◎連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑬「聖性は、少数者の特権ではなく、洗礼を受けた全ての人のもの」

(2026.4.8  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

  教皇レオ14世は1日の水曜恒例一般謁見での連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」で、引き続き教会憲章『Lumen gentium』を取り上げられ、今回は第5章「教会における聖性への普遍的召命について」のテーマである「聖性」は「少数の者の特権ではなく、すべての洗礼を受けた者のものであり、私たち一人ひとりが喜びをもって、神の恵みの中で生き、徳を実践し、キリストに倣うよう召されているのです」と強調された。

 初期教会とと同様に現在の教会でも、「聖性の最高位は殉教、すなわち信仰と愛の至高の証しです」とされ、教会憲章も、すべての信者が『かつてそうであったように、今日も変わらない。血を流すことになってもキリストを告白する覚悟を持たなければならない』と教えています」とされた。そして、「この証しは、キリスト者が社会に信仰と愛のしるしを残すたびに実現される。神に応答するたびに、日々の生活の中で現れる… すべての洗礼を受けた者が、愛の完全性、すなわち神と隣人に対する愛の充満を目指して努力することを求める賜物なのです」と説かれた。

*聖なる生活の育成

 また教皇は謁見に参加した信者たちに、「すべての秘跡、とりわけ聖体拝領が、聖なる生活の育成を促す糧であり、すべての人を、聖性の模範であり尺度であるキリストに似た者とするものなのです」と指摘。「イエスが教会を聖化される。その観点から言えば、聖性は主からの賜物であり、私たちが喜びをもってそれを受け入れ、献身をもって主に応えるたびに、私たちの日常生活の中で現れるものです」と付け加えられた。

 続けて教皇は、聖パウロ6世が1965年10月20日の一般謁見で、教会が真の教会であるためには、すべての洗礼を受けた者が「聖なる者、すなわち真にふさわしく、強く、忠実な教会の子供たちでなければならない」と教えたことを思い起され、「これが内的な変容として実現され、聖霊の力によって一人ひとりの人生がキリストに似せられていくのです」と述べられた。

 

 

*真剣な生活の変革への招き

 教皇は、この教会憲章が「カトリック教会の聖性を、その構成的特徴の一つ」としているが、「これは、教会が『完全かつ完璧な意味で聖化されている』のではなく、『永遠の目的地へ向かう巡礼の旅路で、世の迫害と神の慰めのただ中を歩みながら、この神からの賜物を確かなものとするよう招かれていること』を意味します」と説かれた。

 そして、「教会、すなわち私たち全員における罪という悲しい現実は、私たち一人ひとりが『愛によって私たちを新たにしてくださる主に身を委ね、真剣な生活の変革を行うように』と招いているのです。教会を聖化するこの無限の恵みこそが、私たちに日々果たすべき使命、すなわち私たちの回心という使命を授けている」とされ、「したがって、聖性は、たとえどれほど偉大であれ、倫理的誓約に還元できるかのような単なる実践的な性質を持つだけのものではなく、個人的にも共同体的にも、キリスト教生活の真髄そのものに関わるものなのです」と強調された。

 

*束縛ではなく、解放をもたらす賜物

 この点に関して、教皇は特に、福音的勧告―貧しさ、貞潔、従順―を通じて自らの生涯を神に奉献する男女に注意を向けられ、彼らの奉献生活は、「純粋な心をもって父なる神に自らを捧げたキリストを模範とし、神の摂理に対する完全な信頼を表している… これら三つの徳は、自由を束縛する規則ではなく、聖霊による解放の賜物であり、それを通して神に完全に奉献されるのです」と語られた。

 また、「貧しさ」は、「神の摂理への完全な信頼を表し、計算や自己利益から人を解放するもの」であり、「従順」は、「キリストが父に捧げた自己奉献を模範とし、疑いや支配から人を解放」し、「貞潔」は、「神と教会の奉仕に捧げられた、愛に満ちた完全で清らかな心の賜物」。「この生き方に従うことによって、奉献された人々は、徹底した弟子としての生き方という形で、教会全体の聖性への普遍的な召命に証しをするのです」と指摘。

 そして、「福音的勧告は、十字架に至るまでのキリストの生涯への完全な参与を明らかにします。まさに、十字架につけられた方の犠牲によって、私たちは皆、贖われ、聖化されるのです!」と言明された。

*神が贖われない人間の経験などない

 講話の終わりに教皇は、「神が贖われない人間の経験などないことを、私たちは知っている。主の受難と結びついて生きる苦しみでさえ、聖性の道となるのです」とされ、「人生を変容させる恵みは、あらゆる試練の中で私たちを強め、遠い理想ではなく、愛ゆえに人となられた神との出会いを指し示してくれるのです」と強調。受肉した御言葉の至聖なる母である聖母マリアに対し、私たちの歩みを常に支え、守ってくださるよう懇願された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月8日

☩「停戦を歓迎、当事者たちが交渉の席に戻り、戦争に終止符を打つように」ー教皇、米・イランの2週間停戦合意を受けて

Smoke and debris rise after a building is hit by an Israeli airstrike on the outskirts of the Lebanese city of Tyre, 8 AprilSmoke and debris rise after a building is hit by an Israeli airstrike on the outskirts of the Lebanese city of Tyre, 8 April  (AFP or Licensors)

(2026.4.8   Vatican News) 

 米・イランが2週間の停戦で合意したが、教皇レオ14世は8日、これを歓迎するとともに、当事者全てに対して、紛争の終結へ時間をかけた対話に取り組むよう求められた。

 教皇はこの日の一般謁見の最後に、数週間にわたり爆撃の応酬を続けて来た米国とイランが7日夕、2週間の停戦で合意したことを発表したことについて、「満足とともに、深い希望のしるしとして歓迎します」と語られた。

 そして、今後、当事者たちが「交渉の席に戻ることによってのみ、戦争に終止符を打つことができる」とされ、さらに、謁見に参加した人たちに、これからの外交活動の期間を祈りで支えるよう促されるとともに、「当事者たちの対話への意欲が、世界中の他の紛争状況を解決する手段となることを願うように」と勧められた。

 最後に、教皇は、先に明らかにした11日の聖ペトロ大聖堂での「平和のための祈りの集い」の開催を確認され、「会場に足を運ぶ人も、自宅で参加する人も、誰もが参加するように」と呼びかけられた。

 イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は8日朝の声明で、イランに対する攻撃を2週間停止するというトランプ米大統領の決定を支持する一方で、1500人以上の死者を出しているレバノンに対しては「停戦の対象外だ」としている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月8日

☩「キリストの復活の告知は希望に新たな声を与える」教皇、「復活の月曜日」のレジーナ・チェリの祈りで

教皇レオ14世 2026年4月6日のレジーナ・チェリの祈り教皇レオ14世 2026年4月6日のレジーナ・チェリの祈り  (@Vatican Media)
(2026.4.6  バチカン放送)
 教皇レオ14世は、「復活の月曜日」の6日正午、レジーナ・チェリの祈りを唱えられた。

