☩「言語道断の残忍な行為を繰り返すな」ー教皇、27日の「ホロコースト想起国際デー」に

ポーランド南部・アウシュビッツ強制収容所跡で祈る教皇フランシスコ 2016年7月ポーランド南部・アウシュビッツ強制収容所跡で祈られる教皇フランシスコ (2016年7月 )

 教皇フランシスコは26日の水曜恒例の一般謁見で、翌27日の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に向けて、「こうした言語道断の残忍な行為が、決して繰り返されないように」と祈られた。

  教皇は、ユダヤ人や様々な国籍・宗教の人々、何百万人をも犠牲にしたこの虐殺を記憶に留める必要を強調。「言語道断の残忍な行為が繰りかえされるようなことは、決してあってはなりません」と語られた。

 特に教育関係者や各家庭に対して、「歴史に記されたこの暗いページの恐ろしさに対する認識を、若い世代に促していただきたい」と願われ。「人間の尊厳が蹂躙されることのない未来を築くために、この悲劇を忘れてはなりません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月28日

☩「世界の指導者たちはウクライナ危機回避に全力を」ー教皇、26日「平和のための祈りの日」に

(2022.1.26 Vatican News staff writer)

 ウクライナでは、ロシア軍部隊がウクライナ東部の分離主義者を支援する形で侵攻を始めた2014年以来、すでに約1万4000人に上る死者を出しているが、現在は、プーチン大統領の”否定発言”とは裏腹に、ロシア軍が10万人規模でウクライナとの国境沿いに部隊を集結し、全面的な軍事侵攻の姿勢を見せている。

 これに対して、米国は、ロシアとの外交交渉を続ける一方で、ロシア側の出方次第で、欧州各国とともに、武力によるロシア軍の侵攻阻止の用意に着手。バイデン大統領が8500人の米軍部隊の派遣を発表している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年1月26日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑨「神の声を聴き分けられる”夢見る人”」

(2022.1.26 Vatican News  Christopher Wells )

 教皇フランシスコは26日、水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、「夢見る人」としてのヨセフ、神の声を聴き分け、それに基づいて行動する術を知っているヨセフについて語られた。

 教皇はこの日の講話で、聖ヨセフの「夢」に焦点を当て、イエスの養父であるヨセフの模範的な行為が、私たちが神の声を聴き分けるために、いかに役立っているかを説かれ、「聖書の中で、夢は、神がご自身を啓示される手段と考えられていました。そして、夢は、『私たち一人一人の霊的生活』『神がご自身を明らかにされ、語り掛けられる、私たち一人一人が育て、守るよう呼ばれている内なる空間』を象徴しています」と指摘。

 同時に教皇は「私たちの内にある”他の声”を警戒するように」と言われた。その声は、「私たち自身の恐怖、経験、希望の声、私たちをだまし、混乱させようとする邪悪な者の声」である、とされ、「それ故、私たちにとって必要なのは、様々な声の中から、神の声を認識できるような識別力を養うことなのです」と強調された。

   以下、バチカン放送(日本語課)による講話の前文(編集「カトリック・あい」)

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 今日は、「夢見る人」としての聖ヨセフを考察したいと思います。

 聖書に見られる、古代の人々の文化において、夢は神がご自身を啓示するための手段と考えられていました。

 夢は、私たちの霊的生活、内的世界を象徴するものであり、しばしば神は啓示をされたり、私たちに語りかけられたりされます。しかし、私たちの心には、神の声だけでなく、恐れや、希望、誘惑など、他の多くの声があり、その中で、神の声を「聴き分ける」ことが重要です。

 ヨセフは、そのために必要な沈黙を育み、主が自分の心に向ける言葉を前に、正しい選択をすることができる人でした。

 ここで、福音書に記される「ヨセフの四つの夢・啓示」を振り返り、神の啓示を前にどのような態度で臨むべきかを学ばましょう。

 ヨセフの最初の夢は、婚約していたマリアが身ごもっていることが明らかになった時のことです。このことについて思い巡らすヨセフの夢に、天使が現れ、「恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」( マタイ福音書1章18-25節参照)と言いました。これに対するヨセフの反応は速やかでした。「ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」( 同1章24節)のです。

 人生は、難解で解決もないように見える状況に私たちを立たせることもありますが、こうした時に祈ることは、主から私たちがすべきことを示していただくことを意味します。祈りは、私たちに、問題から抜け出すための直感を与えてくれるのです。神は、解決のための助けをくださらずに、私たちに問題をお与えになることはありません。

