☩「揺るぎない信仰をもって、あらゆる形の暴力を否定しよう」教皇、シカゴ銃撃事件の犠牲者に深い哀悼 

Gunfire at a Fourth of July parade in Highland ParkGunfire at a Fourth of July parade in Highland Park  (Cheney Orr)

 米イリノイ州シカゴ郊外で4日朝、独立記念日のパレードの最中に銃撃事件があり、6人が死亡、8歳の子どもを含む30人以上が負傷したが、教皇フランシスコは5日、現地シカゴの大司教・クピッチ枢機卿にメッセージを送り、犠牲者たちに深い哀悼を示すとともに、銃撃行為を断罪、あらゆる暴力を否定するとともに、生命の尊重を改めて訴えられた。

2022年7月6日

☩「中国との司教任命に関する暫定合意の再々更新を希望する」教皇、通信社との会見で

Pope Francis listens to a question during his interview with Reuters Senior Correspondent Philip PullellaPope Francis listens to a question during his interview with Reuters Senior Correspondent Philip Pullella 

(2022.7.6 カトリック・あい)

*「暫定合意は”うまくいっている”」

 バチカンと中国の司教任命に関する暫定合意が今年10月に2度目の期限を迎えるが、5日までに明らかになった国際通信社ロイターとのインタビューで、教皇フランシスコは、暫定合意が「うまくいっている」とし、「10月に再々更新できることを希望している」と述べた。

 暫定合意は2018年9月末になされ、これにより、事実上、バチカンと中国政府・共産党両者の判断で中国国内における司教任命がされることとされ、中国で教皇の任命を受けないまま政府・党の判断でポストについていた”司教”を教皇が追認した。

*党の指導・監督下に入らない教会や司教、司祭、信徒への弾圧への批判は避ける

 ただし、この暫定合意の内容そのものは、4年を経た今も、明らかにされていない。中国国内では、暫定合意後、むしろ政府・党による「中国化」の名の下に、カトリック教会を含む宗教団体への締め付けが強化され、政府・党への服従を拒否する司教、司祭、信徒への弾圧は激しさを増しており、当初、2年を期限としていた再々更新に異議を唱える声も、カトリック教会内外に出ている。

 だが、ロイターとのインタビューで、教皇は、この暫定合意を擁護し、「この暫定合意を担当しているのはパロリン国務長官。バチカンで最高位の外交官であり、どう対応すべきかを知っており、中国当局と対話をしている。(再々更新に向けた対話は)前進し、出口を探すためにあらゆる努力をした、と私は信じています。そして、彼らは(再々更新のための出口を)見つけたのです」と説明された。

(以下はVatican News )

*「閉ざされた状況に直面したとき、理想ではなく、可能な道を探さねばならない」

 教皇は、このインタビューで、冷戦時代にバチカンと東欧諸国の”東方外交”の立役者だった当時の国務長官、カサローリ枢機卿が述べた「martyrdom of patience(忍耐の受難)」、少しづつ前に進むという政策を擁護。

 「多くの人が、ヨハネ23世、パウロ6世、カサローリに対して、いろいろなことを言いましたが、外交とはそのようなものです。閉ざされた状況に直面したとき、人は理想ではなく、可能な道を探さなければならない。外交とは可能性の芸術であり、可能なことを現実にすることなのです」 とし、「バチカンにはいつも、このような偉大な人物がいましたが、(対中外交は)偉大なパロリン氏が進めているのです」と述べた。

 

2022年7月6日

☩教皇「ウクライナ和平交渉へ―ロシア、ウクライナ両国訪問実現の努力続ける」ーロイターとの会見で

Pope Francis speaks with Reuters Senior Correspondent Philip PullellaPope Francis speaks with Reuters Senior Correspondent Philip Pullella 

 そして、「私は問いますーある問題を解決するために、人間の命を奪うことが、許されるのか、正しいのか」と問いかけられ、「道徳的に問われるのは、問題を解決するために人の命を奪うのが正しいかどうか、問題を解決するために”殺し屋”を雇うのが正しいかどうかです」と指摘された。

