☩「亡くなったあなたがたの愛する人を、主は抱きしめ、寄り添っておられる」—教皇、苦しみに耐えて来た全ての人に捧げる聖年の祈り徹夜祭で

Pope Leo XIV presides at the prayer vigil for the Jubilee of ConsolationPope Leo XIV presides at the prayer vigil for the Jubilee of Consolation  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月16日

☩「神は、十字架を『死の道具』から『命の手段』に変えられる」ー教皇、十字架称賛の祝日の正午の祈りで

 

2025年9月14日

☩「科学的厳密性と歴史への情熱を融合させ、完全に受肉した『外に出て行く神学』が求められている」教皇、神学アカデミー国際セミナーで

Pope Leo addresses theologians taking part in an International Seminar promoted by the Pontifical Academy of Theology Pope Leo addresses theologians taking part in an International Seminar promoted by the Pontifical Academy of Theology   (@Vatican Media)

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月14日

再掲☩「長年培った信仰を、家族、人との出会いの中で愛情をもって伝え、希望のしるしに!」ー教皇、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」(日本は9月14日、世界は7月27日)

年配の巡礼者を祝福する教皇レオ14世年配の巡礼者を祝福する教皇レオ14世  (@Vatican Media)
 教皇レオ14世が7月10日、同月27日の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向けたメッセージを発表された。今年のテーマは「希望を失うことのない人は、幸いだ」( シラ書14章2節参照)

 「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、2021年に教皇フランシスコによって制定され、教会暦中のイエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの日(7月26日)に近い7月の第4日曜日に祝われる。日本の教会では、9月の「敬老の日」に合わせて、その前日の日曜日(今年は9月14日)に記念することになっている。

 バチカン報道官室が7月10日公表したメッセージ全文の仮訳以下の通り。

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2025年第五回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のために

希望を失わない人は幸いである(シラ書 14章2節 参照)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 私たちが今祝っている聖年は、年齢がどうであれ、希望が喜びの絶え間ない源であることを理解する助けとなります。その希望がまた、長い人生の中で火によって鍛えられたとき、それは深い幸福の源となるのです。

 聖書は、主がその救いの計画の一翼を担うために人生の後半に召された男女の例を数多く示している。年老いたアブラハムとサラは、神が彼らに子を授けると約束されたとき、それを信じることが難しかった。子供がいなかったため、将来への希望が持てなかったようです。

 洗礼者ヨハネ誕生の知らせに対するゼカリヤの反応も同じでした。「私は老人ですし、妻も年を取っています」(ルカ福音書1章18節)。老齢、不妊、肉体の衰えは、明らかにこれらの男女の生命と豊穣への希望を閉ざした。ニコデモが、師から「生まれ変わる」ことについて話しかけられたときにイエスに尋ねた質問も、純粋に修辞的なもののように思われます。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハネ福音書3章4節)。しかし、私たちが物事を変えられないと思うときはいつでも、主は救いの力で私たちを驚かせてくださいます。

*希望のしるしとしての高齢者

 聖書では、神は晩年の人々に目を向けることで、ご自身の摂理的配慮を繰り返し示している。アブラハム、サラ、ゼカリヤ、エリザベスだけでなく、すでに80歳になっていたモーセも、民を解放するために召された(出エジプト記7章7節参照)。こうして神は、神の目には高齢は祝福と恵みの時であり、高齢者は神にとって希望の最初の証人であることを教えています。

 アウグスティヌスは、「老年とは何を意味するのか?」と問いかけます。そして、神ご自身がその問いに答えておられる、と語ります―「 私の力があなたがたのうちにとどまるように、あなたがたの力を衰えさせなさい。そうすれば、使徒と同じように、『私が弱ったとき、私は強い』と言うことができる」(Super Ps. 70章11項)と。高齢者の増加は、この歴史の瞬間を正しく解釈するために、私たちが識別するよう求められている時代のしるしです。

 教会と世界の活動は、世代の経過を踏まえて初めて理解できます。高齢者を受け入れることは、人生とは今この瞬間以上のものであり、表面的な出会いやつかの間の人間関係で無駄にすべきではないことを理解する助けとなります。人生は常に私たちを未来へと導いているのです。

