説教で、信者たちに「今、信仰のために迫害されている人々に関心を持ち、彼らのために祈っているかどうか」を自問するよう呼びかけられた。

 主の降誕の大祝日の翌日の26日のミサでは、石打ちの刑に処されて殉教した最初のキリスト教徒の殉教者である聖ステファノを祝う。使徒言行録によると、ステファノは死の間際、自分を殺した者たちのために祈った、という。

 教皇は、「ステファノは、一見すると暴力に対して無力であることに苦しんでいるように見えますが、実際には、真に自由な人間として、殺人者たちをも愛し続け、彼らのために自分の命を捧げました。まるで十字架上のイエスのようにです」と指摘。

 「このように、ステファノは、死の瞬間においても主の慈悲と愛を模範としており、『すべての人を救いたい、一人も失いたくない』という神の偉大な願いの証人として、私たちには見えます」と語られた。

 そして、「残念ながら、今日でも、世界中のさまざまな地域で、福音のために迫害され、時には死に至るまで苦しめられる男女が数多くいます。ステファンについて語られたことは、彼らにも当てはまります」とされ、 「彼らは、弱さゆえに殺されることも、イデオロギーを守るために殺されることも容認しない。すべての人を救いの賜物に参加させるために殺されるのです。何よりもまず、彼らは殺害者のためを思ってそうするのです」と強調。信仰のために犠牲となる人々のために祈られた。 

 さらに教皇は、現代の殉教者である福者クリスチャン・ド・シェルジュを素晴らしい模範として取り上げられた。彼は1996年にアルジェリアの10年間にわたる内戦中に殉教したティブリネの7人の福者修道僧の一人。修道院長だったクリスチャン・ド・シェルジュと、修道士の兄弟であるルック・ドシェ、クリストフ・ルブレトン、ミシェル・フルーリ、ブルーノ・ルマルシャン、セレスティン・リンガード、ポール・ファーブル・ミヴィルの7人は全員斬首され、その頭部は2か月後にティビリーンからそれほど離れていない場所で発見されたが、遺体は見つからなかった。

 「迫り来る死を予見していた福者ド・シェルジュは、霊的遺言の中で、自分を殺すであろう人物を“最後の瞬間の友人”と呼びました」と教皇は振り返られた。

 これらのことを踏まえて、教皇は信者たちにいくつかの質問について熟考するよう促された―「私は、すべての人々が神を知り、すべての人々が救われることを望んでいるだろうか? 自分を苦しめる人々の幸福を望んでいるだろうか?」、そして「信仰のために迫害されている多くの兄弟姉妹に関心を持ち、彼らのために祈っているだろうか?」。

 最後に教皇は、殉教者の女王マリアに、「私たちが世界を救う福音の勇敢な証人となるよう助けてください」と懇願されて、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年12月26日

☩「希望、平和、そして一致の巡礼者となれますように!」ー教皇がクリスマス・メッセージと”Urbi et Orbi”の祝福

(2024.12.25 Vatican News   Thaddeus Jones)

   教皇フランシスコは主の降誕の大祝日25日の正午、聖ペトロ大聖堂のロジア(2階中央のバルコニー窓)から、広場の群衆と世界中のメディアを通じて生中継を見ている人々に向けて、恒例のクリスマスの挨拶とメッセージを述べられ、復活の大祝日にも行う”Urbi et Orbi”(ローマ市と全世界へ)の祝福をなさった。

*神の心は常に私たちに開かれている

 

 教皇はクリスマス・メッセージの冒頭で、「今日、私たちが祝う喜びは、2000年前に起こった出来事、すなわち、救済の永遠の言葉である『主イエスの誕生』に由来するもの… この出来事は、今日もなお、すべての男女に語りかけ続けています―『私はあなたを愛している。あなたを赦します。私のところに戻って来なさい。私の心の扉は開かれている!』と」と語られた。

 そして、「神の心の扉は常に開かれています… 私たちを愛し、赦してくださる、その心へと立ち返り、神との和解を可能にするように」と信者たちに呼びかけられた。

 

*すべての人に開かれた救いの聖なる扉

 

 続けて教皇は、24日夜、2025年の聖年を宣言するために聖ペトロ大聖堂の聖なる扉が開かれことを思い起こされ、この扉は「すべての人に開かれた救いの扉であるイエスを表しています」とされたうえで、「兄弟姉妹の皆さん、恐れてはなりません! 扉は開いています。大きく開いています!神と和解し、そして自分自身とも和解し、さらには敵対する者とも和解できるようになるのです。神の慈悲は、すべてを可能にし、あらゆる結び目を解き、あらゆる隔ての壁を取り壊し、憎しみと復讐の念を追い払います。イエスこそ『平和の扉』なのです」と強調された。

 

*”敷居”を越える勇気

 

 その一方で教皇は、「その扉の”敷居”を越えるには勇気が必要です。なぜなら、私たちはそうするために、古いやり方や考え方を犠牲にし、争いや分裂を過去のものとし、神の愛に身を委ねなければならないからです」とも説明され、「このクリスマス、聖年のはじまりにあたり、私は、すべての人々、すべての民族、すべての国家が、その扉を通り抜けるために必要な勇気を奮い起し、希望の巡礼者となり、武器の音を沈黙させ、分裂を克服することを呼びかけます!」と訴えられた。

*武器が沈黙しますように

 

 世界が直面する課題に目を向けられた教皇は、「戦争で荒廃したウクライナで武器の音が沈黙すること」を祈られ、関係国と世界の指導者たちに「正義と永続する平和のために、強さと交渉や対話へ心を開くように」と促された。

 また、中東での戦争終結を祈り、ベツレヘムの馬小屋とイスラエル、パレスチナのキリスト教共同体を思い起こされ、特に、人道面で深刻な状況にあるガザ地区について、「停戦が実現し、人質が解放され、飢えと戦争で疲れ果てた人々に援助が提供されますように」と祈られた。

 変革の渦中にあるレバノンとシリアのキリスト教社会にも親近感も表明。「紛争で荒廃したこの地域全体に、対話と平和の扉が大きく開かれますように」と祈られた。また、リビア国民が国家の和解に向けて取り組むよう激励された。

 

 

*苦しむ人々への人道支援

 

 さらに教皇は、私たちが祝う救い主の誕生が、コンゴ民主共和国、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、モザンビークで麻疹の流行に苦しむ何千人もの子供たちに希望を与えることを祈られ、「この人道危機が主に人間の要因、すなわち武力紛争やテロの惨害に起因し、気候変動によって悪化し、数百万人の避難を余儀なくさせ、多くの人々を死の危険にさらしている」と批判。「アフリカの角」の住民を思い起し、「彼らに、平和、調和、友愛の贈り物がもたらされるように」と祈られ、スーダンの一般市民についても、「彼らに緊急に必要とされる人道支援が届き、新たな停戦交渉が行われるように」と祈られた。

 

*対話と社会の調和を祈る

 

 また、長期にわたる紛争で多くの人々が苦しみ、避難を余儀なくされているミャンマーについても、「クリスマスがミャンマーの人々に安らぎをもたらしますように」と祈られ、混乱が続くラテンアメリカの現状についても、「法と真実をもって分裂を克服し、人々が望む社会の調和と公益を促進するために、政治当局と善意ある人々が協力するように」と促され、ハイチ、ベネズエラ、コロンビア、ニカラグアについて言及された。

 教皇は、半世紀にわたって分断されたままのキプロス島の住民についても、分離の壁が取り払われ、すべての共同体社会の権利と尊厳を十分に尊重した上で、相互に合意できる解決策が見出されるよう祈りを捧げられた。

 

 

*イエスは私たちを待っておられる

 

 「神の永遠の言葉であるイエスは、私たちが存在の意味とすべての生命の神聖さを再発見し、人類の基礎となる価値観を取り戻すために招き入れられる、開かれた扉です」とされた教皇は、イエスが「特に最も弱い立場にある人々」、すなわち戦争や飢餓に苦しむ子供たちや、孤独の中で見捨てられて生きることを余儀なくされることが多い高齢者たちのために、「玄関口で待ち受けておられること」を強調。また、家を失い、安全のために母国を離れ、職を失い再就職もできない人々、刑務所に収監されている人々、信仰のために迫害を受けている人々を、主が待ち受けておられる、とも説かれた。

