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◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑯ 「節制」は、すべてが「過剰」に向かう現代社会に必要な”バランス感覚”
教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見で連続講話「悪徳と美徳」を続けられ、今回は「節制」の徳をテーマに取り上げられた。
講話の要旨は次の通り。
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今回は、基本的な徳目のうち4つ目の徳である「節制」について考えましょう。「節制」は、これまで取り上げた「賢明」「正義」「勇気」とともに、キリスト教以外の文化とも、大変古い歴史を共有しています。
古代ギリシャ人にとって、徳の実践は、「幸福」という目標を持っていました。哲学者のアリストテレスは、息子のニコマコスに生きる技術を教えるために、倫理学の本を著しました。「なぜ皆は幸福を求めるのに、わずかな人しか、それにたどり着けないのか」-この問いに答えるために、アリストレレスは徳のテーマと向き合い、特に「enkráteia(節制)」について、この著作のスペースを割いています。「enkráteia」はギリシャ語で「自分自身に対する権力」を意味します。つまり「自己統治力」。反動的な情熱に巻き込まれない、マンゾーニ(アレッサンドロ・マンゾーニ、19世紀のイタリアの詩人、作家)言うところの「人間の心の混乱に秩序を与える技術」です。
『カトリック教会のカテキズム』は、「節制」の徳について次のように述べています。
「節制とは、快楽の誘惑を抑え、この世の善を程よく用いさせる倫理徳です。本能に対する意志の支配力を保証し、欲求の中庸を保たせます。節制を保つ人は自分の感覚的欲求を善に向かわせ、健全な控え目を守り、欲望のままに生きることがありません」(1809項)。
「節制」はイタリア語でtemperanza-「節度の徳」です。どのような状況に置かれても、「節制」は人を、賢明さをもって行動させます。それは、人は常に衝動や活気に動かされ、結果的に信頼できない存在だからです。
多くの人が気まま勝手に話す世界にあって、節度のある人は、自分が話すことについて考えるのを好みます。出まかせの約束をせず、約束を守れるように努力します。快楽に対しても判断をもって行動します。衝動のなすままに、快楽の放縦を完全に認めることは、人を倦怠状態に陥らせ、最後には自分自身に害を与えることになります。いったい、どれだけの人が貪欲に望むままを求め、あらゆることに対する興味を失ってしまったことでしょう。そうなるより、節度を求めた方がいい。良いぶどう酒を味わうには、一気に飲むより、一口ずつ賞味したほうがいいのです。
節度のある人は、言葉の重みや程度を測ることができます。「節制」は、一瞬の怒りが人間関係や友情を壊してしまうことを防ぎます。一度壊れた関係を修復するには努力が必要です。抑制があまり利かい家庭生活のような場所では、皆が緊張や、苛立ち、立腹などを抑えられない危険があります。人には話すべき時と、沈黙すべき時がありますが、いずれにも節度が求められるのです。
節度のある人が、自分の怒りやすさを制御できたとしても、いつも平和的に微笑む顔をしていられるわけではありません。節度を保ちながらも、時々憤慨することも必要です。叱責のひとことが、辛辣で恨みがましい沈黙よりも、有益なことがあります。
「節制」は、他者の過ちを正すことが難しいと承知しつつ、そうすることが必要なことも理解しています。そうしないと、悪に自由な場を与えてしまうからです。時と場合によって、「節制」は両極を一緒に保つ―絶対的な原則や譲りがたい価値を強調しながら、他者を理解し、共感を示す―ことができるのです。
「節制」の恵みとは、すなわち貴重で得難い「バランス感覚」です。すべてが過剰に向かっている現代社会で、「節制」は、小ささ、思慮深さ、人から隠れた生き方、柔和さといった、福音的振る舞いとよく合います。節度ある人は、他者の評価を尊重しても、行動や発言の唯一の基準とはしません。感受性が高く、泣くことができても、悲劇の主人公を装うことはしません。負けた時は立ち上がり、勝った時は、元の隠れた生活に戻って行くことができます。喝采を求めず、「自分は他者のおかげで生きている」と自覚しています。
「節制」が、人を「精彩を欠いた喜びのない人」にする、と言うのは正しくありません。それは、皆で食卓に着くこと、友情の優しさ、賢明な人との信頼関係、被造物の美しさに対する驚異など、人生の善をより良く味わうのを助けます。「節度ある幸福」とは、人生で最も大切なことを認め、それに価値を与えることのできる人の心に花開く喜びです。
主が私たちに成熟の恵み―年齢による成熟、愛情の成熟、社会的成熟、そして節制の恵みをくださるよう祈りましょう。
(編集「カトリック・あい」)
☩「中東における対話と和平にすべての努力を傾けるように」教皇が呼びかけ
教皇フランシスコは14日正午のRegina Coeliの祈りの後、中東で戦争拡大の恐れが強まっていることに対して、ただちに「暴力のスパイラル」を止め、関係する全ての国が和平の向けた対話の努力に全力を傾けるよう求めるとともに、ガザで苦しむ人々を支援するよう心から訴えられた。
教皇は、ここ数時間に届いたイラン介入後のイスラエル情勢悪化に関するニュースを「祈りと懸念、さらには悲しみ」をもって見守っている、と語られ、「どの国も他国の存在を脅かすべきではなく、すべての国が平和の側に立ち、イスラエル人とパレスチナ人が二つの国家で安全に並んで暮らせるよう支援すべきです」と強調された。 さらに、「隣り合う二つの国となることは、彼らの深く正当な願望であり、彼らの権利です!」とも付け加えられた。
そして、ガザでの停戦と交渉の道を「決意を持って」進めるよう改めて訴え、「人道的大惨事に陥った」ガザ地区の住民の苦しみを思い、「苦しみを軽減するためのあらゆる努力」を関係国の指導者たちに呼び掛けられ、「数か月前に誘拐された人質たちが解放されるように!」と祈られた。さらに、「このように苦しみを味わわされ続けているとは! 平和を祈りましょう。 これ以上の戦争、これ以上の攻撃、これ以上の暴力を続けてはなりません。 対話にYes、そして平和にYesです!」と訴えられた。