 カトリック教会の暦は、復活の主日の翌日に「天使の月曜日」とも呼ばれる「復活の月曜日」を記念している。

 教皇世は、6日正午、バチカンの広場に集った巡礼者たちと、復活節の聖母賛歌「レジーナ・チェリ(アレルヤの祈り)」を唱えられた。

 集いの説教で、教皇は同日の福音朗読箇所(マタイ28章8-15節)に、復活されたイエスと出会った婦人たち(9-11節)と、祭司長たちから買収された墓の見張りの番兵たち(11-14節)の物語の対比を見つめられた。

 そして、教皇は、「最初の物語は、キリストの死に対する勝利を、二番目は、死はいつでも勝利することを告げています」とされ、「同じ『空の墓』から、一つは新たな永遠の命、他方は確実で決定的な死という、二つの異なる解釈が湧き出ています」と述べられた。

  そして、「真実の話は、今日でいう『フェイクニュース』、すなわち嘘やほのめかし、根拠のない非難によって、しばしば覆い隠されることがあります… しかし、そのような障害を前にしても、真実は隠されたままでいることはなく、むしろ、生き生きと輝いて私たちに現れ、最も深い闇をも照らします」と強調。

 「実際、イエスが墓に行った婦人たちに言われた『恐れることはない。行って、告げなさい」(28章11節)と、いう言葉は、今日、私たちにも向けられているのです」と語られた。

 さらに「この福音が、特に、歴史を歪め、良心を惑わす悪に虐げられている人々に届くことが、いかに重要な事でしょう」と述べ、戦争に苦しむ人々、信仰のために迫害されているキリスト教徒、教育の機会を奪われている子どもたちに思いを向けられた。

 「言葉と行いによってキリストの復活を告げることは、暴力に覆われてきた希望に、新たな声を与えることを意味します」と述べられた教皇は、「福音が世界に宣べ伝えられる時、それはあらゆる時代のあらゆる闇を照らし出すのです」と説かれた。

 教皇は、この集いで、昨年の復活の月曜日に帰天された前教皇フランシスコを、特別な愛情を込めてしのばれ、「故教皇の信仰と愛の偉大な証しを思い起こすと共に、私たちがより輝ける真理の使者となることができるように」と知恵の座である聖母マリアに祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2026年4月7日

☩教皇が主のご復活メッセージ「Uber et Orbi(全世界に向けて)」ー世界の指導者たちに「武器を捨て、他者と向き合うように」と訴え

(2026.4.5  Vatican News   Joseph Tulloch)

 教皇レオ14世が5日、主のご復活メッセージ「Uber et Orbi(全世界に向けて)」を発表され、世界の指導者たちに対し「武器を捨て、他者を支配するのではなく、他者と向き合うことを選ぶように」と訴えられ、来週11日に聖ペトロ大聖堂で「平和のための祈りの集い」を主宰することを明らかにされた。

Pope Leo greets the crowds gathered for his Urbi et Orbi message

 メッセージで教皇は、「武器を持つ者は、それを捨てよ!」と呼びかけ、「戦争を引き起こす力を持つ者たち」に平和を選ぶよう、強く求められた。

 そして、その平和は「力によって押し付けられたものであってはなりません。対話を通じて達成される平和、他者を支配しようとするのではなく、他者と出会うための平和であるべきです」と強調された。

 

 

*11日に聖ペトロ大聖堂で「平和のための祈りの集い」を開催

 

 教皇は、「世界が暴力に慣れてしまっている… 私たちは、何千人もの人々の死だけでなく、戦争がもたらす『憎しみと分裂』、そしてその『経済的・社会的影響』に対しても、無関心になりつつある」とされ、故フランシスコ教皇の言葉を借りて、「ますます増大する『無関心のグローバル化』」について警鐘を鳴らされた。

 そして、「私たちはこれ以上、無関心でいるわけにはいきません! 悪に屈服してはなりません!」と信者たちに促され、その具体的な行動として、11日(土)に聖ペトロ大聖堂で「平和のための祈りの集い」を開くことを明らかにされた。

 

 

*キリストが死に勝利された力は、完全に非暴力的なもの

 

 また教皇は、復活によってイエスが死に勝利され、それによって、旧来の敵、この世の支配者を完全に打ち負かされたが、キリストの勝利の力は、「創造し、生み出す愛」「赦し、贖う愛」に基づく、「完全に非暴力的な」ものであることを強調。「この愛と赦しの精神こそが、平和を築き、個人や社会間の関係を育む真の力なのです」と説かれた。

*主の復活がもたらす平和は、私たちを変容させる”内なる平和”

 メッセージの締めくくりに、教皇は、主の復活がもたらす平和とは「単なる武器の”沈黙”ではなく、私たち一人ひとりの心に触れ、それを変容させる”内なる平和”でもある」ことを強調。「キリストの平和によって、私たち自身を変容させていきましょう」と信者たちに呼びかけ、「苦しみ、主だけが与えることのできる真の平和を待ち望むすべての心」を主の御手に委ねられた。

 

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“URBI ET ORBI”の公式英語版全文以下の通り。

 

“URBI ET ORBI” MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE LEO XIV EASTER 2026

Central Loggia of St Peter’s Basilica Sunday, 5 April 2026

Brothers and sisters,
Christ is risen! Happy Easter!

For centuries, the Church has joyfully sung of the event that is the origin and foundation of her faith: “Yes, Christ my hope is arisen / Christ indeed from death is risen / Have mercy, victor King, ever reigning” (Easter Sequence).

Easter is the victory of life over death, of light over darkness, of love over hatred. It is a victory that came at a very high price: Christ, the Son of the living God (cf. Mt 16:16), had to die — and die on a cross — after suffering an unjust condemnation, being mocked and tortured, and shedding all his blood. As the true immolated Lamb, he took upon himself the sin of the world (cf. Jn 1:29; 1 Pet 1:18–19) and thus freed us all — and with us, all creation — from the dominion of evil.

But how was Jesus able to be victorious? What is the strength with which he defeated once and for all the ancient adversary, the prince of this world (cf. Jn 12:31)? What is the power with which he rose from the dead, not returning to his former life, but entering into eternal life and thus opening in his own flesh the passage from this world to the Father?

This strength, this power, is God himself for he is Love who creates and generates, Love who is faithful to the end and Love who forgives and redeems.

Christ, our “victorious King,” fought and won his battle through trusting abandonment to the Father’s will, to his plan of salvation (cf. Mt 26:42). Thus he walked the path of dialogue to the very end, not in words but in deeds: to find us who were lost, he became flesh; to free us who were slaves, he became a slave; to give life to us mortals, he allowed himself to be killed on the cross.

The power with which Christ rose is entirely nonviolent. It is like that of a grain of wheat which, having rotted in the earth, grows, breaks through the clods, sprouts, and becomes a golden ear of wheat. It is even more like that of a human heart which, wounded by an offense, rejects the instinct for revenge and, filled with compassion, prays for the one who has committed the offense.