 ヨセフの二番目の夢は、幼子イエスの命が危険にさらされている時でした。そのメッセージは明らかです。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(同2,章13節)。ヨセフはためらうことなく、その言葉に従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた」( 同2章,14-15節)。

 人生では、自分や愛する人たちが危険な状況に出会うこともありますが、そのような時に祈ることは、困難に負けず、立ち向かうために、聖ヨセフと同じ勇気が私たちの心に湧き起るようにする声を聞くことを助けてくれます。

 帰国のための神からのしるしを、エジプトで待っていたヨセフは、三つ目の夢を見ました。天使が夢に現れ、幼子の命を狙っていたヘロデが死んだのでイエスとマリアを連れてイスラエルに行くように、と言った。ヨセフは「起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ入った」(同2章21節)。

 しかし、まさにその帰国の旅の途中、ヨセフは、「アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めている、と聞き、そこに行くことを恐れた」(同2章22節)。そこで、ヨセフは四つ目の夢を見ます。ヨセフは「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方へ退き、ナザレという町に行って」(参照 同2章22-23節)住みました。

 恐れもまた、人生の一部であり、そのために祈りを必要とします。神は、私たちが恐れに遭わないとは約束されませんが、恐れが私たちの選択を左右することがないように、助けてくださいます。ヨセフは恐れを感じましたが、神はその恐れを乗り越えるよう導かれました。祈りの力は、闇の中に光をもたらすのです。

 私は、人生の重みに押しつぶされて、希望することも、祈ることもできない人々を思います。これらの人々が、神との対話に心を開き、光と力と支えを、再び見出せるように、聖ヨセフの助けを願いたいと思います。

 「祈り」とは、決して抽象的な、あるいは自分の世界だけに閉じこもった行為ではありません。祈りは、常に慈愛と密接に結びついています。祈りと隣人への愛を一致させることができるときにのみ、私たちは、主のメッセージを理解することができるでしょう。

 聖ヨセフは、祈り、愛しました。それゆえに、常に人生の試練に立ち向かうために必要なものを、得ることができました。聖ヨセフに信頼し、取り次ぎを祈りましょう。

 夢を見る人、聖ヨセフよ、
霊的生活を取り戻すことを教えてください。
その内的な場所で、神はご自分を啓示し、私たちを救われます。
祈りは無駄であるとの考えを私たちから取り去ってください。
一人ひとりが神のお望みに応えられるよう助けてください。
私たちの考えが聖霊の光に照らされ、
心がその力に強められますように。
そして、私たちの恐れが神の慈しみに救われますように。
アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2022年1月26日

☩「共に歩み続けるために、進路を変える勇気を持とう」ー「キリスト教一致祈祷週間」の最終日に

教皇フランシスコ、エキュメニカルな夕べの祈りで 2022年1月25日 ローマ・聖パウロ大聖堂教皇フランシスコ、エキュメニカルな夕べの祈りで 2022年1月25日 ローマ・聖パウロ大聖堂  (ANSA)

「キリスト教一致祈祷週間」の最終日で「聖パウロの回心」の祝日でもある25日、教皇フランシスコがローマの城壁外の聖パウロ大聖堂(サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ)で、”エキュメニカルな夕べの祈り”を主宰され、諸キリスト教教会のローマにおける代表者、様々な教会に属する世界各国の学生たちが参加した。

 教皇は集いの説教で、救い主との出会いを求めベツレヘムに向かう東方三博士の歩みと、完全な一致を目指すキリスト者たちの歩みを重ねられ、「博士たちは、星を見て東の方から旅立ちました。日の光が上る東方から、さらに大きな光を求め、自分たちの知識や伝統だけに満足することなく、神を求める心に突き動かされて出発しました」と語られた。

 そして「イエスの一致への招きに応え、私たちもまた、三博士のように互いに支え合いながら歩むことを希望しています」とされ、「伝統的に様々な衣装で描かれる三人の博士は、民族の多様性だけでなく、異なる伝統を持つキリスト者たちをも象徴しています」と指摘された。

 さらに「博士たちはまずエルサレムに着きましたが、天上を求める彼らが目にしたのは、ユダヤ人の王が生まれたと聞き『不安』を抱いたヘロデ王とエルサレムの人々の地上の残酷な現実であり、空の星の輝きに対する『世の闇の暗い力』でした」とされたうえで、「私たちも、一致への歩みの間には、習慣や安穏を揺さぶる新しい出来事への不安に襲われることもあるでしょう。しかし、復活の主は、私たちをこのような不安から解放し、『恐れることはない』と励ましてくださるでしょう」と話された。