*人々のために働く方々に感謝する

 

 教皇は、奉仕や善行、他者への支援に身を捧げる人々を称賛し、また「次世代を形作るという大きな責任を担う両親、教育者、教師たち」を思い起こされ、医療従事者、軍人、慈善団体、そして特に「困難に直面する多くの人々に光と慰めをもたらしている世界中の宣教師たち」に感謝の意を表された。

*私たちの負債を赦してください

 最後に、教皇は、この聖年が特に最貧国の負債を赦す機会となるよう祈った。「神の子が夜の寒さと闇の中で生まれたように、神の子は私たちを赦してくださっている」と教皇は述べ、主が「私たちを癒やし、赦してくださっている」と述べられた。

 そして、「希望の巡礼者として、神のもとへ出かけましょう!神が私たちに心を開いてくださったように、私たちも神に心を開きましょう!皆さまに穏やかで祝福されたクリスマスがありますように」とメッセージを締めくくられた。

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   バチカン放送によるメッセージ原稿全訳は以下の通り。

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 親愛なる姉妹の皆さん、親愛なる兄弟の皆さん  主の降誕のお喜びを申し上げます。

 この夜、私たちに驚きと感動を与え続ける神秘が新たにされました。おとめマリアはイエスを生みました。神の御子は布にくるまれ、飼い葉桶の中に寝かされています。ベツレヘムの羊飼いたちが見たものはこうした光景でした。羊飼いたちは喜びに満たされました。天使たちは「栄光、神にあれ、平和、人にあれ」(参照 ルカ2,6-14)と歌っていました。

 2000年前に起きたこの出来事は、聖霊の働きによって新たにされます。愛といのちの聖霊ご自身によってマリアは受胎し、その人間の体をもってイエスを生みました。そして、今日、この時代の苦悩の中で、永遠の救いの御言葉は再び真に受肉し、すべての人に、全世界に「あなたを愛している。あなたを赦そう。私に立ち帰りなさい。私の心の扉は開いている」と呼びかけています。

 兄弟姉妹の皆さん、神の心の扉はいつも開いています。神に立ち返ろうではありませんか。私たちを愛し、赦されるその御心に帰りましょう。神に赦していただきましょう。神と和解させていただきましょう。

 昨晩、ここ聖ペトロ大聖堂で私は聖年の聖なる扉を開きました。聖なる扉、それはすべての人に開かれた救いの扉、イエスを意味します。イエスは慈しみ深い御父が世界の、歴史の真ん中に開けた扉です。それはわたしたちが神に立ち返るためのものです。私たちは皆、道を見失った羊として、羊飼いと、御父の家に戻るための門を必要としています。イエスは羊飼い、イエスは門です。

 兄弟姉妹の皆さん、恐れてはいけません。扉は開いています。大きく開かれているのです。来てください。神と和解させていただきましょう。そうすることで私たちは自分自身と和解し、私たちの間でも、私たちと敵対する人とも、和解することができるのです。そうです。神の慈しみは何でも可能です。あらゆる結び目を解き、隔ての壁を打ち壊し、憎しみと復讐の精神を解きほどいてくれます。来てください。イエス」こそが平和の門です。

 私たちはしばしば敷居の上で立ち止まります。それを乗り越える勇気がないのです。自分を問いただすただすからです。扉から入り、平和の君である幼子イエスの腕に自身を委ねるには、一歩を踏み出すための、争いや分裂を捨て去るための、努力が必要です。聖年の始まりであるこの降誕祭に、すべての人、すべての民族、国に呼びかけたいと思います。扉をくぐり、希望の巡礼者となり、武器を捨て、分裂を乗り越える勇気を持ってください。

 苦しむウクライナで武器の音が止みますように。あるべき恒久の平和に到達するために、交渉と、対話と出会いの態度に、扉を開く勇気を持つことができますように。

 中東で人々が武器を収めますように。ベツレヘムの飼い葉桶の幼子イエスを見つめながら、特に深刻な人道状況にあるガザをはじめ、イスラエルとパレスチナのキリスト教共同体を思います。戦闘をやめ、人質を解放し、飢えと戦争で疲弊した人々を助けることができますように。

 わたしはレバノン、特に同国南部の、また現在大変複雑な状態に置かれたシリアの、キリスト教徒たちに寄り添いたいと思います。紛争に引き裂かれたすべての地域で、対話と平和の扉が開きますように。ここで、リビアの人々にも、国内の和解を促す解決を見つけられるように励ましたいと思います。

 救い主の誕生が、感染症による危機に見舞われているコンゴ民主共和国の家族や子どもたちに、また同国東部や、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、モザンビークの人々にも希望の時をもたらしますように。

 主に武力紛争やテロリズムの傷によって引き起こされた人道危機は、気候変動の破壊的な影響によって深刻化し、人命の喪失と無数の避難民を生んでいます。

 同様に、「アフリカの角」地帯の国々にも、平和と調和、兄弟愛の賜物を祈ります。いと高き方の御子が、スーダンの市民に対する人道支援へのアクセスを促し、停戦を目指す新たな協議を開始するための国際社会の努力を支えてくださいますように。

 主の降誕の知らせが、ミャンマーの住民に慰めをもたらしますように。ミャンマーでは、長引く武力衝突により、人々は苦しみ、家を離れ逃げざるを得ない状況に置かれています。

 ハイチ、ベネズエラ、コロンビア、ニカラグアをはじめ、アメリカ大陸諸国が、社会調和を推進するための解決を、真理と正義のもとに一刻も早く見つけることができるように、幼子イエスが政治家とすべての善意の人々に霊的な促しを与えてくださいますように。また、特にこの聖年において、人々が政治的対立を乗りこえ、共通善を築き、すべての人の尊厳を再発見できるように、働きかけてくださいますように。

 聖年がすべての隔ての壁を、特に政治生活、実生活に影響を与えがちなイデオロギー的な壁を打ち壊すための機会となりますように。たとえば、キプロス島では、すでに50年にわたる分裂が人々と社会の基盤を傷つけています。キプロスのすべての共同体の権利と尊厳の尊重のうちに共通の解決を見出し、分裂に終止符を打つことができますように。

 人となられた永遠の神の御言葉、イエスは開かれた扉です。私たちは人生の意味とすべての命の神聖さを見出すために、人類家族の土台となる価値を再発見するために、その扉をくぐるようにと招かれています。イエスは戸口で待っておられます。最も弱い立場にある人々はもとより、私たち一人ひとりを待っておられます。

 イエスは子どもたちを、戦争と飢えに苦しむすべての子どもたちを待っておられます。しばしば孤独で見捨てられた状態で暮らすお年寄りたちを待っておられます。家を失い、安全な場所を求めて故郷から逃げた人々、仕事を見つけられない人を、すべてに関わらず常に神の子である受刑者たちを、信仰によって迫害される人々を待っておられます。

 この祭日、静かに誠実に善のために尽くす人々に、私たちの感謝が欠けることがありませんように。未来の世代を育成する大きな責任を担う両親や教育者たち、医療従事者や、警察関係者、愛の業に取り組む人々、特に困難にある多くの人々に光と慰めをもたらす世界各地の宣教者たちを思います。すべての人々に感謝を表しましょう。ありがとうございます。

 兄弟姉妹の皆さん、聖年が借りを免除する機会に、特に最も貧しい国々の債務を免除する機会となりますように。一人ひとりが自分が受けた侮辱を赦すようにと招かれています。なぜなら寒く暗い夜にお生まれになった神の御子が私たちのあらゆる借りを帳消しにしてくださったからです。御子はわたしたちを見つめ、赦すために来られました。希望の巡礼者たちよ、イエスに出会いに行きましょう。ご自身の聖心の扉を私たちに開け放ってくださったイエスのように、私たちも心の扉を開こうではありませんか。

 すべての皆様に平安で聖なる降誕祭をお祈り申し上げます。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年12月25日