 創世記には、年老いたヤコブが孫であるヨセフの息子たちに祝福を与えた感動的なエピソードがあります。彼は、神の約束が成就する時であるとして、希望をもって未来を見つめるよう訴えています(創世記48章8-20節参照)。

 高齢者の弱さが若者の強さを必要とするのは事実ですが、若者の未熟さが知恵をもって未来を築くために高齢者の証しを必要とするのも、また事実です。私たちの祖父母は、信仰と献身、市民としての美徳と社会的コミットメント、記憶力と試練の中での忍耐の模範なのです! 祖父母が希望と愛をもって、私たちに伝えてくれた貴重な遺産は、常に感謝の源となり、忍耐への呼びかけとなります。

*高齢者には祝福がある

 聖書の時代から、聖年は、「解放の時」と理解されてきた。奴隷は解放され、借金は赦され、土地は元の所有者に戻されました。聖年は、神によって定められた社会秩序が回復され、長年にわたって蓄積された不平等や不公正が是正される時でした。イエスはナザレの会堂で、貧しい人に福音を、目の見えない人に視力を、囚人や虐げられている人に自由を告げ知らせました(ルカ福音書4章16-21節参照)。

 この聖年の精神にそって高齢者に目を向けると、私たちは、彼らが解放される、特に孤独や疎外から解放されるのを、助けるよう求められているのを知ります。今年はそのためにふさわしい年です。神の約束への忠実さは、老年期には祝福があること、高齢者がしばしば閉ざされている無関心の壁を打ち破るよう私たちを鼓舞する本物の福音的喜びがあることを教えています。私たちの社会は、世界中どこでも、人生の重要で豊かな部分が疎外され、忘れ去られることに慣れきってしまっています。

 このような状況を踏まえ、教会全体が責任を引き受けることで容易に理解できるような意識の転換が求められています。高齢者を定期的に訪問し、高齢者のために、また高齢者と共に、支援と祈りのネットワークを作り、「自分は忘れられている」と感じている人々に、希望と尊厳を回復させる関係を築くことでもたらされる、感謝と配慮の 「革命 」の主人公となるよう、すべての小教区、協会、教会団体が求められているのです。

 キリスト教的な希望は、常に、私たちに「大胆になるように、大きく考えるように、現状に満足しないように」と促しています。高齢者が受けるべき尊敬と愛情を回復できるような変化のために働くよう、私たちに促しているのです。

 だからこそ教皇フランシスコは、「世界祖父母と高齢者の日」を主に、一人暮らしの高齢者を探す取り組みを通して祝うことを望まれたのです。そのため、この聖年にローマに巡礼に来ることができない人は、「適切な時間、独りでいる高齢者を訪問し… ある意味で、彼らのうちにおられるキリストのもとへ巡礼する(マタイ福音書25章34-36節参照)」(『APOSTOLIC PENITENTIARY』, 『Jubilee Indulgence』, III)ことができます。高齢者を訪問することは、私たちを無関心と孤独から解放してくださるイエスに出会うことです。

*高齢者として、私たちは願うことができる

 シラ書は、希望を失わない者を「幸いな者」と呼んでいます(14章2節参照)。おそらく、特に私たちの人生が長い場合、私たちは未来ではなく、過去に目を向けたくなるかも知れません。しかし、教皇フランシスコが最後の入院中に記されたように、「私たちの身体は弱っていますが、それでも、信仰をもって、希望の輝くしるしとして、愛し、祈り、自らをささげ、互いに寄り添うことを妨げるものは何もありません」2025年3月16日の正午の祈りの説教)。私たちには、どんな困難も奪うことのできない自由があります。それは、「愛する自由」であり、「祈る自由」です。

 愛する人への愛情—人生の大半を共に過ごした妻や夫への愛情、子どもへの愛情、日々を明るく照らしてくれる孫への愛情—は、私たちの力が衰えても、衰えることはありません。彼らの愛情が、私たちの活力をよみがえらせ、希望と安らぎをもたらしてくれることも多いのです。

