☩「教会の評判への誤った懸念が、性的虐待被害者の幸せを妨げてはならない」中東欧の会議にメッセージ

Pope Francis

(2021.9.18 By Vatican News staff reporter)

 中東欧のカトリック教会の代表たちによる「聖職者の性的虐待から未成年者や弱い立場にある大人たちを守る会議」が19日から3日間の予定で、ポーランドの首都ワルシャワで開催されるが、教皇フランシスコは18日、会議にビデオメッセージを送られ、性的虐待問題への対応について、今回の会議などを通じて行われる関係者の努力が、カトリック教会と信徒たちの心に真の、信頼に足る変化をもたらすよう、強く期待された。

 会議は、バチカンの未成年者保護のための委員会とポーランド司教協議会の共催で、「神の子供たちを守る私たちの共通の使命」をテーマにし、この地域の20か国の司教、修道会代表、専門家が参加する。

*真の、信頼に足る変化が必要

 ビデオメッセージの冒頭、教皇は、教会関係者たちによる未成年に対する性的虐待が引き起こした危機に対して、これまで教会が行ってきた対応を振り返り、教会が直面しているこの深刻な危機の適切に対応する方法について議論を深めようとしていることに強い関心を表明。

 まず、教皇が2019年2月に招集した世界司教協議会会長会議でのご自身の講話で、「教会組織への評判に対する誤った懸念を抱くことで、虐待被害者の幸せの回復が妨げられることのないように」と注意を与えられたことを思い起こされた。そして、教会の評判を真っ先に考えるのではなく、 「こうした邪悪な慣行に真摯に向き合い、被害者たちに心からの赦しを求めることによってのみ、教会は、助けを求める人たちが安心して迎えてもらえる場、としての信頼を取り戻すことができるのです 」と強調。

 さらに、「私たちの悲しみの表現は、さらなる性的虐待の発生を防ぎ、他者に信頼してもらえる、真の、信頼に足る変化をもたらす具体的な改革の歩みに変えて行かねばなりません」とされ、「被害者たちの叫びに耳を傾け、お互いに、そして、より広い意味で社会との間で、議論に専心してください。中東欧だけでなく、キリスト教徒の心の将来につながるものとなるように。これは私たちの責任です。このような困難な時代に、責任を感じて努力しているのは、あなた方だけではありません」と参加者たちを激励された。

 

*私たちの過ちを認める

 また、教皇は、「私たちの過ちや失敗と向き合うことで、自分たちが脆弱で壊れやすい存在だと感じる可能性が確かにあります。しかし、過ちや失敗を認めることは、『素晴らしい恵み』であり、『愛と相互奉仕の新しい地平』を開く自我の解放の時、と見なされるべきです。 自分の過ちを認めた時、私たちをそこに導かれたのは主ご自身。ですから、私たちに恐れることは何もありません」と語られた。

 最後に、教皇は、会議参加者たちに「性的虐待の被害者に仕える、主の謙遜な道具」となるよう促され、「自分たちを共通の未来の仲間であり主人公であると考え、お互いから学び、教会が共に未来の課題に向き合うことができるよう、より信仰深く強靭な存在となってください」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年9月19日

☩「『統治は奉仕』を忘れた時、”闇”を経験する」国際的信徒組織の管理者たちに

(2021.9.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日、バチカンのシノドス・ホールで開かれたカトリック信徒による国際的な団体・組織・運動・共同体の管理・調整者の会合に、挨拶を送られた。

 教皇は参加者たちに、「信徒による組織の宣教的な力、その預言的な存在は、未来に希望を与える」と感謝された後、今年6月に教皇庁信徒・家庭・いのち省から発表された「信徒による国際組織をめぐる教令」を取り上げ、その意図を説明された。

 教令は、国際的な信徒団体・組織の責任者らの任期と信任の回数、および責任者らを選ぶ方法やそれを選ぶ人々に関する規則を定めている。「信徒団体の管理・責任を負う者は奉仕のために召されています」とされた教皇は、「権力欲や不誠実さに陥らないように、人々が期待するキリスト教的証しの挑戦からはずれ自分たちだけの世界に閉じこもることがないように」と注意された。

 そして「『統治とは奉仕』という原則を忘れた時、闇を経験することになります」と警告され、「捜査や調査で醜悪な罪が明るみに出され、困難に陥った修道会や団体」があったことを思い起こされた。さらに、「あらゆる悪用の根源は、権力の悪用にあります。組織の病いは、創立者のカリスマが弱まった時にも起きることがある」と指摘され、組織内に生まれる不平等の原因の例として、「責任者たちが、選挙の票と引き換えに何かの約束をしたり、自分だけが創立者のカリスマの真理を保持していると思い込むこと」などを挙げられた。

 教皇は、「組織の健全な運営のために、責任職にある人々や選挙に伴い構成された管理メンバーの交替は、有益で必要なことです」と強調。創立者について、「歴史的存在で堅固な伝統に結びつく創立者」と「健在あるいは近年の創立者」を区別しつつ、「それぞれの立場から創立者のカリスマを再確認し、古い創立者である場合、会則など変更が必要なものは検討し、組織がまだ創立期にある場合は、そのカリスマを吟味し続けることが大切です」と指摘された。

 最後に、「組織が自分たちの中に閉じこもり、安心し、いかなる挑戦も変化も必要ない、と思いこむことがないように」と注意され、「常に歩み、常に識別する姿勢」の重要さを強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月18日

☩教皇、帰国途上の機内会見で、妊娠中絶の法制化、ワクチン接種、欧州連合問題、同性婚、聖体拝領問題などについて語る

Pope Francis during the press conference on the return flight from SlovakiaPope Francis during the press conference on the return flight from Slovakia  (Vatican Media)

 (2021.9.16 バチカン放送)

 ハンガリー訪問について、教皇は、ハンガリーの人々の持つ多くの価値の中でも、特にエキュメニズムの持つ深い意味に感銘を受けた、と語られた。

 ハンガリーの首相を主体とした会談では、環境問題が話題に上がり、首相から、どのように河川をきれいにするかの説明を受けたが、ハンガリーの人々の環境問題に対する意識の高さに脱帽する、と述べられた。このほか、国民の平均年齢など、人口統計上の傾向をめぐり、若い人たちの結婚を助ける政策を大統領が説明した、と話した。移民問題はテーマに上らなかったという。