☩「キリストの希望の光がすべての人を照らしますように」-教皇、主の降誕深夜ミサ、聖なる扉を開き 2025年の聖年開始を宣言

(2024.12.24 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコが24日夜(日本時間25日未明)、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を開き、2025年の「希望の聖年」を正式に宣言され、主の降誕の深夜ミサの説教で、「ベツレヘムにお生まれになった幼子キリストが世界に無限の希望と喜びをもたらす」と確信を述べられた。

 教皇は25年ごとに開催される歴史的なイベントである「通常聖年」を、主の降誕の深夜ミサの冒頭に聖なる扉を開くという典礼を持って開始された。通常聖年に聖なる扉が開かれるのは、2000年に聖ヨハネ・パウロ2世が行って以来のこと。 教皇フランシスコは、2016年を「いつくしみの特別聖年」とされ、2015年の主の降誕の深夜ミサで聖なる扉を開いておられる。今回の聖年は2026年1月6日の主の公現の祝日に聖なる扉を閉じることで終了する。

 

*聖なる扉の意義

 聖なる扉は、そこを通って入るすべての人に聖なる生活を歩むよう呼びかけるための「聖なる」ものとみなされている。教皇に続いて、聖年賛歌が歌われる中で神の民の代表者たちがその敷居をまたいだ。これは、聖年中に聖ペトロ大聖堂を訪れ、救済の神秘を祝う、あらゆる国や言語を話す無数の希望に満ちた巡礼者たちの”前奏曲”となるものだ。

 この慣習の起源は、1423年の特別聖年にラテラノ大聖堂の聖なる扉を開いたマルティヌス5世教皇にまで遡る。聖ペトロ大聖堂では、1450年の聖年に初めて聖なる扉が開かれた。扉の場所は、ヨハネス7世教皇が聖母マリアに捧げた礼拝堂の後壁にある。1500年、アレクサンデル6世教皇は、この聖年の開幕の象徴に、何世紀にもわたってほとんど変わることなく受け継がれてきた儀式を行った。2000年、それまでのレンガ造りの壁が取り払われ、1983年にすでに設置されていた青銅の扉が儀式的に開かれるようになった。

 

 

*信仰を強め、私たちの間にいるキリストを認識するための聖年

  2025年の聖年開始にあたって、教皇は「この聖年に、キリストの希望の光がすべての人を照らし、神の愛のメッセージがすべての人に届けられますように。そして、教会が世界のあらゆる場所でこのメッセージを忠実に証言しますように!」と祈られた。そして、この1年を通して自らを整え、「私たちの信仰を強め、私たちの生活のただ中に復活したキリストを認識し、私たちをキリスト教の希望の巡礼者へと変容させるために祈るように」と世界の信者たちに呼びかけられた。

*私たちを神に似た者とするために地上に降りられた

 ミサ中の説教で教皇は、今回の聖年のテーマである「希望」を取り上げ、まず、ルカ福音書に記された「光に包まれた主の天使が夜を照らし、羊飼いたちに吉報をもたらす場面」を思い起こされた―「私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章10-11節)。

 そして、貧しい人々の驚嘆と天使の歌声の中で天国が地上に現れる様子について思いを巡らせ、「神は、私たちを神に似た者とするために、私たちの仲間となってくださった。神は私たちのもとに降りてきて、私たちを高め、父の抱擁のもとに私たちを回復してくださったのです」と強調。

 

*幼子は世界に希望をもたらす

 

 さらに教皇は「『神は私たちと共に』という意味の『エマヌエル』に、私たちは希望を見出します… 限りなく偉大な方が、自らを小さくされました。天の栄光が、幼子として地上に現れたのです」とさら、「たとえ私たちの心が”粗末な飼い葉桶”のように見えたとしても、神が私たちを訪れてくださるのなら、私たちは心からこう言えます―『希望は死んでいない。希望は生きている。そして、それは永遠に私たちの人生を包み込むのだ!』と」と説かれた。

 

 

*この世の闇に「光の巡礼者」として、希望を携えて進もう

 

 続けて教皇は、聖なる扉が開かれたことで新たな聖年が始まり、「私たち一人ひとりが、この特別な出来事の神秘に踏み込むように、と促されていること」を思い起こされ、「今夜、希望の扉が世界に向けて大きく開かれました… 神は私たち一人ひとりに語りかけ、『あなたにも希望がある!』と告げているのです」と強調。

 「私たちのためにお生まれになった主を、喜びと注意深さをもって見つめ、出会いましょう。日々の生活に希望をもたらすために。キリスト者の希望は、受動的に待つ『ハッピーエンド』ではなく、苦しみとため息の絶えない私たちの世界で、今ここで、歓迎されるべき主の約束なのです」とされた教皇は、「急いで、私たちのために生まれてくださった主を仰ぎ見ようではありませんか。私たちは、心を喜びと注意深さに満たされ、主と出会う準備、そして日々の生活に希望をもたらす準備ができているのですから」と語られた。

 そして、それは、聖年を迎えるにあたっての「ぐずぐずしないこと、古い習慣 に縛られないこと、平凡さや怠惰に甘んじないこと」を呼びかけでもある。教皇は、教会博士である聖アウグスティヌスが、希望とは「間違っていることに憤り、それを変える勇気を見出すよう私たちに呼びかけていること」と示唆したことを思い起され、「主の弟子として、私たちは、神に大きな希望を見出すよう呼びかけられています。そして、その希望を、遅滞なく、この世の闇の『光の巡礼者』として携えて進むのです」と信者たちを促された。

*主との出会いの喜びを再発見する

 さらに教皇は、「兄弟姉妹たちよ。これは聖年なのです。主と出会う喜びを再発見するよう招かれている希望の季節です」とされ、聖年が「私たちを精神的な再生へと導き、世界の変革に私たちを献身させる。そうすることで、今年が真に歓喜の時となるでしょう」と念を押された。

 そして説教の最後に、「愛する姉妹、愛する兄弟たちよ、今夜、神の心の『聖なる扉』は皆さんの前に開かれています。私たちと共におられるイエスは、あなたのために、私たちのために、すべての人々のためにお生まれになりました。イエスとともに喜びは花開き、イエスとともに人生は変わり、イエスとともに希望は裏切られることはありません」と強調された。

*聖年の開始に関わる25日からの教皇行事

 

 主の降誕の主日の25日正午、教皇はローマ市民および世界中の人々に向けてウルビ・エト・オルビ(都市と世界)のメッセージを発せられる。26日、教皇は聖年の歴史で初めて、ローマ市内の刑務所5つに聖なる扉を開く。これは、入所者たちへの教皇の変わらぬ親近感を表す希望のしるしだ。

 29日、聖家族の祝日には、教皇は自身の司教座聖堂であるラテラノ大聖堂の聖なる扉を開かれる。そして、2025年1月1日には、神の母マリアの祝日に、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の聖なる扉が開かれる。最後に、1月5日、主の公現の祝日には、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が開かれる。これら最後の3つの聖なる扉は、2025年12月28日(日)に閉じられる。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2024年12月25日

☩「罪もない子供たちがあまりにも残虐な仕打ちを受け続けている」-教皇、世界中の戦闘地域に”クリスマス停戦”を訴え

「ベツレヘムの平和の聖火」が灯ったろうそくを手にするウクライナのスカウト会員たち 2024年12月15日 ウクライナ・キーウ「ベツレヘムの平和の聖火」が灯ったろうそくを手にするウクライナのスカウト会員たち 2024年12月15日 ウクライナ・キーウ  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年12月23日

☩「誕生する命の神秘に、私たちが驚嘆と感謝の念を抱くことができるように」ー待降節第4主日の正午の祈りで

 説教で教皇は、まず、聖母マリアと彼女の従姉妹で洗礼者ヨハネの母であるエリサベトの出会いから考察を始められ、「この出会いは、『母親』という素晴らしい贈り物を喜ぶ二人の女性の出会いです」とされ、「この聖ペトロ広場にも妊娠中の女性や子供たちと一緒の母親たちがいます。その存在に無関心でいないようにしましょう。その素晴らしさに驚嘆しましょう。そして、エリザベトやマリアが行ったように、母親たちを祝福し、生命の奇跡に神に感謝しましょう」と促された。

 