 ベツレヘムに到着した東方の三博士は、家に入り、ひれ伏して幼子を拝んだと聖書に書かれていることについて、教皇は「一緒に同じ家に入り礼拝した博士たちの姿は、ガリラヤの山で復活したイエスを前に一致した弟子たち(マタイ福音書28章17節参照)を先取りしたものであり、一致のための旅を続ける私たちにとって預言的なしるしでもあります」と強調。

 博士たちは「別の道を通って」(マタイ福音書2章12節)自分たちの国へ帰って行った、と書かれていることについては、「イエスに出会う前のサウロのように、私たちも、主が示す謙遜と兄弟愛と礼拝の道を見出すために、”自分たちの習慣や都合”という進路をを変える必要があります」と語られ、「神の御旨に従い、一致の歩みを共に続けるために、進路を変える勇気、回心の勇気を与えてくださいますように」と主に祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月26日

☩「”シノドスの歩み”を互いに耳を傾け合う大きな機会に」ー「世界広報の日」に向けて

教皇フランシスコ、キプロスとギリシャ訪問の帰国便における記者との対話で 2021年12月6日教皇フランシスコ、キプロスとギリシャ訪問の帰国便における記者との対話で 2021年12月6日 

(2022.1.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日、2022年度の「世界広報の日」(5月22日)に向けたメッセージを発表された。24日はジャーナリストの保護者、聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士を記念した日に当たる。

 今年の「広報の日」のテーマは、「心の耳で聴く」。昨年の「来て、見なさい」に続き、教皇はコミュニケーションの基本、真の対話の条件である「聴く」ことの重要さを示された。

 メッセージで教皇は、「私たちは目の前にいる人にだけでなく、日常生活や社会の様々な出来事に対して、耳を傾ける力を失いつつあります」と指摘。

 「心のケアで知られるある医師は、人は『誰かに聴いてもらいたい』という果てしない願望を持っている、と言っています。『耳を傾けてもらいたい』という人々の思いは、しばしば秘められたものですが、教師や、司牧者、広報・社会・政治関係者など、すべての人たちに向けられているのです」と強調された。

 さらに「神と人との対話は、神が人に話しかけ、人が耳を傾け答える、ということから始まりました。実際、『傾聴』は、神の謙遜なスタイルに合致するものです。神は人を愛し、言葉をかけ、その声を聞こうと耳を傾けますが、人は反対に、関係から逃れ、相手に背を向け、耳を塞ぐ傾向にあります」と語られ、「耳を傾けることへの拒絶は、しばしば他者に対する攻撃性さえ生みます」と述べられて、「使徒言行録」中の、人々が聖ステファノの説教に耳を塞ぎ、石を投げつける場面を思い起こされた。

 また教皇は、イエスが弟子たちに「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ福音書8章18節)と、深い傾聴と洞察の重要さを教えるとともに、「立派な善い心」で御言葉を聴く人たちが、人生の実りと救いを得ることができる(同8章15節)と説いている点に注目されるとともに、聖アウグスティヌスの「耳に心を持つのではなく、心に耳を持ちなさい」という言葉や、アッシジの聖フランシスコが兄弟たちに「心の耳を傾けるように」と励ましていた例を挙げられた。

 さらに、「傾聴」とは反対のものとして、ソーシャルメディアの中にしばしば見られるような、「自分の興味のために相手を探る、利用する態度」「相手を押しのけて自分ばかりが話したがる姿勢」などを指摘され、「私たちは多くの場合、対話の中で交わりがなく、自分の意見を言いたいがために、相手が話し終わるのを待っているだけになっています。こうした態度は『対話』ではなく、二人で言い合う『独り言』です」と批判。

 「人々の間で、教会の中で、多くの声を互いに聴き合うことで、私たちは識別の力を鍛え、皆の声を調和させる方向に持っていくことができるのです。司牧活動の中で一番大切なものは、『耳の使徒職』。人に耳を傾けるために、自分の時間を無償で捧げること、これこそ最初の慈愛の態度なのです」と説かれた。

 最後に教皇は、昨年10月に始まった”シノドスの歩み”が「互いに耳を傾け合うための大きな機会」となることを願われた。

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 カトリック教会の「世界広報の日」は、様々なメディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画・インターネットなど)を通して行う福音宣教について、教会全体で考え、祈ることを目的としている。毎年、聖霊降臨の直前の日曜日(2022年度は5月29日、ただし日本の教会では復活節第6主日、5月22日)に行われる。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月25日

