Pope Leo XIV greets the faithful at the start of the Wednesday General Audience (@Vatican Media)
(2025.9.24 Vatican News Christopher Wells)
教皇レオ14世は24日、水曜恒例の一般謁見で、聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」をお続けになり、今回は聖土曜日(復活祭前夜)にイエスが冥界(死者の魂が住むとされている地下の世界)へ降りてこられ、人間の存在の闇に光をもたらされたことについて考察された。
講話の中で教皇はまず、聖土曜日(十字架刑の後、復活の前)におけるイエスの「冥界」降下は、「神が私たちに示された愛の最も深く、最も根本的な行為」と指摘。
*『死』は、決して最後の言葉ではない
そして、「イエスは私たちのために死なれただけでなく、迷った私たちを探し求められ、闇を貫く光のみが到達し得る場所へと降りて行かれた」とされ、この文脈における冥界は「”場所”というより”状態”であり、生命力が枯渇し、苦痛、孤独、罪悪感、そして神や他者からの分離が支配している状態を意味します… イエスは、死の住まいの奥深くに入られ、そこに住む一人ひとりの手を取って導き出し、解放するために、冥界に赴かれたのです」と語られた。
さらに教皇は、「この御業の中に、復活のメッセージの力強さと優しさのすべてが込められています。死は決して、最後の言葉ではありません」と強調された。
*父なる神の愛を証しする
教皇は続けて、この「キリストの降下」が過去のみならず現代にもつながるものであり、「死者の状態である冥界に入られたイエスは、孤独、恥、放置、そして人生の闘いという私たちの日々の地獄にも入り込まれ、それによって、父なる神の愛を証しすることを可能にされるのです」と強調。
「イエスが冥界でアダムと出会われたことは、神と人のあらゆる出会いの象徴。神は、人を闇から導き出し、名を呼ばれ、完全な権威をもって、同時に、『もはや自分は愛されていないのではないか』と恐れる子供に対する父親のように、無限の優しさをもって、光へと連れ戻されます」と説かれた。
*慈悲に触れられないものはない
このように、「聖土曜日とは、『天が最も深く地を訪れる日』なのです。イエスの冥界への降下は、私たちに、イエスの贖いから除外されるものは何もないことを示しています。私たちの”夜”でさえ、最も前の過ちでさえ、断ち切られた絆でさえも除外されません。慈悲に触れられないほど荒廃した過去も、妥協した歴史も存在しないのです」と語られた教皇は、次のように講話を締めくくられた。
「聖土曜日とは、キリストが全被造物を父に捧げ、救いの計画へと回復させるための、静かな抱擁の時なのです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2025.9.21 カトリック・あい)
教皇レオ14世が21日、年間第25主日の正午の祈りに先立つ説教で語られた全文は、バチカンのホームページThe Holy Seeによると次の通り。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主の日の祝福を!
