・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑫タイで好きな言葉のひとつは「チャイイェンイェン(慌てないで、ゆっくりね)」  

    先日久しぶりにムッとする気持ちのまま口をきき、自分でもハッとするきつい言葉を言ってしまい反省。その時、走馬灯の様に思い出されたのが長いタイでの生活、温かい懐かしい記憶にしばし浸りました。どういう関連?読者の皆さんには想像つかないでしょう。

 タイ国に宣教に赴いた折、少しでも人々の生活に溶け込む為に、歴史文化、生活習慣を学ぶために本を読みました。マナーの本は今でも印象に残っています。蜘蛛の巣が張るほど忍耐強く待つ人の挿絵、腹を立て短気の不徳の至らなさがタイの人々にとっては最低の人間、忍従して穏やかに怒らないで生きるように、と。仏教に培われた文化ですね。喧しい騒音、うるさく煩わしい人々と気長に付き合う、約束の時間に遅れ待たせられても穏やか、決して人を急がせない。

 タイで平素使うใจเย็น ๆ (ใจ=チャイ=心 เย็น=イェン=冷える冷たい ๆ=繰り返しの記号なのでイェンイェンと発音し強調する) と言う言葉があります。チャイイェンイェン、冷静に、慌てないで、ゆっくりね、との声掛けです。タイでの生活でゆったりと受けとめる友人達の豊かな姿に触れ感化され、考え方を意識して変えたほどです。

 それまでの6年間は三ノ宮の聖パウロ書院に勤務、尼崎の修道院から通勤。神戸の街を歩く人並を足速にすり抜け、時間を惜しんだ秒刻みの 生活でした。手早い仕事、時間を大切にする実質は変わらないのですが、人との接点に労わり優しさがあることで、潤いができるのですね。さして時間を取るわけでなし、急かさなくても事はうまい具合に行き、人を生きた心地にしてくれます。

 タイでの多忙な30年の宣教生活は、人間味ある素敵な余裕の出会いに織りなされていました。労わりと優しさの心の潤滑力をますます発揮して、日本での宣教に励んでいます。ヨハネ福音書によると、鍵がかかっていたのに、イエス様は入って来られ、励ましてくださいました。

 「カトリック・あい」愛読者の皆さん、復活なさった主の平和と喜びを、霊に導かれて共に宣べ伝えましょう。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年5月6日

・共に歩む信仰に向けて⑤ 教皇制のゆくえ(その1)

 教皇フランシスコの帰天。冥福を祈ります。(今月のこのコラム原稿は死去される前に書いたものです。)

*教皇はキリストの代理者になった・・

このコラム2月28日付け「共に歩む信仰に向けて③キリシタン史と現代その1&その2」で、伴天連の政治的な動きが問題であったと述べました。では、そのおおもとの原因はどこにあったのかというと教皇権、制度としての教会であると言わざるを得ないと思います。

 15世紀末、教皇アレキサンデル6世は発見される土地(新大陸)をスペインとポルトガルとに分かつのに、おおよそ以下の教義を用いたと言われます。「地上の国を統一するのは、王のなかの王であるキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ。不信心な君主は単なる占領者にすぎない。キリスト教徒の国王は、教皇の認可を得てその代理として統治しているにすぎない。国王は教会の聖務の代行者として、教会のために宗教的職分を果たしているのである」(マルティモールによる)。教皇権の具体
化が伴天連たちの政治的動きとなったのでした。

*王と教皇の相互依存・・

教会も変動する世俗社会のただ中にありますから外敵からの攻撃や侵入などに対処するために強大な王たちの支援や保護を必要としました。教皇権と世俗の王や皇帝の権力との相互依存の社会です。フランク王のカール大帝(768~814)は自らを「信仰の擁護者にして教会の支配者」と自認していました。「皇帝が教皇からの支援を必要としたのとまったく同じくらい、教皇権も皇帝からの支援を必要とした」のです。

 その後、ドイツ国王オットー1世はカール大帝の居所だったアーヘンの大聖堂で大司教から国王としての権標(剣、マント、笏など)と聖油の塗油を受け、黄金の冠を被せられます。オットーはローマの政
情不安で苦しむ教皇ヨハネ12世の救援要請に応えたので、962年、サン・ピエトロ教会で教皇から皇帝として戴冠されます。こうしてドイツ国王はイタリアの北部と中部の支配という「イタリア政策」に関わることになります。

*3つの事件と教皇権・・

以下、3つの事件を取り上げ、教皇権がどのように表れたかを見てみます。

①カノッサ事件

高校の世界史でも扱う事件です。1075年、教皇グレゴリウス7世はドイツ国王ハインリヒ4世がイタリアの一部の司教たちの叙任を強行したことに警告を発し、教皇の命令に無条件で従うよう求めます。ハインリヒの行為は、ドイツ王はローマ帝国の後継者としてイタリアの支配に関わっていたためになされたことでした。

 ハインリヒは教会会議を開き、26名の大司教や司教が出席。彼らはグレゴリウスを教皇として認めず、教皇に服従の解除を通告します。それに対してグレゴリウスはハインリヒによる統治の停止と破門を宣
言し、全キリスト教徒をハインリヒに対する忠誠義務から解放します。

 ハインリヒは再び教会会議を開催しようとしますが、今度は出席する司教はほとんどいない。司教たちは教皇を恐れたのです。また反国王派の諸侯たちも会議を開いて、ハインリヒが一年以内に破門から解かれなければハインリヒを廃位すると宣言します。窮地に陥ったハインリヒは教皇に謝罪することを決めて、カノッサ城に滞在する教皇に赦しを請い、雪の城門で3日間裸足のまま祈りと断食をして、やっと破門を解かれたという事件です。

いちおう、教皇の勝利ではありますが、カノッサに赴く前、トリノに到着したとき、北イタリアの司教と諸侯たちは、ハインリヒを支えるために大軍を集めていました。グレゴリウス教皇は武力行使を畏れてカノッサのマチルダの居城に避難していました。

 またカノッサ事件には後日談があります。反国王派諸侯によって対立国王になったルードルフとの戦いでハインリヒが敗れたことで教皇は再びハインリヒを破門にし、ルードルフを正式な国王と認めます。これに対してハインリヒは教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世を擁立します。ハインリヒとルードルフの両陣営の戦いが何度かありますが、ルードルフの死によって、ハインリヒはイタリアに進軍し、ローマに入って対立教皇クレメンス3世から皇帝戴冠を得ました。

 グレゴリウス7世はローマ近郊サレルノに逃れ、そこで憤死します。さらにハインリヒは帝国会議を開催し、多くの大司教や司教、世俗諸侯が出席し、そこでグレゴリウス派の司教の罷免が宣言されました。

 事件の前、1059年、教皇ニコラウス2世は、教皇選出は世俗権力を排するため、枢機卿団の相互選挙(コンクラーベ)によるとの教皇令を出します。これ自体、当時枢機卿だったグレゴリウス7世(ヒルデブランド)たちの意図によるものでした。グレゴリウス7世は『教皇訓令書(Dictatus Papae)』の中で、ローマ教皇のみが正しく普遍的であること、彼のみが司教を罷免することも復帰させることもできること、彼のみが皇帝の標徴を用いることができること、すべての君主は教皇の足に口づけすべきこと、彼は諸皇帝を廃位することができるとして、教皇の権威・権力が不可侵・普遍・不可謬であり、皇帝の権威・権力よりも上であること、教皇を頂点とした中央集権、社会全体のヒエラルキーを構想していました。

 グレゴリウス7世が失敗した理由の一つは、教皇が利用できる行政組織が未発達であったからだと教会史家バラクロウは言っています。従って1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化されますし、教会法も発展していきます。教皇庁の成立によってカトリック教会は「聖なる人々の集団が信徒を率いる組織」ではなく「法律家集団が信徒を統治する組織」へ変わったのだと中世史家の藤崎衛氏は言っています。

 この事件から、教皇権が王たちだけでなく司教たちからも全面的に支持されていたわけではないことがわかります。教皇は自分の至高権、普遍かつ不可謬な権威を主張していますが、全面的に承認されていたわけではないのです。

②シチリアの晩鐘(シシリアン・ヴェスパー)事件

この事件も高校の参考書『詳説世界史研究』(山川出版社の脚注に記載されています。1282年3月シチリアの首都パレルモでシチリア島人がフランス人数千人を殺戮する暴動・反乱が起こりました。直接の原因は、晩の祈りの時刻に、一人のフランス人兵士がシチリア人女性にセクハラをしたので、それに怒ったシチリア人たちがその兵士だけでなくフランス人を手当たり次第見つけ出しては殺していきました。十数年前からシチリア島民はフランスのシャルル・ダンジューの過酷な政治によって支配されていたので、その恨みもありました。しかしそれだけではなく、当時シチリアの諸都市がドイツや北イタリア
の都市のような自治を要求していました。

 時の教皇マルチン4世はシャルルによって立てられた傀儡にすぎなかったので、全島民に破門を宣告しますが、島民の働きもあって結局シャルルの支配は終わり、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを治めるようになります。

 当時、地中海世界はそれぞれの国家や都市が競い合い、利害関係は複雑でしたが、おおざっぱに分けると、教皇側にはフランスとシャルルのアンジュ―家、イタリアの教皇派諸都市、ヴェニス、南イタリアのナポリなど。反教皇側にはシチリアの諸都市、イタリアの皇帝派諸都市(ペルージア、スポレート、アッシジ)、ジェノア共和国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国(ドイツ)、アラゴン王国(アラゴン、カタロニア、ヴァレンシア)、アフリカの一部イスラム人など。そのような中でこの事件は起きたのです。