Brothers and sisters, this is the true strength that brings peace to humanity, because it fosters respectful relationships at every level: among individuals, families, social groups, and nations. It does not seek private interests, but the common good; it does not seek to impose its own plan, but to help design and carry out a plan together with others.

Yes, Christ’s resurrection is the beginning of a new humanity; it is the entrance into the true promised land, where justice, freedom, and peace reign, where all recognize one another as brothers and sisters, children of the same Father who is Love, Life, and Light.

Brothers and sisters, through his resurrection, the Lord confronts us even more powerfully with the dramatic reality of our freedom. Before the empty tomb, we can be filled with hope and wonder, like the disciples, or with fear like the guards and the Pharisees, forced to resort to lies and subterfuge rather than acknowledge that the one who had been condemned is truly risen (cf. Mt 28:11–15)!

In the light of Easter, let us allow ourselves to be amazed by Christ! Let us allow our hearts to be transformed by his immense love for us! Let those who have weapons lay them down! Let those who have the power to unleash wars choose peace! Not a peace imposed by force, but through dialogue! Not with the desire to dominate others, but to encounter them!

We are growing accustomed to violence, resigning ourselves to it, and becoming indifferent. Indifferent to the deaths of thousands of people. Indifferent to the repercussions of hatred and division that conflicts sow. Indifferent to the economic and social consequences they produce, which we all feel. There is an ever-increasing “globalization of indifference,” to borrow an expression dear to Pope Francis, who one year ago from this loggia addressed his final words to the world, reminding us: “What a great thirst for death, for killing, we witness each day in the many conflicts raging in different parts of the world!” (Urbi et Orbi Message, 20 April 2025).

The cross of Christ always reminds us of the suffering and pain that surround death and the agony it entails. We are all afraid of death, and out of fear we turn away, preferring not to look. We cannot continue to be indifferent! And we cannot resign ourselves to evil! Saint Augustine teaches: “If you fear death, love the resurrection!” (Sermon 124, 4). Let us too love the resurrection, which reminds us that evil is not the last word, because it has been defeated by the Risen One.

He passed through death to give us life and peace: “I leave you peace; I give you my peace. Not as the world gives it, I give it to you” (Jn 14:27). The peace that Jesus gives us is not merely the silence of weapons, but the peace that touches and transforms the heart of each one of us! Let us allow ourselves to be transformed by the peace of Christ! Let us make heard the cry for peace that springs from our hearts! For this reason, I invite everyone to join me in a prayer vigil for peace that we will celebrate here in Saint Peter’s Basilica next Saturday, April 11.

On this day of celebration, let us abandon every desire for conflict, domination, and power, and implore the Lord to grant his peace to a world ravaged by wars and marked by a hatred and indifference that make us feel powerless in the face of evil. To the Lord we entrust all hearts that suffer and await the true peace that only he can give. Let us entrust ourselves to him and open our hearts to him! He is the only one who makes all things new (cf. Rev 21:5).

Happy Easter!

2026年4月5日

☩教皇、復活の主日のミサー「主の復活は、私たちを決して裏切られることのない希望へと導く」

Easter Sunday Mass in Saint Peter's SquareEaster Sunday Mass in Saint Peter’s Square

(2026.4.5  Vatican News)

    5日、聖ペトロ広場で主の復活の主日ミサを主宰された教皇レオ14世は、4万5千人以上の信者を前にした説教で、「キリストが死から蘇られた」という復活の宣教が、「決して裏切らない希望、決して消えることのない光、何ものにも奪うことのできない喜びの充満へと私たちを導きます」と強調。

 「死は永遠に打ち負かされました。もはや死は私たちに対して何の力も持ちません!」と言明された。

*主の復活は、喜びを満ち溢れさせる

 説教で教皇は「今日のすべての被造物が、新たな光に輝いています… 私たちは賛美の歌が地から立ち上るように喜び、キリストは死から蘇られ、キリストと共に、私たちもまた、新しい命へと蘇ります!」と喜びを述べられた。そして、主の復活の宣言は「私たちの人生の神秘と歴史の運命を包み込むものであり、圧倒されそうになる死の深みにおいてさえも、私たちを決して失われることのない希望、決して消えることのない光、何者にも奪うことのできない満ち溢れる喜びへの道を開いてくれる。それは、死が永遠に打ち負かされ」、もはや私たちに対して力を持たないからです」と強調された。

 

 

*「希望を受け入れる」ための試練

 

 教皇はその一方で、「死の力が内面的にも外面的にも、絶えず私たちを脅かしているため、『希望と光』という主の復活のメッセージを受け入れることが必ずしも容易ではないこと」を認められた。

 そして、内面においては、「罪の重みが、”翼を広げて飛び立とう”とする私たちを妨げたり、苦しみが希望を失わせ、”出口の見えないトンネル”に迷い込んだように感じさせたりすることがある」。

 外面においては、「”死”が日々、私たちの目の前にある。それは、不正義の中に、党派的な利己主義の中に、貧しい人々への抑圧の中に、最も弱い立場にある人々への配慮の欠如の中に存在しています。 世界における暴力とそれが引き起こす傷は、誰の目にも明らかです。最も弱い者たちを押しつぶす虐待、地球の資源を略奪する利益への偶像崇拝、殺戮と破壊をもたらす戦争の暴力によって、あらゆる場所から痛みの叫びが上がり、それが皆の目に映っているのです」と指摘された。

 

*目を高く上げ、心を開こう

 

 それにもかかわらず、主の復活は「『目を高く上げ、心を開くように』と、私たちに呼びかけています。主は生きておられ、私たちと共にいてくださるのです… 暗闇の中に開かれる復活の裂け目を通して、主は私たちの心を、私たちを支える希望に委ねてくださいます。死の力は、私たちの人生の最終的な運命ではありません。私たちは皆、一度きりでなく、永遠に、成就への道を歩んでいます。それは、キリストにおいて、私たちもまた復活したからです」と説かれた。

 教皇はまた、フランシスコ教皇が使徒的勧告『福音の喜び(Evangelii Gaudium)』で語られた「キリストの復活は、過去の出来事ではない。そこには、この世界に浸透している生ける力がある。すべてが死んでいるように見える場所でも、復活のしるしが突然芽生える」という言葉に共感され、「それは抗いがたい力です。私たちの周りには、根深い不正、悪、無関心、そして残酷さがあふれており、しばしば、神は存在しないかのように思えます。しかし、闇の只中でさえ、常に新しい命が吹き込まれ、遅かれ早かれ実を結ぶ、ということもまた真実なのです」(276項)と述べられた。

*人類のために、新しい命が夜明けを迎える

 

 説教の締めくくりに教皇は「復活されたキリストは、私たちに確かな希望を与えてくださいます。復活は、死よりも強い新しい命が、今や人類のために夜明けを迎えていることを告げているのです」とされ、次のように語られ、信者たちを励まされた。