*中絶権利擁護派のペロシ米下院議長の聖体拝領問題

 教皇はまた、米国議会のナンシー・ペロシ米下院議長が家族と休暇でローマに滞在中、バチカンでの聖ペテロとパウロの祭日ミサに参列し、中絶権利擁護派であるにもかかわらず聖体拝領を受け、カトリック関係者から問題にされていることについても、質問を受けた。教皇はこのミサで説教はなさったが、膝の不具合で長時間立っていられないことから、ペロシ議長が教皇から直接、聖体を受けることはなかった。ただ、ペロシ議長が所属するサンフランシスコ教区のコルデレオーネ大司教は中絶の権利を支持する彼女日して聖体拝領を禁ずる決定をしていたため、バチカンでのミサでの聖体拝領を疑問視する声も出ている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.

 

2022年7月5日

☩「時計の針を70年までに戻すな!」教皇、ウクライナ和平を改めて訴え

Rescue teams work to save residents at a bombed building in KyivRescue teams work to save residents at a bombed building in Kyiv  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年7月4日

☩「私たちは、兄弟姉妹愛の証しを通してイエスを宣べ伝える」年間第14主日・正午の祈りで

(2022.7.3 Vatican News  Devin Watkins)

     教皇フランシスコは3日、年間第14主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(10章1‐12節、17-22節)をもとに、世界の信徒たちに、「互いに対する敬意と兄弟姉妹愛を通して、イエスを証しするように」と促された。

 このルカ福音書の箇所の冒頭で、イエスが神の王国を宣言するために、72人の弟子を「1人ずつ」ではなく「2人づつ」送り出されたことについて、教皇はまず、 常識的な考えれば、「2人づつ派遣するのは、利点よりも欠点の方が多いように思われるでしょう。 弟子を2人づつ組ませれば、足並みがそろわないか、歩みの速さもちがうかもしれません」とされたうえで、「だが、イエスはそのようには考えておられないのです」とし、理由を説明された。

*互に敬意を払い、キリストを宣言する

 教皇は、弟子たちがなすべきことは「人々がイエスを受け入れる環境を整えるために、村に行くこと」だが、 イエスは、彼らに”2人づつで行く”ことの理由を説明なさらず、「弟子たちがどうすべきかー言葉を語る以上に証しすること、をもっぱら語られます」とされ、「イエスは、弟子たちを働き手として位置づけられる。ですから、彼らは行動を通して福音宣教のために働く必要があり、彼らがイエスから与えられたその使命を果たすために最初にすべき行いは、二人ずつ出かけることなのです」と説かれた。

 そして、「弟子たちは,互いに説教を任せ合う”ただ乗り客”ではありません。福音を宣言することが、弟子たちの第一の使命ー共にいて、互いに敬意を払い、自分たちが他の人々よりも能力があることを証明しようとは望まず、唯一の”主”に一致して帰依すること、です」と語られた。

*最良の用意された計画

 たくさんの完璧な司牧の計画を作り、大勢の群衆を集めることは可能だが、「友愛への強い思いがなければ、イエスから委ねられた使命を進めることはできない」とされた教皇は、同僚と、あるアフリカの国に行った宣教師のことを思い起こされ、こう語られた。

 「現地に着いたその 宣教師は同僚と別れ、一連の建築事業全体を実施しました。だが、 しばらくして、彼は自分が”優れた起業家”になってしまった気づき、その事業を他の人に任せることに決めたところに、同僚と出くわし、イエスが弟子たちを二人一組で遣わされた理由を理解しました。福音宣教の使命は、”個人行動主義”、つまり『何かをすること』ではなく、『兄弟姉妹愛の証しすること』に基礎を置いています。たとえ共に行動することに伴う難しさがあってもです」。

*兄弟姉妹愛をもって、道を整える

 説教の最後に教皇は、「『自分は、どのようにイエスを宣べ伝えしたらいいか』について、熟考するように」と全ての信徒に促され、「私たちは、兄弟姉妹愛の精神と行動様式をもって、イエスを宣べ伝えますか、それとも、世俗的な仕方で、自己宣伝、対抗意識、効率重視でそうしますか?」 と問いかけられた。

