☩「アジア・オセアニアには生き生きと、喜びにあふれる信仰がある」-水曜恒例の一般謁見で4か国歴訪を振り返って

Pope Francis in Timor-Leste  (Vatican Media)

 

*インドネシア―カトリック教徒は全人口の3%、でも教会は活気に満ち、賜物を皆に与えている

 

 

そして今回の訪問先の国ごとに振り返られた教皇は、まず、インドネシアについて、キリスト教徒が全人口の約 10%、カトリック教徒が約 3% だが、「私が出会ったのは、違いを調和させる非常に高貴な文化を持ち、しかも世界最大のイスラム教徒人口を持つこの国で、福音を生き、伝えることのできる、活気に満ちたダイナミックな教会でした」と指摘。

「『信仰、友愛、思いやり』が、この国の訪問のモットーでした… これらの言葉を通して、福音は毎日、具体的に人々の生活に入り込み、死んで復活されたイエスの賜物を、彼らに与えています」と語られ、また、これらの言葉は「橋のようであり、ジャカルタ大聖堂とアジア最大のモスクを結ぶ地下道のようであり、そこに、平和と反戦争に向けて取り組むために、友愛が”未来”であることを、私は知りました」と称えられた。

*パプアニューギニア―宣教する教会の素晴らしさを見つけた、福音を“酵母”に総合的発展モデルの”実験室”

 

 

パプアニューギニアで、「宣教する教会の素晴らしさを見つけました」と教皇は語られ、「広大な太平洋に向かって広がる群島で活動する宣教師やカテキスタたち」を思い起こされた。

そして、「宣教師やカテキスタたちとしばしの間、一緒にいることができて、心が躍りました。若者たちの歌や音楽を聞いて感動しました。彼らの中に、部族間の暴力や依存、経済的またはイデオロギー的な植民地主義のない新しい未来、友愛と素晴らしい自然環境への配慮の未来を見ることができました」と語られ、「この国は、福音の”酵母”に触発された総合的発展モデルの”実験室”として機能できる」と希望された。

*東ティモール―試練を受けながらも喜びにあふれている、子供たちの笑顔を私は忘れない

 

アジアで最もカトリック教徒の多い東ティモールについて、教皇は、「聖ヨハネ・パウロ2世がされたように、『信仰と文化』の実りある関係を再確認した」ことを認めつつ、「何よりも、人々の素晴らしさ心を打たれました。彼らは、試練を受けながらも、喜びにあふれ、苦難を賢く乗り越える人々。多くの子供を産むだけでなく、彼らに笑顔を教える人々です」と強調。

そして、「私は子供たちの笑顔を決して忘れません」と、多くの子供たちに会えたことに喜びを表わされるとともに、「この国の非常に活発な教会の若者たちを目の当たりにして、”春の空気”を吸うことができました」と語られた。

 

 

*シンガポール―キリスト教徒は少数派だが、世の塩、光となり、希望の証人となる「小さな者たち」がいる

 

今回の旅の最後の訪問先となったシンガポールについては、「キリスト教徒は少数派ではあるものの、彼らは生きた教会を形成し、異なる民族、文化、宗教の間で調和と友愛を生み出すことに尽力しています」と称えられ、「裕福な国であるシンガポールにも、福音に従い、塩と光となり、経済的利益が保証できるものよりも大きな希望の証人となる『小さな者たち』がいます」と指摘された。

講話の最後に、教皇は、改めてこの旅を与えてくださった神に感謝し、訪問先のすべての人々に使徒的祝福を与えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年9月18日

☩「2025年の聖年を、神と関係を深める機会にしよう!」ーWYDに向けて世界の若者たちにメッセージ

Young people at World Youth Day in Lisbon, PortugalYoung people at World Youth Day in Lisbon, Portugal 

 

2024年9月18日

☩「ウクライナ、ガザ、ミャンマーに速やかな平和を、ベトナム洪水被害者に支えを」正午の祈りに続けて

(2024.9.15 Vatican News  Christopher Wells)

 

    教皇フランシスコは15日の正午の祈りに続けて、ベトナムの洪水被害者のために祈られ、モイセス・リラ・セラフィン神父の列福に触れ、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に苦しむ人々を思い、そして改めて、ウクライナ、ガザ、ミャンマーなど戦火に苦しまされる国・地域の平和を訴えられた。

 ベトナム北部を襲った大雨と嵐は、洪水と土砂崩れを引き起こし、200人近くが死亡、128人が行方不明となっており、犠牲者はさらに増える可能性がある。教皇は、「死者、負傷者、避難者のために祈ります… 神が愛する人々、家を失った人々を支え、彼らを助け人々を祝福してくださいますように」と祈られた。

 教皇はまた、ウクライナ、ミャンマー、中東で続く戦争に言及され、「世界を血で染める戦争を忘れないようにしましょう」と平和の速やかな実現を訴えられるとともに、「多くの罪のない犠牲者…戦争で子供を失った母親たち…多くの罪のない命が奪われています」と嘆かれた。

 さらに、昨年10月にハマスに人質に取られイスラエルの人々の中で、先月、遺体となって引き取られた5人のうちの1人の母親との面会を回想され、「私は今、彼女と共にあります」として、犠牲者たちのために祈り、「今も、人質にされている人々の家族全員に寄り添っています」と述べられた。そして、「パレスチナとイスラエルの紛争を終わらせましょう!暴力を終わらせましょう!憎しみを終わらせましょう!」と関係者全員に呼びかけられ、人質の解放、和平交渉の継続、平和的解決策を見出す努力を重ねることを求められた。

 最後に、教皇は、イタリアで「ルー・ゲーリック病」としても知られる筋萎縮性側索硬化症に苦しむすべての人々を思い起こされ、彼らとその家族のために祈り続けることを約束されるとともに、この病気と闘うための研究や、この病気に苦しむ人々を支援するボランティア団体の活動を励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年9月15日

☩「『私の人生でキリストとは何者なのか』と自問しない人の何と多いことか」年間第24主日の正午の祈りで

Pope Francis greeting the people in St. Peter's SquarePope Francis greeting the people in St. Peter’s Square  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.9.15 Vatican News )

   教皇フランシスコは年間第24主日の15日、正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音の箇所(マルコ8章27‐35節)を取り上げ、「主を知ることは大切だが、主に従い、福音によって自分自身を変え、真の改心を得ることも大切だ、ということを、私たちに思い起こさせてくれます」と語られた。

 マルコ福音書のこの箇所で、イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だというのか」と尋ねられ、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えている。ペトロの答えは正しかった。だが、その直後に、イエスがご自分が受けねばならない多くの苦しみと死について語られると、彼はそれに異議を唱え、イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と叱責された。

 教皇はこれについて、「ペトロは最初は正しく答えましたが、彼の考え方は依然として『人間』のものであり、苦しんだり死んだりすることのない、強くて、勝利する救世主を望んでいたのです」と指摘。

 「私たちも、ペトロと同じ立場に自分を置いてしまうことがあります… 主について何かを理解し、正しく応答することはできるが、私たちの考え方は世俗的であり、神の道と主に従うという呼びかけに心を開くために依然として改心する必要がある。したがって、私たちは教会の教義を知り、祈りを正しく唱え、教理問答に精通しているかもしれませんが、私たちは、主について何かを知るだけでなく、主をよりよく知る必要がある」とされ、「よりよく知る」とは、「主に従い、私たちの心が、主の福音に触れ、変えられることを意味するのです」と説かれた。

