![教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り 教皇フランシスコ 2024年7月21日のお告げの祈り](https://www.vaticannews.va/content/dam/vaticannews/agenzie/images/ansa/2024/07/21/12/1721558586147.jpg/_jcr_content/renditions/cq5dam.thumbnail.cropped.750.422.jpeg)
☩「『休息』と『憐み』は結びついている」-教皇、年間第16主日の日曜正午の祈りで
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(編集「カトリック・あい」)
教皇の説教の要旨は次のとおり(バチカン放送)
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今日の福音は、イエスがご自分の弟子たちを宣教に遣わされた時のことを語っています。イエスは弟子たちを二人ずつ組にして遣わされ、そして、必要な物以外は持っていかないように命じられました。
一緒に派遣され、必要な物だけを身に付けた、この弟子たちの姿を考えてみましょう。
福音は一人では告げるものではなく、共同体として共に告げるものです。そうするためには、節制が大切です。それは、物の使用における簡素さ、財・能力・才能の分かち合い、贅沢を慎むことなどであす。なぜそうすべきなのでしょう。それは自由であるため、皆が尊厳ある生活をし、活発に宣教に貢献できるように、必要なものを持てるようにするためです。
さらに、先入観や頑なさを捨て、考えや感情において節度を保つことが必要です。これらは無用に重い鞄のように、歩みを困難にし、妨げます。これに対し、検討や傾聴は、証しをより効果的なものもします。
家族や共同体の中で、たとえそれがわずかでも、神の助けによって、私たちが必要において満たされ、前に進み、皆が調和し、あるものを分かち合い、各自が何かを断念し、互いに支え合うなら、そこで何が起きるかを考えてみましょう( 使徒言行録4章32-35節)。言葉で表す以前に、すでに一つの福音宣教となります。なぜなら、それは日常の生活を通して、イエスのメッセージの素晴らしさを具現化しているからです。
そのように暮らす家族や共同体は、実際、自分たちの周りに愛にあふれた環境を生み出します。そこでは、信仰と福音に心を開くことが容易になります。そして、そこからは、よりよい形で、またより安心して再出発することができるのです。
これに対し、それぞれが自分勝手に振る舞い、物質的なことだけにこだわり、相手の話に耳を傾けず、自己中心主義と妬みが勝るなら、雰囲気は重苦しく、生活は難しくなり、出会いは喜びではなく、不安と悲しみと失望の機会に変わってしまうでしょう。
キリスト教的生活にとって、交わりと節度は重要な価値があります。あらゆるレベルで宣教的な教会のために不可欠な価値です。
では、ここで自分に問いかけてみましょう。「私は、福音を伝え、主との出会いから来る喜びと光を生活の場にもたらす味わいを感じているだろうか」「そうするために、開いた精神と寛大な心をもって、他の人々と考えや能力を分かち合いながら、彼らと共に歩む努力をしているだろうか」「節度ある生活スタイルを育み、兄弟たちの必要に配慮しているだろうか」。
使徒の女王、マリアよ、私たちが交わりと節度ある生活を通して、真のイエスの弟子、宣教者となれるようお助けください。
「平和のための AI 倫理:ローマからの呼びかけにコミットする世界の宗教」 (AI Ethics for Peace: World Religions commit to the Rome Call)と題されたこの会合は、教皇庁立生命アカデミー、世界宗教者平和会議・日本委員会、アブダビ平和フォーラム、イスラエル諸宗教関係首席ラビ委員会が共催し、13 カ国から 150人以上の参加者を得て開かれた。
教皇は、メッセージで、「人工知能」と「平和」を、「絶対的な重要性を持つ2つのテーマ」として結びつけられた。
そして、先月イタリア南部プーリアで開かれた主要7カ国首脳会議(G7)で「人工知能」をテーマになさった演説を引用しつつ、「機械は、新しい方法によって、アルゴリズム的な選択を生み出せるのだということを、常に頭に入れておくことが必要です」と改めて強調。
「機械がよく定義された基準、あるいは統計的な推論に基づき、いくつかの可能性の中から技術的な選択をするのに対し、人間は、選ぶだけでなく、心を通して決断する力を持っています」と指摘され、「自立した選択ができるかのように見える機械の驚くべき力を前に、決定は常に人間の側に残るべきことを明確にしなくてはなりません」と訴えられた。