 「復活祭は、復活された主によってもたらされた新しい創造であり、新たな始まりであり、古き敵に対する神の勝利によって、ついに永遠のものとなった命です。今日、私たちには、この希望の歌が必要です。キリストと共に復活した私たち自身が、キリストを世界の街角へと導かねばなりません。私たちも、(主の復活を知った)マグダラのマリアのように走り出し、すべての人にキリストを告げ知らせ、復活の喜びを生き抜きましょう。そうすれば、死の影がまだ漂っている場所にも、命の光が輝くようになるに違いありません」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月5日

☩教皇、復活徹夜祭ミサを主宰ー「分裂と死をもたらす罪に対し、神は人々を結びつけ、命を回復させる愛の力をもって応えてくださる」

Pope Leo celebrates the Easter vigilPope Leo celebrates the Easter vigil  (@VATICAN MEDIA)
(2026.4.5  Vatican News    Joseph Tulloch) 

 教皇レオ14世は4日の聖ペトロ大聖堂での復活徹夜祭のミサ説教で、善と悪、そして再生について語られ、「分裂と死をもたらす罪の硬さに対し、神は、人々を結びつけ、命を回復させる愛の力をもって応えてくださる」と強調された。

 説教で教皇は古代の賛美の歌を引用され、主の復活は「憎しみを追い払い、調和を育み、強者を打ち倒す」と指摘。主の復活の物語の核心はイエスの死からの復活にあるが、「今宵の聖なる神秘は……何世紀にもわたって広がっています」と述べられた。

*救いの歴史に共通するテーマは「命を回復させる神の愛の力」

 

 ミサで朗読された9つの聖書の箇所について、教皇は、「神による世界の創造から、イスラエル人のエジプト脱出、そして聖パウロによるキリストの復活についての考察に至るまで、『和解と恵みの道』のいくつかの段階を垣間見ることができます」とされ、「救いの歴史におけるこれらすべての瞬間の共通するテーマは、分裂と死をもたらす罪の硬さに対して、神が、結びつけ、命を回復させる愛の力をもって応えることです」と語られた。

*二人のマリアが目撃したのは、愛は死を超越するという事実だ

 続いて教皇は、マタイによる福音書に記されているキリストの復活について考察された。二人のマリアがイエスの墓を訪れたとき、地震が起こり、入り口を塞いでいた石が転がり落ちた。教皇は、二人の女性が目撃したのは、「いかなる悪の力よりも強い、神の愛の力です」とされ、「人間は肉体を殺すことはできても、愛の神の命は永遠の命であり、それは死を超越し、いかなる墓も閉じ込めることはできないのです」と説かれた。

*不信、恐怖、利己心、恨み、そして戦争、不正、孤立に”麻痺”してはならない

 

 そして説教の最後に教皇は「今日なお、開かれるべき墓」について言及。「それには、不信、恐怖、利己心、恨みに加え、戦争、不正、そして人々や国家の孤立が含まれます。そのような課題に直面しても”麻痺”してはなりません」と信者たちに忠告。「私たちより先に逝った聖人たちの献身に倣い、『調和と平和』という復活の賜物が、世界中で、いつでも、どこでも、成長し、花開くようにする必要があります」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年4月5日

・主の受難の典礼—「イエスは十字架の死を救いへと変えられた」

(2026.4.3  バチカン放送)
 教皇レオ14世は聖金曜日の3日午後、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「主の受難の儀式」を行われた。The Liturgy of the Passion Liturgy in the Vatican

 静まり返った聖堂内に教皇は行列と共に入場、中央祭壇前の床に伏し、沈黙の祈りを捧げられた。参列者らもこうべを垂れ、その祈りに一致した。

 続く御言葉の典礼では、第一朗読『イザヤ書』の「主の僕の歌・第4歌」(52章13節-53章12節)で「主の僕の苦難と死」が、第二朗読『ヘブライ人への手紙』(4章14-16節、 5章7-9節)で「御子であるにもかかわらず、苦しみによって従順を学ばれ、永遠の救いの源となられたイエスの姿」が示された。

 福音朗読では『ヨハネ福音書』のイエス・キリストの受難(18章1節-19章42節)が三人の助祭により朗誦された。人々は、イエスの逮捕・連行から、尋問、死刑判決、十字架を背負ってのゴルゴダへの歩み、十字架につけられ、死に至るまでの出来事に思いをはせた。

 続く説教は、 教皇付説教師ロベルト・パソリーニ神父によって要旨以下のとおり行われた。

(Vatican News    Deborah Castellano Lubov)

  パゾリーニ神父はまず、この聖なる日に典礼が私たちに主の受難を黙想するよう招いていることに注意を向け、「キリストの十字架を孤立した事実、突発的で不可解な出来事として捉えるなら、それは理解不能なままになりかねないが、実際は、旅路の頂点… イエスが父の声を聞き入れ、受け入れ、自らを最大の愛へと導かれることを受け入れた生涯の成就なのです」と強調。

 聖週間の日々において、典礼が私たちを今読まれた『イザヤ書』の「主の僕の歌」に耳を傾けるように導いてきた、としたうえで、「それは預言者イザヤが、神が悪と罪から世界に救いをもたらすための神秘的なしもべの姿を描き出す詩的なテキストです。ここでは、僕を、「盲人の目を開き、囚人を牢獄から、暗闇に住む者を地下牢から連れ出す」ために主によって召された者として紹介されていますが、その行為は、暴力によってではなく、極めて優しい方法でなされるのです」と言明。

 そして、「僕は、悪の闇の中で命を求める者でなければならないが、そのような使命を受け入れることは容易ではありません」とも述べた。

 

*主の僕は、あらゆる努力が無駄であるという感覚を味わう

 

 「僕」は使命を果たそうと奮闘した後、善を行うためのあらゆる努力が無駄であったという苦い感覚を味わう。蒔かれた善が実を結んでいないように思えるからだ。それは「主に従うことを選んだ者なら誰にでも、遅かれ早かれ訪れる危機。堂々巡りしているような、どこにもたどり着けないような、目に見える結果をもたらさない何かに、忠実であり続けている、という感覚」であることを認めつつ、「実際には、それは単なる”印象”に過ぎないのです」と語った。

 僕は、助けようとした者たちが敵意や怒り、さらには暴力で応じていることに気づく。それでも、彼は逃げず、主が示された道を歩み続ける。

 だが、「僕に加えられる暴力は極めて激しく、その顔を歪め、誰であるかも判別できないほどにしてしまいます… しかし、まさにこの道程において、彼は受けた悪に報復しないことを学んだのです」。

*主は、父への完全な信頼をもって、十字架の死を救いの出来事へと変容された

 

