☩教皇が訴え「ミャンマーの人々に救いの手を、難民の人々に心を開こう」

CORRECTION-MYANMAR-POLITICS-MILITARY

(2021.6.20 Vatican News)

 教皇フランシスコは20日の年間第12主日の正午の祈りで、故郷を追われ、飢えに苦しむミャンマーの何千人もの人々に手を差し伸べようとする同国の司教たちに声に合わせられた。また、難民の人々に心を開くように、信徒たち、世界の人々に訴えられた。

 教皇は、ミャンマーの司教団が人道的な”援助回廊”の設定の呼び掛けに留まらず、教会や修道院、回教寺院や仏教寺院、学校や病院が中立的な避難場所として安全が確保されるように求めていることに理解と支持を表明。「キリストの心が、すべての人の心を動かし、ミャンマーに平和をもたらしますように」と願われた。

 また、20日が「私たちが共に、学び、輝く」をテーマにした国連の世界難民の日であることにも注目され、「私たちが、難民の人々に心を開き、彼らの悲しみと喜びを分かち合い、彼らの勇気ある回復力から学び、世界が『人道的な共同体社会、一つの大きな家族』になることを、改めて訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月21日

☩「主を信じ、主を求めるのに疲れてはならない」教皇、年間第12主日正午の祈りで

Pope Francis at the Sunday AngelusPope Francis at the Sunday Angelus  (Vatican Media)

(2021.6.20 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは20日年間第12主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(4章35-41節)ーご自分と弟子たちが乗った舟を翻弄する嵐を、イエスが鎮められたーを取り上げ、 私たちの日々の暮らしの試練を、その高波と強風になぞらえて、「(嵐の中でも)主を追い求めることに決して疲れない信仰の恵みを願うように」と信徒たちに勧められた。

 この箇所で、高波と強風に「溺れてしまう」と恐怖を感じた弟子たちが、眠っておられたイエスを起こして助けてくれるように願る。

 教皇は、弟子たちが恐れ、戸惑っている様を、私たちが人生で試練に遭っている時になぞらえ、「私たちも主に向かって、『なぜ黙って、何もしてくださらないのですか』と叫ぶでしょう。職を失ったり、病気になったりして、”安全な港”が見つからないまま不安の波に翻弄されるとき、私たちの舟が『このまま沈んでしまうのではないか』と感じることがあります」とされた。

 そして、「そうしたときに、私たちは、最も重要なことを見失う危険を冒すことが、時としてあります。しかし、イエスは、眠っておられ、あるいは見えなくなっておられるように、私たちには見えても、実際には、私たちの側におられ、起こっていることすべてをご存じなのです。そのようにして、私たちは試されるのです」と語られた。

 さらに教皇は、「主はいつも側におられ、私たちが主と関わり、主を呼び起こし、私たちが経験していることの中心に主を置くのを待っておられるのです… 私たちは神を信じるだけでなく、神に立ち会い、神と共に声を上げ、神に叫ぶこともしなければなりません」と説かれ、騒乱から逃れるために船に乗り、欧州の港に向かおうとする移民・難民の悲壮な姿を思い浮かべられた。

 また、私たちが出会っている苦難をすべて主に告げ、分かち合う必要がある、とされた教皇は、「それは、主が、私たちに『予期しない生命の危機から避難する所、慰め、助けを見つけることができるように』と願っておられるからです。イエスを起こして呼びかける、という弟子たちの行為は、私たちが倣うべきものです」とされ、「このような弟子たちの振る舞いは、私たちが『一人では浮かんでいられない』ことを理解するのに役立ちます。船乗りが空の星を見て進路を確認するように、私たちも主に目を向ける必要がある」と説かれた。

 さらに、「私たちは、『自分が主に完全に依存していること、主の恵みこそ信仰の基本であること』を知り、『神を煩わさずに自分自身で問題に対処できる』と考える誘惑に注意する必要があります… 私たちが神に『あなたは、私たちの中に驚くようなことをなさいます』と願うとき、祈りのやさしく並外れた力が奇跡を起こすのです」と教皇は強調。