さらに、「仮に、人々から自分と自身の人生についての決定力を取り上げ、機械による選択に頼るなら、人類の未来に希望はありません」と警告され、「AIのプログラムの選択プロセス上に、人間による重要なコントロールの余地を保証し、それを保護する必要があります」と言明。この催しを称賛する中で、「機械使用のこの新たな時代に、人間の尊厳を守るため、私たちが一致して積極的な取り組みを求めていることを、世界に示して欲しい」と願われた。
また、教皇は、世界を揺るがす紛争が相次いでいる中で、「戦争への憎しみに加えて、このテクノロジーについて耳にすることが多くなっていることからも、参加者らが人工知能と平和について話し合うために広島に集っているという事実」に象徴的な意味を見出され、「武力紛争の悲劇が繰り返される中で、いわゆる『自律型致死兵器』の開発と使用の再考が急務であり、使用禁止するためには、より幅広く、効果のある人的な制御を取り入れる必要があること、そして、いかなる機械も人間の命を奪う選択は決してできないことを、皆が兄弟として一致して、世界に思い出させることが重要です」と念を押された。
教皇フランシスコは7日、イタリアのトリエステで開かれたカトリック教会の第50回社会週間の最終日の行事に参加され、講話の中で、全国から集まった約1000人の聖職者や信徒たちに対して、参加と政治的な慈善活動を通じて民主主義の危機を正すように呼びかけられた。
講話で教皇はまず、イタリアでのカトリック教会の社会週間が、第二次世界大戦後のイタリアの政治、社会の民主的プロセスを活性化させたことを振り返られ、この行事が、カトリック教会の社会教説に基づいており、社会現象に対する福音的なビジョンを提示することを目指している、と指摘。「現在、民主主義の危機がさまざまな現実や国家に広がっている中で、社会変革に対する責任ある姿勢を示すことが、世界中のあらゆる場所で活動しているキリスト教徒に求められているのです」と強調された。
教皇は、現在、世界中を襲っている民主主義の危機を「傷ついた心」に例えられ、「腐敗と社会的排除の動きが蔓延し、権力が自己中心的になり、構成員に奉仕できなくなる状態」が起きつつある、と警告。「『民主主義』という言葉が、単に国民の投票と一致するのではなく、すべての人が意見を表明し、参加できる条件を作り出さねばなりません」と語られ、さらに、民主的な(政治、社会活動への)参加は、「イデオロギー的、ポピュリスト的な誘惑に対して、市民が批判的な感覚を抱くように、若いうちから教え込む必要があります」と付け加えられた。
また、すべてのキリスト教徒に対し、「個人の尊厳を守りつつ、宗教と社会の実りある対話を促進する」よう呼びかけられ、「連帯と補完性の原則は、参加を促し、無関心を克服するため、民主主義の絆を築くのに役立ちます。無関心は民主主義の”癌”です」と指摘された。
さらに、「周囲を見渡せば、家族やコミュニティでの生活に、そして、経済、技術、政治、社会の分野にさえも、聖霊の働きの多くの兆候が見られます」とされ、「友愛は、社会の関係を繁栄させ、集団に願望の精神を生み出します… ”癒された心”を持つ民主主義は、未来への夢を育み、個人やコミュニティの働きに関与し、呼びかけ続けるのです」と語られた。
そして、「カトリック教徒は、民主主義の弊害に対する即効薬以上のものを目指さねばならず、決して、”限界的な、あるいは私的な信仰”に後退してはなりません… 耳を傾けてもらうことを要求するのではなく、何よりも、公の議論の中で、正義と平和のための提案をする勇気を持つことが必要」とされ、「キリスト教徒の政治への関与は、『政治的な愛』、あるいは『政治的な慈善』の側面を持つ必要があり、それによって政治は責任を果たし、二極化を乗り越えることができるのです」と強調。
最後に教皇は、「市民の情熱が欠けている世界に、このような愛を広めるための訓練をしましょう… 神の民として、より良く共に歩むことを学び、私たちが属する社会で、参加の”パン種”になりましょう」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
また、2014年に、パウロ6世とアテナゴラス1世の歴史的会見から50年を記念するために、教皇フランシスコご自身とバルトロメオス1世総主教がエルサレムに赴いたことに触れながら、二つの教会の完全な一致に向けて「共に歩む」という決意を強調し、「私たちの教会間の対話は信仰の完全性に危険を及ぼすものではありません。それは主への忠誠心から生じる必然であり、聖霊の導きのもと、贈り物の交換を通じて私たちを全真理へと導くものです」と強調。