 もともと西欧中世世界は理念的にはローマ教皇を中心として一つになるはずでしたが、徐々に各々の国や都市は自分の利益を図るようになっていき、また教皇の側も自己の地位と存続を優先して行動するようになったために、このように教皇の考えに従わない反教皇派の国々や都市ができ、しかも彼らはイスラム勢力とも同盟を結ぶという、非キリスト教的なことまでしました。つまり教皇を中心にして一つであるべき西欧キリスト教世界の崩壊を露呈していたのです。また、国際政治の比重が高まる中で、教皇の存在は霊的な指導者ではなく政治的な要素の一つ、一勢力に過ぎないことを、「シチリアの晩鐘事件」は示しています。

 さらにシチリアの晩鐘事件の示すこと。この事件に限らず、教皇および教皇庁は一人の権力者や国に過剰に権力が集中して教皇に反抗することを防ぐため、また諸勢力が互いに争い合って仲裁役に当たる教皇の存在を皆が必要とするように、政治的に介入していきました。霊的な使命をもそのために利用したことが、結局は教皇の権威の失墜につながっていきました。聖戦という名目で十字軍を色んな国々に派遣させたこともその一つです。これでは教皇権は「神からのもの」と思える
はずがありません。

③アナーニ事件

この事件についても高校で学びます。教皇ボニファティウス8世は勅書 UnamSanctam (1302年)で二つの剣の思想(ルカ22:38参照)、すなわち霊的剣と現世的剣の両方とも教会の権力の中にあり、俗界の権威者は精神界の権威者に従わなければならない、そしてすべての権威は教会に、そしてその頭である教皇に帰される。すべての人は救いのために教皇に対する服従が絶対必要であるとして教皇の絶対性を主張しました。

 そして教皇庁はフランス国内の全教会の聖職禄に課税し、国王フィリップ4世も対イギリス戦争のため聖職者十分の一税を課したことで教皇と対立します。国王は全国三部会を開いてその支持を得、聖職者と国王は共同戦線を張り、また教皇を裁くための公会議の召集を要求します。そして1303年国王の密使たちはアナーニで教皇を急襲して捕え監禁します。教皇は捕えられる前に関係者を破門していましたが、その効果もなく屈辱の内に死去します。

 その後、フィリップ4世は新しい教皇に圧力を加え、先の勅書の撤回とアナーニ事件関係者の破門解除を認めさせました。また新教皇クレメンス5世は自らの住まいを1309年南フランスのアヴィニョンにします。ローマが政情不安であること、アヴィニョンが教皇に忠実なナポリ王国の治下にあったからです。以後、アヴィニョン教皇時代となり、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」が67年間続くことになります。また1378年、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が立ち、その後約40年間続く教会大分裂(シスマ)となりました。

 教会分裂によって、西欧は二つの陣営に分かれました。神聖ローマ皇帝、イギリス国王、 フランドルおよび多数のイタリア都市がローマのウルバヌス6世教皇の側に。フランス国王、サヴォワ公国、スコットランド、神聖ローマ帝国の幾つかの地方、そしてほどなくしてアラゴンとカスティラがクレメンス7世(対立教皇)の側に。教皇の権威は失墜しました。

*両剣の解釈は3者によって違う・・・

 ローマ司教がパパ(教皇)の称号・肩書きで教令を発したのはシリキウス(在位384~399)であったと言われますが、それまでは幾つかの教会でパパの称号は用いられていました。のちにローマ司教に限定されていきますが。

 5世紀の教皇ゲラシウス1世(在位492~496)は「それぞれ独立した聖俗二つの権力が世界を支配する」と述べ、世俗権力からの自立を主張しました。のちに両剣論と呼ばれる理論のもとになったものですが、先述したようにボニファティウス8世は世俗の剣も聖なる剣(教皇権)に従わなければならないとし、教皇権の絶対性を読み込んでいます。

 カノッサ事件の後、ドイツ王フリードリヒ1世(バルバロッサ)は教皇ハドリアヌスの馬の鐙(あぶみ)を支えて、つまり封建制的に教皇に臣下の礼を取って、ローマ帝国の皇帝戴冠を得ました(1155年)。しかしながらバルバロッサの思い、両剣の解釈は、世俗の剣と聖なる剣はともに神より発している。各剣は神により直接、その帯剣者に与えられたのであるから、政剣を与えられた皇帝は教剣を帯びる教皇と同等であるとし、帝国そのものの神的起源を強調しました。

 したがって、教皇には世俗権力に介入する権利は元々ないのであり、皇帝は直接神から世俗の統治を委ねられている、帝国は神に直接、聖別されているとし、自らの帝国を「神聖帝国」と命名します。のちに「神聖ローマ帝国」の名称に変わる帝国です。帝国が「神聖な」と冠せられるのは俗権が教皇の神権政治を断固として斥ける決意表明であったわけです。教皇の政治への介入を断固拒否していますし、教皇の権威は認められてはいないのです。

*まとめ

 教皇自身は聖俗両界における至高の権力を持っていると主張しましたが、以上見てきたように、人々はそのような信仰を持っていたとは言い難いのです。教皇も一人の人間に過ぎず、決して不偏不党にはなれなかったし、自分の利益や自分の生命の安全を優先して行動して逃げたり隠れたりしています。Aを聖別して王としても、その人がBに戦争で敗れるとAを破門して、Bを王とするなど、自分が生き延びるため行動していることが明らかです。判断の基準は神なのか何なのか、わからない。

 こんな次第では判断を教皇に仰ぐことはないでしょう。何よりも「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)とのイエスの言葉。教皇がしてきたことは、その真逆ではなかったかと思います。

 今回のシノドスで、教皇フランシスコは第2千年期の教会はヒエラルキー中心であったが、第3千年期はシノダルな教会になることが神の意向であるとはっきり述べたことは重要な指摘です。

(参考資料 *堀米庸三『西洋中世世界の崩壊』(岩波書店)、スティーブン・ランシマン「シチリアの晩祷」(太陽出版)、藤沢房俊『地中海の十字路=シチリアの歴史』(講談社選書)、マルティモール『ガリカニスム』(白水社クセジュ文庫)、藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』(NHK出版)、G.バラクロウ「中世教皇史」(八坂書房)、山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書)、菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社)など参照。
(西方の一司祭)

2025年5月4日

・愛ある船旅への幻想曲 (51) 「平和への希望を訴えられた教皇を、どれほど身近に感じていただろうか」

    教皇フランシスコのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りします。

    お亡くなりになる前日、復活祭に姿を現されお祝いの言葉を宣べられた教皇フランシスコは最期まで、現役の教皇だった。

 世界中のメディアが教皇フランシスコのご逝去を報じている。そんな教皇は『思想の自由と寛容』と『平和』を祈られた。教皇として戦争は人間性の敗北とはっきりと意見し、死の直前まで平和への希望を訴え続けられた。そして、カトリック教会を改革せねばならないことを宣べ続けられた教皇フランシスコを身近に感じた信者が、どれくらいいることか。

 『希望』を2025年聖年のメッセージの中心に置かれた意味が今はっきりと私に伝わっている。

 最近の私は路線バスでの移動を楽しんでいる。先日、高齢者が多く集う施設前停留所から杖を持つ3人が乗車した。87歳男性と88歳女性93歳男性の夫婦だ。なぜ私が彼らの年齢を知っているのか。バスのシルバーシートに座ったすぐ、一人の男性が「私は87歳です。あなたは何歳ですか?」と失礼にも女性に話しかけた。バス中に聞こえる大きな声である。女性は答えた。87歳男性は「あなたたちは夫婦ですか?それならばあなたは93歳でしょう!」と彼女の夫に話しかけた。なんと”ピンポーン!”である。

 話好きの彼は悦に入って続けた。「高齢夫婦の年齢は一方を知れば簡単に分かる。今の時代は、好いて好かれてでなければ結婚しない。互いの年齢など関係ない。だから若者は中々結婚しない。子供も少なくなる一方。そして、男性が女性よりも早く死ぬからあと10年もすれば女性ばかりが残る。その時には私もいませんが(アハハ)。これからの若者はこの国で苦労すると思いますよ… あなたたちは幸せですね。今も二人で行動できて」と。

 この人何者?93歳男性も「私たちは互いに元気ですからありがたい。だんだんと人口が減るのは困ったものです」と、しっかり答える。バスの中で、後期高齢者の方々が日本で生きてきた時代と現代社会への思いを聞くことができた私は、ひとりほくそ笑んだ。これも生きた信仰であろう。

「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることより難しいものです」(教皇フランシスコ 2015年1月18日 フィリピン・マニラでの講話から)。

 今年も主イエス・キリストの復活を祝った私たちにとって、生きる信仰とはどういうことか、考える。ある若者からは「カトリックの信仰は八方美人的でしょう。違いますか?」。また別の若者からは「ここの教会はイデオロギーが強すぎるのでは⁈」。ある中学生からは「聖書に書かれたこととか、信じる人がいるんだね⁈」。そして、受洗のために聖書を勉強していた友人からは「聖書を勉強するたびに今までの自分を全否定されているように思って、どうしても神が入ってこないし信じられない」と。

 私自身これらの疑問と意見を共有できる側の信者だ。正しい聖書解釈と伝統を望むが故の声は大事だ。伝統を重んじる宗教も社会の移り変わりとともに現代人に合う聖書の解釈、表現の仕方を考えねば、今を生きる信仰にそぐわないと思っているからだ。

 聖書を読み、うわべだけの理解や机上の空論に真実はない。私たちは真実の愛を求めて旅を続けているのではないか。私自身、いつ如何なる時も偽善的愛は与えない、受け入れないと心している。幸いにも未信者の友達が”偽りの愛”を語ることを聞いたことがない。彼らは、嘘をついた後の面倒くささを知っているからである。しかし、教会での”愛”は多種多様であり、私は首を傾げることが多い。未信者の友達は何につけても「それがカトリックでしょう⁉︎」と便利な答えを持っている。私よりもカトリックの宗教を理解しているようだ。。

「隣人に関して偽証してはならない」(教皇フランシスコ 2018年11月14日 一般謁見の講話から)