2024年12月22日

☩「全員が神の祝福のために働くように」教皇、降誕祭前の挨拶でバチカンの高官たちに促す

 教皇フランシスコは、降誕祭を数日後に控えた21日、枢機卿やバチカンの諸機関の責任者たちとの出会いを持たれた。

 この日、バチカン宮殿の「祝福の間」に集まった、教皇の協力者として働く枢機卿や、高位聖職者、バチカンの諸機関の責任者たちを前に、教皇は一年を締めくくる講話をされ、数多くの部署からなる複雑な構成を持った教皇庁で、仕事における共同体生活を享受するための助言をなさった。。

 教皇は、「祝福を祈りなさい。呪ってはなりません」(ローマの信徒への手紙12章14節参照)という使徒聖パウロの言葉を引用しつつ、「人を祝福し、悪く言わないことは、謙遜の表現であり、謙遜とはまさに人となられた神の御子の神秘の本質的側面です」と話された。

 さらに「他者のことを悪く考えたり、話したりせず、謙遜の道を歩み、喜びと兄弟愛のもとに生きる教会共同体のあり方」を示しながら、教皇は謙遜の道を実践するための霊的な訓練として、ガザのドロテオ(修道者505−565)ら、古き時代の霊的な師たちの教えである、他者を悪く言わないために自らを省みる精神を学ぶように勧められた。

 そして、「謙遜な人に何か不都合なことが起きると、その人はすぐに自分を省みて、自分はその起きたことにふさわしいと考える。他者のせいにして、彼らを罵ることはしない。動揺も苦しみもなしに、落ち着きのもとに、静かにそれに耐える。謙遜は自分をいらだたせず、他者をもいらだたせない」というガザのドロテオの言葉を紹介され、「この精神の基礎はイエスの中にあります… この日々、プレゼピオを見つめ、自らを低くされたイエスを観想することで、内的なへりくだりの精神についての気づきを得るように」と促された。

 また教皇は「受肉した御言葉は、神は私たちを呪われたのではなく、祝福してくださったことを表しています」とされ、「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめ讃えられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソの信徒への手紙1章3節)という聖パウロの賛美を思い起こされた。

 教皇はここで「神から祝福されているからこそ、祝福できる」という祝福の本質を指摘。「『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています』(ルカ福音書1章42節)とエリザベトから挨拶されたマリアこそ、まさに祝福された人であり、イエスという祝福を世にもたらすことができたのです」と説かれた。

 そし、教会の象徴であるマリアを見つめつつ、「神の人類に対する祝福の道具である教会において、私たちは全員が祝福のために働く人となるように召されているのです」と強調。「教皇庁という大きな組織の中で、たとえ異なる職務についていても、『すべての人は神の祝福と母なる教会を世に伝える』という同じ目的のために働いています」とバチカン関係者の日々の努力を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年12月22日

☩「聖年は、恵みに満ちた出会いの機会」―教皇、2025年聖年を前にイタリア日刊紙に寄稿

(2024.12.19 カトリック・あい)

 イタリアの日刊紙『Il Messaggero』が18日付けの電子版で、教皇フランシスコによる聖年についての考察を掲載した。

 その全文の日本語試訳は次の通り。

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 イスラエルの民の歴史において、ヨベルと呼ばれる雄羊の角笛の音は、「jubilee(聖年)」の語源であり、モーセの律法の規定(旧約聖書・レビ記25章「安息年とヨベルの年」参照)に従って、特別な年の始まりを告げるものとして、すべての村に響き渡りました。

 聖年は贖罪と再生の時であり、象徴的な性格を強く持つある選択によって特徴づけられています。 それは、「大地は神のものであり、守るべき賜物として神から私たちに与えられているのだから、誰もそれを所有し、搾取することはできない」ということを私たちに思い起こさせるための、大地の耕作からの休息であり、不平等に対する社会正義を周期的に、そして50年ごとに再確立することを目的とした負債の免除であり、奴隷の解放でした。

 ナザレのシナゴーグでの説教の冒頭で、イエスはこのユダヤ教の十二年祭を取り上げ、新しい究極的な意味をお与えになりました。イエスは「捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にする」(ルカ福音書4章18-19節参照)ために来られたのです。

 このような救世主の使命において、聖年は、人間生活におけるあらゆる抑圧を包含するように拡大し、その結果、罪、諦念、絶望の牢獄にいる人々を解放し、神と出会い、隣人を見ることを許さないあらゆる内なる盲目を癒し、主との出会いの喜びを新たに目覚めさせ、その結果、希望のしるしの中で人生の旅を再開できるようにする恵みの機会となるのです。

 この精神に基づき、1300年の教皇ボニファティウス8世の勅書以来、何百万人もの巡礼者がローマを訪れ、彼らの日々の生活が、たとえ苦難や疲労の中にあっても、再び福音の希望によって把握され、支えられるように、外に向かって巡礼することによって、内なる刷新の旅への望みを表明してきました。彼らは皆、幸福と満ち足りた生活への抑えがたい渇きを心に抱き、予測不可能な未来に直面しながらも、不信、懐疑、死に屈しないという希望を育んでいるからです。

 そして、私たちの希望であるキリストは、私たちの内に宿るこの渇望の炎に出会うために来られ、存在を変容させ、新たにするキリストとの出会いの喜びを再発見するよう、私たちを招いてくださいます。それゆえ、「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路」(教皇フランシスコの2025年の聖年公布の大勅書『希望は欺かない』5項)だということです。

 聖年はそうした重要な瞬間です。クリスマスの夜に開かれる聖なる扉は、キリストとの出会いによって私たちに与えられる新しい命に入るための通路、刷新の過越への招きです。そして、最初の聖年であった1300年と同様に、ローマは再び世界中から巡礼者たちを迎えることになります。

 キリスト教の初期の時代には、北からの巡礼者はモンテ・マリオに登り、永遠の都を初めて目にしました。南から来た巡礼者は小舟でテベレ川を航行してやって来ました。 誰もが聖なる扉にたどり着き、その敷居を踏み越えることを強く望んでいました。 それ以来、聖年に巡礼者の足取りがローマの美しさと出会うことが恒例となっています。

 同じように今も、聖年の行事のたびに、巡礼者たちはローマの素晴らしさと出会います。聖年の機会に、道路の整備、公共交通機関の機能向上、記念碑の修復、そして都市の近代化のための特別な対策が動員されています。

 しかし、都市としての物理的な整備に関心を奪われて、聖年がローマに特別な使命を与えていることを忘れてはなりません。 それは、ローマがすべての人を歓迎し、もてなす場であり、多様性と対話の実験場であり、世界のさまざまな色をモザイクのようにまとめる多文化の作業場とすることです。そうすることで、ローマは栄光の過去に根ざした永遠の息吹を持ち、差別と不信の壁のない、障壁のない未来を築くことを約束する都市となることができるのです。ローマは、芸術の素晴らしさだけでなく、歓迎と友愛の予言においても際立っています。

 「殉教者と聖人たちと共に不滅のローマ……力と恐怖は勝つことができない、真理と愛が支配する」(『教皇庁賛歌』)のです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年12月19日

◎教皇の2025年聖年の新連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」①イエスの命へと導いてくださる神に感謝を

 

2024年12月18日

☩「宗教は民衆の阿片ではない」「貧しい人々から学ぶのは私たちの方だ」-教皇、88歳の誕生日、「自叙伝」で

教皇フランシスコ(2024.12.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日、88歳の誕生日を迎えられた。来年1月に出版予定の教皇の自叙伝の一部が、この日いくつかの新聞紙上で紹介された。

    教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は、1936年12月17日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでお生まれになった。88歳の誕生日、来年出版予定の自叙伝の一部が、イタリアの新聞「ラ・レップブリカ」と「コリエレ・デッラ・セーラ」、また米紙「ニューヨーク・タイムズ」の紙上で紹介された。

 「Spera」(※望む、願う、希望する、等の意)と題されたこの自叙伝は、カルロ・ムッソ氏と共に著されたもので、2025年1月にモンダドーリ社から出版が予定されている。

