・フランシスコは自発教令で「1つのローマ典礼の2つの形態」という”詭弁”を克服した(LaCroix)

(2021.7.19 LaCroix   Andrea Grillo | Italy)

 教皇フランシスコの新しい自発教令「Traditionis custodes(TC=伝統の守護者)」の重要性は、14年前に前任者のベネディクト16世が出された自発教令「Summorum Pontificum(SP)ー1970年の改革以前のローマ典礼の使用について」と比べることで最もよく理解できる。

 まず第一に、新教令のタイトル「伝統の守護者、司教…」で明らかなように、主人公は教皇ではなく、司教だ。前の自発教令で、ベネディクト16世は、世界の司教たちを特定の権限、とくに教区内の個々のミサ典礼の形について判断する権限から”解放”したが、フランシスコが新教令によって、この権限は正当な所有者に返されることになった。司教のこの権限は、第二バチカン公会議(1962-65)が復元した教会論的および構造的原則であり、重要な権限として擁護されねばならないのだ。

 

*”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が唯一の道

 司教のこの権限が、新自発教令によって回復されると、その権限は卓越したものに回復されることになる。

 「第二バチカン公会議で決定した憲章など公文書に従って聖パウロ6世と聖ヨハネパウロ2世が公布した典礼に関する諸文書は、ローマ典礼のlex orandi(祈りの法)の比類ない表現です」(TC第1条)。新自発教令は、 SPが立脚していた大胆不敵な”詭弁”ーつまり相反する二つの典礼形式の”併存”を認めることーを、思い切って覆すものだ。 ”ローマ典礼の単一の正当な形態”の再確立が、平和構築を可能にする唯一の道である。

 他に考えられる対応は、その意図が好ましいものであっても、教会内の分裂と誤解を増大させてしまう。SPのもとで、(注:旧ローマ・ラテン典礼のミサを捧げる際に)司祭は司教からの許可を必要としなかった。SPにおいて、最大の伝統との亀裂は第二項で、叙階された司祭の”司牧上の無責任”を確定したことにあるー聖職者は、人々の参加のある無しにかかわらず、誰の返事を得ることなく、通常の、あるいは例外的な形での、ミサを捧げることができる、ということだ。

 このことは、14年前にすでに明らかだったが、それを指摘しようとする人はほとんどいなかったー「これは和解の”原則”ではなく、教会の崩壊の”原則”だ。今、神の意志であるTCが発出されたことで、”詭弁”を克服し、常識に戻ることができる。

 TCのもとで、ミサは、司教によって特別に許可されていない限り、すべての人に共通の”1つの典礼の形”で捧げられることになる。 2つの典礼の形の間に元々の争いはありえない。一つの典礼は、第2バチカン公会議後に、それまでの典礼を改める形で策定された。

*「儀式の並列性」の問題

 SPの”仮説”を支配する抽象的な定理は、「2つの典礼の形が新しい均衡を生み、互いに何かを学ぶことを可能にする」というものだった。そうではない。それどころか、”高い所”から認められた儀式の並列性のために、分極化はバランスを欠く形で進展した。

 今、私たちはただ一つのテーブルー第二バチカン公会議の方針に従って改革されたミサ典礼、というテーブルーがあるだけだ、ということを認識せねばならない。ローマ・ミサ典礼の伝統はそこにあり、他のどこにもない。そして、バチカンの全事務局にとって、効力のなくなったローマ典礼の形を改革するために、時間を無駄にすることは、もうできない。

 SPは、司教たちを”迂回”しただけではなく、バチカンの典礼秘跡省を”迂回”し、特定の典礼の問題に関する案件を判断する権限をバチカンの神の教会委員会と教理省に与えた。今、その権限は自然の形ー司教たちと典礼秘跡省ーに戻される。もはや、自律的な存在を持たないローマ典礼の”例外的な形”をめぐる”分けられた権限”は存在しない。

*”並行する教会”、そして第二バチカン公会議への反対

 教皇フランシスコは、「前任者が決められた(旧ローマ・ミサ典礼の)許可、を変更する目的は、第二バチカンによって際立たされています」と、TCに付随した世界の司教たちへの書簡で語られている。これは重要なことだ。第二バチカン公会議によって、ローマ典礼は、”別の教会”の存在を確定することなしには”別の典礼”のようなものと併存させることができない、という制限を克服した。SPによる”譲歩”の効果は、第二バチカン公会議の影響を受けないとし、共通の道に反対する教会が増長するのを助けた。

 SPの”お陰”で、旧ローマ・ミサ典礼は、第二バチカン公会議への反対の象徴になった。そしてそれ故に、旧ローマ・ミサ典礼が認められる基準は、これまで以上の嫌悪感を生み出さないように、注意深く見直されなければならなかった。

*「もう沢山だ!」とフランシスコは言われる

 今回の”事件”全体にとって、本当に特別なことは、TCによって保証される”神の祈り”と”神の信仰”の正常な関係の再確立ではない。私にとって異常に思えるのは、SPが出されて14年の間、不当なことを正当化しようとした人々がいた、という事実だ。教会法の専門家の多くは「法実証主義」(注:実証主義を法学に応用し、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法のみを、法学の対象とする考え方)に陥り、相当数の法律家が”御主人様”が望むところに”スリッパ”を置いてしまった。

 多くの新聞や雑誌の記事、そして書物でさえも、未来の司祭たちのための”二つの典礼に応じる育成”を正当化する形で書かれた。そしてそれらすべてが、司教たちと恐らくは有能であると思われる人々によって支持され、是認され、時には、そうした記事が求められたりさえもした。SPは、数多くの神学者たちにとってさえも、「共に生きねばならない、ある種の定め」のように見えたのである。そして、それは”異常な形”での大失敗だった。

 こうした流れに対して、第二バチカン公会議の”申し子”である教皇フランシスコは、「もう沢山だ」と言う良識と知恵を持っておられた。彼は、共通で正常、教会的な、人々のミサ典礼が同じ一つののテーブルで演じられる新しい歩みを、賢明に始められた。

 これは、「和解の改革は、偽りの言葉を作り出すことによっても、もはや存在しない典礼の形を今一度掘り出すことによっても、止められない」という、小さくて、偉大な知らせである。私たちにとって可能なのは、慎重に、意欲を持って、正直に、留保条件なしに、新しい典礼をもとにした”祈りの仕方”において、共通の形とともに進むことだ。

*Andrea Grillo は1961年生まれ。ローマの教皇庁立聖アンセルモ大学の秘跡神学教授。イタリアのブログ「Comesenon」の筆者で、このエッセイは、同ブログに最初に掲載され、許可を得て英語でLa Croixに掲載する。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年7月20日

・教皇の旧ラテン・ミサ典礼規制強化の自発教令に早くも賛否’の反響

ローマ発ー教皇フランシスコの第二バチカン公会議前のラテン語ミサを制限する自発教令は、前任者ベネディクト16世の下で与えられたより広範な同ミサの許可を事実上、帳消しにするものだ。予想通り、世界中のカトリック教徒から「預言的な動き」と讃える声の一方で、「フランシスコの経歴に汚点をを残す」と批判する声など、賛否両論が湧き起っている。

*賛成ー歴史的で大胆、預言的な行為だ

 教皇伝記作家のオースティン・イヴェレイ氏は教皇の決断を高く評価し、ツイッターに「歴史的な日。大胆な動き。預言的な行為」だとして、次のように書き込んだ。「ベネディクト16世は、2007年に出したラテン語典礼の自由化を認める自発教令で『問題が起きたら、見直す』としていました。フランシスコは世界の司教たちの意見と聞き、彼らは問題が起きている、と答えました。一致を促すことを意図した措置が、分裂と第二バチカン公会議の成果否定の種を蒔くのに使われたからです」としている。

*反対ーラテン語ミサ支持派への”宣戦布告”

 これとは正反対に、典礼の専門家で新典礼運動のブログの編集長、グレゴリー・ディピッポ氏は、この決定を聞いて「教皇がとても多くの信徒たちを酷く虐げることになる、と思い、情けなく、落胆しました」と批判。ラテン語ミサの熱烈な愛好家に対する「宣戦布告であり、教皇のイデオロギー的ビジョンに合わない人たちを追い出す意図をもった声明… これまで、ラテン語のミサを愛好するカトリック信徒たちは『教会の中で歓迎されない、求められない存在』というあからさまなレッテルを貼られてきました。そして今回、教皇が正式に、こうした信徒たちの司牧についての考えを全て否定することになる」と強く批判。「それでも、彼らは、とてもよく教理教育を受けており、教会が、このような形で信徒たちを虐げる資格を教皇に与える”個人的な遊び道具”でないこと知っています」と念を押した。

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*ラテン語ミサの”自由化は分裂を生むのに利用された

 今回の自発教令は、教皇自身の権威にもとずくもので、この内容は教会法に盛り込まれることを意味する。教令のタイトルは「伝統の守護者」を意味する「Traditionis Custodes」。第二バチカン公会議以前の世界のカトリック教会で行われてきたラテン語ミサは、「世界に開かれた教会」の一環としての「世界各国、各地域の言語によるミサ」を定めた公会議の決定により、”原則禁止”とされていたが、前教皇のベネディクト16世が、小教区主任司祭を含む司祭の判断で行えるように”自由化”されていた。
 今回の自発教令は、ラテン語ミサは司祭判断で行うことが禁じられ、可否の判断は各教区の責任者である司教が行う、とした。許可する場合の場所と日時の判断も司教が行う。すでにラテン語ミサを行っている司祭は、改めて司教から許可を取らねば、継続できなくなり、教令が出されて以降に叙階された司祭は、司教に正式の申請を出さねばならない。また小教区でのラテン語ミサは認められず、ラテン語ミサのために新しく小教区を設けることも、新しい集団を作ることもできない。司教は許可する場合、事前にバチカンと協議せねばならない。

 自発教令と同時に出された世界の司教たちへの書簡の中で、教皇は、前任者ベネディクト16世が教会の一致を促すためにラテン語ミサを容易に行えるようにして13年経ったが、その措置が「分裂を生み出すために”活用”された… 聖ヨハネパウロ2世とベネディクト16世によってもたらされた多様な典礼の感性を備えた教会共同体の一致を目指すチャンスは、亀裂を広げ、違いを際立たせ、意見の不一致を助長するのに利用されてしまった。教会を傷つけ、進むべき道を妨げ、分裂の危険にさらしている」と”自由化”のもたらした弊害を説明した。

 

*反対ー制限が教会一致に利する、とは言えず、”外”に追いやるもの

 これに対し、ディピッポ氏は「ラテン語ミサを制限するのは、一致を促進するため」という考えは受け入れられない「あからさまな嘘」とし、今回のフランシスコの決定は「間違いなく、信徒たちをさらに分裂させる。伝統的な典礼やそれに類する典礼に特に愛着を感じない人の多くも、この変更が示す司牧的な慈愛の欠如に不快感を覚える、と思います」とあくまで批判の姿勢だ。

 イングランド・ウェールズ・ラテン語ミサ協会のジョセフ・ショー会長は16日に出した声明で、フランシスコの新しい教令は「我々を深く失望させるものであり、厳密に実施されれば、自分たちの司教や教皇と共に伝統ミサに参加することだけを希望する多くのカトリック信徒を、教会外の祭儀、とく聖ピオ十世会の人々の祭儀への参加に駆り立てることになるだろう」と批判。

 我々カトリック信徒は、特に2007年以来、教会の一致のために長年にわたる努力を続けてきた。教会の一致は、第二バチカン公会議が宣言したように、典礼の統一ではなく、教皇の下での信仰の一致によって成し遂げられるものだ」と主張した。 また、ラテン語ミサが小教区で捧げられるのを禁止することは「実行不可能」であり、「”例外的な形のミサ”とそれに参加する共同体を全て否定する判断は、まったくの見当違い。この判断の擁護者に対して、”例外的なミサ”が教会の一致を損なっている、という主張を立証する証拠を、東方典礼、あるいは新求道共同体のような独自の典礼を行なっているものと比べてどうなのか、も含めて提示するよう求めたい」としている。