 説教の締めくくりに、「イエスが、助けを求める弟子たちにこう問いかけられましたー『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか?』と。これは私たちへの問いかけでもあるのです。特に、私たちが問題に凝り固まって、そこにしか注意が行かないとき、心を主に向け、主に信頼することしないとき、あるは、必要な時だけ主を起こそうとするとき、にです」と語られ、「私たちは、主を追い求め、主の心の扉をたたくことに決して疲れることのない信仰の恵みを願わねばなりません」と強く訴えられた。

 そして、最後に、聖母マリアに、「あなたの神に対する絶えることのない信頼が、『日々、神に身を委ねるという基本的な姿勢』を私たちに呼び覚ましてくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月20日

☩「助祭は教会での典礼奉仕の守護者」教皇、ローマ教区の終身助祭たちに語る

Pope meets permenent deacons of Rome Diocese along with thier families. 家族とともに参加した終身助祭に話しかけられる教皇フランシスコ  (Vatican Media)

*司祭叙階を考えない終身助祭が「聖職者主義」克服に役立つ

 教皇は、司祭叙階を前提とする者に限られていた従来の助祭と異なる、司祭叙階を前提としない「終身助祭」は「『司祭という特権階級を、神の民の上に置く『聖職者主義』の悪習を克服するのに役立つ」とされ、「これが克服されないと、教会における聖職者主義が続いてしまうでしょう」と語られた。

 さらに、「助祭は、神の民への奉仕に捧げられているからこそ、『教会では、誰も自分自身を他の人よりも上位につけることができない』ことを、私たちに思い起こさせてくれます。教会では、『身を低くする』論理が適用されねばならない… 最も小さい者、全ての人の奉仕者としてご自分の身を低くされたイエスに倣って、私たちは皆、自分自身を低くするように求められているのです」と強調。

 「ですから、イエスの弟子にとって『愛することは、仕えること』であり、『仕えることは、治めること』だということを忘れないでください。権力は奉仕にある。他にありません…助祭は教会における奉仕の守護者ー真の『力』の守護者ーであり、誰も奉仕の力を超える者はいません」と説かれた。

 さらに、ご自身が「構造的に助祭的な教会」と呼ばれるものについて言及された教皇は、終身助祭たちに、「もしもあなた方がこの奉仕の特質を生かさなければ、助祭職は不毛となり、実を結ぶことができず、ゆっくりと世俗的になっていくでしょう」とも注意を与える一方、 助祭の役目は「愛をもって燃え、謙遜と喜びをもって奉仕する心」を持つことを教会に気付かせることにある、とされ、「”最前線”を求めることなく職務に励む助祭の寛容さは、福音の香りがし、ご自分に背を向ける人々にさえお会いになろうとする神の謙遜の素晴らしさを語っています」とその役割を高く評価された。

 

*助祭職が専念すべきは「愛と管理」

 司祭の召命が減っている現状が、代替措置としての助祭の貢献を求める結果にもなっているが、教皇は「そのことが、助祭職に新たな役割を設けることはありません。第二バチカン公会議は、教会憲章で、助祭職をキリスト教の初期教会のように、『愛と管理の務めに専念』することを強調しています。大帝国の首都ローマでは、7つの場所が組織され、教区とは別に下部の行政体に所属し、助祭たちはそこで、キリスト教共同体コミュニティ全体ーとくに『最も小さい者』、使徒言行録にある『必要とされない者』のために幅広く働きました」と指摘された。

 

*助祭は”半司祭”ではない

 教皇はまた、ローマ司教区が聖スタニスラオ教会やカリタスなどが貧困者に奉仕する地域で、 diakonia (ギリシャ語で「奉仕」)によって初期教会の伝統を回復しようとしていることを明らかにしたうえで、「このように、助祭は自分の方向を見失うことなく、”半分あるいは第二分類の司祭”、”熟練を要する祭壇奉仕者”になりますが、誰も区別することなく世話するー主の愛が具体的な仕方で人々の命の営みに触れていることを確かなものとするー奉仕者となるのです」と言明。