 教皇はまた、「主を知るために、主との関係と出会いが重要です… 主との出会いが、あなたの人生―あなたの生き方、考え方、兄弟姉妹との関係、受け入れ赦す用意、人生における選択―を変えるのです」と強調。「イエスを知るようになれば、すべてが変わります!すべてが変わるのです」と繰り返された。

 最後に教皇は、ナチスの犠牲となったルーテル派の神学者、ディートリッヒ・ボンヘッファー師の証言を思い起された。「ボンヘッファーは獄中書簡の中で、世界におけるキリスト教の役割と、現代の私たちにとってキリストとは本当は何者なのかを自問する必要性について書いています… 主を知り、従うためにとても重要な、この根本的な質問を、自身への問いかけとしない人が、何と多いことでしょう」と嘆かれた。

 そして、「自分の人生においてイエスとは何者なのか、イエスに言葉だけで従っているのか、それとも私たちの人生を変えることができる主との個人的な出会いに本当に心を開いているのか、いないのか。私たちも自問すべきです」と強く促され、「聖母が、この努力において、私たちを助けてくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年9月15日

☩「二つの悪のうち、ましな方を選ばねばならない」-教皇、機中会見で、米大統領選で「中絶」や「移民受け入れ」の是非が争われていることに

(2024.9.13 Crux   Senior Correspondent  Elise Ann Allen)

    帰国途上の教皇専用機内で – 教皇フランシスコは13日、シンガポールからローマに戻る機内で記者会見をされ、米大統領選挙で妊娠中絶や移民反対を掲げる候補がいることでどちらに投票するか悩んでいるカトリック教徒は「二つの悪のうち、よりましな方」を選ばねばならない、と語られた。また、バチカンと中国との関係やガザでの戦争、聖職者による性的虐待がもたらしている危機などの問題にも言及された。

*「移民は、聖書に記された権利、移民反対は罪だ」

 教皇は米大統領選挙で移民反対の候補者がいることについて、「移民を追い出す者も、子どもを殺す者も、どちらも生命に反対している」とされ、移民を歓迎しないことは「罪である」と述べ、「旧約聖書には『孤児、未亡人、そしてよそ者』の誰を歓迎すべきかの明確な規範が示されています。イスラエルの民が守らなければならなかったのは、彼らです」と語られた。

 そして、 「移民を守らない者は罪深い。それは罪です。移民の命に対する罪でもあります」と言明。ご自身が2015年に米国を訪問され、メキシコとの国境近くのエルパソでミサを捧げられたことを振り返られ、「そこで私は、米国に入ろうとしたが、そこで悲惨な結末を迎えた多くの移民の靴を見ました」と述べたうえで、「今日、中央アメリカには移民の流れがあり、彼らは時には奴隷のように扱われています。移民は権利であり、聖書に記された権利なのです」と強調された。

*「教会は妊娠中絶を認めない、それは”暗殺”です」

 

 妊娠中絶について教皇は、「受胎後1か月以内に、胎児は人体に含まれるすべての臓器を備えていることが科学によって証明されています… 中絶は人間を殺すことです。 この言葉が好きでも嫌いでも、それは殺すためのものです」とされ、「教会は中絶を認めません。それは殺すためのものだからです。それは”暗殺”。私たちはこのことについて明確にしなければなりません」と語られた。

 そして、「移民を追い出すことはひどいことであり、そこには悪がありますが、母親の子宮から子供を追い出すことは暗殺です。なぜなら、そこには命があるからです。私たちは、これらのことについてはっきりと語らねばなりません。そこには『しかし…』はありません」と言明された。

 米国の大統領選挙でカトリック教徒が中絶賛成派の候補者に投票することが道徳的に許されるかどうかについて、教皇は、「カトリック教徒は、何があろうと投票する必要がある。政治道徳では、一般的に、投票しないのは良いことではなく悪いことだと言われています。投票せねばならず、その場合、より小さな悪を選ぶ必要がある。では、『より小さな悪』とは何でしょう?あの女性か、それともあの男性か?私には分かりません。各自が良心で考えねばなりません」と語られた。

  教皇のこの発言は、米国の大統領選挙を前に移民と中絶の両方が有権者にとって大きな関心となる中で、カマラ・ハリス副大統領とドナルド・トランプ前大統領の両候補による最初の討論会の後になされた。 選挙を控え、民主党は妊娠中絶の権利拡大を約束した。共和党はこの問題を各州に任せるのが最善だとしたが、トランプ氏自身のこの問題に対する立場は選挙期間中に変化してきた。また、トランプ氏は移民問題で、過去に中南米からの移民の入国を阻止するためメキシコ国境に壁を建設すると言明し、実行したが、今回、再選された場合、数百万人の不法移民を出身国に送還する計画を”公約”している

*中国とは司教任命についての暫定合意の「再延長を交渉中」

 教皇はまた会見で、バチカンと中国の協力、そして物議を醸した2018年の司教任命に関する両国間の暫定合意の評価についても質問を受けた。
 教皇は、「中国との対話に満足しています。これまでの結果は良好です。司教任命についても善意を持って取り組んでいます」と答え、 「私にとって中国は夢です。中国を訪れたい。素晴らしい国。中国を尊敬しています… 中国は何千年もの歴史を持つ国であり、これまで存在してきたさまざまな民主主義体制を超えて、対話し、相互理解する能力を持っています」とし、中国を「教会にとっての希望であり、希望」と述べた。
 そのうえで、教皇は、「バチカンと中国当局は現在、2018年の協定(司教任命に関する暫定合意)の3度目の更新のための交渉を行っています」と語った。
 教皇のウクライナ特別平和特使でイタリア司教協議会会長のマッテオ・ズッピ枢機卿は、人道的・平和的取り組みを促進するため、昨年夏に北京を訪問しているが、世界的な紛争の終結を仲介する上で中国が果たすことのできる役割について、教皇は「紛争においては協力は可能です。現在、ズッピ枢機卿がこれに取り組んでおり、中国とも関係がある」と述べた。

*聖職者による性的虐待は、「神の似姿である人の尊厳を破壊するもの。隠してはならない」

 教皇はまた、教会の聖職者による性的虐待がもたらしている危機、具体的には、十代の少年を虐待し強姦したとしてバチカンから制裁を受けたノーベル賞受賞者の東ティモールのディリ元司教カルロス・シメネス・ベロや、貧困者やホームレスの擁護者として知られ、現在は亡くなっているカプチン派の司祭、フランス人の”アベ・ピエール”(本名はアンリ・グルエス)のケースに触れられた。ピエールは、少なくとも24人の女性から、同意のないキス、強姦、子供への性的接触など、性的虐待や嫌がらせで告発されている。告発は数十年前に遡り、7月にも新たな告発がされている。

 この問題について教皇は、「非常に痛ましく、非常にデリケートな問題」されたうえで、ピエール神父のように「善行をする人がたくさんいるが、多くの善行をすると、その人が悪い罪人だと分かる。これが人間の常だ」と指摘。だが、「公の罪は、非難されるべきです… 私たちはこれらのことについてはっきりと話し、隠すことがないようにしなければならない」と言明された。

 そして、「聖職者による虐待との戦いは、すべての人に関わるもの。虐待は、悪魔的なもの、あらゆる種類の虐待は人の尊厳を破壊するもの。私たち全員の本質、つまり神の似姿を破壊しようとするものです」と強く批判された。

 