 欧州のキリスト教の印象をめぐり、教皇は、欧州連合は何かをするための集まりではなく、その基礎にはこの構想を夢見た人々の精神がある、と述べ、欧州連合が単なる管理機関になってしまう危険を指摘しつつ、ヨーロッパの根源にある精神性を追求し、それを伝える必要を説いた。

 スロバキアでは新型コロナウイルスのワクチンがキリスト教信者を分裂させているが、ワクチン接種を受けることは愛の行為である、と以前から語られている教皇は、この状況をどう見るか、という問いに対し、教皇は、はしかやポリオなど、ワクチンの恩恵を受けてきた人類の歴史に触れ、ワクチンをめぐる過激な世論は、おそらく不安から来ており、その不安は新型コロナウイルスの大感染だけから来るのではない、と語られ。

  聖体拝領と堕胎をめぐる問題について、米国では人工妊娠中絶の合法化を支持する政治家の聖体拝領を拒むべきか否か、という論争があり、ある司教たちはそうあるべきと言い、ある司教らはご聖体を(政争の)武器のように使うべきでない、と言い、司教の間でも意見が割れているが、教皇は「ここ数年間に公的に誰かに聖体を拒んだことがあるか」との米国記者の問いに、教皇は「誰かに聖体を授けることを拒んだことはこれまで一回もないが、こうした状態にある人が(聖体を拝領に)来たかは知らない」と答えられた。

 人工妊娠中絶について、教皇は「堕胎は単なる問題を超えて、殺人」である、と強調。胎児は一人の命ある人間であり、人間の命は尊重されなければならない、この原則は明確なもの、と話された。

 同性愛者の結婚を認めるかどうか、についてどう考えるか、という問いには、「結婚は一つの秘跡であり、教会は主が制定した秘跡を変える力を持たない」と答えられ、「異なる性的指向を持つ多くの人々の状況を助けようとする法律がある」ことに言及しながら、「国々がこれらの人々を市民的に支援することは重要」とされた。そして、「私たちは兄弟姉妹であるこれらの人々に寄り添い、教会は彼らを助けるが、結婚の秘跡は別の問題」と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

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(2021.9.15 Vatican News)

 記者会見での一問一答は次の通り

*欧州連合の理想を忘れず、”イデオロギー的植民地化”に利用されぬように

問:Istávan Károly Kuzmányi(MagyarKurír=ハンガリーのカトリック・メディア)

 ブダペストを訪れていただきありがとうございます。ブダペストで教皇は、「100万人のハンガリー人が祈っているなら、私は未来を恐れません…」と語ったミンツェンティ枢機卿(1892年3月29日 – 1975年5月6日第二次世界大戦後の1945年10月から約28年間、エステルゴム大司教=ハンガリーの首都大司教=を務めた)の言葉を引用されました。なぜ教皇として、今回の東欧2か国訪問の最初に国際聖体大会に参加されたのですか?あなたは欧州のキリスト教をどのように見、私たちハンガリー人はどうすればいいとお考えですか?

答:教皇フランシスコ

 国際聖体大会への参加について、当初はよく理解されていませんでした。「あなたは国際聖体大会の式典のためだけに来て、私たちハンガリー人を訪ねないのですか」と。中には悪く考える人もいましたが、私は、その人たちにこう説明しました。「そうではありません。以前から考えていたのですースロバキアを始め他の国を訪問するということでしたが、あなたの国の大統領にお会いすると約束しました。彼に合うのは三回目でしたが、来年かその後にまた来れるか考えます、と約束しました。それは、ハンガリーの人たちには非常に多くの価値観があるからです。たとえば、あなた方は、とても奥深いエキュメニズムの感覚をもっておられます。そのことに私は感銘を受けています。

 欧州についてですが、私がいつも申し上げているのは、「欧州は、欧州連合の生みの親たちの夢を再認識しなければならない」ということ。欧州連合は事を成すための集まりではありません。欧州連合の背景には、シューマン、アデナウアー、デ・ガスペリなど偉大な人々の精神があります。ただの”管理事務所”であってはなりません。欧州のルーツを求めて、神秘主義に向かって、着実に前進する必要があります。欧州のすべての国が前進せねばならない、と思います。欧州連合を”イデオロギー的植民地化”に利用しようという考えが存在するのは確かです。おそらく欧州外の日との考えでしょうが、良くないことです。欧州連合は自立した存在でなければならず、偉大な生みの親たちの刺激を受けて、すべての国が独立している必要があります。これが私の考えです。

 

*新型コロナワクチン接種ー感染し治療を受けた反対派枢機卿もいる

 

問:Bohumil Petrik (Dennik Standard)=スロバキアのメディア)

 新型コロナ・ワクチンのVワクチン接種を巡ってキリスト教徒が割れています。スロバキアでもです。教皇は、「ワクチン接種を受けるのは、愛の行為です」と言われています。それでは、接種を受けない人がいたら、どうおっしゃいますか?接種を受けない人は、差別されているように感じています。教区によって、この問題への対応が違っています。今回のあなたのスロバキア訪問に当たっても、当初、接種を受けた人だけが、行事に参加できる、とされていて、後になって、接種していなくでも、検査で陰性なら参加してもいい、と改められました。この問題についてどのようにお考えですか?

答:教皇フランシスコ

 これは重要な問題です。ちょっと変でもありますね?なぜかと言えば、人類はこれまでワクチンとは友好な関係の歴史をたどってきたからです。私が子供だった頃、はしかやポリオが流行し…子供たちは皆、ワクチン接種を受けました。誰も「いやです」とは言いませんでした。(注:新型コロナ・ワクチンの接種を巡って問題が起きているのは)おそらく、接種による副反応と不確かだ、というのが理由になっているのでしょうー新型コロナ感染に関して、様々なワクチンがあること、ワクチンの中に感染防止に役立たず、蒸留水とあまり変わりがないものがある、という評判などです。

 それが、人々を怖がらせています。そして、ワクチンに含まれるウイルスが危険だ、という人もおり、多くの議論が起きて、人々の間に分裂をもたらしています。枢機卿団の中にも“反ワクチン派”がいますが、そのうちの一人が、可哀そうなことに新型コロナに感染して、治療を受けました。人生は皮肉なものです。私は良く説明できないのですが、ある人は、十分な検査を受けず、怖がっているのは、ワクチンの余って来るところが違うからだ、と言いますが、この問題については、明確にし、誠実に語ることが必要です。ちなみに、バチカンでは、どのように助けたらいいか検討中の少数の人を除いて、全員がワクチン接種を受けています。

*”人口の冬”が心配、若者、子供たちは未来の希望

問:Daniel Verdú Palay (El Pais=スペインのメディア)

 教皇は12日に、ハンガリーのオルバン首相(移民反対の強硬派)とお会いになりました。教皇は、移民問題や欧州問題、ナショナリズムの問題などで、彼と意見を異にしている、と言われていますが、会談はどのようなものだったのでしょうか?。教皇の側から、最近のアフガニスタン危機で最重要問題に再浮上している移民問題に触れられましたか?また、首相が施行した同性愛に関する法律についてどうお考えですか?また、首相に、「キリスト教のハンガリーを死なせないように」と求められた、と聞いていますが?最近の教皇の言動から、時としてキリスト教的な価値を殺してしまう政策が存在しているように思われるのですが?