 そして、「助祭の霊性は、ひとことで言うと『内に用意が出来ていること、外に開かれていること』です。『はい』と心から言う用意があり、従順で、人生を自分が決めた課題を中心に展開させない、心を外に開き、すべての人、特に落ちこぼれた人、社会からのけ者にされていると感じる人に目を向けるのです」と語られた。

 

*期待される”助祭像”とは

 最後に、教皇は、「助祭の皆さんに、3つのことを期待しています」とされ、まず、「助祭は、謙虚であらねばなりません。孔雀のように見せびらかしたり、自分を中心に置いたりしないこと」。二つ目は、「良き夫、父親、あるいは祖父であることによって、困難の中にあるカップルに手を差し伸べて、希望と慰めをもたらすこと」。そして、最後に、「遠くにいる人たち、貧しい人たちに見つける方法を知っているだけでなく、貧しい人々や遠くにいる人々の中におられ、彼らを通して私たちの心の扉をたたかれるイエスを、教会共同体が見つけるのを助ける”番兵”になるように」と、終身助祭たちに強く求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月20日

☩「”労働弱者”が施策から外されないように」ー教皇、ILO総会にメッセージ

教皇フランシスコと労働者 2017年5月 イタリア・ジェノバの製鉄所訪問で教皇フランシスコと労働者 2017年5月 イタリア・ジェノバの製鉄所訪問で  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは17日、バーチャル方式で開催中の国際労働機関(ILO)の年次総会にビデオを通しメッセージをおくられ、「皆さんの責任は重大ですが、努力によって得られる善はさらに大きい」と政治家、労働組合関係者、企業経営者たちを激励されるとともに、新型コロナウイルスの世界的大感染で打撃を受けている”労働弱者”に効果的な対策がとられるように願われた。

 メッセージで教皇は、コロナ禍の中で「世界各国の社会的保護政策の不足が、貧困、失業、低賃金労働、若者の失業、児童労働、人身取引、食料供給不安などの問題を増幅させています」と指摘。各国の政府、企業経営者、労働者などが協力し合い、社会的に弱い立場にある人々、特に若者や移民、貧困者が救済策から置き去りにされることがないように希望された。

 さらに、コロナの影響を受けている女性たちに目を向けられ、職場で健康の危険にさらされている女性労働者たち、保育施設の不足で子どもたちを保護者なしで家に留守番させざるを得ない、あるいは職場に伴わざるを得ない母親たちなどへの配慮を、関係自治体や施設運営者などに求められた。また、家庭内暴力、奴隷的扱い、雇用の不平等など、女性を取り巻く様々な問題に触れ、「女性の権利に対する認識」を高めるよう、改めて訴えられた。

 企業経営者たちに対して労働者のケアを強く望まれたほか、多様な文化をもつ世界に視野を広げ、他国、他地域、他民族の文化を尊重し、相互の豊かさに役立てるよう呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月18日

◎教皇連続講話「祈りについて」最終回・「十字架の上で、イエスは私たち1人ひとりのために祈られた」

Pope Francis blesses a priest at the weekly General AudiencePope Francis blesses a priest at the weekly General Audience  (Vatican Media)

(2021.6.16 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは16日の水曜一般謁見で、昨年5月から途中の7回を除いて続けて来られた「祈り」をテーマにした連続講話を締めくくられた。

 「祈り」の最終講話で、教皇は「覚えておくべき最も素晴らしいことは、『私たちが祈るだけでなく、私たちのために祈っていただいているーイエスと御父との対話において、聖霊との霊的交わりにおいて、私たちがすでに受け入れられている』という恩寵です」と強調された。

 そして、「祈りは、イエスの生涯における最も明白な特徴の一つ… なぜなら、御父との対話が、イエスの全存在の光り輝く核心だったからです」と語られた。

 