 以上の考察の後、神父は「父なる神の御心への完全な信頼をもって、主は、ご自身の十字架の死を救いの出来事へと変容されました」と語った。

 「悪に直面した時、取ることのできる道は、悪に屈服するか、あるいは悪を返すかの二つしかない、ということを、私たちは絶えず目にします。戦争において、分裂において、そして私たちの関係を傷つける傷跡において、です」としたうえで、「しかし、イエスは、『より大きな力で自らを押し通す』ことによってではなく、受難の劇的な出来事を通じて、自分に起こったことを受け入れることによって、この連鎖を断ち切ったのです」と言明。

 「このように十字架の道を歩むことによって。キリストは最も困難な『従順』、すなわち、たとえ相手が敵として現れたとしても、他者を愛するいう従順を学ばれたのです」と述べつつも、「かつてのように神の声が人類の共通の道を導くことがなくなった世界に私たち生きていること」を嘆き、「戦争は止まず、不正は増え続け、最も弱い立場にある者たちがその代償を背負わされている」とも語った。

*流れに逆らい、主の模範に従う、という選択

 

 そして、「人類をより公正で兄弟愛に満ちた世界へと導くことのできる、人々を一つにする言葉や歌が欠けているかのようです… しかし、まさにこの状況においてこそ、驚くべきことが見られる。それは、別の声に耳を傾けることを選ぶ”沈黙の群衆”です。ある人々はそれをはっきりと神の御心として認識し、またある人々はそれを深く、逃れようのない良心の呼び声として感じ取っている」と指摘。

 「時には彼らは、自覚することさえなく、主のしもべと同じ道を歩む、ごく普通の男女です… 並外れた行いをするわけではない。ただ毎日起き上がり、自分の人生を、自分自身だけでなく他者のためにも役立つものになろうと努めているのです… 悪が最終的な勝利を収めることなく、歴史が暴力の中で終わらないのは、彼らのおかげです」と述べた。

 そして、「神が喜ばれるその僕の歌が、今もなお人間の心に響き渡り、それが十字架を背負うことを意味するとしても、自らの生涯という具体的な『楽譜』へと書き換える意志を持つ者をただ待っていることを、これらの人々は証ししているのです」と強調した。

 

*世界は救われる必要があるが、”上”から降りてくるものではない

 「昨日も今日も、世界は悪の暴力から、人を殺す不正から、人を辱める分裂から救われる必要がありますが、救いは上から降りてくるものではなく、政治的、経済的、あるいは軍事的な決定によって保証されるものでもない。主の僕の歌を自らの生き方として受け入れることをいとわない人々によって、世界は絶えず救われています」。

 「主イエスは、父の御心を真剣に受け止め、それを最後まで遂行すべき『楽譜』として抱きしめたとき、まさにこれをなされたのでした。大声と涙をもって。そして、十字架という『楽譜』は、私たちにも託されているのです」。

*主は私たちを御自身の道具として必要とされている

 

  「直面できない困難な状況などないこと、指を差すべき罪人などいないこと、私たちが愛し奉仕することを妨げる敵などいないことを受け入れれば、私たちはそれを自由に受け取ることができる… その代わりに、私たちは悟らねばなりません。『悪に悪で報いないことを選び、試練の中で忍耐し、闇がすべてを飲み込みそうに見えても善を信じ続けることによって、私たちは、世界に救いをもたらすために主が用いたいと願う僕となることができるのだ』と」。

 「憎しみと暴力に引き裂かれ、戦争や死の決断を正当化するために神の名さえも引き合いに出される、このような時代において、私たちキリスト教徒は、主の十字架に近づくよう招かれているのです。私たちは恐れず、完全な確信を持って、それに応えるべきです。。統治することを学ぶ『玉座』が他者のために自らの命を捧げる場所であることを知っているからです」。

 パゾリーニ神父はこう述べた。「私たちが『信仰の告白』をしっかりと握りしめるなら、私たちの日々は喜びと苦しみの歌を響かせるでしょう。それは十字架の神秘的な『楽譜』であり、そこには最大の愛の音色が奏でられるのです」。

・・・・・・・

 説教の後、全教会とすべての人々のために盛式共同祈願が唱えられ、儀式の後半に「十字架の崇敬」が行われた。十字架を持った助祭が大聖堂内を祭壇に向かって歩みながら、三度立ち止まるごとに、十字架を高く掲げた。教皇と会衆はひざまずき、イエスの受難を心に深く留めながら十字架を崇敬した。

 この後、中央祭壇前に立てられた十字架の前に教皇は進み出て、その前にひざまずき祈った。そして、立ち上がった教皇は磔刑のイエスに接吻された。教皇に続いて、枢機卿らをはじめ、聖職者、修道者、信徒の代表が、それぞれ十字架を崇敬。 教皇はこの終わりに自ら十字架を掲げて会衆に示しながら、皆を再び十字架の崇敬へと招かれた。

 最後に、聖体拝領が行われ、教皇が沈黙する聖堂内から退場された後、参加者らも静かに解散した。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年4月4日

☩「愛の交わりを深めていく旅として人生を歩めるように」ー教皇、コロッセオでの道行きで十字架を担がれる

(2026.4.3 Vatican News  Devin Watkins) 

 教皇レオ14世は聖金曜日の3日夜、ローマのコロッセオでの「十字架の道行き」で信者たちの先に立たれ、全行程で十字架を担われた史上二人目の教皇となられた。Pope Leo carries the Cross inside the Colosseum

 この十字架の道行きには、約3万人の信者に加え、ソーシャルメディアやテレビ、ラジオを通じて世界中の多くの人々が参加。教皇は、多くの初期キリスト教徒の殉教を目撃した古代ローマの建造物であるコロッセオの、ろうそくの灯りに照らされた遺跡の中を、先導された。

 ウェスパシアヌス帝によって着工され、西暦80年にティトゥス帝によって完成したこの古代最大の円形劇場は、後にカトリック教会に奉献された。毎年、教皇とローマの信者たちはコロッセオに集い、イエスの死と埋葬を偲ぶ14の十字架の道を巡る霊的な巡礼を行っている。

 教皇は十字架を負われ、1980年から1994年まで「十字架の道行き」の全行程で十字架を担がれた聖ヨハネ・パウロ2世教皇の足跡をたどられた。

 教皇が十字架を運ぶ間、福音書の箇所が朗読されたほか、聖フランシスコの著作からの短い抜粋や、元聖地守護者であるフランシスコ会士フランシスコ・パットン神父による黙想の言葉も読み上げられた。

 パットン神父は黙想の中で、「キリスト教徒が信仰、希望、愛という神学的徳を現実の世界でいかに具現できるか」について、聖フランシスコの模範を提示したうえで、各留ごとに話された。Over 30,000 people prayed the Stations of the Cross with Pope Leo near the Colossum

 「十字架刑と埋葬のためにエルサレムの狭い通りを通られ、ゴルゴタへと向かわれた道を、イエスは私たちと共に辿られます… イエスの時代と同様に、私たちは混沌とし、気が散り、騒がしい環境の中を歩んでいます。イエスへの信仰を共有する人々だけでなく、イエスを嘲笑したり侮辱したりする人々にも囲まれながら」。

