Vatican hosts the first-ever International Summit on Children’s Rights (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.2.3 Vatican News Kielce Gussie) 3日にバチカンで開かれた「子供の権利に関するサミット」初会合が同日夕閉幕し、教皇フランシスコは閉幕のあいさつで、今回の会合などを踏まえ、「子供たちに捧げる使徒的勧告」をまとめる意向を表明された。
閉幕あいさつで教皇は、「バチカン宮殿の部屋が、世界中の子供たちが置かれている現実の『観測所』となった」ことを参加者や講演者たちに感謝するとともに、「貧困、戦争、教育の欠如、搾取が蔓延するこの世界で、子供たちは不正や弱さと向き合っている。彼らは、私たちが(これからの)人生をどのように歩んでいくのかを見守っています」と強調。
そして教皇は、今回の会合を、単に「観測」するだけでなく、「実験室」と表現され、聖地代理管理者のイブラヒム・ファルタス神父の「子供たちは、私たちを見ている」という言葉を引用されて、「子供たちは、私たちが人生をどのように歩んでいくかを見ているのです」と語られた。
そのうえで、教皇は「子供たちに捧げる使徒的勧告を書くつもりです」と述べられ、その狙いが、「(今回の会合で語られた)取り組みを継続させ、教会全体に広めることにあります」と説明され、あいさつを締めくくられた。
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*「すべての子供には、私たちの保護を受ける権利がある」とイランのアブドラ王妃
今回の会合には、世界の政治、経済の分野の関係者や子供の問題に関わるNGOの代表など科参加し、7つの分科会に分かれて、現代社会における子供の権利、教育を受ける権利、自由な時間を持つ権利、食糧や医療を受ける権利など、さまざまなトピックが取り上げられた。
講演者の一人、ヨルダンのラニア・アル・アブドラ王妃は、国際社会に対して、置かれた状況に関係なく、すべての子供たちが大切に扱われるように訴え、「すべての子供たちは、私たちから保護とケアを受ける権利を平等に持っています。これは、世界が子供たちに対して約束していることです」と主張。ガザ地区の子供たち関する統計を引用し、「96%の子どもたちが『死が迫っている』と感じており、ほぼ50%が『死を望んでいる』と答えている。私たちは、どうしてこのような状況を招いてしまったのでしょう?」と問いかけ、さらに、「人類が意識的に努力をしなければ、より良い世界の美しいビジョンは実現しません」と強調した。
*「環境破壊の影響に直面するのは今の子どもたちの世代だ」と米区のゴア元副大統領
もう一人の演説者は、米国のアル・ゴア元副大統領は、環境破壊の脅威を取り上げ、「環境破壊は、私たちがこの地球の子供たちに負わせた重荷だ。”意図的な盲目”で、地球温暖化や温室効果ガス、その他の気候変動の影響を、多くの人々が見ようとしなくなっている」と指摘。「その影響に直面するのは現在の世代ではなく、私たちの子供たちの世代なのだ」と訴えた。
*「子供たちの飢餓や不公平の背後にある問題を見さねば」-とギリビGKSD社長
また、医療産業などへの投資・管理会社GKSDのカメル・ギリビ社長は「子供たちの飢餓や不公平を解決するだけでなく、その背後にある問題、その理由を見つけなければならない」と述べ、今回の会合を「単なる言葉に終わらせず、この後も子供たちを支援する呼びかけを継続していくことで、美しいスピーチを聴くだけで満足する従来のこの種の会合とは異なるものとなるようにすべきだ。今日、ここを去る時に、具体的な行動を起こすことを願っている」と主張した。
*「子供の権利の保護とケアに関する8つの原則」の宣言に署名、行動を継続
会合の終わりに、教皇は他の講演者たちとともに「子供の権利の保護とケアに関する8つの原則」を盛り込んだ宣言に署名された。行動を呼びかけ、公正な未来の創造を目的とするこの会合そのものは終了しても、その使命は、すべての子供たちが基本的人権を享受できるようになるまで継続される、としている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis with children at the first International Summit on Children’s Rights (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.2.3 Vatican News Lisa Zengarini)