*賛成ー旧典礼ミサの是非判断を司教に委ねるのは正解

 米国の司教協議会・典礼委員会のジェームス・モロ二ー前事務局長は、Cruxに対して、教皇フランシスコが書簡で述べておられるように、前任者ベネディクト16世の下でのラテン語ミサの”自由化”が、それが目指していた教会の一致と逆の効果をもたらした、例えば、インターネットに「”例外的な形のミサを捧げないなら、司祭はローマ典礼に倣うことにならない」、あるいは「通常の形のミサを独占的に捧げる”不可侵の権利”が司祭にはある」「第二バチカン公会議と公会議を受けた典礼改革には欠陥があったと、多くの人が考えている」といった具合に、「勝手な書き込みが増えるようになった」と分析した。

 そして、「例外的に声の大きい人々の中には、新旧のミサを競わせようとする傾向があります」とし、教会問題の“解説者”の一人が最近、「公会議後の改革は若者たちの心をつかむ力を決定的に失っている」と指摘。

 「教皇がなさろうとしていることは、ご自分の声を、公会議後の改革のための組織的取り組みが対立的になり、公会議の教父たちによって呼びかけられた同じ典礼改革の必要性の認識にほとんど失敗していることを残念に思う多くの司教たちの声と合わせること」と強調した。

*賛成ー典礼を信徒たちの一致の源、頂点と見なす人は教皇に応える

 教皇ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世によって典礼秘跡省の顧問に任命された経験を持つモロニーは、「ラテン・ミサ典礼をどのように規制するかの判断は、実務的には、司教たちに委ねられました。どちらの典礼の形式を選ぶかについて、司祭たちの間には大きな違いがあるためです。それが、世界の司教たちからの『例外的な形の祭儀を規制するための権限が与えられていないために、教会一致のため、あまりにもしばしば妥協してきた』との報告に、単に教皇がお答えになった、ということです」と述べた。

 そして、教皇の今回の決定によってラテン・ミサ典礼の実行を強く制限することで、教皇が希望される教会の一致が育つと思うか、の問いには、「神聖な典礼を私たちの一致の源であり頂点と見なす人々は、教皇の呼び掛けに応えるでしょう… だが、典礼問題を”政治的な球蹴り”のように使いたいと思う人々は、応えないと思います」と答えた。 司牧的なレベルで、フランシスコの規制措置を悲しみ、失望しているラテン語ミサの信奉者たちに助言するとすれば、「深呼吸して、謙遜の心をもって、教皇と司教たちが求めていることに耳を傾けなさい」ということだ、と述べた。

 さらに、「現在の消費文化の中で、すべての体験を自己の欲求に合わせて整形できる”産出物”と見なすことが、私たちにはよくあります… 自分が認識したニーズに合うように典礼を恣意的に整形した人々が、これまで数十年、厳しく批判されたように、すべてのカトリック信徒は、『聖なる典礼は、私たちが教会から分不相応にいただくものだ』ということを認識せねばなりません」とし、「私たち一人一人は、素晴らしい業に値するものではありません。私たちは、神を賛美する大きな犠牲を捧げる中で、自分の声を、教会の声に謙虚に合わせねばならないのです」と強調している。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年7月18日

・教皇、公会議前の旧ミサ典礼書使用の”自由化”覆す自発教令ー司教たちの責任重く(英語公式訳全文付き)

祭壇上で開かれたミサ典礼書

 教皇フランシスコが16日、第二バチカン公会議以前の旧ミサ典礼書の使用方法を再定義する自発教令「Traditionis custodes(伝統の守護者)」を発布。あわせて、その背景を記した世界の司教たちへの書簡を発表された。

 同自発教令によれば、公会議以前の旧典礼書の使用をめぐる判断は、世界の各教区の司教に任され、旧典礼でミサを行うグループについては「典礼改革の正当性、第二バチカン公会議文書、教皇たちの教えを否定してはならない」と厳しい条件を課し、新たなグループの創設は認めない。

 同教令は、公会議以前の典礼書に従ったミサの司式を管理する責任は「教区の典礼生活のモデラトーレである司教に帰する」とし、「教皇庁の指針に従いつつ、1962年のローマ・ミサ典礼書の教区内での使用を許可する権限は、専ら司教に属する」と明確に定めた。

 そして、司教たちに対して、教区内で旧ミサ典礼書によるミサをすでに行っているグループが存在する場合、「典礼改革の有効性と正当性、第二バチカン公会議文書、教皇たちの教えを否定しない」ことを確認するよう求めている。

 また、旧典礼のミサは、今後、小教区の教会では原則として行わないことする。司教は、旧典礼のミサが捧げられる教会と日時を定め、ミサ中の朗読は、各地の司教協議会が認可した翻訳を用い、その「土地の言語」で行われる。ミサは、司教に委任された司祭によって司式される。

 そして、司教は、旧典礼のミサの「霊的成長のための実際の有用性」を確認しつつ、それを維持するかどうかを判断する権限を持つ。旧典礼のミサの司式を委託された司祭に対しては、尊厳ある司式を心にかけるだけでなく、信徒の司牧的・霊的世話にも配慮することが求められる。司教は「新しいグループの創設を認可しない」よう留意する。

  今回の教令発布以降に叙階された司祭で、旧ミサ典礼書でミサを捧げることを望む者は、教区の司教に正式な申請を行わねばならず、司教は許可を与える前に、教皇庁の意見を聴くことを事実上義務付けている。また、すでに旧ミサ典礼書でミサを司式している司祭は、教区の司教にその使用の継続許可を求めねばならない。

 なお、かつて教皇庁エクレジア・デイ委員会によって創立された「奉献生活の会」と「使徒的生活の会」については、バチカンの奉献・使徒的生活会省の管轄下に置き、同省と典礼秘跡省が新教令による新しい規定の順守について監督を行うこと、としている。

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「前任教皇の”譲歩”が意図に反して、公会議の否定、教会の亀裂を招いた」ー教皇、司教あて書簡で新自発教令の理由説明

 教皇は今回の自発教令と共に世界の司教たちに送られた書簡で、まず、前任者(ベネディクト16世)が「1962年ローマ・ミサ典礼書」のミサへの使用について行った”譲歩”について、「何よりも、ルフェーブル大司教が始めた運動(ピオ十世会)との亀裂を修復したい、という願いが動機でした」と述べた。

 そして、また、旧ミサ典書の使用を求める(ピオ十世会の)信徒たちの”正当な要求”を寛大さを持って受け入れるようにとの、司教たちに対する求めも、「教会の一致を取り戻る意図」によって動機づけられていた、としたうえで、「カトリック教会の多くの人々は、こうした(ベネディクト16世)の姿勢を、聖ピオ5世によって16世紀に公布されたローマ・ミサ典礼書を、ミサを捧げる際に、第二バチカン公会議を受けて聖パウロ6世が公布した現在のミサ典礼書と対等に仕えるようになった、と受け止めるようになったのです」と指摘。

 さらに、ベネディクト16世が2007年に公布した、旧ローマ・ミサ典礼書の使用についての自発教令は、第二バチカン公会議の主要な決定事項の一つに対して疑念を与えたり、公会議の権威を矮小化することはない、という確信」のもとにしたもので、当時、彼は「小教区共同体における分裂についての恐れは根拠をもたない。なぜなら、旧典礼書と現行典礼書を使用する二つの形のミサを行うことは、双方を豊かにするものだからだ」と言明したことを、教皇は思い起こされた。

 しかしながら、最近、バチカン教理省が世界の司教たちに出した質問状に対する答えの多くから明らかになった事実が、教皇を「驚かせ、悲しませ、この問題に対応する必要を強く感じるようになった」と、今回の自発教令発出の動機を説明。

 そして、ベネディクト16世の教会一致への強い思いが「しばしば、深刻なまでに無視され」、寛大さを持って示された譲歩が、「亀裂を広げ、逸脱を加速し、教会を傷つけ、道を阻み、分裂の危険に晒す不一致を促進する結果になりました」と語り、「典礼祭儀のあらゆる面で、そうした乱用がされていることを、悲しんでいます… 1962年ローマ・ミサ典礼書の機械的な使用はしばしば、根拠のない、不確かな”確信”で、第二バチカン公会議の典礼改革のみならず、この公会議そのものの否定につながっています」と嘆かれた。

 さらに「第二バチカン公会議に疑念を持つことは、公会議で『ペトロと共に、ペトロの下に』厳粛な仕方で平等に力を行使した教父たちの意向を疑い、最終的には、教会を導く聖霊を疑うことになるのです」と批判された。

 教皇は書簡で、次のように、前任者によって自発教令の形でなされた”譲歩”を修正することを決意した理由を、改めて説明されている。

 「多くの人々の言葉と態度において、これまで以上に明白になっているのは、第二バチカン公会議以前の典礼書による祭儀を選ぶことと、教会と”真の教会”と呼ばれる名の下での慣行の拒否の間の密接な関係です。一つは、聖体祭儀と矛盾し、分裂への傾きを助長する振る舞いです。『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』(コリントの信徒への手紙1・1章12章)と言い合う信徒たちに、使徒パウロは力を込めて対応しました。キリストの体の一致を守るために、私は、前任者によってなされた措置を無効とすることを強いられているのです」

【自発教令と世界の司教宛て説明書簡の公式英語訳全文以下の通り】

APOSTOLIC LETTER ISSUED “MOTU PROPRIO” BY THE SUPREME PONTIFF FRANCIS 

«TRADITIONIS CUSTODES» On the Use of the Roman Liturgy Prior to the Reform of 1970

Guardians of the tradition, the bishops in communion with the Bishop of Rome constitute the visible principle and foundation of the unity of their particular Churches. [1] Under the guidance of the Holy Spirit, through the proclamation of the Gospel and by means of the celebration of the Eucharist, they govern the particular Churches entrusted to them. [2]

In order to promote the concord and unity of the Church, with paternal solicitude towards those who in any region adhere to liturgical forms antecedent to the reform willed by the Vatican Council II, my Venerable Predecessors, Saint John Paul II and Benedict XVI, granted and regulated the faculty to use the Roman Missal edited by John XXIII in 1962. [3] In this way they intended “to facilitate the ecclesial communion of those Catholics who feel attached to some earlier liturgical forms” and not to others. [4]

In line with the initiative of my Venerable Predecessor Benedict XVI to invite the bishops to assess the application of the Motu Proprio Summorum Pontificum three years after its publication, the Congregation for the Doctrine of the Faith carried out a detailed consultation of the bishops in 2020. The results have been carefully considered in the light of experience that has matured during these years.

At this time, having considered the wishes expressed by the episcopate and having heard the opinion of the Congregation for the Doctrine of the Faith, I now desire, with this Apostolic Letter, to press on ever more in the constant search for ecclesial communion. Therefore, I have considered it appropriate to establish the following:

Art. 1. The liturgical books promulgated by Saint Paul VI and Saint John Paul II, in conformity with the decrees of Vatican Council II, are the unique expression of the lex orandi of the Roman Rite.

Art. 2. It belongs to the diocesan bishop, as moderator, promoter, and guardian of the whole liturgical life of the particular Church entrusted to him, [5] to regulate the liturgical celebrations of his diocese. [6] Therefore, it is his exclusive competence to authorize the use of the 1962 Roman Missal in his diocese, according to the guidelines of the Apostolic See.

Art. 3. The bishop of the diocese in which until now there exist one or more groups that celebrate according to the Missal antecedent to the reform of 1970:

§ 1. is to determine that these groups do not deny the validity and the legitimacy of the liturgical reform, dictated by Vatican Council II and the Magisterium of the Supreme Pontiffs;

§ 2. is to designate one or more locations where the faithful adherents of these groups may gather for the eucharistic celebration (not however in the parochial churches and without the erection of new personal parishes);

§ 3. to establish at the designated locations the days on which eucharistic celebrations are permitted using the Roman Missal promulgated by Saint John XXIII in 1962. [7] In these celebrations the readings are proclaimed in the vernacular language, using translations of the Sacred Scripture approved for liturgical use by the respective Episcopal Conferences;

§ 4. to appoint a priest who, as delegate of the bishop, is entrusted with these celebrations and with the pastoral care of these groups of the faithful. This priest should be suited for this responsibility, skilled in the use of the Missale Romanum antecedent to the reform of 1970, possess a knowledge of the Latin language sufficient for a thorough comprehension of the rubrics and liturgical texts, and be animated by a lively pastoral charity and by a sense of ecclesial communion. This priest should have at heart not only the correct celebration of the liturgy, but also the pastoral and spiritual care of the faithful;

§ 5. to proceed suitably to verify that the parishes canonically erected for the benefit of these faithful are effective for their spiritual growth, and to determine whether or not to retain them;

§ 6. to take care not to authorize the establishment of new groups.