 記事で紹介された自叙伝の一部では、多民族・多宗教の人々から構成されるブエノスアイレス・フローレス地区で育った幼年時代や、2021年3月に行ったイラク訪問において、特に古代からの伝統を誇ったモスルの惨状に心を痛めたことなどが記されている。

 また、教皇はこの自叙伝の中で、ある人たちが言うように宗教は「民衆の阿片」ではない、と述べ、むしろ信仰と司牧と市民活動によって、スラム街では「多大な困難の中で考えられないような発展があった」「まさに信仰のように、あらゆる奉仕は出会いであった。貧しい人々から学ぶのは私たちの方である」と強調している。

(編集「カトリック・あい」)

2024年12月18日

☩「主の到来は、あらゆる時代、あらゆる苦難の中で、私たちの喜びの源」コルシカ島でのミサの説教で

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2024年12月16日

☩「多くの子供たちを見てうれしかった」教皇、コルシカ島からの帰路の機上で、3日早い誕生日祝うケーキも

 

2024年12月16日

☩「聖職者の基本は、『自分自身の世話』と『他者の世話』をすることにある」 教皇、コルシカ島の教会関係者と正午の祈り

(2024.12.15  バチカン放送)

  15日にフランス領コルシカ島を日帰り訪問された訪教皇フランシスコは同日昼、首府アジャクシオの被昇天の聖母カテドラルで現地の教会関係者たちとの集いを持たれた。

  司教をはじめ、司祭、助祭、修道者、神学生らが参加し、子どもたちの歓迎の歌声で迎えられた教皇は、正午の祈りに先立つあいさつで、神の愛を伝え福音を証しするための、教会関係者たちの日頃の献身に感謝され、中でも95歳の司祭が叙階70周年を迎えたことを喜ばれた。

 そして、「今日のヨーロッパで信仰を伝えるには問題は絶えず、そのために皆さんは無力に感じることもあるでしょう… でも、こうした”貧しい”状況の中にこそ、主の祝福がある。なぜなら、『自分たちだけで何でもできる』という思い込みを捨て、キリスト教の宣教は人間の力でなすものではなく、何よりも神の御業であるということ、神は私たちが差し出すわずかなものを使って働かれるということを、学ぶことができるからです」と語られた。

 続けて教皇は「自分自身の世話をする」「他者の世話をする」の2つを、聖職者の基本として、教会関係者に助言され、「自分自身の世話をする」について、「司祭や修道者は、神に一度『はい』と答えさえすればよい、というものではない… 日々、神との出会いとその喜びを新たにし、常に神の声に耳を傾け、そのたびにそれに従う決意をせねばならないのです」と強調。

 さらに、「私たちの人生は、自らを差し出すことにありますが、司祭や修道者は、自らを捧げ、神の国のために働けば働くほど、自分自身の世話が必要となる。自分をおろそかにする司祭や修道者は、自分に託された人たちをもおろそかにするようになります」と注意され、「自分を養うために、日々の祈りやミサ、主との対話を大切にする必要」を説かれた。

 「他者の世話をする」ことについて教皇は、「皆さん一人ひとりの使命はただ一つ、『イエスを他者にもたらし、その心に福音の慰めを与えること』です」とされ、「『私は、あなたがたの魂のために大いに喜んで財を費やし、また、私自身をさえ使い尽くしましょう』(コリントの信徒への手紙2.12章15節)と語った使徒聖パウロのように、魂たちのために、自分に託された人々のために、自分を捧げ尽くすように」と促された。

 最後に、「地中海に浮かぶこの島から、世界のすべての地に平和を祈りましょう」と呼びかけられた教皇は、特にパレスチナ、イスラエル、レバノン、シリアなど、中東全土、また、ミャンマーや、ウクライナ、ロシアの人々に思いを向けながら、正午の祈りを関係者たちと一緒に唱えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の和訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2024年12月16日

☩「民間の信心深さは、世俗化が進む社会で福音宣教を促進する手段に」教皇、コルシカ島での会議で

Pope Francis address the Conference on Popular Religiosity in the MediteraneanPope Francis address the Conference on Popular Religiosity in the Mediteranean  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇は、「民間信心は、時代遅れの民俗学的な表現ではなく、今日、福音宣教のための強力な手段となり、教会共同体の育成と帰属意識の醸成につながる可能性があります」と説かれ、「信仰の表現としての『積極的な福音宣教力』を世俗化された社会において軽視すべきではない」としたうえで、キリスト教文化と世俗文化の建設的な対話を呼びかけられた。

 講演の冒頭で教皇は、「多くの高度な文明の発祥地」である地中海が、歴史的に文化、思想、そして現代世界に影響を与え続けている法的・制度的枠組みの交差点として機能してきたこと、そして、神と人類の対話がイエス・キリストの受肉において頂点に達した場所であることを思い起こされた。

 

2024年12月15日

☩「戦争は人類にもたらされた深刻な傷、平和再建に外交努力を」-教皇、駐ロシア教皇大使に書簡

File photo of Pope FrancisFile photo of Pope Francis  (Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年12月15日

☩「私たちが皆、神と互いに対して負債を抱えている、ことを認識しよう」-教皇、2025年1月1日「世界平和の日」へメッセージ

File photo of Pope Francis in prayerFile photo of Pope Francis in prayer  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

 

*「私たちの罪をお赦しください」

 教皇はこのメッセージを「私たちの罪をお赦しください:あなたの平和を私たちにお与えください」というテーマに捧げ、私たちが皆、神に対して「負債がある」ことを思い起こさせる「聖年」の伝統の深い意味を強調しておられる。「神は、無限の慈悲と愛をもって、私たちの罪を赦し、私たちに、自分を傷つける者を赦すよう呼びかけています」。

 そして、ユダヤ教の伝統では、聖年は、罪と負債がすべて赦され、虐げられた人々が解放される特別な年であったことを思い起こされ、教皇は、現代においてもこの特別な恩寵の年は「神の解放的な正義を私たちの世界に確立しようと努力するよう私たちを鼓舞する出来事」である、と指摘。

 

*多発する「制度・組織的な不正」には、文化的、構造的な変革が必要

 

 「制度・組織的な不正」と相互に結びついた現代の問題として、移民に対する非人道的な扱い、環境悪化、意図的に流される誤報によって生み出される混乱、あらゆる形の対話の拒否、戦争産業に費やされる膨大な資源、などを挙げ、「私たち一人ひとりが、間接的にせよ、現在、私たち人類を悩ませている紛争を煽っている行動から始まって、私たちの”共通の家”である地球が受けている荒廃に対して、何らかの責任を感じなければなりません」とされ、「これらの相互に結びついた問題に対しては、『散発的な慈善行為』ではなく、不公正の絆を断ち切り、神の正義を宣言するための文化的・構造的変化が必要です」と強調されている。

 

 

*地球の資源は、全人類への神の贈り物だ

 教皇は、聖バジル・オブ・ケサリアの言葉を引用し、「私たちが『自分たちのものだ』と主張するものはすべて、実際には神からの贈り物であり、地球の資源は、一部の特権階級のためではなく、全人類の利益のために存在していることを、私たちに思い起させます」と語られ、「神との関係を見失うことで、人間同士の関わりは搾取と抑圧の論理に汚染され、『力ある者が正しい』という考え方になってしまいます」と警告。

 「これは、イエスの時代のエリート層の力学を反映しています。彼らは貧しい人々の苦しみの上に繁栄し、それは今日の世界にも共鳴している。グローバル化された世界では、南半球の貧しい国々を依存と不平等という悪循環に陥れる債務危機に見られるように、不正義が永続化されているのです」と語られた。

 

*外国からの借金は、豊かな国々による支配の手段である

 具体的に、「外国からの借金は、一部の政府や豊かな国々の民間金融機関が、自国の市場の要求を満たすためだけに、貧しい国の人的資源や天然資源を無分別に、かつ無慈悲に搾取する支配の手段となっています… すでに国際債務の重荷を負っているさまざまな民族は、より発展した国々が負う『環境債務』の負担も強いられていることに気づきます」と指摘。

 そのうえで、教皇は、この大赦年の精神に基づき、世界の南北間で存在する環境債務を認識し、国際社会が外国債務の帳消しに向けて取り組むよう改めて訴え、「これは連帯を求める訴えであり、何よりも正義を求める訴えなのです」と強調。「必要な文化と構造の変化は、私たちが皆、唯一の父の息子や娘であり、皆が互いに負債を負っていると同時に、分かち合い、多様化された責任の精神において互いを必要としていることを最終的に認識し、多様な責任が分担される時に、起こるでしょう」と述べられた。

*債務の大幅削減、全額免除の検討

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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*公式英語版全文は以下の通り

【MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE LVIII WORLD DAY OF PEACE】 1st JANUARY 2025

Forgive us our trespasses: grant us your peace

I. Listening to the plea of an endangered humanity

1. At the dawn of this New Year given to us by our heavenly Father, a year of Jubilee in the spirit of hope, I offer heartfelt good wishes of peace to every man and woman. I think especially of those who feel downtrodden, burdened by their past mistakes, oppressed by the judgment of others and incapable of perceiving even a glimmer of hope for their own lives. Upon everyone I invoke hope and peace, for this is a Year of Grace born of the Heart of the Redeemer!

