・4月8日から13日まで司教団がローマ訪問、教皇に謁見ー「私たちは慈しみにあふれた存在になろうと努めているか」菊地大司教の復活節第二主日

2024年4月 6日 (土)週刊大司教第162回:復活節第二主日B

Photo_20240402153801

 復活節第二主日は神の慈しみの主日です。

 メッセージの中でも触れていますが、日本の司教団は4月8日から13日まで、定期的な聖座訪問「アドリミナ」のために、全員がローマに出かけます。もちろん様々な理由から、全員が一緒に飛ぶことはありませんが、この数日以内に、日本の現役のすべての司教はローマに集合し、バチカンの各省庁を訪問して意見交換をし、さらに教皇様と謁見して、日本の教会についての報告をしてきます。

 また滞在中には、省庁訪問や教皇様との謁見だけでなく巡礼の要素もあり、特にペトロとパウロの墓前で司教団はミサを捧げます。

Adlimmina1503018 私にとっては、2007年のベネディクト16世教皇、2015年の現フランシスコ教皇と、三回目のアドリミナになります。左の写真は、その2015年のアドリミナに参加した日本の司教団ですが、よく見るとその時から9年で、現在の司教団の顔ぶれは大きく変わっていることが分かります。

 この写真に写っている2015年当時の日本の司教団は16名ですが、そのうち、すでに10名が引退され、そこには新しい司教様が任命されています。一口に「日本の司教団」と言ったとしても、その顔ぶれは10年くらいでガラリと変わっているものです。

 アドリミナに出かけている日本の司教団のため、また教皇様のために、どうぞお祈りください。お願いいたします。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第162回、復活節第二主日のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B  2024年4月7日

 ヨハネ福音は、主が復活された日の夕刻、まだ何が起こったかを理解していない弟子たちが、恐れのうちに隠れてしまっている様を伝えています。もちろん自分たちのリーダーを殺害した人々の興奮への恐れもあったでしょうし、同時に、見事にイエスを裏切り見捨ててしまったことへの自責の念もあったことでしょう。

 その弟子たちの真ん中に現れたイエスは、弟子たちの心の闇を打ち払うように、平和を告げます。平和は神が定められた秩序が完全に存在する状態です。神との完全な交わりのうちにある状態です。すなわちここで、イエスは神が慈しみそのものであり、常に神との完全な交わりへと招き続け、見捨てることはないことを明白に示します。神の慈しみに完全に包み込まれていることを知った時、弟子たちの心の暗闇は打ち払われました。

 復活節第二主日は、「神の慈しみの主日」です。1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」に、教皇ヨハネパウロ二世は、「(神の)愛を信じるとは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(7)と断言されています。

 教皇フランシスコは、2015年12月8日から一年間を「慈しみの特別聖年」と定められ、神の慈しみについて改めて黙想し、それを実行に移すように、と招かれました。

 その特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」には、「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)と記されていました。

 私たちは今、世界の各地で命の危機に直面し、暗闇の中で恐れに打ち震えています。どこへ向かって歩みを進めれば良いのか分からずに、混乱した世界で生きています。その私たちに、常に共にいてくださる主イエスは、私たちの直中に立ち、「あなた方に平和があるように」と告げながら、私たちをその慈しみで包み込もうとされています。復活された主は、私たちの具体的な愛の行動を通じて、世界に向かって平和と希望を告げ知らせようとしています。「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命」があります。

 不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っている私たち一人ひとりが慈しみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

 明日4月8日から13日まで、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためにローマを訪れています。アドリミナとは、世界中の司教団が、定期的に聖座を訪問し、ペトロの後継者である教皇様に謁見して教会の現勢について報告をし、聖座の各省庁を訪問して情報交換するために行われます。さらには教会の礎を築いた二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、サンタマリアマジョーレとラテランの両大聖堂にも巡礼します。前回は2015年でした。ローマを訪問している日本の司教団のために、また教皇様のためにお祈りください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月6日

・「それぞれろうそくを掲げ共に歩み、世界を支配する暗闇を打ち払おう」菊地大司教、復活徹夜祭メッセージ

聖土曜日復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2024年3月30日

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

48cd7f746dc045eebe8b95be225c9660

 暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

 それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

 復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

 天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。

 私たちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわち私たちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

 暗闇の中で復活のろうそくの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しい命に招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることを私たちは改めて思い起こします。

 復活のろうそくに灯された小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎が共にされていきました。

5435f7b2c34947a581bdf75a7a2ad5f7

 「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何を私たちは感謝したのでしょう。それは、神から新しい命への希望を与えられたことを改めて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のろうそくにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

 私たちが成し遂げたいのは、それなのです。一人ひとりが出来ることには限界があり、一人で掲げることのできる命の希望の光は小さなものです。私たちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が共に歩むことを強調する理由はそこにあります。

 今、教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、命を生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

 主が復活されたその地、すなわち聖地で、今、多くの命が暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超える命が、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。命の希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたら、命の希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見い出せずにいます。今この瞬間も、命の危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くの命があることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

 ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、まだ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

 世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「私たちを忘れないで」と叫んでいます。教会は命を生きる希望を掲げる存在であることを、改めて私たちの心に刻みましょう。

 戦地や紛争の地だけでなく、私たちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、命を奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託された命です。社会に蔓延する命への価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども、希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

 今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずです。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストと共に新しい命に生きるために、その死に与るのだ、と強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けた私たちには、キリストと共に、新しい命の道を歩む、という務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

 主の死と復活に与る私たちに求められているのは、行動することです。前進することです。何もせずに安住の地に留まるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、共に歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、共に歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

 「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」の実現のために、福音を告げ知らせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月31日

・カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・最終回

(2024.3.22バチカン放送)
教皇付き説教師カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とした小さな黙想の最終回をおおくりする。
教皇付き説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿の、四旬節を機会とする小さな黙想(全6回)を紹介しているが、今回はその最終回にあたる第6回目の黙想をお届けする。

この最終回、カンタラメッサ枢機卿は、「あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ 15,14)というイエスの言葉を観想。この言葉がそれを聞いた人々の中で長く響き続けることを願った。

イエスは最後の晩餐で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15,12-13)と言われた。

そして、これに続けて、こう言われた。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(同15,14-15)。

カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・第6回目(最終回)の内容は次のとおり。

**********

今日、皆さんに味わっていただきたい御言葉は、蜜のように甘い言葉です。この言葉をもって黙想を終えることをうれしく思います。なぜなら、この御言葉が皆さんの心の中に長く響くことを願うからです。

イエスは弟子たちに別れを告げる時にこの言葉を言われました。しかし、キリストのすべての言葉がそうであるように、この言葉はすべての時代のすべての弟子に向けられています。「…あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15,14-15)。

「あなたがたはわたしの友である」。この御言葉について、皆さんに少し打ち明けたいことがあります。何年も前の祈りの集いでのことです。一人の女性が聖書を開き、ヨハネ福音書の一節を朗読しました。そこにこの言葉がありました。わたしはこの言葉をいったい何度聞いたことでしょうか。しかし、その時、「友」という言葉がわたしの中で「爆発」したのです。それ以外に表現のしようがありません。

これは聖書の御言葉だけで起きることです。導線に火をつけるのはいつも同じ、それは聖霊です。

わたしは心の中で繰り返し始めました。「友」だって!? ナザレのイエス、万能の神、わたしのために死なれた方、その方がわたしを「友」と呼ばれるなんて。しかも、イエスは決して虚しい言葉は言われない…。ならば、わたしは本当にイエスの友、大切な存在なのだ!