答:教皇フランシスコ

 私は首相とお会いしました。首相がおいでになったからです。彼は礼儀正しく、親切でした。お会いしたのは三度目で、大統領や副首相と一緒に来られましたが、話されたのは首相でした。 話された最初のトピックはーそれが会談の大半を占めましたがー環境問題でした。私は、あなた方ハンガリー人の環境に対する良心に脱帽しています。首相は、どのようにして河川を浄化しているか説明されました。私の知らなかったことです。

 それから、私から、ハンガリーの平均年齢について聞きました。なぜなら、私は”人口の冬”を心配しているからです。イタリアの平均年齢は確か47歳前後で、スペインはもう少し若かったかもしれませんが、多くの村で住む人はいなくなり、いてもわずかなお年寄りです。これは深刻な問題です。どのようにしたら解決できるでしょう?首相は私に説明しましたー私の国の法律は若い人たちが結婚し、子供をもつことを支援しています、と。これは興味があります。法律…フランスでも似たような、もっと進んだものがあるようです。だから、フランスではスペインやイタリアのような悲劇が起きていない… このことについて、法律の内容などについて、技術的な説明が、ハンガリー側からありました。

 そのほかのテーマとしては… 移民問題は話題になりませんでした。話題は環境問題に戻り、それと、私が尋ねた意味での「家庭の問題」。何と多くの若い人々、子供たちがいることか。スロバキアでも、私は、とても多くの子供たち、若い夫婦がいることに驚きましたー未来は明るいのです。

 それと直面する課題としては「雇用」です。 でも「外国に出る」ことを彼らは考えません。仕事が見つからないなら、外国に仕事口を見つけに行くことになるのですが。首相は、会談の間中、話しました。他の閣僚はいくつかの関係するデータを見せてくれました。会談は35分ないし40分ほどだったでしょうか、良い雰囲気で行われました。

 

問:Gerard O’Connell (America Magazine=イエズス会発行のメディア):

 まず、手術が素晴らしい効果をもたらしたことを私たちは皆、喜んでいます、あなたは若返りました!

答:教皇フランシスコ

 私に「誰かが手術を受けたいと言っています」と言う人がいました。それが誰か知りません… でも、(注:私の受けた手術は)は美容のためのものではありませんでしたよ!

問:O’Connell

 あなたは「私たちは皆、罪人であり、ご聖体は完璧な人への”報酬”ではなく、弱い人のための”薬””食べ物”だ、とよくおっしゃいます。ご存知のように、米国では、特に先の大統領選やその他の選挙の後、いや2004年以降、妊娠中絶を支持する法律と女性の選択権を支持する政治家にご聖体を授けることに、司教の間で議論がありました。そして、(注:カトリック教徒である)バイデン大統領や政権幹部のご聖体を授けたくない司教たちもいます。それに反対する司教もいれば、「聖体を武器として使う必要はない」と言う司教もいます。このような事態についてどう思われますか?司教たちに、どう助言されますか?また、教皇ご自身は、司教として、過去に、このような人にご聖体を授けるのを公に拒否したことがありましたか?

答:教皇フランシスコ

 

*聖体拝領は完璧な人への報償ではない

 

 いいえ、私は誰に対しても、ご聖体を授けるのを拒否したことはありません。そのような方が来られたか分かりませんが、お断りしたことは一度もない。誰に対してもです。司祭としてそうするのです。絶対に拒否はあり得ません。あなたが言われるような方が前に来て、それに気づいたこともない。本当です。

 少しばかり、興味深い経験がありました。ある老人ホームにミサを捧げに出掛け、そこの居間にいた時のことです。私が「ご聖体をいただきたい方は、手を挙げてください」と言うと、全員が拝領を希望されました。そして、あるご婦人にご聖体を授けた時、彼女は私の手に取って、「ありがとう、神父さま。ありがとう。私はユダヤ人です」と語りかけたので、「大丈夫、私があなたにお授けした方も、ユダヤ人ですよ」と答えました。彼女はまず、ご聖体を拝領し、その後で、そのように言ったのです。

 聖体拝領は完璧な人に与えられる報償ではありません。そうでしょう?この問題に関連して、ポール・ロワイヤル修道院(パリシトー会女子修道院1634年に、ジャンセニズムの創始者、ヤンセニウス司教の盟友であるジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌが修道院の霊的指導者となった時から、付属の神学校のほとんどがジャンセニスムの神学校となった)、アンジェリック・アルノー(19世紀のフランスの小説家で男女同権主義者)、ジャンセニズム(信仰上人間の自由意志よりも神の恩恵を重視するアウグスティヌス思想を実践しようとして、17、18世紀にフランスを中心に展開された宗教運動。当時のカトリック教会から異端とされた)のことを考えてみましょうー完璧なものがご聖体を受けることができる、(と主張しました)。

 ご聖体は賜物、贈り物です。教会と教会共同体におけるイエスの現存です。これが神学です。そうすると、お話ししたご婦人のように教会共同体に所属していない方はご聖体を受けることができないことになりますが、主は、私が知らないうちに彼女に報いることをお望みになったのですー共同体から出されたー破門された人たちがいます。厳しい言い方ですが、彼らは共同体に属していない、それは、洗礼を受けていないか、何らかの理由でバプテスマを受けていない、あるいは共同体から何らかの理由で離れてしまったから。

*妊娠中絶は殺人、”殺し屋”を雇うのは正しくない

 もう一つのご質問。妊娠中絶の問題です。これは殺人です。妊娠中絶は… はっきりしていますー中絶をした人は誰でも、人を殺すのです。医学部の学生用の発生学(の発生を研究する学問)に関する本を手に取ってください。そこには、受胎して3週目から、多くの場合、妊婦が妊娠したと気付く前に、すべての臓器がすでに出来ており、DNAさえも伝えられている…と書いてあります。それは人ではありませんか?人の生命なのです。この人の命には敬意が払わられねばなりません。この原則は非常にはっきりしています。

