Pope Leo blesses pilgrims at the weekly General Audience (@Vatican Media)
(2025.8.27 Vatican News Devin Watkins)
エルサレムのラテン(カトリック)教会のピエルバッティスタ・ピッツァバッラ枢機卿とギリシャ正教のテオフィロス三世総主教が26日、ガザ地区の和平を求める共同声明を発表、イスラエルが行おうとしているガザ住民の「意図的かつ強制的な大量移動」を正当化する理由はない、言明していたが、教皇レオ14世は27日の水曜恒例っパン謁見で、この共同声明に賛同する声明を出した。
教皇は、22日の天の元后マリアの祝日に合わせて、ガザやウクライナなどの速やかな和平を願う「平和のための祈りと断食の日」とするよう世界の信者たちに呼びかけを行っていた。
27日の声明では、「聖地における紛争は、多くの人々に甚大な恐怖、破壊、死をもたらしています」とし、関係諸勢力及び世界各国と国際機関などに対し、「聖地における紛争の速やかな終結」を改めて強く訴えた。
また、飢餓が危機的状況にあるなど現状をを踏まえ、「全ての人質解放、恒久的停戦の実現、人道支援物資の安全な搬入の促進、そして人道法の完全な遵守、特に民間人保護の義務、集団的処罰の禁止、無差別な武力行使の禁止、住民の強制移住の禁止」をイスラエルや関係勢力の指導者に求めた。
そして、声明の最後に、「平和の女王、慰めと希望の源であるマリアに願いましょう。マリアの取り次ぎによって、我々すべてにとって大切なその地に和解と平和がもたらされますように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo XIV at Wednesday General Audience (@Vatican Media)
(2025.8.20 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は20日、バチカンのパウロ6世ホールで行われた水曜恒例一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」と題する聖年連続講話を続けられた。
*主の”赦す愛”
今回は「主の”赦す愛”、特に裏切られたにもかかわらず主が弟子たちを最後まで愛されたこと』に焦点を当て「すべてが取り返しのつかないほど損なわれたように思える時でも、愛し続ける道は常に存在します…自分が 理解されていない、見捨てられたと感じても、赦すことができる恵みを求めましょう」と説かれた。
教皇は、イエスが最後の晩餐で、ご自分を裏切ろうとしている者にパン切れを渡した場面(ヨハネ福音書13章26‐30節)を取り上げ、「これは単なる”共有”のしぐさではありません… それよりもはるかに深い意味があります—愛すること諦めない最後の行い、です」と指摘。
「最後まで愛すること。そこに、キリストの心を理解する鍵があります。それは、拒絶、失望、感謝の欠落にも屈しない愛です」とされた教皇は、「イエスは時を知っておられるが、それに屈せず、ご自分でお選びになる。自分の愛が最も痛ましい傷、すなわち裏切りを通過しなければならないことをご存じで、引き下がったり、非難したり、自分を弁護したりする代わりに…愛し続けるのです。弟子たちの足を洗い、パンをぶどう酒に浸し、それを差し出す。『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』 (ヨハネ福音書13章26節)と語られました」。
*イエスがユダに渡された一切れのパン
そして、「イエスは、起こっていることを無視しているのではなく、それを直視されているからこそ、愛を前へ進め、その深みへと導いていく… 彼は、他者の自由が、悪に迷い込んだとしても、柔和な行為の光によってまだ到達できることを理解しておられた。真の赦しは、相手が悔い改めるのを待つのではなく、まず自由な贈り物として自らを捧げるものだと知っておられたのです」とされた。
だが、残念ながら、ユダは理解していなかった。「福音書には、『ユダがパン切れを受け取るやいなや、サタンが彼の中に入った』(同福音書13章27節)とあります」とされた教皇は、「この箇所は私たちに、それまで隠れていた悪が、愛が最も無防備な顔を現した後に現れたかのように映る。まさにそれゆえに、その『パン切れ』は私たちの救いなのです。なぜなら、神が私たちに近づくために、私たちから拒絶される時でさえ、すべて、絶対にすべてをなされることを教えてくれるからです」と説かれた。
そして「ここにおいて、赦しはそのすべての力を示し、希望の真の顔を現します… それは忘却ではない。弱さでもない。他者を愛し続けることで、他者を自由にする力です。イエスの愛は、痛みの真実を否定しませんが、悪に最後の言葉をお赦しにはならないのです」と説かれた。
*愛し続ける道は常に存在する
教皇は続けて、「これこそ、主が私たちために成し遂げられた神秘であり、私たちも、その神秘に参加するよう招かれています。どれだけの関係が壊れ、どれだけの物語が複雑になり、どれだけの言葉が未言のままで残っているか… 福音は、すべてが取り返しのつかないほど壊れているように思える時でも、愛し続ける方法が常に存在することを示しています」と指摘。
