3月の日本の教会の祈りの意向は「性虐待被害者のために・・・聖職者から性的な虐待を受けた方々のために祈ります…」だ。だが、このことを知っている司祭、信徒がどれだけいるのだろうか。少なくとも筆者の周りの信徒に聞いた限り、誰もいない。
3月6日が、日本の司教団が十年前に決めた「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であることについても、同様だろう。”無反応”は司教たちもだ。
女性信徒を繰り返し性的虐待した司祭が所属していた修道会に賠償責任を求める“神言会裁判”が2月に続いて3月11日に東京地方裁判所で開かれる、そうした時期にもかかわらず、どうしたことか。
*司教総会で、「祈りと償い」のミサを捧げたものの、具体的な対応などの話し合いは見えない
2月16日から20日かけて全国の司教たちが集まって総会を開いた。だが、「性的被害者のための祈りと償い」のミサを一回捧げる音声なしのわずか数秒の映像が総会後に中央協議会(つまり司教団)のホームページで公開されたものの、会議の中で「祈りと償いの日」に向けた行事など司教団、各教区としての具体的な対応について話し合われたという説明は、そのホームページ上の司教協議会会長で東京大司教の菊地枢機卿の音声付画像による説明も含めて全くなかった。
年初に菊地師も参加した臨時枢機卿会議で教皇の聖職者による性的虐待問題に関する発言や、昨年10月にバチカンの未成年・弱者保護委員会の日本の司教団に対して出した17項目の勧告・要請などの共有と対応についての話し合いなどがなされとは、とても思われない。
総会後の説明は審議事項(「復活ろうそくの祝福の祈り」、「社会司教委員会の『外国籍信徒司牧部門』の名称変更」など)と報告事項(「司祭養成プログラムAの開催予定」「南海トラフ地震の対応覚書」「2026年度教区分担金」など)のタイトルのほとんど羅列だけで、話し合いの中身は皆無。
ロシア、中国、米国など原爆保有国の覇権独裁主義的な動き、ウクライナや中東地域など各地で続く紛争、民主主義国の弱体化など危機的な情勢への教会の対応、日本の教会が抱える司祭や信徒の高齢化、減少に短期、中長期の両面でどう対応するのか、司牧上の問題がどのようなもので、どう対応すべきか、などを具体的なデータをもとに話し合うことや、3月9日「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」を目前に、世界でも日本でも問題になり続けている聖職者による信徒の性的虐待問題への対応など、喫緊の重要課題について意見交換があったか否かも含め、説明はされなかった。5日間の間、何をしていたのか、首をかしげる信者も少なくだろう。
*6日の「祈りと償いの日」の担当司教メッセージなどが出ているが・・・
総会が終わって26日に、この日に当たってのメッセージが、司教団の担当者、子どもと女性の権利擁護部門の森山信三・司教名で先のホームページに掲載されたが、はっきり申し上げて、昨年まで司教団のトップ、司教協議会会長名で出されていたものよりも後退した印象を与える文言に留まっている。全国の教区で、この日に向けた具体的取り組みも不明だ。
同じ26日には、東京教区のホームページに、司教協議会会長である東京大司教の菊地功・枢機卿が「性虐待のための祈りと償いの日」に当たっての教区信者あてのメッセージを掲載。この日、あるいは直後の日に、意向に従ったミサを捧げ、教区全体として、神からの賜物である命を守り、人間の尊厳を尊重する決意を新たにしましょう」と呼びかけた。
*東京大司教は、教区信者に、決意を呼びかけ、”被害者“に「申し訳ない」としつつ、「制度上の限界」
菊地師のメッセージは続けて、性的な暴力を「キリスト者が生きる道ではありません」「神が与えてくださった賜物である命への暴力です」と断罪。「・・・とりわけ性的虐待という人間の尊厳を辱め、蹂躙し、被害者の方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者が存在することを、大変申し訳なく思います」と述べているが、被害がどこで起き、 ”被害者“が誰なのか判然としない抽象的な表現に終始。見方によっては“神言会裁判”を指しているようにも見えるが。
そのうえで、東京教区では「対応の委員会を設け…教区司教に対して必要な対応を取るよう勧告する、というシステムを長年もうけています・・・被害者への可能な限りの対応にあたることにしています」としながら、「しかし、教会内部の歴史に基づく制度上の限界はまだ、克服されておらず・・・東京教区で働く修道会会員は、その修道会上長が、東京教区司祭は教区司教が対応することになっています・・・克服できるよう、数年来、司教団は教皇庁の未成年者・弱者保護委員会と協力しながら、教区や修道会の連携や情報共有の枠組み整備を進め…」と、対応がうまく進まない”言い訳”のような文言が続く。
*バチカンの委員会、日本の司教団に「修道会の会員による性的虐待疑惑をめぐる司教と修道会の効果的な協力の欠如」を指摘