 それが分からない方には、質問を二つします。第一に、問題を解決するために人間の命を奪うのは正しいことですか?科学的に、それは人間の命なのです。

 二つ目の質問です。問題を解決するために”殺し屋”を雇うのは正しいことですか?私はこれをジョルディ・エヴォル(スペインのジャーナリスト、脚本家)に対して公けに語り、COPE(英国の本部を置く国際出版倫理委員会)に伝えました。何度でも言いたかった… .そしてそれで十分です。変な質問をしないでください。科学的に、それは人間の命なのです。医学書はこれを説明しているのです。

 改めてお尋ねします。問題を解決するために人の命を捨てるのは正しいことですか?正しくない、と確信するから、教会はこの問題に非常に熱心に取り組んでいるのです。教会がこれ(妊娠中絶)を認めたら、日々の殺人を認めることになります。ある国の指導者は、私に、「人口減少は、彼ら(妊娠中絶者)によって始まった、(人口構成に)年齢差が生じている」と言いました。なぜなら、その国には、何年間かで600万人の妊娠中絶がされたほど強力な中絶法があったからです。その国の社会に大きな沈下が起きました。

*聖体拝領問題ー司教たちは「司牧者」でなく「政治的」に対応してきた

 ここで、教会共同体に属さない人、教会共同体の外にいるために聖体拝領ができない人の問題に戻りましょう。これは罰ではありません。外にいるのです。ご聖体を受けることは、あなた自身を共同体に結びつけます。でも、問題は神学的な問題ではありません。司牧上の問題です。私たち司教が、この原則を司牧上、どのように扱うかです。

 そして、教会の歴史を見ると、司教たちが「司牧者」としてではなく、問題に取り組むたびに、「政治的問題」として「政治的」に振るまっていたことが分かります。

 聖バーソロミューの夜(注:聖バーソロミューの虐殺とも呼ばれる。 1572年8月 23日から24日にかけて,サン=バルテルミの祝日にフランスのパリで起きたカトリックによるユグノー (プロテスタント) の人々の組織的大虐殺事件)について考えてみてくださいー「異端者たち、そうです。それは深刻な異端です… 彼らの喉をすべて切りましょう…」。いいえ、それは政治的な問題です。

 ジャンヌ・ダルクについて考えてみましょう。魔女狩りについて考えてみましょう。カンポ・デ・フィオリやサヴォナローラ(注:ジローラモ・サヴォナローラ  1452年9月21日 – 1498年5月23日。 イタリア・フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。当時のフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民の支持を得たが、教皇の意向による裁判で有罪とされ絞首刑の後、火刑に処せられた)など、すべての人々について考えてみましょう。

 教会が非司牧的な方法で原則を擁護するとき、政治的な行動になります。そして、いつも繰り返されて来ました。歴史を見てください。司牧者は何をすべきでしょう?「司牧者」であることです。司牧者であり、断罪して回ってはなりません… 彼は破門された人たちの司牧者でもあるのですか?そうです。彼は司牧者であり、破門された人と共にある司牧者、神のなさり方に倣う司牧者であらねばなりません。神のなさり方は、親しさ、思いやり、そして優しさです。

 聖書全体がそのように語っています。申命記で、主はイスラエルの人々に、こう語りかけておられます。「言ってみよ。どの民に、私があなた方に親しく接するような神々がいるのか」と。親しさ、思いやりーエゼキエル書で、ホセア書で示されているように、主は私たちに思いやりを持っておられます。優しさは最初からありました。福音書やイエスのことを少し見るだけで十分です。

 神のなさり方に倣う方法を知らない司牧者は、足を滑され、司牧的でないことを沢山します。あなたは米国のことを話されましたが、私には米国のことを詳しく知らないので、具体的なことは申し上げたくありません。原則を申し上げましょう。

 あなたは私にこう尋ねるかも知れませんー「でも、あなたが人に親しく、優しく、そして思いやりがあるなら、その人にご聖体を授けるのですか?」と。これは仮定の質問です。司牧者でありまさい。司牧者は自分がいつも何をすべきか知っています。でも、教会の司牧から出てしまうと、たちまち”政治家”になってします。

 これは、すべての非難に見られることです。カトリック教会が行うすべての非司牧的な非難に… 諸原則を守り、司牧者はうまく立ち振る舞うべきだ、と私は思います。諸原則は神学から取られています。司牧的な教会運営は神学であり、このやり方であなたが立ち振る舞うように導かれる聖霊です。

 神はー私はあえてここまで申し上げます。あなたが「ご聖体を授けることができますか、できませんか」と尋ねるとしたら、これは、神学者が言う「決疑論」(注:カトリック倫理神学の用語。宗教または道徳の規範を個々具体的な行為や良心の問題にあてはめる方法のこと=「岩波キリスト教辞典」)です。あなたは覚えておられますか? 私が出した使徒的勧告「Amoris laetitia (家族における愛の喜び)」が巻き起こした”嵐”のことをー離婚した夫婦に寄り添うことに言及した章について、です。異端だ、異端だ!神のおかげで、偉大な神学者であるシェーンボルン枢機卿がおられました。彼は問題を明確にしてくれました。しかし、この方な非難はいつもあります。破門はたくさんです。これ以上、破門をしないようにしましょう。貧しい人たち、彼らは神の子供であり、私たちの牧歌的な寄り添いを求め、必要としています。司牧者は、御霊の言葉に従って、物事を解決するのです。

 

*反ユダヤ主義の”流行”は醜いこと

問:Stefano Maria Paci (Sky Tg 24=イタリアのテレビ局):

 13歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられたユダヤ人作家のエディス・ブラック女史から昨日夕方、メールがありました。彼女は、私が今回の東欧二か国歴訪に同行することを知っていたのです。教皇は、彼女に会うためにローマの中心にある自宅においでになったことがあります。メールは「あなたの姉妹、エディス」と署名のある長文で、教皇が今回の東欧二か国訪問中に繰り返し、反ユダヤ主義を批判されたことに、感謝し、「親愛なる教皇フランシスコ、今も根絶されていない反ユダヤ主義についてのあなたの言葉は、訪問国だけでなく、欧州全体で、これまで以上に重みをもっています」と書いていました。

答:教皇フランシスコ:

 ご指摘の通りです。反ユダヤ主義は流行になっており、復活しています。それは醜い、醜い、醜いことです…。

*同性婚を法的に認める傾向についてー結婚の秘跡はあくまで男女カップルに

問:同上

 家族についての質問です。教皇は、この問題についてハンガリーの政治指導者たちと話されました。そして、昨日のスロバキアでの若者たちとの集いのあいさつでも、取り上げられました。欧州議会が加盟国に同性婚と親子関係を認めるよう求める決議した、昨日伝えられました。これについてどう思いますか?