*ガザで続く戦闘、「平和に向けた前進はまだない」

 イスラエルのガザ地区でのハマスとの戦いについて、教皇は、子供たちが殺害され、民間人が爆撃されていることを非難され、「戦闘員がいると仮定して学校を爆撃するなど、これはすべて恐ろしい、恐ろしいことです」と批判。「『防衛戦争だ』という話も時々聞きますが、戦争は常に敗北です」と改めて言明された。

 平和への取り組みについて、教皇は「残念なことですが、平和に向けて前進しているとは思えません」としつつ、ヨルダンのアブドラ2世国王の取り組みに感謝し、「彼は平和の人であり、平和を作ろうとしている。彼は善良で素晴らしい人だ」とその努力を称えられた。

 

*今後の外国訪問は「移民との関わりを持つカナリア諸島を検討中」

 今後の外国訪問について、教皇は、2019年に火災で破壊されたパリのノートルダム大聖堂の修復落成式ミサには出席されない、とし、アルゼンチンへの再訪の可能性についても、「まず解決しなければならないことがいくつかあります」と述べた。海を渡る移民が多くいるカナリア諸島への訪問を検討しており、「カナリア諸島の政府と人々への親近感を示したい」と述べたが、時期については明らかにしなかった。

 会見で教皇が言及されたその他のトピックは、訪問した各国のハイライト、ベネズエラの現状、気候変動を真剣に受け止める必要性、この問題に関する世界会議を「決定的ではない」と呼んだこと、そして死刑制度について、シンガポールなどでは合法だが、「徐々に廃止しなければなりません」と語られたことなどがあった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。
 Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.

 

*参考*以下はVatican News による記者団とのやり取り全文の暫定英語版より、翻訳。未定稿。

 

 ご存知のとおり、常に学ぶべきことはあります。なぜなら、人や国によって豊かさは異なるからです。だからこそ、コミュニケーションにおける友愛はとても重要なのです。たとえば、東ティモールではたくさんの子供たちを見ましたが、シンガポールではそれほど多くは見ませんでした。おそらく、それは学ぶべきことなのでしょう… 未来は子供たちにあります。このことを考えてみてください。ああ、もう 1 つ。シンガポールの住民はとてもフレンドリーで、いつも笑顔です!

 

デルフィム・デ・オリベイラ (GMN TV):タチ・トルでのミサの最後に、ワニの存在に注目しましたね。それはどういう意味ですか?

 

教皇:私はワニが陸に上がるイメージを使いました。東ティモールにはシンプルで楽しい家族文化があります。子供がたくさんいます。とてもたくさんです! 私がワニについて話したとき、私は皆さんの調和を台無しにする可能性のある外部の考えについて言及していました。私はこう言わせてください。私は東ティモールに恋をしました。他に何かありますか?

 

オリベイラ:東ティモールではカトリック教徒が多数派ですが、宗派が増えています。「ワニ」という言葉も宗派を指しているのでしょうか?

 

教皇:それはあり得ます。私はそのことについて話しているわけではありません。話せませんが、あり得ます。なぜなら、すべての宗教は尊重されなければなりませんが、宗教と宗派には区別があるからです。宗教は、それが何であれ、普遍的です。宗派は制限的であり、常に異なる目的を持つ小さなグループです。ありがとうございます。そして、あなたの国に賛辞を送ります!

 

 

フランシスカ・クリスティ・ロザーナ (テンポ・メディア・グループ):インドネシアの人々は、カトリック教徒だけでなく、長い間あなたの訪問を心待ちにしていました。私の質問は次のとおりです。この国がまだ民主主義に苦しんでいることをご存知でしたか? あなたはこれをどう見ていますか? そして、私たちへのメッセージは何ですか?また、インドネシアはパプアニューギニアのような問題に直面しています。パプアニューギニアでは、採掘産業が寡頭政治家にのみ利益をもたらし、地元住民や先住民は利益を得ていません。あなたの考えと、私たちに何ができるでしょうか。

 

教皇:これは発展途上国によくある問題です。だからこそ、教会の社会教義にあるように、社会のさまざまなセクター間のコミュニケーションを確保することが重要なのです。インドネシアは発展途上国であり、おそらく発展が必要なのは社会関係だとおっしゃいました。訪問は楽しかったです。とても美しかったです!

 

 

マテオ・ブルーニ:パプアニューギニアの報道陣はあなたの旅を詳しく追っていましたが、残念ながら記者を飛行機に乗せることはできませんでした。パプアニューギニア、特にバニモについて何かお話しいただけることがあればお聞きしたいのですが、バニモは法王様が個人的に訪れたかった場所のようですね。

 

教皇:私はその国が好きで、力強い発展途上国を見ました。私は、アルゼンチンから来た司祭や修道女たちのグループに会うためにバニモに行きたかったのですが、とても美しい組織を見ました。どの国でも、ダンスや詩的な表現など、芸術は高度に発達しています。しかし、パプアニューギニア、そしてバニモでの芸術的表現は印象的でした。これは私に深い感銘を与えました。宣教師たちは森の奥深くまで行って働きます。私はバニモと国全体が好きです。

 

 

ステファニア・ファラスカ(ティアノウジク):私たちはシンガポールから来たばかりです。シンガポールは人口の大半が中国人で、平和共存のモデルとなっています。平和に関して、特にシンガポールは中国本土に近いので、ガザのような紛争地域での停戦を実現しようとする中国の努力について、あなたの考えをお聞かせください。7月には、パレスチナの分裂を終わらせるための北京宣言が調印されました。中国と教皇庁の間に、平和に関する協力の分野はあるのでしょうか?そして最後に、司教任命に関する中国とローマ教皇庁の合意の更新が近づいています。これまでの結果と対話に満足していますか?

 

教皇:最後の点については、はい、中国との対話に満足しています。結果は良好です。司教任命に関しても、物事は善意を持って進んでいます。国務省と話しましたが、物事の進み具合に満足しています。中国については、私は中国を「イリューシオン」(編集者注)と見ています。つまり、中国を訪問したいと思っています。中国は素晴らしい国であり、私は中国を賞賛し、尊敬しています。

中国は古代の文化を持ち、これまでのさまざまな政府システムを超えて、お互いを理解するための対話能力を持つ国です。私は中国が教会にとっての約束であり希望であると信じています。協力は可能であり、紛争についてももちろん可能です。ズッピ枢機卿はこの分野で活動しており、中国とのつながりを持っています。

 

 

 

アンナ・マトランガ(CBSニュース):あなたは常に生命の尊厳を擁護する発言をしてきました。出生率の高い東ティモールでは、多くの子供たちがいて生命が脈動し爆発しているのを感じたとおっしゃいました。シンガポールでは、移民労働者を擁護しました。米国選挙が近づいていますが、妊娠中絶を支持する候補者と1100万人の移民を国外追放したい候補者に直面しているカトリックの有権者に、どのようなアドバイスをされますか?

どちらも生命に反しています。移民を追い出す候補者と、子供たちを殺す候補者です。どちらも生命に反しています。私は決められません。私はアメリカ人ではないし、投票にも行きません。しかし、はっきりさせておきたいのは、移民が働く機会や歓待を受ける機会を奪うことは罪であり、重大な罪であるということです。旧約聖書は、孤児、未亡人、そしてよそ者、つまり移民について繰り返し語っています。イスラエルが世話をしなければならないのは、この3人です。移民の世話を怠ることは罪であり、生命と人類に対する罪です。

私はエルパソ教区近くの国境でミサを捧げました。移民の靴がたくさんありましたが、彼らはそこで悲惨な結末を迎えました。今日、中央アメリカ内で移民の流れがあり、人々が状況を利用するため、多くの場合、彼らは奴隷のように扱われています。移住は権利であり、聖書と旧約聖書にすでに存在していました。外国人、孤児、未亡人、このことを忘れないでください。

それから、中絶。科学によれば、受胎後1か月で、人間のすべての臓器が揃っています。すべてです。中絶は人間を殺すことです。その言葉が好きかどうかにかかわらず、それは殺人です。教会は中絶を禁じているから偏見を持っているわけではありません。教会が中絶を禁じているのは、中絶が人を殺すからです。それは殺人です。それは殺人です!