 そして、すべてのキリストの弟子が「兄弟姉妹愛の証しをもって、主のために道を整える」のを、乙女マリアが助けてくださいますように、と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年7月3日

☩教皇「自衛の権利はある。だが、『正戦論」は再考の必要」(Crux)

 

(2022.7.1 Crux Rome Bureau Chief Ines San Maritin)

ローマ– 4世紀に、聖アウグスティヌスはキリスト教の「正戦論」の最初の強力な支持者になったー戦争がさらに悪い状況を招くのを防ぐために、場合によっては道徳的に正当化されるーというものだ。だが、教皇フランシスコによれば、その概念を再考する時が来ている、という。

 教皇は、1日に公開されたアルゼンチンの通信社Telamとの90分間のインタビューで、次のように語られた。

 「私は、『正戦』の概念を再考する時が来たと信じています。ある戦争は正しいかも知れない。自分自身を守る権利はある。しかし、その概念の現在の使われ方を考え直す必要があります」とし、「戦争はただのことかもしれません。 自分を守る権利があります。 しかし、私たちはその概念が今日使われている方法を再考する必要があります。 私はこれまでも言ってきました。核兵器の使用と所有は不道徳だ、と。 戦争を通じて紛争を解決することは、言葉による論法、建設的であることを否定することです」と言明した。

   教皇はさらに、「あなたが、何人かの人と話をする、としましょう。あなたが話し終わる前に、他の人が話し出して邪魔をします。どうしたら互いに耳を傾けられるのか、分からないのです。他の人が話している時に、終わるまで聴き、耳を傾けねばなりません。他の人が言おうとしていることを受け取りましょう。戦争を始める場合、通常は宣戦を布告します。つまり、対話を打ち切る。戦争は、本質的に”対話”の欠如です」と述べた。

 また、ウクライナにおける軍事紛争は、第三次世界大戦に極めて近い状況になっている、と警告する一方で、25年前のルワンダでの紛争、シリアでの過去10年間の戦争、レバノンとミャンマーでの紛争を取り上げ、世界各地で”分散化した第三次世界大戦”が起きている、との持論を強調。「悲しいことですが、戦争は残酷です。戦争は宮廷円舞曲を踊ることではありません。それは殺害です。そして、それを起こす武器取引の世界的な構造が存在します」とし、「世界が兵器の生産を止めれば、1年間、世界の飢餓を止めることができます。それを裏付ける統計があります」と語られた。

 教皇また2014年にイタリアのレディプグリアにある第一次世界大戦記念碑に訪問したことを思い起こして「私は死者の年齢を知って泣きました」、さらにアンツィオ戦争墓地に行った時、「埋葬された男の子の年齢を見て泣いた、とし、 「私はそのことを言うのは、恥ずかしいと思いません」と述べた。 「そして、ノルマンディー上陸作戦を記念した海岸で、命を落とした3万人の少年のことを考えました。連合軍の部隊は、ナチスが待ちかまえている海岸を攻撃するよう命じられました。それは正当化されますか?ヨーロッパの戦死者の墓地を訪れることは、あなたの目を開かせるのに役立ちます」と言われた。

 第二次大戦の反省の下の作られた国際連合の機能について、 「批判することで誰かを怒らせるのは私の本意ではない。国連に非常に優秀な人々が働いていることは知っています。だが、現時点では、国連には戦争を防ぐのに役立つ権限を行使する力がありません」とされ、「現在、危機に瀕している、あるいは対立している”著名な国際機関”がいくつかある。危機は進歩につながる可能性があるが、”勇気と創造性”をもって、進行中の「死の状況」を克服できる国際機関はありません」と述べた。

*教皇としての10年は

 インタビューでフランシスコは、教皇就任からの10年についても振り返り、こう語られた。

 「私がしたことは何も独創的なものはなかった。2013年初頭に教皇ベネディクト16世が辞任された後、ローマで開催された教皇選挙の前の会議で、新教皇に要求される進路は設定されていました。成果は、私の独創でも、消化不良の夜の後に私がみた夢でもなかった。私を含めた枢機卿団が教皇選挙前の会議で述べたこと、新教皇がすべきだと信じていたことを、私はすべて拾い上げたのです」