集いから修道院に帰る途中、その確信と共に、わたしは町並みの屋根の上にも舞い上がれる気持ちでした。まるでシャガールの絵で見るみたいに。

この「友」という言葉が、これをお聞きの皆さんの中でも弾けますように! そして、それが皆さんの人生をずっと照らしますように! よい四旬節を! そして、よい復活祭をお迎えください!

2024年3月23日

・「私たちの人生が『他者に希望をもたらすもの』でありたい」菊地大司教の四旬節第五主日メッセージ

2024年3月16日 (土)週刊大司教第160回:四旬節第五主日B

 Img_20240303_094406939_hdr四旬節も終わりに近づき、第五主日となりました。

 今週の初め、3月11日は、東日本大震災が発生して13年目でした。この節目の時に、改めて東北の地に思いを馳せ、亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈り、復興の道を歩み続ける東北の地と人々に命の与え主である神の祝福と守りがあるように、祈ります。

 この数日、私はローマに出かけていました。月曜日に司祭評議会と責任役員会を終えた後、羽田からローマに出発し、予定では、この週刊大司教が配信される頃に、羽田に帰国しているはずです。国際カリタスの要務ですが、ローマでの出来事は、また後ほど報告します。

 不在の間、教区の修道会協議会や、司教団のERST(緊急対応支援チーム)による、東京教区での緊急対応のワークショップ、そして宣教司牧評議会があり、司教総代理であるアンドレア司教様が中心となって、これらを切り盛りしてくださいました。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂から、毎週日曜日、10時の関口教会主日ミサが配信されてきました。これは、コロナ感染症の制約の中で、一人でも多くの方の信仰の支えとなるために始めたものでした。教会で共にミサに与り、ご聖体を拝領することが一番大切なのですが、諸事情でそれが適わない方々も多くおられましたので、関口教会の信徒の方々の積極的な協力でネットでの配信が続けられてきました。

 このたび、そういった状況も改善してきたということで、ネットでの配信を、大司教や補佐司教が司式するミサや教区行事ミサに限定することになり、配信元も、関口教会のYoutubeアカウントから、週刊大司教を配信している東京教区のアカウントに変更することになりました。

 私は、ほぼ月に一度は主日ミサを関口で司式しますし、その他、聖週間を始め、教区行事も多々あります。これらの配信については、その都度、教区からお知らせいたしますので、その目的を教区共同体の一致のためとして、ご覧いただければと思います。

 以下、16日午後6時配信の四旬節第5主日のメッセージです。

【四旬節第五主日B 2024年3月17日】

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」-私たち人間はいったい何のために命を生きるのかを、改めて考えさせられる主イエスの言葉です。

 私たちは「命は神から与えられた尊い賜物である」と信じています。この賜物である命を、私たちは人生の中でどのように生きるのかが、問われています。「一粒のままで終わる人生の道」を歩むのか、「多くの実を結ぶ人生の道」を歩むのか。「地に落ちて死ぬ」とは、具体的にどういう人生を現しているのでしょうか。

 自分の周りに壁を立て、まるで自分だけを守るようにして隣人の必要を顧みずに生きる姿勢-それを、教皇フランシスコは、就任直後の2013年、地中海のランペドゥーザ島に押し寄せる難民たちを訪問された際、「虚しく輝く”シャボン玉”の中に閉じこもっている」と表現され、そのうえで、”シャボン玉”の外にある叫びに耳を塞いでいる姿勢が「世界中に蔓延」している現在の状況を、「無関心のグローバル化」と批判。「殻を打ち破って、弱い立場にある人の叫びに耳を傾けるように」と呼びかけられました。

 私たちが自分の命だけを守ろうとするとき、あるいは自分に近しい人たちの命だけを守ろうとするとき、その”麦”の種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。自分の欲望をうち捨て、虚しい虚飾の壁を打ち破り、”シャボン玉”の外へと目と耳を向けたときに、これまでの自分の生き方に終止符を打って、多くの人に生きる希望を生み出す実りとなることが可能となります。

 人生は、決して楽な歩みを保証するものではありません。主ご自身の人生の歩みを見れば、それは明らかです。困難の連続です。パウロは「ヘブライ人への手紙」で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者」となられた(5章8‐9節)と語っています。神の目にあって完全な者となるためには、自らの立場から降り立ち、苦しみを耐え忍びながら、神の意志に従順であることが絶対条件だ、とパウロは強調します。

 私たちの信仰の先達には、この日本において、迫害の時代に命の尊厳を守り、互いに助け合うことに命がけで取り組み、その苦しみの人生を通じて、神が求められる生き方を証しした殉教者たちが多数おられます。

 殉教者たちの命を賭けた証しの勇気ある決断は、突然なされたわけでも、思い詰めての性急な判断でもありません。その決断は、キリスト者が、生涯をかけて信仰を真摯に生き抜いた結果としてある決断です。すべてを打ち捨てて、神から与えられた命をよりふさわしく従順に生きる者としての使命を生き抜いた結果としての決断です。命を生きる意味を突き詰め、困難に直面しながら証しを続けてきたからこそ、最後の最後で、殉教への決断につながったのです。私たちは、これまでの自分を中心にした生き方を打ち捨て、他者に希望をもたらすものでありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=カトリック教会では、なぜか「命」を、ひらがなで書く習慣がいつからか、ついてしまったようですが、漢字の「命」は、「冠」の象形と「口」の象形、そして「ひざまずく人」の象形から成り立つ会意文字で、「天(神)から与えられたもの」を意味しています。ひらがなの「いのち」は、そのような深い意味をもちません。特に、今回のメッセージではなおさら、漢字表記が適切と判断しました。なお、菊地大司教が副理事長を務める日本聖書協会の「聖書協会共同訳聖書」では、「命」「私」も漢字表記に改められています)

2024年3月16日

・「私たちを包み込む神の愛を伝えるのが私たちの務め」四旬節第4主日の菊地大司教

2024年3月 9日 (土) 週刊大司教第159回:四旬節第四主日B

 四旬節も後半です。第四主日となりました。

1709889780168

 3月7日午後3時から3月8日午後3時まで、潮見のカトリック中央協議会で、日本におけるシノドスの集いを開催いたしました。これは昨年10月に開催されたシノドスの第一会期のまとめ文書を受けて、第二会期である今年の10月に向けて、シノドス事務局から各国の司教団に、それぞれの国でのシノドスの歩みについての報告が求められているために、日本におけるシノドスへの取り組みについて、バチカンのシノドス事務局へ5月頭までに提出する回答書作成の一環として開催されました。