バチカンの未成年・弱者保護委員会の昨年10月の報告では、日本の司教団の性的虐待への対応について、「聖職者および司牧者に対する明文化した行動規範が欠如している…聖職者たちが『Vos estis lux mundi』(虐待の通告義務とそのための制度整備を促す教皇フランシスコの自発教令)をどこまで認識・理解しているのかについて疑問を投げかけるものである」「修道会の会員による虐待疑惑を巡る司教と修道会の間の効果的な協力の欠如について懸念を表明する」などと厳しく批判したうえで、17項目にわたる改善勧告・要請をしている。だが、今回の司教総会の公表された内容を見みても、日本の司教団が真摯に受け止めているとはとても思えない。そもそもほとんどの司教が、英文のこの報告、勧告をまともに読んでいないのではないだろうか。”不都合な真実”から目を背けるように…
「修道会司祭は修道会上長が、教区司祭は教区司祭が対応・・」とあるが、日本全国の聖職者は、「2025年8月の『カトリック現勢』」によると総計で1286人、うち教区司祭は480人で全体の4割弱、教区司祭比率が最低の東京教区では393人中64人、わずか16.3パーセントだ。つまり、教区司教が”対応“できるのは、日本全体の司祭の4割弱のみ、東京教区では2割にも満たない、ということになる。”限界“を事実上放置した状態で、「必要な対応を取るよう教区司教に勧告するシステムを長年設けています」と言っても全く説得力がない。
*「修道会の自治権は、信者の司牧などには与えられない」と教会法の専門家、故岡田大司教の例もある
前回の巻頭言でも申し上げたように、バチカンの教会法の専門家は 「すべての修道会は自治権を有しており、聖座法による会は、地区裁治権者の管轄権からの免除を享受している」とする一方、「その免除は、本来的に内的統治と規律に関して与えられるのであって、信者の司牧、神への公的礼拝の実施やその他の使徒職の活動に関するものには与えられない…全ての修道者は、司教の権限の下に置かれる」というのが教会法の解釈だとしている。つまり、修道者、修道会も信徒への性的虐待問題の判断は司教が行う、と判断できるのではないか。
実際、菊地大司教の前任の岡田大司教は十数年前、女性信徒に性的嫌がらせを受けたと訴えられた外国人の某修道会司祭が否定し続けて問題になった際、司祭本人と某修道会の日本管区長、被害女性を呼んで事情を改めて聴き、あくまで否定するその司祭を強く叱責して翻意を促した、と関係者から聞いたことがある。
*教皇は「被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっている」と警告している
原告・被害者は、昨年のこう語ったことがあるー「私は児童期に性虐待により霊的に死に、神父の性暴力によって死に、神言会へ相談したことによって死に、またカトリック中央協議会に『私の話を聞いてください』と必死の懇願をしたために死ななければなりません」と。
原告被害者は心にさらなる深手を負いながら代理人弁護士と共に既に二年以上にわたる裁判に出廷し続けているのに対して、被告・神言会は、3人の弁護士に任せて日本管区長を含め会員司祭は一度も法廷に現れない。原告弁護士が『信義則に反する』と指弾したように、「知らない」「嘘だ」「司祭の”業務”外の行為には責任が無い」、あげくに「教区と修道会は『法人』が異なる」など、反論ともいえない不誠実な言動を繰り返している。
菊地大司教が、現在裁判になっている被告・神言会の会員であり、しかも世界で二人しかいない同修道会の枢機卿の1人であり、その立場からも、道義上の説得を”修道会の上長“にすることは、岡田大司教の先例から見ても可能なはずだ。このような原告・被害者の悲痛な訴えにもかかわらず、「教会内部の歴史に基づく制度上の限界」として、自らを思考停止状態にするのは、何故なのか。まさか、自らの属する修道会を守ろうとしているのではあるまい。
教皇レオ14世は、新年早々に召集された臨時枢機卿会議の閉幕の挨拶で、菊地師ら枢機卿団を前に、「今日でも多くの場所で、教会の活動において真に傷跡となっている『性的虐待による危機』について触れておきたい」と前置きし、「虐待そのものは、おそらく一生続く深い傷跡を残します…多くの場合、教会におけるスキャンダルは、『扉が閉ざされ、被害者が受け入れられず、真の牧者たちの親身な支援を受けられなかったこと』が原因です… 被害者の痛みは、受け入れられ、耳を傾けてもらえなかったことによって、さらに強くなっている」と警告された。
司教総会は、”残念”な結果に終わったようだが、改めて日本の司教の方々にお願いする。この教皇の言葉を嚙みしめ、「性虐待被害者のための祈りと償い」を具体的行動で、速やかに示してほしい。このような真剣さを欠いた対応を続けていては、真剣に日本の教会のことを思い、福音宣教に努めようとしている信徒が失望し、教会から離れていく人が増えていくだろう。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)
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