教皇はまた、世界中の戦争で苦しんでいる子供たち、特にウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーの子供たちへの祈りを新たにされ、「こうした子供たちのために、そして私たちの世界の平和のために祈ってください」と、世界の全ての人に呼び掛けられた。
戦争によって子どもたちが負う重荷について語る中で、カトリック教会が5月25日から26日にかけて、初めての「世界子供の日」を迎えることを思い起こされ、聖ペトロ広場に集まった会衆の中にいる子供たちと世界中で見守っている人々に対して、この日の準備に努めていることに感謝し、このイベントに向けて旅をする子供たちに祈りをもって寄り添うことを約束され、「私は皆さんを待っています。より良い世界、平和な世界への喜びと願いを分かち合うように」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「主との出会いの経験を分かち合うことは何と素晴らしいことか」復活節第3主日のRegina Coeliの祈りで
(2024.4.14 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは14日、復活節第3主日正午のRegina Coeliの祈りに先立つ説教で、信者たちに、主との個人的な出会いを思い起こし、「私たちが信仰を分かち合い、伝えることが、どれほど素晴らしいことであるか」を考えるよう勧められた。
「主に出会うことは、何と素晴らしいことでしょう。主と出会ったら、私たちはその喜びを他の人に伝えなければなりません…」。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(24章35-48節)を取り上げた。この箇所は、弟子たちがエルサレムで上の部屋に集まっている時、二人がエマオから戻ってきてイエスとの出会いを語るところから始まる。
教皇は、この瞬間が彼らの人生をどのように変えたか、そして同様に、イエスとの出会いがすべての信者のすべてをどのように変えたか、について思いを巡らせられた。そして、主との出会いがどれほど人生を変え、「それは私たちが他の人々に語らねばならない最も素晴らしいこと」であるにもかかわらず、「私たちは、それについて話すのに苦労することが多い」と指摘。
そして、「私たち一人一人が、このことについて多くのことを語ることができます。他の人に講義をするのではなく、『主が生きておられ、近くにいて、私たちの心に喜びを燃え上がらせ、心の疲れを癒してくださった』という得難い瞬間を分かち合うことによってです」とされ、「 自信と慰め、強さと熱意、あるいは赦し、優しさ、平和を伝えた涙。これを家族、地域社会、友人らと共有すること」が、いかに重要であるかを強調された。
さらに教皇は、「私たちが神の御前に身を置いたときに生まれた考えや感情、また信仰の道を理解し、進むための努力や労苦について、自分の足跡をたどることは、とても有益です… もし私たちがそうすれば、イエスは、過ぎ越しの夜に弟子たちにされたのと同じように、私たちを驚かせ、私たちの出会いや環境をさらに素晴らしいものにしてくださるでしょう」と説かれた。
教皇はまた、「誰もが、主との出会いを経験している」とされ、すべての人にそれを思い起すように求められ、「あなたが主を見つけたのは、いつですか? 主はいつ、あなたに近づいたのですか?少し沈黙して、考えてみましょう」と促された。
そして、「私たちは、主とのこの出会いを経験したとき、それを他の人と分かち合い、この信じられないような経験を主の栄光を帰したでしょうか… 他の人がキリストとの出会いについて語るとき、それに耳を傾けるでしょうか」と信者たちに問いかけられた。
最後に教皇は、「私たちの地域社会が、主とのこれまで以上に素晴らしい出会いの場となるように、私たちが信仰を分かち合うことができるように」と聖母マリアの助けを願われ、説教を締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「中東での戦争拡大を許してはならない」教皇、ラマダン明けのイスラム教徒、政治指導者にメッセージ
An Israeli bombardment in Gaza City (AFP or licensors)
(2024.4.12 Vatican News Linda Bordoni)
イスラム教の断食月「ラマダン」が明けたのを受けて、教皇フランシスコが12日、国際アラビア語ニューステレビ「アル・アラビーヤ」に託した世界のイスラム教徒たちへのメッセージを発表。パレスチナ、イスラエルからイランなど中東全域への紛争拡大が強く懸念される中で、そうした事態をもたらすことのないよう、関係国指導者たちに強く訴えられた。
メッセージで教皇は、イスラム教徒の兄弟姉妹たちに挨拶された後、イスラエルとパレスチナで進行中の戦争と、シリア、レバノン、そして地域全体で起きている暴力を「中東の祝福された地で現在流されている血」と表現され、深い悲しみを表明。 「戦争は常に失敗でしかありません。どこへも続くような道ではない。すべての希望を押しつぶすもの」とのご自分の信念を繰り返し述べられた。
そのうえで、パレスチナ、イスラエル、シリア、レバノンの平和への願いを共有する善意のすべての男女に「不気味な風に煽られて恨みの炎を起こさないように」と訴えるとともに、戦争に関わる国々の指導者たちに、直ちに戦闘を停止し、戦争の拡大の可能性を防ぐよう呼びかけられた。
また教皇は、イスラム教の神聖な月であるラマダンが復活祭の直後に終わったことを挙げ、「どちらの行事も、信者たちが天に目を上げ、『慈悲深い全能の主』を崇拝します。それは、 地球を破壊する力を持つミサイルがもたらす惨状とは対照的なこと」と指摘。「神は平和であり、平和を望んでおられます。 主を信じる者は、戦争を認めることができません。戦争は解決にはならず、敵対関係を増大させるだけです」と強調。
パレスチナとイスラエルの紛争に対する苦悩を表明された教皇は、人道的大惨事が展開しているガザ地区での即時停戦を繰り返し訴え、「ひどい苦しみの中にあるパレスチナの人々に援助が届きますように、そして昨年10月に捕らえられたイスラエル人の人質が解放されますように!」と願われた。
さらに「戦争で荒廃したシリア、レバノン、そして中東全体」に思いをはせられ、「軍拡競争の恐ろしい風にあおられて、恨みの炎が広がるのを許さないように! 戦争の拡大を許さないようにしましょう! 悪の惰性を終わらせましょう!」と強く訴えられた。