 とはいえ、今回のシノドスは、これまでのシノドスのように、何か議題が定められていて、それについて各国の草の根の意見を聴取して、それをまとめて提出するということは、求められていません。いま求められているのは、実際にシノドスの歩みの中心にある霊における会話を実践し、それを少しでも多くの人に体験していただき、その上で、教会全体の識別の方法として定着させる試みをすることです。

 ですので、第一会期のまとめ文書に記されている課題について小教区や団体で話し合って、その結果を集約して、日本の報告書を作るということはしていません。まとめ文書に記されている様々な課題は、今後、教会の様々なレベルで霊における会話を継続して、聖霊の導きを識別するための課題であって、今年10月の第二会期で結論を出すための課題ではありません。

 ですから、教区や小教区や様々な団体のレベルで、第一会期のまとめ文書の提示する課題などを題材として霊における会話を実践していただき、その体験を分かち合っていただくのは歓迎です。

 そういった体験の報告がある場合、一ページ程度の文書にまとめて、司教協議会のシノドス担当までご送付ください。第二会期が始まる10月直前までにお寄せいただくと、第二会期で生かすことができるかと思います。このような内容は、今回参加していただいた各教区の方々に、最後にお伝えしました。

Img_20240307_145601005_hdr

 改めて申し上げますが、現在は、シノドス第一会期のまとめ文書に記された課題への「回答」を求めてはおりません。お願いしているのは、今回日本におけるシノドスの集い参加者を通じて、シノドスの歩み、霊における会話を、各地で実践していただくことです。

 今回の集いには、日本のすべての司教、そして15教区の司祭、奉献生活者、信徒から一名ずつに参加していただき、68名ほどの参加者を6のグループに分けて、実際に霊における会話を二回、体験していただきました。それぞれのプロセスの前には30分ほどのお話と、30分ほどの沈黙の祈りの時間が設けられ、その後、霊における会話に1時間半ほど、そしてそれぞれのグループの発表に30分ほどを要しました。

 今回の集いに限らず、現在、第二会期に向けてシノドスの歩みの実践を深めるために、シノドス特別チームが編成されています。チームメンバーのお働きに感謝します。また参加してくださった皆さまに感謝すると共に、各地でシノドスの歩みを深めていってくださることを期待しています。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第159回、四旬節第四主日メッセージ原稿です。

【四旬節第四主日B 2024年3月10日】

 ヨハネ福音は、ファリサイ派の議員であり指導者でもあったニコデモと、イエスとの対話を記しています。神がイエスと共におられることを見抜いたニコデモに対して、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語り、永遠の命についての対話を始めます。

 その対話の中で、ご自分の受難、死、復活が救いをもたらすことを告げたイエスのことばが、本日の福音に選ばれています。

 「ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

 永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

 教皇フランシスコは今年の四旬節メッセージに、「出エジプト物語の、とても重要な細部を取り上げたいと思います。神が、見ておられ、心動かされ、解放してくださるのであって、イスラエルの求めによるのではないということです」と記しています。すなわち救いは徹頭徹尾、神からの恵みとして与えられるのであって、何かの報酬でもなければ人類の求めに応じたものでもないこと、つまり主導権は徹底的に神にあることを明確にします。それに応えようとするのかどうか。私たちの決断が求められています。

 パウロもエフェソの教会への手紙で、「あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神のたまものです」と記して、わたしたちの救いは、神からの一方的な恵みによっていることを明確にします。

 ヨハネは「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記し、十字架におけるイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。十字架は神ご自身による、人類に対する愛の目に見える証しの具体的な業であります。私たちはその徹底的な神の愛に包まれて、生かされていることを心に留めたいと思います。

福 音はイエスが、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と語る言葉を記します。すなわち、神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれている私たちには、その愛を一人でも多くの人に明らかにする務めがあります。一人でも多くの人がその愛に包まれて、共に光を証しするものとなるように、私たちは愛の実践を通じた具体的な証しの業に務めなければなりません。

 そもそも私たちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。私たちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、一人でも多くの人に証しをしたいのです。

 3月11日は東日本大震災が発生して13年の追悼の日です。改めて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。これからも、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、一人でも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、証しの業を続けたいと思います。

 またこの節目の機会に、この一月の能登半島における災害で亡くなられた方々も心に留め、復興のための歩みを共にする決意を新たにしたいと思います。

 神の愛はすでに私たちを包み込んでいます。それを伝えるのは私たちの務めです。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月9日

・「人間の尊厳をないがしろにする行為は神の掟に反する」-菊地大司教「性虐待被害者のための祈りと償いの日」に

2024年3月 2日 (土)週刊大司教第158回:四旬節第三主日B

2019_02_16

 四旬節も第三主日となりました。

 教皇様の呼びかけに従って、各国の司教協議会は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を定めて、被害を受けられた方々に謝罪し、歩みを共にする祈りの日を設けています。日本では四旬節第二金曜日をその日に定めており、今年は3月1日の金曜日です。また金曜日だけでなく、その次の日曜日、すなわち四旬節第三主日には、教皇様の意向に合わせて祈ることを勧めています。

 四旬節第三主日は、教皇様のこの意向を持って、私も東京カテドラルでのミサを司式させていただいています。

 以下、2日午後6時配信の四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日B 2024年3月3日】

 「苦痛と無力感を伴う根深い傷を、ほかでもなく被害者に、しかし、そればかりか、家族と共同体全体に負わせる犯罪です。起きてしまったことに鑑みれば、謝罪と、与えた被害を償う努力が十分になることなど決してありません… このような事態が二度と繰り返されないようにするだけでなく、その隠蔽や存続の余地を与えない文化を作り出す努力をするほかありません」

 教皇フランシスコの言葉です。2018年に発表された「神の民にあてた手紙」に、このように記されていました。この言葉を、日本の教会も共有し、心に刻みます。

 教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」(『教会憲章』1項)となるよう呼ばれた召命を受け、その実現のために挑戦し続ける道を共に歩んでいます。

 残念ながら、その教会がその旅を続ける現代社会は、命に対する暴力が荒れ狂う世界であって、その現実の中で、賜物である命を最優先に守り抜き、人間の尊厳を尊重し、さらに全体として一致することは容易なことではありません。しかしながら教会は、その厳しい道を挑戦しながら歩むことをやめることはできません。なぜならば、教会にとって、「イエスを宣べ伝える」とは、「命を宣べ伝えること」にほかならないからです(ヨハネパウロ2世「いのちの福音」80項)。

 その教会にあって、聖職者や霊的な指導者が命に対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、「性虐待」という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳を貶めるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

 教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも祈りを捧げています。

 出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「命の福音」にはこう記されています。

 「『殺してはならない』という掟は、断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、この掟ては暗黙のうちに、命に対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。命を守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです」(54項)

 人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。命を賜物として大切にしなければならないと説く私たちは、その尊厳を命の始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として、社会一般に使われている当用漢字に直しました。筆者の真意ができる限り伝わるように、との思いからです。中でも「命」という漢字は、「天に願い、いただくもの」という意味を込めた象形文字がもとになっており、その活字自体に深い意味が込められています。〝教会用語”になっているような「命」「私」などのひらがな表記は、新旧約聖書の「新共同訳」に倣ったのかもしれませんが、菊地大司教が副理事長を務めておられる「日本聖書協会」がカトリック、プロテスタントの専門家が協力して10年かけて原点から翻訳し、現代の日本語を基本にまとめあげた「聖書協会・共同訳」では、これらは漢字表記になっています。ご覧ください)