 

答:教皇フランシスコ

 私はこれについて、はっきり申し上げています。そうでしょう?結婚は秘跡です。秘跡は主が定められ、教会には変える力がありません。性的指向が異なる多くの人たちの置かれた状況を改めようとする法律があり、これが重要なことですが、そうした人たちが助けを受けることができる、と言うことですが、義務を課さなくとも、それは自然なことですー教会に入らないように。

 彼ら同性愛カップルが、生活を共にしたい、と希望するなら、国は彼らを支援し、相続、医療などを保障することが可能ですが… フランスには、同性愛者だけでなく、交際を希望するすべての人たちのための法律があります。秘跡としての結婚についての判断ははっきりしています。フランスの民法では…たとえば、医療保健サービスを受け、彼女たちの間で相続できる法律によって、一緒になることを希望する3人の未亡人がいるとすると、そうします。

 詳細は知りませんが、同性愛カップルとは関係がありません。同性愛者のカップルがその法律を使うおうと思えば使えますが、秘跡としての結婚は男性と女性の間でなされるものです。私が良く申し上げているように、混乱が生じます。すべての人は平等であり、敬意を払わねばなりません。主は善い方で、すべての人を救うことでしょうーこれを大声で言わないでください(笑)。主はすべての人が救われることを望んでおられますが、教会に真理を否定させないでください。同性愛志向の多くの人たちが、司祭助言を求め、赦しの秘跡を受けようとすれば、教会は彼らの生活が前を向いて進むのを助けます。ただし、結婚の秘跡は別のものです。

 (会見の最後に、教皇は次のように語られた。)

 皆さんに感謝します!あなた方の一人について何か素晴らしいことを知りたいですか?休暇を取る前にこれを fioretto(小さな花)として残します。このジャーナリストは24時間仕事をすることができますが、いつも他の人を先にし、自分はその後を進みます。いつも他の人に話しをさせ、自分は黙っている、と言われています。ジャーナリストについてこのように言うことは、どれほど素晴らしいか。そしてこれはマヌエル・ベルトラン(スペインハエン出身の自転車競技選手?ドーピング検査で繰り返し陽性となり、出場禁止処分などを受けている)が、私たちのエバ・フェルナンデス(スペインのジャズシンガー)について語っていることです。ありがとうございました!

(翻訳・編集「カトリック・あい」)南條俊二)

2021年9月16日

☩「マリアの歩みに倣うように」教皇、東欧二か国訪問の最後のミサで「悲しみの聖母」を記念して

 教皇フランシスコは15日午後、スロバキアの首都ブラチスラバ郊外のサスティンの巡礼聖堂に面した広場で、今回の東欧二か国訪問、スロバキア訪問の最後のミサを「悲しみの聖母」の記念として捧げられ、全国から集まった6万人を超える司教、司祭、一般信徒にスロバキアの人々に、聖母マリアの歩み、預言的で、慈しみに満ちた方に倣うように促された。

(2021.9.15 バチカン放送)

 スロバキアでは9月15日に、国民の祝日として「聖母の七つの御悲しみ(悲しみの聖母)」の日を記念する。教皇は、同日午前、スロバキア訪問の最後の公式行事として、西部サスティンの「聖母の七つの御悲しみ巡礼聖堂」に面した広場でミサを捧げられた。

 サスティンに到着した教皇は、「悲しみの聖母」像の前で司教団と共に祈った後、ミサのために聖堂前の広場に集った6万人の信者たちに、特別車「パパモービル」の上から祝福をおくられた。ミサには、90人の司教、500人の司祭が参加した。

 ミサの説教で教皇は、スロバキアの信者たちに信仰の模範として聖母マリアを示され、聖母の信仰に「歩み」「預言」「憐み」の3つの特徴を指摘された。

 「マリアの信仰は『歩む信仰』。その全生涯は、御子イエスの一番弟子として、イエスの後を十字架の下まで歩んでいくものでした」と話された。また、「マリアの信仰は預言的でもありました」とされ、「ナザレのおとめは、世の論理をくつがえし、謙遜な者たちを高く上げ、高慢な者たちを引き下ろす、歴史の中で働く慈しみ深い神の御業の預言だったのです」と説かれた。

 さらに、教皇は、「マリアは憐みのシンボル」とされ、「自らを『主のはしため(注:「聖書協会・共同訳」では「主の仕え女」)』と呼んだマリアは、御子の救いの使命を分かち合い、カルワリオの耐え難い苦しみを経験しながらも、苦しみから逃げることなく、御子において神が苦しみを変容し、死に勝利することを信じて、御子の十字架の下に留まりました」と話された。

 教皇は説教の最後に、「スロバキアの人々の信仰が、常に歩み、預言的な息吹を帯び、憐みに満ちたものとなるように」とその恵みを聖母に祈られた。

こうして、4日間にわたるスロバキア訪問を終えられた教皇は、ブカレストの空港から、帰途に就かれた。

 (編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「”仮の状態”を好む文化に対抗し、自分のすべてをもって愛することは真の革命」ースロバキアの若者たちに

(2021.9.14 バチカン放送)

 スロバキア訪問中の教皇フランシスコは14日、東部コシツエの競技場で、全国から集まった2万5千人以上の若者たちとの集いに出られ、歌や演奏、歓呼の声で迎えられた。

 集いでは、第二次世界大戦中、貞潔を守るためにソビエト兵に抵抗し、殺された福者アンナ・コレサロヴァ(おとめ殉教者、1928-1944)が思い起こされた。福者アンナは、2018年9月にこの競技場で列福式が行われている。

 また、代表の若者たちがそれぞれの信仰体験を語り、教皇の助言を求めたが、ある若い夫婦は、「2人が出会った頃、福者アンナ・コレサロヴァの墓に一緒に巡礼に行った」というエピソードを語り、「福者アンナのおかげで、貞潔の価値を再発見し、婚約中もその価値を守りました」としたうえで、「今日の若者たちが貞潔な愛の価値を信じるにはどうしたらいいのでしょうか」と教皇に尋ねた。