今日の福音(ルカ16章1-13節)でイエスが語られるたとえ話は、私たちが物質的な富をどう扱うか、そして最も尊い財産である命そのものをどう管理するか、を深く考えさせます。
このたとえ話では、金持ちが管理人に「会計報告」を求めます。ここには重要な真理が示されています。私たちは自らの命や享受する財産の主人ではなく、すべては主からの賜物であり、この恵みは私たちの管理、自由、責任に委ねられているのです。 いつの日か、私たちは自分自身と所有物、そして地球の資源をどのように管理してきたかについて、神と人々の前で、社会の前で、そして特に後世の人々の前で説明することを求められるでしょう。
ここに登場する管理人は、これまでただ自分の利益だけを追求してきました。 しかし、それが露見して管理権を奪われた時、彼は自らの将来を守るために何をすべきか考えざるを得なくなる。この困難な状況の中で、彼は「物質的な富の蓄積が、最高の価値をもつものではない」と悟ります。この世の富は過ぎ去るものだからです。
そこで彼は素晴らしい考えを思いつきます。債務者たちを呼び寄せ、彼らの負債を「切り捨て」、自分に帰属するはずだった利益を放棄したのです。 こうして彼は物質的な富を失う代わりに、自らを助け支える用意のある友人を得るのです。
この物語をもとに、イエスは私たちにこう勧められます—「不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。
確かに、たとえ話の中の管理人は、この世の不正の富を管理しながらも、友を作る方法を見出し、自己中心の孤独から脱することに成功しました。そうであるなら、福音の光の中で生きる弟子である私たちはなおさら、この世の財産と私たちの命そのものを、「主と兄弟姉妹との友情」という真の富を目指して用いるべきではありませんか。
愛する友よ、このたとえ話は私たちに問いかけています。「神が託された物質的財産、地の資源、そして私たちの命そのものを、私たちはどのように管理しているのか?」。
私たちは利己主義の道を選び、富を何よりも優先し、自分だけを考えることもできますが、それは他者から私たちを孤立させ、競争という毒を広め、しばしば対立を煽ることになるでしょう。 でも私たちは、自分が持つすべてのものを神の賜物として認め、分かち合いの道具として管理し、用いる道を選ぶこともできます。友情と連帯のネットワークを築き、共通善のために働き、より公正で公平、そして兄弟愛に満ちた世界を構築するために。
聖母マリアに祈りましょう。私たちのために取り成し、主が託されたものに対して、正義と責任をもって管理する忠実な管理者となれるよう、助けてくださいますように。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo XIV greeting faithful at Wednesday General Audience in the Vatican (@Vatican Media)
(2025.9.17 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は17日の水曜恒例一般謁見で聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望(Jesus Christ our Hope)」をお続けになった。
今回は、聖土曜日、すなわち「深い沈黙と喜びに満ちた期待の日」における神秘に焦点を当てられ、「あらゆる中断された時間も、神に捧げれば、恵みの時となり得ます… ”待ち時間”が長く感じられ、希望が失われたように思える時でさえも、神が人生に働きかける力を信頼するように」と信者たちに説かれた。
*イエスも償いの業を成し遂げられて、休息された
教皇は、「聖土曜日は休息の日。神が宇宙創造後に休息されたように、御子もまた贖いの業を成し遂げ、最後まで私たちを愛し尽くされた後、休息されたのです」とされ、「私たちもまた、日々の慌ただしい活動の中で、静寂と休息の瞬間を見出すよう求められていますが、しばしばこれを軽んじてしまいます」と語られた。
*新たな命は沈黙の中に始まる
続けて、 「私たちは、まるで人生が決して十分ではないかのように生きています。生産し、自己を証明し、追いつくために急ぎます。だが、福音は、立ち止まるのを知ることは、信頼の行為であり、私たちはそれを学ばねばならない、と教えています」と語られ、「聖土曜日は、人生が常に私たちの行動だけでなく、成し遂げたことに別れを告げる術を知ることにも依存することを知るように促している。墓の中で、父なる神の生ける御言葉であるイエスは沈黙しておられますが、まさにその沈黙の中で、新たな命が発酵し始めるのです」とされ、この過程を畑に埋められた種や夜明け前の闇に例えられた。
*「無益な」時間さえも尊いものとなる
さらに教皇は、「神は過ぎ去る時間を恐れません。なぜなら、『待つことの神』でもあるからです」とされ、「そのようにして、私たちの『無益な』時間、つまり休止や空虚、実りの無い時でさえも、復活の胎となるのです」と説かれた。