 神ご自身にルーツを持つ、これらの生きた愛のしるしは、私たちに勇気を与え、「たとえ外側の自分が衰えていくとしても、内なる自分は日々新たにされていく」(コリントの信徒への手紙2・4章16節)ことを思い出させてくれます。特に私たちが年を重ねる中で、主を信じて前進しましょう。祈りと聖ミサにおける主との出会いによって、日々新たにされましょう。

 私たちが長年培ってきた信仰を、家族の中で、また日々の人との出会いの中で、愛情をもって伝えていきましょう。常に神の慈しみを賛美し、愛する人たちとの一致を培い、遠くにいる人たち、とりわけ、困っているすべての人たちに心を開くことができるように。そうすることによって、私たちは年齢にかかわらず、希望のしるしとなるのです。

                                                        2025年6月26日、バチカンより 教皇レオ14世

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2025年9月12日

☩「教会内外の困難の中で、福音宣教への新たな情熱と勇気が求められている」—教皇、新任の司教たちに

教皇レオ14世、最近任命された司教たちと 2025年9月11日 バチカン、シノドスホール教皇レオ14世、最近任命された司教たちと 2025年9月11日 バチカン、シノドスホール  (@Vatican Media)

(2025.9.11  バチカン放送)

 教皇レオ14世は11日、バチカンのシノドスホールで、最近任命された司教たちとお会いになり、「皆さんが受けた賜物は、自分自身のためではなく、福音に奉仕するためです」とされ、「司教とは僕(しもべ)であり、人々の信仰に奉仕するために召されているのです」と強調された。

 教皇との会見に参加したのは、バチカンの福音宣教省と司教省が主催したセミナーに出席した最近1年間に任命された世界の司教たち。

 教皇は、彼らへの講話で、「奉仕とは単なる外的性質のものや役割の遂行ではありません… イエスの弟子として、福音を告げるために召された者には、内的な自由さ、簡素な精神、愛から生まれる奉仕への自発性が求められます」と言明。

 さらに、 「第一に、民を統率する者は、自分が『多くの人々の僕』であることを理解せねばなりません」と語られ、司教叙階について聖アウグスティヌスが述べた言葉を引用するかたちで、「常に注意深く、謙遜と祈りのうちに歩み、主が遣わされる民の僕となるように」と願われた。

 そして、「人々の信仰の僕であるためには、キリストの姿に倣う奉仕の精神に根差しているだけでは十分でない… 信仰とその伝承の危機、教会への帰属意識と教会生活の実践をめぐる困難に直面する中で、福音宣教のための新たな情熱と勇気を見出す必要があります」と説かれた。

 また、教皇は、現在の世界の多くに地域での戦争と暴力の悲劇、貧しい人々の苦難の中で、「兄弟愛と連帯に満ちた世界を求める人々の願望、生命と自由の価値をめぐる倫理的課題などを忘れてはなりません」とされ、「人々の歩み、疑問、不安、希望を分かち合える、注意深い牧者として、また、司祭や信仰の姉妹兄弟の導き手、父、兄弟として、教会は、皆さんを派遣するのです」と新司教たちを励まされた。

2025年9月12日

◎教皇レオ14世・聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑬イエスは、”叫び”が「弱さ」ではなく「希望の行為」であること示された

Pope Leo holds his weekly General Audience in St. Peter's SquarePope Leo holds his weekly General Audience in St. Peter’s Square  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年9月11日

☩「戦争で苦しむ人々の叫びが、神への信頼の祈りとして天に届くように」教皇、水曜恒例の一般謁見で

Pope Leo XIV at the Wednesday General Audience on September 10, 2025Pope Leo XIV at the Wednesday General Audience on September 10, 2025  (@Vatican Media)

 

2025年9月10日

☩「武装しない、武装を解く、謙遜で忍耐強い平和、苦しむ人々に寄り添う平和をすべての人の上に」ーダッカでの諸宗教の集いへメッセージ

バングラデシュで開かれた諸宗教の集いバングラデシュで開かれた諸宗教の集い 

 教皇レオ14世は、バングラデシュで開かれた諸宗教の集いにメッセージをおくられた。

 この集いは、在バングラディシュ・バチカン大使館および同国の司教協議会の共催で、首都ダッカのクリシビッド・インスティテュートで、9月6日から12日まで行われている。

