☩「『休息』と『憐み』は結びついている」-教皇、年間第16主日の日曜正午の祈りで

教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り  (ANSA)

(2024.7.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、年間第16主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読、マルコ福音書の、イエスが、宣教から戻った弟子たちに、人里離れた所へ行ってしばらく休むようにと命ずる一方で、ご自分のもとにやって来る群衆の、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れむ場面(6章30-34節)を取り上げられた。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 今日の典礼の福音は、宣教から戻った使徒たちがイエスのもとに集い、自分たちが行ったことを報告する様子を語っています。

 そこでは、報告を聴かれたイエスが彼らに「あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われましたが、人々は彼らの動きに気づいてしまった。彼らが舟から上がった時、イエスは大勢の群衆を目にし、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れみ、彼らに教え始め(34節参照)られます。

 ここには、イエスの弟子たちに「休息」を取るように、との招きの一方で、イエスの群衆に対する「憐れみ」があります。休息と憐れみ、これらは二つの相入れない事柄のように見えますが、実は互いに関係しています。これについて考えてみましょう。

 イエスは弟子たちの疲れを心配されました。おそらく私たちの生活や使徒職にありがちな危険を感じておられるのかもしれません。

 たとえば、宣教や仕事を進める上での熱心、託された役割や課題が、私たちを”活動主義”の犠牲者にしてしまうことがあります。やるべきことや、その結果で、頭をいっぱいにしてしまいます。すると、心が乱れ、本質を見失い、エネルギーを消耗し、心身の疲労に陥ることになるます。これは忙しさに囚われがちな私たちの生活や社会、また教会や司牧奉仕に対する、警告です。私たちは”すべきことの独裁”に注意せねばなりません。

 同時に、イエスが勧める「休息」は、「この世からの逃避」や、「心地よい世界に引きこもること」ではありません。イエスは「休息」を弟子たちに勧めながら、迷える群衆を前にして「憐れみ」を覚えられるのです。こうして、私たちは福音から、「休息」と「憐れみ」という二つの現実が結びついていることを知ります。「休息」することを学ぶなら、「憐れみ」を持つことができるのです。

 私たちの心が、「何かをしなければならない」という不安で憔悴しないなら、立ち止まって沈黙の祈りのうちに神の恵みを受け取ることができるなら、私たちは、他の人々に憐れみ深い眼差しを持ち、彼らが必要としていることを認識することができるのです。

 自分に問いかけましょう。「私は一日の中で、立ち止まることができているだろうか?」「また主と共にいる時間を持つことができているだろうか?」「いつも何かすべきことに追われているだろうか?」「毎日の騒がしさや活動の中で、内的な『砂漠』をわずかでも見つけることができているだろうか?」

 聖なるおとめマリアよ、私たちが日常的なあらゆる活動の中にあっても「聖霊のうちに休む」ことを知り、他者に対して快く応じ、憐れみを持つことができるように、お助けください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月22日

☩教皇、戦争で引き裂かれた国々のために「オリンピック休戦」を再度呼び掛け

Olympic Games set to begin in ParisOlympic Games set to begin in Paris  (AFP or licensors)

 

2024年7月21日

☩「パリ五輪が、平和の担い手となるように」教皇、国連の「オリンピック停戦」決議に合わせて

オリンピックのシンボルである五輪を掲げたエッフェル塔 フランス・パリオリンピックのシンボル、五輪を掲げたエッフェル塔  

(2024.7.19  バチカン放送)

 教皇フランシスコは19日、 パリ五輪開催を前に、同地で行われた「平和のためのミサ」にメッセージをおくられ、その中で「オリンピック停戦」の尊重をアピールされた。

 パリを会場とした2024年のオリンピック競技大会の開会を一週間後に控えた19日、パリのマドレーヌ教会で、平和のためのミサが捧げられた。この日は、「オリンピック停戦」の初日となった。

 国際オリンピック委員会が、古代ギリシャの「オリンピック停戦」の伝統復活のため、国連に働きかけ、国連総会でオリンピック停戦の順守に関する決議が採択されたのは1993年だ。以来、国連総会では、各オリンピックおよびパラリンピック開催の前年に、大会中の停戦を求める決議が行われてきた。

 パリ五輪における「オリンピック停戦」の決議は、昨年11月21日、国連総会で採択された。決議は、開幕7日前から、パラリンピック閉幕の7日後まで、世界中のすべての紛争に対し休戦が求めている。

 教皇は、この日マドレーヌ教会で平和のためのミサを駐仏バチカン大使のチェレスティーノ・ミリヨーレ大司教と共同司式したローラン・ウルリッヒ・パリ大司教に宛てにメッセージをおくられ、パリ五輪が「世界中の国々から集うすべての人々にとって、互いを発見し、認め合い、偏見を取り除き、軽べつと不信があるところに尊重を、憎しみがあるところに友情を生み出す、またとない機会となること」を希望された。