 「十字架の道行きは、清らかな敬虔さの中で、あるいは抽象的な内省にふける生活を送る人々のためのものではありません… 『信仰、希望、愛が現実の世界で具現されなければならない』と知る者の実践のなのです」。

 「私たちは、十字架に対する嫌悪が露呈し、謙遜ではなく栄光を求めようとする欲望を目の当たりにします」。

 (イエスは三度お倒れになる)「愛の無力さを通して父のもとへ私たちを立ち上がらせてくださるイエスを信頼せねばなりません」

 「権威主義的な体制、無関心なメディア、そして私たち自身の病的な好奇心が、他者を裸にし、それによって私たち自身の人間としての尊厳を貶めています」。

 (聖母マリアが息子の死を目の当たりにする)女性たちは、常に苦しむ人々の傍らに寄り添ってきた。(彼女たちの流した涙、そして)私たちの涙こそが、人間であり続けることを教えてくれるのです」。

 「死によって父のもとへ帰られ、私たちを共に連れて行かれ、永遠の死を打ち破る、という御業を宣べ伝える使命を、イエスは、私たちに託されたのです」。

 そして、十字架の道行きの結びに、教皇は、キリスト者が聖フランシスコの招きに応え、「愛の交わりを深めて行く旅として人生を歩むことができるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月4日

☩教皇、ウクライナ大統領と電話会談「敵対行為が終息し、公正で永続的な平和が実現することを願う」

File photo of Pope Leo XIV and Volodymyr ZelenskyyFile photo of Pope Leo XIV and Volodymyr Zelenskyy  (@Vatican Media)
(2026.4.3  Vatican News)

   教皇レオ14世は3日朝、ウクライナのゼレンスキー大統領と電話会談をされ、ウクライナ国民への連帯を改めて表明された。

 会談後にバチカン報道局が発表したの声明によると、教皇は「ゼレンスキー大統領との親密な会話の中で、復活祭の祝日に際しての祝福を伝え、ウクライナ国民への連帯を改めて表明された」。

 声明はさらに、「両者は同国における人道状況について議論し、紛争で苦しむ人々に必要な支援が届くことの緊急性を確認した」とし、特に「捕虜の解放に関する人道的な取り組みを促進する努力」についても取り上げられた。

 そして、教皇は、「国際社会の献身と協力により、敵対行為が一日も早く終息し、公正かつ永続的な平和が実現することを改めて希望された」としている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月3日

☩教皇がイスラエル大統領と電話会談「あらゆる外交チャネルを使って対話の窓口を再開する必要性」を協議

File photo of Pope Leo XIV receiving in audience Isaac Herzog, President of the State of IsraelFile photo of Pope Leo XIV receiving in audience Isaac Herzog, President of the State of Israel  (@Vatican Media)

(2026.4.3  Vatican News)

教皇レオ14世は3日朝、イスラエルのヘルツォーク大統領と電話で会談。現在進行中の深刻な紛争に終止符を打つ必要性を改めて強調された。 バチカン報道局が両者の会談後に発表した声明によると、「会談では、中東全域に公正かつ永続的な平和をもたらすことを目指し、現在進行中の深刻な紛争に終止符を打つため、あらゆる外交チャネルを使って対話を再開する必要性が強調された」という。

 また、この会談では、「民間人の保護と、国際法および人道法の尊重を促進することの重要性」についても焦点が当てられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年4月3日

☩「私たち司祭は、全生涯を捧げて神の民に仕えるよう召されている」—教皇、聖木曜のミサで

(2026.4.2  Vatican News   Deborah Castellano Lubov) 

  教皇レオ14世は聖木曜日の2日夜、ラテラノ大聖堂で主の晩餐ミサを捧げられ、司祭たちに対して「自らの全生涯を神の民に捧げることで主に仕える」よう諭され、「世界中で残虐行為が横行する今の時代に、私たちも、抑圧された人々や困窮するすべての人々と共にひざまずかねばならない」と強調された。

 「この世において、とりわけ悪がはびこる場所において、イエスは断固として永遠に、そして全身全霊をもって私たちを愛しておられます」。

 説教の中で教皇は、この夜の厳粛な典礼が、主の受難、死、そして復活を記念する聖なる三日間への入り口であることに注意を向けられた。

Pope Leo XIV celebrating Holy Thursday Mass

*主はひざまずいて、私たち一人ひとりの足を洗われる

 

 そして、「愛ゆえに、主が使徒たちの足を洗われたこと」を振り返られ、「主はひざまずいて私たち一人ひとりの足を洗われ、その神聖な賜物が私たちを変容させるのです… 主が水と器とタオルを取り、私たちに示されがのは、単なる『道徳的な模範』をはるかに超え、私たちに『主ご自身の生き方そのもの』を託すこと。足を洗われるという行為こそが、神の啓示を凝縮したなさり方なのです」と強調された。

 さらに「イエスが僕の姿をとられたことによって、聖父は、父なる神の栄光を現し、私たちの良心を歪めがちな世俗的な基準を覆すのです」と述べられた。

*司祭は全生涯をかけて神の民に仕えるよう召されている

 続いて教皇は、ベネディクト16世の2008年の主の晩餐のミサにおける説教の言葉―「イエスのなさろうとした行為に抵抗したペトロのように、私たちもまた、『神の偉大さは、私たちの考える偉大さとは異なるということ』を繰り返し学ばなければならない」を取り上げ、「ベネディクト教皇は、私たちが常に『私たちに仕える神』、あるいは『何らかの形で勝利を与えてくれる神』を求める誘惑にさらされていることを認めておられました。そして、私たちは、神が実際に、無償で謙虚な足を洗うという行為を通じて、私たちに仕えてくださっていることに、しばしば気づいていないのです」と語られた。

 教皇はまた、主による足洗いと、パンを裂くことによる聖体の制定について考察され、「イエスのその行為は、『ご自身をすべて捧げていること』を示しています。司祭たちもまた、全存在をもってそうするよう召されています」と指摘。「司祭職にある愛する兄弟たち。私たちは、全生涯をもって神の民に仕えるよう召されているのです… 主の命令に従い、新約の司祭として任命された司教や司祭たちを通して、神の民全体に対する主の愛のしるしが現されるのです」と説かれた。

 

 

*主の愛は私たちの善に先立つ

 続けて教皇は、「主の愛が私たちの善や清さよりも先立つこと」に注意を向けられ、「主はまず私たちを愛し、その愛の中で私たちを赦し、回復してくださる… 主の愛は、私たちが主の憐れみを受け入れたことへの報いではありません。主は私たちを愛し、それゆえに私たちを清め、それによって私たちが主の愛に応えることができるようにしてくださるのです」と強調。