 レオ14世のメッセージは集いに参加したバチカン諸宗教対話省のジョージ・ジェイコブ・クーバカド長官が代読した。

 メッセージで教皇は、「神だけがもたらすことのできる平和—武装しない、武装を解く、謙遜で忍耐強い平和、常に慈愛のために努力し、特に苦しむ人々に寄り添う平和」をすべての人々の上に願われた。

  「兄弟姉妹間に調和の文化を促進する」という集いのテーマについて、教皇は「このテーマは、善意の人々が他の宗教の信者と一緒に育てようと努める、兄弟愛に開かれた精神を反映するもの」と述べられた。

 さらに「文化とは、それぞれの民族を特徴づける芸術、思想、社会制度の豊かな遺産を意味しますが、同時に、成長を支える豊かな環境をも意味します」とされ、「健全な生態系が様々な植物の共存的繁栄を可能にするように、健全な社会文化もまた多様な共同体の調和的繁栄を可能にするのです」と説かれた。

 そして、「このような文化は注意深く育くむ必要があり、真実という太陽、慈愛という水、自由と正義という土壌を必要とします」と語り、「痛ましい歴史は、調和の文化の軽視によって、雑草が平和を覆って窒息させてしまうということを教えています」と指摘。

 調和の文化の構築には、「アイデアだけでなく、具体的な経験の共有も必要であり、そうした意味で、宗教間の友好の真の尺度は、社会の最も弱い立場にある人々への奉仕において共に歩む姿勢にあります」と、調和と平和のための対話と協力を強く願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月10日

☩「二人の聖人は私たちに『人生を無駄にせず、高みを目指し、傑作にしよう』と呼びかけている」ー教皇、列聖ミサで

(編集「カトリック・あい」)

2025年9月8日

☩「聖地、ウクライナ、戦争に苦しむすべての地域のために祈り続けよう、神は平和を望んでおられる!」教皇、年間第23主日の正午の祈りで

Pope Leo during Sunday's canonization of Pier Giorgio Frassati and Carlo Acutis, just before leading the Angelus prayerPope Leo during Sunday’s canonization of Pier Giorgio Frassati and Carlo Acutis, just before leading the Angelus prayer  (@Vatican Media)

*ハンガリーとエストニアで新たに2人の福者が列福

 

教皇はまた、エストニアとハンガリーの両国で教会が新たに二人の福者を祝っていることを思い起こされ、「この二人の新たな列福者の証しによって、教会は豊かになりました」と語られた。

二人は、エストニアのエドゥアルド・プロフィットリッヒ大司教とハンガリーの女性信徒、マリア・マグドレナ・ボディ。 イエズス会士のプロフィットリッヒ大司教は、エストニアの首都タリンで6日に列福された。彼は1942年、当時のソ連政権による教会迫害の中で殺害されている。同じ6日、ハンガリーのヴェスプレームでは、若い女性信徒、ボディが列福された。彼女は1945年、暴行を企てた兵士に抵抗したため殺害された。

教皇はまた、待ち望まれた日曜日の列聖式に参加した8万人以上の全員に感謝し、世界中から参加した司教、司祭、公式代表団、高官、信徒全員に挨拶を述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月7日

☩「創造物を慈しむことが私たちの使命」教皇、Borgo Laudato si’(ラウダート・シ村)の開所式で

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年9月6日

☩「ガザ地区での緊急停戦と人道支援の障害除去の実現を。『二国家解決』が唯一の出口だ」教皇、イスラエル大統領に直接訴え

President Isaac Herzog and Pope Leo XIV met on Thursday, September 4, 2025President Isaac Herzog and Pope Leo XIV met on Thursday, September 4, 2025  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月5日

☩「内戦と自然災害で危機的状況のスーダンへの人道支援を」教皇、3日に一般謁見で世界に国々、国際機関に訴え

FILE PHOTO: Displaced children from Sudan's civil conflictFILE PHOTO: Displaced children from Sudan’s civil conflict 