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年7月2日

☩「”侵略戦争”は、キリスト教徒として容認できない」教皇、ギリシャ正教使節に、”ロシアによるウクライナ侵略”念頭に(Crux)

(2022.7.1 Crux  Senior Correspondent  Elise Ann Allen

 

ローマ発– 教皇フランシスコが6月30日、前日のローマの保護者「使徒聖ペトロ・聖パウロ」の祝祭参加のためにバチカンを訪問していたギリシャ正教会のエキュメニカル総主教庁使節と会見され、具体的な名指しは避けながら、ロシアのウクライナ軍事侵略を強く非難、キリスト教徒として容認できない「侵略戦争」だと言明された。

 そして、「私たちの世界は、 多くのキリスト教徒が互いに争っている。多くの人が愛する人を失い、家と国を捨てることを余儀なくされている」と嘆かれ、ロシア正教会のキリル1世大主教がプーチンのウクライナ侵略を擁護していることを念頭に、「武力による他国の征服、膨張主義、帝国主義は、『神の王国』とは何の関係もない」ことを認識し、回心する必要がある、と語られた。

 さらに、イエスが、ゲッセマネの園で彼を捉えに来た群衆に剣で応じた弟子を制止され、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と警告されたことを取り上げ、「このような弟子の態度は復活された主とは相容れないもの」と語られたうえで、「キリスト教一致の追求は、すべてのキリスト教徒に、『このような恐ろしい敵意と争いの勃発の後に、どのような世界を目にしたいのか』『”友愛に満ちた人間性を手に入れるために、どのような貢献を求められているのか』と自問するように強調。

 この問いへの答えは、「福音からもたらされます」とされ、イエスは私たちに、「慈悲深く、決して暴力を振るわず、父が完全であるように完全な者であれ、世に従わない者であれ」と呼びかけておられる、と説かれた。そして、すべてのキリスト教徒に「福音の爆発的な新しさをこの世の誘惑で覆ってしまう働きに屈しないように」と促すとともに、「神を、私たち自身の考え、私たち自身の国に変えてしまわないに」と警告された。

 そして、「神から、新たな歩みを始めましょう。権力と便宜の世界標準に従って教会の課題を順序立てる時代では、もはやありません。福音の大胆な平和の預言的メッセージに従うべきです」とされ、ウクライナやロシアの具体的国名やこの戦争の責任者とご自身が考えている人物の名を挙げるのを控えつつ、侵略行為としてこの戦争を批判、拡張主義の考え方をキリストの福音に相反するものと弾劾したことで、この侵略戦争を正当化するプーチン大統領とキリル大主教に対する、これまでの教皇の発言の中で、最も厳しいものとなった。

 このような発言の背景には、ロシアのウクライナ侵略が長期化する中で、「紛争には、はっきりとした”善玉”も”悪玉”もいない」あるいは、「NATO(北大西洋条約機構)の拡大路線が、今回の侵略の一因となった」との見方を示唆するような、最近の教皇のカトリック有力誌とのインタビューでの発言が、ウクライナの教会関係者の反発を買い、教皇のウクライナ訪問の望まないような発言も高位聖職者から出ていることがあるようだ。

  ただし、ギリシャ正教会のコンスタンティノープル総主教区は伝統的にモスクワ総主教区と対立の関係にあり、30日の会見での教皇のこのような発言が、教皇のロシアによるウクライナ軍事侵略に対する考えを軌道修正したものなのか、コンスタンティノープル総主教区のモスクワに対する立場を意識したものなのか、は不明だ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年7月2日

☩「パウロが指摘した『闘い』は歴史の中でまだ続いている」聖ペトロ・聖パウロの祭日ミサで

(2022.6.29 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦は29日、教会の柱であり、ローマの保護者である二人の使徒、「聖ペトロと聖パウロ」の祭日。同日午前、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、この両聖人の祭日のミサを奉げられた。

 ミサは、枢機卿会主席ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿によって司式され、教皇が説教をなさった。