 そして、「オリンピックは平和の担い手であり、戦争の担い手ではありません…世界平和が深刻に脅かされているこの激動の時代、紛争を解決し、調和を取り戻すことを希求しつつ、すべての人々がこの『オリンピック停戦』を心に留めるように」と願われ、「神が私たちを憐み、統治者たちの重大な責任について、彼らの良心を照らし、平和のために働く人々にその努力の実りと祝福をお与えくださいますように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月20日

☩「神の喜びと愛を十分に体験する旅には、邪魔な荷物を持たないこと」教皇、年間第15主日の正午の祈りで

(2024.7.14 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)
   教皇フランシスコは14日、年間第15主日の正午の祈りに先立つ説教で、「必要な物だけを持ってキリストに近づくように」と信者たちに呼びかけられ、「神の喜びと愛を十分に体験するには、私たち荷を重くし旅の邪魔になるだけの物を手放す必要があります」と説かれた。
 説教で教皇はこの日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(6章7~13節「12人の弟子の派遣」)を取り上げられた。ここで、イエスは、弟子たちを福音宣教に派遣するにあたって、杖一本のほかは何も持たず、履物ははき、下着は一枚だけにするよう告げておられる。

教皇の説教の要旨は次のとおり(バチカン放送)

**********

今日の福音は、イエスがご自分の弟子たちを宣教に遣わされた時のことを語っています。イエスは弟子たちを二人ずつ組にして遣わされ、そして、必要な物以外は持っていかないように命じられました。

一緒に派遣され、必要な物だけを身に付けた、この弟子たちの姿を考えてみましょう。

福音は一人では告げるものではなく、共同体として共に告げるものです。そうするためには、節制が大切です。それは、物の使用における簡素さ、財・能力・才能の分かち合い、贅沢を慎むことなどであす。なぜそうすべきなのでしょう。それは自由であるため、皆が尊厳ある生活をし、活発に宣教に貢献できるように、必要なものを持てるようにするためです。

さらに、先入観や頑なさを捨て、考えや感情において節度を保つことが必要です。これらは無用に重い鞄のように、歩みを困難にし、妨げます。これに対し、検討や傾聴は、証しをより効果的なものもします。

家族や共同体の中で、たとえそれがわずかでも、神の助けによって、私たちが必要において満たされ、前に進み、皆が調和し、あるものを分かち合い、各自が何かを断念し、互いに支え合うなら、そこで何が起きるかを考えてみましょう( 使徒言行録4章32-35節)。言葉で表す以前に、すでに一つの福音宣教となります。なぜなら、それは日常の生活を通して、イエスのメッセージの素晴らしさを具現化しているからです。

そのように暮らす家族や共同体は、実際、自分たちの周りに愛にあふれた環境を生み出します。そこでは、信仰と福音に心を開くことが容易になります。そして、そこからは、よりよい形で、またより安心して再出発することができるのです。

これに対し、それぞれが自分勝手に振る舞い、物質的なことだけにこだわり、相手の話に耳を傾けず、自己中心主義と妬みが勝るなら、雰囲気は重苦しく、生活は難しくなり、出会いは喜びではなく、不安と悲しみと失望の機会に変わってしまうでしょう。

キリスト教的生活にとって、交わりと節度は重要な価値があります。あらゆるレベルで宣教的な教会のために不可欠な価値です。

では、ここで自分に問いかけてみましょう。「私は、福音を伝え、主との出会いから来る喜びと光を生活の場にもたらす味わいを感じているだろうか」「そうするために、開いた精神と寛大な心をもって、他の人々と考えや能力を分かち合いながら、彼らと共に歩む努力をしているだろうか」「節度ある生活スタイルを育み、兄弟たちの必要に配慮しているだろうか」。

使徒の女王、マリアよ、私たちが交わりと節度ある生活を通して、真のイエスの弟子、宣教者となれるようお助けください。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年7月14日

☩教皇、「女性たちはしばしば見過ごされ、過小評価されている、その声を聴こう」新刊書の序文で

(2024.7.11 Vatican News   Salvatore Cernuzio)

 教皇フランシスコは、2 人の枢機卿と 3 人の女性神学者が執筆し、9日に出版された「Women and Ministries in the Synodal Church(シノダル(共働的)な教会における女性と聖職)」と題する本に序文を寄せられた。その中で教皇は、「女性」「聖職者」「シノダリティ(共働性)」「虐待の悲劇」など教会にとってデリケートなテーマをすべて取り上げている。

