◎教皇連続講話「出会い、たとえ話、癒しに満ちたもの」①「真のコミュニケーションは癒し。他者を傷つけない」

(2025.7.30  Vatcian News)

 

2025年7月31日

◎教皇レオ14世の聖年連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」⑥イエスのもとへ行こう!主は私たちを癒してくださる」

(2025.6.25  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は25日の水曜恒例一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」の連続講話を続けられ、今回は、マルコ福音書に記された「イエスへの信仰を持つことの癒しの力」を明らかにする二つの奇跡について考察された。

 最初の奇跡は、社会から汚れた存在として敬遠される病気で苦しんでいた女性が、イエスには自分を癒す力があると信じ、群衆の中でイエスに触れようと手を伸ばし、その信仰のゆえにイエスは彼女を癒されこと。イエスは彼女に、「安心して行きなさい」と言われた。

 そして二つ目の奇跡は、「娘が死んだ」という知らせを受け、心を痛める父親の願いに応え、イエスは少女を死からよみがえらせたこと。イエスは、父親に 「恐れるな、ただ信仰を持ちなさい 」と言われ、彼の家に行き、皆が泣き叫んでいるのを見て、「その子は死んでいるのではなく、眠っているのだ 」と言われた。

 教皇は、「この2つのエピソードは、私たちが信頼と信仰をもって主に向かうとき、主の能力を超えるものは他にないことを明らかにしています」とされ、「イエスの行為は、主があらゆる病を癒すだけでなく、死からも目覚めさせることを示しています… 永遠の生命である神にとって、肉体の死は眠りのようなもの。真の死とは、魂の死であり、私たちはこれを恐れなければなりません」と説かれた。

 また教皇は、イエスが少女を生き返らせた後、彼女の両親に「何か食べ物を与えるように」と言われたことを取り上げ、「これは、イエスが私たちの人間性と親密であることのもう一つの具体的なしるしです… このことは私たちに深い意味での理解を可能にし、私たち自身に問いかけさせるもの。もし私たち自身が福音によって養われていないなら、どうすればよいのでしょうか」と問いかけられた。

 そして、教皇はそれぞれの奇跡を振り返り、悲惨な状況を解決するために、神への信仰を邪魔するものを許容されなかったことを強調。「時として、私たちはそれに気づきませんが、密かに、そして実際に、恵みが私たちに届き、私たちの人生を内側からゆっくりと変えていくのです 」と語られた。さらに、「おそらく今日も、多くの人々がイエスの力を心から信じることなく、表面的な方法でイエスに近づいているでしょう。私たちは教会の”表面”を歩いているが、心は別のところにあるのかもしれません」と信者たちに注意を促された。

 教皇は講話の締めくくりとして、この福音書の二つの記述は、「イエスにとって、癒すことができないほど大きな傷や苦しみは何もないこと、そして私たちはイエスのもとに行くことで、イエスから新しくされることを示しています」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2025年6月25日

◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑤「癒されたい」という望みを声に出してみよう

(2025.6.18 バチカン放送)

 教皇レオ14世は18日、水曜恒例一般謁見で「イエス・キリスト、私たちの希望」の連続講話を続けられ、今回はヨハネ福音書の「ベトサダの池で病人を癒す」(5章1₋9節)を取り上げられた。

 連続講話⑤の要旨は次の通り。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人々を癒されるイエスの観想を続けましょう。今日は特に私たちが身動きできない行き止まりの道に迷い込んだ状況を考えてください。私たちには、しばしば「希望を持ち続けること」が無駄に思われることがあります。諦めが生じ、もう闘うこともしたくなくなります。

 こうした状況が、福音書の中で、体の麻痺した人の癒しを通して語られています。今日は、ヨハネ福音書の5章にある、病気で動けない人をイエスがいやすエピソードを取り上げたいと思います。

 イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムに行かれました。すぐに神殿に向かわれず、ある門の傍らで足を止められました。それはおそらく、犠牲として捧げられる羊を洗う場所だったと思われます。この門の近くには、多くの病人が横たわっていました。羊との違いは、彼らが不浄とみなされ、神殿から締め出されていたことでした。

 イエスは自ら、こうした人々の苦しみの中に赴かれます。彼らは、自分たちの運命を変えるような奇跡に期待していました。実際、門のそばには池があり、その水は「癒しの力を持ったもの、人を治せるもの」と考えられていました。たまに水が動く時、それに最初に浸かった者は癒されると、当時は信じられていました。

 こうしたことが、ある種の「貧乏人の争い」とも言える状況を生んでいました。病気の人々が池に入るために、困難のうちに自らを引きずる悲しい光景が想像されます。この池は「ベトザタ」と呼ばれていました。それは「慈しみの家」という意味です。これは、「病者や貧しい人々が集い、主が癒しと希望を与えるために来られる場所」という教会のイメージかもしれません。