*全てが終わったように思えても信頼する
続けて「あらゆる中断された時間は、神に捧げれば恵みの時となり得ます… なぜなら地中に葬られたイエスは、全ての空間を占めようとしない神の『柔和な御顔』であり、物事を成し遂げさせ、待ち、自ら退いて我々に『自由を与える神』だからです… 神は、全てが終わったように思える時でさえ、信頼すべき方なのです」とされ、「この出来事から学ぶように。私たちは急いで復活する必要はありません。まず留まり、沈黙を受け入れること、そして、制限に抱かれることを許すこと」と語られた。
最後に、教皇は、「私たちは、即座の答えや解決策を求めるかもしれません。しかし、神は時間が遅く進む中でも、”深く働かれる”のです」と強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Pope Leo XIV presides at the prayer vigil for the Jubilee of Consolation (@Vatican Media)
(2025.9.15 Vatican News Devin Watkins)
教皇レオ14世は15日、「慰めの聖年」の祈りの徹夜祭を主宰され、苦難や喪失を経験した全ての人々に、キリストへの信仰を抱くよう呼びかけられ、そうすることで、「痛みは暴力へと向かわず、赦しに満ちた愛へと導かれるのです」と説かれた。
この聖年の特別行事は、特に困難な時、親しい人との死別、苦しみ、試練に耐えてきたすべての人に捧げられるもので、約9,000人の巡礼者が聖ペテロ大聖堂に集まった。
教皇は巡礼者と共に「御言葉の典礼」をされ、愛する人を衝撃的な形で失った二人の女性による証言が捧げられた。
その一人、米国のジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏の母ダイアンは、2014年に息子を殺害したいわゆるイスラム国のメンバーとの和解に至るまでの信仰の歩みを語った。
もう一人、イタリアのルチア・ディ・マウロ・モンタニーノさんは、警備員であった夫がナポリで若者グループに殺害された後、娘と共に経験した苦痛を語った。
教皇は説教で、世界で日々多くの戦争や個人的な喪失に直面する人々が慰めと安らぎを必要としていることを考察され、「暗闇にある時、たとえ外見では分からなくても、神は私たちを見捨てられません… まさにこうした瞬間にこそ、私たちを決して見捨てない救い主に、これまで以上に希望を置くよう招かれているのです」と励まされた。
そして、「苦しむ人々は何らかの慰めを与えてくれる誰かを周囲に探し求めるが、往々にして誰も見つけることができない… 時には、涙こそが唯一の慰めとなることもあるでしょう。でも、その涙は、弱く試練に晒された人間性の沈黙の叫びを表わすもの。決して恥じるべきではありません」と指摘。
続けて「私たちは悪の本質や、神がなぜ悪の存在を許されるのかを問い続けるかもしれません。そうした中で、聖書に目を向けることで、疑問から信仰へと歩みを進める助けを得られます… もし私たちが疑問を、神への正義と平和への嘆願と祈りに変えるなら、私たちは希望をイエスに向け直すのです。イエスは神と人間をつなぐ架け橋なのです」と強調された。
また教皇は、「慰めは、信仰が嵐に見舞われた船のように『未熟で躊躇する場所』において、『堅固で揺るぎないもの』となった時に見出されます… 悪が存在する場所では、それを克服し、休む間も与えない慰めと安らぎを求めねばなりません」と語られた。
そして、先の二人の証言が「苦痛が暴力を生んではならない」という真実を明らかにしている、と指摘。「それは、愛が憎しみを克服できるから。赦しは、悪の連鎖を断ち切り、神の慈悲に基づく正義を確立するのです」と強調。
「また、教会のメンバーの何人かは、あなた方を傷つけたことを深く悔い、教会は今日、母なる神の御前にあなた方と共にひざまずきます… 私たち皆が、最も弱い立場にある人々を、慈しみをもって守ることを、母なる神から学びますように!」と願われた。
教皇はさらに、「自らの意志の力に頼るのではなく、痛みの中で神に慰めを求めるように」と巡礼者たちに呼びかけ、「死という姉妹によって私たちから引き離された愛する人々は、失われたわけでも、虚無の中に消え去ったわけでもありません。彼らの人生は主、善き羊飼いのもの。主は彼らを抱きしめ、寄り添っておられるのです」と励まされた。
説教の最後に教皇は、世界中の数多くの人々に計り知れない苦しみを強いている暴力、飢餓、戦争という重圧を終わらせるよう訴えられるとともに、「これほどの傲慢が渦巻く中でも、神が心と手を導き、助けと慰めをもたらしてくださること、痛みと悲しみに沈む人々を慰められる平和の使徒たちの存在を確信しています」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)