 偽りの関わりをもつことは、交わりを妨げることにより、愛を阻む、深刻な問題だ。嘘のあるところに愛はないし、愛することもできない。人々の間のコミュニケーションには、言葉だけでなく、しぐさ、姿勢、さらには沈黙や不在であることさえ関わっているのだ。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年5月4日

・カトリック精神を広める⑰ 聖人の奇跡について ―聖ペトロの場合-

 この4月21日、フラシスコ教皇が亡くなれた。第1代目の教皇が聖ペトロだから、優に2000年続く第266代目の教皇であった。

 以下、新約聖書のルカ福音書第4章から引用する。

 初代教皇となった聖ペトロ、この男の生涯は奇跡に彩られている。イエスとの最初の出会いは、漁をしていた時である。夜通し漁をしたのに一匹も釣れずくたくたになって浜辺に戻ってきて、網の手入れをしていた時であった。そこへ、病気を治し、悪霊を追い払うことで評判を呼んでいたイエスを慕って大勢の人々が、浜辺にやってきていた。イエスは、当時シモンと呼ばれていたこの男に船を借り、船の上から群衆に説教をした。説教が終わった後、イエスは、シモンに言った。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。たった今しがた、夜通し漁をして帰ってきたところであった。恐らく疲れていただろ

うと思う。しかし、シモンは言った。「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。これが運の付き初めであった。漁をしてみたら、なんと一網で網が破れそうになる程の沢山の魚が取れ、船が沈みそうになったのである。驚いたのはシモンである。なにしろ、一晩くたくたになる程、何度も網を下ろしたのに一匹も捕れなかったのである。「この方はただ者ではない」と思ったのであろう。仲間の船に応援を頼んで、浜辺に戻ってきたシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。以来、ペトロは、漁師仲間ヤコブとヨハネとともにイエスの12弟子の一人となったのである。

 マタイによる福音書第16章では、元漁師だったペトロが初代教皇となったいきさつが記述されている。そこでは、イエスは、シモンにこのように言っている。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。このイエスの言葉により、十二人の弟子の長として初代教皇となったのである。

 ペトロについては、多くの話しが聖書の中に出てくるが、この話はペトロの勇敢さを現していると筆者は思う。

 マタイによる福音書第14章によると、事の次第はこうである。

 イエスは、群衆を帰らせた後、12人の弟子を船に乗せて、先に対岸に行かせ、自分は山に登り祈りを捧げた。船の方はと言えば、逆風のために波に翻弄されていた。イエスは、翌朝、船に乗ろうと、なんと湖の上を歩いていった。驚いたのは、船の上に乗っている十二人の弟子たちだ。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 

 聖書の記述が本当であれば、水の上を歩いた人は、人類史上、後にも先にも、ペトロただ一人である。信仰はともかく、勇気とイエスへの熱き信頼が無ければ、水の上を歩くなどというのは、できる話しではないのではないか。

 ペトロの最後については、ローマ人による激しいキリスト教徒への迫害の中で、詳しいことは分かっていないが、弟子の自分がイエスの十字架に習うのは不遜として、頭を下にした逆十字架で殉教した、と言われている。

 横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ https://mori27.com

2025年5月4日

・神様からの贈り物 ㉑『誰かが自分自身を愛せるように』

 フランシスコ教皇が天国に帰られたこと、心からご冥福を申し上げます。これを機に、考えたことをコラムにまとめました。

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 先月の私のコラムを読んだ未信者の友人からこんな言葉をかけられた。「麻衣さんの文章を読んで、信じるものがある人は、僕とは違う世界に住んでいるんだな、と思いました。あまりにもまぶしいし、心に拠り所がある人たちが羨ましいです」私は、その言葉に、思わずドキリとしてしまった。そして、その言葉をきっかけに、私が誰にも打ち明けてこなかった気持ちを、彼の前で話すことになった。

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 洗礼を受け、いざ、信者になってみて、私は喜び以上に戸惑いを感じていた。神の存在を疑っているわけではないのに、なぜかまわりの信者たちと混ざれない感じがしていた。「本当は私には信仰がないのかもしれない」と悩んだこともある。

 その理由が分かったのは、受洗してから約10年後に、こんな意味の言葉を目にしたのがきっかけだった。「昨今、見えないものや神の存在を信じる人が減った。自分の親でさえ信頼できない子どもたちが増えたのだから、それはある意味当然とも言えよう」。読み終えた私は、愕然とした。そもそも私は、『信頼する』という感覚が分からないことに気がついた。

  人は、母親との関係の型を、他の人間関係においても無意識のうちにトレースしてしまう。なので、母親との関係性は、後の人生に大きな影響を与える。私の母は、精神的な問題を抱え、不安の強い人だったので、私は母との愛着関係を築けなかった。それは、私の後の人生に多くの課題を残した。

 「親ですら、本当の自分を愛してくれないのだから、他人が私を愛せるわけがない」と、私は考えていた。人付き合いを避けていた時期も長かった。友人たちにも心を閉ざした時期、私のスマホの電話帳には、片手に収まる数の連絡先しかなかった。

 ただ、本当は、私を愛してほしいと願っていた。受洗から15年以上経ち、その気持ちに向き合い、素直になると決めた。その背中を一番強く押したのは、私の意思ではなく、周囲の環境が良かったことと、それに与れる運に恵まれていたことだった。少しずつ「信頼するって、こういうことかもしれない」と体感できるようになった。

  それに派生して、こんな素晴らしい人々を周囲に配置してくださった『大いなる存在』に目が向くようになった。

 そんな過程を経て、私は今ここにいる。

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 「愛ってどんなものですか?」そう彼に聞かれた瞬間、私は過去の自分と彼とが、重なって見えた。かつての私も、『愛とはなにか?』といろんな人に聞いた。当時の焦りや混乱、孤独、渇望などが大波のように押し寄せた。私が「言葉では説明できない。感覚的なものだから…」と答えると、彼は、いっそう深く額に皺を寄せて、真剣に考え始めた。

 そして、彼はおもむろに顔をあげ、「もっと僕に迷惑をかけてほしい。気を遣わないで接してほしい」と言った。その言葉を受けた私は、胸に両手を当てた。そういえば、私自身にも、どこか彼に遠慮する部分があったのは否めない。私もまだ回復の途上にあることを改めて感じた。

 彼の存在は、私が私自身を愛せるようにしてくれた。私の存在も、彼自身を愛し始めるきっかけになれたら、と願ってやまない。また、それがろうそくの灯りを分けるように、世界中に広げたい。それは壮大な夢で、大海に一滴の水を落とすようなものだとわかっていたとしても。

 神よ、どうか私をあなたの平和の道具としてお使いください。アーメン。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2025年4月30日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑪ タイの村で少年だった男性が、横浜・山手教会のミサで私を見つけた!

   タイ国の最高峰ドーイインタノン (ดอยอินทนนท์) 海抜2,536m。北部チェンマイ県の西、メーホンソーン県に隣接した山岳地帯に聳え、国立公園に指定された地帯もあり、動植物が生息し自然が美しく、亜熱帯地方の天国です。

 初めて訪れたのは2000年、長崎コレジオ神学生のボランティア•スタディーツアーの下見のため。初代の溝部院長が仙台教区司教になり、代わって院長になった故中島健二神父様と同伴の中村満神父様をお連れして、最高嶺を超えて西へメチェムに下り、更に山奥のカリアン山岳民のディンカオ村に行った時です。

 バンコクの見渡す限りの丘一つない平地、中心部は高層ビルの谷間に住んでいた私にとって、故郷福島の山に囲まれたような感激でした。その翌年から2016年春まで毎年、十数人の神学生と大学生を連れて登り降り、曲がりくねった道を車で5時間余で山岳民の村々に入り、村人と教会造りの手伝い。電気も通わぬ山奥、大自然と村人の懐で衣食住を共にし、感謝のミサを捧げ、祈り語り合い、汗を流して筆舌に語り尽くせぬ体験をしたのです。

 1日の終わりローソクの光でその日の体験を分かち合い夕の祈り…。まさに「Laudato si’」の醍醐味。その思い出を胸に、今は司祭、社会人として輝いて生きている事でしょう。

 先日、横浜の山手カトリック教会を訪問、タイで受洗し親しくしている友人夫妻と久しぶりに会い、ミサに与かりました。そしてミサ後、感動の出会いがあったのです。2012年2月末にコレジオ神学生と行ったメーニングクラン(บ้านแม่นีงกวาง)村の青年が、ミサに出ていたのが私だと確信して、聖堂前で待っていてくれたのです―人口48人12世帯の改宗したばかりのカトリックの小さな村、「ぜひ教会を建ててあげたい」とのナタポン神父の希望で訪れた村でした。その頃は少年だった愛称スマート君、ミサ中に私を見つけ、「モド(カリアン語でシスター)ヨウコだ!」と。

 彼は数年前、タイで現在の仕事に応募、今横浜で働いているのです。数人の神学生は叙階して立派なパド(カリアン語で神父)になっています。村人達の祈りの声援は今も届いているのを感じます。

 当時、「イエス様への同じ信仰が、私たちを出合わせてくれた」と、どこの村人も感慨無量で語ってくれました。時空も言語文化の違いも超えて結ばれ、共に祈りを捧げるカトリックのすごみですね。
タイでの宣教生活での一コマ、日本の青年たちとの山奥での思い出が蘇ります。イエス様を信じる喜びを胸に、日々復活の命を生きて行きましょう。Happy Easter !