2. Throughout this year, the Catholic Church celebrates the Jubilee, an event that fills hearts with hope. The “jubilee” recalls an ancient Jewish practice, when, every forty-ninth year, the sound of a ram’s horn (in Hebrew, jobel) would proclaim a year of forgiveness and freedom for the entire people (cf. Lev 25:10). This solemn proclamation was meant to echo throughout the land (cf. Lev 25:9) and to restore God’s justice in every aspect of life: in the use of the land, in the possession of goods and in relationships with others, above all the poor and the dispossessed. The blowing of the horn reminded the entire people, rich and poor alike, that no one comes into this world doomed to oppression: all of us are brothers and sisters, sons and daughters of the same Father, born to live in freedom, in accordance with the Lord’s will (cf. Lev 25:17, 25, 43, 46, 55).

3. In our day too, the Jubilee is an event that inspires us to seek to establish the liberating justice of God in our world. In place of the ram’s horn, at the start of this Year of Grace we wish to hear the “desperate plea for help” [1] that, like the cry of the blood of Abel (cf. Gen 4:10), rises up from so many parts of our world – a plea that God never fails to hear. We for our part feel bound to cry out and denounce the many situations in which the earth is exploited and our neighbours oppressed. [2] These injustices can appear at times in the form of what Saint John Paul II called “structures of sin”, [3] that arise not only from injustice on the part of some but are also consolidated and maintained by a network of complicity.

4. Each of us must feel in some way responsible for the devastation to which the earth, our common home, has been subjected, beginning with those actions that, albeit only indirectly, fuel the conflicts that presently plague our human family. Systemic challenges, distinct yet interconnected, are thus created and together cause havoc in our world. [4] I think, in particular, of all manner of disparities, the inhuman treatment meted out to migrants, environmental decay, the confusion willfully created by disinformation, the refusal to engage in any form of dialogue and the immense resources spent on the industry of war. All these, taken together, represent a threat to the existence of humanity as a whole. At the beginning of this year, then, we desire to heed the plea of suffering humankind in order to feel called, together and as individuals, to break the bonds of injustice and to proclaim God’s justice. Sporadic acts of philanthropy are not enough. Cultural and structural changes are necessary, so that enduring change may come about. [5]

II. A cultural change: all of us are debtors

5. The celebration of the Jubilee spurs us to make a number of changes in order to confront the present state of injustice and inequality by reminding ourselves that the goods of the earth are meant not for a privileged few, but for everyone. [6] We do well to recall the words of Saint Basil of Caesarea: “Tell me, what things belong to you? Where did you find them to make them part of your life? … Did you not come forth naked from the womb of your mother? Will you not return naked to the ground? Where did your property come from? If you say that it comes to you naturally by luck, you would deny God by not recognizing the Creator and being grateful to the Giver”. [7] Without gratitude, we are unable to recognize God’s gifts. Yet in his infinite mercy the Lord does not abandon sinful humanity, but instead reaffirms his gift of life by the saving forgiveness offered to all through Jesus Christ. That is why, in teaching us the “Our Father”, Jesus told us to pray: “Forgive us our trespasses” ( Mt 6:12).

6. Once we lose sight of our relationship to the Father, we begin to cherish the illusion that our relationships with others can be governed by a logic of exploitation and oppression, where might makes right. [8] Like the elites at the time of Jesus, who profited from the suffering of the poor, so today, in our interconnected global village, [9] the international system, unless it is inspired by a spirit of solidarity and interdependence, gives rise to injustices, aggravated by corruption, which leave the poorer countries trapped. A mentality that exploits the indebted can serve as a shorthand description of the present “debt crisis” that weighs upon a number of countries, above all in the global South.

7. I have repeatedly stated that foreign debt has become a means of control whereby certain governments and private financial institutions of the richer countries unscrupulously and indiscriminately exploit the human and natural resources of poorer countries, simply to satisfy the demands of their own markets. [10] In addition, different peoples, already burdened by international debt, find themselves also forced to bear the burden of the “ecological debt” incurred by the more developed countries. [11] Foreign debt and ecological debt are two sides of the same coin, namely the mindset of exploitation that has culminated in the debt crisis. [12] In the spirit of this Jubilee Year, I urge the international community to work towards forgiving foreign debt in recognition of the ecological debt existing between the North and the South of this world. This is an appeal for solidarity, but above all for justice. [13]

8. The cultural and structural change needed to surmount this crisis will come about when we finally recognize that we are all sons and daughters of the one Father, that we are all in his debt but also that we need one another, in a spirit of shared and diversified responsibility. We will be able to “rediscover once for all that we need one another” and are indebted one to another. [14]

III. A journey of hope: three proposals

9. If we take to heart these much-needed changes, the Jubilee Year of Grace can serve to set each of us on a renewed journey of hope, born of the experience of God’s unlimited mercy. [15]

God owes nothing to anyone, yet he constantly bestows his grace and mercy upon all. As Isaac of Nineveh, a seventh-century Father of the Eastern Church, put it in one of his prayers: “Your love, Lord, is greater than my trespasses. The waves of the sea are nothing with respect to the multitude of my sins, but placed on a scale and weighed against your love, they vanish like a speck of dust”. [16] God does not weigh up the evils we commit; rather, he is immensely “rich in mercy, for the great love with which he loved us” ( Eph 2:4). Yet he also hears the plea of the poor and the cry of the earth. We would do well simply to stop for a moment, at the beginning of this year, to think of the mercy with which he constantly forgives our sins and forgives our every debt, so that our hearts may overflow with hope and peace.

10. In teaching us to pray the “Our Father”, Jesus begins by asking the Father to forgive our trespasses, but passes immediately to the challenging words: “as we forgive those who trespass against us” (cf. Mt 6:12). In order to forgive others their trespasses and to offer them hope, we need for our own lives to be filled with that same hope, the fruit of our experience of God’s mercy. Hope overflows in generosity; it is free of calculation, makes no hidden demands, is unconcerned with gain, but aims at one thing alone: to raise up those who have fallen, to heal hearts that are broken and to set us free from every kind of bondage.

11. Consequently, at the beginning of this Year of Grace, I would like to offer three proposals capable of restoring dignity to the lives of entire peoples and enabling them to set them out anew on the journey of hope. In this way, the debt crisis can be overcome and all of us can once more realize that we are debtors whose debts have been forgiven.

First, I renew the appeal launched by Saint John Paul II on the occasion of the Great Jubilee of the Year 2000 to consider “reducing substantially, if not cancelling outright, the international debt which seriously threatens the future of many nations”. [17] In recognition of their ecological debt, the more prosperous countries ought to feel called to do everything possible to forgive the debts of those countries that are in no condition to repay the amount they owe. Naturally, lest this prove merely an isolated act of charity that simply reboots the vicious cycle of financing and indebtedness, a new financial framework must be devised, leading to the creation of a global financial Charter based on solidarity and harmony between peoples.