☩教皇、ウクライナ情勢を懸念、26日を「平和のための祈りの日」とし、危機回避を祈るよう提唱

(2020.1.23  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは23日の正午の祈りの最後に、ロシアの軍事的圧力で緊迫の度を加えるウクライナ情勢に強い懸念を示されるとともに、今週の水曜、26日を「平和のための祈りの日」とすることを、世界に向けて提唱された。

 教皇は、現在のウクライナを巡る情勢について「ウクライナの平和と欧州大陸の安全の機会を覆す恐れのある緊張が高まっている」とされ、「主は私たち皆を兄弟姉妹としてお作りになりました。他者を犠牲にして自己の目的を追求しようとする人々は、人間としての使命をないがしろにしている」と糾弾。

 26日を「平和のための祈りの日」とし、「すべての政治的行動とイニシアチブが、党派の利益ではなく、人間の兄弟愛に役立つように、善意のすべての人々に心から全能の神に祈りを捧げることを願います」と訴えられた。また、危機回避のために、対話と交渉を優先するように関係国の指導者たちに強く求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月24日

☩「ナザレの会堂に人々のように、私たちもイエスを見つめよう」ー教皇の「神のことばの主日」ミサ説教

(2022.1.23 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは23日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の言葉の主日」のミサを奉げられ、ミサ中の説教で次のように語られた。バチカン広報発表の全文は以下の通り。

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*旧約のネヘミヤ記とルカ福音書の朗読箇所の中心に御言葉がある

 今日のミサの第一朗読(旧約聖書ネヘミヤ記8章2-4a節、5-6節、8-10節)と福音朗読(ルカ福音書1章1‐4節、4章14‐21節)には、2つの並行した動作があります。

 祭司エズラは神の律法の本を高く上げ、開き、すべての人々の前でそれを宣言します。ナザレの会堂にいるイエスも、聖典の巻物を開き、すべての人の前で預言者イザヤからの一節を読みます。これは、私たちに基本的な現実を伝える2つの場面です。神の聖なる人々の生活の中心で、そして私たちの信仰の旅の中心で、私たちの言葉で。その中心にあるのは神の御言葉です。

 それはすべて、神が私たちに向けられた御言葉から始まりました。キリストにおいて、永遠の言葉である父は「天地創造の前に、私たちをお選びになった」(エフェソの信徒への手紙1章4節)。主の言葉で宇宙は創造されましたー「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った」(詩編33章9節)。

 古代から、主は預言者を通して私たちに話しかけてきました(ヘブライ人への手紙1章1節参照)。最後に、時が満ちると(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、私たちにご自身の言葉ー独り子ーを送ってくださいました。

 そして、イエスはイザヤ書を読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章21節)という前代未聞の宣言をなさいました。現実となりました。神の言葉はもはや約束ではありません。現実のものとなったのです。イエスにおいて、言葉は肉体となり、聖霊の働きによって、私たちの間に来られ、私たちの期待を満たし、私たちの傷を癒すために、私たちの中に住みたいと願われています。

 兄弟姉妹の皆さん。ナザレの会堂の人々のように、私たちもイエスをじっと見つめましょう(ルカ福音書4章20節参照)ー会堂にいた人々はイエスを見つめました。イエスは彼らナザレの民の一人でした。彼らはイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚きました。そして私たちも、イエスの言葉を歓迎します。

*御言葉は、私たちに神を啓示する

 互いに関連している二つの側面について黙想しましょう。御言葉は私たちの中心にあり、神を明らかにし、私たちを導きます。

 まず第一に、御言葉は神を啓示します。イエスは福音宣教の初めに、預言者イザヤの書の特定の箇所を朗読され、聖書の言葉が実現したことを宣言されます。イエスは、貧しい人に福音を告げ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にするために、地上に来られました(ルカ福音書4章18節参照)。このように聖書を通して、イエスは、私たちの運命を心に留めておられる方としての神の顔を、啓示にしてくださるのです。

 主は”天国に腰掛けた主人”ではありません。そうではありません。私たちの足跡をたどる父です。冷たく、超然とした、冷静な観察者ではないし、”数学的”な神でもありません。私たちの人生に情熱を傾け、涙を流しているところまで関わってくださるのは、私たちと共におられる神です。私たちの周りで起きることに中立だったり、無関心だったりせず、私たちを守り、助言し、私たちの側に立ち、関わり、私たちの痛みを受け入れる、愛情深い存在。常に側におられます。