 説教で教皇は、第一朗読「使徒言行録」(12章1-11節)中の、ヘロデによって牢に繋がれたペトロに、天使が言った「急いで起き上がりなさい」(7節)という言葉、そして、第二朗読「テモテへの手紙2」(4章6-8節、17-18節)中の、パウロが自身の人生と使徒職を振り返る「闘いを立派に闘い抜いた」(7節)という言葉から、今日の教会へのメッセージを読み取られた。

 (使徒言行録には、ペトロが鎖で繋がれていた牢から天使に連れ出される場面が書かれている。主の天使は眠っていたペトロの脇腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。)

 教皇は、この場面に「復活」の意味を見出し、「天使はペトロを死の眠りから覚まし、起き上がるように、すなわち、復活し、主に導かれ、すべての閉じた門を越えて、光の方へと出ていくように、と促したのです」と語られた。

 そして、「私たちもまた、主の弟子として、キリスト教共同体として、急いで起き上がり、復活の力の中に入り、主に導かれ、主が示される道を行くよう招かれています」と説かれた。

 (また、第二朗読「テモテへの手紙2」の中で、人生を走り続け、数知れない試練、迫害、苦しみを乗り越え、自己をあまねくキリストの福音のために捧げてきたパウロは、「闘いを立派に闘い抜いた」と、自身を振り返っている。)

 教皇は「今、パウロは人生の終わりにあたって、歴史の中にまだ大きな「闘い」が続いているのを見ています。それは、まだ多くの人が自分の利害や安楽さのために、イエスを受け入れていないからです」と指摘。「パウロは、自分が人生を走り終えつつある時、テモテやキリスト教共同体の兄弟たちに、この福音宣教の使命を受け継ぐように、と促しています」とされた。

 さらに、「パウロのこの言葉は、私たちにとっても『人生の言葉』。この言葉は、私たち一人ひとりに、教会の中で弟子、宣教者としてそれぞれ貢献する使命を改めて思い起こさせます」と強調された。

 そして、「自分は、教会のために何ができるだろうか」、「より人間的で、正義と連帯にあふれ、神と兄弟に開かれた世界のために、教会として、共に何ができるだろうか」と自らに問いかけるよう、信徒たちに求め、「この世のパン種となり、いたわりの文化を推進し、弱い立場の人々に寄り添い、あらゆる形の腐敗と戦い、人々の生活に福音の喜びを輝かせること、それが私たちの闘いなのです」と説かれた。

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 なお、ミサの中で、教皇は、この一年間に任命された世界の首都大司教たち44名に託す「パリウム」を祝別された。パリウムは聖アグネスの日に祝別された子羊の毛で織った白く細長い肩掛けで、六箇所に十字が刺繍されている。これを祭服の上から肩にかけることは、迷子の羊を背負う「善き牧者」を象徴する。

 また、教皇はミサに参列した正教会のエキュメニカル総主教庁の使節に挨拶をおくられた。バチカンとエキュメニカル総主教庁は、それぞれの保護者、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日と聖アンデレの祭日に使節を交換している。

(編集「かとりっく・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年6月30日

☩「信仰の歩みは”散歩”ではない、時としてとても辛い歩みとなる」聖ペトロ、聖パウロ使徒の祭日・正午の祈りで

Pope Francis greets faithful at Angelus addressPope Francis greets faithful at Angelus address  (Vatican Media)

 聖ペテロ、聖パウロの祭日の29日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、使徒たちの信仰の闘いと不完全さを振り返り、「イエスに近づこうと悪戦苦闘する私たちも、このローマの守護聖人二人に共感することができます」と語られた。

 以下、「バチカン放送」による教皇の説教の概要。

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 使徒聖ペトロと聖パウロの祭日のミサの福音は、イエスの問いに対するペトロの答えを伝えています。「あなたはメシア、生ける神の子です」 (マタイ福音書16章16節)。

 これは聖ペトロの、人間的な理解からではなく、父なる神ご自身から受けたインスピレーションによる、一つの信仰告白です( 同17節参照)。

 ペトロと呼ばれる、漁師シモンの信仰の歩みの始まりです。この言葉が完全に成熟するには、様々な経験を経た長い時間がまだ必要でした。使徒聖ペトロと聖パウロにも、私たち一人ひとりと同様に、信仰の修練期がありました。私たちも皆、イエスをキリスト、救い主、生ける神の子だと信じます。しかし、完全に福音に沿った生き方ができるようになるには、長い時間と、多くの忍耐、そして謙遜が必要なのです。