I also ask for a firm commitment to respect for the dignity of human life from conception to natural death, so that each person can cherish his or her own life and all may look with hope to a future of prosperity and happiness for themselves and for their children. Without hope for the future, it becomes hard for the young to look forward to bringing new lives into the world. Here I would like once more to propose a concrete gesture that can help foster the culture of life, namely the elimination of the death penalty in all nations. This penalty not only compromises the inviolability of life but eliminates every human hope of forgiveness and rehabilitation. [18]

In addition, following in the footsteps of Saint Paul VI and Benedict XVI[19] I do not hesitate to make yet another appeal, for the sake of future generations. In this time marked by wars, let us use at least a fixed percentage of the money earmarked for armaments to establish a global Fund to eradicate hunger and facilitate in the poorer countries educational activities aimed at promoting sustainable development and combating climate change. [20] We need to work at eliminating every pretext that encourages young people to regard their future as hopeless or dominated by the thirst to avenge the blood of their dear ones. The future is a gift meant to enable us to go beyond past failures and to pave new paths of peace.

IV. The goal of peace

12. Those who take up these proposals and set out on the journey of hope will surely glimpse the dawn of the greatly desired goal of peace. The Psalmist promises us that “steadfast love and faithfulness will meet; righteousness and peace will kiss” ( Ps 85:10). When I divest myself of the weapon of credit and restore the path of hope to one of my brothers or sisters, I contribute to the restoration of God’s justice on this earth and, with that person, I advance towards the goal of peace. As Saint John XXIII observed, true peace can be born only from a heart “disarmed” of anxiety and the fear of war. [21]

13. May 2025 be a year in which peace flourishes! A true and lasting peace that goes beyond quibbling over the details of agreements and human compromises. [22] May we seek the true peace that is granted by God to hearts disarmed: hearts not set on calculating what is mine and what is yours; hearts that turn selfishness into readiness to reach out to others; hearts that see themselves as indebted to God and thus prepared to forgive the debts that oppress others; hearts that replace anxiety about the future with the hope that every individual can be a resource for the building of a better world.

14. Disarming hearts is a job for everyone, great and small, rich and poor alike. At times, something quite simple will do, such as “a smile, a small gesture of friendship, a kind look, a ready ear, a good deed”. [23] With such gestures, we progress towards the goal of peace. We will arrive all the more quickly if, in the course of journeying alongside our brothers and sisters, we discover that we have changed from the time we first set out. Peace does not only come with the end of wars but with the dawn of a new world, a world in which we realize that we are different, closer and more fraternal than we ever thought possible.

15. Lord, grant us your peace! This is my prayer to God as I now offer my cordial good wishes for the New Year to the Heads of State and Government, to the leaders of International Organizations, to the leaders of the various religions and to every person of good will.

Forgive us our trespasses, Lord,

as we forgive those who trespass against us.

In this cycle of forgiveness, grant us your peace,

the peace that you alone can give

to those who let themselves be disarmed in heart,

to those who choose in hope to forgive the debts of their brothers and sisters,

to those who are unafraid to confess their debt to you,

and to those who do not close their ears to the cry of the poor.

From the Vatican, 8 December 2024  FRANCIS

 

*カトリック中央協議会の全文和訳(2024年12月26日付け)以下の通り。

 

第58回「世界平和の日」教皇メッセージ (2025年1月1日) わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください

 

Ⅰ.危機に瀕する人類の叫びを聞いて

1.天の御父が与えてくださったこの新しい年、希望を掲げる聖年の幕開けにあたりお伝えします。すべての人に、とりわけ自身の境遇に打ちひしがれ、自らの過ちに苛まれ、他者の裁きに押しつぶされ、もはや人生に光なく未来が描けずにいる人にこそ、平和があるようせつに願っています。すべての皆さんに、希望と平和がありますように。今年は、あがない主のみ心からもたらされる、恵みの年だからです。

2.2025年の間に、カトリック教会は聖年を祝います。人々の心を希望で満たす出来事です。「聖年」の起源は、古代ユダヤの伝統にまでさかのぼるものです。それは、49年ごとにすべての民に債務帳消しと解放を告げる、雄羊の角笛(ヘブライ語で「ヨベル」)が鳴り響く時でした(レビ25・10参照)。この荘厳な笛の音は、理念としては国中に響き渡るべきもので(レビ25・9参照)、生活のさまざまな領域において、たとえば土地の使用、財産の所有、隣人との関係、とりわけもっとも貧しい人や不幸にある人との関係において、神の義を取り戻すことを求めるものでした。角笛の響きは、富める人にも貧しい人にも、すべての民に思い起こさせます。虐げられるためにこの世に生まれてきた人はいないのだと――、わたしたちは同じ御父の子らであり、兄弟姉妹なのだと――、主のみ心のままに自由な者となるよう生まれてきたのだと――(レビ25・17、25、43、46、55参照)。

3.現代においても聖年は、解放という神の義を地上のすべてに求めるよう、わたしたちを駆り立てる出来事です。この恵みの聖年の始まりに、角笛の代わりに、「助けを求める必死の訴え」1に耳を傾けたいと思います。その訴えは、義人アベルの血が叫んだように、大地のさまざまな場所からわき上がるもので(創世記4・10参照)、神はそれを決して聞き逃すことはありません。そしてわたしたちもまた、地球を搾取し、隣人を抑圧する多くの状況に対して、声を上げるよう迫られていると自覚します2。そうした不正義は、聖ヨハネ・パウロ二世が「構造的な罪」3と定義した様相を呈することがあります。それらは一部の人の罪によるだけでなく、いわば、広範な共犯関係が加担し、強固になったものだからです。

4.間接的であったとしても、人類を苦しめている争いをあおる行為をはじめとして、共通の家に対する破壊行為に対し何らかの責任があることを、一人ひとりが自覚しなければなりません。そうして別々の、けれども相互に関連する構造的な課題が拡大し、絡み合い、この地球を苦しめることになるのです4 。具体的には、あらゆるたぐいの不平等、移住者への非人道的対応、環境破壊、悪意をもって偽情報から引き起こされる混乱、あらゆる対話の拒絶、軍需産業の巨額の資金調達に関与することです。このどれもが、人類全体の生存にとって具体的な脅威となる要因です。それゆえ、この年の初めに、人類のこうした叫びに耳を傾けたいと思います。そしてともに、また個々人で、不正義の鎖を断ち切り、神の義を告げ知らせるよう呼ばれているとの自覚をもちたいと思います。各所で慈善活動を積み重ねるだけでは足りません。それ以上に、持続的な変化をもたらすには、文化的・構造的な変革が必要なのです5

Ⅱ.文化の変革――わたしたちは皆、負い目がある

5.聖年という出来事は、不正義と不平等の現状に立ち向かうため、わたしたちにさまざまな変革を促すものであり、地上の富は一部の特権階級だけのものではなく、すべての人のものであることを思い起こさせてくれます6。カイサリアの聖バジリオが記したものを思い起こすといいでしょう。「何があなたのものなのか、教えてください。あなたはそれをどこからもってきて、自分の人生に取り込んだのですか。……あなたは母の胎から、何もまとわず裸で出てきたのではないですか。そして再び、裸で土に還るのではないですか。今あなたが手にしている富は、どこから来たのですか。たまたま自分にもたらされたというのなら、それは神の否定であり、創造主を認めないことで、与え主であるかたへの感謝がないということになるでしょう」7。感謝が欠ければ、神の恵みが分からなくなってしまいます。けれども、限りないいつくしみをもって主は、ご自分に対して罪を犯した者を見捨てることなく、むしろ、イエス・キリストを通してすべての人に与えられる救いであるゆるしによって、いのちのたまものを確かなものとしてくださるのです。だからこそ、イエスは「主の祈り」を教え、「わたしたちの負い目をゆるしてください」(マタイ6・12)と祈るよう招いているのです。

6.御父とのきずなを見失うと、その人は、他者との関係性は搾取の論理でもって支配しうるという考えを抱くようになります。強者には弱者をほしいままにする権利があるとする論理です8。イエスの時代のエリートたちが貧しい人々の苦しみを利用していたように、現代の、互いに結びついている地球村においても9、国際システムが連帯と相互扶助の論理を燃料としなければ、不正義が生じ、腐敗によってそれに拍車がかかり、もっとも貧しい国々を陥れることになります。債務者からは搾取してよいという論理はまた、とくにグローバル・サウスで数々の国を苦しめている、現在の「債務危機」の要旨ともいえます。