世界で苦しむ子供たちを支援、保護するための方策を議論する「子供の権利に関するサミット」の初会合が3日、バチカンで開かれ、教皇フランシスコは講話の中で、「子どもの命に勝るものはありません」と強調。参加した各国首脳たちを前に、紛争や貧困、移民、そして中絶や育児放棄を含む「使い捨て文化」の犠牲となっている子供たちの保護を求め、彼らの声に耳を傾けることの緊急性を改めて訴えられた。
*戦争が壊滅的な影響を子供たちに与えている
講話で教皇は、世界中の子供たちが直面している現在も進行する苦境に焦点を当て、「世界的な進歩にもかかわらず、多くの子供たちが依然として貧困、戦争、教育不足、不正、搾取に苦しんでいること」を強く指摘された。
特に「戦争で荒廃し貧困に苦しむ地域の子供たちの悲惨な状況」とともに、「裕福な社会においても、子供たちは精神的な苦悩、暴力、社会的な疎外といった脆弱性に直面していること」にも目を向けられ、「学校や医療サービスが、多くの困難を経験している子供たち、不安や抑うつ状態にある子供たち、攻撃的または自傷行為に走る思春期の子供たちに対処しなければならないケースが増えています。効率性を重視する文化は、子供時代そのものを、老年期と同様に、存在の『周辺』と見なし、希望の象徴であるべき若者たちが、絶望や将来への楽観主義の欠如に苦しんでいる。これは悲しく、憂慮すべき事態です」と警鐘を鳴らされた。
そして、最も憂慮すべき問題のひとつは、「戦争が子どもたちに与える壊滅的な影響です」とされ、「私たちは、悲劇的にほぼ毎日のように目にしてきました。権力やイデオロギー、国粋主義的利益の偶像に犠牲となり、爆撃によって命を落とす子供たちです。受け入れがたいことです」と嘆かれた。
*先進国の「病的な個人主義」の犠牲となっている
続けて教皇は、先進国で目立つ「病的な個人主義」を非難され、「子供たちが保護すべき立場にある人々による虐待やネグレクト、さらには幼児殺に直面することが多く起きている」と指摘。また、「絶望から海や砂漠、危険な旅の途中で命を落とす子供たちが後を絶たないこと」を挙げ、移民の若者の命が失われていることは「容認できない」と改めて強く非難された。
さらに、社会から否定された子供の実態は、「経済システムの誤り、戦争の犯罪性、適切な医療や教育の欠如を非難する静かな叫び」とされ、これらの悲劇に対して私たちの感覚が鈍くなり、「人間として最も尊いもの、すなわち慈悲や思いやりを失うこと」を警告された。
*児童奴隷、人身売買、虐待という惨禍
教皇はまた、避難を余儀なくされた子供たちの苦しみを思い起こされ、紛争で避難を余儀なくされた子供たちが4000万人以上、家を失った子供たちが1億人以上いるという数字をあげ、児童奴隷、強制労働、人身売買、虐待、児童婚が依然として根強く残っており、1億6000万人の子供たちがこうした不正の犠牲者となっている、という悲痛な現実を示された。。
さらに、出生登録がされていないために法的アイデンティティを持たず、虐待や搾取を受けやすい「目に見えない」1億5000万人の子どもたちにも注意を向けられ、「この同伴者のいない未成年者の現象はますます頻繁に深刻化している」と指摘。ミャンマーから逃れてきたロヒンギャ族の子どもたちの例を挙げられた。
「戦争を経験した高齢者たちが語っているように、こうした子供たちの抑圧の歴史は、戦時下で常に繰り返されています。今日、暴力や搾取、不正の中に生きる子どもたちの声を聴くことは、戦争に対する私たちの『ノー』の意思を強めることにつながります」と強調された。
*使い捨て文化」が助長する殺人に等しい中絶の慣行
特に力強く語られたのは、生まれてくる命を含め、人間の命が顧みられることなく捨てられる「使い捨て文化」に対する非難で、「人間が全能であるというこの使い捨ての考え方のもとで、中絶という殺人行為によって生まれてくる命が犠牲にされている」と強調。「それは社会全体の希望の源を断ち切るものです」と批判された。
*より良い未来への希望を築くために、子供たちの声を聴こう
そのうえで教皇は、世界の指導者たちに、「言葉だけでなく、沈黙や表情、経験からも子供たちの”声”を聞く」よう促され、「子供たちは、その表情や沈黙によっても私たちに語りかけています。ですから、彼らの”声”を聴きましょう!」と呼びかけられた。「耳を傾けることがいかに大切であるか。幼い子供たちが理解し、記憶し、私たちに語りかけていることを、私たちは認識する必要がある」。