そして、私たちはこれについて明確にする必要があります。移民を送り出し、成長させず、命を与えないのは間違っている、残酷なことです。命があるのに、子供​​を母親の子宮から送り出すのは殺人です。そして、私たちはこれらのことについて明確に話さなければなりません。「いいえ、しかしながら…」いいえ、「しかしながら」。どちらも明らかです。孤児、よそ者、未亡人、このことを忘れないでください。

マトランガ:あなたの意見では、中絶を支持する候補者に投票することが道徳的に許される状況はありますか?

教皇:政治道徳では、一般的に投票しないことは醜い、良くないと言われています。人は投票しなければなりません。そして、より小さな悪を選ばなければなりません。どちらがより小さな悪ですか?あの女性か、あの男性か?私にはわかりません。各人が自分の良心に従って考え、決定しなければなりません。

 

 

ミモ・ムオロ(アヴェニーレ):ガザ紛争がヨルダン川西岸に波及するリスクがあります。数時間前に爆発があり、国連職員を含む18人が死亡しました。今、あなたはどのような気持ちですか。また、戦闘当事者に何と言いますか。聖座が停戦と待望の平和を実現するために仲介する可能性はありますか。

 

教皇:聖座はそれに取り組んでいます。一つ言わせてください。私は毎日ガザに電話をしています。そこには教区があり、その学校には600人のキリスト教徒とイスラム教徒がいて、兄弟姉妹として暮らしています。彼らは私に恐ろしい話、困難なことを話します。

この戦争が過度に血なまぐさいかどうかはわかりませんが、子供たちの死体が殺されるのを見たり、学校がゲリラがいるかもしれないという理由で爆撃されたと聞いたりすると、恐ろしい気持ちになります。恐ろしいです、恐ろしいです。

これは防衛戦争だと言われることもありますが、私は時々、これは戦争だと思っています… あまりにも、あまりにもひどいです。こう言うのは申し訳ないのですが、平和に向けた措置が講じられているとは思えません。

例えば、ヴェローナではとても素晴らしい体験をしました。爆撃で妻を亡くしたユダヤ人男性と、娘を亡くしたガザ出身の男性が、平和について語り合い、抱き合い、友愛の証しをしました。私はこう言います。友愛は、お互いを殺し合うことよりも大切です。友愛とは、握手することです。結局、戦争に勝った者は大敗北を喫するでしょう。戦争は常に、例外なく、常に敗北です。私たちはそれを忘れてはなりません。だからこそ、平和のためになされるすべてのことが重要なのです。そして、私が政治に関わっていることを少し申し上げたいのですが、ヨルダン国王には非常に感謝しています。国王は平和の人です。アブドラ国王は良い人です。

 

 

リサ・ワイス(ARD):今回のご訪問中、教皇様は各国の美点だけでなく、問題についても非常に率直にお話しになりました。このため、シンガポールに死刑制度がまだあるという問題について、なぜ触れないのかと疑問に思っていました。

 

教皇:本当です。思いつきませんでした。死刑制度は機能しません。ゆっくりと廃止する必要があります。多くの国では法律はあっても、刑を執行していません。米国も同じです… しかし、死刑制度は廃止されなければなりません。それは正しくありません。正しくありません。

 

 

シモーヌ・ルプラトル(ル・モンド):東ティモールでは、性的虐待の被害者である若者について触れられました。もちろん、私たちはベロ司教のことを考えました。フランスでは、エマウスの創設者で、フランスで最も愛された人物として数年間選出されたピエール神父の同様のケースがあります。どちらのケースでも、彼らのカリスマ性が告発を信じるのを難しくしました。私は質問したいと思います。バチカンはピエール神父について何を知っていたのでしょうか。そして、これほど多くの善行をした人が犯罪を犯したとは信じがたい被害者や一般大衆に、あなたは何と言えばよいでしょうか。そして、フランスといえば、12月にパリで行われるノートルダム大聖堂の落成式に出席されますか。

 

教皇:最後の質問にお答えします。パリには行きません。パリには行きません。

最初の質問については、あなたは非常に痛ましく繊細な点に触れました。これらは善良な人々であり、アベ・ピエールのように善行を行った人々です。善行を行ったにもかかわらず、この人物が重大な罪人であることが判明しました。これが私たち人間の状態です。

私たちは、「隠して見えないようにしよう」などと言ってはなりません。公然の罪は公然のものであり、非難されなければなりません。たとえば、アベ・ピエールは多くの善行を行った人物ですが、罪人でもありました。私たちはこれらのことについてはっきりと語り、隠してはなりません。虐待との戦いは、私たち全員が取り組まなければならないものです。性的虐待だけでなく、あらゆる種類の虐待、つまり社会的虐待、教育的虐待、人々の心を操作すること、自由を奪うことに対してもです。

私の意見では、虐待は人の尊厳を破壊するため、悪魔的です。あらゆる形態の虐待は、私たち自身、つまり神のイメージを破壊しようとします。これらの事件が明るみに出るのはうれしいことです。

以前も言ったかもしれないことをお話しします。5年前、私たちは性的虐待やその他の虐待について司教協議会の会長たちと会議を開きました。国連からのものだったと思いますが、非常によくできた統計がありました。虐待の42~46%は家族や近所で起こっています(編集者注)。結論として、子ども、未成年者への性的虐待は犯罪であり、恥ずべきことです。

私が答えなかったことが1つあります。バチカンはピエール神父について何を知っていたのでしょうか?バチカンがいつそれを知ったのか分かりません。私はここにいなかったし、調査しようとも思いませんでしたが、彼の死後、それが明らかになったのは確かですが、それより前は分かりません。

 

 

エリザベッタ・ピケ(ラ・ナシオン):教皇在位中、最も長い旅となりました。長期滞在と言えば、多くの同僚から「アルゼンチンに行くのか?」と聞かれます。これが最初の質問です。アルゼンチンに行くのか、行かないのか? 2番目の質問は、ベネズエラの状況は劇的です。あなたが旅行している間、理論的には選出された大統領がスペインに亡命しなければなりませんでした。ベネズエラの人々にどのようなメッセージを送りますか?

 

教皇:私はベネズエラの状況をフォローしていませんが、指導者たちに伝えたいメッセージは、対話に参加し、平和を求めることです。独裁政権は役に立たず、遅かれ早かれ必ず悪い結果に終わります。教会の歴史を読んでください…政府と国民はベネズエラの平和への道を見つけるためにできる限りのことをしなければならないと思います。詳細がわからないので、政治的な意見は言えません。司教たちが話したことは知っていますし、彼らのメッセージは良いものです。

アルゼンチンに行くことに関しては、まだ決まっていません。行きたいです。私の国ですから。行きたいですが、まだ何も決まっていません。まず解決しなければならないことがいくつかあります。

ピケ:行かれるなら、カナリア諸島で”途中下車”できますか?