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年4月5日

・カトリック精神を広める⑯ 聖人の奇跡について ―聖ドン・ボスコの場合

 今回は、サレジオ会の創始者聖ドン・ボスコの名高い奇跡を紹介したい。

   ドン・ボスコは、モンテマーニョというぶどうの産地の村に、8月15日の聖母マリアの被昇天祭(聖母が生きたまま天に昇られたとの信仰に基づく記念日)の前の3日間の黙想会に招かれ説教をしていた。この村ではもう3か月も雨が降らず、農家は困り果てていた。そこで、説教の最後に「皆さんが全員、この3日間の間に、赦しの秘蹟、告解をして、被昇天の日に全員、聖体拝領をするなら、その日に雨が降ることをお約束しましょう」と。驚いたのは、黙想会に招いた主任司祭である。

 「ドン・ボスコ、困りますよ、そんな約束をされては。降らなかったらどうしますか?」。ドン・ボスコは「大丈夫ですよ!」と一言。そんな会話をしていたということを知らない村の人々は、ドン・ボスコの言葉に従い、全員告解をして、15日の被昇天祭を迎えた。その日は朝からカンカン照りで、夕のミサまでに雨が降りそうにはまるで見えなかった。しかし、夕方になって、ボスコが祭服を着て、説教台に上ろうとしたとき、太陽が陰り始め、説教をはじめて数分で土砂降りの雨が降り出した。同じ3日の間、司祭の忠告を聞かずに飲めや歌えのお祭りをしていた隣り村では、雹が降ったというが、この村では降らなかった。

  思うに、ドン・ボスコが、雨を約束したのは、説教をしている最中に、神様からの天啓、インスピレーションを得たのではないだろうか。それで確信して雨の約束をしたと思われる。凡人と聖人の違いである。

  筆者の身近にも、聖人にふさわしい神父様がいた。2018年6月20日、享年87歳で亡くなられた、聖アウグスチノ修道会司祭、アルフレッド・バーク(Alfred Burke)神父様である。彼は、アメリカシカゴ出身の宣教師で、長く神奈川の大船教会や戸塚教会などで主任司祭を務めておられた。筆者の連れ合いは、彼に告解をしているときに、「長く子供が生まれないんです」と相談したことがある。神父様は「大丈夫ですよ。お祈りしておきますから」と答えられ、それから2年後に子供を授かった。

 また、ある知り合いのご夫婦は、当時、主任司祭を務めていた山手教会で、神父様の指導のもと、結婚式を挙げたが、彼らは異口同音「バーク神父様は聖人です」と事もなげに、はっきりと言っていた。また、ある時は、タイの教会で知り合った信者同士で食事会があり、バーク神父様を誘うということになったが、神父様は一言、「布教の機会になりますか」とお聞きになり、「なりません」と答えると、申し出をお受けにならなかった。他のグループも同様。つとに清貧の誉れ高い方だった。また、神父様は長い間、刑務所への慰問司祭を務められ、国から表彰されてもいる。

  現在、確実に天国におられ、神様への取りなしをして下さり、崇敬の対象となるところの「聖人」の位に上げて欲しい場合、我々はどうすれば良いか。自身が所属する教会の主任司祭に相談して、司教様に「調査委員会」を作るようお願いすることから始まる。司教様が承諾し、その国の枢機卿の承認を得れば、ローマ法王に正式な「調査員会」を作るようお願いすることになる。こうして調査委員会が作られ、聖人にふさわしいかどうかが調べられる。

  聖人になるためには、2つの奇跡が必要である。ここで活躍するのが漫画でも有名になった、悪魔の代弁者とも言われる「バチカン奇跡調査官」だ。真実の奇跡なのか、まやかしなのかを調査する。

  現在、聖人にふさわしいとして調査されている方々としては、筆者が知るところでは、江戸時代のキリシタン大名高山右近、サレジオ会の重鎮だったチマッティ神父、蟻の町で有名なゼノ神父や蟻の町のマリア北原 怜子(きたはら さとこ)氏などがおられる。

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ https://mori27.com

2025年3月31日

・神様からの贈り物⑳ 桜が咲くころの思い出、神様からのヒント探しを楽しみながら…

 桜が咲く頃になると、決まって思い出す出来事があった。

 20年以上前の私は、晴れて志望校に合格し、入学式を終え、学校のオリエンテーション合宿へ行った。クラスメイトたちは、まだ互いをそんなに知らない同士だったが、わさびソフトクリームを食べたり、夜中まで女子トークを続けたりと、まるで旧知の仲のように盛り上がった。学年全員が入れる大きなお御堂では、みんなで『ガリラヤの風かおる丘で』を歌い、初めてキャンドルサービスを体験した。小さな炎が、次々と広がっていくのを目の当たりにして、静かな感動を覚えた。

 私は、校長先生の講話が大好きだった。生きる意味や、自分らしさ、自己実現などを考え続けてきた私にとって、先生のお話は、興味深いものにあふれていた。

 合宿中のある日、クラスごとの集合写真を撮ったあと、私は個人的に、ツーショットで校長先生との記念撮影をお願いした。校長先生は、「私でいいの?」と少し驚かれた様子だったが、快く引き受けてくださった。とても嬉しくて、中学卒業直後の同窓会で、同窓生たちに校長先生との写真を見せて回った。

 帰宅後、私は舞い上がって、校長先生へ写真と共に手紙を書いた。「私はまだ祈りのことは、よく知りません。でも、マリア様は私にとって憧れの女性です」と書いた。校内には、赤ちゃんのイエス様を抱いたマリア様のご像がいろんなところにあったので、すっかり知った気になっていたのだ。

 後日、校長先生から、お返事が担任の先生を通じて届いた。きれいな便箋に、写真のお礼とこんな言葉が書かれていた。「聖母マリアは、私たちのどんな祈りも聞いてくださっていますよ」という言葉を読んだとき、私ははっとした。「そういえば、聖母マリアのことを『イエス様のお母さんだ』ということくらいしか、私は知らない… 顔だけでなく、耳まで真っ赤になるのを感じた。

  それから、入学時に生徒全員が買った聖書を、授業以外で初めて開いた。一生懸命読み進めたが、マリア様についての記述がほとんど出てこないことに気づいた。「カトリック信者の人たちは、どうやってマリア様を思い浮かべるのだろう? マリア様について知りたい!」と思った。

 知ったかぶりが、聖書を自発的に読むきっかけになったのは、思わぬ恵みだった。また、自ら気づき動けるような対応をしてくださった、校長先生の思慮深さには、頭が下がる思いだ。

 答えを与えるのではなく、自分で答えを見つけられるように導くのは、それを教える側にとって根気のいる作業だ。神様も同じ思いをされているかもしれない。ならば、日常には、神さまからのヒントがたくさんあるかもしれない。見つけようとすれば、見つかるはず。そのヒントを探すのを楽しみながら、毎日の生活を送りたい。

(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)

2025年3月31日

・ 共に歩む信仰に向けて④ 秘跡中心、位階制のままで、シノダル(共働的)な教会になれるのか

*秘跡の光と影…

 カトリック教会の秘跡は、洗礼、堅信、聖体、告解(赦しの秘跡)、結婚、叙階、終油(病者の塗油)の7つ。秘跡はキリストが制定したものと言われ、それに与ることによって人々は霊的な力を頂いてきたことは確かです。

 中世の無学な民衆が、聖職者から「秘跡はキリストが制定したもの。神の命令だ」と言われたら、否定も反論も出来なかったでしょう。一応神学的には「見えないもの(恩恵)の見える徴(物体や行為)」が秘跡というものです。秘跡を授けるのは司教司祭で、受けるのは一般信徒です。然るべき人(司祭など)が然るべき言葉やしぐさで秘跡を行なうとそこに自動的に聖霊が働く、恩恵が付与されるとします。

 このことを「客観主義」といいます。善人でもなく信仰の堅固でない人でも正当な手続きを経て司祭になった人が、然るべきやり方で行なうなら、そこに聖霊が働く、と信じる立場、それが客観主義です。つまり、秘跡は客観的な制度なのです。

 本当にそこに聖霊が働くのか、恩寵が与えられるのかを問うことは、タブーです。否応なしに従うべき制度、強制力を伴う装置が秘跡でした。西欧キリスト教社会全体がヒエラルキー的、身分制的な社会だったので、従う以外になかったと言えます。

*秘跡の機能は各人に恩寵の付与だけでなく、社会を統制する機能に変質した

秘跡はどのような人々にも平等に恩寵を与えてきた、と言えますが、秘跡の機能はそれだけではありません。西欧中世・近世の封建的、またその後の絶対王政的な社会において、7つの秘跡は、国家や社会をカトリック教会が統制するという機能を果たしました。

 7つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、告解、婚姻、叙階、終油)を並べてみると分かると思いますが、それらは、人の誕生から死まで、人生の節目に行われる通過儀礼であり、また社会の中の役割や位置を固定するものです。秘跡という種々の儀式を通して社会はカトリック一色に統制されていくことになります。

*洗礼の秘跡は…

 大人が自分の意思で受ける成人洗礼は、4世紀前半までで、その後、西欧世界においてキリスト教だけが合法的な宗教となり、他の宗教は許されなくなりますから、幼児洗礼は神やキリストを信じていようがいまいが、義務的に授けられました。

 そして、のちのザビエルたちが言うように「後の世で救われるためには、必ずなくてはならない」もので、「もし受けてないなら地獄に落ちる」とされていました。ですから西欧キリスト教世界というと、一
見素晴らしいものに思えますが、実は自由な思考や判断・選択を許さない「強制」で縛られた社会でした。

*堅信の秘跡も…

 堅信はそもそも独立したものではなく、洗礼と一つのものです。ご存じのようにプロテスタントの日本キリスト教団などでは秘跡は、洗礼と「主の晩餐」の二つのみです。幼児洗礼が当然の義務になったので、その後6,7歳なり12歳頃に堅信の秘跡が授けられることが掟になっていきました。自分たちが生きている社会はキリスト教社会であること、宗教はキリスト教しかないことを自覚させ、押し付けるものだったと言えます。

*聖体の秘跡も…

 聖体の秘跡は、然るべき人(司教司祭)が然るべき仕方でパンとブドウ酒を聖変化させて信徒に授け、食させる、というもの。それを食べないと「永遠の命に与れない」とされました。聖体も少なくとも年に一度受けねばならない、となったのは、聖体を信じないカタリ派異端を見つけ出し、処罰するためでした。ですから「年に一度は拝領すべし」という掟のある社会では、いやでもミサに行かなければなりません。