*私たちのそばにおられる神

 これが、イエスがすべての人の前で宣言された「福音」(14章8節)なのです。神は近くにいて、私、あなた、そして、すべての人の世話をしたい、と望んでおられます。これが神の特徴です。親密さです。神はご自身をこのように定義していますー主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいる。このような神を持つ大いなる国民が、果たしてほかにいるだろうか」 (申命記4章7節参照)。

 近くにおられる神は、思いやりと優しい親密さで、押しつぶされるな重荷からあなたを解放し、冬の寒さにこごえるあなたを暖め、暗い日々を過ごすあなたを照らし、おばつかない足取りのあなたを支えようとしてくださいます。そして神はご自身の言葉でそうなさいます、言葉で、あなたの恐れの灰の中に希望を再び燃え立たせ、あなたの悲しみの迷宮に喜びを再発見させ、孤独に苦しむあなたを希望で満たすように、あなたに話しかけられます。あなたを歩ませますが、迷路の中ではありません。あなたを道に沿って歩ませ、日々、新たな展望が開けるようにしてくださいます。

*私たちが、神に対して持つイメージは?

 兄弟姉妹の皆さん。私たち自身に問いかけましょう。私たちは心の中に「解放された神」「近くにいる神」「思いやりのある神」「優しい神」のイメージを持っていますか? それとも、「厳格な裁判官」「厳格な税務署員」と見なしますか? 私たちの信仰は希望と喜びを生み出していますか?それとも、恐れを抱き続け、恐ろしい信仰によって心を重くされているでしょうか?教会で私たちは神のどの顔を宣言しますか? 私たちを解放し、癒す救い主?それとも罪悪感で打ち砕く恐ろしい神?

 真の神へ心を向けるために、イエスは、私たちにどこから始めるべきかを示してくださいます。御言葉で、神の私たちへの愛の物語を語ることで。私たちを神に対する恐れや先入観から解放し、信仰の喜びをもたらします。御言葉は、偽りの偶像を打ち砕き、私たちの影を覆い隠し、人間的すぎる神の姿を破壊し、神の本当の顔、憐れみに、私たちを引き戻します。神の言葉は信仰を養い、新たにします。御言葉を祈りと霊的生活の中心に戻しましょう!中心に、神様がそのような存在か教えてくれる御言葉。私たちを神様に近づける御言葉を。

*御言葉は、私たちを人に導く

 そして、御言葉の第二の側面。御言葉は私たちを人に導きます。私たちを神に導き、人に導きます。神が思いやりのある愛であることを発見したとき、私たちは偶像崇拝の宗教に身を寄せる誘惑に打ち勝ちます。隠された偶像崇拝、洗練された偶像崇拝もありますが、偶像崇拝です。御言葉は、人々を解放する神の愛の穏やかな力で、兄弟姉妹に会うために私たちの背中を押します。

 ナザレの会堂で、イエスはこのことを私たちに明らかにされます。そして私たち、人々を解放します。イエスは、規範のリストを提供したり、宗教的な儀式を行ったりするためではなく、傷ついた人類に会い、苦しみで歪んだ顔を愛撫し、壊れた心を癒し、軛から私たちを解放するために、この世の街頭に立たれました。私たちの持ち物ー魂―を捕まえ、私たちに、どのように讃えることを神がいちばんお喜びになるのかーそれは、隣人をいたわることーを啓示されます。

 そして、私たちは、そこに戻らなねばなりません。教会には“(硬直的な)厳格”さへの誘惑があり、神の啓示を受けるということは、より厳格に、より多くの規範を忠実に守ることだ、と信じられています…いいえ、そうではありません。厳格さの主張に出会うとき、私は直感しますーこれは偶像であり、神ではない。私たちの神はそのような方ではない、と。

*私たちを変える御言葉、硬直的な厳格さの誘惑

 兄弟姉妹の皆さん。神の言葉は、私たちを変えますが、”厳格”さは私たちを変えません。私たちを隠蔽します。神の言葉は剣よりも鋭く、魂を刺し通すことで、私たちを変えます(ヘブライ人への手紙4:章12節参照)。神は、一方で、私たちを慰められ、御顔を私たちに明らかにされ、他方で、私たちを刺激し、揺さぶり、私たちを矛盾に引き戻されます。私たちを危機に陥れます。静けさの代償を払うのが、不公正と飢餓によって引き裂かれた人々であり、代償を払うのは常に最も弱い人々であるなら、私たちを落ち着かせません。最も弱い人が、常に代償を支払わされます。