 本の執筆者は、ローマのアウグスティリウムでキリスト論とマリア論の教授を務めるサレジオ会のシスター・リンダ・ポッチャー、英国国教会の司教で事務総長のジョー・B・ウェルズ、ヴェローナ教区の教師でスピリチュアリティ講座や黙想会の主催者のジュリヴァ・ディ・ベラルディーノ氏の3人の女性と、ルクセンブルク大司教でシノドス総報告者のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿と、バチカン弱者保護委員会の委員長を務めるショーン・パトリック・オマリー枢機卿だ。

 この本は、今年2 月 5 日に教皇が出席して行われた枢機卿顧問会議でなされた議論を基にした執筆者たちによる対話の形をとっている。本の執筆者である2人の枢機卿もメンバーの会議には、共同執筆者の3人の女性も招待され、「教会における女性の役割」というテーマで、意見を述べていた。

 シスター・ポッチャーの共著「教会の非男性化」に続くものだが、「教会の非男性化」という言葉は、教皇フランシスコが国際神学委員会のメンバーと謁見された際に初めて使われた。

*教会における聖職:重要かつ繊細なテーマ

 本の序文で教皇は、まず、在位中の重要な信条である「現実は観念よりも重要である」という”原則”から始めて、「教会における聖職」について考察され、この原則が、「教会における女性というテーマ、特に教会共同体における聖職という重要かつ繊細なテーマに関して、枢機卿顧問会議に向けたシスター・ポッチャーの指針となっていること」を評価された。

*聖職者による性的虐待が引き起こした危機と「聖職者主義」

 また、聖職者による性的虐待とそれへの高位聖職者などの対応が引き起こした危機によって、「『聖職者主義』に立ち向かう必要性が浮き彫りになった」と強調。「聖職者主義は、聖職者に限らず、教会内での権力の乱用という、より広範な問題でもあり、一般信徒や女性にも影響を及ぼしています」と指摘された。

*女性の声に耳を傾けることは、現実を直視する重要な手立て

 そのうえで、「女性の喜びや苦しみに耳を傾けることは、現実に目を向ける重要な手立ての一つです」とされ、「判断や偏見なしに女性の話を聴くことで、『多くの場所や状況で女性が苦しんでいるのは、まさに彼女たちが何者で何をしているのか、また、彼女たちに場所と機会さえあれば何ができるのか、何になれるのかが、認識されていないからだ』ということに気づきます」と語られた。

 そして「最も苦しんでいる女性は、最も身近な女性、神と神の王国に仕える準備が最も整い、最も身近な女性であることが多いことにも」と付けう加えられた。

*”観念の祭壇”で現実を犠牲にしている

 教皇はさらに、このようにして、「観念ではなく現実を見る」よう、私たちに呼びかけ、そうするのは、「教会自体が近代にしばしば陥った『罠』、つまり『観念への忠実さを、現実に注意を向けることよりも重要だと考える』という罠に陥らないようにするため」と説かれた。

 そして、「現実は常に、観念よりも偉大であり、私たちの神学が鮮明で明確な観念の罠に陥ると、必然的にProcrustean bed(画一化された強制)になり、現実の一部を”観念の祭壇”の犠牲にしてしまうのです」と強調。「ですから、この本の価値は、観念からではなく、現実に耳を傾け、教会の女性の経験の賢明な解釈から始めていること、にあります」と述べられた。

*シノドス第2会期に向けた討議要綱でも女性の役割を強調している

 女性の役割の問題は、10月に開かられる世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会第2会期に向けて出された討議要綱でも取り上げられている。女性の賜物と召命を、これまで以上に強く認識する必要性を強調し、男性と女性を”キリストの兄弟”として、教会の使命で結ばれた者として、相互依存的、相互的な見方へ思考を転換することを提唱している。

 女性の教会における役割の強化の象徴となっている女性助祭の問題について、シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿は、「特定のテーマについて神学的および牧会的な考察を深めるために教皇が設立した研究グループの1つの主題となっており、第2会期の会議では取り上げられない」と述べているが、教皇は、シノドス事務局と協力して、より広い文脈で、聖職者の形態の中で、女性助祭の問題を教理省に委ねた。

 この3月に発表された研究グループに関する文書で発表されたように、この取り組みは、シノドス総会の「女性の貢献に対する認識と評価を高め、教会の生活と使命のあらゆる分野において女性に託された司牧的責任を増やす」という要望に応えることを目指している。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年7月12日

☩「『自律型致死兵器』の開発と使用の再考が急務」教皇、AI利用の倫理めぐる広島での宗教指導者の会合にメッセージ

人工知能利用の倫理問題をめぐる宗教指導者らの会合の参加者たち 2024年7月10日 広島人工知能利用の倫理問題をめぐる宗教指導者らの会合の参加者たち 2024年7月10日 広島 