2024年3月2日

・「安住を求めず、常に挑戦し続ける」菊地大司教の四旬節第二主日メッセージ

2024年2月24日 (土)週刊大司教第157回:四旬節第二主日

2024_02_17_

   四旬節第二主日となりました。

    昨日まで、バンコクでアジア司教協議会連盟(FABC)の年に一度の中央委員会が開催されていました。アジアの各国地域の司教協議会会長がメンバーで、今回は16名の会長司教が集まりました。私はFABCの事務局長を務めています。

   今回は役職者の選挙があり、来年2025年1月からの3年間の新しい指導体制が決まりました。新しい会長は、現在のミャンマーのボ枢機卿様から、インド・ゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿様に、副会長は、現在のスリランカのランジット枢機卿様から、フィリピンのカローカンのパブロ・ダビド司教様に交代。事務局長は私が二期目に再選されました。FABCに関しては、別途記します。(下の写Img_20240222_111005954真、一列目中央の白いシャツがボ枢機卿、その向かって右がダビド司教、左がフェラオ枢機卿、さらにその左がボンベイのグラシアス枢機卿、その左隣が私)

 四旬節には、特に金曜日に十字架の道行きをすることが勧められており、小教区でそのための時間が設けられているところも多くあろうかと思います。

 昨年の四旬節に、お一人でも、また自宅でも、十字架の道行きをするための手助けになればと、十字架の道行きのビデオを作成しました。最初に私の解説が少し入っています。本などなくても、画面に言葉で出てきますので、一緒に唱えていただけます。ご活用ください。こちらのリンク先の東京教区Youtubeチャンネルにあります

 以下、24日午後6時配信の四旬節第二主日メッセージ原稿です。

【四旬節第二主日B 2024年2月25日】

 イエスの福音宣教は、旅路です。イエスは、一定の成果を手にし、安心と安全を得た地にとどまり続けることをよしとせず、福音を告げるために旅を続けます。その旅は、常に挑戦に満ちあふれていますが、臆することなく、イエスは福音を証しし続けます。

 マルコ福音は、その旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにし、「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声を耳にしたペトロは、その栄光の輝きの中に留まり続けることを望み、仮小屋を三つ建てることを提案します。しかしイエスは歩み続けます。

 第一朗読の創世記は、神からの試練を受けたアブラハムが、神への信頼のうちに理解不可能な未知の領域に歩みを進める姿を記しています。イサクを献げるように、という、神からの言わば、無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

 信仰は、私たちに常なる挑戦へ旅立つことを求めます。

 四旬節にあたって、教皇フランシスコは「荒れ野を通り、神は私たちを解放へと導かれる」というタイトルのメッセージを発表されています。

 メッセージの中で教皇は、私たちが回心の道を歩み続けることを、荒れ野を旅したイスラエルの民になぞらえ、「希望を失い、荒れ果てた地に居るように人生をさまよい、共に向かっているはずの約束の地が見えないとき」、民は元の奴隷状態を懐かしみ、前進するよりも、過去に縛られ続けようとしたことを指摘されます。

 同じように、現代社会に生きている私たちも、「世界規模での兄弟愛の実現を目前にしながら、科学、技術、文化、法制度が万人の尊厳を保証しうる水準にまで発展しながら、格差と紛争の闇を進んでいること」の理由は、罪の状態から解放されようとするよりも、「自由を犠牲にしてまでも、なじんでいるものの安心感に惹かれる」私たちの弱さであり、他者の叫びへの無関心である、と語られています。

 その上で教皇は、教会のシノドス的な姿を追求することは、「四旬節が共同体での決断の時でもあると示唆してくれます。個々人の日常を改め、地域の生活を変えうる、今の流れとは違う選択を大小さまざまに行う時です。購買の意識化、被造物のケア、社会から無視され見下げられている人たちの受け入れ、そうしたことを選択していくのです」と述べておられます。

 私たちは安住を求めるのではなく、常に挑戦し続けながら前進を続ける神の民です。希望が見い出せないときにも、「奴隷状態から抜け出る勇気」をもって歩み続けたいと思います。

 教皇様は「信仰と愛が希望に歩みを教え、希望が信仰と愛を引っぱっていくのです」と記されます。勇気を持って共に歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月24日

・「四十日間、互いに支え合う心で愛の業を証しつつ歩み続けよう」菊地大司教、四旬節第一主日

2024年2月17日 (土)週刊大司教第156回:四旬節第一主日B

  今年は復活祭が3月の末日と、例年より早い暦となっているため、既に四旬節が始まりました。先日の水曜、2月14日が灰の水曜日でした。2月18日の日曜日は、四旬節第一主日です。

   四旬節は、信仰の道を歩んでいるものにとって、ふさわしく神の方向を向いて歩んでいるのかどうかを見つめ直す回心の時であり、同時に、復活徹夜祭での洗礼式を目指して、洗礼の準備を続けてきた方々が、個人の信仰における決断の最後の仕上げとして、教会共同体と歩みを共にし始める時でもあります。

    多くの小教区で、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われますが、これは洗礼への準備が、個人的で内面的な準備の段階から、共同体としての歩みに向けた公の準備の段階に移行したことを象徴しています。四旬節の間、教会共同体は、新しく共同体の一員となろうとしている人たちと、一緒に歩む道のりを開始します。信仰における仲間を迎え入れるプロセスが始まったと認識ください。

Img_20240214_105323707 この一週間、日本の司教団は定例司教総会を行いました。今回は、昨年12月に司教叙階されたアンドレア・レンボ司教様にとって、初めての司教総会でした。日本の司教全員が集まり、様々な課題について議論し、また共に学び合いました。

 議決などについては、今後、カトリック新聞などで広報されることになりますので、そちらをご覧ください。なおレンボ司教様は司教団の中で、司祭生涯養成委員会のメンバーとして関わってくださることになりました。私たち司教団のためにお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。

Img_6348

 2月12日午前中に、東京教区内で活動するカトリックスカウトが東京カテドラルに集まり、BP祭ミサが捧げられました。ミサは私が司式いたしました。久しぶりに聖マリア大聖堂に一杯のスカウトが集まり、互いの絆を確認しました。

 BP祭は、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、その誕生日が1857年2月22日であることから、それに近い日を選んで行われています。今年は5月に代表団がケルンを訪問することにもなっており、その方々へのエールも送られました。

 既報ですが、この東京のカトリック・スカウトの代表団は、ケルンでの「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください

 以下、17日午後6時配信、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第一主日B 2024年2月18日】

 マルコ福音は、イエスの物語を簡潔に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた話で始め、そして荒れ野における40日の試練の物語と続けています。この簡潔な荒れ野の試練の物語のなかで、福音は三つのことを伝えようとしています。