講話の最後に、教皇は参加者全員に、今回の会合が提供する機会を最大限に活用するよう促し、彼らの貢献が、「子供たちにとって、ひいてはすべての人々にとってより良い世界を築く助けとなることを期待しています」と願われた。「私にとって、子供たち、彼らの権利、彼らの夢、そして彼らの未来への要求を私たちの関心の中心に据えるために、私たちがここに一堂に会していることは希望の源です」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis waves to the faithull in St Peter’s Square gathered for his Sunday Angelus (File photo) (ANSA)
(2025.2.2 Vatican News Lisa Zengarini)
教皇 フランシスコは2日、「主の奉献」の祝日の正午の祈りに先立つ説教で、この祝日の意味について、「イエスがすべての人々の救いであり、私たちの光であることを思い起こさせるもの」とされ、信者たちに、神との出会いを真に求めるよう呼びかけられた。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたルカ福音書(2章22-40節)に書かれた「幼子イエスを連れてエルサレムの神殿にやって来たマリアとヨセフのエピソード」を取り上げ、その場面で、シメオンとアンナがイエスについて語った預言的な言葉に注意を向けられた。
「シメオンたちが、イエスを『神の約束の成就』と認識したことは、この瞬間の根本的な新しさを強調しています。神は民の中に存在している。それは神が”四方を壁に囲まれた中”に宿っているからではなく、神が人として人々の間に生きているからだ、ということを」と教皇はと語られた。
*シメオンがイエスについて語った三つの言葉は
続けて教皇は、「自分たちの幼子についてシメオンがこのように宣言したことに、深く感動し、驚いたマリアとヨセフは、シメオンがイエスを『救い』『光』『反対を受けるしるし』という3つの重要な言葉で表現するのを聞きました」とされた。
一つ目の言葉は、「『イエスは救い』。シメオンは、この幼子の中に普遍的な救いが示されている、と宣言しました。それは、神の贖いの愛が一人の人間に完全に具現化されていることを強調する、畏敬の念を抱かせる真実です」と指摘。
二つ目の言葉は「『イエスは光』。イエスは昇る太陽のように世界を照らし、苦しみ、悪、死の闇を追い払う。それらの闇は、今日もなお、人類を苦しめ続けています」。
そして三つ目の言葉は「『反対を受けるしるし』です。それは、 人間の心の奥底にある真実を明らかにし、 イエスを通して、歴史は『愛』という一つの基準によって裁かれるのです… イエスは、すべての歴史とそのドラマの中で、私たち一人ひとりの人生が裁かれる基準を明らかにされます。 この基準とは『愛』である。愛する者は生き、憎む者は死ぬのです」と説かれた。
説教の最後に、教皇は、信者たちに自らに次の問いかけをするよう促された―「私は、人生で何を待っているのか?」「 私の最大の希望は何か? 」「心から主の御顔を拝みたいと願っているか?」「 人類に対する神の救済計画の実現を待っているか?」。
そして、すべての人がマリアと共に祈り、「マリアが、歴史の光と影を共に歩み、主への旅路を導いてくださいますように」と願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Sudan’s army soldiers celebrate the army’s liberation of an oil refinery, in North Bahri
(2025.1.26 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは26日の正午の祈りに続けて、アフリカのスーダンで紛争当事者たちに対して、「世界で最も深刻な人道的危機を引き起こし、人々に甚大な苦しみをもたらし、隣国南スーダンに劇的な影響を及ぼしている敵対行為」を停止するように強く促された。
そして、「ただちに戦闘を停止し、交渉のテーブルに就く」よう求め、世界の国々、国際機関などに対しても、「和平交渉を支援し、人道的支援を促進」するよう訴えられ、「スーダン、南スーダン両国の国民に寄り添い、同胞愛と連帯を呼びかけ、あらゆる形態の暴力を回避し、操られることのないよう促します」と言明された。