*信仰宣言の核心は

 そして、「イエスは地上での生涯を通して祈られましたが、その祈りは、生涯全体に光を当てる、信仰宣言の”核心”である受難と死に至るまでの日々の間に一層、激しいものとなりました… イエスは人間の苦しみや病気のケアをする博愛主義者ではなかった… 当時も今もこれからも、ずっとそうです」とされ、「死に対する生の決定的な勝利への希望を与える、完全な救い、救世主としての救いを、イエスは私たちにくださいます」と説かれた。

 さらに、「イエスは生涯最後の過ぎ越しの日々に、ひたすら祈られます。ゲッセマネでの苦悶の中で、主に対して親しさと信頼をこめて”アッバ―父よ”と神に語り掛けられ、十字架の上で、神が沈黙される中で、再び、父である神をお呼びになります」と付け加えられた。

*十字架は御父の贈り物を全うする

 また教皇は、「十字架は、私たちを救う代償として御子の無償の愛を提供される御父の賜物の完成です。世の罪をすべて負われたイエスは、神から離れた深淵に降りて行きますが、それでもなお、息を引き取られる前に、神を呼び求めますー『父よ、私の霊を御手に委ねます」と語られ、「イエスの祈りの神秘に浸るために、最後の晩餐でのイエスの祈りに注目しましょう… この祈りは、イエスの死と復活と同様に、創造と救済の摂理の全てを包含しているのです」と説かれた。

私たちは決して一人ではない

 そして、その時、イエスの祈りは「さらに熱を込めたものとなります。最後の晩餐にいた弟子たちのためだけでなく、私たち一人一人のために取り成してくださいます。私たち1人ひとりに『私は、最後の晩餐の席で、そして十字架の上で、あなたのために祈る』と話すことをお望みであったかのように、です」とされたうえで、最後に「私たちがもっとも辛い目に遭っているときでも、私たちは決して一人ではありません… 私たちはキリスト・イエスに賜物をいただきました。そしてイエスの受難、死と復活、すべてが私たちのために奉げられたのです」 と講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年6月16日

☩「コロナ禍で貧困対策、雇用対策は急務」ー教皇、「貧しい人のための世界祈願日」に向けて

カリタス・ローマ運営の複合支援施設を訪れた教皇フランシスコ 2019年11月カリタス・ローマ運営の複合支援施設を訪れた教皇フランシスコ 2019年11月  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは14日、カトリック教会の2021年度「貧しい人のための世界祈願日」(11月14日)に先立つメッセージを発表された。

 今年で第5回目を迎える同祈願日のテーマは「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ福音書14章7節)。

 メッセージで教皇は「貧しい人々は、あらゆる状況・場所において、私たちを福音化する。なぜなら、これらの人々は、御父の最も純粋な御顔を常に新しい方法で再発見させてくれるからです」とされ、「新しい福音宣教は、貧しい人々の救いの力としての存在を認め、それを教会の中心に据え、彼らの中にキリストを見出すように、と私たちに求めています」と訴えられた。

 さらに、「私たちの貧しい人々に対する寄り添いは、単なる行動や支援計画から成り立つのではなく、何よりもそれぞれの人を唯一の存在として認める『他者への関心』から出発する必要があります… この愛ある関心から、その人の善を願う真の配慮が生まれるのです」と説かれた。

 そして「イエスは貧しい人々の側にいるだけでなく、彼らと同じ境遇を分かち合いました… 『貧しい人々は、いつもあなたがたと共にいる』というイエスの言葉には、『貧しい人々はいつも私たちの間にいるのだから』と関心を払わないのではなく、これらの人々の中に積極的に入っていくように、との勧めが込められています」と強調。「貧しい人々は共同体の外にある存在ではなく、苦しみを分かち合い、その困難や疎外感を和らげるべき兄弟姉妹です。”慈善の行為”は、恩恵を与える人とそれを受ける人の関係を生むだけですが、”分かち合い”は兄弟愛を生みます」と指摘された。

 倫理的・社会的混乱が常に新たな貧困の形を生み、これに加えて、現在も続いている新型コロナウイルスの世界的大感染が貧しい人々をさらに増加させたことを憂慮され、特にいくつかの国々で、コロナ感染が与えた影響は深刻で、人々は最低限の生活もできなくなっています。世界全体でコロナ感染阻止に闘うだけでなく、「雇用問題への対応は急務」とされた。