 使徒聖ペトロは、このことをすぐに自身で経験します。ペトロがイエスに信仰告白した直後に、イエスがご自身の受難と死を予告すると、ペトロは、それはメシアの在り方と相容れないと拒否します。師であるイエスに、「そんなことがあってはなりません」と叱責すらします。このようなペトロに、イエスは強い口調で「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人間のことを思っている」(同23節)と言われます。

 こうしたことは、私たちにも起きないでしょうか。私たちは信仰宣言を繰り返します。そうするのは信仰心からです。しかし、生活で辛い試練に出会うと、すべてが崩れ去るように思われ、「こんなはずではなかった。もっと平坦で楽な道もあったのではないか」と主に文句を言いかねません。

 信じる者の心の葛藤を、私たちも生きています。イエスを信じ、イエスに信頼します。だが、同時に師イエスに従うことを困難と感じ、それとは異なる道を探したくなります。聖ペトロも、この内的ドラマを体験しました。ペトロの信仰も時間と成熟を要しました。彼は、最初、主の十字架の思いを恐れました。しかし、生涯の最後には、十字架にかかり、殉教することで、主イエスを証ししたのです。

 多くの疑問や迷いを経験しながら、聖パウロも時間をかけて信仰の成熟に到りました。彼は復活されたキリストにダマスコ途上で出会い、迫害者からキリスト教徒となりました。これも、使徒自身が「身のとげ」と呼ぶ、多くの困難や失敗、絶え間ない苦しみを通して歩まねばならなかった、その信仰の歩みの始まりだったのです (コリントの信徒への手紙2・12章7節参照)。

 信仰の歩みは、決して散歩のようなものではありません。それは骨の折れる、時にはとても、つらい歩みでもあります。キリスト者となった聖パウロも、多くの試練を通して、徐々に完全なキリスト者とならねばなりませんでした。

 自問しましょう。「イエス・キリストを神の子として信仰宣言する時、いつも、まだたくさん学ぶことがある」と自覚しているだろうか、それとも、「もうすべて分かっている」と自負しているだろうか。困難や試練の中で、気を落としたり、嘆いたりしていないか、それとも、それを主への信頼を強める機会としているか。

 聖パウロは、その弟子テモテに「主は私をあらゆる悪から助け出し、天の御国へと救い入れてくださる」(テモテへの手紙2・4章18節)と書いています。

 使徒の女王、聖母マリアよ、信仰の歩みにおいて日ごと成長しながら、使徒たちに倣うことをお教えください。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年6月29日

☩「典礼に関する論争を克服し、その素晴らしさを再発見しよう」教皇がミサ典礼で新使徒的書簡を発出

File photo of Pope Francis presiding at Holy MassFile photo of Pope Francis presiding at Holy Mass  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは28日、ミサ典礼に関する使徒的書簡「Desideriodesideravi」を発出され、カトリック教徒たちに対して、外見だけの形式やうわべの感情に走る、”耽美主義”の典礼の傾きを克服するよう求め、「福音を伝えないミサ典礼は、本物ではありません」と強調された。

 使徒的書簡の狙いは、ミサ典礼の深い意味を思い起こし、典礼の形成を奨励すること。2019年2月の典礼秘跡省の全体会議の結果を詳しく説明し、自発教令「Traditionis custodes」に続くものだ。

 使徒的書簡は、第二バチカン公会議を受けた典礼改革から生まれた儀式を軸にした聖体祭儀の重要性を再確認。具体的な規範を含む新規の訓令あるいは指示ではなく、典礼祭儀の素晴らしさと福音宣教における役割を理解する瞑想の機会となることを目指している。

 書簡の終わりを、教皇は、「聖霊が教会の語っていることを共に聴くために、論争を捨てよう。私たちの聖体祭儀を守ろう。典礼の素晴らしさに感動し続けよう」(65項)と締めくくっておられる。