 また「イエスキリストは、聖体に関する権能と任務を、使徒たちとその後継者にお与えになった。その後継者とは司教と司祭である」とカトリック要理にあるように、位階制を教会法で規定することで、人を生かすも殺すも、永遠の命をいただけるかどうかは、聖職者の権限であることになりました。「教会の外に救いはない」のが第二バチカン公会議まで続いてきたのです。

 ミサで奉納祈願のとき、「皆さん、共に捧げるこのいけにえを、全能の父である神が受け入れてくださるよう祈りましょう」との司祭の招きに答えて、会衆は「神の栄光と賛美のため、また私たちと全教会のために、あなたの手を通してお捧げするいけにえを神が受け入れてくださいますように」と言いますが、「あなたの手を通して」というのは司祭が「祭司」すなわち神と会衆の間に立って取り次ぐ役割をするというニュアンスをまだ持たせているように思います。

 しかし、ミサは、司祭も信徒も全く同じ立場で神に向かい、キリストの命に与るものです。米田彰男師が言うように「共同体全体が祭司職を行使する」のが本来の立場です。この辺りの理解から変えていかないと、司祭中心のミサを変えることはできないでしょう。

 元に戻しますと、聖体拝領は自主的に「恵み」として受けるものですから、聖体拝領を掟として年に一度とか強制すること自体、おかしなことです。また、かつての習慣で、ミサ前の数時間は飲食禁止とか、跪いて舌で聖体拝領することも、ご聖体の聖性を過度に強調し、聖職者と信徒を分けるものです。

 また、洗礼を受けてない人、離婚者、再婚者、同棲している人、告解してない人、小さい子ども、教会の掟を守っていない人も聖体拝領できないというのは、教会統治のためには意味があったでしょうが、罪びとを招くために私は来たと言われるイエスの意図に反しているのではないでしょうか。またイエスが幼子を招いて祝福したことから考えますと、求める人にはもれなく聖体を与えることが、イエスの望みではないかと思います。

*告解、赦しの秘跡の本来は…

 赦しの秘跡は、ヤコブの手紙5章16節やヨハネの第一の手紙1章9節といったところから始まったわけではありません。教会破門になるようなケース、教会分離・分裂をもたらすようなケースで、その罪人が「教会に戻りたい」というときに、再加入に際してでした。改悛していることを公の形で確認して再加入を赦したのです。

 不貞、殺人、棄教を犯した人の再加入の際、法的な改悛の仕方がとられたり、また公的なスキャンダルの場合と「死の床」にある人や病人に罪を告白させ、赦しを与えるような形となります。それが、6世紀にアイルランドなどで、死の床、病人だけでなく、いろんな人がもっと小さな罪を改悛するといった習慣ができ、司祭によって何度も繰り返して償いのわざを課したうえで赦しを与えるようになりました。

 西暦1000年ごろからカタリ派やワルド派が増え、異端審問制度ができ、それらを摘発・壊滅させるため、1215年、第四ラテラン公会議で、「すべての罪の告白をするべきである」、そして「自分に課された償いや苦行を果たすように」とし、「少なくとも年に一回、復活祭の頃、必ず聖体拝領をすべき」と、聖体拝領も告解も制度化されたのです。

 「個々人の霊的健康のため」というよりも「キリスト教社会の統制の手段」となりました。1551年のトレント公会議で、「改悛の秘跡は、カトリック教会において、信徒が洗礼以後しばしば罪に陥った際、和解するために主キリストによって制定された真の適切な秘跡ではないと言うなら、その人にアナテマ(呪い)あれ」と規定されます。

 初期の頃には霊的なものだった習慣が、法的な制度になって行った、と言えます。告解に限らず、中世においては、何につけても教会の掟を守らないと、「共同のパン焼き窯も共有林も使用できない、種蒔きの種ももらえない」ということになり、信徒たちの命に関わることでした。

*結婚の秘跡も

 

 「結婚したら二人は一体であり、神が結び合わせたものを人は離してはならない」(マタイ福音書19章5、6節)とのイエスの言葉から「二人の結びつきは解消不能だ」とし、またパウロのエフェソの信徒への手紙5章25節から、「二人の一致はキリストと教会の一致を象徴するものである、それゆえに結婚は聖なるものだ」とされました。

 特に12世紀のグレゴリウス改革によって結婚は秘跡とされ、男女は教会の管理・統治下に置かれることになります。結婚には司祭の祝福と教会による認可が必要となり、それがないと神の恵みはないことになります。

 結婚は個人間の問題、両者の同意による契約ですが、そこに教会が関わることで結婚は「聖なる絆で男女が結ばれるもの」として離婚、再婚や人為的な避妊の禁止など教会法の規定とも相まって管理されてきました。結婚の秘跡は、共同体倫理と教会倫理に違反しないよう二人の行動を管理するものでした。

 しかし世俗的市民社会と教会が分離していくと、男女関係のあり方(事実婚や同棲その他)、家族や出産する子供の意味、財産分割や遺産相続など多岐にわたる結婚内容は、教会の掟の枠内に留まることはできません。

 以前、このコラムでも紹介した『教会への私の希望』(サンパウロ刊)の著者ベルンハルト・へーリンクは、結婚を「契約」ではなく、「命の絆、救いの秘跡」と捉えるよう、希望しています。

 具体的には、実質的に破綻している夫婦関係を「不解消」としない、避妊等を夫婦の良心と聖霊に委ねる、などです。同時に教会の掟や教会法の規定を改定して、男女の現実に即したものにすることです。へーリンクが引用しているように夫婦は、「平和な生活を送るようにと、神はあなた方を召された」(コリントの信徒への手紙1・7章15節)のです。

 なお先述した、マタイ福音書にあるイエスの言葉から「結婚は不解消」とされてきましたが、それに続く同じ章の11,12節で「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである… これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とあります。この言葉をカトリック教会は軽視して、結婚不解消の面だけを強調してきたのではないでしょうか。

*叙階の秘跡も

 

 『カテキズム要約』に「キリストは教会の位階を制定され、これに権威を与えた。聖職位階は聖職者すなわち司教、司祭、助祭によって形づくられ… 叙階の秘跡により… 神の民に仕えます」とあり、その直前には「使徒継承とは叙階の秘跡を通して、使徒たちの使命と権能が彼らの後継者である司教たちに伝えられること」とあります。

 「司祭は奉仕者でなければならない」と第二バチカン公会議以後は強調されますが、今紹介したように「権威」「権能」という言葉は、聖職者は一般信徒の上位にあることを示しています。叙階の秘跡によって位階制の教会は、キリスト教を制度として社会に定着させ、西欧の身分制社会それ自体をも神的起源を有するものとして正当化する役割を担ったのだと言えます。

 そもそも、いつから「司祭」は制度化されたのでしょうか。典礼史家のユングマンは『古代キリスト教典礼史』の中で「祭司」(ヒエレウス、サチェルドス)という異教の用語を、キリスト教の司教や司祭に用いることは長いこと避けられていたのに、ようやく2世紀の終わり頃になって「祭司」という語が使われるようになった、としています。

 集会において「エウカリスチア」(パンとブドウ酒をキリストの御体・御血にする部分)を司式する人が一般信徒から分かれていって、特にコンスタンチヌス帝時代以降に、制度化されていった、と言えます。さらにまた「司祭は男性でなければならない」「一般信徒はミサの司式はできない」「司祭は独身である」などが法的に規定されていきました。

 ヒエラルキー(位階制)に関することで付け加えておきますと、教皇や司教などの高位聖職者が持つ大きな権力は「破門」や「聖務停止」です。

 破門されると、その者はキリスト教社会で地位も権利もはく奪され、疎外されて生きていけなくなりますし、ある都市の司教が聖務停止されると、その下にある司祭は洗礼もミサもできないので、子どもが生まれても洗礼も授けてもらえない、結婚式もあげてもらえない、葬儀も教会でできないことになり、市民生活に大きな支障が生じました。

 ちなみに、洗礼、堅信、叙階の3つには秘跡的な「霊印」、消えることのない霊的な証印が与えられる、とされます。聖霊の働きの一部である霊印は見えないものです。男女の結婚の秘跡にはないが、司祭の叙階には霊印がある、と主張されることも位階的教会と社会の秩序維持のために必要なことではあったでしょうが、果たしてどれだけの信者が本気で信じてきたのでしょうか。

 司祭と一般信徒との本質的な区別ができないとすれば、欧米や日本で司祭志願者が減少する傾向は続いていくだろうと思われます。

 

*終油(病者の塗油)の秘跡も

 

 キリシタン時代の「ドチリイナ・キリシタン」には、「この秘跡は臨終の時に病人だけに授ける秘跡であり… 臨終の苦しみに耐え易くする力添えを与えるものである」とあります。

 1971年に司教団が認可した「カトリック入門」では、「本来、病気の回復を目的とするものだが、それがかなえられないときには、病人が永遠の国に旅立つための大切な準備となる」としています。2005年の「カテキズム要約」には「この秘跡の挙行のためには、できるだけ、病人(病気や老齢のために死の危険に臨もうとしている信者)が、あらかじめ個人的に赦しの秘跡を受けているようにしなければなりません」とあり、「終油」の意味が濃厚になっています。

 かつては、死んだ後の葬儀、教会墓地への埋葬が許される前段階に授けられるものであり、「地上から天上へ確実に救われる」という保証を与えるものでしたから、必須だったと言えます。

 先の「カテキズム要約」では葬儀についてはわずかな記載しかありませんが、西欧では大罪を犯したままで教会を離れ、諸秘跡を受けていなかった者が、教会墓地に埋葬されなかったことを考えると、人生の終わりに「終油」の秘跡を受けることは必要不可欠だったといえます。