Art. 4. Priests ordained after the publication of the present Motu Proprio, who wish to celebrate using the Missale Romanum of 1962, should submit a formal request to the diocesan Bishop who shall consult the Apostolic See before granting this authorization.

Art. 5. Priests who already celebrate according to the Missale Romanum of 1962 should request from the diocesan Bishop the authorization to continue to enjoy this faculty.

Art. 6. Institutes of consecrated life and Societies of apostolic life, erected by the Pontifical Commission Ecclesia Dei, fall under the competence of the Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies for Apostolic Life.

Art. 7. The Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments and the Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies of Apostolic Life, for matters of their particular competence, exercise the authority of the Holy See with respect to the observance of these provisions.

Art. 8. Previous norms, instructions, permissions, and customs that do not conform to the provisions of the present Motu Proprio are abrogated.

Everything that I have declared in this Apostolic Letter in the form of Motu Proprio, I order to be observed in all its parts, anything else to the contrary notwithstanding, even if worthy of particular mention, and I establish that it be promulgated by way of publication in “L’Osservatore Romano”, entering immediately in force and, subsequently, that it be published in the official Commentary of the Holy See, Acta Apostolicae Sedis.

 Given at Rome, at Saint John Lateran, on 16 July 2021, the liturgical Memorial of Our Lady of Mount Carmel, in the ninth year of Our Pontificate.  FRANCIS

 

[1] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23 AAS 57 (1965) 27.

[2] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 27: AAS 57 (1965) 32; Second Vatican Ecumenical Council, Decree concerning the pastoral office of bishops in the Church “ Christus Dominus”, 28 october 1965, n. 11: AAS 58 (1966) 677-678; Catechism of the Catholic Church, n. 833.

[3] Cfr John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988: AAS 80 (1988) 1495-1498; Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 777-781; Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesiae unitatem”, 2 july 2009: AAS 101 (2009) 710-711.

[4] John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988, n. 5: AAS 80 (1988) 1498.

[5] Cfr Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 41: AAS 56 (1964) 111; Caeremoniale Episcoporum, n. 9; Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacrament, Instruction on certain matters to be observed or to be avoided regarding the Most Holy Eucharist “ Redemptionis Sacramentum”, 25 march 2004, nn. 19-25: AAS 96 (2004) 555-557.

[6] Cfr CIC, can. 375, § 1; can. 392.

[7] Cfr Congregation for the Doctrine of the Faith, Decree “ Quo magis” approving seven Eucharistic Prefaces for the forma extraordinaria of the Roman Rite, 22 february 2020, and Decree “ Cum sanctissima” on the liturgical celebration in honour of Saints in the forma extraordinaria of the Roman Rite, 22 february 2020: L’Osservatore Romano, 26 march 2020, p. 6.

 

LETTER OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO THE BISHOPS OF THE WHOLE WORLD, THAT ACCOMPANIES THE APOSTOLIC LETTER MOTU PROPRIO DATA “TRADITIONIS CUSTODES”

Rome, 16 July 2021

Dear Brothers in the Episcopate,

Just as my Predecessor Benedict XVI did with Summorum Pontificum, I wish to accompany the Motu proprio Traditionis custodes with a letter explaining the motives that prompted my decision. I turn to you with trust and parresia, in the name of that shared “solicitude for the whole Church, that contributes supremely to the good of the Universal Church” as Vatican Council II reminds us. [1]

Most people understand the motives that prompted St. John Paul II and Benedict XVI to allow the use of the Roman Missal, promulgated by St. Pius V and edited by St. John XXIII in 1962, for the Eucharistic Sacrifice. The faculty — granted by the indult of the Congregation for Divine Worship in 1984 [2] and confirmed by St. John Paul II in the Motu Proprio Ecclesia Dei in 1988 [3] — was above all motivated by the desire to foster the healing of the schism with the movement of Mons. Lefebvre. With the ecclesial intention of restoring the unity of the Church, the Bishops were thus asked to accept with generosity the “just aspirations” of the faithful who requested the use of that Missal.

Many in the Church came to regard this faculty as an opportunity to adopt freely the Roman Missal promulgated by St. Pius V and use it in a manner parallel to the Roman Missal promulgated by St. Paul VI. In order to regulate this situation at the distance of many years, Benedict XVI intervened to address this state of affairs in the Church. Many priests and communities had “used with gratitude the possibility offered by the Motu proprio” of St. John Paul II. Underscoring that this development was not foreseeable in 1988, the Motu proprio Summorum Pontificum of 2007 intended to introduce “a clearer juridical regulation” in this area. [4] In order to allow access to those, including young people, who when “they discover this liturgical form, feel attracted to it and find in it a form, particularly suited to them, to encounter the mystery of the most holy Eucharist”, [5] Benedict XVI declared “the Missal promulgated by St. Pius V and newly edited by Blessed John XXIII, as a extraordinary expression of the same lex orandi”, granting a “more ample possibility for the use of the 1962 Missal”. [6]

In making their decision they were confident that such a provision would not place in doubt one of the key measures of Vatican Council II or minimize in this way its authority: the Motu proprio recognized that, in its own right, “the Missal promulgated by Paul VI is the ordinary expression of the lex orandi of the Catholic Church of the Latin rite”. [7] The recognition of the Missal promulgated by St. Pius V “as an extraordinary expression of the same lex orandi” did not in any way underrate the liturgical reform, but was decreed with the desire to acknowledge the “insistent prayers of these faithful,” allowing them “to celebrate the Sacrifice of the Mass according to the editio typica of the Roman Missal promulgated by Blessed John XXIII in 1962 and never abrogated, as the extraordinary form of the Liturgy of the Church”. [8]It comforted Benedict XVI in his discernment that many desired “to find the form of the sacred Liturgy dear to them,” “clearly accepted the binding character of Vatican Council II and were faithful to the Pope and to the Bishops”. [9] What is more, he declared to be unfounded the fear of division in parish communities, because “the two forms of the use of the Roman Rite would enrich one another”. [10] Thus, he invited the Bishops to set aside their doubts and fears, and to welcome the norms, “attentive that everything would proceed in peace and serenity,” with the promise that “it would be possible to find resolutions” in the event that “serious difficulties came to light” in the implementation of the norms “once the Motu proprio came into effect”. [11]

With the passage of thirteen years, I instructed the Congregation for the Doctrine of the Faith to circulate a questionnaire to the Bishops regarding the implementation of the Motu proprio Summorum Pontificum. The responses reveal a situation that preoccupies and saddens me, and persuades me of the need to intervene. Regrettably, the pastoral objective of my Predecessors, who had intended “to do everything possible to ensure that all those who truly possessed the desire for unity would find it possible to remain in this unity or to rediscover it anew”, [12] has often been seriously disregarded. An opportunity offered by St. John Paul II and, with even greater magnanimity, by Benedict XVI, intended to recover the unity of an ecclesial body with diverse liturgical sensibilities, was exploited to widen the gaps, reinforce the divergences, and encourage disagreements that injure the Church, block her path, and expose her to the peril of division.

At the same time, I am saddened by abuses in the celebration of the liturgy on all sides. In common with Benedict XVI, I deplore the fact that “in many places the prescriptions of the new Missal are not observed in celebration, but indeed come to be interpreted as an authorization for or even a requirement of creativity, which leads to almost unbearable distortions”. [13] But I am nonetheless saddened that the instrumental use of Missale Romanum of 1962 is often characterized by a rejection not only of the liturgical reform, but of the Vatican Council II itself, claiming, with unfounded and unsustainable assertions, that it betrayed the Tradition and the “true Church”. The path of the Church must be seen within the dynamic of Tradition “which originates from the Apostles and progresses in the Church with the assistance of the Holy Spirit” ( DV 8). A recent stage of this dynamic was constituted by Vatican Council II where the Catholic episcopate came together to listen and to discern the path for the Church indicated by the Holy Spirit. To doubt the Council is to doubt the intentions of those very Fathers who exercised their collegial power in a solemn manner cum Petro et sub Petro in an ecumenical council, [14] and, in the final analysis, to doubt the Holy Spirit himself who guides the Church.

The objective of the modification of the permission granted by my Predecessors is highlighted by the Second Vatican Council itself. From the vota submitted by the Bishops there emerged a great insistence on the full, conscious and active participation of the whole People of God in the liturgy, [15] along lines already indicated by Pius XII in the encyclical Mediator Dei on the renewal of the liturgy. [16] The constitution Sacrosanctum Concilium confirmed this appeal, by seeking “the renewal and advancement of the liturgy”, [17] and by indicating the principles that should guide the reform. [18] In particular, it established that these principles concerned the Roman Rite, and other legitimate rites where applicable, and asked that “the rites be revised carefully in the light of sound tradition, and that they be given new vigor to meet present-day circumstances and needs”. [19] On the basis of these principles a reform of the liturgy was undertaken, with its highest expression in the Roman Missal, published in editio typica by St. Paul VI [20] and revised by St. John Paul II. [21] It must therefore be maintained that the Roman Rite, adapted many times over the course of the centuries according to the needs of the day, not only be preserved but renewed “in faithful observance of the Tradition”. [22] Whoever wishes to celebrate with devotion according to earlier forms of the liturgy can find in the reformed Roman Missal according to Vatican Council II all the elements of the Roman Rite, in particular the Roman Canon which constitutes one of its more distinctive elements.

A final reason for my decision is this: ever more plain in the words and attitudes of many is the close connection between the choice of celebrations according to the liturgical books prior to Vatican Council II and the rejection of the Church and her institutions in the name of what is called the “true Church.” One is dealing here with comportment that contradicts communion and nurtures the divisive tendency — “I belong to Paul; I belong instead to Apollo; I belong to Cephas; I belong to Christ” — against which the Apostle Paul so vigorously reacted. [23] In defense of the unity of the Body of Christ, I am constrained to revoke the faculty granted by my Predecessors. The distorted use that has been made of this faculty is contrary to the intentions that led to granting the freedom to celebrate the Mass with the Missale Romanum of 1962. Because “liturgical celebrations are not private actions, but celebrations of the Church, which is the sacrament of unity”, [24] they must be carried out in communion with the Church. Vatican Council II, while it reaffirmed the external bonds of incorporation in the Church — the profession of faith, the sacraments, of communion — affirmed with St. Augustine that to remain in the Church not only “with the body” but also “with the heart” is a condition for salvation. [25]

Dear brothers in the Episcopate, Sacrosanctum Concilium explained that the Church, the “sacrament of unity,” is such because it is “the holy People gathered and governed under the authority of the Bishops”. [26] Lumen gentium, while recalling that the Bishop of Rome is “the permanent and visible principle and foundation of the unity both of the bishops and of the multitude of the faithful,” states that you the Bishops are “the visible principle and foundation of the unity of your local Churches, in which and through which exists the one and only Catholic Church”. [27]

Responding to your requests, I take the firm decision to abrogate all the norms, instructions, permissions and customs that precede the present Motu proprio, and declare that the liturgical books promulgated by the saintly Pontiffs Paul VI and John Paul II, in conformity with the decrees of Vatican Council II, constitute the unique expression of the lex orandi of the Roman Rite. I take comfort in this decision from the fact that, after the Council of Trent, St. Pius V also abrogated all the rites that could not claim a proven antiquity, establishing for the whole Latin Church a single Missale Romanum. For four centuries this Missale Romanum, promulgated by St. Pius V was thus the principal expression of the lex orandi of the Roman Rite, and functioned to maintain the unity of the Church. Without denying the dignity and grandeur of this Rite, the Bishops gathered in ecumenical council asked that it be reformed; their intention was that “the faithful would not assist as strangers and silent spectators in the mystery of faith, but, with a full understanding of the rites and prayers, would participate in the sacred action consciously, piously, and actively”. [28] St. Paul VI, recalling that the work of adaptation of the Roman Missal had already been initiated by Pius XII, declared that the revision of the Roman Missal, carried out in the light of ancient liturgical sources, had the goal of permitting the Church to raise up, in the variety of languages, “a single and identical prayer,” that expressed her unity. [29]This unity I intend to re-establish throughout the Church of the Roman Rite.