 イエスは、38年も病気で動けなくなっている人に問いかけます。彼はすっかり諦めていました。水が動く時、池の中に決して、入ることができなかったからです。私たちの場合も、自分を動けなくするのは「失望」であることが多い。がっかりすると、無気力に陥りがちです。

 イエスはこの病人に、無用に思われかねない問いをします。「良くなりたいか」。でも、それは必要な問いでした。なぜなら、何年も動けないでいると、「治りたい」という意志さえも失ってしまうことがあるからです。私たちも、時として、病気の状態のままでいることを好み、自分の世話を他者に押し付けることがあります。人生をどうすべきかを決めないでいることの、言い訳にしたりすることもあるのです。

 この人も、イエスの問いに対して、まわりくどい答え方をします。そこには彼の人生観が表れています。まず、「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません」と言います。自分のせいではなく、面倒を見てくれない他者のせいだ、というのです。自分が責任を負わないための言い訳です。しかし、彼を助けてくれる者が誰もいなかったのは本当でしょうか。ここに聖アウグスティヌスの啓発的な答えがあります—「そう、彼が癒されるには、人が必要だった。しかし、それは神だったかもしれない… ともかく、必要だった人が来た。そうであるなら、まぜ、まだ癒しを先延ばしするのか」。

 この人は、さらに、「私が(池に)行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」と付け加えます。ここに彼の運命論的な人生観が表れています。私たちも、「何かが起きるのは、自分が不運だからだ」とか、「運命が味方してくれなかったからだ」と考えます。この人は意気消沈しています。「人生の闘いに敗れた」と感じているのです。

 イエスは、この人に、「自分の人生が自分の手中にあること」を発見するよう助けます。彼に、慢性的な状況から、起き上がり、床を担ぐようにと、促します。その床を、置きっぱなしにしたり、捨てたりすることはできません。それは彼のこれまでの病、彼の生きざまを表わすものだからです。

 その時まで、彼は、行く手を過去にふさがれ、死人のように横たわることを余儀なくされていました。今、彼は床をかつぎ、どこでも望みのところに持っていくことができます。自分の人生をどうするか、自分で決めることができるのです。それは、「歩むこと」、「どの道を行くか責任をもって選ぶこと」です。それができるようになったのは、イエスのおかげです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、自分の人生がどこで行き詰まったのかを理解する恵みを主に願いましょう。癒されたい、という望みを声に出してみましょう。そして、身動きできないと感じ、出口を見出せないでいる全ての人のために祈りましょう。真の「慈しみの家」である、キリストの聖心の中に再び住めるようにと、祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月19日

◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」④「主は必ず、私たちの叫びを聴かれ、立ち止まってくださる」

教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

(2025.6.11 バチカン放送)

 教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で、教皇フランシスコから引き継がれた連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」を続けられ、今回はマルコ福音書に書かれた「盲人バルティマイを癒す」(10章40₋52節)を取り上げ、イエスの生涯の本質的な側面の一つ、「癒し」に注目された。

 講話の要旨は次の通り。

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 今回は、イエスの生涯のもう一つの本質的な側面、すなわち「癒し」に目を向けたいと思います。そして、キリストの聖心の前に、皆さんの最も痛みを伴う部分、もろい部分、人生の行き詰まり、膠着した部分を差し出すようにお勧めします。「私たちの叫びに耳を傾け、癒してください」と主に信頼をもって願いましょう。

 今日の考察に登場する人物は、私たちが困難な状況から抜け出せないでいる時でさえも、「決して希望を失ってはならない」と教えてくれます。その人物、バルティマイは、イエスがエリコで出会った目の不自由な、物乞いをしている人です。その出会いの場所は象徴的—海面より低い町エリコです。イエスはご自身の死を通して、私たち一人ひとりを象徴する存在である「深淵に落ちたアダム」を迎えに行かれましたが、それを象徴しているようです。

 バルティマイは、「ティマイの子」という意味です。その名は彼が持つ一つの関係を表わしているものの、彼はあまりにも孤独でした。この名前は、「名誉の子」あるいは「賛美の子」といった意味でもありますが、彼が実際に置かれた状況とは正反対のものでした。ユダヤ教の文化において、名前は非常に大切ですが、バルティマイは「自分が本来あるべき姿を生きること」ができずにいたのです。

 イエスに付いて歩く大勢の群衆とは反対に、バルティマイは止まっています。道端に座っていました。彼を立ち上がらせ、歩ませるには、誰かの助けが必要でした。バルティマイは、「自分に備わった、そして自身の一部である素質に訴えること」を教えてくれます。彼は物乞いですが、恥も外聞もなく、叫び続けました。私たちも、本当に心から何かを求めようとした時、人から叱られようが、軽蔑されようが、無視されようが、何が何でもそれを得ようとするのではありませんか。それが本当に欲しいなら、叫び続けなくてはなりません。