 御言葉は、うまくいかないことを他人や自分が置かれた環境のせいにする私たちの”自己正当化”に、異議を唱えます。兄弟姉妹が、誰も上陸させてくれないために、海でに命を落とすのを見で、どれだけ痛みを感じるでしょう! そして、(注:彼らを自国の領土に入れないことを)神の名において行う人もいます。神の言葉は、明るみに出るように、問題の複雑さの裏に隠れないように、私たちを促します。「何もできることはない」「それは他の人の問題だ」「彼らのことは放っておけ」というような言い訳をしないように、と。

 神の言葉は、行動するように、神を信仰することと人へのいたわりを結びつけるように、と強く私たちに促します。聖書は、私たちが楽しむためや天使のような霊性で甘やかされるために与えられたのではありません。表に出て、他の人々と出会い、彼らの傷に接するために与えられているのです。

 硬直的な厳格さー教会が陥りやすい誘惑の一つである現代のペラギウス主義*について話したことがあります。

注*4世紀中ごろにブリタニアに生まれ、修道士となったペラギウスの説とされるもの。当時のキリスト教徒の退廃的風潮を批判し、厳格な道徳的宗教性を求めたペラギウスは、また、人間には現在無しで存在できる可能性が、神の恩恵として与えられている、と主張。418年のカルタゴ教会会議で異端として破門された(「カトリック・あい」)。

 そして、もう一つの他の誘惑は、天使のような霊性を求めることー人を”軌道”に乗せ、現実に触れさせないようにする”神の言葉”を提唱するグノーシス的な運動、グノーシス主義です。肉となった御言葉(ヨハネ福音書1章14節参照)は、私たちの中で肉になることをお望みです。私たちを人生から切り離すのではなく、人生に、日々の暮らしの真っただ中にいて、兄弟姉妹の苦しみ、貧しい人々の叫びに耳を傾け、社会と地球を傷つける暴力と不公正に直面することを望んでいます。御言葉は、私たちがキリスト教徒として、周囲の人や状況に無関心でいないように、行動的で、創造的で、預言的なキリスト教徒になることを希望しているのです。

*御言葉は、私たちが生きている今、「肉」となることを望まれる

 「今日」イエスは言われますー「この聖書の言葉は、実現した」(ルカ福音書4章21節参照)-御言葉は、理想的な未来ではなく、私たちが生きているこの時、今日、肉体となることを望んでいます。

 パリの郊外で福音を生きることを選んだ20世紀のフランスの神秘主義者はこのように書いています。「神の言葉は”死んだ手紙”ではなく、霊と命… 主の言葉が私たちに求めているのは、私たちの”今”ー私たちの日々の暮らしと私たちの隣人の渇望」(マドレーヌ・デルブレル**「 La joie de croire(信じる喜び)」)。

注**Madeleine Delbrêl、1904年10月24日1964年10月13日フランスの社会運動家

 では、私たち自身に問いかけましょう。私たちは、イエスに倣い、他の人のために解放と慰めの教役者になり、御言葉を実行したいと思っているか?私たちの教会は御言葉に従順な教会になっているか?教会は、他の人の言葉に積極的に耳を傾け、兄弟姉妹を抑圧から解放し、恐れの結び目を解き、最も傷つきやすい人々を貧困の牢獄、人生を苦しめる倦怠感、悲しみからに夕にするために手を差し伸べていたか?私たちが望んでいるのは、このことではないのか?

*私たち1人ひとりが、神の言葉の伝道者、預言者

 この神の言葉の主日のミサに参加されている私たちの兄弟姉妹の中に、このミサの中で任命されるカテキスタと朗読奉仕者がおられます。イエスの福音に奉仕し、イエスを宣べ伝え、イエスの慰め、喜び、解放がすべての人に届くようにするという重要な任務に召されています。これは、(彼らだけでなく)私たち一人一人の使命でもありますーそれは、この世において、神の言葉の伝道者、預言者となることです。

 聖なる書に情熱を傾けましょう。神の新しさを明らかにし、私たちが他者を倦むことなく愛するよう導く御言葉に、進んで深く浸りましょう。神の言葉を、教会の生活と司牧活動の中心に置きましょう!そうすることで、私たちはあらゆる硬直的なペラギウス主義から、あらゆる硬直的な厳格さから、解放され、人を”軌道”に乗せる霊性の幻想、私たちの兄弟姉妹への無関心から自由にされます。神の言葉を教会生活と司牧活動の中心に置きましょう。御言葉に耳を傾け、御言葉と共に祈り、御言葉を実践しましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月23日