「平和のための AI 倫理:ローマからの呼びかけにコミットする世界の宗教」 (AI Ethics for Peace: World Religions commit to the Rome Call)と題されたこの会合は、教皇庁立生命アカデミー、世界宗教者平和会議・日本委員会、アブダビ平和フォーラム、イスラエル諸宗教関係首席ラビ委員会が共催し、13 カ国から 150人以上の参加者を得て開かれた。

 

教皇は、メッセージで、「人工知能」と「平和」を、「絶対的な重要性を持つ2つのテーマ」として結びつけられた。

そして、先月イタリア南部プーリアで開かれた主要7カ国首脳会議(G7)で「人工知能」をテーマになさった演説を引用しつつ、「機械は、新しい方法によって、アルゴリズム的な選択を生み出せるのだということを、常に頭に入れておくことが必要です」と改めて強調。

「機械がよく定義された基準、あるいは統計的な推論に基づき、いくつかの可能性の中から技術的な選択をするのに対し、人間は、選ぶだけでなく、心を通して決断する力を持っています」と指摘され、「自立した選択ができるかのように見える機械の驚くべき力を前に、決定は常に人間の側に残るべきことを明確にしなくてはなりません」と訴えられた。

さらに、「仮に、人々から自分と自身の人生についての決定力を取り上げ、機械による選択に頼るなら、人類の未来に希望はありません」と警告され、「AIのプログラムの選択プロセス上に、人間による重要なコントロールの余地を保証し、それを保護する必要があります」と言明。この催しを称賛する中で、「機械使用のこの新たな時代に、人間の尊厳を守るため、私たちが一致して積極的な取り組みを求めていることを、世界に示して欲しい」と願われた。

また、教皇は、世界を揺るがす紛争が相次いでいる中で、「戦争への憎しみに加えて、このテクノロジーについて耳にすることが多くなっていることからも、参加者らが人工知能と平和について話し合うために広島に集っているという事実」に象徴的な意味を見出され、「武力紛争の悲劇が繰り返される中で、いわゆる『自律型致死兵器』の開発と使用の再考が急務であり、使用禁止するためには、より幅広く、効果のある人的な制御を取り入れる必要があること、そして、いかなる機械も人間の命を奪う選択は決してできないことを、皆が兄弟として一致して、世界に思い出させることが重要です」と念を押された。

 ・・・・・・・・・・・・・

 「ローマからの呼びかけ」とは、教皇庁のイニシチアブにより、2020年2月28日、ローマにおいて開かれた会議「RenAIssance 人間中心の人工知能のために」の成果として、人間を尊重する人工知能の推進のための基本原則をまとめた文書「AI倫理のためのローマからの呼びかけ(Rome Call for AI Ethics)」を指す。この文書には、最初に、教皇庁立生命アカデミー、マイクロソフト、IBM、国連食糧農業機関、イタリア政府・技術革新・デジタル化省の代表が署名を行った。

 今回の会合では、2日目の10日、日本やアジアの諸宗教の指導者らが新たに「AI 倫理のためのローマからの呼びかけ」に署名を加えた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月11日

☩「社会の”傷”に指を入れ、人類の未来を問いかける信仰が、私たちに求められている」トリエステでの主日ミサで

(2024.7.7 バチカン放送)

 教皇フランシスコは7日、イタリアのカトリック教会「社会週間」閉会行事出席のため訪問されたトリエステでミサを捧げられ、地元トリエステ教区とヴェネト州、オーストリア、クロアチア、スロベニアなど近隣国から参加した約8500人の信者を前に、「社会の”傷”に指を入れ、人類の未来を問いかける信仰が求められている」と訴えられた。

 ミサの説教で教皇は、この日読まれたマルコ福音書の箇所、ナザレに帰られたイエスが故郷の人々から受け入れられなかったエピソード(6章1-6節)を取り上げられた。故郷ナザレに戻られたイエスは、旧知の間柄の人々から認められないどころか、拒絶すらされてしまった。

 「人々がイエスにつまずいたのは、何故でしょう?」と問いかけられた教皇は、「それはまさに、イエスが人間であり、大工ヨセフの息子だったので、『万能の神が一人のか弱い人間として姿を現されるわけがない』と人々が考えたからです」とされた。

 そして、「人となられた神、人類に向かって身をかがめ、その世話をし、私たちの傷に心を動かされ、疲れを分かち合い、パンを割いてくださる神。そのことが、人々にとって、つまずきの石となりました。自分に味方をし、何でも満足させてくれる力ある神は魅力的ですが、愛のために十字架上で死を遂げる神、あらゆるエゴイズムに打ち勝ち、世の救いのために命を捧げるように自分にも命ずる神は、”不都合な神”のです」と指摘された。