 まず第一に、イエスは聖霊によって荒れ野へと送り出されました。荒れ野とは、普通で安全な生活を営むことが難しい場であります。命を危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていることが容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身を委ねました。聖霊の働きと導きに恐れることなく完全な信頼を寄せるイエスの姿勢が記されています。

 そして第二に、40日にわたって荒れ野でサタンの誘惑を受けられた、と記されています。逃げ出すことができたのかも知れません。しかし聖霊の働きと導きに完全に身を委ねられたイエスは、困難に直面しながらも、御父の計画に信頼し、その計画の実現のために配慮される御父への信頼のうちに、希望を見い出しておられました。

 三つ目として、イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれながらも、天使たちに仕えられていた、と記されています。すなわち困難に直面する中で、聖霊の働きと導きに身を委ね、御父の計画に信頼を置くものは、神の愛に基づく配慮に完全に包み込まれ、それが為に命の危険から守られることが記されています。

 荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、信仰、希望、愛を改めて見い出し、それを確信し、そこから力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見い出した時、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出されました。

 四旬節は、私たちが信仰の原点を見つめ直し、慈しみに満ちあふれた御父の懐に改めて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。私たちも、信仰、希望、愛に生きている自分の信仰を見つめ直すことで、神のあふれんばかりの愛と慈しみのうちに生かされていることを改めて確信し、その確信に基づいて、この世界で福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見い出すよう招かれています。

 その為に教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行いで、自分の信仰の振り返りをするように呼びかけています。また四旬節に行われる献金は、特に教会共同体の愛の業を目に見えるものとする象徴です。日本の教会では、四旬節の献金はカリタスジャパンに送られ、国内外の愛と慈しみの為の業に使われていきます。

 皆さん、この四十日の期間、互いに支え合う心をもって、愛の業の証しの内に歩み続けましょう。私たちの信仰は知識だけで終わるものではありません。

(編集「カトリック・あい」=原則として、日本人一般に使われている当用漢字表記で統一し、読みやすく、意味を取りやすくしました)

2024年2月17日

・「イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように」菊地大司教、年間第6主日

2024年2月10日 (土)週刊大司教第155回:年間第6主日B

2024_02_04_005

 メッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、世界病者の日でもあります。

 教皇様はこの日にあたり、世界病者の日のメッセージを発表されています。こちらをご覧ください

 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2月11日の午後2時から、カリタス東京が主催して、世界病者の日のミサが捧げられます。今年の司式は、アンドレア補佐司教様です。

 以下、10日午後6時配信の週刊大司教第155回目のメッセージ原稿です。

【年間第六主日B 2024年2月11日 世界病者の日】

 マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の「御心ならば、私を清くすることがお出来になります」という叫びに対して、イエスが「深く憐れんで」、奇跡的に病気を治癒した物語を記しています。

 よく知られているように、このイエスの心持ち、すなわち、ここで使われる「深く憐れんで」という言葉の原語は、「はらわたが激しく動かされる様をあらわす語」であります。つまり、病気であることだけではなくそれに伴って社会の中で周辺部に追いやられその存在すら否定されている人に対するイエスの深い憐みと慈しみの心がこの言葉で明らかにされています。

 主イエスによる病者の癒しは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまった命を、癒し、慰め、絆を取り戻し、生きる希望を生み出した業でもあります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののく命に、歩むべき道を見い出す光を照らし、その命の尊厳を回復する業であります。神が与えられた最高の賜物である命の尊厳を明らかにしている、まさしく神の栄光を現し、神の慈しみと愛を明確にする業であります。

 今年の年間第六主日は、世界病者の日であります。1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日です。聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出しています。湧き出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、命を生きる希望と勇気を生み出す源となっています。

 この日を世界病者の日と定められた教皇聖ヨハネパウロ2世は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。この二つの意向を忘れないようにいたしましょう。

 今年の世界病者の日のメッセージにおいて教皇フランシスコは創世記に記された「人が独りでいるのはよくない」という言葉を取り上げ、「関係性を癒すことで、病者を癒す」をテーマとされました。

 メッセージで教皇は、「孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになる」と指摘し、その上で、「病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神との関わり、他者―家族、友人、医療従事者―との関わり、被造物との関わり、自分自身との関わり、そうしたすべての関係をケアすること」なのだと強調されます。病気に苦しむ人の叫びを耳にして深く憐れまれたイエスに倣い、私たちも、イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするように務めたいと思います。

(編集「カトリックj・あい」)

2024年2月10日

・「悪の束縛を解き放ち、喜びと希望を生み出すために出向く教会でありたい」菊地大司教、年間第五主日

2024年2月 3日 (土) 週刊大司教第154回:年間第五主日B

2024_01_28img_0040

 年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三か月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的には、じっくりと歩む時としたいと思います。

 千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

 こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、私とゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

Img_20240202_124249876

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

【年間第五主日B 2024年2月04日】

 マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。

「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」

 イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンの姑の熱を去らせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取りつかれた人が、癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

 もちろん「病いの癒やし」という出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見い出したことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛と慈しみに満ちあふれた姿でもありました。

 押し寄せてくる人生の困難を抱えた人たちを目の当たりにした時、イエスはそれを放置することはできなかった。命をより良く生きることを阻んでいる悪によって囚われの身にある人たちを解放されました。

 パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、私はどんなことでもします」と宣言しています。

 パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、「教え導いてやろう」という上からの目線の態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることができるように、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

 だからこそ、イエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、一人でも多くの人に「生きる希望」を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、私たちも神の愛と慈しみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたい、と思います。

 2月5日月曜日は、「日本26聖人殉教者の記念日」に当たります。「自分の十字架を背負って、私に付いて来なさい」と呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じて命の福音を身をもって証しされた聖人たちです。

 聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前で証しされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、命の福音にあることを証しされた方々です。

 私たちは、「そのすべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるように」と、聖なる殉教者たちに招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、また脱字は修正してあります)

2024年2月3日

・「神の言葉を具体的に証しするキリスト者であり続けたい」菊地大司教の年間第四主日

2024年1月27日 (土)週刊大司教第153回:年間第四主日B

Cologne1802

  今年の年間第四主日は一月の最後の後曜日となりました。東京教区にとっては「ケルン・デー」であり、教会全体にとっては「世界子ども助け合いの日」であります。

     東京教区とケルン教区の友好関係は、今年で70年となります。それを記念した公式巡礼(4月にローマとケルンを巡る10日間)も企画され、さらにボーイスカウトの代表がケルンに招かれている企画もあります。東京教区とケルン教区の関係については、メッセージでも触れていますが、教区ホームページのこちらをご覧ください。(写真は、2018年12月にケルンを訪問した際、ケルン教区大司教のヴェルキ枢機卿様と)

 また今年も、関口教会の1月28日・第四主日午前10時の大司教司式ミサには、ドイツ語共同体や支援しているミャンマー共同体の方々も参加され、ケルン教区からも代表が参加します。

 また偶然ですが、私の長年の友人であるアフリカのアンゴラのフアンボ大司教区のゼッフェリーノ・マルティン大司教様が、ちょうど東京を訪問中で、この日のミサにご一緒いただけることになっています。その昔、私がまだガーナで働いていた当時、神学生だったゼッフェリーノ大司教様が、研修で、ガーナに来た頃からの知り合いです。一週間ほど滞在される予定です。アンゴラの教会のことも、どうぞ心に留めていただけると幸いです。