☩「性的虐待問題への対応は司法的措置の厳格化だけでは不十分、だが正義の再建に必要」ー教理省の総会参加者たちに

Pope Francis with member of the Congregation for the Doctrine of the Faith during their Plenary Assembly in the VaticanPope Francis with member of the Congregation for the Doctrine of the Faith during their Plenary Assembly in the Vatican  (Vatican Media)

(2022.1.21  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは21日、バチカン宮殿で教理省の定例総会参加者たちとお会いになり、教理省の命を果たすうえで「尊厳」「識別」「信仰」の3つの言葉が重要である、と強調された。

 教皇は「識別」について、「今日、信仰をもつますます多くの人々に識別の技が求められています」とされてうえで、(現在も欧州を中心に相次いで明らかにされている聖職者による未成年者などへの性的虐待の問題を念頭において=「カトリック・あい」)「識別力の行使は、あらゆる種類の虐待との戦いに求められるもの。神の助けを借りて、教会は、そのメンバーに虐待された犠牲者に正義をもたらすという自身の責務を断固として追求しつつあります」と述べ、さらに次のように語られた。

 「このような観点から、私は最近、この問題に対する司法的措置を厳格化することを希望し、教理省が担当する(聖職者による)犯罪に関する規範を更新しました。 司法的措置だけではこの現象を食い止めるのに十分ではありませんが、正義を再建し、恥ずべきことを正し、犯罪者を改めさせるために必要な手段です」

 

(2022.1.21 バチカン放送)

 教皇は参加者への挨拶で、信仰と倫理をめぐる教会の教えの全体性を守り、推進する教理省の役割について、「尊厳」「識別」「信仰」の3つをキーワードに考察。

 回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」で述べた「すべての人の尊厳を認めながら、兄弟愛の世界を築きたい」との思いを語りつつ、「兄弟愛が、創造主の計画された人類の歩みの目的地であるなら、そこに向かうための道は。すべての人の尊厳を重んじることにあります」と話された。

 そして、「社会的、政治的な緊張に満ちた今日、他者を自分とは関係のない存在、あるいは敵とみなし、その尊厳を否定する傾向が広がりつつある。こうした時代にこそ、誕生から自然死に至るまでの、人生のすべての過程にある人間の尊厳を重んじるように、あらゆる機会を通し呼びかけて行かなくてはなりません」と訴えられた。

 また、時代の変容の中を生きる今日、キリスト者たちに「識別の技術」が求められている、と指摘。「あらゆる種類の虐待との戦いのためにも、識別の訓練が必要です」とされたうえで、現在の教会が、聖職者による性的虐待の問題に対し、特別な関心と厳格さをもって教会の規則を適用していることを強調された。

 同様に、「識別の努力は、婚姻の無効を扱う場合においても必要」とされ、「教会が婚姻の無効を宣言する時は、すでに事実上破綻した結婚に教会法上の決着をつけるだけでなく、この司牧的行為を介して、新しい結婚、家族において常に信仰を励まさなくてはなりません」と語られた。

 さらに、教皇は、教理省の使命について、「信仰を守るだけでなく、信仰を励ますことにもある。信仰が無いなら、世界の信者たちは、単なる人道組織のメンバーになってしまいます」と警告。

 そして、「信仰は、すべてのキリスト者の生活と行動の中心をなすべきもの。平凡で曖昧な、”水で薄めたような信仰”ではなく、本物の混じりけのない信仰であるべきです… 危機感を抱かせない信仰は”危機的な信仰”であり、成長させない信仰は”成長すべき信仰”であることを忘れてはなりません」と説かれた。

 さらに、「”マニュアル通りのなまぬるい信仰”に安住せず、聖霊と、人々と、協力し合いながら、イエスが世にもたらした火が、すべての人の心に燃え続けるように努力しましょう」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月21日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑧「ヨセフの父性は神の優しい愛を反映している」

Pope Francis arrives at the General AudiencePope Francis arrives at the General Audience  (Vatican Media)

(2022.1.19  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、神の優しさを反映した「愛情深い父親」としてのヨセフの役割は、「私たちのすべての弱さを気にかけられ、受け容れられ、主の愛によって変えられたことを、私たちに感じさせることにある」と語られた。

 講話の中で教皇は、まず、聖ヨセフが父親としての役割をどのように果たしたのかを、福音書は詳しくは述べていない、とされたうえで、「ヨセフがイエスに与えた教育と愛情深いいたわりの形で実践した”正義の人”であることは確信できます」と語られた。