 そのうえで教皇は、「主イエスの御前に立ち、『社会週間』において議論された多くの社会的、政治的問題や、人々の具体的な生活の苦労を考えながら言えるのは、『このつまずきとなる信仰こそ、今日の私たちに必要だ』ということです」とされ、「人となられ、人間の歴史と生活の中に入って行かれる神への信仰、新しい世界の希望のパン種となる信仰、眠りかけた意識を呼び覚まし、社会の傷に指を入れ、人類の未来を問いかけさせる信仰が、今、求められているのです」と説かれた。

 さらに、「私たちは、沢山の小さなことに不必要なほど驚きます。では、どうして、社会に広がる悪や、侮辱された命、労働問題、移民や受刑者の苦しみには、驚きもせず、無関心なのでしょうか」と問いかけられ、「人と文化が交差する、この国境の都市トリエステから、平和と兄弟愛に基づく新しい文明を築いていきましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年7月8日

☩「カトリック信者は、民主主義の”傷ついた心”を癒すよう求められている」ートリエステでの社会週間締めくくりに

(2024.7.7 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは7日、イタリアのトリエステで開かれたカトリック教会の第50回社会週間の最終日の行事に参加され、講話の中で、全国から集まった約1000人の聖職者や信徒たちに対して、参加と政治的な慈善活動を通じて民主主義の危機を正すように呼びかけられた。

 講話で教皇はまず、イタリアでのカトリック教会の社会週間が、第二次世界大戦後のイタリアの政治、社会の民主的プロセスを活性化させたことを振り返られ、この行事が、カトリック教会の社会教説に基づいており、社会現象に対する福音的なビジョンを提示することを目指している、と指摘。「現在、民主主義の危機がさまざまな現実や国家に広がっている中で、社会変革に対する責任ある姿勢を示すことが、世界中のあらゆる場所で活動しているキリスト教徒に求められているのです」と強調された。

 教皇は、現在、世界中を襲っている民主主義の危機を「傷ついた心」に例えられ、「腐敗と社会的排除の動きが蔓延し、権力が自己中心的になり、構成員に奉仕できなくなる状態」が起きつつある、と警告。「『民主主義』という言葉が、単に国民の投票と一致するのではなく、すべての人が意見を表明し、参加できる条件を作り出さねばなりません」と語られ、さらに、民主的な(政治、社会活動への)参加は、「イデオロギー的、ポピュリスト的な誘惑に対して、市民が批判的な感覚を抱くように、若いうちから教え込む必要があります」と付け加えられた。

 また、すべてのキリスト教徒に対し、「個人の尊厳を守りつつ、宗教と社会の実りある対話を促進する」よう呼びかけられ、「連帯と補完性の原則は、参加を促し、無関心を克服するため、民主主義の絆を築くのに役立ちます。無関心は民主主義の”癌”です」と指摘された。

 

 さらに、「周囲を見渡せば、家族やコミュニティでの生活に、そして、経済、技術、政治、社会の分野にさえも、聖霊の働きの多くの兆候が見られます」とされ、「友愛は、社会の関係を繁栄させ、集団に願望の精神を生み出します… ”癒された心”を持つ民主主義は、未来への夢を育み、個人やコミュニティの働きに関与し、呼びかけ続けるのです」と語られた。

 そして、「カトリック教徒は、民主主義の弊害に対する即効薬以上のものを目指さねばならず、決して、”限界的な、あるいは私的な信仰”に後退してはなりません… 耳を傾けてもらうことを要求するのではなく、何よりも、公の議論の中で、正義と平和のための提案をする勇気を持つことが必要」とされ、「キリスト教徒の政治への関与は、『政治的な愛』、あるいは『政治的な慈善』の側面を持つ必要があり、それによって政治は責任を果たし、二極化を乗り越えることができるのです」と強調。

 最後に教皇は、「市民の情熱が欠けている世界に、このような愛を広めるための訓練をしましょう… 神の民として、より良く共に歩むことを学び、私たちが属する社会で、参加の”パン種”になりましょう」と呼びかけられた。

・・・・・・・・・

 今年で創設50周年を迎えるイタリアの「カトリック社会週間」は、教会の社会教説の考察と再評価を促進するために、2年ごとに開催都市を変えて行われている。2024年度のテーマは、「民主主義の中心へ。歴史と未来の間に参与する」。50回目となる今回の社会週間の開会式には、セルジョ・マッタレッラ伊大統領が訪れた。教皇はこの講話の後、キリスト教諸教会の代表、アカデミック界関係者、移民、および障害者のグループとの出会いをもち、トリエステ訪問を締めくくる行事として「イタリア統一広場」でミサを捧げ、正午の祈りをされた後、ローマに戻られる。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年7月7日