また、教皇は、武装集団の衝突で多くの民間人が命を落とし、3万人以上が家を追われている南米コロンビアのカタトゥンボ地方の状況についても懸念を表明。「私は彼らに寄り添い、祈りを捧げます」と述べられた。
続いて教皇は、この日に記念された「世界ハンセン病の日 (WLD)」に言及し、ハンセン病患者を社会が全面的に受け入れるよう呼びかけた。
また、明日27日が「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」であり、今年がアウシュビッツ強制収容所の解放から80年目にあたることを取り上げ、「その時代に何百万人ものユダヤ人や他の信仰を持つ人々が絶滅させられた、という恐ろしい出来事は、決して忘れてはならないし、否定もできません」とされ、ローマ在住のハンガリー生まれの詩人、エディット・ブルックの例を挙げ、「多くのキリスト教徒もナチスの強制収容所で命を落としました。その中には数多くの殉教者もいます」と指摘。
「あらゆる形態の差別や宗教迫害とともに、『反ユダヤ主義』という災厄を根絶するために、皆が協力して取り組むよう、私は改めて呼びかけます。共に、より兄弟愛に満ち、公正な世界を築きましょう。兄弟愛、寛容、平和の精神をもって、すべての人を受け入れる心を持つよう、若者たちを教育しましょう」と世界の人々に呼びかけられた。
最後に、ローマでの「コミュニケーション聖年」の行事に参加したメディア関係者全員に挨拶され、「常に希望の語り部であるように」と激励された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.1.26 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは26日、神の言葉の主日の正午の祈りに先立つ説教で、「2025年の聖年がキリスト教徒にとって救いの必要性を認識し、キリストとの出会いを新たにする機会」となることを強調された。
教皇はこの日のミサで読まれた、ナザレのシナゴーグを訪れたイエスについて記述したルカ福音書の箇所、特に、イエスがイザヤ書の預言の成就を宣言した瞬間に注目され、「この瞬間に、イエスの同郷の人々に決定的な疑問を投げかけました。『彼は自分にふさわしくない役割を自分にふりかぶる大工の息子なのか、それとも、神によって罪と悪から人々を救うために遣わされた真のメシアなのか?』と」「ナザレの人々が受けた衝撃と困惑を想像してみてください… 彼らはイエスをよく知っているつもりでいましたが、それが、かえって彼らが心を開くのを妨げ、光を遮るベールのように覆ってしまったのです」と指摘された。
続けて教皇は、「この福音書の箇所は今日も、信者たちに『イエスに対する自分自身の理解と向き合うように』と促しています」とされ、「ここに書かれた出来事は、今日でも私たちにも起こり得ます… つまり、私たちも『イエスをすでに知っている』と思い込む罠に陥る可能性がある。私たちはイエスと共に成長してきました。学校で、教区で、教理学習で、カトリック文化を持つ国で…。ですから私たちにとって、イエスは身近な存在です。あまりにも身近な存在なので(そのような罠に陥る可能性がある)」と説かれた。
そのうえで教皇は、「私たちは、イエスを神の子であり、救い主である」と本当に認識しているかどうか、自らに問うように促された。「ナザレのイエスが語る言葉に、独特な権威があることを感じているだろうか?」「私たちに救いをもたらすことができるのは、イエスの他に誰もいないことを認識しているだろうか?」。
そして、「このようにして、私たち全員に救いの必要性を考え、それを認識した時に、初めて今年が恵みの年になるのです」と説かれた。最後に教皇は、「神の母であり、私たちの母であるマリアに自信を持って助けを求め、イエスを認識できるようにしましょう」と信者たちに呼びかけ、説教を締めくくられた。
(2025.1.24 バチカン放送)
教皇フランシスコが24日、6月1日のカトリック教会「世界広報の日」に向けてメッセージを発表された。
カトリック教会では、毎年、「聖霊降臨」の前週の日曜日(今年は6月1日、日本の教会では復活節第6主日に記念するため今年は5月25日)を「世界広報の日」と定め、多様な形態のメディアを通して行われる福音宣教について教会全体で考え、祈りを捧げることにしている。2025年度のテーマは「Share with gentleness the hope that is in your hearts(仮訳= あなたがたが心に抱いている希望を穏やかに分かち合いなさい)」(ペトロの手紙1・3章15-16節参照)。