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*キリストとの出会い

 教皇は「キリスト教の信仰は、生きているイエスとの出会いか、そうでないかのどちらかです」とされ、 「典礼は私たちに、イエスとの出会いの可能性を保証します。 私たちにとって、最後の晩餐の漠然とした”記憶”は役に立ちません。 その夕食に、実際に立ち会う必要があるのです」 と強調。典礼の神学的理解の再発見につながった第二バチカン公会議の「典礼憲章」の重要性を思い起こされ、「 その価値についての表面的で短縮された理解によって、あるいはさらに悪いことに、それがどんな色合いであろうと、何らかのイデオロギー的ビジョンの奉仕に利用されることによって、台無しにされます」(16項)と書いておられる。

 さらに、”霊的世俗”と、それを煽るグノーシス主義と新ペラギウス主義に対して警告された後、教皇は次のように説かれているー「 ミサ典礼で犠牲を捧げることに参加することは、私たち自身の成果ではありません。神の前で、私たちの兄弟姉妹の前で誇るようなものではありません… 典礼は、禁欲的な道徳主義とは何の関係もない。従順さをもって受け入れ、私たちの人生を新しくする『主の過ぎ越しの神秘』の賜物なのです。私たちと共に過ぎ越しの食事をとりたい、という主の熱意に惹かれた力を通さない限り、キリストが最後の晩餐をされた高間には入れません」(20項)。

 また、私たちが霊的な世俗から癒されるために、典礼の素晴らしさを再発見する必要があるが、この再発見は「典礼の外側を慎重に守ることで、あるいは典礼執行既定を厳格に守ることによって満足させられる”典礼祭儀の美学”の探求ではない。私がここではっきりと言明しているのは、単純・実直さと、軽率な陳腐さを混同したり、無知な軽薄さ、あるいは苛立たしい実践的機能主義を典礼の挙行の堅固さと混同するような態度には、どのような形であろうと賛同することを望まない、ということです」(22項)と言明されている。

 さらに教皇は、「典礼祭儀のあらゆる側面(空間、時間、身振り、言葉、物、祭服、歌、音楽など)に深く注意を払わねばならず、すべての典礼法規を守らねばならない」と述べ、そのような注意は、集会から、それが負っているものが奪われないようするのに十分だろう。つまり、教会が定めた規定に従った祝われた過ぎ越しの神秘。しかし、祭儀の質と適切な祝われ方が保証されたとしても、それだけでは私たちの参加を完全なものとするには、十分ではない」とされた。

 実際に、「聖体祭儀のしるしの具体性の中に過ぎ越しの神秘が存在するという事実への大きな驚きが、私たちに、すべての祭儀に溢れる恵みの海をものともしなくなる危険を本当に冒させることになる」(24)。

   この大きな驚きは、教皇が明らかにしているように、「典礼改革に対する主たる告発とみなされるものの中に時としてある、神秘を理解する力の漠然とした表現とは関係がない」。教皇が語られる大きな驚きは、「はっきりとしない現実や謎めいた祭儀を前にした一種の当惑」ではなく、「『神の救いの計画が、イエスの過ぎ越しの行為の中に明らかにされた』という事実への驚嘆」(25項)なのだ。

 

*典礼を最大限に生かす

 それでは、どのようにすれば、私たちは、典礼の活動を十分に実践することができるのだろうか?超近代、個人主義、主観主義、そして抽象的な心霊主義に当惑する中で、教皇は私たちに、相互に関連性を持つ第二バチカン公会議の諸憲章に戻るよう促され、次のようにこの書簡で書いておられる。

 「典礼祭儀に関して不幸にして存在する緊張を、特定の儀式の形に関するさまざまな嗜好の単純な相違と解釈するのは、たいしたことではない。問題は主として、教会論的なところにある」(31項)。

 儀式をめぐる戦いの背後には、一言で言えば、教会についての異なる受け止め方がある。教皇は、「人が第二バチカン公会議の正当性を認識していると述べながら、典礼憲章から生まれた典礼改革を受け入れない、と言うことが、どうして可能なのか、私には分からない」とされ、神学者のロマーノ・グアルディーニの言葉を引用して、「典礼の改革がされなければ、儀式と典礼文の改革もあまり役に立たない」(34項)と言明されている。