 現在の世界の貧困問題について、教皇は、個人中心の生活スタイルが貧困の形成に関係していること、貧困の責任をすべて当人たちに帰す傾向があること、を指摘。「貧困は運命のなす業ではなく、人々のエゴイズムの結果です」と語られ、すべての人の能力を活かす発展プロセスの必要を指摘するとともに、「貧しい人々が、常に”受け取るだけの側”であってはならない」として、彼らが自らの能力を引き出せる環境を整えることの重要性を強調された。

 また、教皇は、「貧しい人々は分かち合いの模範。私たちに連帯と分かち合いを教えてくれる存在」とされ、イエスの「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ1福音書14章7節)という言葉は、「善を行う機会を見逃してはならない」という呼びかけだ、と説かれた。

 最後に、教皇は、今回が5回目となる「貧しい人のための世界祈願日」を世界各地の教会に根付かせ、貧しい人々との出会いを通して福音宣教活動を広げるように、と願われ、世界の信徒たちに、「貧しい人たちが扉をたたくのを待たないで、私たちの方から出かけて行きましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年6月16日

☩「日々の暮らしの中に、隠れた神の働きを知る」教皇、13日正午の祈りで

Angelus 2021.06.06 Angelus 2021.06.06   (Vatican Media)

(2021.6.13  Vatican News staff writer )

   教皇フランシスコは13日、年間第11主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(4章26-32節)を取り上げ、「ここでイエスがお話しになっている二つの例え話は、神の神秘と人間の出来事がどのように展開するかについて語り、時には単調に、あるいは難しく思われるかも知れない私たちの日々の暮らしの中に、いつも『神が隠れておられる』ことを私たちに教えています」とされた。

 そして、「私たちには、すべてのことの中に隠れておられる神を探し求め、見つけるために、”注意深い目”が必要なのです」と説かれた。

*私たちの暮らしの中に働いておられる神

 たとえ話の二つ目「からし種の例え」で、イエスは、神の王国ーすべてのものの中心におられるご自分がおられる王国ーを、地に蒔くと大きな木に育つ小さなからし種に例えておられる。

 「この例えは、私たちの生活と世界の中で、神がどのように働いておられるか、を示しています。問題は、日々の忙しい生活が、時として、その現実を見るのを妨げること。でも、神は、小さな種ーひっそり、ゆっくりと芽を出し、全ての人に命と安らぎを与える青々とした大きな木に育つ種ーのように働かれます」と教皇は語られた。

 そして、このような神の”種”と比べれば、「私たちの善い働きの種は小さく見えるかも知れませんが、その働きの全ては、神にとって良いもの。善は、いつも謙虚で、隠れた、しばしば目に見えない形で成長するのです」とされた。

*コロナ禍から立ち直る力は「隠れた神」への確信に

さらに教皇は、「この例え話は、私たちに自信を与えてくれるはずです」と語られた。

 「私たちは人生で何度も、『善は弱く、悪が”最後の言葉”を持っている』と考え、落胆するかも知れない。懸命に働いても、期待したような結果や変化がもたらされないかも知れない。それでも、私たちは、様々な疑惑に打ち負かされてはなりません。福音は、謙虚な愛をいつも私たちの生活の”土”、歴史の”土”の中に働かせておられる神の存在を見ることのできる、大きく開いた目で、外見に惑わされることなく、自分自身と現実に注視するように、私たちに呼びかけているのです」と述べられた。

 そして、「この確信をもって、私たちは、日々、前進し、忍耐強く、実を結ぶであろう善の種を蒔く力を得る。そうした姿勢が、新型コロナウイルスの世界的大感染の打撃から立ち直るために必要です。社会を再建し、忍耐と不屈の努力をもって再度、歩み始めるための、『神の手の中にあるのだ』という確信です」と説かれた。