 これに対して、教皇は、「愛は人生で最も大きな夢であり、素晴らしいものですが、決して容易ではない。見かけにとらわれない、新しい眼差しが必要です」とされ、「愛を、ありきたりのものにしてはいけません… なぜなら、愛は、情熱や感情だけではなく、忠実、恵み、責任でもあるからです」と説かれた。

 また教皇は、「一時の”仮の状態”を好む今日の文化に対抗して、一生を賭けて自分のすべてをもって愛することは、真の革命ともいえること」と語り、「イエスの十字架に、無限の愛と、最後まで自分の命を与え抜く勇気を見つめるように」と勧められるとともに、福者アンナを、「私たちに、高きを目指すよう呼びかける愛の英雄」として示された。

 ある若い女性は、「告解の体験を通して人生が変わりました」とし、「その時、イエスが十字架に掛けられたのは、自分のためだ、と言うことが分かりました」と振り返った。そして、「どうしたら、若者たちが、神の慈しみに顔を向けることができるでしょうか」と質問。

 これに対して、教皇は、若者たちに「皆さんが告解に行く時に、何を考えていますか」と問いかけた。

 そして、「きっと皆さんは告白すべき罪のことを考えているでしょう。だが、赦しの秘跡の中心にあるのは罪でしょうか。中心にあるのは、罪ですか、それともすべての罪を赦される御父ですか」と尋ねつつ、「懲らしめを受ける者のように告解に行くのではなく、御父の抱擁を受けるために、駆け寄る子のように行くべきです」と説かれ、「神は、私たちをあらゆる状況から引き上げ、私たちのすべて罪を赦してくださいます」と、若者たちを勇気づけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「キリストの十字架上の死は、誰もが苦しみや闇や孤独の中で神と出会えるため」ースロバキアで 「十字架称賛の祝日」のミサ

(2021.9.14 バチカン放送)

 東欧2か国歴訪中の教皇フランシスコは14日、スロバキア東部、プレショフ市内のスポーツ施設で、十字架称賛の祝日のミサを捧げられた。

 プレショフには、ギリシャ(ビザンチン)典礼カトリック教会のエパルキア(教区)が置かれており、ミサはビザンチン典礼の伝統豊かに厳かに行われた。ミサでははじめに十字架の崇敬が行われた。

 説教で教皇は、十字架にキリストの愛を「見つめ」、それを「証しする」者となるように、と勧められ、聖パウロのコリントの信徒への手紙を引用する形で「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます …  神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1・1章23-24節)と語られた。

 そして、「聖パウロはこのように宣言する一方で、十字架が、人の知恵には『つまずかせるもの』『愚かなもの』(同1章23節参照)であることを隠しません。十字架は死の道具だが、命はそこからやって来る。十字架は誰も見たくないものであるにもかかわらず、私たちに神の愛の素晴らしさを啓示するものなのです」と指摘。

 十字架の下に居て、亡くなられたイエスを見た福音記者ヨハネは、その出来事を伝えながら「それを目撃した者が証ししている」(ヨハネ福音書19章35節)と記しているが、教皇は「聖ヨハネのように、十字架を『見つめ』『証しする』ことの大切さ」を強調された。

 さらに、「十字架を『見つめること』。それでは、聖ヨハネは十字架の下で何を見つめたのでしょうか? 世の目にとって、十字架は『敗北』ですが、聖ヨハネは十字架の中に神の御業を見つめ、十字架上のキリストに神の栄光を認めまたし。彼は、人間のために進んで自らを与えられる神を、そこに見たのです」とされた。

 そして、「神が、十字架に掛けられて死ぬことはあり得ない、ふさわしくない、と思われます… それでも、神が、あえて人間の惨めさの極みに入ることを選ばれたのは、地上で絶望した人誰もが、その苦しみや闇や孤独の中で、神と出会うことができるように、と望まれたからなのです」とされ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」 (マタイ福音書27章46節; 詩編 22章1節)というイエスの叫びは、「私たちの苦しみを引き受けられることで、救いの叫びとなりました」と語られた。

 また教皇は「十字架に神の栄光を見つめることを学ぶためには、どうしたらいいのでしょうか?」と問いかけられ、「ある聖人たちは、十字架を『一冊の本』にたとえています。『本』に何が書かれているか知るには、開いて、読まなくてはならない。十字架も、買って来て、家に掛けたり、身に着けたりするだけでは駄目。十字架の前に立ち止まり、見つめ、心を開き、私たちの愛のために傷つかれた神に心動かされねばなりません」と説かれた。

 そして、「十字架を観想することは、次の一歩をもたらします。それは『証しする』ことです。イエスを深く見つめるなら、イエスの御顔は私たちの顔に反映され、イエスの考えは私たちのものとなり、イエスの愛は私たちをとらえ、私たちを変容させるようになる」と話された。

 最後に教皇は、「スロバキアの歴史の中で、困難を極めた時代にもキリストの愛を証しし、信仰を表した殉教者たち」を思い起こされ、「今日、社会の状況は変わっても、十字架は、明確な信仰の証しを私たちに求めているのです」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月15日

☩「人への冒涜は神の御名に対する冒涜だ」-ブラチスラバのホロコースト追悼碑の前で

(2021.9.13 バチカン放送)

 スロバキアを訪問中の教皇フランシスコは13日午後、首都ブラチスラバ市内のホロコースト犠牲者追悼モニュメントの前で、ユダヤ人共同体との出会いを持たれた。

 モニュメントは、ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺)の犠牲となったスロバキア出身の10万5000人以上のユダヤ人たちを記憶にとどめるために、かつてのシナゴーグ(1969年、共産政権によって取り壊された)があった場所に建立された。ブラチスラバは世紀にわたりユダヤ人の生活の重要な中心地だったが、1940年の時点で同市に住んでいた約1万5000人のユダヤ人のうち、大虐殺を生き延びた人々はわずか約3500人だった。

 13日の集いでは、ホロコーストの一人の生存者が、家族と共に体験した恐ろしい悲劇を振り返ると同時に、当時、いかなる政治家でさえも政権に表立った批判ができなかった中で、教皇庁の外交官が反ユダヤ政策を止めようと尽力していたことを証言。また、聖ウルスラ修道会の修道女は、迫害のさなか、同修道会がユダヤ人の子どもたちをかくまい、国外に逃がしていたことが、生存者たちの証言によって明らかにされた、と語った。