Img_20240127_144919598_hdr 今年10月に開催されるシノドスの第二会期に向けて、各国は5月15日までに報告書を提出するようにバチカンの事務局から要請されています。その第二会期に向けた日本における取り組みについて、司教協議会のシノドス特別チームが三つの提案をしていますので、それについては中央協議会のホームページのこちらをご覧ください

 また1月25日に教皇様は、日本に駐在する新しい教皇大使を任命されました。新しい教皇大使はフランシスコ・エスカレンテ・モリーナ(Francisco Escalante MOLINA)大司教で、以前、参事官として数年間、日本に駐在されていた方です。詳しくはこちらをご覧ください

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第153回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

【年間第四主日B 2024年1月28日】

 イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと、マルコ福音は伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教える立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわば私たち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのが私たち人間です。

 しかしイエスは真理そのものです。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り、行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。そういえば本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

 私たちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。

 命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

 1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」です。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」捧げる日です。子どもたちの信仰における成長のために祈りましょう。

 また東京教区にとっては、28日は「ケルン・デー」であります。

 東京教区とケルン教区との歴史的な繋がりは、物質的な援助にとどまらず、互いの霊的な成長のためのパートナー関係です。この関係は,互いの教会が具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促し、ミャンマーの教会への支援につながりました。

 1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に、自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動を提唱され、東京の支援に乗り出されました。私たちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいた慈しみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身を捧げることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

私たちと共におられる神の言葉を具体的に証しするキリスト者であり続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月27日

・「神の言葉に耳を傾け、心に刻み込んで証しする者に」菊地大司教、年間第3主日

2024年1月20日 (土) 週刊大司教第152回:年間第三主日

2023_12_20_003b

 今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は「神のことば」の主日です。

 中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。

「教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を『神のことばの主日』と名付け、『神のことばを祝い、学び、広めることにささげる』ことを宣言されました。また、『神のことばの主日』は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、『私たちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる』よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります」

 またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会が共に準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いをはせて祈りを捧げることが勧められています。

 今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラルで開催されます。参加は自由ですので、多くの皆さんの参加をお待ちしております。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、21日の午後2時からです。

 以下、20日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。

【年間第三主日B 2024年1月21日】

 「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ福音書1章17節)

 マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という神の言葉を記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。

 すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神の言葉の受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音を宣べ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。

 ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰は私たちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。

 しかしイエスは、なんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々、私たちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、私たちは応えているでしょうか。

 教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス(Aperuit illis)」を発表され、年間第三主日を「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちと共にとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しておられます(80項)。

 教皇は「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘されます。

 第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御体そのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21項)と記して、神の言葉に親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだ、と指摘しています。

 それぞれの生きる場で、神の言葉を証しして生きるように、招かれている私たちは、日頃から、また典礼祭儀において、神の言葉に耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んで証しする者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用箇所は「聖書協会・共同訳」に、また本来の日本語の意味がよく伝わるように、ひらがな表記の乱用を避け、表記を原則として当用漢字表記に改めてあります。原文に一か所、誤字がありましたので修正しました)

2024年1月20日

・「謙遜な態度で他者の声に、神の声に耳を傾けよう」年間第二主日、菊地大司教メッセージ

2024年1月13日 (土) 週刊大司教第151回:年間第二主日

Shukandaishikhyo01 元旦に発生した能登半島を中心とする大地震は、時間が経過するにつれて、その被害の甚大さが明らかになりつつあります。

 被災された多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 カトリック教会は、被災地を管轄する名古屋教区と、カリタスジャパンの連携の中で、被災地の支援に当たって参ります。

 またその活動にあっては、東日本大震災の教訓を元に設置された司教協議会の緊急対応支援チーム(ERST)が名古屋教区が金沢に設置する拠点と協力して、支援活動の調整にあたります。今後の対応についての報告が、中央協議会のHPに掲載されていますので、ご覧ください

 司教協議会としては、1月11日に開催された常任司教委員会で、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンの責任者である成井司教様から直接説明を受け、今後もできる限りの支援をしていくことで合意しています。

 1月14日は、アンドレア司教様が、司教叙階後に初めて堅信式を行う日となります。市川教会で行われる京葉宣教協力体の堅信式です。堅信を受けられる皆さま、おめでとうございます。

 毎年1月18日から25日まではキリスト教一致祈祷週間とされています。今年の東京における集会は1月21日日曜日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で行われます。コロナ禍でオンラインが続いていましたが、久しぶりに実際に集まってお祈りができるようになりました。

 今ある教会を解体して組織として全く新たな一つの教会とすることは即座に可能ではありませんが、同じ主に従うものとして、互いの壁を乗り越え、耳を傾け合い、協力し合いながら、共に福音の実現のための道を歩むことは不可能ではありません。一致の理想の道を諦めることなく、ともに歩んでいきたいと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第151回、年間第二主日のメッセージ原稿です。

【年間第二主日B 2024年1月14日】

 主の神殿で寝ていた少年サムエルに、主は直接声をかけ呼び出されます。

 サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と応えるようにと指示をした話を記します。謙遜に耳を傾けたときに初めて、神の声がサムエルの心の耳に到達しました。

 教会が今、共に歩んでいるシノドスの道も、同じことを求めています。「霊的な会話」という分かち合いの中で、互いに語る言葉に耳を傾け、議論することなく、その言葉を心に留め、さらに耳を傾けて祈るときに、初めて聖霊の導きを見い出す準備ができる。決して、おまえはどうしてそんなことを語るのだ、と議論することではなく、耳を傾けるところから、すべては始まります。

 インターネットが普及した現在、私たちはその中で、耳を傾けることよりも、議論し、論破することに快感を感じてしまっているのではないでしょうか。そこに神の声は響いているでしょうか。

 「来なさい。そうすれば分かる」とイエスに呼びかけられたヨハネの二人の弟子も、『納得できる証拠を求め、徹底的にイエスと議論したから』ではなく、『イエスの存在とその語る言葉を心に響かせた』からこそ、イエスがメシアであることを確信しました。

 だからこそ福音は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記し、徹底的に議論したとは記しません。サムエルの「どうぞお話しください。僕は聞いております」という態度に通じる謙遜さです。

 今年の「世界平和の日」に当たり、教皇様は視点を大きく変え、「AIと平和」というメッセージを発表されました。それは尊厳ある人間と、その人間が生み出した技術を対比させる中で、「人間とは、いったい、何者なのか」を改めて見つめ直そう、という呼びかけです。

 教皇様は、「死ぬことを免れない人間が、あらゆる限界をテクノロジーによって突破しようと考えれば、『すべてを支配しよう』という考えに取りつかれ、自己を制御できなくなる危険があります… 被造物として、『人間には限界がある』と認識し、それを受け入れることは、充満に至るため、さらに言えば贈り物として充足を受け取るために、欠いてはならない条件です」と記し、「自らが生み出した技術に過信し、それに支配されることのないように」と警告しておられます。