*教会の中にさえある”疑惑の雑草”に注意を

 また教皇は、「私たちが注意する必要があるのは、信仰の危機、うまくいかないように思われる様々な計画や活動とともに、カトリック教会の中にさえも存在する”疑惑の雑草”です」と警告する一方、「ここでの助けは、種まきの結果は、私たちではなく、神の働きに依る、だから、私たちに必要なのは、愛と献身と忍耐をもって、種をまくこと」とされた。

 さらに、「種の力は神から授かったもの。今日のミサで読まれた福音書のもう一つのたとえ話は、『畑に種を蒔いた農夫が、自分が知らぬ間に種が芽を出し、成長していったことに驚いている』というものですが、これは『どんなに不毛の土地であっても、常に希望がある』ということを教えているのです」と指摘。

 教皇は説教の終わりに、聖母マリアに、「ささいなことの中に働かれる神の偉大さを知るように、私たちに教えてください。主に信頼し、希望を持ち続けることができるように助けてください」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月13日

◎教皇連続講話「祈りについて」㉚「私たちの祈り、生活、信仰が、キリストの命の炎を燃やし続ける」

(2021.6.9 Vatican News Christopher Wells)

 教皇フランシスコは9日の一般謁見で、「祈りについて」の講話をお続けになり、絶えることのない祈り、信仰、そして日々の生活の関係について語られた。

 昨年5月に始められた「祈りについて」の連続講話は来週が最終回となるが、そのひとつ前のこの日の講話で、教皇はまず、「祈りにおける根気強さ」、聖パウロがテサロニケの信徒への手紙(1・5章17‐19節)に書いた「絶えず祈りなさい」の意味について考察された。

 教皇は、聖パウロのこの勧めは、19 世紀の作者不明の著作「The Way of the Pilgrim」に登場するロシアの巡礼者の旅からインスピレーションを得たもので、その巡礼者がイエスの祈りを「少しづつ、呼吸のリズムに合わせて、一日を通してすること」を学んだことを想起された。

*祈りは、私たちの心の中に燃える聖なる火

 続いて教皇は、「カトリック教会のカテキズム」に書かれた霊性の歴史のいくつかの箇所に目を向けられ、「祈りは、古代の寺院で燃やし続けられていた聖なる火のように、消してはならないキリスト教徒の生活における熱意を保ちます。私たちの中にも聖なる火があるに違いなく、それは絶え間なく燃え続け、何事も消すことはできない」と指摘。

 そして、聖ヨハネ・クリソストム(コンスタンティノープルの偉大な伝道者で、司教である教父)の生涯を振り返り、「祈りは、私たちのすべての行動の一部になり得ることを示し、私たちの日々の生活の義務を行なうことを妨げたり、それと矛盾したりすることはなく、日々の生活に意味と平和を与えます」とされた。

*仕事と祈りの内なるバランス

 教皇はまた、「絶え間なく祈ることは、決して容易ではありません」としたうえで、「日々の生活の義務を果たすことに追われ、神のことを考えるのが難しいと感じたとき、私たちは、神が創造のあらゆる面を気にかけておられる中で、私たち一人一人についても覚えていてくださる、思い起こす必要があります。 ですから、私たちもいつも神をを覚えていなければなりません」と説かれた。

 さらに、修道僧の例を挙げ、仕事と祈りの間の「内面のバランス」が重要であることを強調され、「抽象的すぎる祈りは現実とのつながりを失ってしまいますが、仕事は私たちを地に足のついたままにしてしまいます。だが、修道僧の手は、肉体労働から抜け出ています」と語られた。

 一方で、祈りは仕事を補完するものであり、私たちが行うすべての「呼吸」であり、「仕事への生きた背景」。「仕事に没頭し、もはや祈りの時間が取れない、というのは、非人道的です」と述べられた。

*炎を生かし続ける

 最後に、教皇は、イエスの変容の出来事を想起され、「イエスは、恍惚、熟考の時を長くお続けになることをせず、弟子たちと共に日々の旅を再開されました。しかし、タボール山での経験は、『信仰の光と力』として弟子たちの心に残ったのです」と語られ、「信仰、生活、祈りのつながりの中で、人は、神が私たち一人一人に期待されるキリスト教徒の命の炎を灯し続けるのです」と説かれた。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月9日