*秘跡と位階制が一体となった今の教会はシノダル(共働的)になれるのだろうか

以上、西欧中世・近世の世界で生きるためには、7つの秘跡は人生の節目節目に通過しなければならない関所であり通行手形でした。秘跡を執行するのは司祭なので、聖職者中心主義は教会と社会に浸透していきます。教会権力への従順なしでは神の恩寵を受けることができないだけでなく、社会の中で生きていけなかったのです。

 人生の主要な節目を教会の権威と司祭の働きを通して通過しなければ生きれないようにする装置が「7つの秘跡」でした。これまで述べたことから、「秘跡とヒエラルキー(位階制)は一体であった」と言えますし、またこのような秘跡というか「秘跡観」が続く限り、ヒエラルキーも維持されるでしょう。

 生活の中心にあった「秘跡、サクラメント」は霊的なものであり、人々を神に向かわせ、聖化したことは間違いないでしょうが、秘跡とヒエラルキーが一体となった教会が、シノダルな教会に変化することは可能なのでしょうか。

*参考図書=へーリンク『教会への私の希望』(サンパウロ)、米田彰男『神と人との記憶』(知泉書館)

(西方の一司祭)

2025年3月31日

・愛ある船旅への幻想曲㊿ 司祭の持つ“司祭像”が変わる中で、改めて故溝部司教の率直な言葉をかみしめる

 先週、カトリック教会とプロテスタント教会の葬儀に中1日空けて参列することになった。神様のご計画に涙した私であった。
 天に召された二人の友(91才と77才)は、家族で一人だけのキリスト者だった。生前、彼女たちは教会で葬儀をするようにと子供たちに託していた。両家とも「家族葬」との案内だったが、参列後の私の気持ちは、随分違った。葬儀式をする司祭と牧師は同世代だったが、それぞれのキリスト教での”死”への見解が違うことも当然ではあるだろうが、いろいろ考えさせられた私である。

 最近、カトリック教会では若手(60歳代まで?)と言われる司祭方の説教や黙想会の中での話から共通して感じることがある。司祭自身が持つ、”司祭像”が変わってきているのではないか、ということだ。(信徒が持つ、”司祭像”が変わってきていることは、だいぶ以前から感じてはいたのだが)。

 カトリックの小神学校から司祭の道を歩んできた欧米人司祭が中心だった時代から、現代は社会人を経て司祭召命があった日本人司祭の時代に変わってきている。

 「私たちは、三つの相違なる集団、すなわち、(1)カトリック的な集団、(2)キリスト教的集団、(3)非キリスト教的な集団を考察しなければならない」(第二バチカン公会議解説書『世界に開かれた教会』から)

 教皇ヨハネス23世以来、カトリック教会は、実践においても発言においても、この見方を確認している。カトリック教会は一つの時代に決別を告げたのである。世界そのものが、あまたの変化をとげて新時代に突入したというのに、どうして教会だけが古い時代にしがみついていることができようか世界を揺るがしている大きな変化が、教会にも強い影響を及ぼし、教会自体と世界における教会の使命について反省を促している。キリストのもとに集まる民である教会の反省、転換、刷新は、常に教会の源泉に戻ること、イエズスの福音の純粋さに帰ることでなければならない。

 第二バチカン公会議を終えて今年で60年である。カトリック教会は20世紀半ばの第二バチカン公会議を境に大きな様変わりを経験したというが、その歴史的転換期の様子を私は知らない。公会議は、ローマ聖座と一致した司教たちの会議だ。司教=教区長として各々の小教区の状態を知らなければ、公会議に参加する意味がないだろう。

 日本の全ての司教様方を存じていない私であるが、未来の教会を憂い行動に移した方は、タイプは違うが今は亡き森一弘司教と溝部脩司教のお二人だ、と私は勝手に思っている。1970年以降からの教会は、高齢化に加え、若者の教会離れが加速している状態が今も続いている。溝部司教は説教集の中で罪について教区長として自分について語っておられる。

 「私が高松教区の司教として困難に遭遇し、いろいろな反対を受けるとしましょうか。そのとき、『まあ、しょうがないか』とすべてを投げ出し、『まあ、なるがままになるさ』と、これぐらいのやり方で、教区そのものを駄目にしてしまうとしましょう。活気のない、もう、見るからに立ち上がることのできない教区にしてしまう」                                           

 「そのとき、私に罪はないのでしょうか。そのとき、神の恵みを信頼して、信じて、そして、どんな困難があっても立ち上がって働かなければいけない、というところに至らなかった、その点において私は罪深い、と考えなければいけないのです」

 「私がその決心をすることができなかったために、高松教区は、活気のないつまらない、難しい教区になっていったとしたら、私は自らの罪をやはり悔いると思いますし、一生をかけて償わなければならないことになります。罪を考えるときは、いつでもこのように相手の立場に立って考え、自らを振り返る、こういう視点が必要です」(溝部司教の『聖霊の息吹を受けて』 2004年10月31日の説教より抜粋)

・・・・・・・

 森司教と溝部司教は、その時だけの自分の安泰だけを望まれてはいなかった、と私は確信している。お二方の共通点は感覚が若く、ビジョンと共に先見の明を持っておられた、ということだろう。それ故に、下の世代の私たちの意見を真剣に聞いてくださり、見放すことなく叱咤激励してくださった”人間司教”としての器の大きさには感謝と尊敬の念しかない。

 人としての生き方を知らないなら、聖職者として生きていくことは難しいのではないだろうか。互いに理解するためには、”確かな愛”が必要だろう。キリスト教的集団の中におられたイエスは一人の人間として生きられたのではないか…。

 最近の私は、「この愛を永遠に信じたいのです…」と、人間イエスに日々伝え、問いかける日々を送っている。こんな私を神様は全てご存じだろう。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年3月31日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑩タイで身に付いた心からの”ワイ”を、日本でも捧げる…

 「สวัสดีค่ะ=サワッディーカ」と女性の場合、男性の場合、「สวัสดีครับ=サワッディークラップ」と言いながら、合掌する仕草であいさつ。タイ国の日常的習慣、朝から晩まで同じあいさつ。30年も日々繰り返し、すっかり身についてしまいました。

 このあいさつをタイ語で『ワイ=ไหว้』をすると言い、尊敬、好意を表す動作です。胸の辺りで合掌して頭を下げるのですが、自分との関係によって、合掌する手の位置が胸から顔、額へ、会釈からさらに頭を深く下げるのです。蓮の蕾の様にふっくらと合掌した手が高く、頭を下げるほど敬意を表すことになります。

 タイに行って間も無い頃、教えられたように合掌し、あいさつすると、「シスターは自分からワイをしちゃダメ」と注意されました。 社会的身分(聖職者はワイを受ける立場)を考え、社会の秩序を守ってワイをしてください、と。子供や学生には、軽くうなずき、微笑み返す。王様や僧侶は受けるだけ。なるほど!

 合掌してあいさつする仕草はすぐに馴染み、気持ちを込めて親しみました。拝むような気持ちで話しを聴くことは普段から心がけていたので、敬う姿勢をすっかり気に入り、タイの文化習慣や言語にもはまり込んでいきました。

 このワイ、実は人造語で1931年ラジオ放送開始の折、チュラロンコン大学文学部のニム•カーンチャナチーワ教授が、放送終了時のあいさつとして考案したもの。サンスクリット語の「吉祥」という言葉をタイなまりで発音し、語尾をดี(ディー=良い)に変えて「良い吉祥」とし、放送局内で出会いや別れのあいさつとして交わされるようになり、庶民にも浸透しました。1950年にタイ学士院辞書編纂会議で「タイ語には元々、あいさつ語はないが、もしあるとすれば『サワッディー』以外考えられない」とされ、あいさつ語として定着していきました。

 社会のしきたりを考慮することは、独自の文化や国境を超える人々との関わりの中で、平素、気遣うべきマナー。自分主体の常識を脇に置いて、多種多様な常識に柔軟な対応を迫られます。50歳からタイ国で30年、国際社会バンコク、東南アジアの文化の合流地点に移り住み、私の頑固さも随分と柔らかくなりました。同時に、揺るがない福音の普遍の精神に深く根差して生きるようにと、導かれたように思います。変えられ、譲歩できる事ごとを削ぎ落とし、「真理に根差した自由」を少しは味わえるようになりました。

 便利至極な日本社会ですが、人間関係や構造は複雑至極。毎日曜、教会を訪問し、一緒にミサに与り、同じ信仰を持った仲間たちと目を輝かせて出会う、本当に嬉しいですね。

 ちなみに、聖体拝領の時は、心を込めてご聖体の主に最高の深いワイを捧げています、タイの人々を心に抱きながら…。結び目を解く聖母マリアにご保護とお導きを願いつつ、今、祖国で再出発、人々に心からのワイを捧げながら、日々福音宣教に励んでいます。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2025年3月12日

・愛ある船旅への幻想曲  (49)信徒の教会離れの理由を、教皇の言葉から考える

   愛猫がここに居ない今冬、寒さが身に染みた。今日、庭がうっすら雪化粧。積雪にもめげずに芽を出す黄水仙が、私に「生きる力」をアピールしている。そこに神がおられる…。

   先日、”おっちゃんバンド”、いや ”おじいちゃんバンド⁈”のライブに行った。ギタリストの一人(会社経営者)が50年ぶりのライブ出演だ。彼は同窓会では、幹事としてなくてはならない存在だ。Duoの相方(歯医者)も同級生。この二人のために、”元ガールズ”は招集され、「はい、喜んで」と参加した。”元ボーイズ”から食事の差し入れもあり、歌を聞きに来たのか、食事に来たのか分からない。

 青春時代の音楽をこんなにも愛し、学生時代からこの年齢になるまで大切に温めている”元ボーイズの歌に”元ガールズ”は用意したペンライトを控えめ(⁉)に振っている。老いて益々、和気あいあい、笑顔が絶えない仲間の姿がある。友に恵まれ、良い環境で生きていることに感謝である。