 「どうぞお話しください。僕は聞いております」という、謙遜な態度で、他者の声に、そして神の声に耳を傾けて参りましょう。

2024年1月13日

・「神の言」の導きに身を委ね、変化を恐れず挑戦を続ける存在でありたい

 一年の始まりに能登半島を中心とした地震が起こり、また航空機の事故もありました。この事態に巻き込まれた多くの方々にお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

教皇様からは、国務長官名でお見舞いの電報が届きまた水曜日の謁見でも、教皇様ご自身からのお見舞いの言葉と祈りの呼びかけがありました。教皇様に感謝いたします。

能登半島は名古屋教区に属しています。時間とともに、全体の被害状況が明らかになりつつありますが、教会の施設も被害を受けていると報告されています。名古屋教区を中心に、司教団の緊急支援チーム、そしてカリタスジャパンが連携して、今後の救援事業にあたっていくことになります。具体的な対応については、今後、中央協議会のホームページやカリタスジャパンのホームページから報告があることと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第150回目のメッセージ原稿です。

【主の公現の主日 2024年1月7日】

新しい年が始まりました。この一年が「神の平和が支配する時」となりますように祈ります。

教皇フランシスコが「ラウダーテ・デウム」に記すように、一人でも多くの人が「私たちの住まいである世界との和解のこの旅路に加わり、それぞれ固有の貢献で世界をより美しく」する務めに目覚める年となりますように。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。救い主の誕生の告知とは、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかしこの世の王として人々を支配しているヘロデにとっては、「自らの立場を危うくする脅威」でしかありません。

神の支配が実現することで、自分は権力を失うことになるのです。この世界で権勢を誇り権力の行使を謳歌する者は、真の世界の王である神の支配の実現の可能性を耳にして、喜びではなく、不安しか感じることができません。真理の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうからに他なりません。

「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ、自らの命を危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは、共通の家を守るための環境問題への取り組みを先送りしようとする人類の怠慢を、指摘してやみません。

教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、私たちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、私たちは知っている」と記します(61 項)。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物を捧げました。闇の中にあって、「輝く光こそが、希望を示している」と確信した学者たちは、すべてを神に捧げて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

神の光に、すなわち本物の信仰に導かれたとき、占星術の学者たちは生き方を変え、導きに従うことで、真理の光へと到達しました。

教会は、暗闇に光として輝く人となられた「神の言」の導きに身を委ね、常に変化を恐れることなく挑戦を続ける、光を証しする存在であり続けたいと思います。

2024年1月6日

・「『つながり』の視点から生き方を見直そう」着座から7年目に入った菊地・東京大司教が新年あいさつとメッセージ

(2024.1.1 週刊大司教)

2023_11_12_027 皆さま、新年明けましておめでとうございます。

 新しい年の始まりにあたり、皆さまの上に神様の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。神の民の一員として、歩みを共にしてくださる皆さま、お一人お一人の上に、聖霊の導きと護り、祝福が豊かにありますように。

 どうかこの一年も、シノドスの道を歩み続ける教会にあってそれぞれの場で福音を証しされ、また教会のため、教皇様のため、教区のため、そして司教や司祭のために、お祈り続けてくださいますようにお願い申し上げます。同時に、一人でも多くの司祭や修道者が生み出されるように、召命のための祈りもどうかお願いいたします。

 東京教区では、昨年12月16日にアンドレア補佐司教が誕生しました。アンドレア司教様には12月18日付けで、司教総代理に就任していただきました。今後、アンドレア司教様には総代理として、司祭団との窓口や小教区との窓口として、様々な役割を果たしていただきます。

 これまで司教総代理を務められ、教区のために司教を支え補佐してくださった稲川保明神父様に心から感謝いたします。稲川神父様には今後も、教区の法務代理として、また司教顧問のひとりとして、務めをお願いしています。

 それでは2024年が、神の平和の実現する祝福に満ちた一年となりますように、祈り続けましょう。

 以下、東京教区ニュースの新年号の冒頭に掲載してあります、年頭の司牧書簡の原稿を掲載いたします。

 

 大司教司牧書簡 「つながり」の教会のために  2024年1月1日  東京大司教  タルチシオ 菊地 功

はじめに

 2017年12月に東京教区の司教として着座して以来、今年で7年目を迎えました。この間、様々な出来事がありましたが、私が牧者としての務めを果たすことができたのは、皆さんのお祈り、ご協力、そしてご支援のおかげです。東京教区の信徒の皆さん、修道者の皆さん、そして司祭団が、共に歩んでくださったことを、心から感謝しています。

 この7年間、私は「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようとしてきました。それは11年前の2015年に発表された教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』に触発されてのことです。

 教皇様はこの文書で、いわゆる環境問題についての具体的な行動を求め、とりわけ「エコロジカルな回心」を求めておられます。しかし、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。「すべての被造物はつながっている」(42項)、「あらゆるものはつながっている」(117項)などです。

 「関連」、「結びつき」、「つながり」、「統合的」といった、あるものとあるものを結びつけ、その関わりあいを示す言葉が回勅のキーワードとなっています。ですから回勅『ラウダート・シ』は環境問題に関する教会のメッセージにとどまるのではなく、現代社会が忘れている「つながり」をもう一度回復しようではないかという、信仰におけるメッセージともなっています。

 私たちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするためには、「つながり」という視点から、私たちの生き方と生活を見直す必要があります。

宣教司牧方針

 2020年に『東京教区宣教司牧方針』を策定しました。これを策定するためには時間をかけ、広く皆さんから意見や活動の様子を教えていただきました。どの小教区共同体でも、それぞれの状況に応じて活動を工夫し、抱えている課題や困難に挑んでいる様子がよく分かりました。

 私は、こういった教会の生きている姿を、教区全体で分かち合いたいと考えました。また、同じような方向性を持っている活動や取り組みの「つながり」を作りたいとも考えました。一つひとつの行動は小さなものであっても、「つながり」を作ることで大きく、堅固なものになると信じているからです。また、教区全体の「つながり」の中で、皆でこころを一つにして祈ることは大切だと思ったからです。

 そこで「つながり」を念頭に置いて、この『東京教区宣教司牧方針』を書きあげました。例えば、教区内のさまざまなグループがおこなっている「愛のわざ」が教区全体として統合できるようにと「教区カリタス」としてカリタス東京の設立を優先課題に盛り込みました。また、教区内の多くの外国籍の信徒の皆さんの「つながり」を強固なものとすることも記しました。孤立しがちな人たち、とりわけ社会的弱者、社会的マイノリティーとの連携ができる小教区共同体となることを呼びかけました。さらには、長年の姉妹教会であり、現在も紛争の中で苦しんでいるミヤンマーの兄弟姉妹への援助もお願いしました。

 すべては「つながり」という視点からです。教会においては、誰も一人で孤立して活動することはあり得ません。時間と空間を超えてつながっているのが、教会共同体です。2020年は新型コロナウイルス感染症の蔓延による、いわゆる「コロナ禍」が始まった年でした。パンデミックに影響され「つながり」が薄らぎつつある社会にあって、私たちの教区は神と人と、人と人の「つながり」を大切にするようにと努めてきました。