そしてこれらの地域の家族、若者、労働者、高齢者、子供たちのことを思い、「彼らの心の中には、平和を求める大きな願いがある。暴力が蔓延する中、彼らの目からは涙が流れ、口からは『もうたくさんだ』という言葉が発せられています」とされ、「私はこの言葉を、国家を統治する重大な責任を負う人々に向けて言います。『もうたくさんだ!戦闘を止めて!』。あなたがたの子供たちと同じように、すべての子供たちのことを考えてください。差別や区別をしない子供の目で未来に目を向けてほしい。彼らに必要なのは、墓や集団墓地ではない。家、公園、学校なのです」と指導者たちに求められた。
メッセージの終わりに教皇は、「砂漠が花を咲かせるのと同じように、人々の心や国々の生活も、花を咲かせることができる」という確信で手紙を締めくくられた。「私たちがお互いに寄り添って共に成長する方法を学んだ場合にだけ、私たちが他人の信念を尊重することを学んだ場合にだけ、すべての人々の生存と独自の国家を持つ権利を認める場合にだけ、 私たちが誰も悪者扱いせずに平和に暮らす方法を学んだ場合にだけ、希望の芽が出るのです」。
そして、「少なからぬ困難の中にある」中東に住むキリスト教徒に向けて、「いつ、どこにいても、平和と友愛を語り、信仰を自由に告白する権利と能力を享受することができるように」と励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「『ありがとう』と言うのを毎日の生活で忘れないように!」ローマ市内の子供たちとの「祈りの学校」で
教皇フランシスコと子どもたち 2024年4月12日 ローマ、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会 (Vatican Media)
(2024.4.11 バチカン放送)
教皇フランシスコは11日夕、ローマ東部郊外の小教区を訪問、2025年の聖年を前に、初聖体を準備する子どもたち200名と「祈りの学校」と題する集いをもたれた。
教皇が訪問されたのは、ボルゲジアーナ地区にある聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会。同地区に小教区が創立されたのは1963年、現在の教会は当初からの教会を1990年に改築した現代的な外観をもっている。教皇の訪問は、教会の要理講座を学ぶ子どもたちへのサプライズとして行われた。子どもたち、そして保護者や地域の住民たちは、教皇の訪問を驚きと喜びをもって迎えた。
2025年の聖年を前にした今年の「祈りの年」にあたって、教皇は「祈りの学校」と題したこの集いで、およそ1時間にわたる自由な対話を通して「祈りの学校」の初めて「授業」を行われ、子どもたちに祈ることの大切さを教えられた。
教皇は、まず、「ありがとう」「ごめんなさい」「…をしてもいいですか」という言葉を毎日の生活の中で忘れないようにと、子どもたちに願われ、特に「ありがとう」という言葉の重要さを強調。「いつも感謝すること、特に神に感謝することが大切です」と話された。
また、「どんなに暗い時でも祈り、感謝するように。病気や、死、孤独、戦争などを前にしても、困難を耐える力をくださるように、神に祈らねばなりません」と説かれ、 「皆さんは祈っていますか。祈り方を知っていますか。神様に何を話しかけていますか」と問いかけられた。
この問いかけに、ある児童が「毎日、食事の時に家族と祈っています」と答えると、教皇は「あなたは大切なことを言いました。でも、世界のたくさんの子どもたちには、食べる物もないことを知っていますか。食べる物があることを神様に感謝してください。家族があることを神様に感謝してください」と話された。
最後に教皇は、「皆さんは信仰を持っていますか」と尋ねられ、「神様が信仰をくださったことにお礼を言いましょう」と子どもたちに呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑮世界の課題の”海”と真剣に向き合うのに必要な徳は『勇気』」
(2024.4.10 バチカン放送)
教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は、「勇気」の特について話された。
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今日のカテケーシスでは、基本的徳目の三つ目、「勇気(剛毅)」を取り上げたいと思います。『カトリック教会のカテキズム』は、勇気の徳を次のように定義しています。
「勇気とは、困難にあっても断固として粘り強く善を追求させる倫理徳です。誘惑に抵抗したり、倫理生活の障害を克服したりする決心を固めさせてくれるものです。勇気の徳は、死の恐怖さえも克服し、試練と迫害とに耐えることができるようにしてくれます」(1808項)。
このように、「勇気」は徳の中でも最も「闘う徳」です。基本的徳目のうち、「賢明」が「人間の理性」と結びつき、「正義」が「意志の中に宿る」とすれば、「勇気」は、古代の人が「激情」と呼んだものと関係づけられてきました。古代思想にとって、情熱のない人間など石のようなものであり、想像できないものでした。情熱は、必ずしも「罪の名残りだ」とは言えませんが、教育され、方向づけられ、洗礼の水、あるいは聖霊の火によって清められねばなりません。
勇気のない、自分の力を善に従わせることのできない、誰にも迷惑をかけないキリスト者は、「無用なキリスト者」です。イエスは、人間の感情をご存じない、禁欲的な神ではありません。ご自分の友であったラザロの死を前に涙を流された方です。
そして、イエスの言葉や振る舞いから、ご自身の情熱的な心が浮かび上がってきます。たとえば、こう言われます―「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ福音書12章49節)。また神殿から、厳しい言葉で商人を追い出された場面@(マタイ福音書21章12-13節)もそうです。
それでは、人生に実りをもたらすのを助ける「勇気」の徳の実存的な説明を試みましょう。古代の人々、ギリシャの哲学者、あるいはキリスト教の神学者たちは、「勇気」の徳に、受動的、そして能動的な二つの動きを認めていた。