Vatican Council II, when it described the catholicity of the People of God, recalled that “within the ecclesial communion” there exist the particular Churches which enjoy their proper traditions, without prejudice to the primacy of the Chair of Peter who presides over the universal communion of charity, guarantees the legitimate diversity and together ensures that the particular not only does not injure the universal but above all serves it”. [30]While, in the exercise of my ministry in service of unity, I take the decision to suspend the faculty granted by my Predecessors, I ask you to share with me this burden as a form of participation in the solicitude for the whole Church proper to the Bishops. In the Motu proprio I have desired to affirm that it is up to the Bishop, as moderator, promoter, and guardian of the liturgical life of the Church of which he is the principle of unity, to regulate the liturgical celebrations. It is up to you to authorize in your Churches, as local Ordinaries, the use of the Missale Romanum of 1962, applying the norms of the present Motu proprio. It is up to you to proceed in such a way as to return to a unitary form of celebration, and to determine case by case the reality of the groups which celebrate with this Missale Romanum.

Indications about how to proceed in your dioceses are chiefly dictated by two principles: on the one hand, to provide for the good of those who are rooted in the previous form of celebration and need to return in due time to the Roman Rite promulgated by Saints Paul VI and John Paul II, and, on the other hand, to discontinue the erection of new personal parishes tied more to the desire and wishes of individual priests than to the real need of the “holy People of God.” At the same time, I ask you to be vigilant in ensuring that every liturgy be celebrated with decorum and fidelity to the liturgical books promulgated after Vatican Council II, without the eccentricities that can easily degenerate into abuses. Seminarians and new priests should be formed in the faithful observance of the prescriptions of the Missal and liturgical books, in which is reflected the liturgical reform willed by Vatican Council II.

Upon you I invoke the Spirit of the risen Lord, that he may make you strong and firm in your service to the People of God entrusted to you by the Lord, so that your care and vigilance express communion even in the unity of one, single Rite, in which is preserved the great richness of the Roman liturgical tradition. I pray for you. You pray for me.

 

FRANCISCUS

____________________________________

[1] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23 AAS 57 (1965) 27.

[2] Cfr. Congregation for Divine Worship, Letter to the Presidents of the Conferences of Bishops “Quattuor abhinc annos”, 3 october 1984: AAS 76 (1984) 1088-1089

[3] John Paul II, Apostolic Letter given Motu proprio “ Ecclesia Dei”, 2 july 1988: AAS 80 (1998) 1495-1498.

[4] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[5] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[6] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797.

[7] Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 779.

[8] Benedict XVI, Apostolic Letter given Motu proprio “ Summorum Pontificum”, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 779.

[9] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[10] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797.

[11] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 798.

[12] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 797-798.

[13] Benedict XVI, Letter to the Bishops on the occasion of the publication of the Apostolic Letter “Motu proprio data” Summorum Pontificum on the use of the Roman Liturgy prior to the reform of 1970, 7 july 2007: AAS 99 (2007) 796.

[14] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23: AAS 57 (1965) 27.

[15] Cfr. Acta et Documenta Concilio Oecumenico Vaticano II apparando, Series I, Volumen II, 1960.

[16] Pius XII, Encyclical on the sacred liturgy “ Mediator Dei”, 20 november 1947: AAS 39 (1949) 521-595.

[17] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, nn. 1, 14: AAS 56 (1964) 97.104.

[18] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 3: AAS 56 (1964) 98.

[19] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 4: AAS 56 (1964) 98.

[20] Missale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum, editio typica, 1970.

[21] Missale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum Ioannis Pauli PP. II cura recognitum, editio typica altera, 1975; editio typica tertia, 2002; (reimpressio emendata 2008)

[22] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 3: AAS 56 (1964) 98.

[23] 1 Cor 1,12-13.

[24] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 26: AAS 56 (1964) 107.

[25] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 14: AAS 57 (1965) 19.

[26] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 6: AAS 56 (1964) 100.

[28] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 23: AAS 57 (1965) 27.

[28] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Costitution on the sacred liturgy “ Sacrosanctum Concilium”, 4 december 1963, n. 48: AAS 56 (1964) 113.

[29] Paul VI, Apostolic Constitution “Missale Romanum” on new Roman Missal, 3 april 1969, AAS 61 (1969) 222.

[30] Cfr. Second Vatican Ecumenical Council, Dogmatic Constitution on the Church “ Lumen Gentium”, 21 november 1964, n. 13: AAS 57 (1965) 18.

 

2021年7月17日

・バチカンが2日から新回勅“Fratelli tutti(All Brothers)”のウエブサイト特設

The new website dedicated to the "Fratelli tutti" EncyclicalThe new website dedicated to the “Fratelli tutti” Encyclical 

(2020.12.1 Vatican News staff writer)

  バチカン人間開発省が2日から、教皇フランシスコの新回勅”Fratelli tutti”(All Brothers=兄弟の皆さん)”」を世界に普及するための方策の一環として、特別のウエブサイトを開設した。 このウェブサイトには、同省 のホームページwww.humandevelopment.va、あるいはwww.fratellitutti.vaから直接アクセスできる。

  バチカン広報省と共同で作成されたこのサイトは、「回勅のテーマである『兄弟愛と社会的友愛』のメッセージを世界の隅々まで広め、教皇が回勅に込められたさまざまな思いをよく理解してもらう」ことを目的としている、と人間開発省は1日の声明で説明している。

 ウエブサイトは、当面、英語、スペイン語、イタリア語の3か国語を基本としているが、フランス語、ポルトガル語、アラビア語、中国語など他の言語への転換も可能だ。 内容は継続的に更新されるが、利用可能な言語で回勅本文をダウンロードして使えるようになっているほか、バチカンや世界の教会の関係者や専門家などのコメント、分析、また関連の記事、インタビューも読んだり、動画で見ることも可能。

 また、回勅策定のために造られた資料なども公開。関心のあるセクションを直接共有するためのTwitterやSNSへのリンク、回勅に関する最新のバチカン放送の記事へ直接リンクする「ウィンドウ」も設けられている。

 このような内容を利用できる使用言語を広める作業も現在進められており、内容充実のための様々な企画も進行中。さらに、新回勅を巡る世界の教会や団体、ネットワークなどから寄せられる情報や資料を取り込むスペースも作られている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年12月2日

・改・兄弟愛と社会的友愛についての新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」日本語試訳の全文

教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」

  ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP

 (「カトリック・あい」試訳担当者=章ごとの担当順=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子)

 

1.「FRATELLI  TUTTI」(1)-この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。

聖フランシスコは、簡潔で直接的な仕方で、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられました-それは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。

 2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは自分自身を太陽、海、そして風の兄弟、と感じ、しかも、肉親よりも、もっと近いことを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。

 

境界を設けない WITHOUT BORDERS

 3.聖フランシスコの人生には、「境界を意識せず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した、開かれた心」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。

 フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。

4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。

 当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系間の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。

5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。

今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられました。アブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、義務、尊厳において平等に創造し、彼らに兄弟姉妹として一緒に暮らすよう求められた」(5)のです。これは単なる外交儀礼ではなく、対話と共通の約束から生まれた省察でした。この回勅で、私たちが署名した文書で提起さ​​れた、素晴らしいテーマのいくつかを取り上げ、発展させています。また、私自身の考えとともに、世界中の多くの個人やグループからいただいた多くの手紙、文書、意見を取り入れています。

  1. 前文に続くページが、兄弟愛についての完全な教えを提供する、とは断言しません。というよりも、その普遍的な視野、すべての男性と女性への開放性を考慮しています。私はこの社会的回勅を、継続的な反省へのささやかな貢献として提供します。他者を排除あるいは無視しようとする試みに直面している今日、言葉のレベルに留まらない兄弟愛と社会的友愛の新しい展望をもって対処することが可能だと証明できるように願っています。私を励まし、支えてくれるキリスト教徒の信念からこの回勅を書きましたが、この省察を、「善意のすべての人々の間の対話へ招き」となるよう努めました。

7. 私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました。この危機に対して、さまざまな国がさまざまな対応をしましたが、国同士が協力できないことは非常に明白になりました。私たちのすべてのハイパー・コネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)において、私たち全員に影響を与える問題を解決することをより困難にする“断片化”を目の当たりにしました。『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」。

 

  1. 私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです。すべての男性と女性の間の友愛。 「ここに、どのように夢を見、人生を素晴らしい冒険に変える方法を示す、素敵な秘密があります。誰も孤立した状態で人生に立ち向かうことはできません… 私たちは、自分を支え、助けてくれる共同体-前を見続けるために互いに助け合うことのできる共同体-を必要としています。共に夢を見ることが、どれほど重要か… 私たちには、蜃気楼-そこに実在しないものを見る危険があります。一方で、夢は共に構築されます」(6)。

 それでは、共に夢を見ましょう-ひとつの人間家族として、同じ肉体を共有する仲間の旅人として、共通の家である同じ地球の子供たちとして、一人ひとりが、彼または彼女それぞれの信念と確信の豊かさをもたらすことを夢見てみましょう-私たちそれぞれが、彼あるいは彼女自身の声、兄弟姉妹の皆と共に。

 

 

第1章 閉じられた世界を覆う暗雲 

CHAPTER ONE DARK CLOUDS OVER A CLOSED WORLD 

9. ここでは徹底的な分析を実行したり、私たちの現在の経験のあらゆる側面を研究したりすることはせず、単に普遍的な友愛の発展を妨げている私たちの世界の特定の傾向を考えて行くつもりです。

*打ち砕かれた夢 

 10.これまで何十年もの間、世界は多くの戦争や災害から教訓を学び、さまざまな形の統合に向かってゆっくりと動いていたように見えました。たとえば、欧州の共通のルーツを認め、その豊かな多様性を讃えることのできる、統一された欧州の夢がありました。私たちは「分かれているところを橋渡しし、欧州大陸のすべての人々の間の平和と交流を促す能力に基づいて未来を構想した欧州連合の創設者の確固たる信念」(7)を思い浮かべています。

 ラテンアメリカでの統合への欲求も高まり、この方向にいくつかの措置が講じられました。一部の国や地域では、和解の試みが実を結び、他の地域でも大きな期待が寄せられました。

11.しかし、私たち自身の日々をみると、特定の後退の兆候を示しているようです。長い間埋もれていたと考えられていた昔の紛争が新たに発生し、近視眼的で過激な、いきり立った攻撃的なナショナリズムがあちこちで台頭しています。一部の国では、さまざまなイデオロギーに影響されたポピュリズムと挙国一致の概念が、国益の保護を装って、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出しています。

 このことは、「それぞれの新しい世代は、過去の世代が行った闘争と成果を引き受け、その目標をさらに高く設定することが求められている」ことを、改めて思い出させてくれます。これが、私たちがとるべき道です。善は、愛、正義、連帯とともに、一回限りで、それで終わり、というものではなく、毎日、実現していかねばなりません。兄弟姉妹の多くが、依然として、私たちに『注意を向けてくれ』と叫ばねばならないような状況に耐えている、という現実を、なぜか無視できるかのようにして、過去に達成されたことをもって良し、とし、自己満足的に謳歌することはできないのです」(8)。

12. 「世界に門戸を開く」は、現在は、経済・金融セクターによって採用され、外国の利益に対して独占的に使われる、あるいは、すべての国において障害や複雑さを伴わずに投資するための経済力の自由に使われる表現です。地域紛争と公益の無視は、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって悪用されています。このような文化は世界を統合しますが、人々と国々を分けてしまいます。「社会は、グローバル化するにつれて、私たちを”隣人”にしますが、私たちを”兄弟”にはしない」からです(9)。

 個人の利益を伸長させ、生活の共同体的側面を弱める一段と大規模化する世界で、私たちは、従来以上に孤独です。確かに、個人が”単なる消費者”あるいは”傍観者”になる市場は存在します。一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることができる強い地域のアイデンティティを強化しますが、それより弱い地域、貧しい地域のアイデンティティを弱め、いっそう脆弱に、依存度を高める傾向があります。このようにして、政治活動は、「分割統治」の原則に基づいて運営され、国境を越える経済力を前にして、一層、脆弱になっています。

 

*歴史的思考の終焉 

 

13. その結果、歴史的思考がますます失われ、さらに分裂につながっていきます。「人間の自由がゼロからすべてを創造する」と主張する一種の「脱構築主義」が、今日の文化の中で進展しています。それが結果として残すものの一つが「際限ない消費と空虚な個人主義の表現」への衝動です。そうした懸念が、私に、若い人たちへのいくつかのアドバイスをさせました。