 『東京教区宣教司牧方針』をもう一度見直してみると、三分の二以上の項目において、この四年間で何らかの進展が見られます。特に、カリタス東京と教区カテキスタ制度の活動は目覚ましいものがあります。ここに関わってくださった方々に改めてお礼を申し上げます。

現代社会と教会

 現代社会は「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」が顕著に見られます。個人を重視するあまり、逆に隣人への「無関心」が生まれます。自分の生活に精一杯で、他人に対してこころを砕くことが忘れられています。大量消費が経済の基調となっていますから「使い捨て」は当然なことです。使い捨てて、新しいものを購入するからです。物事の評価は役に立つか否かが基準となりますから、人間ですらも使い捨てられるようになります。人の集まりは分断されて「対立の文化」が生じます。生活の格差、経済の格差が生じて、格差の上にいる人々と下にいる人々は決して交わることはありません。

 このような現代社会にあっては、「私たち」という共同体の意識は生まれてきません。なぜなら「わたし」が世界の中心だからです。当然、「共に」という思いも生まれません。「つながり」がないからです。

 いつの間にか、こういった社会の風潮に教会も流されているように感じます。人と人との「つながり」が希薄になるということは、私たちキリスト信者の神との「つながり」にも影響をおよぼします。もし、私たちが神との親密さを生きれば、当然、隣人との親密さも生きるようになるはずです。なぜならば、聖霊は「つながり」において働かれるからです。すなわち「つながり」は愛の働きなのです。神との交わりを生きようとするとき、当然、人との交わりはないがしろにはできません。どちらも愛の介在があるからです。

 しかし、毎週のように主日のミサに通いながらも、普段の生活では「無関心」、「使い捨て」、「対立の文化」を生きているのであれば、それは主イエスのみ心を生きたことにはならないでしょう。

 ですから、私たちには『ラウダート・シ』が示すように統合的な回心が必要になります。生活のあり方、生き方のすべてを見直す回心が必要です。

 

ケアする教会

 ここで「ケア」という言葉に思いをはせてください。もともとは「お世話する」という意味ですが、現在、いろいろな分野で使われるようになりました。そして、教皇の文書でもよく使われています。「お世話」、「気づかい」、「配慮」、「他者への寄り添い」、「関わり」などと言い換えることができます。社会科学の分野では、この言葉の翻訳の難しさが指摘されています。そのため日本語に直さずに「ケア」とそのまま使うようになりました。

 「ケア」は人と人との「つながり」を表す言葉です。そして、「ケア」する者とされる者という上下関係の意味はありません。むしろ兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うのが「ケア」です。

 「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。

 教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ねていきます。そして、神から造られたものであることを、ともに喜び、感謝します。

 ケアする教会の中心には、いつも聖体祭儀、すなわちミサがあります。ご聖体のイエスは、私たちのお世話のため、私たちに気づかうため、わたしたちに寄り添うために、小さなホスチアの形になって、私たちのこころに来てくださるからです。ご聖体のあるところには、「ケア」する主ご自身が、いつも共におられます。

いくつかの勧め

 『東京教区宣教司牧方針』を実行するために、そして、「つながり」を大切にするために、私は東京教区の牧者として、次の四つの点を呼びかけます。

1. ミサを大切にしましょう。

 ミサは「ともに祝うキリストの過越の記念」です。近年の個人主義的な生き方が尊ばれる風潮にあっても、教会はともに集うことを大切にします。ミサを通じて神さまと出会い、人と出会うのです。ミサなしの教会は考えられません。

 キリスト信者としての生活にミサ、とりわけ主日のミサを中心に据えることを重要視しないことは考えられません。主日にはできるだけミサに参加してください。できるだけ定期的にミサに参加してください。

 御聖体の神秘は、私たちの想像をはるかに超えるものです。できるだけ頻繁にミサに参加して、神との「つながり」、隣人との「つながり」を深く味わっていただきたいものです。

 残念なことに司祭の高齢化と召命の減少のため、小教区の中には司祭が兼任となるところも増えつつあります。教区としてはできる限りミサが行えるように、小教区司牧以外の使徒職に携わる司祭の応援も得て、ミサが継続できるように努力をして参ります。

2. お互いに受け入れましょう。

 ケアする教会では誰も排斥されてはなりません。幼児、子ども、青年、大人、高齢者、障碍者、外国籍の人、社会の中で異質と見なされる存在などなど。共同体から退けられる可能性はだれにでもあります。大多数にとって異質だと見なされたとき、排除や排斥が正当化されてしまいがちです。異なる存在に目をふさぎ、自分たちだけの都合のよい集いになってはなりません。

 教会は、貧しい者のための教会です。低迷するいまの日本の社会にとって、貧しい者とはわたしたち一人ひとりのことをも指しているのかもしれません。教会にある豊かな「つながり」のおかげでわたしたちは貧しくとも、ともに歩んでいけるのです。この豊かな「つながり」に、一人でも多くの人を招き入れましょう。

3. 「分かちあい」を目指しましょう。

 ケアする教会は、ともに歩む教会です。それは、聞く教会であり、分かち合う教会でもあります。一人ひとりが考えたこと、感じたことを分かち合う時、大きな実りを共同体にもたらすはずです。

 少数の人の声に従っていくのではなく、互いに耳を傾け合い、互いの声を聞きながら、多数決での結論を急がずに、ともに祈って聖霊の導きを見いだしながら、共同体のために何かを決定していく姿は教会ならではのものです。それこそが「シノドス的な教会」と言えるでしょう。

4. 宣教する教会となりましょう。

 「ケア」は人との「つながり」を表します。家庭で、地域で、職場で、私たちは隣人との関わりを生きます。十字架上で「自分のいのちをささげるまでにケア」なさったイエスのように生きたとき、人々はそこに神の姿を見いだすのです。私たちは「ケア」を通じて、福音宣教をしているのです。自分のために生きるのではなく、惜しみなく隣人に自分自身を与え尽くすような生き方を、目指していきましょう。

おわりに

 昨年の終わりに、私たちの教区に新しい補佐司教が誕生しました。みなさんのお祈りのおかげで、主は、新しい牧者を私たちのもとに送ってくださいました。アンドレア・レンボ補佐司教が主から委ねられた牧者の務めを力強く果たすことができるようにと、これからもお祈りください。

 東京教区の牧者として着座して6年、多くの方々に支えられて過ごせたことに感謝しています。教区の長い歴史の中に、私もつながっていることに感謝しています。またその責務の重大さに、いつも心を震わせています。しかし、帰天された先輩の司教さま方と司祭の方々が天国から見守ってくださっているおかげで、主から課せられた牧者の務めを果たすことができています。

 社会の厳しい現実にみなさんと一緒に向き合い、担い合えるのは大きな喜びです。このように共同で責任を担うことで、将来に向けた歩みを少しずつ進めることが可能になります。これこそが、カトリック教会が求めている「共に歩む」教会の姿です。みなさんと一緒に、聖霊が私たちの教区に求めている道を、祈りの中で識別していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年1月2日