「受動的」な勇気は、私たち自身の心に向けられています。不安や、苦悩、恐れ、罪の意識など、私たちには打ち負かすべき内的な敵がいます。これらは私たちの心を乱し、場合によって、私たちを動けなくさせる力です。どれほど多くの運動選手が挑戦を始める前にくじけてしまうことでしょう。勇気とは、何よりも自分自身に勝つことです。私たちの心に生まれる恐れの大部分は、非現実的なものと言えます。そうであるなら、聖霊に祈り、忍耐強い勇気をもって立ち向かいましょう。できることから一つずつ、一人ではなく、協力して問題に対処しましょう。主は私たちと共におられます。主に信頼するなら、私たちは誠実に善を追求することができます。すべての状況を、盾となり、鎧となってくださる神の摂理に委ねることができるようになるのです。
「勇気」の徳のもう一つの動きは、より能動的な性格を持っています。内的な敵のほかに、人生の様々な試練、迫害、私たちを脅かす想定外の困難など、外的な敵があります。私たちは起こるかも知れないことを予測しようとしますが、現実の大部分は不確定な出来事から成っているのです。その”海”の中で、私たちという”船”は波に翻弄されます。それに対して、「勇気」は私たちを、驚いたり、気落ちすることのない、耐久力のある”船乗り”にしてくれます。
「勇気」は、世界の課題の”海”と真剣に向き合うために、不可欠な徳です。このような多くの問題を無視し、「すべては順調で、歴史の中で死をもたらす闇の力が働くことなどない」と言う人もいますが、歴史の本を紐解けば、あるいは日々のニュースに接すれば、私たちが被害者、あるいは主役として多少は関わっている非道な出来事、たとえば、戦争、暴力、奴隷制、貧しい人への抑圧、血を流し続け、癒されない傷などを知ることができるでしょう。「勇気」の徳は、私たちをこれらすべてに対して反応させ、はっきり「ノー」と叫ばせます。
私たちの周りの一見、快適な世界では、すべてが水で薄められ、同じに見え、闘う必要もないように思わせられます。しかし、そこに良い意味での「預言者」の必要を、私たちは再び感じているのです。居心地のいい、ふわふわするような場所から、私たちを引きずり出し、悪に対して、また私たちを無関心に導くすべてに対して、はっきりと「ノー」を繰り返すことのできる人、そのような人が求められているのです。
福音書の中に、イエスの「勇気」を再発見しましょう。そして、聖人たちの証しから「勇気」を学びましょう。
☩「復活されたキリストのように、愛する喜びを経験しよう」7日正午Regina Coeliの祈りで
(2024.4.7 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは復活節第2主日の7日、正午のRegina Coeliの祈りに先立つ説教で、「復活されたイエスとの出会いがもたらす変革の力」を強調され、信仰、祈り、愛をもって、主の復活の喜びを広めていくように、信徒たちに呼びかけられた。
教皇は、この日、復活節第2主日が聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって「神の慈しみ」に捧げられたことを説明されたうえで、「今日読まれた福音は、神の御子イエスを信じることで、私たちは神の名において命を得ることができる、と教えています」とされた。
そして、 「では、『命を得る』とは何を意味しているのでしょう?」と信徒たちに問いかけられ、「私たち一人ひとりが『命を得たい』と望んでいますが、対応はさまざまです。そうした中で、多くのものを楽しんだり、所有したりすることに熱狂的になる人たちがいます。一見楽しそうに見えますが、心は満たされることがありません。真の幸福につながることはないので、『命を得る』ために取るべき正しい道ではありません」と説かれた。
続けて教皇は、「今日読まれたヨハネ福音書は、私たち一人一人が招かれているこの豊かな命が『イエスにおいて実現される』と語っています。どうすればそれに応じることができ、どのようにして体験できるのでしょうか?」と問いかけられ、「『命を得る』ということは、十字架につけられ、復活されたイエスに目を留め、秘跡や祈りの中でイエスに出会い、イエスが臨在されていることを認識し、イエスを信じ、イエスの恵みに触れ、イエスに導かれることを意味するのです」された。
さらに、「たとえば、イエスのように愛する喜びを経験することです。イエスとのあらゆる生きた出会いによって、私たちはより多くの『命』を得ることができます」 と語られた。
最後に教皇は信徒たちに、「私はイエスの復活の力、罪、恐怖、死に対するイエスの勝利を信じているだろうか?イエスとの関係に引き込まれているだろうか?そして、そのように努めているだろうか? 私自身も、兄弟姉妹を愛し、毎日希望を持つよう神から促されているだろうか?」と自問するよう勧められ、復活したイエスへの信仰を私たちに与え、「命を与え」、復活祭の喜びを広めてくださるよう聖母マリアに願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩ウクライナ、ガザの戦闘の関わる指導者たちに、「主よ、和平のための交渉に踏み切る力を与えてください」7日正午のRegina Coeliの祈りで
FILE PHOTO: Scenes of destruction in Gaza amid the ongoing conflict between Israel and Hamas
(2024.4.7 Vatican News Linda Bordoni)
教皇フランシスコは7日正午の Regina Coeliで、ウクライナ、そしてレスチナ、イスラエルで進行中の戦争に対して、関係国の政治指導者に対し、戦闘を一時停止し、和平のための交渉を開始するよう、改めて呼びかけられた。
教皇は聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、平和を、特に「苦悩するウクライナとパレスチナ、イスラエル」に公正で永続的な平和が実現するように祈り続けるよう促された。
そして、これらの国、地域でなお進んでいる戦闘を止めるために可能な限りの努力をするように、政治指導者たちに繰り返し求め、「政治的解決策を交渉する努力を重ねている人を支えてくださるように」と復活の主に願われた。
さらに教皇は、「復活された主が、緊張を和らげようと努力するすべての人々を励まし、支え、交渉を可能にする行動を促されますように」、また、「主が、関係国の政治指導者たちに、歩みを止め、調停し、交渉する力を与えてくださいますように」と祈られた。
教皇はこれまで、あらゆる機会をとらえて、関係国指導者たちに戦いの継続へ自制を求め、和平の実現を求めるとともに、世界の人々に、世界中で起きている紛争に巻き込まれた何百万もの罪のない人々のために祈るよう、繰り返し訴えてこられた。