教皇:私の気持ちを読んだのですね? カナリア諸島に行こうと思っています。海路で移民が到着する状況があり、そこの指導者や人々と親しくなりたいからです。

ジョシー・ボニファシウス・スシロ(Kompas.id): 経済的な理由から、特に新型コロナの世界的大感染以降、一部の国はパリ協定へのコミットメントから距離を置き始めています。 グリーンエネルギーへの移行や化石燃料からの脱却をためらっている国もいくつかあります。 これらの問題についてどう思いますか?

教皇:気候問題は深刻、非常に深刻だと思います。 ピークだったパリ協定(2015年のCOP21、編集部注)以来、気候会議は減少しています。 話は多いが、行動はほとんどない。 それが私の印象です。私は2つの文書でこのことを取り上げました。ラウダート・シとラウダーテ・デウムです。

 

 

2024年9月14日

☩「主は、祈りと実践を通して信仰を生きるよう私たちに求めておられる」教皇、年間第22主日に

(2024.9.1  Vatican News)

 教皇フランシスコは1日、年間第22主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書のイエスとファリサイ派、律法学者たちとの問答の箇所を取り上げ、神は私たちに、外面的な行為でなく、慈愛、愛、優しさなど内面的な態度を培うように求めておられる、と説かれた。

 教皇は、この福音書の箇所で、弟子たちに手を洗う清めの儀式を行わずに食物を食べさせた、として律法学者やパリサイ派の人々が非難し、イエスがそれにお答えになった場面について、「主は清めの重要性について語られましたが、それは外面的な儀式ではなく、何よりも内面的な性質についてでした」とされ、「貪欲、嫉妬、傲慢、欺瞞、窃盗、中傷などの邪悪な考えを心に残しながら、手を何度も洗うという行為の矛盾を、イエスは指摘しておられます」と語られた。

 さらに、 「イエスは、善良さを育むことのない”儀式主義”に注意するよう呼びかけておられます。この”儀式主義”は、自分自身や他人に対して、慈愛に反する選択や態度を無視したり、正当化したりすることさえあり、魂を傷つけ、心を閉ざすことになります」と注意された。

 そして、外見でなく、内面の清さという概念が、私たち皆にとっていかに重要であるかを強調され、「ミサに出席しながら、他人の噂話や慈愛の欠如にふけることはできません。噂話は心と魂を台無しにするので、そのような行為を許してはなりません」、さらに、「祈りの中で信心深さを示しながら、帰宅した後で家族に対して冷たく接したり、無関心であったり、あるいは、助けや寄り添いを必要としている年老いた両親を無視したりすることもあってはなりません」と強調。

 「こうした振る舞いは『二重生活』であり、許してはならない。他者に対する、善良さや慈しみ深さを欠いた”外面的な清さ”は偽物です。なぜなら、それは、神との関係を外面的なジェスチャーに限定し、内面では神の恵みの浄化作用が浸透しないままであり、思考、言葉、行為に『愛』が欠けているからです」と説かれた。

 そのうえで教皇は、「自身の生活と、教会内外の場で、一貫して同じ心をもって信仰を生きているか」に目を向けるよう勧められ、「自分が考え、言うこと、行うことには、同じ心が反映されているでしょうか?」「祈りの中で語ることを、兄弟姉妹への寄り添いと尊敬の気持ちをもって、具体的な行為にしようと努めようとしているでしょうか」と信者たちに問いかけられた。

 教皇は説教の最後に、「私たちの日々の生活の中で、心からの実践的な愛をもって、神がお喜びになる祈りを捧げることができるよう、助けてくださいますように」と聖母マリアに願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年9月1日

☩「『人間とは何か』という現代の問いに直面して、全てのキリスト教徒は、その尊厳を再確認せねばならない」

Pope Francis: Artificial intelligence and advances in science are producing an ‘anthropological revolution’ Pope Francis: Artificial intelligence and advances in science are producing an ‘anthropological revolution’  

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*  教皇のメッセージ全文・英語公式訳

MESSAGE OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO MARK THE XVII INTER-CHRISTIAN SYMPOSIUM

To my Venerable Brother His Eminence Cardinal Kurt Koch Prefect of the Dicastery for Promoting Christian Unity

With sentiments of cordial closeness, I greet the distinguished speakers and all the participants in the 17th Inter-Christian Symposium, organized jointly by the Franciscan Institute of Spirituality of the Pontifical University Antonianum and the Department of Theology of the Orthodox Theological Faculty of the Aristotle University of Thessaloniki, which will take place from 28 to 30 August 2024 in Trani, on the theme “‘What is man?’ (Ps 8:4) in the time of anthropological mutation”. In particular, I would like to congratulate the organizers of this unique experience of practical collaboration between Catholics and Orthodox, which has become by now a beautiful tradition.

The title of the Symposium refers to the time of anthropological mutation, but what is happening in our days could be defined as a fully-fledged revolution. The changes brought about by the information technology revolution, such as, for example, the development of artificial intelligence, and the incredible developments in the sciences, are forcing today’s men and women to rethink their identity, their role in the world and in society, and their vocation to transcendence. Indeed, the specific nature of the human being in creation as a whole, his uniqueness with regard to the other animals, and even his relationship with machines, are being constantly questioned. Furthermore, the way in which today’s men and women understand the fundamental experiences of their existence, such as engendering, being born, and dying, are changing structurally. Faced with this ongoing anthropological revolution, it is not possible to react only with denial or criticism. On the contrary, there is a need for profound reflection, capable of renewing the thought and the choices to be made (cf. Video Message on the occasion of the Plenary Assembly of the Pontifical Council for Culture on the theme “Towards a necessary humanism”, 23 November 2021).

This challenge affects all Christians, whatever Church they belong to. For this reason, it is particular interesting that Catholics and Orthodox are promoting this reflection together. In particular, in the light of the teaching of the Sacred Scripture and Christian tradition, it is necessary to reiterate that every human being is endowed with dignity by the mere fact of existing, as a spiritual entity, created by God and destined for a filial relationship with Him (cf. Eph 1:4-5), regardless of whether or not he acts in accordance with this dignity, the socio-economic situations in which he lives, or his existential conditions. The defence of this dignity against very real threats such as poverty, war, exploitation and others is a common commitment for all Churches to work on together.

I gladly accompany the work of the 17th Inter-Christian Symposium with my prayers and, through the intercession of Saint Nicholas the Pilgrim, patron saint of Trani, I invoke the Lord’s blessing on all participants, trusting that they too will have the goodness to remember me in their prayers.