メッセージの中で教皇は、偽りの情報や分極化が目立ち、かつてないほどに、ごく一部の権力が大量のデータと情報を統制する今日、ジャーナリストや広報担当者たちの仕事の重要性と責任の重さを指摘。「困難な時代にあって、恵みの時であるこの聖年にあたり、福音の精神に従い、各自の仕事と使命を新たにし、希望を伝える者となるように」と報道・広報関係者たちに求められた。
*現実を単純化、歪曲し、言葉を刃物のように使うコミュニケーションの問題
さらに、教皇は、「希望を生まず、恐怖や、絶望、偏見、恨み、狂信、憎悪を生じさせ、直感的な反応を引き起こすためにしばしば現実を単純化し、言葉を刃物のように扱い、偽りの、あるいは歪曲された情報まで用いる」など、今日のコミュニケーションの問題を列挙され、このようなコミュニケーションの”武装”を解除し、攻撃性が清められる必要を説かれた。
また、別の懸念すべき現象として、デジタル・システムを通した「プログラムされた関心の分散」を挙げ、「デジタル・システムが市場の論理に従って私たちを分析・推定することで、現実に対する私たちの認識を変質させてしまうリスク」も指摘された。
*人々の歩みに寄り添う『ナザレのイエスのスタイル』に倣え
教皇は、新約聖書のペトロの手紙1の「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、優しく、敬意をもって、正しい良心で、弁明しなさい」(3章15‐16節=聖書協会・共同訳)と言う言葉から、「キリスト者の希望には、顔がある。それは復活された主の御顔だ」、「その希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるようにしなければならない」、「その際には、優しく、敬意をもって弁明する」という3つのメッセージを引き出された。
そして、「キリスト者のコミュニケーションはもとより、一般のコミュニケーションも、柔和さ、親しさによって織りなされ、すべての時代における最も偉大な伝達者、人々の歩みに寄り添う『ナザレのイエスのスタイル』に倣うべきです」と強調。「心に語りかけるコミュニケーション、幻想や恐れを売るのではなく、希望する動機をもたらすことのできるコミュニケーション」であるよう希望された。
*注意深く思慮に満ちたコミュニケーション、隠れた善を語る必要
また教皇は、「希望が持つ共同体的な性格」に言及しながら、特にこの恵みの年がもたらす「再出発と、神の抱擁と慈しみへの委託のメッセージ」を指摘。聖年の多くの社会的意義に触れつつ、こうした意義を反映する例として、受刑者への憐れみと希望のメッセージ、苦しむ人や疎外された人への寄り添いと優しさを込めた呼びかけなどを挙げられ、「私たちを希望へと開く、注意深く優しい、思慮に満ちたコミュニケーションの大切さと、隠れた善を見出し、それを語る必要性」を示された。
*心に語りかけ、希望を蒔き、傷をいやすコミュニケーションの実践を
最後に教皇は、テクノロジーのめまぐるしい発展を前に、「私たちのたちの心、自分の内面生活をたいせつにするように」と信者たちに促され、「柔和で、相手の顔を忘れず、人々の心に語りかけ、本能的な反応をコミュニケーションの指針にせず実を結ぶことがと思われる時でも常に希望を蒔く、人類の傷をいやすコミュニケーションの実践」を求められた。
(編集「カトリック・あい」)
世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)会場ホール前 2025年1月23日 (REUTERS)
(2025.1.23 バチカン放送)
教皇フランシスコが23日、スイスのダボスで開催中の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)にメッセージをおくられ、人工知能(AI)がそれを設計した人間の知性を模倣するように構想されているために起きる問題や課題を指摘された。
教皇が指摘されたのは、①AIの人間の能力に似た、あるいはそれを凌駕する高度な技術とスピードを伴う創造性が人類の役割に与える影響②AIが作り出すものの成果が人間のそれとほとんど区別がつかないために、公共の場における真実・正真性の危機が高まる懸念③自律的に学習し特定の選択をするように設計されたこのテクノロジーが、新しい状況の中でプログラマーが予期しない反応をし、倫理責任、安全保障などに関わる重要な問題引き起こす疑念など、だ。