☩「戦争に関わる人々が平和へ回心しますように」年間13主日の正午の祈りの後に

Women mourn the loss of their family members after Israeli bombardment in al-Maghazi, Gaza Women mourn the loss of their family members after Israeli bombardment in al-Maghazi, Gaza   (AFP or licensors)

 教皇フランシスコは30日の正午の祈りで、ウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマー、そして「戦争のために多くの苦しみがある他の多くの場所」の平和を祈り続けることの重要性を強調された。

 聖ペトロ広場に集まった信者たち全員に、「イエスの聖心が、戦争を望む人々の心に触れ、対話と平和への取り組みへ回心させてくださるように願うこと」を求められた。

 正午の祈りの後、信者たちに挨拶された教皇は、聖ペトロと聖パウロの祝日の29日にローマ教会の最初の殉教者とも呼ばれるこの二人をミサ典礼で記念したことを思い起こされ、 「私たちも、初期の数世紀よりも一層、厳しい殉教の時代に生きているのです」とされた。

 そして、世界のさまざまな場所で「私たちの兄弟姉妹の多くが、その信仰ゆえに差別や迫害を受け、それによって教会が育まれているのです」とされ、さらに、「他の人々は”white-glove”殉教に直面しています」として、「キリストへの愛の証言に励まされ、こうした人々を支えましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年7月1日

☩「神は誰一人として、のけ者にしない、だから教会も、社会も…」年間第13主日の正午の祈りで

Pope Francis during his Sunday AngelusPope Francis during his Sunday Angelus  (Vatican Media)

 

2024年6月30日

☩「私たちもイエスの愛を体験し、命の扉が開かれるように」-29日、 聖ペトロ・聖パウロの祭日に

(2024.6.29 バチカン放送)

 ローマの保護者「使徒聖ペトロ・聖パウロ」の祭日となる29日、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられた。ミサには、この1年間に任命された世界各地の首都大司教たち42名をはじめ、多くの枢機卿と司教、そしておよそ400名の司祭が参加して、教皇と共に司式。この祭日の伝統として派遣された正教会のエキュメニカル総主教庁の使節も参列した。

 教皇はミサの説教で、イエスによって「人間をとる漁師」となったガリラヤ湖の漁師ペトロ、当初は教会の迫害者であったが神の恵みによって異邦人への宣教者となったパウロ、この二人の使徒のストーリーとそれぞれの生涯を貫く宣教的熱心を振り返られ、「使徒聖ペトロと聖パウロは、まさにイエスとの出会いによって真の過ぎ越しの体験を生きたために、イエスによって解放され、彼らの前には新しい命の扉が開かれたのです」と話された。

 そして、福音のために迫害され投獄されたペトロが天使によって牢から救い出されたエピソードや、パウロがダマスコ途上で光に照らされイエスの声を聞き回心したエピソードなどを取り上げながら、「神の御業に手で触れた彼らは、実際の牢獄からも、自分が閉じこもっていた内的な牢獄からも、解放され、新たに開いた福音宣教の扉から、すべての人に福音の希望を伝えに行くことになりました」と振り返られた。

 さらに、来年2025年の聖年には、恵みの時として「聖なる扉」が開かれることに言及しつつ、「すべての人が『イエス』という生きた聖域の扉を越え、イエスの中で、希望と喜びをよみがえらせる神の愛を体験することができるように」と願われた。

 なお、このミサ中に、教皇は最近任命された首都大司教らに託す「パリウム」を祝別された。パリウムは、毎年1月21日の聖アグネスの日に祝別された子羊の毛を用いた幅4~6センチほどの白い帯状の織物に、黒い絹糸で6箇所に十字架の刺繍を施し、輪に仕立てたもの。祭服の上から首を通して両肩にかけるこのパリウムは、羊を肩に乗せた「善き羊飼い」の姿を象徴。教皇からパリウムを託された首都大司教は、各自の大司教区に戻った後、大司教区がまとめる教会管区の管轄下の教区の司教たちの参加のもとで教皇大使の手を通し、パリウムを信者の前で着衣する儀式を行うことになる。

(編集「カトリック・あい」)

2024年6月30日

☩「心から望んでいる旅」-教皇、来年のニカイア公会議1700周年にトルコ現地訪問の意向

Pope Francis with the Delegation of the Ecumenical PatriarchatePope Francis with the Delegation of the Ecumenical Patriarchate  (Vatican Media)