 また教皇は、何よりも、神学校における形成の重要性を指摘され、「神学校の神学的形成における研究の典礼と知恵の計画は。確かに司牧的活動にプラス効果をもたらすでしょう。 典礼における頂点と源泉を見つけることのない教会生活の側面はない。入念なプログラムの結果である以上に、包括的で有機的で統合された司牧的実践は、聖体祭儀の基礎である主日のミサ聖祭を教会共同体の生活の中心に置いた結果です。 典礼の神学的理解は、これらの言葉がすべてを崇拝の面に還元することを意味すると理解されることを決して認めない。福音宣教をしない典礼祭儀は、祭儀の中で復活された主と出会うことのない信仰宣言と同じように、本物ではありません。 そして、慈善の証明を欠いたこれら二つは、騒々しい音を立てる銅鑼やシンバルのようなものです」(37)。

 さらに教皇は、現代人にとってますます困難になっている”シンボル”についての理解を深める教育する必要性を強調しておられる。そのための1つの方法は、”祝祭のアート”をたいせつにすること。これは、「典礼既定の仕組みだけに還元されるものではなく、『ルールを欠いた想像力に富んだ、時にはワイルドな創造性』と考えるべきでもない。典礼祭儀はそれ自体が規範だ。規範自体がなくなることは決してないが、聖体祭儀が守る、より高い現実に常に役立つものだ」 (48項)。

 そして、”祝祭のアート”は「人前で話すことや、意思疎通の説得力のあるテクニックについてのコースを頻繁に受講することで、学ぶことはできない。求められるのは、祝祭への献身に精励し、祝祭そのもので私たちに”アート”を伝えるようにすることです」(52 項)。

 また、「集会全体に属する典礼祭儀において、沈黙は絶対的に重要な場を占めます」。それは「罪を犯したことへの後悔と回心への強い願いに移っていきます。御言葉を聴く準備に目覚めさせ、祈りに目覚めさせます。そして私たちに、キリストの体と血を崇敬する気を起こさせるのです」(52項)。

への悲しみと回心への欲求に移ります。それはみことばを聞く準備を目覚めさせ、祈りを目覚めさせます。それは私たちを崇拝する気にさせます。キリストの体と血」(52)。

 

*司式司祭ではなく、キリストを中心に置く典礼

 さらに教皇は、キリスト教共同体において、祝祭のやり方は、「良かれ悪しかれ、司祭が集まりにおいて主宰し、不十分な執行の”モデル”をいくつか列挙する、そのやり方によって条件づけられます… 対照的な特徴ー堅固な厳格さと人を苛立たせるような創造性、霊的な神秘主義と実践的な機能主義、せっかちな熱心さと行き過ぎた遅さ、杜撰な不用意と過度の気まぐれ、有り余るほどの友好さと聖職者的な無感覚ーがあるにもかかわらず、です」と述べ、「すべてのモデルには単一のルーツがあり、それは、祝祭のスタイルが持つ、高められた人格主義であり、時として、注目の中心となるための、不十分に封じ込まれた熱狂の表明」(54 項)となり、祝祭がオンラインで広められる時、さらに増幅される。

 にもかかわらず、「聖体祭儀を主宰することは、神の愛の炉に飛び込ませること。この現実を理解することに、あるいは単にそれを直感的に理解することに没頭するとき、適切な行動を課すような礼拝規則はもはや必要なくなる」(57項)。

 書簡の最後に、教皇は、世界のすべての司教、司祭、助祭、神学校の養成担当者、神学部と神学学校の指導教官、そして教理を教える人々に対して、「神の聖なる民が、キリスト教徒の霊性の最初の源泉を利用できるように助けるように」、そしてご自分が昨年7月に出された自発教令“Traditionis custodes” で示した内容を再確認することで、「多くの言語の多様性の中で、教会が、一致を表明できる一つの、同じ祈りを高く上げることができるように、と願われた。

 そしてこの一つの祈りがローマ・ラテン典礼、第二バチカン公会議による典礼改革の結果生まれ、パウロ6世とヨハネ・パウロ2世の2人の聖人教皇によって確立されたものであることを強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月29日