特に、2022年2月のロシアによるウクライナへの全面侵攻以来、そしてハマスによる殺害に端を発したイスラエルとハマスの戦争開始以来、毎日のように、世界の人々に和平の実現を人々に呼びかけ、指導者たちにそのための交渉を促してこられた。 2023年10月7日に1300人以上のイスラエルの人々が殺害され、250人が拉致されたのをきっかけに始まったイスラエルによるガザ地区への容赦ない爆撃で、これまでに3万3000人以上のパレスチナ人が殺害されている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「宗教間の対話は平和と多様性の尊重を促進する」バチカンと世界伝統宗教代表の第一回コロキアムで
Pope Francis speaks to participants in the First Colloquium (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.4.4 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは4日、「バチカンと世界の伝統的宗教の代表たちとの第1回コロキアム」の参加者と会見され、あらゆる宗教の人々の間で多様性、平和、被造物への配慮を促進するよう、強く希望された。
参加者たちへのあいさつで教皇は、宗教間対話の促進に努めているカザフスタン共和国に感謝を述べるとともに、「今回のコロキウムは、バチカンの諸宗教対話省とナザルバエフ・センターが署名した覚書の『最初の重要な成果』」と称えられ、また、2022年9月に同国を訪問され、アスタナで開かれた第7回世界宗教指導者会議と伝統宗教指導者会議に参加されたことを思い起こされた。
そして、このコロキウムの活動について、「多様性の尊重」「私たちの『共通の家』への取り組み」、そして「平和の促進」の三つの側面があることを指摘。
まず、「多様性を尊重」について、「多様性は、人々が調和して暮らすのに役立つ民主主義にとって不可欠な要素です」と強調され、「カザフスタン共和国では、宗教と政治を混同せず、社会の共通利益に奉仕する上で宗教が果たす役割を認識する『健全な世俗主義』を実現している」と語られた。
そして、「平和と社会の調和」は、雇用、公共サービスへのアクセス、国家の政治的・社会的生活への参加に関して、さまざまな民族、宗教、文化的要素を公正かつ公平に扱うことで、促進される。 そうすることで、誰もが自分の特定のアイデンティティを理由に差別されたり優遇されたりしている感じることがなくなります」と述べられた。さらに、被造物を維持し守る必要性を強調され、「それは私たちの隣人、そして将来の世代にとって、創造主への愛の不可欠な結果となるもの」と説かれた。
続けて教皇は、「悲しいことに、世界では好戦的なレトリックが再び流行していますが、そうした時代には、宗教間の対話こそ、平和の促進に役立ちます」とされ、「憎しみの言葉は、戦争で人々を死に至らしめる。そうした言葉の代わりに、私たちは平和について語り、平和を夢見、平和への希望に創造性と実質を与える必要があります。そうすることが、個人と人々の本当の希望だからです。すべての人が対話し、あらゆる努力が払われるべきす」と訴えられた。
最後に、教皇はコロキアムの取り組みが今後も進むように、コロキアムが他の宗教の人々を「互いに成長するための価値あるパートナー」として見る方法のモデルとなるように、期待を表明され、「皆さんが友愛に満ちたこの機会を最大限に生かし、友情と有望な将来の計画を立てて、自分の仕事の成果を実りあるものとして分かち合うことを、願っています」とあいさつを締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩教皇、ガザ地区で援助活動中の7人の殺害を悼み、改めて即時停戦を訴え
ガザ地区では2日、イスラエル軍の空爆により、米国に拠点を置く慈善団体「World Central Kitchen」と共にパレスチナ人に食料を届けていた7名が死亡した。 殺害された人の中には英国人3人、オーストラリア人、ポーランド人、アメリカとカナダの二重国籍、パレスチナ人が含まれていた。
教皇は、「残念ながら中東から悲しいニュースが届き続けています」とし、新たな犠牲者が出たことに「深い遺憾の意」を表明し、彼らとその家族のために祈りを捧げるよう、人々に促された。励まされた。そして、このような悲劇が繰り返さている現状を断つために、「即時停戦、疲れ果てて苦しんでいる人々への人道援助へのアクセス許可、人質の即時解放を改めて訴えます」と強調された。
さらに、「この地域の紛争を激化させようとする無責任な試みを避けましょう。世界の多くの地域に死と苦しみをもたらし続けている戦争を終わらせるために努力を続けるように」と訴えられ、信徒たちに「武器の沈黙と平和の回復」のために祈りに加わるよう呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「ロシアの侵略戦争で殺された若いウクライナ兵士がロザリオと聖書を残した…」水曜恒例一般謁見で
Pope Francis holding rosary and Gospel of young fallen Ukrainian soldier, Oleksandr, during his Wednesday General Audience (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
教皇が手にしたロザリオと聖書は、この防衛戦で亡くなったウクライナ兵が携帯していたもの。
*彼は、詩篇『主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください』に下線を引いていた
教皇は、「私の手には、戦争で亡くなった兵士が残したロザリオと新約聖書があります。この若者はオレクサンドル、アレキサンダーという名前で、23歳でした」と語られ、「オレクサンドル。彼は新約聖書と詩篇を読み、詩篇の130章の『主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください』に下線を引いていました。その23歳の若者が、アウディーウカの戦いで命を落としたのです 」と深く悲しまれた。