そして、AIの技術が「いくつかの可能性の中から技術的に選択し、その選択は明確に定義された基準、あるいは統計的推論に基づいている」のに対し、「人間は、単に選択するだけではない、『心』を通して『決断』する能力を持っています」と強調。
さらに「他のあらゆる人間活動や技術開発と同様に、AIも人間に適応して規律づけられ、より大きな正義、より広がる兄弟愛、より人間的な社会秩序を実現するための努力の一部とされなければなりません」と総会出席者たちに忠告された。
また、教皇は、「世の中の問題が、すべてテクノロジー的手段をもって解決可能と考える『技術支配的な思考体系』の増長にAIが利用される危険」を指摘され、「こうした考え方の中では、人間の尊厳や兄弟愛は効率追求の二の次にされ、現実や善や真理が、あたかも技術的・経済的権力から生まれるかのようになってしまいかねない」と警告。
そのうえで、「効率を優先するあまり、人間の尊厳が侵害されることはあってはなりません。すべての人の生活を向上させるのではなく、不平等や対立を生み、それを増大させるような技術の開発は、真の進歩とは呼べない」とされ、「AIが健全な人道的・社会的・統合的な発展に役立てられること」と強く希望され、「AIの複雑さを管理するために政府と企業は十分な注意を払うとともに、AIの適用をめぐる状況と社会に与える影響が次第に明らかになることに対して、社会のあらゆるレベルで適切な対応をとる必要がある」と述べられた。
(編集「カトリック・あい」)
教皇フランシスコ 2025年1月22日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.1.22 Vatican Newes Devin Watkins )
教皇フランシスコは22日、水曜恒例の一般謁見で、先月18日に始められた2025年聖年のための連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望(Jesus Christ our hope)」を再開された。今回は、聖母マリアに焦点を当て、彼女の人生を満たし、彼女の行動を励ました「希望」について語られた。
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今日は聖年のための連続講話、「イエス・キリスト、私たちの希望(Jesus Christ our hope)」を主題とする考察りましょう。
ルカは福音書の冒頭で、ヨセフと婚約したが、まだ家族と暮らしているおとめマリアの質素な家にももたらされる「神の御言葉」の変容の力を示しています。
神の偉大なお告げの使者、神の力をその名において意味するガブリエルは、旧約聖書で一度も言及されたことのない村、ナザレに遣わされました。当時、ナザレはガリラヤの小さな村にすぎず、イスラエル郊外のガリラヤ地方は、異教徒たちとの境界にあり、異教徒たちとの接触がある地域でした。そのナザレに、天使はマリアの心を驚かせ揺さぶる、前代未聞の形と内容のメッセージをもたらしたのです。
「あなたに平和があるように」という伝統的な挨拶の代わりに、ガブリエルは、おとめマリアに「おめでとう」「喜びなさい」と呼びかけます。「喜べ」という言葉は、聖なる歴史において親しみある呼びかけです。預言者たちがシオンの娘にメシアの到来を告げるときに使う言葉だからです。捕囚が終わった民に対する神の喜びへの招きであり、主の生き生きとした働きと存在を感じさせるものです。
さらに、神は、マリアを聖書の歴史上、それまで知られていない名前、「ケカリトメネ(神の恵みに満ちた者)」という愛情のこもった名で呼ばれています。この名は、「神の愛が、マリアの心にすでに宿り、これからも宿り続けること」を意味します。神は、マリアがいかに「恵みに満たされ」、いかに彼女を内的に彫り上げ、ご自身の傑作としたか、を語られているのです。
この愛情あふれる呼び名は、神がマリアだけに与えられるもの。神はそのマリアを「恐れることはない」と、すぐに安心させられます。全能の神、「できないことは何一つない」神(ルカ福音書1章37節)はマリアと共におられます。