 「誰かが若い人々に、『自分たちの歴史を無視し、年長者の経験を拒絶し、過去を軽蔑し、そして自分自身が抱く未来を楽しみにするように』と言うなら、その方向に彼らを引き寄せ、その者の言うことだけをするようにするのが、容易になるのではないか?その者は、若者に浅薄で、根無しで、他に不信感を抱くことを求め、その者が約束することだけを信じ、その者の計画に従って行動するようにするのです。それが、さまざまなイデオロギーのなす業です。(注:人々の間に存在する)すべての違いを破壊(または脱構築)し、抵抗なく統治できるようにします。しかし、そうするためには、歴史を必要とせず、過去の世代から受け継いだ精神的、人間的な富を拒絶し、彼らの前に来るすべてのものに無知な若い人々、を必要とするのです」(10)。

14.こうしたことは、新しい形の「文化的な植民地化」です。 忘れないようにしましょう、それによって、自分たちの文化を捨て、そして、「伝統を放棄し、他人を模倣したり、暴力を助長したりすることから、あるいは、許されないような怠慢や無関心から、自分の魂を奪わせ、精神的なアイデンティティだけでなく、道徳的な一貫性、そして最終的には知的、経済的、政治的な独立性をも失う」ことを(11)。

 歴史的な意識、批判的思考、正義のための闘争、統合のプロセスを弱める効果的な方法の一つは、それらの意味の素晴らしい言葉を空にするか、それらを操作することです。 今日、民主主義、自由、正義、団結のような言葉は、本当は何を意味するのでしょうか? それらは、支配のための道具として、あらゆる行動を正当化するために使える無意味な奉仕をするための下げ札として機能するように、曲げられ、形を作られています。

*皆のための計画が欠けている 

 15. 人々を支配し、支配するために最もいい方法は、特定の価値観を擁護することを装ってでも、絶望と落胆を人々の間に広めることです。今日、多くの国で、誇張、過激主義、二極化が、政治的な道具になっています。「嘲笑と疑惑、執拗な批判の戦略」を採用し、さまざまな方法で、人々が存在したり意見を述べたりする権利を否定します。人々の真実と価値観の共有は拒絶され、結果として、人々の生活は貧しくなり、権力者の傲慢に翻弄されます。  

 政治的活動はもはや、「人々の生活を改善し、公益を促進するための長期計画に関する健全な議論」と関係しなくなり、他の人々の信用を傷つけることを目的とした巧妙な商いの手法とだけ関係を持ちます。そうした告訴と反訴の卑劣なやり取りの中で、議論は不一致と対立の永続的な状態へと退化していきます。

16. 勝つことの目的が敵を排除することにある”利益相反の争い”の中で、私たちは、どのようにしたら、視力を向上し、隣人を認識したり、途中で倒れた人々を助けたりできるのでしょうか? 今の世の中では、私たち人間家族全員の発展へ素晴らしい目標を設定する計画を立てる、というのは、狂気のように聞こえます。私たちの互いの距離はどんどん遠くなってきています。人々が強く結びついた公正な世界に向けたゆっくりとした、苦労に満ちた行進は、新しくて劇的な挫折を味わっています。

17. 私たちが住んでいるこの世界を大切にすることは、自分自身を世話することに通じます。しかも、自分たちを”共通の家”に住む一つ家族として考えることが一層、必要になって来ています。「大切にする」ことは、目先の利益を要求する経済的な力に関心をもちません。多くの場合、環境を守るために上げられた声は、特別な利益のための単なる隠れ蓑である一見、合理的な論法によって、黙らされ、笑いものにされます。しかし、私たちが作り上げた浅薄で近視眼的な文化は、共通のビジョンを失い、「いったん特定の資源が枯渇してしまえば、気高い主張を装ってはいるいるものの、新たな戦いための道具建てがなされる、ということが予見できる」(12)のです

*「使い捨て」の世界 

 18. 私たち人間家族の中には、苦労の無い生き方がふさわしいと考えられる人のために、たやすく犠牲にされるような人がいるようです。 結局のところ、「人は、特に、貧しく、身体が不自由だったり、胎児のように『まだ役に立たない』、あるいは高齢者のように『もう必要ない』とされたりする場合、もはや、世話をされ、敬意を払われる最も高い価値のあるもの、とは見なされません。 私たちは、この上なく嘆かわしい食べ物の無駄を始めとする、あらゆる種類の無駄に、いっそう無関心になってきています」(13)

 19. 出生率が低下しているー悲しみと孤独の存在への高齢者の格下げをともなう、人口の高齢化につながるーは、それが私たちに関する全てだ、私たちの個々の関心がただ一つの重要事だ、とする巧妙な言い方です。そのようにして、捨てられるのは「食べ物や必要不可欠な物だけでなく、しばしば、人間自身」(14)です。

 新型コロナウイルスの大感染の結果、世界の特定の場所で、高齢者たちに何が起こったのかを私たちは見てきました。彼らは死ぬ必要がなかったのです。同様のことは、熱波や他の災害によって、これまでも起きてきました。そして、高齢者たちは、自分が残酷に見捨てられていることに気づきました。でも私たちは気づいていませんー高齢者たちを隔離し、家族の親密さやいたわりもなく、他人の世話に任せることで、家族そのものをそこない、衰えさせることを。そして結局は、若い人たちから、自分のルーツとの欠かすことのできない繋がりと自分自身だけでは得られない知恵を、奪うことになるのです。

20.他の人を捨て去るこのやり方は、さまざまな形をとる可能性があります。例えば、失業を引き起こし貧困を拡大させるという深刻な結果をもたらすことを考えずに、労働コストを下げることに執着することです(15)。また、他の人を捨て去る気持ちは、人種差別など、ずっと昔からあり、影を潜めても繰り返し現れる、敵意に満ちた振る舞いに、滲み出ます。人種差別の数々の出来事は、私たちに恥ずかしい思いをさせ続けています。私たちが思っている社会の進歩が、自分で考えるほど本当でも、信頼できるものでもない、ということを、それが示しているからです。

21.いくつかの経済ルールは、成長に効力を発揮していますが、統合的な人間開発(integral human development=注:パウロ6世教皇が1967年に出された回勅『ポプロールム・プログレシオ ― 諸民族の進歩推進 について 』のキーワード、「発展」は経済的、および物質的成長に限定するものではなく、「すべての人の全体としての開発を促進すること」を意味する)には効力を発揮していません(16)。富は増加しましたが、不平等とともに、「新しい形態の貧困が出現する」結果になりました(17)。

 現代世界で貧困が減っている、という主張は、現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することでなされています。たとえば、電気の供給する体制が欠けていることが「貧困のしるし」とは見なされず、困窮の原因ともされなかった、というケースもあります。貧困は常に、時々の歴史的な期間において採用可能な実際の条件の文脈で理解され、測られねばなりません。

*万人に行き渡っていない「人権」

22.ひんぱんに明確になっているのは、実際問題として、人権がすべての人に平等ではない、ということです。人権の尊重は「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳に敬意が払われ、彼あるいは彼女の権利が認められ、保証されれば、創造性と相互依存関係が成長し、人間の個性の創造性は、共通善を促進する行動を通して発揮されます」(18)。

 しかし、「現代社会を注意深く観察することで、70年前に厳粛に宣言された『すべての人間の平等な尊厳」が、あらゆる状況で真に認識され、尊重され、保護され、促進されているのか、疑問を生じるような、数多くの矛盾があることが分かります。

 今日の世界では、還元主義的な人類学の考え方(注:上位階層において成立する基本法則や基本概念が「常に必ずそれより下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方-を指していると思われる)によって、また、人間を搾取し、捨て、さらには殺すことさえためらわない利益本位の経済モデルによって、様々な形の不平等が続いています。

 一部の人たちは豊かに暮らしていますが、他の人たちは、尊厳そのものが否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的権利が取り上げられ、あるいは侵害されています」(19)。このことは、生来の人間の尊厳に基づいた権利の平等について、私たちに何を語るのでしょうか?

23.  同じように、世界中の社会組織は、女性が男性と同じ尊厳、同一の権利を持っていることを明確に反映するには、まだほど遠い状態です。私たちは、言葉である事を話しますが、決定と現実は別の話です。確かに、「重ね重ね哀れなのは、のけ者にされ、虐待され、暴力を振るわれることに耐える女性たちだ。それは、彼女たちがしばしば自分の権利を守れないためである」(20)。

 

24. また、「国際社会は、あらゆる形態の奴隷制を終わらせることを目的とした数多くの協定を採択し、この事態と戦うためのさまざまな戦略に手を付けましたが、現在も、何百万の人々-子供、そしてあらゆる年齢の女性、男性-の自由が奪われ、奴隷のような境遇で生きることを強制されています… 奴隷制は今も、過去と同じように、彼または彼女を物として扱うのを認めるような、人間についての考え方に根ざしているのです… 強制され、だまされ、あるいは肉体的、精神的に強迫されることで、神の似姿として創られた人間が、自由を奪われ、売られ、他人の所有物になり、目的達成の手段として扱われます…

 犯罪組織のネットワークは、世界のさまざまな地域で、若い男性と女性を誘惑する方法として最新の通信手段を使うことに習熟しています」(21) 。女性を意のままに操り、妊娠中絶を強制する時、あらゆる規制をかいくぐる悪行。臓器売買のために人々を誘拐までする憎悪すべき行為。人身売買やその他の現代的な形で引き起こされている奴隷制は、人類全体が真剣に取り組む必要のある世界的な問題です。「犯罪組織が目標達成に世界的な犯罪網を使っている以上、こうした行為を消し去る取り組みも、共通の、社会のさまざまな部門における世界的な努力が必要です」(22)。

*争いと恐怖 

 25. 戦争、テロリストによる襲撃、人種的あるいは宗教的な迫害、その他の、人間の尊厳を踏みにじる数多くの行為は、特定の、主として経済的な利益にどれほど都合がいいかによって、異なった判断が下されています。権力を持つ者にとって都合がいい場合に真実である事が、都合が悪くなれば真実でなくなります。悲しいことに、これらの暴力行為は「ばらばらな状態で実際に起きている『第三次世界大戦』を構成するほど一般的になってきています」(23)。

26.  私たちを結びつける共通の領域が、もはや無いことに気付いたとしても、驚くべきことではありません。 確かに、どの戦争でも最初に犠牲となるのは「人間家族の友愛への、本来備わっている神から召された使命」です。 その結果、「あらゆる脅迫的な状況が不信感を生み、人々を自分の安全圏に引きこもらせる」(24)。 私たちの世界は奇妙な矛盾に陥っているーその世界で、私たちは、自分が「恐怖と不信の心性によって支えられた誤った安心感を通して、安定と平和を確保できるのだ」(25)と信じているのです。

 27. 逆説的ですが、私たちには、技術開発が排除することに成功していない、という先祖代々の恐れがあります。確かに、そうした恐れは、新技術の裏に隠れて広がることができました。今日でも、古代から続く町の壁の外には、計り知れない深み、未知の領域、荒れ野があります。そこから来るものは、何であろうと信頼できません。なぜなら、それは未知で、なじみがなく、村の一部ではないからです。それは「野蛮人」の領土であり、そこから私たちはどんな犠牲を払っても自分自身を守らなければなりません。

 その結果、自衛のために新しい壁が建てられ、外の世界は存在をやめ、「私」の世界だけが残り、他の人々は、もはや奪われることのない尊厳を持っている人間とは見なされず、ただの「彼ら」になります。

 もう一度、私たちは「他の文化や他の人々と出会うのを防ぐために『壁の文化』を構築し、壁-心の壁、土地の壁を立てたい、という誘惑に出会います。そして、壁を立てる人々は、自分が立てたまさにその壁の中で奴隷になってしまうでしょう。彼らは視野を失ったまま残されます。他の人々との交流を欠いているからです」(26)。

28. システムに見捨てられたと感じる人々が経験する孤独、恐れ、不安は、さまざまな「マフィアたち」のための肥沃な土地を作り出します。彼らは繁栄します。なぜなら、犯罪によって利益を追求している時でさえも、社会から忘れられた人々に、様々な形の援助をひんぱんに提供することで、擁護者である、と主張するからです。そして、偽りの共同体主義の神秘的雰囲気を振り撒くことで、抜け出すのがとても難しい「依存と忠誠の絆」作り出す、典型的な“mafioso(マフィアの一員)”の”教育学”も存在するのです。

*共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 

 29. アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師も同じお考えですが、私たちは、科学、技術、医学、産業、福祉の分野で、とりわけ先進国においてなされた疑いようのない進歩を無視することはしません。それにもかかわらず、それが「歴史的な進歩、偉大で価値あるものであると同時に、国際的な活動に影響を与える道徳的な劣化、そして、精神的価値と責任感の弱体化が起きていることも、強調しておきたいと思います。これは、欲求不満、孤立、絶望という一般的な感覚を生む一因となります」。