そして、手にされたロザリオと聖書を示し、「これが彼のロザリオ、彼が読み、祈った聖書です」とされ、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、「この若者と、この狂気の戦争で亡くなった彼と同じように多くの人たちのことを思い、黙祷を捧げるように。戦争は常に破壊をもたらす。犠牲となった彼らを思い起こし、祈りましょう」と促された
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑭ 「正義は私たちを神に導き、社会の平和共存の基礎」
Pope Francis at Wednesday General Audience (3 April 2024) (AFP or licensors)
(2024.4.3 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは3日、水曜日の一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は四つの基本的徳目のうち二つ目の「正義」を取り上げ、「正義は私たちを神に導くもの、社会の平和的共存の基礎をなすもの」と語られた。
教皇は「悪徳と美徳」の連続講話を、まず「悪徳」から始められ、最近は「美徳」にテーマを移されているが、今回は「正義」についてまず、「カトリック教会のカテキズム」では「神と隣人とに帰すべきものを帰す、という一貫した堅固な意志によって成り立つ倫理徳」(1807項)と述べられている、と指摘。
「この美徳は個人が実践すべきものであるだけでなく、何よりも社会的な美徳… なぜなら、この美徳は、各人がその生来の尊厳に従って扱われる共同体の創造に向けられているからです」と述べられた。
そして、「正義は社会の平和的共存の基礎」であることを再確認され、「人の権利を尊重する法律のない世界は、人が生きていけない世界、”ジャングル”に似たものになる… 正義がなければ平和はなく、正義が尊重されないところには紛争が生じます。正義がなければ、強者が弱者に優る、という法則が根強く残ることになります」と現代の世界的な風潮を警告された。
また教皇は、正義は「大規模でも小規模でも適用できる美徳」とされ、「法廷だけでなく、私たちの日常生活を特徴づける倫理。他者との誠実な関係を築くもの… 正義の人は、真っすぐ、純朴で、率直で、”マスク”を着けません。ありのままの自分を表に出し、真実を語ります」、さらに「感謝の態度を持ち、自分たちは、最初に神に愛されただけで価値のない人間であることを認識し、『負い目を感じる』ことで、隣人に愛を示す人です」と説かれた。
そして、「正義の美徳」を持つ人は、「全ての人の利益がなければ、自分自身にとって真の利益はあり得ない」ということを明確にし、その必要性を心に留める、と指摘。「皆、自分が他人に害を及ぼさないように行動を見守っている」ことを認識しており、「間違いを犯した場合、謝罪し、場合によっては、個人的な利益を犠牲にすることさえする」とし、「責任を重んじ、合法性を促進する模範的な人」と語られた。
教皇は正義を「汚職に対する解毒剤」と呼び、汚職や違法行為を防ぐために「人々、特に若者に、合法性の文化を教育することが、極めて重要」と強調され、さらに、「正義の人は、中傷、偽証、詐欺、高利貸、嘲笑、不正などの有害な行為を避け、約束を守る」と指摘された。
最後に教皇は、自分自身と自分たちの住む世界の両方に恵みと祝福をもたらす人々を称賛し、「『狡猾で洞察力のある』人々に負けてはいない」とされ、聖書にあるように、「義に飢え渇く人々は、幸い」(マタイ福音書5章6節)。「『正義』を追い求める男性と女性がこれまで以上に必要とされています… 『正義』であることが、私たちを幸せにするのです」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「召命を受けた人々の忠実でしばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こそう」-4月21日の「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ
(2024.4.3 カトリック・あい)
教皇フランシスコが4月21日の「第61回世界召命祈願の日」に向けたメッセージを発表され、その日本語訳が2日、カトリック中央協議会から出された。全文以下の通り。
2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2024年4月21日
希望の種を蒔き、平和を築くよう呼ばれて
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
世界召命祈願の日には毎年、主が旅を続ける忠実な民一人ひとりにあてた、召し出しという尊いたまものについて考えるよう招かれます。私たちが主の愛の計画に加わり、福音のすばらしさを、さまざまなあり方の中で具現化するためにです。神の呼びかけに耳を傾けることは、宗教的理想の名のもとであったとしても、外部から課される義務とはまったくの別物で、むしろ私たちの内にある幸福への望みをかき立てる最も確かな方法です。私たちの人生に輪郭が与えられ、それが十全なものとなるのは、自分は何者なのか、どんな資質があるのか、どのような分野でそれを生かせるのか、どのような道を進めば、置かれた場にあって、愛、受容、美、平和のしるしとなり、道具となれるのかに、気づけたときです。
そのためこの世界祈願日は毎回、全生涯に及ぶ召し出しを受け止めた人々の、忠実で、日常的で、そして、しばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こす絶好の機会です。心に浮かぶのは、自分のことは顧みずに後回しで、うわべだけのことに流されず、人と人との関わりを大切にして生き、愛と無償の心をもって、いのちのたまものへと自らを開き、子とその成長のために尽くす母親、父親です。献身的に協力の精神で仕事を果たす人々、さまざまな分野で、いろいろなやり方で、より公正な世界、より連帯ある経済、より平等な政治、より人間らしい社会を築くために専心する人々、共通善のために懸命に働く、善意あるすべての人のことを思い起こします。
使徒的行為としての祈りの沈黙を通して、時には辺境の地で労力を惜しまずに、創造性をもって自分のカリスマを生かし、出会う人々のために用いることで、自身を主にささげる奉献生活者のことを思います。叙階される祭司職への召命を受け入れて、福音を宣べ伝えることに自らをささげ、兄弟姉妹のためにエウカリスチアのパンとともに自らを裂き、希望の種を蒔(ま)き、神の国のすばらしさをすべての人に示す人のことを思います。