 マルコ福音書に書かれた「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(マルコ福音書10章47節)というバルティマイの叫びは、東方の伝統の中で非常によく知られた祈りになりました。私たちもまた、その祈りを唱えましょう―「主、イエス・キリスト、神の子よ、罪人なる私を憐れんでください」と。

 バルティマイは目が不自由でした。それにもかかわらず、彼の目は、他の人々よりしっかりと見えていました。イエスを認めることができました。バルティマイの叫びを前に、イエスは立ち止まり、彼を呼んで来るようにと言われました。神がお聴きにならない叫びはありません。たとえ、自分たちの叫びが神に向けられている、という自覚がない時もです( 出エジプト記2章23節参照)。

 目の不自由な人の叫びを聞いたイエスがすぐに彼のところに行かなかったのは、不思議に思われるかもしれません。しかし、それはバルティマイの人生を再びよみがえらせる方法だったのです。イエスはバルティマイに立ち上がるように促し、彼が歩み出せることを信頼しておられました。そして、バルティマイは立ち直りました。死の淵から再び立ち上がることができたのです。しかし、そのためには、彼は非常に象徴的ともいえる行為をしなければならなかった。つまり、上着を脱ぎ捨てねばなりませんでした。

 物乞いにの彼にとって、上着はすべてでした。それは安心を与えるもの、家であり、自分の身を守るものでした。律法は、物乞いの上着を守り、「質にとる場合は、日没までに返すように」とまで定めていました( 出エジプト記22章25節参照)。”上着”は、私たちにとって、「見せかけの安心」を与えるもの、自分を守るために着たのに、歩く邪魔になったりすることがあります。バルティマイは、イエスのところへ行き、癒されるために、自分の弱さ、をすべてさらけ出さねばなりませんでした。それが、癒しの歩みにおける欠かせない過程なのです。

 イエスのバルティマイに対する問い—「何をしてほしいのか」も不思議に思われるかもしれません。でも、私たちも、必ずしも、病いを癒してほしい、と願うとは限りません。責任を持たされないように、そのままでいることを好むこともあるのです。

 バルティマイの答えは、普通、「また見えるようになることです」と訳さされますが、原語では「anablepein」です。この動詞には、「再び見る」という意味のほかに、「眼差しを上げる」という意味もありあます。バルティマイの場合も、「再び見える」ようになるだけでなく、「自分の尊厳」も取り戻したかったのです。「眼差しを上げる」には、頭を上げなくてはなりません。人は時に、行き詰まることがありますが、それは人生で味わった屈辱から、自分の価値を取り戻すことだけを願うためです。

 バルティマイを、私たち一人ひとりを救うのは、信仰です。イエスが私たちを癒してくださるのは、私たちが自由になるためです。イエスは、バルティマイに「自分に従うように」ではなく、「行きなさい(再び歩き出しなさい)」と言われます。福音記者マルコは、そう言われたバルティマイは「なお道を進まれるイエスに従った」と記しています。彼は「道」であるお方に自由に従ったのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、信頼を持って、イエスの御前に、私たちの、そして私たちの愛する人々の病いを差し出しましょう。道を見失い、行き詰った人々の痛みを、イエスの御前に運びましょう。彼らのためにも叫びましょう。主は必ず、私たちの叫びを聴かれ、立ち止まってくださるでしょう。

(編集「カトリック・あい」)

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◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト-私たちの希望」③人生に意味と希望を求めるなら、神はそれを与えてくださる

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月4日

◎レオ14世の教皇連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」②「自分自身が傷ついた者だ認識したときにのみ、他者への思いやりを持てる」

Pope Leo XIV makes his way through St. Peter's Square, greeting the crowds of pilgrimsPope Leo XIV makes his way through St. Peter’s Square, greeting the crowds of pilgrims  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年5月28日

◎「神の愛は、決して計算ずくではない」-教皇レオ14世、初の水曜恒例の一般謁見で、故教皇の連続講話「キリスト、私たちの希望」を引き継ぐ

Pope Leo XIV holds his first General Audience in St. Peter's SquarePope Leo XIV holds his first General Audience in St. Peter’s Square  (@Vatican Media)

 

2025年5月21日

◎教皇フランシスコ聖年連続講話⑬ 「いなくなった息子」のたとえ話ー家の「扉」はいつも私たちに開かれている

(2025.4.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコが16日の一水曜恒例般謁見のために準備された聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」が同日、バチカン広報局から発表された。