From the Vatican, 17th July 2024

FRANCIS

2024年8月29日

☩「世界は、砂漠や海で命を落とす移民・難民の叫びに、耳を傾けよ」教皇、水曜恒例一般謁見で

(2024.8.28 Vatican News  Devin Watkins) 

 教皇フランシスコは28日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を中断して移民・難民問題を取り上げ、「より良い生活を求めて砂漠や海を渡って命を落とす人々に対する世界の無関心」を批判、「正義と連帯に基づく世界の統治システムの確立」を求められた。

 教皇は「『海』と『砂漠』は、移民・難民や彼らを助けようとする人々の言葉に出てきます」とされたうえで、この二つの言葉は、「移民・難民が旅の途中で越えねばならないすべての物理的な障壁と危険を表しています」と指摘。「人々と文明のコミュニケーションの場であるはずのものが、墓場になってしまった」と嘆かれた。

 そして、「人々の死のほとんどは防ぐことができたはず」とされ、「あらゆる手段を使って組織的に移民・難民を出発地へを押し戻す人々」を非難。「このようなことが意識的に、責任を持って行われる場合、それは重大な罪です。聖書が『異邦人を不当に扱ったり、抑圧したりしてはならない』と言っていることを忘れないようにすべきです」と注意された。

 続けて教皇は、「海」と「砂漠」は聖書の中で象徴的に取り上げられており、この二つは、「抑圧と奴隷状態から逃れる人々のドラマを目撃しています… 『海』と『砂漠』は、苦しみ、恐怖、絶望の場所であると同時に、解放、救済、そして神の約束の実現へと向かう通過点でもあるのです」と指摘され、「神は、彼らと共にそこにいます。神は、彼らと共に苦しみ、彼らと共に泣き、彼らと共に希望を抱いています」と強調された。

 教皇はさらに、「移民は、死をもたらす海や砂漠にいるべきではない、ということに誰もが同意できるでしょう。でも、それは、厳しい法律や国境の武力による取り締まりでは達成できない。私たちは、移民・難民のために安全でルールのある経路を拡大し、戦争、暴力、迫害、そしてさまざまな災害から逃れる人々が避難するのを容易にすることで、これを達成するのです。正義、友愛、連帯に基づく移民・難民に対する全地球的な施策をあらゆる方法で推進することで、これを達成するのです」と訴えられた。

 最後に教皇は、5大陸すべてで負傷したり見捨てられたりして絶望的な状況にある移民・難民を助け、救うことに身を捧げている”多くの善きなサマリア人”たちの働きを称賛し、特に、地中海を渡る移民・難民の救出を目指すイタリアの民間援助組織「Mediterranea Saving Humans」の活動に言及。

 「これらの活動に参加する勇敢な男性たち、女性たちは、”無関心”という有害な”使い捨て文化”に感染することを許さない人類の証しです」と讃えられ、「たとえ最前線に立つことができなくても、祈りを通じて、この『文明のための戦い』に自分なりの方法で、誰もが貢献することが可能です」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年8月28日

☩「いかなるキリスト教会も活動を止められてはならない」教皇、ウクライナ正教会のモスクワ総主教庁系の活動禁止措置に

(2024.8.25   Vatican News)

 教皇フランシスコは25日の正午の祈りの後に、改めて、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーはじめ戦争で苦しんでいる世界の人々のことを思い起こされ、「皆が平和を求めています!主が私たちすべてに平和を与えてくださるよう祈りましょう」と述べ、速やかな戦争終結のために祈るよう、すべての人に呼びかけられた。

 また、ウクライナのゼレンスキー大統領がウクライナ正教会のモスクワ総主教庁系の活動を禁止する法律に署名したことに、ロシア正教会最高位のキリル総主教が反発、非難声明を教皇フランシスコら世界の主要教会トップらに送付しているが、  教皇フランシスコは25日の正午の祈りの後、ウクライナ政府のこの決定が同国における信教の自由に与える影響について懸念を表明、「いかなるキリスト教会も直接的、間接的に活動を止められてはなりません」と訴えられた。

 教皇は、この問題について、「私はウクライナとロシアでの戦闘を悲しみとともに見守っています。そして、ウクライナで最近採択された法律について考えるとき、祈る人々の自由を心配しています。なぜなら、真に祈る人々は、常にすべての人のために祈るからです」と語られた。

 そして、「人は、祈ったからといって悪事を働くわけではありません。もし誰かが自分の国民に対して悪事を働いた場合、その人は罪を負うことになりますが、祈ったからといって悪事を働いたとは言えない。ですから、祈りたい人は、彼らが自分たちの教会と考えるところで祈ることを許されるようにしてください。どうか、どのキリスト教会も直接的、間接的にも廃止されないようにしてください。教会に触れてはなりません!」と、関係者たちに求められた。

・・・・・

 ウクライナ正教会には、歴史的にロシア正教会の影響が強いモスクワ総主教庁系と、ロシアからの独立を志向する独立系が併存している。2022年2月にロシアがウクライナ侵略を始めた後、モスクワ総主教庁系正教会はロシア正教会からの独立を宣言したが、ロシア正教のキリル総主教はロシアのプーチン大統領との関係が深く、侵略を支持する立場で知られ、関係継続が指摘されていた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年8月26日

☩「エムポックス予防と感染者治療に全力を」教皇が訴え

コンゴ民主共和国・ゴマのキャンプでエムポックスの予防活動を行う赤十字の職員コンゴ民主共和国・ゴマのキャンプでエムポックスの予防活動を行う赤十字の職員  (ANSA)

(2024.8.25 バチカン放送)

 教皇フランシスコは25日の正午の祈りで、ウイルス性感染症エムポックス(サル痘)に感染した人々に連帯を表明されるとともに、「すべての患者がふさわしい治療を受けることができるように」と願われた。

 エムポックスは、現在、アフリカとくにコンゴ民主共和国で感染が急激に広がっており、アフリカ全体で今年になってすでに1万5000人以上が感染、500人以上の死者が出ていると言われ、欧州やアジアにも広がりつつある。

 WHO(世界保健機関)は14日に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言したが、ワクチンの供給は十分でなく、感染拡大を食い止めるに至っていない。

 教皇は、こうした感染拡大の現状に触れつつ、「感染したすべての人々、特にこの感染症に苦しむコンゴ民主共和国の人々のために祈られた。そして、多くの感染者が出ている国々の教会に、ご自身の寄り添いを伝えるとともに、すべての患者がふさわしい治療を受けられるよう、医療技術や処方などの支援を強化するよう、世界各国の政府や医療関係企業に訴えられた。

(編集・加筆「カトリック・あい」)

2024年8月26日

☩「人生を豊かにするために、主を求め、主に留まろう」教皇、年間第21主日の正午の祈り

(2024.8.25   Vatican News)

  教皇フランシスコは25日、年間第21主日の正午の祈りに先立つ説教で、イエスの最初の弟子たちのように、永遠の喜びをもたらす人生の豊かさを得るために、主を求め、常に主に留まるように、と信者たちを励まされた。

 説教で教皇はまず、この日のミサで読まれた福音で、使徒聖ペトロがイエスに「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです」(ヨハネ福音書6章68節)と答え、イエスへの信仰と信頼を確認したことを思い起され、「ペトロは、この素晴らしい告白で、弟子たちが主から離れず、主と共にいたいと願っていることを示しています…弟子たちは、主の説教を聞き、主の奇跡を目撃し、公私ともに主の生活に加わり続けたのです」と説かれた。

 また教皇は、「弟子たちが、主の語られていることや、なさっていることを常に理解しているわけではないため、主に従うのは容易ではなかった… イエスのすべての人に対する愛の根本的な性質、イエスの慈悲の究極の要求、そして制度化された宗教や伝統の規範を超越した主のなさり方を受け入れることは、苦労の連続でした」とされたうえで、「ペテロと弟子たちは、主においてのみ、『命、喜び、彼らを活気づける愛への渇望、への答え』を見出だし、罪や死の限界を超えて、彼らが求める人生の豊かさ体験したのです」と強調。

 さらに、「『主に従う』という課題は、私たち一人ひとり(のに人生)にも関わっています… 私たちも主のやり方を理解し、主の基準と模範を自分のものにしよう、と努力しているからです。その際のカギとなるのは、『常に主の近くにいること』『主の福音に従うこと』『秘跡によって主の恵みを受けること』『祈りの中で主と共にいること』『謙遜と慈愛の模範に従うこと』。そうすることでイエスを友とすることの素晴らしさを経験すればするほど、私たちは、イエスだけが『永遠の命の言葉』を持っておられることに気づくのです」と説かれた。