 

2025年9月4日

◎教皇レオ14世・聖年連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑫「渇く」はイエスの私たちの愛と関係を求める叫び

Pope Leo blesses a small child as he arrives at the weekly General AudiencePope Leo blesses a small child as he arrives at the weekly General Audience  (@Vatican Media)

(2025.9.3 Vatican News   Devin Watkins)

 教皇レオ14世は3日の水曜恒例一般謁見で「イエス・キリスト、私たちの希望」を主題とする聖年連続講話をお続けになり、今回はは十字架上のイエスの最期の言葉、「私は渇く」を考察され、「人間の弱さは、天国への架け橋」と語られた。

 この講話で教皇は、ヨハネ福音書に記された、十字架上のイエスの最後の言葉「私は渇く」(19章28節)と「すべては成し遂げられた」(同30節)に焦点を当てられた。

 そして、十字架に架けられ、「人類が最も輝かしくも、最も暗い瞬間」を迎えた時、「イエスは、生涯のすべてを込めた、この二つの言葉を語られ、それによって神の子の全存在が明らかにされました」と指摘。

 「十字架上のイエスは、『勝利の英雄』ではなく、『愛を乞う者』としてお現れになります。自らに与えられないもの、ただ一人、自らに与えられないものを、謙虚にお求めになるのです」とされ、「イエスの十字架上の『渇き』は、拷問された身体の生理的欲求だけでなく、深い渇望の表れ。愛と関係と交わりの渇望なのです」と説かれた。

 教皇は続けて、「これは、『人間のあらゆる条件を分かち合うこと』をお望みになった神が、この『渇き』にも打ち負かされるという、沈黙の叫び。私たちの神は一口の水を乞うことを恥じない。その行為こそが、愛が真実であるためには、『与えるだけでなく、求めることも学ばねばならない』と教えてくれるからです」と強調。

 さらに、「『渇き』を訴えられるイエスの姿は、私たちが自力で自らを救うことができない、ということを示しています。それは、『渇く』に続く、『成し遂げられた』という言葉が、酢を浸した海綿を受け入れられた後に発せられたからです」とされ、「愛は、自らを貧しくされた。「それゆえにこそ、愛はその業を成し遂げたのです」と語られた。

 そして、「キリスト教の逆説は、『神が自ら為すことによってではなく、自ら為されることによって、救うこと。力によって、悪を打ち負かすのではなく、愛の弱さを最後まで受け入れることによって救うのです… 救いは自律性の中にあるのではなく、自らの必要を謙虚に認め、それを自由に表現できることの中にあります」と説かれた。

 続けて、「人類は、信頼によって満たされる。それは私たちに、真の希望を開きます。なぜなら神の御子でさえ、愛と意味と正義を渇望し、自給自足ではいられなかったからです」とされた教皇は、「イエスは、『求めることが、卑しいことではなく、解放だということを示され、私たちを救ってくださる。それは罪の隠れた状態から抜け出し、交わりの場へ再び入る道。創世の初めから、罪は恥を生み出してきましたが、赦し、真の赦しは、自らの必要に直面し、拒絶を恐れなくなった時に生まれるのです」と指摘。

 「十字架上で渇きを訴えられたイエスは、傷ついた人類全体の『生ける水』への叫びを体現しています。それが、私たちを神へと導き、神と結ばせる方法なのです」と強調された。

 教皇は講話の最後に、信者たちに対して、「兄弟愛、質素な生活、恥じることなく求める術、そして下心なくできることを捧げることに喜びと真の充足を見出すように」と呼びかけられ、「特に自分には値しない、と思える時こそ、求めることを恐れてはなりません。(救いを求めて)手を差し出すことを恥じてはなりません。救いはまさにそこに、その謙虚な仕草の中に隠されているのです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月3日

☩「ウクライナの人々が日々希望の灯を絶やさぬように」教皇、ハリチ司教区創設650周年記念式典へメッセージ

Cathedral of the Assumption in LvivCathedral of the Assumption in Lviv  ( Mariusz Krawiec SSP)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年9月2日