 今回は、「イエスの生涯・たとえ話」として、ルカ福音書15章の「いなくなった息子」のたとえ話(15章1₋3節、11₋32節)を取り上げられた。その要旨は次の通り。

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 福音書の何人かの登場人物とイエスとの出会いを観想した後、今回からは、いくつかの「たとえ話」について考えたいと思います。ご存知のように、これらのたとえは、日常の現実からイメージや状況を取り上げて語られた物語です。これらのたとえ話は、私たちの生き方に触れ、私たちに刺激を与えます。そして、その物語の中で自分はどこにいるのか、自分の立場をはっきりさせるように求めます。

 今回は、誰もが幼い頃から覚えている、最も有名なたとえ話、「いなくなった息子」のたとえ話(父親と二人の息子のたとえ話)を取り上げましょう。この話の中に、私たちはイエスの福音の中心、すなわち神のいつくしみを見出すことができます。

 福音記者ルカは、イエスがこのたとえ話をされたのは、「イエスが罪人たちと食事を一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちのためだった、と書いています。ですから、このたとえ話は、「自分が道に迷っているにもかかわらず、その自覚がないまま、他者を裁く人々」に向けられていると言えるかもしれません。

 福音は、私たちに希望のメッセージをもたらすことを望んでいます。私たちがどこで、どのような形で迷っても、神は常に私たちを探しに来てくださる、と伝えているからです。

 道に迷った私たちは、「草を食むために道を外した、あるいは疲れて、遅れてしまった羊」、あるいは、「地面に落ちて見つからない、あるいは誰かにどこかに置かれたまま忘れられた硬貨」のようなもの、それとも、このたとえ話に登場する父親の二人の息子たちのようなものかもしれません。下の息子は、「要求だらけのように思われた関係に縛られるのに疲れた」という意味で、一方、兄は「内心のプライドと恨みのために、家にいるだけでは満足できなかった」という意味で、それぞれ道に迷ったからです。

 愛は常に努力を要するものです。相手と向き合いたいなら、常に何かを犠牲にせねばなりません。しかし、このたとえ話に登場する下の息子は、幼児期や少年期によくあるように、自分のことだけを考えていました。実際、私たちの周りにはこうした大人がたくさんいます。彼らはそのエゴイズムゆえに、一つの関係を維持することができません。「自分自身を見つけるのだ」と思い込み、実際には自分を見失ってしまう。そうなるのは、私たちは誰かのために生きる時に、真に生きる存在だからです。

 この下の息子は、私たちと同じように、愛情に飢え、愛されることを望んでいます。しかし、愛とは貴重な賜物であり、大切に扱う必要があります。だが、彼はその愛を浪費し、自分を売り渡し、大切にしなかった。飢饉が起き、誰からも顧みられなくなって、やっとそれに気づきます。このような場合に、私たち、愛情に飢え、最初に現れた「主人」について行ってしまう危険があります。

 こうした経験は、私たちの中に「奴隷としての関係しか築けないのだ」という誤った思い込みを生み、あたかも罪をつぐなう必要があるかのように、あるいは真の愛など存在しないかのように、感じてしまうのです。そして、たとえ話にあるように、下の息子は奈落に落ちた時、愛情のかけらを拾い集めるために、父の家に帰ろうと考えます。

 私たちを本当に大切に思ってくれる人だけが、愛に対するこうした誤った見方から解き放ってくれるのです。神との関係の中で、まさにこのような経験をします。偉大な画家レンブラントは、有名な作品の中で、放蕩息子の帰還を素晴らしい表現の仕方で描いています。私たちの胸を打つのは特に二つの点。まず、この若者は悔い改めた者のように頭を剃られていますが、まるで子どもの頭のようにも見えます。彼は「新たに生まれつつある」からです。もう一つは、父親の「手」です。一つは男性的な、もう一つは女性的なその手は、ゆるしの抱擁における力と優しさを表現しています。

 しかし、イエスがこのたとえ話をされた相手を象徴しているのは、長男の方です。彼はいつも父親と一緒に家にいたにもかかわらず、その心は父から離れていました。家を出たかったのかも知れません。だが、彼は恐れや義務感から、その関係の中に留まっていました。そして、自分の意に反してそれに適応しようとすると、心に怒りが生じ、その怒りは遅かれ早かれ爆発することになるのです。

 逆説的ですが、最後に「家」の外にいる可能性のあるのは、長男の方。なぜなら、彼は父の喜びを分かち合おうとしないからです。

 父親は外にいる長男にも会いに出て行きます。そして、彼を叱ったり、義務を思い出させることはしません。ただ長男に自分の愛を感じて欲しかったのです。父親は彼に家に入るようにと勧め、扉を開けておく。この「扉」は私たちのためにもいつも開かれています。これこそが「希望」を持つ理由です。私たちが希望を持てるのは、御父が私たちを待っていたくださり、遠くから見守り、扉をいつも開けておいてくださることを知っているからです。

 この素晴らしいたとえ話の、自分はどこにいるのかを自問しましょう。そして、「家に帰る道」を見つけられるように、父なる神に恵みを祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月17日