 教皇は信者たちに、「イエスが、私たちの生活にどれほど存在しておられるか、そして、私たちがイエスの言葉にどれほど心を動かされているか」を振り返るよう勧められ、最後に、「神の言葉であるイエスを肉体に受け入れたマリアが、私たちもイエスに耳を傾け、決してイエスから離れないよう、助けてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2024年8月25日

◎教皇連続講話「聖霊について」⑥「愛、喜び、寛容、誠実…を育てる努力をすれば、周りの人は『イエスの霊の香り』を感じるようになる」

 教皇フランシスコは21日の水曜恒例一般謁見で、「聖霊について」の連続講話を続けられ、今回は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられた際、聖霊が降ったことをテーマとして取り上げられた。

 教皇は「イエスの受洗は、啓示と人類の救いの歴史において、極めて重要な瞬間を象徴するもの」と語られ、それによって「主は、父の愛する子であることを明らかにされ、公の宣教活動の初めに、聖霊によって油を注がれたからです」と強調された。

 そして「救世主、司祭、預言者、王として、イエスは、その神秘的な集まりである教会のメンバーである私たちに、聖霊を授けられるのです」と語られ、洗礼において、「私たち一人一人は、『キリストの命に与るしるし』として、また『キリストの救いの存在の香りを世界に広める使命を与えられた者』として、聖香油を注がれるのです」と強調。

 講話の最後に、「私たちが日々この聖香油を忠実に育み、出会うすべての人に『キリストのかぐわしい香り』」を広めるように、と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(2024.8.21 バチカン放送)

教皇の連続講話の要旨は次のとおり。

**********

今日は、ヨルダン川での洗礼においてイエスに降り、教会であるイエスの体を通して広められる聖霊について考えてみましょう。マルコ福音書には、イエスの洗礼の場面がこのように描かれています―「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(1章9-11節)。

この瞬間、父と子と聖霊の三位がヨルダン川のほとりで一堂に会されました。御父は声をお聞かせになり、聖霊は鳩のようにイエスに降りられ、そしてイエスは御父からご自身の「愛する子」として宣言されたのです。これは啓示と救いの歴史にとって極めて重要な瞬間でした。

イエスの洗礼について、すべての福音記者が語っていますが、その出来事の重要さはどこにあるのでしょうか。答えは、このすぐ後、ナザレの会堂でイエスが語られた言葉の中に見つけることができます。イエスはヨルダン川での出来事に明らかに触れながら、次のように語られました―「主の霊が私に臨んだ… 主が私に油を注がれたからである」(ルカ福音書4章18節)。

ヨルダン川で、神なる御父は、イエスに聖霊を注がれ塗油され、イエスを王、預言者、祭司として聖別されました。旧約聖書では、王や、預言者、祭司は、香り高い油を注がれています。キリストの場合、物質的な油の代わりに、霊的な油、すなわち聖霊を注がれました。象徴の代わりに、本物を注がれたのです。

イエスは受肉の瞬間から聖霊に満たされていましたが、それは譲渡できない「個人的な恵み」でした。しかし、今や、使命のために聖霊の恵みに満たされたイエスは、ご自身の体である教会の頭(かしら)として、教会に聖霊の賜物をめぐらせます。それゆえに、教会は新しい「王の、預言的、祭司的な民」なのです。ヘブライ語の「メシア」、古代ギリシャ語の「キリスト」は、共に、油を注がれた者を意味します。教父たちは、「キリスト者」を「キリストに倣う者として、油を注がれた者」と説明しました。

聖書の詩編に、大祭司アロンの頭に注がれ、衣の襟にまで垂れる、かぐわしい油について歌っている箇所があります(133章2節参照)。兄弟が共に座っている喜びを表すために用いられたこの詩的なイメージは、キリストと教会において霊的かつ神秘的な現実となりました。私たちの頭であるキリストは大祭司、聖霊はかぐわしい油、教会はその油が広がるキリストの体です。

聖パウロは、コリントの信徒への手紙で「私たちは神に捧げられるキリストのかぐわしい香りだからです」(2・2章15節)と書いています。残念ながら、キリスト者はしばしば、『キリストのかぐわしい香り』でなく、『自分自身の罪の悪臭』を、まき散らしています。そうすることで、一人ひとりが自分の置かれた環境で、この世におけるキリストのかぐわしい香りとなる、という崇高な召命を実現する努力をそらすことになってはなりません。

キリストの香りは、「霊の結ぶ実」から発します。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。これらの実を育てるように努力するなら、私たちが気付かないうちに、誰かが私たちの周りにキリストの霊の香りを感じるようになるでしょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました。またバチカン放送に聖書の引用箇所に誤りがあったので修正してあります)

 

2024年8月22日

☩「ウクライナ、ミャンマー… 速やかな平和の回復を改めて祈る」水曜恒例の一般謁見で

Mourners hold a vigil for victims of an attack on an IDP camp in Goma, DRCMourners hold a vigil for victims of an attack on an IDP camp in Goma, DRC  (ANSA

(2024.8.21 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

2024年8月22日

☩「イエスの『天から降った生けるパン』を喜んで受け入れよう」教皇、年間第20主日に

(2024.8.18 Vatican News   Thaddeus Jones)

   教皇フランシスコは18日、年間第20主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書(6章51‐58節)と取り上げ、イエスがご自分は「天から下って来た生きたパン」であると語った箇所を振り返り、この言葉は、私たちの心の飢えを満たす天のパンとして、イエスがご自分を全面的に私たちに与えてくださったことを意味する、とされ、「驚きと感謝の気持ち」を改めて持つことを信者たちに促された。

  ヨハネ福音書のこの箇所では、イエスが”パンの奇跡”をなさった後で、群衆に「私は、天から降って来た生けるパンである」と語られた場面が描かれ、その言葉を聞いた彼らが、それが何を意味するのか、どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか、と議論し合ったことが記されている。

 説教で教皇は、「この群衆の疑問は、今日も私たち自身に問いかけることができますが、その際、驚きと感謝の気持ちを持って、そうすべきです」とされ、「彼らのように疑いの心をもって、ではなく、驚きをもって心を開くことが必要なのです」と指摘。

 そして、「イエスがご自分を『天からのパン』と言われたのは、それが私たちの期待をすべて超える賜物であり、イエスの肉体と血は救い主の人間性を示し、イエスの命そのものが私たち自身の栄養としてくださったものだからです」と強調され、「イエスが、私たちの救いと永遠の精神的栄養のために、その肉体と血のすべてを捧げてくださっていることを感謝することで、私たちはそれに応えます… イエスが、私たちのために、私たちと共におられるところで、私たちはイエスを認識するのです」と説かれた。

 また教皇は、「真の人であるキリスト」は、私たちが生きるために食べる必要があることを知っておられるが、「胃袋を満たす食べ物だけでは十分ではありません。イエスはさらに大きな贈り物を用意しておられます。それは、イエス自身が真の食べ物、真の飲み物となることであり、これに対して私たちは『主イエス、ありがとう!』としか言えません」と語られ、「父なる神からの『天のパン』は、肉体となったイエスであり、私たちの心の飢え、つまり希望、真実、救いへの渇望を満たしてくれます。この飢えは、主のみが満たせるのです」と強調された。。

 そのうえで教皇は、「イエスは私たちを救い、永遠に私たちの命を養われます。その主のおかげで、私たちは神と交わり、生きることができる… この『生きた真のパン』は、単に私たちの人生のすべての問題を解決するだけでなく、貧しい人々から日々の糧を奪うことの多い私たちの世界に計り知れない希望を与えてくださいます」と語られた。