*父なる神

 そして、イエスがいつも、「父」という言葉を使って神と神の愛について語られたことを、福音書がどのように証言しているか思い起こされ、「例えば、放蕩息子のたとえ話は、罪と赦しの経験を示すにとどまらず、”慈悲深い父”が罰ではなく、愛情深い抱擁を通して息子を赦すさまをを語っています」と指摘。

 「優しさは、この世の論法よりもすぐれています。それは正義を行うための予期されないやり方です。神は、私たちの罪、過ち、堕落を恐れておられない。それよりも、私たちが心を閉ざし、ご自分の愛を信じないことを恐れておられるのです」と強調された。

*神の愛の優しさ

 さらに教皇は、一昨年12月8日から昨年12月8日までを「聖ヨセフの特別年」と定められたご自身の使徒的勧告「Patris corde,父の心をもって)」を引用される形で、「神の愛の経験の中には大きな優しさがあります」と述べ、「この現実をイエスに伝えた最初の人がヨセフ自身だった、と考えるのは素晴らしい。この優しさについて私たち自身の経験を振り返り、私たちがその証人になることで、神が私たちにヨセフの父性にご自身を映し出し、その優しい愛によって私たち自身が変えられるように」と勧められた。

 そして、「優しさは、感情的な、あるいは感傷的な問題ではありません。貧しさと悲惨さの中にある私たちが、神にしっかりと愛され、受け容れられ、歓迎され、その愛によって変えられた、と感じる経験です」と語られた。

 

*請け出された弱点

 また教皇は、聖パウロが「コリントの信徒への手紙」で自身の経験として、主が「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と彼に語ったことを振り返り、「私たちの弱さを通してお見せになった神の優しさのこの経験は、私たちに自分の弱さを知り弾劾させる邪悪な者の視線から回心し、聖霊が慈しみ深い愛の光をあててくれるようにすることを、求めています」とし、さらに次のように述べられた。

 「だからこそ、神の憐れみに出会うことがとても重要です。特に、神の真理と優しさを体験する和解の秘跡で、神は私たちを非難されるのではなく、喜んで迎え入れ、支え、赦してくくださるのです」。

 さらに教皇は、「贖いと罰を混同しない正義のシステムを備えた『優しさの革命』が求められている」とされ、刑務所にいる人々のことを思い起され、「彼らが自分の過ちに対して支払うのは正しいこと。だが、過ちを犯した人々がその過ちから自分自身を贖い出すことができるようにするのは、もっと正しい」とも述べられた。

 最後に、教皇は次の祈りを捧げられた。

 優しさの父、聖ヨセフ、
私たちの中で最も弱い者も神にしっかりと愛されていることが分かるように、私たちに教えてください
私たちの貧しさと神の愛の偉大さの間に、障害物を置かないように
和解の秘跡に近づきたいという私たちの願望をかき立ててください
私たちが赦され、貧しさの中で私たちの兄弟姉妹を優しく愛することができるように
過ちを犯し、その代償を払っている人たちの近くにいてください
彼らが正義だけでなく、優しさも見つけ、彼らが再び歩み始めることができるように 彼らを助けてください
そして、彼らに再び歩み始める方法を、心から赦しを願うことであることを、教えてください
アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月19日

☩「私たちキリスト者は一致を目指す巡礼者」-教皇、一致祈祷週間へ参加呼びかけ        

(2022.1.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日の正午の祈りの中で、18日から始まる「キリスト教一致祈祷週間」に言及された。

 今年のテーマ「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)について教皇は、「救い主である王としてお生まれになった方を拝むために、東方からベツレヘムへ旅した東方三博士のエピソードに基づいています」とされた。

 そのうえで、「私たちキリスト者は、異なる宗派と伝統の中にあっても、完全な一致を目指し、歩み続ける巡礼者。私たちの主、イエスに眼差しを注げば注ぐほど、その目標に近づくことができます」と説かれ、「『キリスト教一致祈祷週間』の間、私たちの努力や苦しみも、キリスト者の一致のために捧げましょう」と世界のキリスト教徒に宗派を超えて呼びかけられた。

 「キリスト教一致祈祷週間」は、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章 21節)というイエスの祈りのもとに、すべてのキリスト者の一致を共に願い祈ることを目的に、毎年1月18日から25日までキリスト教諸教会の参加のもとに行なわれている。

 今年のテーマ選択、それに沿った祈りと黙想のテキストは、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)の協力のもと、中東地域の諸教会が参加する中東教会協議会(本部:ベイルート)が中心となって作成された。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月17日