(2024.6.28 Vatican News   Christopher Wells)

 教皇フランシスコが28日、バチカン宮殿で、正教会のエキュメニカル総主教庁の使節とお会いになり、ニカイア公会議1700周年となる来年2025年にトルコを訪問する意向を表明された。

 使節は、ローマ教会の創始者で、カトリック教会と正教会の守護の聖人である聖ペテロと聖パウロの祝日(29日)に毎年慣例となっているローマ訪問をしたもので、教皇は会見でのあいさつで、公会議開催地ニカイア(現在の地名はイズニク)             での記念行事に、バルトロメオス総主教から招待されたことを明かされ、「それは、私が心から望んでいる旅です」と招待を受ける意向を示された。

 教皇は、「兄弟の出会いの喜びを体験する」機会を歓迎し、両教会を結びつける「深い絆」と、両教会の一致回復に向けて「共に前進する固い決意」を示されたうえで、70年前にエルサレムで行われた教皇聖パウロ6世とエキュメニカル総主教アテナゴラス1世との出会いを思い起こされ、両教会の再びの歩み寄りを促した「この出会いは、長い世紀を経て大きな希望のしるしとなりました」と述べられた。

 また、2014年に、パウロ6世とアテナゴラス1世の歴史的会見から50年を記念するために、教皇フランシスコご自身とバルトロメオス1世総主教がエルサレムに赴いたことに触れながら、二つの教会の完全な一致に向けて「共に歩む」という決意を強調し、「私たちの教会間の対話は信仰の完全性に危険を及ぼすものではありません。それは主への忠誠心から生じる必然であり、聖霊の導きのもと、贈り物の交換を通じて私たちを全真理へと導くものです」と強調。

 さらに、このエルサレム巡礼に続く、2014年6月8日、教皇はバルトロメオス総主教と共に、正教会のエルサレム総主教テオフィロス3世臨席のもと、バチカン庭園にイスラエルの故ペレス元大統領とパレスチナのアッバス大統領を迎えて、聖地および中東、そして全世界の平和を祈ったことを振り返られたうえで、10年後の現在の状況について「『平和のために共に祈ること』の必要性と緊急性を示しています… それは、戦争が終わり、各国の指導者と紛争当事者が和解への道を再発見し、すべての当事者が互いを兄弟姉妹として認め合うようになるためです」と訴えられた。

 そして、この平和への祈りは、特にウクライナで進行中の戦争など、すべての紛争に及ぶことを指摘され、来年2025年の「希望の巡礼」をテーマとする聖年に言及された教皇は、「この恵みの年を、祈りをもって支えて欲しい… この聖年に皆さんの参加があればとても素晴らしいものになるでしょう」と希望された。

 

*「カトリック・あい」注

・ニカイア(ギリシャ語、ラテン語では「ニケア」)公会議325年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により、キリスト教会内で起きていたさまざまな教義上の対立をなくすために開かれた初の世界公会議。帝国領内、当時キリスト教が広がっていたすべての地域から250名以上の司教が参加したと言われ、「父なる神と子なるキリストを同一本質」とする教理が全会一致で宣言され、現在も信仰宣言に使われているニケア・コンスタンチノープル信条が採択された。復活祭の日付についても「春分の後の満月の次の日曜日」とされ、現在に至っている。また、キリスト教禁教下でび離教を表明した者でも、回心すれば復帰を許すことが教義として定められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年6月29日

☩「AIを人間と自然の支配に用いてはならない」ー9月1日「被造物を大切にする世界祈願日」に向けて

2024年度「被造物を大切にする世界祈願日」に向けて教皇メッセージ2024年度「被造物を大切にする世界祈願日」に向けて教皇メッセージ 

(2024,6,27 バチカン放送)

 教皇フランシスコが27日、9月1日の2024年度「被造物を大切にする世界祈願日」に向けたメッセージを発表された。今年のテーマは「被造物と共に希望し、行動する」で、聖パウロが「ローマの信徒への手紙」中で、被造物と共に贖いを待ち望む、信仰を通した救いの希望について記した箇所(8章19-25節)から採られている。

 カトリック教会は、毎年9月1日に「被造物を大切にする世界祈願日」を記念する。環境保護に対して関心をもつよう呼びかけ、環境を取り巻く問題についての考察と祈りを深めることが目的だ。

 教皇はメッセージの中で、様々な不正義や、兄弟同士が殺し合う戦争、人間にとって不可欠な環境に対する汚染など、世の中の多くの悪を見つめる教皇は、聖パウロがアダムの原罪に暗に触れつつ、「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章22節)と述べている箇所を観想。「万物、すべての被造物は、今ある状況を乗り越え、本来あるべき姿に落ち着くことができるようにと、待ちきれずに、呻き、喘いでいます」と述べられた。