 さらに教皇は、「私たちが自分自身だけでなく他の人々のためにも救いを渇望しているかどうか」自問するよう信者たちに勧められ、「聖体拝領のとき、私たちのために死んで復活され、その『慈悲の奇跡』を捧げてくださった主の御体に、私たちは畏敬の念を抱いているでしょうか」と問いかけられた。

 そして最後に、「パンのしるしの中にある天の賜物を私たちが迎え入れられるように」と聖母マリアに助けを願う祈りを捧げられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年8月18日

☩「死刑は正義をもたらさない、社会にとって”毒”だ」教皇、新刊本「死刑囚のキリスト教徒」の序文で

(2024.8.18 Vatican News )

 教皇フランシスコは、デール・レシネラ氏の新著「死刑囚のキリスト教徒:死刑囚への私の献身」に序文を寄せられた。レシネラ氏は72歳の元ウォール街の弁護士で、妻スーザンとともに、1998年以来、フロリダの複数の刑務所で一般信徒のカウンセラー( lay chaplain)として信徒牧師として死刑囚の精神面でのケアをしてきた。この本は、バチカン出版局(LEV)から8月27日に出版される予定。教皇による序文は以下の通り。

******************

 福音とは、人生を変える生きた人との出会いです。イエスは、私たちの計画、私たちの願望、私たちの見方を一変させる力をお持ちです。イエスを知ることは、私たちの存在を意味のあるものにすることです。なぜなら、主は私たちに決して色あせることのない喜びを与えてくれるから。それはまさに神の喜びなのです。

 デール・レシネラ氏とは謁見中に知り合い、長きにわたりロッセルバトーレ・ロマーノ紙に書かれた記事や、この感動的な本を通じて彼のことをより深く知るようになりましたが、彼の語る物語は私が言ったことを裏付けています。そして、将来に別の目標を持っていた人が、キリスト教徒として、夫として、そして父親として、死刑判決を受けた人々のカウンセラーになったのかを理解できるのです。

 彼の(死刑囚カウンセラーとしての)仕事は極めて困難で、危険で、骨の折れる仕事です。それは、あらゆる側面で悪に関わっているからです。被害者に対して犯された取り返しのつかない悪、死刑判決を受けた人が確実に死ぬ運命にあることを知りながら経験している悪、死刑制度を通じて社会に植え付けられた悪。私が繰り返し強調してきたように、死刑は罪のない人々を襲う暴力に対する解決策には決してなりません。死刑は正義をもたらすどころか、復讐心を煽り、市民社会の組織にとって危険な毒となります。

 国家は、もはや生きる価値がなく処分されるべき人間であるかのように、囚人たちを処刑するために物的、人的を投入するのではなく、彼らが心から生き方を変える機会を与えることに重点を置くべきです。フョードル・ドストエフスキーは小説『白痴』の中で、死刑判決を受けた男性について語り、死刑の論理的かつ道徳的不可能性について、次のように簡潔にまとめています。

 「それは人間の魂を侵害するものであり、それ以上のものではない!『汝殺すなかれ』と書いてあるのに、彼が人を殺したために、他の人が彼を殺すのだ。いや、それは存在すべきではないものだ」。

 (2025年の)聖年においては、「カトリック教会のカテキズム」が述べているように、「人間の不可侵性と尊厳に対する攻撃であるため、容認できない」 ( 2267項)死刑制度の廃止を、すべての信者が共同で呼びかけることを約束すべきです。

 この著作は、著者の妻スーザンの多大な貢献を忘れずに、自身が生活し働いている米国の教会と社会にとって、大きな贈り物です。特に死刑囚が収容されている刑務所のような非人道的な場所での一般信徒のカウンセラーとしての彼の献身は、神の無限の慈悲に対する生きた情熱的証言です。慈しみの特別聖年が教えてくれたように、私たちは、「自分の罪、過ち、または行動が私たちを永久に主から遠ざける可能性がある」と決して考えてはいけません。主の心は、すでに私たちのために十字架につけられています。そして神は、私たちを許すことしかできません。

 確かに、この無限の神の慈悲は、イエスの時代に神の子が罪人や売春婦と食事をしたときに多くの人々を驚かせたように、スキャンダラスなものにもなり得ます。デール兄弟はまた、死刑囚に対する精神的な献身のために批判、抗議、拒絶に直面しています。しかし、イエスが死刑を宣告された泥棒を抱きしめたというのは本当ではないでしょうか。

 デイル・ラシネラは、刑務所、特に彼が「死の家」と呼ぶ刑務所の敷居をまたぐたびに、神の愛は無限で計り知れないものであることを真に理解し、その人生で証言してきました。そして、私たちの最も凶悪な罪でさえ、神の目に私たちのアイデンティティを傷つけることはありません。私たちは神の子供であり、神に愛され、神に気遣われ、神に大切にされているのです。

 したがって、私はデイル・ラシネラに心からの感謝を捧げたいと思います。なぜなら、死刑囚のカウンセラーとしての彼の仕事は、イエスの福音の最も深い現実、つまり神の慈悲、過ちを犯した人々を含むすべての人に対する神の無条件で揺るぎない愛に執着し、情熱的に固執しているからです。そして、十字架上のキリストのような愛情深い視線から、彼らが人生、そして死に新たな意味を見いだすように。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

*「カトリック・あい」注

 教皇フランシスコが2018年に改定される前の「カトリック教会のカテキズム」2267項の冒頭には「教会の伝統的な教えによれば、違反者の身元が責任が完全に確認された場合、それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません」と、厳しい条件を付けて死刑を容認することが明記されていた。またヨハネ・パウロ二世は1995年の回勅「命の福音」で、「絶対的に必要な場合を除いて」死刑を科すべきでない、という表現をしている。

 それを、一挙に死刑の無条件全面廃止を全世界に求める内容に改めた理由を、改定2267項では、「今日、人間の尊厳は重大な罪を犯した後にも失われない、という意識が、ますます高まっています。また、刑法上の処罰の意味について、国家側の新しい理解も広まってきました。さらには、市民を守るという義務を保証すると同時に、犯罪人から自ら罪を償う可能性を完全に取り上げない、より効果的な拘置の制度が整備されてきました」と説明している。

 だが、果たして、その説明のように、現実の世界の国々で「より効果的な拘置の制度が整備され」、殺人者を更生する、あるいは殺人を未然に防ぐ体制が本当に整えられた、と言えるのだろうか。現に、日本などでは、「どうせ殺しても、未成年なら死刑になることはないし、すぐに社会に出られる」、あるいは、「最近の裁判では、一人殺して死刑になることはなくなっている」との認識が、殺人に対する抑制力がきかない一因になっている、との見方があるし、残虐な殺人を犯したが、少年法の適用を受けて数年で社会に戻り、凶悪犯罪を重ねる例もある。死刑が廃止された国や州では、裁判以前に警察が凶悪犯を容易に射殺するケースもある。

 こうした背景に、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃のように、国家による非力な他国民の大量虐殺が頻発するという現実がある。こうした現状に対する真剣な対処が進められないままで、一方的に、世界一律に国家による殺人者の死刑の無条件廃止を叫ぶことには、異論もある。教皇フランシスコは以前には、こうした異論を一部聞き入れる発言もあったが、今は死刑全面廃止論者になったようにも思われる。

 

2024年8月18日