さらに、このエルサレム巡礼に続く、2014年6月8日、教皇はバルトロメオス総主教と共に、正教会のエルサレム総主教テオフィロス3世臨席のもと、バチカン庭園にイスラエルの故ペレス元大統領とパレスチナのアッバス大統領を迎えて、聖地および中東、そして全世界の平和を祈ったことを振り返られたうえで、10年後の現在の状況について「『平和のために共に祈ること』の必要性と緊急性を示しています… それは、戦争が終わり、各国の指導者と紛争当事者が和解への道を再発見し、すべての当事者が互いを兄弟姉妹として認め合うようになるためです」と訴えられた。
そして、この平和への祈りは、特にウクライナで進行中の戦争など、すべての紛争に及ぶことを指摘され、来年2025年の「希望の巡礼」をテーマとする聖年に言及された教皇は、「この恵みの年を、祈りをもって支えて欲しい… この聖年に皆さんの参加があればとても素晴らしいものになるでしょう」と希望された。
*「カトリック・あい」注
・ニカイア(ギリシャ語、ラテン語では「ニケア」)公会議=325年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により、キリスト教会内で起きていたさまざまな教義上の対立をなくすために開かれた初の世界公会議。帝国領内、当時キリスト教が広がっていたすべての地域から250名以上の司教が参加したと言われ、「父なる神と子なるキリストを同一本質」とする教理が全会一致で宣言され、現在も信仰宣言に使われているニケア・コンスタンチノープル信条が採択された。復活祭の日付についても「春分の後の満月の次の日曜日」とされ、現在に至っている。また、キリスト教禁教下でび離教を表明した者でも、回心すれば復帰を許すことが教義として定められた。
(編集「カトリック・あい」=聖書の和訳は「聖書協会・共同訳」を使用)
(2024.6.26 バチカン放送)
教皇フランシスコは26日の水曜恒例一般謁見で、世界中で戦争に苦しむ国々のために祈られ、ロシアの捕虜になっているウクライナ兵の家族たちとお会いになり、訴えに耳を傾けられた。
教皇は29日にローマの保護者、使徒聖ペトロと聖パウロの祭日が祝われることに言及され、「キリストの弟子、宣教者として、福音の素晴らしさをいたる場所で証しした聖ペトロと聖パウロに倣うように」と、謁見に参加した信者たちに願われた。
1987年の国連総会で定められた国際薬物乱用・不正取引防止デーの今年のテーマは「証拠は明らか:予防に投資せよ」だ。教皇はまず、薬物使用は共同体社会を貧困に陥れること、そしてすべての中毒者が独自の物語を持ち、神の子としての尊厳を持っているとしても、薬物使用は社会のあらゆるレベルで重大な害を及ぼすこと、を繰り返し強調された。
そして、「麻薬の売人や密売人の邪悪な意図や行為を無視することはできません」とされ、「一部の国で提案され、あるいはすでに実施されている麻薬使用の自由化によって麻薬中毒の減少は達成されない」と批判。「世界中の何百万もの人々が薬物中毒に陥っているという悲惨な状況、そしてそのような薬物の違法な製造と取引の蔓延に直面して、私たちは無関心ではいられません」とし、「イエスに倣って、私たちも行動しましょう。私たちは、脆弱さと痛み、孤独と苦悩の叫びに耳を傾け、身をかがめて薬物の奴隷に陥った人々を引き上げ、生き返らせるよう求められています」と訴えられた。
また、「権力と金銭の論理に突き動かされ、どんな犠牲を払ってでも(違法薬物を作り、売りさばこうとする)死の密売人が(この地球上に)何人いるのでしょう!」と非難され、「暴力を生み出し、苦しみと死をまき散らすこの災厄は、社会全体に勇気ある行動を求めています… 暴力を生み出し、苦しみをまき散らすこの災厄、そして死は、社会全体に勇気ある行動を要求しています」と改めて強調。
さらに「麻薬の生産と密売は、環境にも破壊的な影響を与えています」と述べ、ブラジルのアマゾンの森林地帯への影響を例に挙げられた。
これらすべてを踏まえ、教皇は「予防を通じて」麻薬乱用と密売に対抗するよう呼びかけ、それは「より正義を推進し、個人とコミュニティの生活を築く価値観を若者に教育し、困っている人に寄り添い、将来に希望を与えることによってなされる必要があります」と述べられた。
教皇はまた、外国訪問中に中毒患者の回復のためのコミュニティを訪れたことを思い起され、そこで出会った司祭、修道者、一般の人々を「善きサマリア人のたとえを実践する決意の力強く希望に満ちた証人」と呼ばれたうえで、「麻薬中毒者の扱いに関する公正な法律と政策を推進し、惨劇を止めるための予防を行うために、さまざまな司教協議会が行った努力に慰められています」と語られた。
最後に教皇は、この国際デーにあたって、キリスト教徒と教会共同体に対し、「この日に込められた思いのために祈り、決意を新たにするように」と促され、説教を締めくくられた。