7.対外債務が支配の手段となっており、この債務を通じて富裕国の政府や民間金融機関が、自国市場の需要を満たすために、貧困国の人的資源・天然資源を見境なく搾取することに何のためらいももたずにいることを、わたしは訴え続けます10。加えて、すでに国際債務に苦しむ国々の民が、先進国のエコロジカルな債務という重荷までも背負わざるをえなくなっています11。エコロジカルな債務と対外債務は同じコインの裏表であり、搾取の論理の産物で、これが債務危機というかたちで頂点に達しているのです12。この聖年をきっかけに、国際社会に呼びかけます。世界の南北間にあるエコロジカルな債務の存在を認識しつつ、対外債務の帳消しに向けた取り組みを進めてください。これは、連帯への呼びかけであると同時に、何よりも正義を求めるものなのです13

8.この危機を乗り越えるための文化的・構造的変革は、最終的に、わたしたち皆が御父の子であるとの自覚をもち、神のみ前ではだれもが負い目のある者であるとともに、皆が互いを必要としているのだと告白するときに実現するでしょう。それは、共有され、それぞれに異なる責任の論理に呼応するものです。「わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることに、はっきり気づく」14ことができるはずです。

Ⅲ.希望の旅路――取りうる三つの行動

9.わたしたちがこれら必要な変革に心動かされたならば、この恵みの聖年は、一人ひとりに希望の道を再び開いてくれるでしょう。希望は、神の永遠に限りのないいつくしみを経験することから生まれるのです15

神は、だれに対しても負い目なく、すべての人に恵みといつくしみを絶え間なく与え続けておられます。7世紀の東方教会の教父、ニネベのイサクは次のように記しています。「あなたの愛は、わたしの負い目よりはるかに大きなものです。わたしの罪の数は、海の波の数すらささやかなものにしてしまうほどですが、わたしの罪を天秤にかけてあなたの愛と比べるなら、それは何もなかったかのように消えてしまいます」16。神は人間が犯した悪を数えることはなさいません。きわめて「あわれみ豊かな神は、わたしたちをこのうえなく愛してくださる」(エフェソ2・4)のです。そうしてまた、貧しい人の叫びと、大地の叫びを聞いておられます。この年の初めに、しばし立ち止まって、神がわたしたちの罪をそのたびにゆるし、すべての負い目をゆるしてくださる恵みを思い起こすなら、わたしたちの心は、希望と平安で満たされるでしょう。

10.だからこそイエスは、「主の祈り」に、要求の厳しい文言を入れています。わたしたちの負い目をゆるしてくださいと御父に願った後で、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします」と加えています(マタイ6・12参照)。他者の負い目をゆるし、その人に希望を与えるには、まさしく、神のいつくしみからもたらされる同じ希望で、自分の人生が満たされていなければなりません。希望は、勘定を抜きにした寛大さの中にあふれ、債務者からの支払いに執心せず、自分の利益を案じずに、一つの目的だけを見据えています。倒れた人を立ち上がらせ、折れた心をいやし、いかなる形態であれ奴隷状態から解放するのです。

11.そこでわたしは、この恵みの聖年の始まりにあたり、債務危機を打開し、すべての人が自分はゆるされた債務者であるとの思いを新たにできるよう、すべての人民の生活に尊厳を回復し、希望の道に立ち帰らせることのできる、3つのアクションを提案したいと思います。

まず第一に、2000年の大聖年に際し聖ヨハネ・パウロ二世教皇が打ち出した、「多くの国々の将来に深刻な脅威となっている累積債務をすべて帳消しにしないまでも、大幅に削減すること」17を検討するようにとの呼びかけを再び取り上げたいと思います。エコロジカルな債務を認識することで、富裕国には、あらゆる手を打って、返済の困難な国々の債務を免除するという使命感をもっていただきたいのです。ただしそれを単発の温情措置で終わらせると、新たな融資と債務という悪循環を引き起こす危険があるので、新しい金融制度を同時に構築する必要があります。諸国民の間での連帯と調和を基盤とした、金融界のグローバルな憲章の策定を目指すべきです。

また、受胎から自然死に至るまで、人間のいのちの尊厳の尊重を促進するための、断固とした取り組みを求めます。すべての人が自分のいのちを愛し、将来に希望をもち、自分自身と自分の子どもたちの発展と幸福を望めるようにするためです。事実、人生への希望がなければ、新たないのちを生み出したいという望みが、とくに若い世代の心には芽生えにくいのです。ここではとりわけ、いのちの文化を促進する具体的な行動をあらためて呼びかけたいと思います。あらゆる国で死刑を廃止することです。この刑罰は実際、いのちの不可侵性を損なうだけでなく、ゆるしと再生という人間の希望をも完全に打ち砕くのです18

加えて、幾多の戦争に彩られたこの時にあって、若い世代のために、聖パウロ六世とベネディクト十六世19を支えに、もう一つのことをためらうことなく訴えます。軍事費のせめて一定の割合を、飢餓撲滅と、持続可能な開発を促して気候変動に立ち向かえるようにするための最貧国での教育活動を支援する、世界基金設立に充ててください20。若者たちが思い描く未来を、希望のないものや、愛する家族の流した血に対する復讐で覆われたものにすることになる口実を、一掃する努力が必要です。未来は、過去の過ちを乗り越えて進むための贈り物、平和への新たな道を築くための贈り物です。

Ⅳ.平和というゴール

12.提案された行動によって希望の旅を始める人は、平和という悲願のゴールが近づいてくるのを見るでしょう。詩編作者は固く約束します「いつくしみとまことが出会う」とき、「正義と平和は口づけする」(詩編85・11)。債務という武具を手放し、兄弟姉妹の一人にでも希望の道を再び開くなら、それは神の義をこの地上に回復させることへの貢献であり、平和というゴールへ向けてその人とともに歩み出すことなのです。聖ヨハネ二十三世が語ったように、真の平和は、戦争の苦悩と恐怖から解き放たれた心からしか生まれません21

13.2025年が、平和の広がる年となりますように。条約の細則の解釈や人間の妥協の場にとどまらない、真の永続的な平和です22。真の平和を求めましょう。武装を解いた心に、神が与えてくださる平和を。どこまでが自分のもので、どこまでが相手のものか計算することに固執しない心、自己中心性が砕かれ、他者との出会いに向かう意欲のある心、神に対して負い目がある自分であることをきっぱりと認め、だからこそ、苦しむ隣人の負い目をゆるす心、この世界にとってはすべての人が財産であるという希望を抱き、未来への不安を乗り越える心です。

14.心の武装解除は、最初の人から最後の人まで、小さな人から大きな人まで、裕福な人から貧しい人まで、すべての人を巻き込む行為です。「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕」23といった単純なことで十分なときもあります。このような小さくも偉大な行為によって、わたしたちは平和というゴールに近づきます。そして、その途上で兄弟姉妹と再び巡り会い、出発のときとは違う自分になっていると気づくなら、それだけ早く平和にたどりつけるでしょう。実際、平和は戦争の終結によってのみもたらされるものではなく、新しい世界の始まりとともに到来するのです。そこは、皆それぞれ違いがあることを理解し、思い描いていた以上に、一致を深め兄弟姉妹であることが感じられる世界です。

15.主よ、わたしたちにあなたの平和をお与えください――。これこそわたしが、国家元首、政府要人、国際機関責任者、諸宗教指導者、そしてすべての善意のかたがたに、新年のごあいさつを申し上げるにあたって、神にささげる祈りです。

主よ、わたしたちの負い目をゆるしてください、
わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします。
この互いにゆるし合う輪の中に、あなたの平和をお与えください。
心の武具を脱ぎ去った者たちに、
希望をもって兄弟姉妹の負い目をゆるそうとする者たちに、
あなたに負い目があることをすすんで告白する者たちに、
貧しい人の叫びに耳を閉ざすことのない者たちに、
あなただけが与えることのできる平和をお与えください。

バチカンにて
2024年12月8日
フランシスコ
2024年12月13日