 私たちが目にするのは「不確実性、幻滅、未来への恐れに支配され、限られた経済的利益によって支配されている世界的な状況の中で、敵対関係の発生と武器と弾薬の蓄積」です。また、「重大な政治的危機、不正がはびこり、天然資源の公平な分配の欠如… 貧困と飢餓から衰弱した何百万人もの子供たちの死をもたらすような危機に直面しているにもかかわらず、容認することのできない国際的なレベルでの沈黙があります」(27)。このような世界は、その否定できない進歩にもかかわらず、より人間的な未来につながるようには見えません。

30. 今日の世界では、「ひとつの人間家族に属している」という感覚は薄れつつあり、「正義と平和のために力を合わせる」という夢は、時代遅れのユートピアのよう思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた「クールで、心地よく、グローバル化された無関心」です。

 私たちは、全員が同じ船に乗っていることに気づかず、「自分が全能だ」と考えます-このような幻想は、偉大な友愛の価値を意識せず、「一種の冷笑的な考え」につながります。 それは、私たちが幻滅と失望の道を進んだ場合に直面する誘惑です… 孤立し、自己の利益に逃げ込むことは、希望を取り戻し、再生をもたらす道ではありません。希望、再生に必要なのは、親密さです。 出会いの文化です。 孤立はノー、親密さはイエス。文化の衝突はノー、 出会いの文化はイエス、です」(28)。

31. 速いスピードで進むものの、共通の工程表がない現在の世界では、「『個人の幸福への関心』と、より大きな『人間家族の繁栄』の間のギャップが、個々人と人間的な共同体社会の間に完全な分裂をもたらすまで広がっているように思われます… 『共に暮らすことを余儀なくされている』と感じることと、強く求め育てる必要のある共同生活の種子の豊かさと素晴らしさに価値を置くことは、まったく別です」(29)。

 技術は絶えず進歩していますが、「科学技術革新の進展が、もっと平等で多様性を包み込む社会に繋がるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。私たちが遠くの惑星を発見するとともに、私たちの周りを回る兄弟姉妹が求めているものを再発見することは、どれほど素晴らしいことでしょう」(30)。

*歴史における新型コロナウイルス大感染と他の悲惨な出来事 PANDEMICS AND OTHER CALAMITIES IN HISTORY

32. 新型コロナウイルスの世界的大感染の悲劇は、私たちが皆、世界的な共同体の船に乗っているのだ、という感覚を、ほんの一瞬、復活させましたーそこでは、一人の問題が、全員の問題です。改めて、一人だけで救われる人はいない、ということに気づきました。私たちは一緒にしか救われません。先に私が申し上げたように、「(注:コロナ大感染の)嵐は私たちの弱さを露呈し、確かだと思っていたことー日々の日程、計画、習慣、優先すべきもの…などーが間違っていた、過信していたことを明らかにしました… この嵐の最中に、私たちが偽装した自分のエゴ、いつも外見を気にしていた「固定概念の建物の正面」が崩れ去り、『私たちが互いの一部であり、互いに兄弟姉妹だ』という避けがたく、神に祝福された認識が、改めて明るみに出されたのです」[31]。

33. 世界は、「技術進歩で『人的損失』の削減を目指す経済」に向かって執拗に進んできました。市場の自由はすべてを保証するに足るもの、と私たちを信じ込ませた人々がいました。しかし、現在の制御不能な新型コロナ感染の、残忍で予期しない打撃は、人間への配慮を、少数者の利益でなく、すべての人のために取り戻すように、私たちに強く教えました

 今、私たちは知ることができます。「私たちは素晴らしさと壮大さの夢の上に生き、結局は、娯楽、偏狭、孤独に時間を費やすことになった。ネットワーキングに夢中になり、友愛の味を忘れた。安直に手に入る安全な結果を探し求めたが、焦りと不安に圧倒された。仮想現実の囚人たち-私たちは本当の現実の味と香りを無くした」(32)。コロナ大感染によってもたらされた痛み、不確実さ、恐れ、そして自分自身の限界の認識は、これまでの生活様式、人間関係、社会の組織、そして何よりも、自分の存在の意味を考え直すことを、これまで以上に緊急の課題として、私たちに提示しているのです。

34.すべてが繋がっていますーこの地球規模の災害が、私たちが現実にアプローチする方法、自分自身の人生と存在するすべてのものの「至高の主人」である、という私たちの主張と無関係だというのは想像しがたいことです。私は神の報復について話したくありませんし、私たちの自然に与える害がそれ自体、私たちの罪に対する罰である、と言うだけでは不十分です。世界そのものが反逆の声を上げています。私たちは「tears of things」-人生と歴史の不幸を呼び起こす詩人ウェルギリウスの有名な詩を思い起こします(33)。

(「カトリック・あい」注:プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro=紀元前70年10月15日? – 紀元前19年9月21日)=共和政ローマ末の内乱の時代からオクタビアヌスの台頭に伴う帝政の確立期に生涯を過ごし、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ、欧州文学史上、ラテン文学において最も重視される人物)

35. しかし、私たちはあまりにも早く、歴史の教訓-「人生の教師」(34)を忘れてしまいます。現在のコロナ危機が過ぎ去った後の、私たちの最悪の対応は、熱狂的な消費主義と新しい形の身勝手な自己保存に、さらに深くのめりこんでしまうことです。

 神が希望されるのは、現在の危機がすべて終わった後、私たちがもはや「彼ら」と「それら」の観点から考えることをせず、「私たち」の観点から考えることです。そうすることで、「私たちが何ら教訓を学ばない歴史上の単なる悲劇」の一つではないことを証明できればいい。毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを肝に銘じることができればいい。この計り知れない悲しみが、無駄にならず、私たちが新しい人生の過ごし方に一歩踏み出させればいい。私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいい。

 36. 私たちが、「親密な関係を持つ共同体、自分たちの時間、エネルギー、資源の価値のある連帯」を作り上げる共通の情熱を取り戻さない限り、私たちを惑わした世界的な幻想は崩壊し、多くの人々が苦悩と空虚に支配されてしまうでしょう。また、「消費者主義の生活様式への執着は、特にそれを維持できる人がほとんどいない場合、暴力と相互破壊につながるだけだ」(35)という見方を、安易に拒むべきではありません。「すべての人は自分自身のために」という考えは、どのような感染症の大流行よりもひどい「気ままなやりたい放題」へと堕落していくでしょう。

*国境における人間の尊厳の欠如 

 37. 特定のポピュリスト的な政治体制や、特定のリベラルな経済的な取り組みを進める人々は、「移民の流入はどのようなコストを払っても防ぐ必要がある」と言い張っています。 貧しい国々への援助を抑えることの妥当性についても、そのような主張をします。その結果、そうした国々がどん底に落ち込み、縮政策を強いられることになるかも知れません。そのような観念的で,支持しがたい主張の裏で、多くの命が危機に瀕していることに気付かないのです。

 多くの移民たちは、戦争、迫害、自然災害から逃れてきました。 そうでない人たちは、当然のことながら、「自分自身と自分の家族のための良い機会を求めています。より良い未来を夢見ており、それを手に入れる条件を整えたいと思っています」(36)。

38. 悲しいことに、一部の人は「西洋文化に惹かれ、時には非現実的な期待を抱き、深刻な失望にさらされます。麻薬カルテルや武器カルテルに頻繁に関わる悪意をもった人身売買業者は、移民の弱点を悪用します。移民は、移動中に暴力、人身売買、精神的および肉体的虐待など、計り知れない苦しみを頻繁に味わいます」(37)。移住する人々は「故郷との関係を断たれ、しばしば文化的および宗教的の喪失を経験します。

 離散は、彼らが残した共同体社会にも感じられ、彼らは最も活発で進取の気風を失い、特に両親の一方または両方が、子供たちを生まれた国に残して、移住する時に、それを感じます」(38)。このような理由から、「移住しない、つまり故郷に留まる権利を、再確認する必要もあります」(39)。

39. それからまた、「一部の移民受入国では、移住は恐怖と警戒を引き起こし、しばしば政治目的のために煽り立てられ、利用されます。移民たちが自分自身の中に閉じこもることが、外国人恐怖症につながる恐れがあり、それに断固として対応する必要があります」(40) 。移民は、他の人のように「移住先の社会生活に参加する資格がある」とは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることが忘れられています。

 したがって、彼らは「自分自身の贖罪の代理人」であるべき(41)なのです。 彼らが人間であることを公然と否定する人は誰もいませんが、実際には、私たちの判断と彼らへの対応によって、彼らを価値が低く、重要性が低く、人間性が低い、と見なしていることを示すことになり得るのです。 キリスト教徒にとって、このような考え方と振る舞いは受け入れられません。それが、信仰ー出自、人種あるいは宗教にかかわらず、奪うことが許されない一人ひとりの尊厳、そして「友愛」という最高法規ーへの強い確信よりも、特定の政治的な選好を、上に置くからです。

40. 「移住は、これまで以上に、私たちの世界の将来に、極めて重要な役割を果たすでしょう」(42)。しかし現在、移住は「すべての市民社会の基盤となっている兄弟姉妹に対する責任感の喪失」の影響を受けています(43)。たとえば、欧州は、そうした道を歩むリスクを冒しています。にもかかわらず、「その偉大な文化的および宗教的遺産に助けられ、人間が中心であるという考えを守り、そして『市民の権利を守り、移民を助け、受け入れることを保証する、という二重の道徳的責任』の間に適切な均衡を見つける手段を持っています」(44)。

41. 私は、移民に戸惑い、恐れている人がいることを承知しています。これは、私たちの自然な自己防衛の本能の一部だと思います。しかしまた、一人の個人、一つの集団は、他の人々への創造的な開放性を育てる場合に限って、実り豊かで生産的になることも、事実です。

 私は皆さんに、こうした最初の反応を乗り越えて振る舞うようにお願いします。なぜなら、「(注:私たちの移民の人たちに対する)疑いや恐れが、私たちを不寛容で、閉鎖的で、そして恐らく自覚無しに、人種差別主義者にまでしてしまう、考えと振る舞いを条件づける、という問題があるからです。そのようにして、恐れが、『他の人と出会いたい』という強い希望と能力を、私たちから奪うのです」(45)。

*コミュニケーションの幻想 

 42. おかしなことに、他の人々に対する閉鎖的で不寛容な態度が高まる一方で、(注:人と人の間の)距離が縮み、あるいはプライバシーの権利がほとんど消えてしまうほどに薄らいでいます。すべてが調べられ、検閲される一種の惨状が起き、人々の生活は、常に監視されるようになっています。

 デジタル通信は、すべてを白日の下に晒そうとしています。人々の生活は、情報がバーコード化され、むき出しにされ、あちこちに言いふらされ、それがしばしば匿名でなされます。他の人への敬意が崩れ、たとえ他の人々をはねつけ、無視し、距離を置いても、彼らの生活の隅々を、臆面もなく、のぞき込むことができるのです。

 

43. 憎悪と破壊のデジタル促進運動は、それ自体、私たちが信じ込まされているような、相互支援の前向きなものではなく、認識された共通の敵に対して一つになった、単なる個人の集団の動きです。「デジタルメディアはまた、人々を、中毒になり、孤立し、現実との接触を徐々に失っていく危険にさらし、本当の人間関係が育つのを妨げる可能性がある」(46)。デジタルメディアは、私たちに話しかけ、人間的なコミュニケーションの一部であるものー身体的表現、顔の表情、沈黙の瞬間、身振りや手振り、そして匂い、手の震え、赤面と発汗さえもー欠いています。

 デジタルによる関係-友情が徐々に育っていくことや、安定した交流、あるいは時間とともに成熟する総意の構築を必要としない関係-は、社交的なように見えます。だが、実際には、共同体社会を構築せず、個人主義であることを隠して、広げていく傾向があり、それは、よそ者を嫌い、弱い者を軽蔑する中に、自然と現れます。デジタルによる接続は、”橋”を作るのに十分ではありません。人類を一つにすることはできないのです。