 教皇は、「歴史と記憶の場所、苦しみの場所に触れるとともに、心に触れられるために、巡礼者として訪れました」とされ、「神の似姿に造られた人間の尊厳を冒涜することは、神の御名に対する冒涜です。すべての暴力とあらゆる形の反ユダヤ主義を非難し、人間において神が冒涜されることがないよう、一致して取り組みましょう」とと呼びかけられた。

 集いの終わりに、ユダヤ教の祈りが唱えられる中、ホロコーストの犠牲者を思い起こすために、ろうそくに火が灯された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月14日

☩「教会は高い所から世界を見下ろす砦ではない」スロバキアの聖職者たちに

(2021.9.13 バチカン放送)

 スロバキアを訪問中の教皇フランシスコは13日午前、首都ブラチスラバのカテドラルで、司教、司祭、修道者たちスロバキアのカトリック教会関係者たちと集いを持たれた。

 同国のカトリック信者は約339万人で、全人口のおよそ73.7%を占め、12の教区がある。

 教皇は参加者への言葉で、ブラチスラバの美しい城に触れつつ、「教会は高い所から世界を見下ろす砦のようなものであってはなりません」と説かれ、「教会は福音の喜びを通して人々をキリストへと惹きつけることを願う共同体。世俗的な偉大さへの誘惑に陥ることがないように」と注意された。

 そして、世界や生活から距離を置くことなく、その中に住む教会、分かち合い、共に歩み、人々の問いや希望に耳を傾ける教会の姿を示された教皇は、「教会の中心は、教会ではありません」と言明され、スロバキアの教会が「自由を証しし、創造性をもって、対話のうちに歩む」ことを希望された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月14日

☩「スロバキアが平和と統合のメッセージとなるように」教皇、政府要人、各界代表に

(2021.9.13 バチカン放送)

    東欧二か国を訪問中の教皇フランシスコは12日午後、ハンガリーからスロバキア入りされ、13日、同国の首都ブラチスラバで、政府要人、各界代表らと会見された。

 教皇は13日午前、ブラチスラバ市内の大統領官邸を訪問、ズザナ・チャプトヴァー大統領の出迎えを受け、共に公式の歓迎式典に臨まれた後、大統領と個人的に会談を持たれ、さらに官邸の庭園でスロバキアの政府要人、各界代表、同国駐在外交団とお会いになった。

 教皇は挨拶で、「欧州の奥深くに深く根を下ろした若いが古い歴史を持つ国、スロバキア」を巡礼者として訪れた喜びを表され、「欧州の『中間の地』であるスロバキアの歴史は、『欧州の心臓部の平和のメッセージ』となるよう呼んでいます」、さらに「スロバキアの国旗からスラブ民族の兄弟性が伝わるように。まさに兄弟愛こそが、特に新型コロナの世界的大感染を克服し、再出発を願う今日、必要とされているもの」と強調。

 そして、「世界が緊密につながり合い、いわば皆が『中間の地』に住んでいる今日、求められるものは、経済復興だけでなく、平和と統合、連帯なのです」と説かれた。

 また、パンと塩を訪問者に差し出す、スラブ文化の伝統的もてなしを取り上げ、そこに福音的な意味を見出されて、「パンは、神が私たちの間におられるために選ばれたものであり、聖書はそれを貯めずに、分かち合うように求めています。真の豊かさとは、自分の持ち分を増やすことではなく、周りの人と平等に分け合うことにあるのだ、と教えているのです」と語られた。

 さらに、塩は、イエスが「あなたがたは地の塩である」(マタイ福音書5章13節)と説いておられるように、「塩は味を与えるもの。塩がなければ生活は味のないものになってしまいます」とされ、「人々が平和のうちに共存していくためには、効率的・組織的な仕組みがあるだけでは足りません。『連帯の味』が必要なのです」と訴えられた。

 挨拶の最後で教皇は、新型コロナウイルスの大感染という試練を「自分たちの生き方を見直すように、との呼びかけとして受け止め、未来の構築のために積極的に取り組んでいくように」とスロバキア国民を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月13日

☩ 「『あなたがたは私を何者だと言うのか』という問いを生きる」教皇、ブダペストで第52回国際聖体大会閉会ミサ

(2021.9.12 バチカン放送)

 東欧二か国歴訪中の教皇フランシスコは12日)、ハンガリーの首都ブダペストで「第52回国際聖体大会」の閉会ミサをとり行われた。

 この日、ブダペストの英雄広場には、教皇ミサのためにおよそ10万人の参加者が集まった。83年前の1938年、ブダペストでの初めての国際聖体大会が開催されたその同じ広場で、教皇フランシスコによって、全世界の信者の精神的な一致のもとに、荘厳なミサが捧げられ、正教会のエキュメニカル総主教バルトロメオス1世も参列した。青空の下とり行われた儀式に、大合唱団による聖歌の美しい調べが響き渡った。

 教皇はこのミサの説教で次のように話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 イエスはフィリポ・カイサリア地方に行かれた時、人々が自分についてどう考えているかと弟子たちに尋ねた後、今度は弟子たちに「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」 (マルコ福音書 8,章29節)とお尋ねになります。

 この問いは、弟子たちにとって、真剣にイエスに従っていく覚悟があるのかをしるす、重要な問いでもありました。弟子たちはイエスをよく知っていたはずです。彼らはイエスとの関係において「初心者」ではありませんでした。他の人々と比べ、イエスとより親しい関係にありました。イエスが行った多くの奇跡の目撃者でもありました。イエスの教えに心打たれ、どこに行くにも付き従った人たちです。

 それにもかかわらず、イエスの真の姿を知っている、とは言えませんでした。まだ、最後の一歩が足りなかったのです。イエスに対する憧れはありましたが、真の意味でイエスに倣うところまでは至りませんでした。

 今日、主は私たち一人ひとりを見つめながら、同じ問いを繰り返されます。「あなたは私を何者だと言うのか」と。 イエスはこの問いに公教要理が教えてくれるような答えではなく、私自身の内部からの、命の、答えを求めておられるのです。

 実は、この問いへの答えに、私たちがどのように主に従っているかが、かかっているのです。その答えには、イエスの弟子たちが通過し、また私たちも通るべき、三つの段階があります。それは、「イエスの告知」、「イエスと共なる識別」、そして「イエスの後を歩むこと」です。