ガブリエルは、おとめマリアにその使命を告げ、彼女から生まれる子の王権とメシア性に関して、聖書の多くの記述をマリアの心に響かせ、それを古くからの預言の成就として示しました。神の御言葉は、待望されたダビデにつながるメシアの母として、マリアを召されました。メシアは、人間的、肉としての方法ではなく、神的、霊的な方法で王となられ、その名は「イエス」、「神は救われる」という意味です。救いをもたらすのは、人ではなく、神だけであることを、すべての人に常に思い出させるものです。
救い主の母となったことは、マリアを心の底から揺さぶります。知的なマリアは、様々な出来事を内面から読み取ることができました。自分に起きていることを理解し、識別しようとした。そして、マリアは、その開かれた繊細な心の奥深くで、「神に信頼するように」という招きを聞きました。
マリアの心に、信頼の光が灯ります。神に委ね、従い、自分を明け渡します。マリアは、御言葉をその肉に受け、一人の女性、人間にこれまで託されたことのない、最大の使命に飛び込んだのです。マリアは自身を、奉仕のために差し出した。それは、奴隷としてではなく、父なる神の協力者としてでした。(イエスがぶどう酒の奇跡をなさった)カナの婚姻の場でそうであったように、マリアは神の恵みの賜物をつかさどる尊厳と権威に満ちています。
救世主の母、私たちの母であるマリアに、神の御言葉に耳を開き、それを受け入れ、守り、私たちの心を、神がおいでになる聖櫃、人々を受け入れ希望を育てる家へと、変容させることを学びましょう。
(編集・翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Francis’ Sunday Angelus (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2025.1.19 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは19日、年間第2主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音で読まれた、カナの婚宴における主の最初の「しるし」について振り返られ、「私たちが何かを欠いているとき、主は、私たちと共に祝いたいという願いから、助けてくださり、私たちの期待を遥かに超えることをお望みになる」と語られた。
教皇は、説教で、この日の福音書であるヨハネによる福音書について考察。カナの婚宴で、母親の求めに応じて水をぶどう酒に変えたイエスの最初の「しるし」について振り返られ、「このエピソードは、イエスに与えられた使命を先取りし、要約しています」と指摘された。
そして、預言者イザヤとアモスが、救世主が現れる日には主が「上等のぶどう酒の宴会」を用意されると予見していたことを思い起こしつつ、「イエスは、神と人類の間の結婚の契約を更新するために、ご自身の愛という『上等のぶどう酒』をもたらすために来られた花婿なのです」と語られた。
続けて教皇は、「今日の福音で、私たちは『欠乏』と『過剰』という2つの要素を目にしています… 一方で、ぶどう酒が底をつき、マリアは息子に『彼らにはワインがありません』と告げ、他方では、イエスが介入し、6つの大きな壺に、宴会の主催者が最後までそれを取っておいた花婿を称賛するほど、極上のぶどう酒を溢れんばかりにされます」とされ、「神のしるしは豊かさ… カナで示された豊かさは、『神と人類との祝宴が始まった』というしるしです」と指摘。「人類が欠乏に直面したとき、神は常にお応えになり、しかも、決してわずかなものではなく、あふれるような神の愛をもって応えてくださいます」と説かれた。
教皇はさらに、「私たちの人生という”宴”においても、特に心配事や恐怖に悩まされたり、悪の破壊的な力が人生の味わい、喜びの興奮、希望の風味を奪ったりするときに、”ぶどう酒が足りない”ことに気づくことがあります。しかし、このような”欠乏”に直面しても、主は豊かにその愛を注ぎ、喜びと希望の聖霊の”ぶどう酒”を私たちの生活にもたらし、それを私たちに豊かに与えてくださるのです」と強調。「『私たちが欠乏すればするほど、主はより豊かに応えてくださる」という考えは、一見、矛盾しているように思えますが、それは、主が私たちと共に祝いたい、と望んでおられるからです」と説かれた。
そして説教の最後に、教皇は、「聖母マリアが私たちのために取り成し、この聖年に、主イエスと出会う喜びを再発見できるよう助けてくださるように」と信者たちに祈るよう促された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)