☩「私たちの聖体祭儀が世界の変容につながるように」教皇、「キリストの聖体の主日」ミサで

(2021.6.6  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは6日夕、聖ペトロ大聖堂で「キリストの聖体の主日」のミサを捧げられ、説教の中で、私たちが人生の旅を続けるために、主の臨在と愛、そして永遠の命の食べ物と飲み物を必要としていることを強調された。

 説教で教皇はまず、ミサの言葉の祭儀で読まれたマルコ福音書(14章12-16, 22-26節)  から三つの場面を取り上げられた。

*「神への渇望」を自覚する

 第一の場面は、弟子たちが、水がめを運んでいる男性に付いて、イエスと一緒に過ぎ越しの食事をする宿屋に行き、そこの主人に二階の部屋に案内してもらう場面だ。

 教皇は「この場面は、『私たちの神への渇望ー私たちが、神の必要を感じ、神が側にいて、愛してくださることを望み、一人では歩むことはできず、旅を続るために永遠の命の食べ物と飲み物を強く望んでいること』を自覚するにとの呼びかけ、とみることができます」と指摘。

 「残念なことに、今の世の中では、神への渇望は弱くなっていることから、教会は、人々と出会い、神への渇望、福音の熱望を知り、回復させる方法を学ぶように、呼びかけられているのです」と強調された。

*私たちと教会に必要な大きな心、”大きな部屋”

 二つ目の場面は、イエスと弟子たちが過ぎ越しの食事をする部屋。

 教皇は、その部屋は「小さなパンのための大きな部屋」で、「そのことが象徴しているのは、『神が、ご自身をパンの一切れのように小さくされること』であり、『私たちが、神を知り、崇敬し、受け入れるために大きな心を持つこと』 」とされ、「私たちは、自分の殻から抜け出し、神の謙虚で無限の愛の臨在を驚き讃える大きな広がり経験するために、二階の部屋の大きな空間に入っていくために、心の空間を解放する必要があります… それが、崇敬が、ご聖体の臨在に私たちが必要とする態度であることの理由なのです」と説かれた。

 さらに、教皇は、これは教会についても言えることであり、「教会は、”大きな部屋”でなければなりません。小さな、閉鎖的な空間ではなく、『大きく両腕を広げ、すべての人を歓迎する共同体である必要があります」とし、「聖体祭儀は、旅の途中で疲れ、空腹になった人たちに、滋養のある食べ物を提供するもの」とされる一方、「”純粋で完全”な教会は、誰のいる場もない部屋と同じです」と指摘された。

*キリストに倣い、私たちも”裂かれたパン”になる

 そして、最後の場面は、一同が食事をしているとき、イエスがパンを裂かれた場面だ。

 教皇は、「これは、聖体祭儀の頂点です。私たちの信仰の際立ったしるし… 私たちが新しい命に生まれ変わることができるように、ご自身を捧げられる主に出会う場所」とされた。

 そして、「イエスは私たちに命を与えるための贖いの小羊となられます。聖体祭儀において、私たちは愛の神を深く思い、賛美します… 主の無限の愛と贈り物に感謝し、聖体祭儀を行ない、経験することによって、私たちは、この愛を共有しますが、それにとどまらず、私たちの兄弟姉妹に心を開き、彼らの苦しみを共にし、彼らが必要とする助けを行なうように、私たちの心を開かねばなりません」と強調。「私たちが行う聖体祭儀は、自分自身を変容させ、他の人のために裂かれたパンになるようにすることで、世界を変容させるのです」と指摘された。

 最後の教皇は、キリストの聖体の主日の特徴である聖体行列に触れ、「聖体行列は、私たちが外に出て、他の人たちのところにイエスをお連れするように求められていることを、思い出させてくれます」と述べられ、「私たちが日々の生活で出会う人たちにキリストをもたらすように、また、主を信じる人たちの共同体としての教会が『誰もが入って、主に会うことのできる、大きくて、皆を温かく迎え入れる部屋」になるように、熱心に努力するよう強く勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年6月7日