若者たち、とりわけ教会に距離を感じたり不信感を抱いている若者たちに申し上げたいと思います。イエスに心を掴まれるがままになってください。福音書を開き、あなたがたにとって大事な問いをイエスに投げかけてください。いつも私たちのためを思って危機に立たせるイエスの存在に、心を揺さぶられてください。イエスは誰よりも私たちの自由を尊重し、押しつけることはなさらずに、ご自分を示しておられます。イエスに場を空けてください。そうすれば、イエスに従うことで、そして主に求められるなら、主に完全に自身をささげることで、幸福を得るでしょう。
旅する民
キリスト教が認識し伴奏する、さまざまなカリスマとさまざまな召命によるポリフォニー(多声音楽)は、キリスト者としてのアイデンティティを十全に理解する助けとなります。世の道を歩む神の民として、聖霊に駆り立てられ、生きた石としてキリストの体に組み込まれながら、私たち一人ひとりは、自分たちが大きな家族の一員であり、御父の子どもであり、同じ神の似姿である兄弟姉妹だ、ということに気づかされます。私たちは、自分という存在の中に閉ざされている孤島ではなく、全体の一部です。だから世界召命祈願の日は、シノダリティ(共働性)の音色を帯びています。カリスマは多様です。そのカリスマに気づき、すべての人の益のために何をなすことを聖霊が求めておられるのかを識別するように、互いに耳を傾け、共に歩むよう、私たちは求められています。
さて現在、共同の道は、2025年の聖年へと私たちを導いています。自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様なたまものを結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう。そうして私たちは、神の愛に結ばれ、そして慈しみと分かち合いと兄弟愛の絆で結ばれた、一つの家族を形づくるのです。
この世界祈願日にはとくに、み国を建設するための尊い召命のたまものを、御父に切願する祈りをささげます。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ福音書10章2節)。そして祈りとは、ご承知のとおり、神に語る言葉よりも、耳を傾けることによって、なされるものです。主は私たちの心に語りかけ、心が開かれ、誠実で、寛大であるよう願っておられます。み言葉は、イエス・キリストにおいて受肉し人となった、み言葉は、御父のみ心を余すところなく私たちに啓示し、知らせてくださいます。
今年2024年はまさに聖年の準備として、祈りに充てられる年です。私たちは、主と心と心をもって対話できるという、計り知れないほど尊い賜物を再確認し、希望の巡礼者となるよう求められています。なぜなら、「祈りは、希望の最初の力です。祈れば希望は膨らみ、どんどん増幅していきます。祈りは希望への扉を開く、ともいえるでしょう。希望はあるものですが、祈りによってその扉を開くのです」(教皇フランシスコ「キリスト者の祈りについての連続講話―創造の神秘」2020年5月20日)。
希望の巡礼者、平和の建設者
では、巡礼者であるとはどういう意味でしょう。巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭につねに置いています。ですが同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要な物だけを持ち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません。このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にあるさまざまな道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。疲労や困難はあっても、それによって常に新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。
キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。私たちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見い出すためでもあります。内なる旅とはいえ、それは多様な関わりに刺激され続けるものです。つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。ですから、この地上における私たちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。その逆で、日々、呼びかけに応えつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。私たちは希望の巡礼者です。よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。
結局のところ、あらゆる召命が目指すのは、希望の人となることです。個人として、また共同体として、多様なカリスマと奉仕職をもって、私たちは皆、新たな時代の課題を負った世界にあって、福音の希望に「体も心もささげる」よう呼ばれています。新時代の課題とは、散発的な第三次世界大戦の脅威の拡大、よりよい未来を求め故郷を逃れる移住者の大群、増加の一途をたどる貧困層、この地球の安定を不可逆的に損ねる危険などです。こうした全てに加え、日常でぶつかる困難もあり、それらは私たちを、時に諦めや悲観に陥らせかねないのです。
それゆえ、この時代において、私たちキリスト者こそ希望に満ちたまなざしを養わなければならないのです。神の国のため、愛と正義と平和の国のために、私たちに託された召命に応えることで、実り豊かな働きがなせるようにです。聖パウロが確約するように、この希望は「私たちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章5節)。主イエスが、いつも私たちと共におられ、あがないの業に私たちを加える、と言われた約束だからです。
イエスはあがないを、一人ひとりの心、被造物の「心」において、成し遂げたいと願っておられます。この希望の原動力は、キリストの復活にあります。キリストの復活は、「世界を貫いた命の力を帯びています。すべてが死んだかのように思われるところには、どこにでも、復活は再び芽生えるのです。この力を止めることはできません。しばしば、神はいないかのように思われることが確かにあります。不正も悪意も無関心も、残酷な行為も減ることはなく、私たちはそれを目にしています。