 司祭たちに対し、イエスからこの『相互奉仕』を学ぶよう求められ、「イエスは、私たちに『報いること』を求めておられるのではなく、その賜物を『互いに分かち合うこと』を求めておられます」とされ、また、「主のように仕えるための必要条件は、司祭自身が主に仕えられることを受け入れること。それは、キリストが『あなた方が、私を僕として受け入れないなら、真に私を信じ、主として従うことはできない』と言われたからです」と述べられた。

*多くの残虐行為の中で人類が膝を屈させられる中で、私たちも…

 教皇はさらに「神は御自身において、『支配するのではなく、解放する道』、『命を破壊するのではなく、与える道』の模範を、私たちに示されました… 数多くの残虐行為によって人類が膝を屈させられる中で、私たちもまた、抑圧された人々の傍らで、兄弟姉妹として膝を屈しましょう。そのようにして、私たちは、ご自身を完全に捧げられた主の模範に従おうとするのです」と強調。

 「聖木曜日は、熱烈な感謝と真の兄弟愛の日。今晩の聖体礼拝が、すべての教区や共同体において、イエスがそうされたようにひざまずき、その仕えを同じ愛をもって模倣する力を求めるための時となるように」と願われた。

 

 

*キリストの伝統を受け継が洗足式

 このミサの中で教皇は、キリストの伝統を受け継ぎ、12人の司祭の足を洗われた。その司祭たちは、アンドレア・アレッシ神父、ガブリエレ・ディ・メンノ・ディ・ブッキアーニコ神父、レンツォ・キエーザ神父、フランチェスコ・メローネ神父、クロディ・メルファレン神父、フェデリコ・ペロージオ神父、マルコ・ペトロロ神父、ピエトロ・ヒエウ・グエン・フアイ神父、 マッテオ・レンツィ神父、ジュゼッペ・テラノヴァ神父、シモーネ・トロイロ神父、エンリコ・マリア・トルシアーニ神父。うち11名は昨年教皇レオ14世によって叙階された。12人目のキエーザ神父は教皇による叙階を受けていないが、ローマ教皇庁立大司教神学校の霊的指導者を務めている。

 そして、典礼の終わりに、教皇は聖体を聖フランシスコ礼拝堂にある聖体安置所へと運ばれた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2026年4月3日

☩「イースター休戦を、そして戦争を終結させる解決策を見出せ」教皇、トランプ大統領はじめ世界の指導者たちに訴え

(2026.3.31 Vatican News)

  教皇レオ14世は3月31日夕、教皇別邸カステル・ガンドルフォで記者団の質問に答える形で、トランプ米大統領の実名を初めて挙げ、紛争と暴力で傷ついた世界における指導者たちに対し、「交渉の席に戻り」、対話を通じて問題を解決するよう改めて呼びかけられるとともに、復活祭のこの期間に休戦がなされることへの希望を表明され。

 教皇は、「トランプ大統領が最近、(イランとの)戦争を終結させたいと語ったという話を聞きました。願わくば、彼が『出口』を探していることを。願わくば、彼が暴力や爆撃を減らす方法を探していることを。それは、中東やその他の地域で生み出され、絶えず増大している憎しみを解消する上で、大きな貢献となるでしょう」と強調された。

そして、世界中の指導者たちに向けて「交渉の席に戻り、対話を再開するように。問題の解決策を模索し、我々が助長している暴力を減らす方法を模索しましょう。そうすれば、特に復活祭を前にしたこの時期に、平和が私たちの心に君臨するでしょう」と呼びかけられた。

教皇はまた、聖ペトロ広場に集まった人々に対して、「復活祭を前にした聖週間は、一年で最も神聖な時期であるべきです。それは平和の時であり、深く省みる時です。それなのに、皆が知っているように、今また世界中の多くの場所で、私たちは、あまりにも多くの苦しみや死、さらには罪のない子供たちの死さえも目撃しています… 私たち絶えず平和を訴えています。だが、残念ながら、多くの人々が憎しみや暴力、戦争を助長しようとしています」と強く嘆かれた。

そのうえで、特にキリスト教徒に対して、「キリストが今日もなお十字架にかけられ、キリストが今日もなお罪のない人々、とりわけ暴力や憎しみ、戦争に苦しむ人々の中で苦しんでいることを認識して、この数日間を過ごしてほしい。彼らのために、戦争の犠牲者のために祈りましょう。すべての人に新たな命を与えることのできる、真に新しく、刷新された平和が訪れるよう祈りましょう」と訴えられた。

*「キリスト共に、祈りの中で全ての苦しみを背負う」教皇、聖金曜の十字架を担われる

 

 コロッセオで行われる伝統的な聖金曜日の十字架の道行きで、教皇ご自身が十字架を担われることが31日発表されたが、教皇はこのことについて、「それは重要なしるしとなると思います。なぜなら、教皇が象徴するもの、すなわち今日の世界における精神的指導者であり、『キリストが今もなお苦しんでおられる』ことを告げる声であるからです。そして私もまた、祈りの中でこれらすべての苦しみを背負っているのです」と説明された。

 そして、「善意あるすべての人々、信仰を持つ人々」に対して、「私たちのために苦しみ、救いを与えてくださったキリストと共に歩み、自ら平和の担い手となるよう努めるに」と改めて呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月2日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑫教会憲章ー教会は、信徒が福音を証しするあらゆる場所に存在する」

(2026.4.1 Vatican News   Isabella H. de Carvalho)
 教皇レオ14世は1日の水曜恒例一般謁見での連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」で、引き続き教会憲章『Lumen gentium』を取り上げられ、今回は第4章「信徒について」のテーマである「『福音を証し』する教会の使命において信徒が果たす重要な役割」について語られた。 講話で教皇は、「すべての人々に手を差し伸べ、福音とともに正義、愛、平和を広める教会を築く上で、信徒の貢献、奉仕、そして証しは欠かすことができません」と語られ、「信徒使徒職の幅広い分野は、教会内に限定されるものではなく、世界へと広がっていのです」と説かれた。

 そして、「教会は、その子らが福音を告白し、証しするあらゆる場所に存在します。職場においても、市民社会においても、あらゆる人間関係においても、彼らが自らの選択を通じて、今ここで神の国において成就される正義と平和を予示するキリスト教生活の素晴らしさを示す場所であれば、どこにでも存在します」とされ、フランシスコ教皇が好んで語られた「外へ向かう教会」、「歴史の中に具現化された教会」であり、福音の証しという使命に対して「常に開かれた」教会を築く上で、信徒が重要な役割を果たしていることを強調された。

*すべて洗礼を受けた者は平等だ

 

 また教皇は教会憲章の第4章が、何世紀にもわたって、ただ「聖職者や奉献生活者ではない者」として定義されてきた信徒について、「肯定的な観点から、その本質と使命を説明しようとしています」と指摘。フランシスコ教皇を引用する形で「一般信徒とは、端的に言えば、神の民の圧倒的多数を占める人々」であり、聖職者は「少数派であり、彼らの奉仕に立つ者」とされ、さらに、「一般信徒の性質と使命は、『選ばれた神の民が一つであり、キリストにおいて同じ尊厳を共有していること』に根ざしています」と語られた。