*臆面もない侵略 

 44. そうした人々は、個人個人で心地よい消費者主義者の孤独を保っている時でさえも、他の人を打ち壊すような、あからさまな敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、言葉の暴力をかきたてる、絶え間ない熱狂的な結びつきを、「物理的な接触では皆を引き裂かないために求められる、自制心」を欠いたまま、選択することが可能です。社会的な侵略は、コンピューターやモバイル・デバイスを介した拡大の未だかつてなかった場を見つけたのです。

 45. このことは、今や、諸々のイデオロギーに完全な行動の自由を与えました。数年前まで、皆の尊敬を失う危険を冒さずに口にできなかったことを、今では、責任を問われることなく、極めて粗雑な言葉で、一部の政治家さえも話すようになっています。そして、忘れてならないのは、次のようなことですー「デジタルの世界では巨大な経済的利益が働いており、その世界は、侵略的で、良心と民主主義的な手続きを操作するメカニズムを作るのと同じような、巧妙な管理形態を実行することができる。

 多くの(注:デジタル)プラットフォームの機能は、結局は、同じような考えを持つ人同士の出会いを促し、議論をさせないようにすることにつながる。こうした閉鎖された回路は、偽のニュースや虚偽の情報の拡散を促進し、偏見や憎悪を助長する」(47)。

46. 私たちが認識すべきことは、キリスト教徒を含む宗教を信じる人々の間で、破壊的な形の狂信的振る舞いが散見されることです-そうした人々もまた、「インターネットやデジタル通信によるさまざまな公開討論の場を通じて、言葉による暴力のネットワークに巻き込まれる可能性があります。

 カトリックのメディアさえも、限界を超え、名誉毀損や誹謗中傷が当たり前になり、あらゆる倫理基準と他の人の名誉の尊重を捨てる可能性があります」(48)。このことが、私たちの父が求める友愛に、どのように貢献できるのでしょうか。

 

*叡智を欠いた情報 

 47. 真の叡智は、現実との出会いを求めます。しかし今日では、すべてを作り上げ、偽装し、変えてしまうことが可能です。したがって、ほんの初歩的な現実をもっての直接の出会いさえも、耐え難いものになる可能性があります。そうすると、選択のメカニズムが働きます。これによって、好きなものと嫌いなもの、魅力的と思うものと、そうでないものを、一瞬のうちに区別することができます。

 同じ様に、私たちは自分たちの世界を共有したい人を選ぶことが可能です。今日の仮想現実のネットワークでは、不快な人、あるいは不快と思われる人や状況が削除され、仮想のサークルが作成され、自分が住んでいる現実の世界から切り離されてしまいます。

48.腰を下ろして人の話を聞く能力は、対人関係特有のもので、自己愛を超え、他の人を受け入れ、気遣い、自分の生活に喜んで迎える人々によって示される、歓迎の態度の典型です。 しかし、「今の世界は、全体的に”耳が遠い”世界になっています… 時には、現代世界の我を忘れたような動きが、他の人の話に注意深く耳を傾けるのを妨げます。相手の話の途中に割り込み、その人がまだ言い終えていない意見に反論しようとします。

 私たちは 聞く能力を失ってはなりません」。 聖フランシスコは「神の声を聞き、貧しい人々の声を聞き、弱い人々の声を聞き、自然の声を聞きました。 彼はそれを、生き方にしました。 私の強い願いは、聖フランシスコの植えた種が、多くの人の心の中で育つことです」(49)。

49. 静かに、注意して聴く習慣が、(注:SNSなどによる)メッセージ交換の狂乱に取って代わられることで、知者の人間的コミュニケーションの基本構造が危機に瀕しています。欲しいものだけを作り、コントロールできないものや、簡単に表面的に知ることができないものは、すべて排除する、という新しい生活様式が生まれ、その固有の論理によって、私たちを共有の知恵に導くような、静かに、深く考えることを、できなくしてしまいます。

50. 共に、私たちは対話、リラックスした会話、あるいは情熱的な討論で真実を探し求めることができます。そのためには忍耐力が必要です。沈黙と苦しみの瞬間を伴いますが、それでも個人と人々の広い経験を辛抱強く受け入れることができます。

 私たちの”指先での情報”の洪水は、大きな知恵にはなりません。知恵は、インターネットでの迅速な検索から生まれるものでも、未検証のデータの塊でもありません。そのようなやり方は、真実との出会いの中で成熟する方法ではありません。そのようなやり方の会話は、最新のデータだけを中心に展開され、単に水平的なものの積み重ねになります。

 注意を集中し続け、問題の核心に入り、生活に意味を与えるために何が欠かせないかを認識する、ということができません。そうして、自由は、自分があちこちに売られている、という幻想になり、インターネットをあやつる能力とたやすく混同されてしまいます。

 友愛を築く取り組みは、それが地域的であろうと普遍的であろうと、自由な、本物の出会いに開かれた精神によってのみ、始めることができるのです。

*服従と自己卑下の構造 

 51. 特定の経済的に繁栄している国は、発展途上国のための文化的なモデルとして提案される傾向があります。 それよりも、これらの国々が独自の方法で成長し、適切な文化の価値を尊重しながら変革能力を高めていくように支援する必要があります。 他人を模倣したい、という浅薄で情けない欲求は、創造ではなく、コピーと消費につながり、国民に低い自尊心を育ててしまいます。

 多くの貧しい国の富裕層や、最近貧困から抜け出した人々には、先住民の考え方や行動に抵抗があり、すべての病いの唯一の原因であるかのように、自分自身の文化的アイデンティティを軽蔑する傾向があります。

52. 自尊心を壊すことは、他の人を支配する容易な方法です。私たちの世界を平準化しがちなこうした時代的流れの背後には、メディアやネットワークを通じて上流階級に奉仕する新たな文化を創造する試みをする一方で、低い自尊心を利用する強い関心が蔓延しています。

 金融の投機家や乗っ取り屋のご都合主義の思うつぼにはまり、貧しい人々がいつも敗者になってしまいます。そして、人々の文化を無視することは、多くの政治指導者が、自由に受け入れられ、長期にわたって維持されるような効果的な開発計画を考案できないことに繋がっています。

53. 私たちはくよくよ悩みませんー「誰にも属さず、根こそぎにされた、と感じることほど悪い形の疎外感はない。土地が人々の帰属意識を育み、各世代の間と異なる共同体社会の間の統合の絆を生み出し、他の人に鈍感にさせ、疎外感を強めさせるすべてのことが避けられる限り、その土地は豊かになり、人々は実を結び、未来を生み出す」(50)ということを。

 

*希望 

 54. このような無視できないような黒雲にもかかわらず、私はこれからのページで、多くの新たな希望の道を取り上げ、議論したいと思います。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからです。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせました。

 私たちは気づき始めました-私たちの生活が、共有する歴史の決定的な出来事を果敢に形成する人々-医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士…と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解しました(51)。

55. 私はすべての人に、新たな希望を求めます-希望は「すべての人の心に深く根差す何かについて、それと別に、私たちの環境と歴史的な条件について、私たちに話しかける」からです。希望は、渇き、大望、充実した人生への憧れ、偉大なことを成し遂げたい強い希望、私たちの心を満たし、私たちの精神を真、善、美、正義と愛のような高遠な現実に引き上げることを、私たちに語ります…。

 希望は大胆です-それは私たちの視野を制限するような個人的な都合、ささやかな安心、報酬の先を見据え、人生をもっと素晴らしく、価値のあるものにする壮大な理想に私たちの心を広げます」(52)。それでは、希望の道に沿って前進を続けようではありませんか。

 

第2章 道端の異邦人  A STRANGER ON THE ROAD

 

56. 前章は、今日の問題の、冷淡で切り離されたような記述として読まれるべきではありません。なぜなら、「現代の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々の喜びや希望、悲しみや苦悩は、キリストに従う者の喜びや希望、悲しみや苦悩でもある。真に人間的なものは全て、彼らの心に響く」(53)からです。

 私たちが経験していることの中に一筋の光を探そうとする試みとして、また、いくつかの行動を提案する前に、私は今、2000年前にイエス・キリストによって語られたたとえ話に1章を割きたいと思います。本回勅は、宗教的信念に関係なく、善意のあるすべての人々に向けられていますが、次のたとえ話は、私たちの誰もが共感し、また困難であると感じることができます。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は答えた。『「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。

 律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章25節~37節)。

 *背景 

57.このたとえ話は、古くからある問題に関係しています。聖書は、世界と人間の創造についての記述後、間もなく、人間関係の問題を取り上げています。カインは弟アベルを殺し、神が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」 (創世記4章9節)と問われるのが聞こえます。彼の答え「私は弟の番人でしょうか」(同書)とは、私たちがよく答えにするものです。神が問われるまさにそのご質問によって、私たちの無関心の正当化として、決定論や宿命論に訴える余地が与えられてはいません。代わりに、神は、私たちが対立を解決し、お互いを守りあう異なる文化の創出を勧めておられるのです。

58.「私を胎内に造った方は彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを母の胎に形づくられたのではないか」(ヨブ記 31章15節)。ヨブ記は、唯一の創造主における私たちの起源を、特定の共通の権利の基礎と見なします。何世紀も後に、聖エイレナイオスは旋律のイメージを使って同様に主張しています。「真理を求める者は、音符と音符の違いに集中して、それぞれが別々に、そして他から離れて作られたかのように考えるべきではない。代わりに、一人の同じ人物が全体の旋律を作曲したことに気づくべきだ」(54)。

 59.初期のユダヤの伝統では、他人を愛し、大切にする義務は、同じ国の人々の間の関係に限られていたようです。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)という古代の戒めは、通常、自分の同胞を指すものと理解されていましたが、その境界は次第に拡大されていき、とりわけ、イスラエルの地の外で発展したユダヤ教にてそうである。私たちは、自分が他人にしてほしくないことを他人にしてはならない」(トビト記4章15節参照)という戒めに出会います。

 紀元前1世紀に、ラビ・ヒルレル(紀元前一世紀の律法学者、ユダヤ教の著名な宗教指導者)がこのように語っています-「これがトーラー全体なのだ。それ以外はすべて解説だ」(55)。「人の憐れみは、その隣人に及ぶが、主の憐れみは、肉なる者すべてに及ぶ」(シラ書18章13節)というように、神ご自身の行動を模倣したい、という気持ちは、次第に、自分に最も近い人だけを考える傾向に取って代わっていきました。

 60.新約聖書では、ヒルレルの教えが前向きな言葉で表現されています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)。天の御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせて」(マタイによる福音書5章45節)くださるので、この掟は普遍的な範囲であり、私たちが共有している人間性に基づいてすべての人を包含しています。それゆえ、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)という呼びかけがなされているのです。

61.聖書の最も古い文書の中に、私たちの心が外国人を受け入れるように広げるべき理由が見つかります。それは,ユダヤ人自身がかつてエジプトで外国人として生活していたという,ユダヤ人の永続的な記憶に由来しています。

 「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)(注:[聖書の訳本によって節が違っている=英語訳・21節、日本語訳・20節)

 「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。

 「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった」(レビ記19章34節)。

 「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。

 兄弟愛への呼びかけは、新約聖書全体に響き渡っています。「なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)。「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいる」(ヨハネの手紙1・2章10節~11節)。「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています」(ヨハネの手紙1・3章14節)。「目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(ヨハネの手紙1・4章20節)。

62.しかし、この愛の呼びかけは誤解される可能性があります。キリスト者の初期の共同体が、閉鎖的で孤立した集団を形成する誘惑を認識している聖パウロは、弟子たちに「互いの愛とすべての人への愛」(テサロニケの信徒への手紙1・3章12節)に豊かに満ち溢れるように促しました。ヨハネ文書の共同体においては、たとえ「よそからきた人たち」(ヨハネの手紙3・5節)であっても、同胞のキリスト者が歓迎されることになっています。このような背景の中で、「善きサマリア人」のたとえ話の意義は、よりよく理解できるのです。

 すなわち、愛は、困っている兄弟姉妹がどこから来たかを気にしません。なぜなら、「愛は、私たちを孤立させ、分離させ続ける鎖を打ち砕き、 その代わりに橋を架けてくれます。 愛は、私たち全員がくつろぐことのできる一つの偉大な家族、を作ることを可能にしてくれます… 愛は慈悲と尊厳を醸し出す」(56)からです。

*道端に見捨てられた人 

 63.イエスは、強盗に襲われ、道端で負傷して横たわっている男の人の話をされています。何人かが彼のそばを通りましたが、足を止めませんでした。彼らは、重要な社会的地位にあるにもかかわらず、共通善に対する真の関心を欠いていたのです。けがをした男の人を介抱したり、助けを呼んだりするのに数分も費やそうとしません。