 そして、「被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入る」(同8章21節)と聖パウロが記すように、「キリストによる人間の救いは、被造物にとっても確かな希望であり、キリストの贖いにおいて、人間とその他すべての被造物との連帯の絆を希望のもとに観想することができるのです」と強調。「イエスの輝かしい再臨を希望と忍耐のうちに待つ中で、聖霊は信者の共同体を見守り、教え、環境をめぐる人的堕落に抗するための生活スタイルの回心へと招きます」とされた。

 さらに、「この回心とは、他者と自然を支配しようとする者の傲慢から、他者と被造物をいたわる者の謙遜への移行に根差しています… 自分を神に代わる存在にしようとする人間は、自分自身の最大の危険となるでしょう」と警告しておられる。

 また教皇は、今年の祈願日のテーマである「被造物と共に希望し行動する」は、「何よりも、すべての善意の人が力を合わせ、共に歩み、人間の力の意味とその限界を再考することに貢献すること」とされ、「人間の能力はこの数十年で増し、驚くべき技術発展を遂げましたが、それと同時に多くの生物の命と自分たち自身を危険に陥れるほどに危ない存在になったことに気づいていません… コントロール不能な能力は恐ろしい状態を生み出し、それは私たち自身を襲う可能性があります」と改めて警告。特にAI(人工知能について、その発展に「倫理的制約を設け、人間と自然の支配に用いるのではなく、平和と統合的発展に役立たせる必要」を改めて説かれた。

 今年の三位一体の祝日にバチカンで開かれたカトリック教会の「第1回世界子どもの日」の大会について、「子どもたちは、神とは抽象的な概念ではなく、愛情深い御父、すべての人の贖い主にして友である御子、私たちの愛の歩みを導く聖霊であることを理解しました」と回想され、「愛の霊への従順は、人間の態度を略奪者から庭を耕す者の態度へと根本的に変えます… 大地は、人間に託されても、神のものとして残る(参照 レビ記25章23節)のであり、自然を所有・支配し、自分の好きなように変質させようと試みることは、一つの偶像崇拝の形です」と批判された。。

 以上のように、教皇はこのメッセージ全体を通して、「被造物を守ることは、単なる倫理を超えた、人間の神秘と神の神秘の交わりをめぐる、何よりも神学的な問題であること」と強調されている。

(編集「カトリック・あい」=聖書の和訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2024年6月28日

☩「一刻も早く平和が実現するように」教皇、ロシアに捕らわれウクライナ兵の家族とお会いに

教皇フランシスコ、捕虜になったウクライナ兵の家族らと 2024年6月26日 バチカン聖ペトロ広場教皇フランシスコ、捕虜になったウクライナ兵の家族たちとお会いに(VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.6.26 バチカン放送)

 教皇フランシスコは26日の水曜恒例一般謁見で、世界中で戦争に苦しむ国々のために祈られ、ロシアの捕虜になっているウクライナ兵の家族たちとお会いになり、訴えに耳を傾けられた。

 教皇は29日にローマの保護者、使徒聖ペトロと聖パウロの祭日が祝われることに言及され、「キリストの弟子、宣教者として、福音の素晴らしさをいたる場所で証しした聖ペトロと聖パウロに倣うように」と、謁見に参加した信者たちに願われた。

 そして、ウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーをはじめとする、戦争に苦しむ国々を、この二聖人の取り次ぎに託し、「一刻も早く平和が実現するように」と祈られた。
 また、この謁見で、ロシアの捕虜になっているウクライナ兵の家族たちとお会いになり、一人ひとりの兵士の写真や経歴をまとめた冊子や、縛られた両手を表現した彫刻作品を受けとられ、速やかな釈放と戦いの終結と訴える彼らの声に耳を傾けられた。
 教皇がお会いになったのは、一昨年春、一方的にウクライナ侵攻を始めたロシア軍に南東部の都市、マウリポリで防戦、捕虜となった兵士たちの妻や母親。捕虜たちはロシアから終身刑を言い渡され、安否確認はもちろん、ほとんど連絡も取れない状態という。(編集「カトリック・あい」)
2024年6月27日

☩「違法薬物の製造、取引を阻止するのは道徳的な義務」教皇、26日の国際薬物乱用・違法取引反対デーに

(2024.6.26 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

      26日の国際薬物乱用・違法取引反対デーにあたって、教皇フランシスコは同日の水曜恒例一般謁見の説教で「(違法)薬物の中毒者とその家族の多くの悲劇的な話を知って、私はこれらの危険な物質の製造と取引を終わらせることは道徳的義務であると確信しています」と言明された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年6月26日