「赦すことは、悪を否定することではなく、悪がさらに悪を生むのを防ぐこと。何も起こらなかったと否定するのではなく、憎しみが未来を決定しないように、可能な限りのことを行うことなのです」と説かれた。
*主と共に誘惑に立ち向かう
また教皇は、「私たちも痛ましい困難な夜を経験しています。魂の夜、失望の夜、誰かに傷つけられたり裏切られたりする夜を経験しています」とされたうえで、そのような時、自分の中に引きこもり、自分を守り、あるいは反撃する誘惑にさらされるが、「主は、別の道が常に存在することを示してくださいます。私たちに、自分に背を向ける者にも一切れのパンを差し出すことができること、信頼の沈黙で応えることができること、そして、愛を放棄することなく、尊厳を持って前進することができることを教えてくださいます」と強調。
「見捨てられたり、誤解されたりした、と感じても、赦す力を主にお願いするように。なぜなら、まさにそのような時に、愛が頂点に達するからです」とされ、「イエスが教えてくださるように、『愛する』とは、他者を、裏切ることも含めて自由にすることだ。その自由が傷つき、失われても、暗闇の欺瞞から奪い返し、善の光に戻すことができると、固く信じ続けることです」と説かれた。
*イエスは、裏切りが救いの機会であることを示している
教皇は最後に、赦しの光が「心の最も深い裂け目を通る時、それは決して無駄ではないことが分かります。他者が受け入れないとしても、無駄に思えるとしても、赦しは与える者を解放ます。憎しみを消し去り、平和を回復し、私たち自身に戻してくれます」と繰り返され、「パン切れを差し出すという単純な行為を通して、すべての裏切りは、より大きな愛のための場として選択されれば、救いの機会になることを示しているのです」と確信を述べられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.8.20 Vatican News)
教皇レオ14世は20日、水曜恒例一般謁見で、ウクライナ、ガザなど戦争に苦しむすべての地域で「武装解除と非武装の平和」が実現するために、8月22日(天の元后マリアの日)を祈りと断食で心を合わせる日とすることを発表、世界の信者たちに参加を呼びかけられた。
教皇はこの謁見での講話で、22日が「天の元后マリアの日」に当たり、「マリアは地上における信者の母であり、平和の女王として記憶されています」とされた。そして、聖地、ウクライナ、そして世界各地で戦争によって傷つけられている世界において、戦争によって苦悩する人々のために、この日を「祈りと断食の日」とし、「主が、私たちに平和と正義を授け、継続する武力衝突によって苦悩する人々の涙を拭い去られるよう、主にお願いしましょう」と説かれた。
続けて教皇は、「平和の女王マリアが、人々が平和の道を見いだすよう取り成してくださいますように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.8.15 Vatican News Kielce Gussi)
教皇レオ14世は15日、夏の離宮、カステル・ガンドルフォでの聖母被昇天の祝日の正午の祈りに続いて、マリアが数世紀にわたって人々に希望を与えてきた役割について考察され、「暴力の中でも希望を失わないよう二」と信者たちに呼びかけられた。
世界平和のための祈りを聖母マリアの取り次ぎに委ねられた教皇は、マリアは「時代を超えて、メッセージや出現を通じて、困っている人々への近さを示してきました。そして今、(戦乱と暴力の続く世界で)子供たち、特に小さな者たちと弱い者たちが苦しめられている悪のために苦悩しています」と語られた。
世界が経験した最も血なまぐさい戦争である第二次世界大戦の悲劇から間もない1950年に、ピウス12世教皇は聖母被昇天の教義を宣言され、「マリアの栄光ある模範を省察するすべての人々が、人間の生命の価値をますます確信するようになる理由がある。世界が、戦争による人間の命の虐殺を二度と目撃しないことを願っています」と述べておられる。
この言葉は、今日でも依然として生きていることを強調された教皇は、「私たちは、世界中で広がる戦争と暴力の拡大に対し、無力感を抱かざるを得ません。その暴力は、人間のあらゆる苦しみにいっそう耳を塞がせ、無感覚にしている」とされたうえで、「私たちは希望を失ってはならない。神は、人間の罪や直面する暴力よりも偉大です… 私たちは、マリアと共に、『神は、私たちを助けてくださっている』ことを知っているからこそ、戦争と武器の支配に屈してはならない… 神の慈しみを通じてのみ、平和の道を再発見できるのです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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(2025.8.15 Vatican News Deborah Castellano Lubov )