 私は、若者たちに「生きていくためには環境が大事」といつも話している。「類は友を呼ぶ」とのことわざがあるが、性格が正反対の友も必要である。互いに歩み寄るためのコミュニケーションを楽しめばよい。一人ひとりを創造された神は、人生を共に旅する相手もそれぞれに委ね、共に支え合うよう願われる。

 神の願いは全ての人間が幸せになることだ。時に自分の思いが相手に伝わらず、喧嘩になることもあるだろう。そんな辛く悲しい時にも、イエスは私たちを見守り、共に旅をしてくださっていることを忘れてはならない—激しい突風が起こり、波が船の中まで入り込み、船は水浸しになった。しかし、イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はや み、すっかり凪になった。(マルコによる福音書4章35~39節)

 先日、私は、未信者の若い女性から「カトリック教会は何を教えているのでしょうか?」と質問された。彼女が交際していた彼はカトリック信徒である。彼女から聞かされる彼と、私が知る彼とが全く違い、私は言葉を失った。若者たちには、本物のカトリック信者になってほしく、信者としてのよからぬ例も私は指摘してきたつもりだ。私が、偽善者を嫌いなことを彼も知っているはずなのだが。

 今、憐みの神が私たちに駆け寄って来てくださっていることを知る。そして同時に教皇フランシスコが様々な信者の姿に心を痛め、教会のありようを見直さねばならないと切に望んでいらっしゃることを思い知る。

 教皇フランシスコの言葉。「私たちは洋菓子屋に並べられたキリスト教徒になっています。きれいに飾られたケーキやお菓子みたいなキリスト者で、本物のキリスト教徒ではありません」(2013年、アシジ訪問時)

 

 未信者の教会への疑問、信徒の教会離れの理由を真剣に考える時が来ているのではないだろうか。ある女性の夫から教会に電話があり、挨拶もなしに「うちの家内を返しなさい!」と怒声を浴びせられた。当時の担当司祭は「教会は一度も彼女を呼んでいません!」と、はっきり答えた。「この司祭は、女性信徒をわざわざ教会に呼ぶことはありません」と、私も証言した。この時の年老いた夫の怒りの発言が、今もトラウマになっている私である。

 また、ある夫は子育て真っ最中の時、毎週日曜日には教会で一日中過ごし、家族サービスもしなかった。子供時代の父親への反感から、彼の妻と子供たち家族は教会に来たことがない。夫婦と家庭に関して、教会は反省せねばならないことが多い、と私は思っている。これからは、『イエスへの忠実さと心からの献身』を正しく受け取り、信者でない夫や妻、家族のために謙虚さを持って共に生きていくことの大切さを、信者は深く学ぶ必要があるのではないだろうか。

 教皇フランシスコの言葉。「自己中心的な教会は、イエスを自身の目的のために利用し、イエスを外に出さない。これは病気だ。二つの教会像がある。一つは福音を宣べ伝えるため、飛び出す教会だ。もう一つは社交界の教会だ。それは自身の世界に閉じこもり、自身のために生きる教会だ。それは魂の救済のために必要な教会の刷新や改革への希望の光を投げ捨ててしまっている」(2013年、枢機卿会議での枢機卿時代の発言)

(西の憂うるパヴァーヌ)

2025年2月28日

・カトリック精神を広める ⑮ 水をワインに変えたイエス・キリストの奇跡

 「この世」で一番美味しいワインは

 現実世界にはグラス一杯で1万円以上するワインがあるが、そのような高価なワインは飲みたくない。食事を美味しくしてくれる脇役がワインだと考えると、料理よりも高いワインには眉をひそめる。しかし、「このワインなら是非飲んでみたい」というのが、今回紹介する奇跡である。

 新約聖書に出てくる、イエス・キリストが水をワインに変えた奇跡は、キリスト自身が望んで起こしたものではない。母である聖母マリアに促され、図らずも、ご自身の生涯最初の奇跡となった。ヨハネ福音書2章1-11節の「カナでの婚礼」として知られる奇跡は、次のように記述されている。

 場面は結婚式である。イエス・キリストとその母マリア、そして弟子たちが結婚式に招かれていた。宴たけなわとなった時、肝心のワインが飲み尽くされていることにマリアは気づいた。そこで、息子のイエスのところに行って、「ぶどう酒がありません」と告げた。この時のイエスの答え方が妙である—「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」。

 聖母は構わず、周りにいた召使いたちに言われた—「この人が言いつける通りにしてください」。マリアは、奇跡を起こして欲しいと望んでおられたのであろうか。思うに、既に世に打って出る前から、イエスは家庭の中で、幾たびか奇跡を起こしておられたのではないかと考える。

 イエスは観念し、召使いたちに言った。「水がめに水をいっぱいに入れなさい… 宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召使いたちは言われた通りに、かめの縁まで水を満たし、世話役のところに持って行った。恐らく、持って行く途中で、水がワインに変わったのに気がついたのであろうか。世話役のところに持って行ったら、彼はそれを一口飲んで、恐ろしく美味しいワインであることに気がつき、花婿を呼んでこう言った—「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。

 召使いたちは口をつぐんでいたが、イエスの弟子たちは、一部始終を見ていたであろう。「我らが親分、イエスは、ただ者では無い」と初めて知ったのではなかろうか。イエスが水からワインに変えたそのワインを、是非飲んでみたいものである。「この世界」ではない、「この世」で一番美味しいワインであろうから。

(森川海守:横浜教区信徒)HP:https//www.morikawa12.com

*聖書の引用は、「聖書協会・共同訳」に統一しています(「カトリック・あい」)。

2025年2月28日

・読者投稿・叔母からの電話、入院して教会のミサに出れなかった私を気遣ってくれた?

 70代半ばの叔母との会話が興味深いものでしたので、共有させていただきます。

 私が入院して教会に数か月来ていない事を心配して、昨日、叔母が電話をくれました。元気だと分かると、次第に話が変り、以前、私が神父のパワハラに「おかしい」と声を上げた事について叔母が、「あんな事やるべきではなかった、間違いだった」と諭し始めました。

 今ではその神父も別の教会へ移り、私にとって既に「済んだ話」なのですが、「そうね」と適当な言葉を返すことができず、「どうして?」と聞くと、「そんな事をしても無駄」「教会は特殊な団体だから信徒が何しても無理」「やるだけ自分が擦り切れる」と、自分や知人の経験を山ほど話してくれました。

 そこまでは共感できるのですが、納得できなかったのは「○○さんもその神父に暴力を振るわれたけど、黙って耐えた」「暴力を間近に見た人も皆、教会で広まらないよう沈黙していた」と”美談”のように話し、私が神父に直接声を上げたこと自体を「間違い」と結論づけたことでした。

 叔母からすれば、私がとった行動は、”内乱罪”のようなものなのでしょう。心配して電話してきたはずの叔母ですが、電話を切る頃には「根詰めて教会に来なくていい」「復活祭やクリスマスだけ来るのでもいい」と語り、「ミサで毎週、会いたい」という電話ではないことが分かってきました。

 この会話で痛感したのは、姪に起こったハラスメントにでさえ、自分の事のように真剣に受け止めることが、彼女にはできない、ということです。そして事実がどうであれ、「聖職者を悪く言ったあなたが悪い」「教会の平穏を乱すなら、教会に関わらないで欲しい」「老い先短いし、毎週楽しく教会に行きたいのに、あなたが問題提起するから楽しくなくなった」「あなたに起こった問題について深く考えたくない」「あなたは問題に巻き込まれないよう適当に教会に通えば良い」「なんなら教会以外に情熱を注げる活動を見つける方がいい」という考えなのです。

 声を上げる被害者を視界から消して、問題も消えた、として楽しく「平和」に過ごしたいのでしょう。私は「被害者が声を上げる事が間違いとされるなら、それはキリスト教なの? この教会がそうなら、そのうち誰もいなくなって葬式もできなくなるよ」と笑顔で話を終えました。あなたなら、どうなさいますか。

(一読者の信徒)

2025年2月28日

共に歩む信仰に向けて③ キリシタン史と現代・その2ー歴史の教訓から学ぶべきは

 初めに、伴天連が行なったことを幾つか項目別にして概観してみます。すなわち、集団改宗、寺社仏閣の破壊、日本人を奴隷として売り飛ばす(奴隷売買に関与)、政治的動きなど。現代において「ヒエラルキーの教会」から「シノダルな教会」への改革の必然性を理解できると考えるからです。

*キリシタンへの「集団改宗」は強制改宗でもある

前回述べたような精神で、初期の頃はイエズス会が宣教していきます。そのやり方は大名や領主を教化して領民へ民衆へ、という集団改宗を行ないました。集団改宗は強制改宗です。「キリシタン宣教師とりわけイエズス会士は日本の権力者に近づいて彼らを入信せしめ、上から下へ信仰を広める政策の効果的なことを当初から確信し、実行したのです。

 ヴァリニャーノは、日本人の領主への隷属性は極めて強く、彼らの積極的支援なしには教会の発展はおぼつかない、と日本布教の責任者に指示しました。ですから、多くの日本人が、一人一人が教えを理解して納得して信仰を自分のものにしたとは言えません。領主など高山右近のような身分の高い例外もありますが。

 彼らは「ドチリイナ・キリシタン」(カトリックの教え)などを教えられたのでしょうが、福音書に示されるイエスの行動や言葉を十分に学ばずに、主祷文、使徒信経、普遍的教会、秘跡などをどれだけ理解できたのか、極めて疑問ではあります。