しかし、闇のただ中にあっても、新しい何かが必ず芽生え始め、ついには実りをもたらすこともまた確かなことです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』276項)。使徒パウロも「私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマの信徒への手紙8章24節)と断言しています。復活において果たされたあがないが、希望をもたらします。それは、現在の試練に立ち向かうための、確固たる、信頼すべき希望です。
ですから、希望の巡礼者であり平和の建設者である、ということは、キリストの復活という岩の上に自己を確立することであり、応えて生き続ける召命を通して行うすべての取り組みが水泡に帰すことはない、と心得ることです。失敗や挫折があっても、私たちが蒔いた善は静かに成長し、何ものも、私たちに究極の目的地を見失わせはしません。
そこは、キリストとの出会いがあり、皆が友愛のうちに永遠に生きる喜びがある場です。この究極の招きを、私たちは日々待っていなければなりません。神との愛ある関係、また兄弟姉妹との愛に満ちた関係によって、神の夢、すなわち一致、平和、友愛の夢が実現し始めるからです。自分はこの呼びかけの対象外だと感じる人がだれもいませんように。私たちは一人ひとり、それぞれの、ささやかなやり方で、置かれた場にあって、聖霊の助けを受けて、希望と平和の種を蒔く人になることができるのです。
賭けてみる勇気を
ワールドユースデーリスボン大会でも申し上げたことを、もう一度、今度は皆さんに繰り返します―「起き上がりなさい」。眠りから覚めましょう、無関心から抜け出しましょう、閉じこもりがちな”牢獄の鉄格子”を開けましょう。そうすることで、私一人ひとりが、教会で、世界の中で、自分の召命を発見し、希望の巡礼者、平和の建設者となれますように。
熱意をもって生きましょう。周囲の人々と、わたしたちが暮らす環境とを、愛をもってケアすることに力を尽くしましょう。繰り返します。賭けてみる勇気をもちなさい。慈しみの不屈の使徒、オレステ・ベンツィ神父は常に、底辺にいる人、誰にも守ってもらえない人の味方で、貧しい人からも与えられるものがあり、裕福な人にも受け取るべきものがある、と語っておられました。
ですから、起き上がって、希望の巡礼者として旅立ちましょう。そうして聖エリサベトに対するマリアのように、私たちも喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人となりましょう。
☩復活の月曜日「主の復活は、計り知れない喜びをもたらし、私たちの人生を変える」-Regina coeliの祈り
(2024.4.1 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは1日「復活の月曜日」の正午の祈りで聖母賛歌Regina coeli(天の元后よ,お喜びください)の祈りを捧げられ、説教で、「イエスの復活は、単なる素晴らしいニュースや物語のハッピーエンドではなく、私たちの人生を完全かつ永遠に変えるものです…」と強調された。
説教で教皇は、1日のミサで読まれた、空の墓でイエスに出会った女性たちの描写を記したマタイ福音書の箇所を取り上げ、「復活した方との生きた出会いから生まれるこの喜びは、強い感情であり、それが彼女たちに自分が見たことを広め、伝えようと駆り立てるものでした」とされた。
教皇は続けて、「喜びを分かち合うことは素晴らしい経験。私たちは幼い頃からそれを学んでいます… 学校で良い成績をとり、両親に見せるのが待ちきれない子供や、スポーツで初めて成功を収めた若者、あるいは、子供が生まれた家庭のことを考えてみてください」と語られ、信徒たちにそれぞれが経験した「言葉に言い表せないほど、あまりにも幸せな瞬間、すぐに皆に打ち明けたかった瞬間」を思い起すよう勧められた。
そして、「これは、主の復活の朝、女性たちも経験したことでしたが、私たちの経験したことよりも、はるかに大きな意味をもっていました。なぜでしょうか」と問いかけられ、「それは、イエスの復活が、単なる素晴らしいニュースや物語のハッピーエンドではなく、私たちの人生を完全に、そして永遠に変えるものだからです。主の復活は、私たちの人生を完全に、そして永遠に変えます!」と強調された。
さらに教皇は、「それは『死』に対する『生』の勝利であり、『落胆』に対する『希望』の勝利。主の臨在は、どのようなものでも、光で満たすことができる」とされ、「彼と共にいれば、毎日が永遠の旅の一歩となり、すべての『今日』が『明日』への希望になり、すべての『終わり』が新たな『始まり』となり、すべての『瞬間』が『時の限界』を超え、永遠に向かって投影されるのです」と指摘。
「復活の喜びは、私たちにとって、遠いものではなく、身近なものであり、洗礼の日に私たちに与えられたものです… それ以来、私たちも、空の墓でイエスに出会った女性たちと同じように、復活された方にお会いできるようになりました」、そして「主は、彼女に言われたのと同じように、私たちにも『恐れるな!』と言われます… 罪と恐怖と死の征服者であるイエスが、私たちに『恐れるな』と言われるのですから、私たちは恐れず、絶望的な人生に落ち落ち込むことなく、主の復活を喜ぶことを諦めないようにしましょう! それどころか、命の原動力であるイエスの喜びに、私たちは”燃料を注ぐ”必要があります」と訴えられた。
そして、それは、女性たちがしたように、「復活された方に出会うこと」によって可能になる、「なぜなら、主は、決して終わることのない喜びの源だからです」と説かれた教皇は、「聖体、神の赦し、祈り、そして生きた善行によって、急いで神を求めましょう! 女性たちがその振る舞いで私たちに示したように、イエスの喜びを人々と分かち合い、イエスを宣べ伝え、イエスを証ししましょう。喜びは分かち合うことで、さらに大きなものとなります」と説かれた。
最後に教皇は「御子イエスの復活を喜ばれた聖母マリアが、私たちも、その喜びを証しする者となることができるよう、助けてくださいますように」と、マリアの取次ぎを願いながら、復活節中に伝統的に唱えられる「Regina coeli」の祈りを、聖ペトロ広場に集まった司祭、聖職者、信徒と共に唱えられた。