教皇レオ14世は15日のカステル・ガンドルフォでの聖母被昇天の祝日ミサで、「マリア賛歌、マグニフィカト は、謙虚な者、飢えた者、神に忠実な僕たちの希望を強めます」と強調された。 ミサ中の説教で教皇は、今日は日曜日ではないが、「私たちは別の形で、歴史の 流れを変えたイエスの復活の神秘を祝っています」と指摘。「ナザレの聖母マリアにおいて、私たちは自分たちの歴史—教会の歴史、人類の共通の運命そのものの歴史を認識します。彼女において肉体を得た生命と自由の神は、死に打ち勝たれたのです」と語られた。
そして、この祝日は、私たちが、神が死を克服されることを見つめる機会となるが、「それは決して私たち抜きでは起こらないことを思い起させる」とされ、主の王国は主のものだが、「すべてを変えることのできる主の愛への『はい』は、私たちのもの… 十字架上で、イエスは自由意志で『はい』と宣言されて死の力を奪われましたが、その死は、私たちの手が主を十字架に釘付けにし、心が恐怖と不信に囚われているところどこにでも広がっています。十字架の上で、信頼が、未来を見据える愛が、赦しが勝利したのです」と述べられた。
*その『はい』は今も生きている
教皇は続けて、信者たちに、マリアが十字架のそばに、息子イエスと一つになって立っておられたことに注意を向けられ、「今の時代にあっても、マリアのように、逃げず、イエスの『はい』を自分のものとする時、私たちはマリアのようになります… その『はい』は、現代の殉教者たち、信仰と正義、優しさと平和の証人たちのうちに生き続け、死に抵抗しています。そのようにして、喜びの日は、『どのように、誰のために、私たちは生きるか』について、私たちに選択を迫る日ともなるのです」と説かれた。
さらに教皇は、聖ルカがマリアの召命における「決定的な瞬間」を記録した福音の箇所を思い起され、「彼女の生涯の頂点を祝うこの日を思い起こすことは素晴らしいこと。地上での人生は短い。神の母のマリアの物語でさえ、この地上では短く、終わりを迎えますが、人生が終わりを告げると、その唯一無二の輝きがより鮮明に輝くのです」と指摘。マリアの『マグニフィカト』が彼女の生涯の光を放ち、不妊のエリザベスの驚くべき実りがマリアの信頼を確固たるものにした。なぜなら、それは、神の刷新の言葉が受け入れられるたびに、教会の実りと全人類の実りに及ぶマリアの『はい』の実りを予告していたからです」と語られた。
*神は私たちの絶望を破る
続けて教皇は、「主の復活は、今日でも私たちの世界に入り込んでいます。今の世界では、死の言葉と選択が優勢に見えるかもしれないが、神の命は、兄弟愛の具体的な経験と新たな連帯のしぐさを通じて、私たちの絶望を打ち破ります。復活は、私たちの最終的な運命である前に、魂と身体の両方で、私たちの地上の住処を変容させます」とされ、「マリア賛歌、マグニフィカト は、謙虚な者、飢えた者、神の忠実な僕たちの希望を強いものとするのです」と強調。
「何かが不可能に思えても、神の言葉は引き続き明らかにされます。 善で悪に、命で死に立ち向かう絆が生まれる時、私たちは『神にとって不可能なことは何もない』(ルカ福音書1章37節)ことを知るのです」と語られた。 さらに、教皇は、今の世界で自己依存が蔓延し、良心が鈍ることを警告され、「私たちには、古い世界が消え去るのを待つ代わりに、それに固執し、富と権力を持つ者たちの助けを求める傾向があります。その助けは、しばしば貧しい者や卑しい者への軽蔑を伴います」とされたうえで、「教会は、脆弱な成員たちの『マグニフィカト』によって刷新される。貧しく迫害されるキリスト教共同体、紛争の地に慈しみの証しを立てる者たち、壊れた世界に平和を築く者たちは、教会の喜びです。彼らは彼女の持続的な実りであり、来たるべき王国の初穂です」と述べられた。
*彼女たちの証しによって回心しよう
また教皇は、(イエスに付き従う)多くの者が、年老いたエリザベスや若いマリアのように女性であることに触れ、「復活の使徒である女性たちの証しによって回心しましょう!」と願われた。そして、「この人生で『命を選ぶ』とき、私たちは天に上げられたマリアに、自分たちの運命を見いだすのは正しいことです… 彼女は、イエスの復活が孤立した出来事ではなく、単なる例外ではない、というしるしとして、私たちに与えられています」と語られた。
*マリア、恵みと自由の驚くべき結合
教皇が説教の最後に、「マリアは、恵みと自由の驚くべき結合であり、私たち一人ひとりに、神の民の生活への信頼、勇気、参加を促します… 『力ある方は、私のために偉大なことをなさった」 (ルカ福音書 1章49節)。このことを念頭に置いて、私たち一人ひとりがこの喜びを知り、新しい歌でそれを宣言しよう。人生を選ぶことを恐れてはなりません!」と信者たちを励まされた。
そして、「たとえそれが危険で無謀に見え、多くの声が『なぜそんなことをするんだ?放っておけ。自分の利益を考えろ』とささやいても、私たちは『キリストの弟子』。私たちの時代を駆り立てるのは、魂と身体を駆り立てる彼の愛なのです。私たち個々人として、そして教会として、自分自身のために生きないことで、命が広がり、命が勝利するのです」と強調して説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)