 ましてや日本語に習熟していない宣教師(伴天連)とその補助をした同宿が教えたのです。領民が一人一人個別に教えを聞いて納得して改宗したわけではないでしょう。

*寺社仏閣の破壊、会衆を拒否した仏僧を国外追放…

 宣教師は、自分たちが信奉するカトリック教だけが本当の宗教で、他の宗教は異教・邪教だから捨て去るべきもの、との信念から、寺社仏閣を破壊していきます。

 「日本においても、在来の宗教といった敵に対しては、徹底的に攻撃の手を緩めず、後に述べるごとく、彼らによる神社仏閣の破壊はすさまじいものがあった」「実際に手を下して破壊したのが日本人信徒でり、パードレがそれに無関係であったかのごとく強弁しても、それは無理である。イエズス会宣教師の指示によって寺社の破壊が行なわれた事例は少なくない」。

 ヴィレラは1557年に、平戸で領内で1300人を改宗させます。しかし「パードレたちが寺社から仏像等を集めさせて焼いたり、経典を俵詰めにして焼却した行為が、仏僧らの怒りを招かないはずはなかった」(五野井)。天正年間に大村純忠の手により領内の神社仏閣のすさまじい破壊、大友宗麟による寺社の破壊、また寺社領を奪って家臣に与えるなどの行為があった。高山右近も、自己の高槻領で寺社の破壊、仏僧たちに対しキリシタンへの改宗の強要、拒否した僧たちを追放し、寺社は焼却したり教会に転用したりしました。

 純忠の性急なやり方は、家臣や領民に不快感を与え、離反を招くことになります。比叡山の僧たちは京都の治政に関して請願書を大名・松永久秀に提出する中で、パードレとキリシタンが日本人の祖先崇拝の対象である神々を悪く言い、そのために一般の人々が仏教への信心を失い、反逆や罪悪を犯すことを怖れなくなった、として、パードレを追放することを求めています。天皇や公家、仏教界の反発が大きかったことは、言うまでもありません。

 

*異教徒の日本人を、奴隷として海外に売り飛ばした

 

  インドや南米その他の地域で宣教師がやったことは「植民地化、異教徒を奴隷にすること」。教皇も容認してのことです。「日本人奴隷を売買したのはあくまでポルトガル商人であり、イエズス会士はその禁止に向けて尽力したということになるが、当時のイエズス会自体、世界各地で奴隷使役の上に成り立っていた、という点を忘れてはならない」「新大陸におけるイエズス会の砂糖きび栽培も、黒人奴隷の使役によるものであった… 日本のイエズス会が奴隷の売買をした記録が会計帳簿に記載されているし、朝鮮半島で宣教したセスペデスは、日本人奴隷売買に関わったようである」。

 日本人奴隷の売買にイエズス会宣教師も関わっていたことは、幾つかの研究によって明らかにされており、秀吉が伴天連追放令(1587年)の理由の一つとしてあげていることからも、そうした行為の言い逃れはできないでしょう。ルシオ・デ・ソウザは「秀吉が、日本人が海外に売却されている現実を、イエズス会の問題でもあると認識していた… またイエズス会は、奴隷売買に、紛れもなく加担しており、それを秀吉は見逃さなかった」と。

 秀吉に詰問されたイエズス会士のコエリョは「日本人が”売るから”だ。教会は日本人を奴隷とするのを止めさせようとしている」と苦しい抗弁をしており、売買の事実は否定しようのないものでした。

 

*伴天連の政治的・軍事的な動き

 これまで述べてきたことよりもっと重要なことは、伴天連の政治的な動きです。大村純忠が1580年に、イエズス会に長崎と茂木を寄進し、近隣の反キリスト教勢力(竜造寺氏)から守るため、大砲や武器を与えて要塞化していきます。ヴァリニャーノは『日本の布教長のための規則』で武装・要塞化を指示していました。住人と兵士に武器を持たせ、軍艦のフスタ船を所有し、その指揮は修道士がするなど。まヴァリニャーノは、「有馬晴信に対し、軍事的てこ入れを行なった。同じころ彼は、武力征服が布教のための有効な手段である旨、書簡に記述しています。

 カブラルも、大村純忠に対し「何回にもわたり金銭援助をした」「戦国時代に、近隣の諸大名との戦いで、キリシタン大名が危機に瀕した場合、イエズス会は、さまざまな支援を与えた」と述べ、日本準管区長のコエリョが1585年(天正13年)にフィリピン教会の同僚にあてた書簡には、「キリシタン大名救援のために、武装艦隊の派遣を、総督に取り次いでもらいたい旨、要望した」とあります。当時、日本にいたイエズス会士の多くが一致して、”迫害者”秀吉に対し、内外呼応して武力を行使することが計画されてい―「宣教」と「征服」は繋がっていたのです。

 

*伴天連追放令と禁教令の時代へ

 そして秀吉は1587年、伴天連追放令を出します。その後も、フランシスコ会など托鉢修道会が日本に来て、活動しますが、長崎での司祭、子供も含む信者26人の処刑などが続き、徳川幕府のもとで、宣教師は表立った活動はできなくなります。家康も、秀吉が出した伴天連追放令を撤回することはなく、キリシタンや宣教師がらみの幾つかの事件を機に、1605年、家康はフィリピン総督アクーニャに、キリシタン布教を固く禁じる旨、通告します。

 そしてまず家康のいる駿府や天領などで、キリシタン禁令が出され、1614年には幕府によって全国的な禁教令が発布され、宣教師は国外に退去するか、隠れて活動するしかできなくなります。

 

*「カトリック教会が布教地を広げることは『日本征服』につながる」と

 以上のような伴天連の政治的かつ軍事的動きから、高橋裕史氏は「宣教師は<霊魂の司牧者>なのか<武の司令官>なのか、あるいはその両方であったのか容易に答えは見つからない」と言っていますが、その両方だったため伴天連追放令や禁教令が出たことは否定できないでしょう。

 「宣教師がキリシタン大名に対して軍事的てこ入れをしたことと、彼らが日本をカトリック国にすることを夢見て、ポルトガルやスペインの武力による日本征服を企図したこととの間には、本質的な差異はない、と言うべきであろう」(高瀬)。1615年ごろにローマで司祭叙階された最初の日本人、トマス・アラキは後に「パードレの説く法は良いが、彼らの意図は布教を手段に日本を自国の国王に服させるにある」と語ったと言います。

 フランシスコ会士のアセンシオンは1597年長崎で殉教した一人ですが、彼の所論の一部を紹介すると、「教皇は霊的な事柄についてその権力を行使できるが、その目的を遂げることが出来ない時には世俗的な事柄についても権力を行使できる。もし異教徒が布教を妨げたら、教皇は強制的にその妨害を排除できる。日本はデマルカシオンによる分割においてスペイン側に位置する。従ってスペイン国王は日本に対して支配権を有する」。日本は植民地の一歩手前まで行っていた、と言えます。

 キリシタン勢力が政治的な反逆を企てることが実際に明らかになったのが、島原・天草の乱でした。農民一揆の性格が強いが、領民のほとんどはキリシタン。制圧するまでに幕藩側が要した日数や動員数は莫大なものでした。

 全国各地で転びキリシタンたちが蜂起して由々しい事態に陥ることも、幕府は危惧しました。そこに外国勢力が加わるとどうなるでしょうか。その後の徳川幕府による「鎖国」政策もキリシタン禁制が第一の目的だったことは間違いありません。いわゆる鎖国令の最後のものが出されたのは島原の乱終結の翌年、1639年です。

 

*今日まで続いてきた「ヒエラルキーの教会」から脱皮すべきだ

 以上のような次第で、伴天連の伝えたキリスト教が邪宗だとの認識が日本中に定着していきますし、日本という国の法秩序を否定し、国を傾け国を奪おうとする邪法であると断定せざるを得なかったのです。国の主権に対する自覚を持った秀吉や徳川政権が「国家理性」に基づいて自己の存立を主張したところに、キリシタン禁教が成り立っていました。伴天連追放令や禁教令を出し信徒を弾圧迫害したのは自然なことだったのです。

 政権にとって、キリシタン大名等の増加は、全国統一の妨げになるだけでなく全国家分裂を招く恐れがある、という危機感も強かったでしょう。信徒の信仰は本物だったとしても、その背後にある伴天連と彼らが所属するローマ教皇中心の「ヒエラルキーの教会」、それと結びついたポルトガル等の国家権力は、日本の亡国を招く「敵対勢力」だった、と言わざるを得ません。

 

*教皇の歴史的謝罪に学ぶ森一弘司教にならいたい

 2000年の上智大学での夏期神学講習会で、今は亡き森一弘・司教が「新しい時代に向けての日本の教会―教皇の歴史的謝罪に学ぶ」という題で講演をなさいました。教皇ヨハネ・パウロ二世が2000年3
月に、中世の十字軍や異端審問、そして現地の文化や宗教を根こそぎに破壊した16世紀の中南米の宣教活動など、過去の教会の過ちを公けに謝罪されたことに、日本の教会も学ぶ必要がある、とし、「そのように遠い昔の時代の過ちに対して、教皇は頭をお下げになったのです」と言っておられました(佐久間勤編『想起そして連帯―終末と歴史の神学』=サンパウロ=)。

 ザビエルの時代の教会は、16世紀のトリエント公会議後の教会です。それが第二バチカン公会議まで続いてきました。教皇フランシスコは昨年10月2日、「シノダリティ(共働性)」をテーマにした世界代表司教会議第16回通常総会の第2会期を前にして、悔い改めと許しを願う「祈りの集い」を主宰され、その中で権力の乱用、植民地主義についても神に赦しを願われました。「権力」の教会から「仕える」「共に歩む」シノダル(共働的)な教会に変わらなければ、カトリック教会に未来はありません。

 長崎の26人がピオ9世教皇によって聖なる殉教者とされたのも、第2千年期の教会を正しいものとしたい、という願いからです。当時の日本人に与えた苦しみや損害を考えれば、高山右近の列聖についての運動も、26聖人を殉教者と全面的に讃えることも控えめにすべきと考えますが、読者の皆様はどう思われるでしょうか。

(参考文献等は「その1」の最後をご覧ください)    

(西方の一司祭)

2025年2月28日