 さらに、「司牧職や生活状態のいかなる区別にも先立つ形で、第二バチカン公会議は、『すべての洗礼を受けた者の平等』を断言しています… 教会憲章は、第二章『神の民』についての章ですでに断言されていたこと、すなわち、メシアニックな民の条件とは、『神の子としての尊厳と自由であること」を私たちが忘れないように求めているのです」と説かれた。

 

*神の民は「形のない集団」ではない

 

 そして、「信徒の重要な役割が、洗礼による尊厳と神の民の一員であることに由来すること」を説明された後、教皇は、公会議が「教会内および世の中で」の彼らの使命も強調したことに言及。教会憲章』第31項を引用して、信徒が「それぞれの方法で、キリストの司祭的、預言的、王的な務めに参与しており、キリスト教徒全体としての使命を自らの役割において果たしている」ことを強調。「したがって、神の聖なる民は決して『形のない集団』ではなく、キリストの体、あるいは聖アウグスティヌスの言葉によれば『クリストゥス・トトゥス』、すなわち『全きキリスト』そのものです」と語られた。

 さらに教皇は、「神の民は、キリストの司祭職への二つの参加形態、すなわち信徒の共通の司祭職と奉仕的司祭職との実りある関係によって、有機的に構成された共同体。洗礼によって、信徒はキリストの司祭職そのものに参与するのです」と述べられた。

 講話の結びに、教皇は、聖ヨハネ・パウロ二世が1988年の使徒的勧告Christifideles laici( 信徒の召命と使命)』で、第二バチカン公会議が「信徒の性質、尊厳、霊性、使命、責任について、かつてないほど詳述された」こと、すべての信徒に対し、「使徒的活動を通じて教会内で積極的に活動するように、と呼びかけたこと」に注意を向けられた。

 そして「私たちが祝おうとしている復活祭が、マグダラのマリアやペトロ、ヨハネのように、復活された主の証人となる恵みを、私たちの中に新たにしてくれますように」と祈られた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年4月2日

☩「主が戦争で傷ついた人々を支え、和解と平和への具体的な歩みを開いてくださるように」教皇、「受難の主日」正午の祈りで

(2026.3.29 バチカン放送)

 教皇レオ14世は29日、受難の主日(枝の主日)の正午の祈りで、紛争で苦しむ中東のキリスト教徒たちに思いを向けながら、和解と平和への歩みが開けることを祈られた。

 祈りに先立って、教皇は、残忍な紛争のために、多くの場合、この聖なる日々の儀式に十分に参加することができない中東のキリスト教徒たちに、祈りと共に寄り添われ、 「まさに教会が主の受難の神秘を観想するこの時、私たちは、今日、主の苦しみに現実をもって与っている人々を忘れてはなりません」と信者たちに呼びかけられた。

 そして、「彼らの試練は、すべての人々の良心を問いただすものです」とされ、「平和の君である主が、戦争で傷ついた人々を支え、和解と平和への具体的な歩みを開いてくださるように祈りましょう」と促された。

 また、教皇は、特に戦争の犠牲者である船員たちを主に委ねられ、亡くなった人々、負傷者、その家族のために祈りながら、「大地と空と海は、命と平和のために創造されたのです」と強調され、さらに、先日クレタ島沖で亡くなった人々をはじめ、海で命を落としたすべての移民たちのために、祈りを呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい)

2026年3月30日

☩「イエスは、戦争を仕掛ける者の祈りに耳を傾けない!」ー教皇、受難の主日(枝の主日)のミサで

(2026.3.29  Vatican News   Devin Watkins )

 教皇レオ14世は29日、聖ペトロ広場で、受難の主日(枝の主日)のミサを捧げられ、説教で「戦争を拒み、戦争を仕掛ける者の祈りに耳を傾けない、平和の王」としてのイエスについて語られた。

 イエスが「ご自分に暴力が迫る中でも、自らを『平和の王』として示されたこと」を強調された教皇は、「イエスが十字架の道を歩まれたように、私たちもイエスと共に歩み、人類のために愛の賜物として背負われたイエスの受難」を黙想するよう信者たちに求められ、「他者が暴力を煽る中でも、イエスは柔和さを貫き通されます…他者が剣や棍棒を振りかざす中でも、イエスは人類を抱きしめるためにご自身を捧げられるのです」と語られた。

 そして、闇と死が自らを飲み込もうとしていたまさにその時、「イエスは、世界に命と光をもたらすために来られました。イエスは世界を父の御腕へと導き、私たちを神や隣人から隔てるあらゆる障壁を取り払おうと望まれていたのです」と指摘された。

 また教皇は「平和の王」という言葉を幾度も繰り返されながら、「平和をもたらそうとするご自分の願いを証しする、受難におけるイエスの行い」を強調。ある弟子が大祭司の僕を打ち、その耳を切り落とした時、イエスは「剣で生きる者は剣で死ぬ」と述べ、その弟子に剣を収めるよう命じられた。

 「十字架にかけられ、死に至ろうとした時でさえも、イエスは自ら武器を持ったり、身を守ったりすることはなく、屠殺場へ連れて行かれる小羊のように身を委ねられます。イエスは、常に暴力を拒む神の優しい御顔を現された。自らを救うことよりも、十字架に釘付けにされることを受け入れ、人類の歴史を通じてあらゆる時代、あらゆる場所で背負われてきたすべての十字架を受け入れられたのです」と語られた。

 教皇はさらに、預言者イザヤの言葉を引用する形で「あなたがたがいくら祈りを捧げても、私は聞き入れない。あなたがたの手は血にまみれているからだ」(イザヤ書1章15節)と述べられ、「イエスは平和の王であり、戦争を拒絶する方。誰もイエスを戦争を正当化するために利用することはできません… イエスは戦争を仕掛ける者たちの祈りに耳を傾けることはなく、それらを拒絶するのです」と言明。

 そして、教皇は、今日の世界における人類の家族の多くの傷を嘆かれ、「暴力に抑圧され、戦争の犠牲となっているすべての人々が、痛ましい呻きをもって、神に叫び求めているのです」とされ、「平和の王であるキリストは、十字架の上から再び叫ばれます―『神は愛である!憐れみよ!武器を捨てよ!あなたがたは兄弟姉妹であることを思い出せ!』と」と語られた。

 説教の最後に教皇は、御子の十字架の足元に立たれた聖母マリアに注意を向けられ、神の僕トニーノ・ベッロ司教の言葉を引用して、次のように祈られた。

 「聖母マリアよ、どうか私たちに確信を与えてください。いかなることがあっても、もはや死は私たちを支配しないこと、人々の受ける不正には終わりが来ること、戦争の閃光は黄昏へと消え去ること、貧しい人々の苦しみは息絶えようとしていることを。そして、暴力と苦痛のすべての犠牲者の涙が、春の太陽の下で霜が溶けるように、まもなく乾くとの確信を、お与えください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年3月29日