☩「ご聖体の脆さの中に強さがあることを知る」ー「キリストの聖体の主日」正午の祈りで

Pope Francis during AngelusPope Francis during Angelus  (Vatican Media)

(2021.6.6 Vatican News  Linda Bordoni)

 キリストの聖体の主日の6日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、聖体の秘跡の賜物について考え、イエスがなさったように、自身の命を賜物とするように、信徒たちにお勧めになった。 説教で、教皇はまず、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「最後の晩餐」の後半の箇所(14章22‐26節)について取り上げられた。

 そして、「主の言葉と仕草は私たちの心に響きます…. 主はパンを手に取り、祝福して裂き、弟子たちに与えて言われましたー『これは私の体である』と。イエスは、単純明快な言葉をもって、分かち合う謙虚な仕草で、私たちに最高の秘跡をくださるのです」と語られた。

 *最も素晴らしいことは奉仕すること

 イエスが地上での使命を成就されようとする時、「多くの人たちの飢えを満たすためにたくさんのパンを配るのではなく、過越の祭に弟子たちと食事をされた」ことに注目された教皇は、「これは、イエスが、人生の目的は自分自身を捧げること-最も素晴らしいことは奉仕することだ、と私たちに教えておられるのです」とされ、また、一切れのパンに神の偉大さを見出すことに触れられ、「愛と分かち合いに満ち溢れた脆さー最後の晩餐で、イエスは、裂かれて粉々になるパンのように脆くなられますが、まさにその中に、イエスの強さが在るのです」と強調された。

 

*命を捧げる愛の強さ

 さらに「ご聖体の脆さの中に、強さがあります。喜んで受け入れられるように、恐れられないように、小さくなる愛がもつ強さです。裂かれて、分かち合われ、栄養を与え、命を与える、愛の強さ、私たちをばらばらにし、一つにする、愛の強さです」と語られた。

 続けて教皇は、ご聖体の脆さの中で際立っているもう 1 つの強さー過ちを犯す人を愛する強さについて、こう語られた。「イエスが、私たちに命のパンをくださるのは、”裏切られた夜”のこと。心に奥深い闇を感じながら、私たちに最高の贈り物をくださるのです。イエスと共に食事をしている、同じ皿に一切れのパンを浸す弟子が、彼を裏切る時に」「弟子の裏切りによる心の苦しみにもかかわらず、イエスは、この悪に対して、より大きな善で応じられます。罪人を罰するのではなく、彼のために命を捧げられるのです」。

 そして、「私たちがご聖体をいただく時、イエスは私たちに同じことをなさいますーイエスは私たちを知っておられ、私たちが罪人であり、多くの過ちを犯すことを知っておられますが、ご自分の命を私たちの命と共にすることをあきらめないのです」と説かれた。

*聖体はイエスと私たちをつなぐ

 「聖体は、「『聖人への報酬』ではなく『罪人のパン』」とされる教皇は、「私たちが『命のパン』をいただくたびに、主は、私たちの脆さについて、新たな意味をお与えになるために来られます」と語られ、「自分たちの脆さを主と分かち合わないようにすることが、あってはなりません。主の慈しみが、私たちの悲惨さにひるむことはないのです… 主は、自分で直すことのできない脆さー自分を傷つける人々に憤りを感じること、他の人々と距離を置き、自分自身の中に閉じ籠ること、自分を可哀そうに思い、平安を見つけられずに嘆く弱さーをもった私たちを、愛で癒してくださいます」と信徒たちを励まされた。

 最後に教皇は、「主は、私たちに、自分の殻から外に出、他の人々の脆さに対して、愛をもって腰を低くして接する勇気をくださいます。神が私たちになさるようにーこれが聖体祭儀の論理です。 私たちは他の人々を愛し、その脆さを助けるために、自分たちを愛し、その脆さを癒してくださるイエスを受け入れるのです」と語られ、「ご聖体の賜物を受け入れ、私たちの人生の賜物とできるように」と聖母マリアに助けを祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年6月6日