1)イエスの告知

 「あなたがたは私を何者だと言うのか」という問いに、皆を代表してペトロが答えています。「あなたは、メシアです」と。

 簡潔なこのペトロの答えは、核心をついています。しかし、驚いたことに、イエスは、「このことは誰にも話さないように」と命じます  (マルコ福音書 8,章30節) 。イエスのこの禁止命令は何なのでしょうか。イエスがキリスト、すなわち「救い主」であるということは、確かに正しい答えですが、それはまだ不完全だったのです。そこには、救い主であるという意味が、神の思いからではなく、まったく人間的な考えによって広まってしまう、という危険性があったからです。

 ですから、イエスはこの時から、ご自分の本質を、聖体の秘跡に見ることができる、過ぎ越しの神秘における真の姿として示し始めるのです。イエスのメシア、救い主としての使命は、十字架上の死を通して、復活の栄光において、極みに達します。人間ではなく、神の叡智に従って、すべては実現されます。それは聖パウロが言っているとおりです。「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」 (コリントの信徒への手紙1・2,章6節)。

 イエスはご自分のメシア性、救い主であるということを、沈黙の中に置きますが、彼を待ち受ける十字架については、隠したりはしません。事実、福音記者は、イエスは十字架については何も隠さず、しかも、そのことをはっきりとお話になった、と記しています (マルコ 8章32節) 。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(同 8章31節) 。イエスのこの驚くべき言葉に、私たちも驚かされます。私たちですら、十字架に掛けられて死んでいく、みじめな姿のメシアより、力強い救い主を望むでしょう。

 しかし、神はどのような方であるか、私たちの目の前にある聖体の秘跡が、それを思い起こさせてくれます。聖体は、言葉ではなく、十字架につけられ、愛そのもの、すべてを与え、砕かれたパンとして、神を具体的に示しています。多くの儀式で飾り立てることはできるでしょう。しかし、主は割かれ、皆に配られ、そして食べられるパンの中に留まられます。主はわたしたちの救いのために、生命を与えるべく下僕となられます。私たちに生命を与えるために、ご自身は死なれるのです。

2)イエスと共なる識別

 主の言葉を聞いたペトロの態度は、まったく人間的です。十字架や苦しみを、人間は素直に受け取ることができません。ペトロは、イエスをメシア、救い主だと宣言した後で、師の言葉につまずきます。そして、師の生涯に何とかそのようなことが起きないように、と願います。

 今も昔も、誰もが十字架を好みません。十字架にかかられた主の御前で、私たちは厳しい内面の葛藤を体験します。神の思いに従うか、あるいは人間的な思いに従うか。神の思いは、謙虚な愛の思いです。神の道は、あらゆる見せかけや、凱旋主義ではなく、そこにあるものは、自分を犠牲にしてまでも他者に善を施すことだけです。一方で、人間的な思い、この世の論理は、名誉や特権に執着し、成功や称賛ばかりを追い求めます。そこで重要なのは、人々の前で目立つこと、力を誇示することだけです。

 ペトロもこの思いにとらわれ、イエスをわきにお連れして、いさめ始めます(同 8章32節参照) 。私たちにもイエスをわきにお連れすること、すなわち心の隅に置いてしまうことがあるでしょう。しかし、イエスはこの内的な戦いにおいて、いつも私たちと共にいてくださいます。なぜなら、イエスは、私たちにも使徒たちのようにご自身の側を選ぶことを望まれるからです。私たちの前には、神の側と、世の側の、両方があります。違いは、信心深いかどうかにあるのではありません。真の違いは、本当の神と、「私たち自身という神」の間にあるのです。

 沈黙の中に十字架の上から支配される方と、力で支配しようとする偽りの神との間には、どれほど違いがあることでしょう。ただ愛だけを生きるキリストは、世にへつらい、権力を握る偽メシアとは、どれほど異なっていることでしょう。

 イエスは、私たちが信仰を宣言することだけでは満足されません。私たちの宗教性を、その十字架の前、聖体の秘跡の前で浄化することをお望みです。神の弱さを観想するために、聖体の前で礼拝させるのです。聖体礼拝のために時間を使いましょう。生けるパンであるイエスにわたしたちの閉じた心を開き、人々と分かち合い、厳格主義から解放され、私たち自身にこだわる精神から癒していただきましょう。私たちを動けなくする心の奴隷制の軛から解放し、ご自身がお望みになるところに、私たちが従っていけるよう、イエスが導いてくださいますように。

3)イエスの後を歩むこと

 「サタン、引き下がれ」(同 8章33節)。イエスは強い調子でこう言い、ペトロを我に返します。主は何かを命ずる時、必ずご自身がそこにいて、命令を果たせるように助ける用意ができています。ペトロは「引き下がる」恵みを受け入れます。

 キリスト者の歩みは、成功を追い求めることではなく、「引き下がる」こと、自分自身を中心から取り去ることより始まります。そこでペトロは、中心にあるべきものは、自分が考えるイエスではなく、本物のイエスであることに気づきます。彼はまだ失敗することでしょう、しかし、赦しから赦しへと渡り歩くうちに、神の御顔をいっそうよく理解するようになるでしょう。キリストに対する不毛な称賛から、具体的な真のキリストの模倣へと移っていくでしょう。

 イエスの後を歩くとは、いったいどういうことでしょうか。それは、神の愛される子としての信頼をもって人生を進め、ということです。それは、仕えられるためではなく、仕えるために来られた師と同じ道を歩め、ということです(マルコ福音書10章45節参照)。毎日、私たちの歩みを兄弟との出会いに向けよ、と言うことです。聖体は、私たちが一つとなること、他者のために自分自身を割いて犠牲にすることを助けてくれます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、皆さんが崇敬する偉大で勇敢な聖人たち、例えば聖ステファノや、聖エリザベトのように、聖体の秘跡にましますイエスとの出会いが、私たちを変革してくださいますように。 これらの聖人たちのように、多くを望まず、単なる儀式や繰り返しに信仰を貶めず、世に生命を与えるために割かれたパンである、十字架上で死にそして復活された神の新しさに、心を開きましょう。こうして、私たちは喜びの中に生き、喜びをもたらすことができるでしょう。

 この国際聖体大会は 到着点であると同時に、特に出発点でもあります。なぜなら、イエスの後を歩むということは、前を見つめ、恵みの働きを受け入れ、イエスがフィリポ・カイサリアでその弟子たちに投げかけた「あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い、毎日、私たちにも繰り返されている、その問いを生きることだからです。

2021年9月13日