 そうした中で、ある一人の人が立ち止まり、男の人の所に行って、介抱し、必要なものを提供するために自分のお金まで使いました。皆が忙しく立ち回る世の中で、しっかりとつかまるものを与えました。自分の時間を与えました。男の人を助けた人には当然、その日の予定、必要としているもの、約束や強く希望するもの、がありました。

 それでも、助けが必要な人に出会った時、そうしたことを全部、脇に置きました。けがをしている人について何も知らないにもかかわらず、彼のことを自分の時間を費やし、世話をするに値する人だ、と見なしたのです。

64.あなたはこれらの人のうち, 誰を自分と同一視するでしょうか?これは唐突な質問ですが、率直で鋭い質問です。このたとえ話の登場人物の誰に似ているでしょうか?他の人、特に弱い人を無視しよう、という誘惑に常に駆られていることを認識する必要が、私たちにはあります。

 これまで成し遂げてきたあらゆる進歩にもかかわらず、この進んだ社会でいちばん弱く、壊れやすい人々に付き添い、思いやりをし、支援することについて、私たちはまだ 「無学」 であることを認めましょう。私たちは、自分が直接、影響を受けるまで、周りの状況を無視したり、通り過ぎたり、背を向けたりすることに慣れてしまっているのです。

65.私たちの街で、誰かが襲われ、多くの人は気づかなかったかのように急いで立ち去る… 自分の車で誰かをはねた人が、その場から逃げ出すーそうした人たちの動機は「問題を避ける」こと。自分がその場から逃げることによって、その人が死ぬかもしれない、というのは問題ではありません。

 こうしたことは、様々な形で、巧妙な仕方で、人々の間に広がっている”処世術”の兆候です。私たちは、自分自身の必要を満たすことに夢中になり、苦しんでいる人の姿が邪魔になる… それでいて、他人の問題に費やす時間がないことが、私たちを不安にさせるーこうしたことは、不健全な社会の症状です。繁栄を求め、苦しみに背を向ける社会です。

66.私たちがこのような深みに沈むことがないように!善きサマリア人のたとえ話を振り返りましょう。イエスのたとえ話は、私たちがそれぞれの国、そして全世界の市民として、新しい社会的な絆の構築者である召命を再発見するように招いているのです。この招きはいつも新しいものではすが、私たちの存在の基本的な法則に基づいています。

 私たちは、共通善の追求に社会を向かわせ、その目的を念頭に置いて、政治的、社会的秩序、関係性の基盤、人間の目標を強化することに全力を尽くすように求められています。善きサマリア人は、その振る舞いによって「一人一人の存在は、他の人の存在と深く結びついている。人生は、単に過ぎ去る時間ではなく、相互作用のための時間だ」ということを示しています(57)。

67.. このたとえ話は、私たちの傷ついた世界を立て直すために、私たちが下す必要のある基本的な決断を雄弁に表しています。このように多くの痛みと苦しみに直面している中、私たちの唯一の道は、善きサマリア人を見習うことです。それ以外のどんな決定では、私たちを強盗の一人か、道端の男の苦しみに思いやりを示さずに通りかかった一人にするでしょう。

 このたとえ話は、他の人の脆弱性に共感し、排除的な社会の創出を拒否し、代わりに隣人として行動し、倒れた者を持ち上げ、更生する男女によって、共通善のために、共同体がどのように再建できるかを示してくれます。それと同時に、自分のことしか考えず、人生の必然的な責任をありのままに背負うことを怠る人たちの態度についても警告してくれます。

 68.このたとえ話は明らかに、抽象的な道徳に耽っておらず、その伝えたいことは単に社会的かつ倫理的なものでもありません。私たちは愛の中でのみ見つけられる成就のために造られたのだ、という私たちの共通の人間性の本質的で、忘れられがちな側面を語ってくれているのです。

 私たちは苦しみに無関心でいられません。誰もが除け者として人生を送ることを許すことができません。代わりに、私たちは憤りを感じ、快適な孤立からの抜け出しに迫られ、人間の苦しみとの接触によって変えられるべきです。それが尊厳の意味です。

 *絶えず繰り返されている物語 

69.このたとえ話は明快で分かりやすいものですが、それはまた、私たちが兄弟姉妹との関係を通して徐々に自分自身を知るようになるにつれて、私たち一人一人が経験する内面的な葛藤をも呼び起こします。遅かれ早かれ、私たちは誰もが苦しんでいる人に出会うことになるでしょう。今日では、そのような人たちがますます増えています。道端に横たわる負傷者を含めるか、除外するかの決定は、あらゆる経済的、政治的、社会的、宗教的プロジェクトを判断する基準となり得ます。

  私たちは毎日、善きサマリア人になるか、無関心な傍観者になるか、を決めなければなりません。そして、自分の人生の歴史と全世界の歴史に目を向けてみると、私たちは皆、たとえ話の中の各登場人物のようであり、あるいはそうであったことがあるのです。私たちは皆、自分の中には、負傷した男の面、強盗の面、通行人の面、そして善きサマリア人の面があります。

70.道端での可哀想な男の痛ましい光景に一度直面すると、物語の様々な登場人物がどのように変わっていくか、はっきりします。ユダヤ人とサマリア人と、祭司と商人との区別は、取るに足らないことになっていきます。今では、「傷ついている人の世話をする人」と「通りすがりの人」、あるいは「身をかがめて助けようとする人」と「背を向けて急いで立ち去る人」の二種類しかいません。ここでは、私たちのあらゆる区別、レッテル、仮面がはがれていきます。それは真実の瞬間です。

 私たちは身をかがめて他人の傷に触れ、癒すのでしょうか。私たちは身をかがめて、立ち上がるために他人を助けるのでしょうか?これが今日の課題であり、私たちはそれに向き合うことを恐れるべきではなりません。危機の瞬間には、決断は急務となります。今ここで、強盗でも通行人でもない人は、自分自身が負傷しているか、負傷者を肩に担いでいるかのどちらかだと言えるでしょう。

71.善きサマリア人の物語は絶えず繰り返されています。国内的および国際的な紛争や機会の奪い合いが、多くの周縁化された人々を道端に置き去りにされている中で、社会的、政治的な惰性が世界の多くの地域を荒涼とした脇道に変えつつあることが、はっきり見えます。  

イエスはたとえ話の中で代替案を提示されなく、もし負傷した男や彼を助けた人が怒りや復讐への渇望に屈していたらどうなっていただろうかとは問いかけておられません。イエスは人間の精神の最善を信頼しておられます。

このたとえ話によって、イエスは、私たちが愛のうちにたゆまず努力し続け、苦しんでいる人たちへの尊厳を取り戻し、その名にふさわしい社会を築くことができるように励ましてくださいます。

 

*物語の登場人物

72.たとえ話は強盗から始まります。イエスは、私たちが犯罪そのものとそれを犯した泥棒のことにこだわらないように、強盗がすでに起こったときに始めることを選ばれました。けれども、私たちはそれらのことをよく知っています。私たちは、権力や利得、分裂といった些細な利益に奉仕する、怠慢と暴力の暗い影が、私たちの世界に降り立っているのを見てきました。

 本当の問いかけは、私たちが負傷した人を見捨てて、暴力を受けないように逃げるのか、それとも泥棒を追いかけるのか、ということです。負傷した人への対応は、私たちの和解のできない分裂、非情な無関心、内紛を正当化するものになってしまうのでしょうか?

 73.  たとえ話は私たちに、通りすがりの人にしっかりと目を向けるよう求めています。悪気があろうとなかろうと、軽蔑あるいは注意散漫によるものであろうと、自分たちを道の反対側に通らせてしまう、びくびくとした無関心は、あの祭司とレビ人のことを、私たち自身と周囲の世界との間に拡大しつつある大きな隔たりを示す悲しむべき姿にして見せます。  

 安全な距離をおいて通り過ぎるためには、その人を避けるように歩いたり、無視したり、苦しみに無関心でいたりするなど、様々なやり方があります。

 あるいは、ただ単に見て見ぬふりをすることもあるでしょう。一部の国やその国の特定の分野で見られるように、です。そこでは、貧しい人たちや彼らの文化が軽蔑されているにもかかわらず、あたかも、外から持ち込まれた開発計画が、彼らを徐々に排除することができるかのように、見て見ぬふりがされます。

これが、自分たちの無関心を正当化するやり方です。貧しい人々は-その必死に助けを求める声は心に触れるかも知れないが-単に、存在しないのだ、と。貧しい人たちは、彼らの関心の視界の外にあるのです。

 74.通り過ぎて行った人たちについての詳しい言及にも、注意を向けましょう。彼らは信心深く、神の崇拝に献身する祭司とレビ人でした。この点を見落としてはなりません。彼らの振る舞いは「神への信仰と崇拝だけでは、神に喜ばれるような生き方を私たちが実際にしている、と保証するには不十分だ」ということを示しています。

自身の信仰に求められていること全てに忠実でないにもかかわらず、「自分は神の近くにおり、他の人よりも優れている」と考える信徒がいます。だが、私たちの兄弟姉妹に心を開く信仰の実践こそ、神に対して真の素直な心を開く保証になるのです。

 聖ヨハネ・クリゾストモは、当時のキリスト教徒の聴衆に挑戦的な姿勢を取った際、このように辛らつな言葉を投げかけました。「救い主の御体を敬いたいですか?御体が裸になった時、軽蔑してはいけません。御体が、戸外で裸で寒さに震えているのに、教会の中で絹の祭服を着て敬ってはなりません」(58)と。逆説的ですが、「自分はキリスト教徒でない」と言う人の方が、キリスト教徒よりも神の御旨をよく実行できることがあります。

 *(「カトリック・あい」注:  聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(347年ごろ-407年)は、シリアのアンティオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、神学やギリシャ哲学も修めた。年少時から修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となり、すばらしい説教で人々を感動させたことから、後世になって「クリゾストモ」(黄金の口)と讃えられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放され、その地で多くの手紙・著作を書いた。)

75.「強盗たち」は通常、「通り過ぎる、または目をそらす」者たちの中に、”秘密の味方”が見つけます。社会を操り欺く人々と、「(自分は)自立した公正な批評家だ」と言いながら、その社会の構造と利益で暮らしを立てている人々の間には、一定の相互作用があります。犯罪の責任を免れ、個人や企業の利益のための制度を悪用し、そして撲滅することが不可能に見える他の悪事が、あらゆるものに対する容赦のない批判、不信と混乱をもたらす絶え間ない”疑惑の種まき”を伴っているところに、「嘆かわしい偽善」が存在します。

  「すべてが壊されている」との不満には、「修理できない」あるいは「私に何ができるというのか」という言葉で答えられています。それは、幻滅と絶望につながり、結束と寛大さの精神を促すことはありません。人々を絶望に陥らせることは、完全に捻じ曲げられた循環を閉ざします。これが、人的物的な資源と思考や意見表明の可能性を共に支配する隠れた利権の”目に見えない独裁権力”の計略なのです。

76.最後に、襲われてけがをした男の人に目を向けましょう。私たちも、彼のように、ひどいけがをし、道端に置き去りにされていることを感じる時があります。また、私たちの組織が、軽視されて必要なものが足りないことで、あるいは単に内外の少数者の利益に奉仕していることで、無力感を覚えることもあります。

 確かに「グローバル化された社会は、しばしば視線を逸らす優雅な方法をとる。政治的な正しさやイデオロギー的な流行を装って、苦しんでいる人々を、触れずに、眺める。彼らのライブ映像をテレビで放映し、婉曲的な言葉を使い、見かけだけの寛大さで、彼らについて語ることさえある」(59)のです。

*新たな出発

 77.私たちには日々、新たな機会、新たな可能性が与えられています。全てのことを、私たちを治める者に期待すべきではありません。子供じみているからです。私たちには、物事の新しい進め方や変化を創造し、実行に移すための共同責任に必要な余地があります。問題を抱えた社会の再生と支援に積極的に参加していきましょう。今日、私たちは、生来の友愛の感覚を表現し、さらなる憎しみや恨みを煽るのではなく、他人の苦難の痛みを担う「善きサマリア人」になる絶好の機会に恵まれています。

   たとえ話の中の、たまたまその場に居合わせた旅人のように、私たちに必要なのは、「倒れた者を助け上げ、歩みを共にし、包み込むために絶え間なく努力する人や共同体になろう」という純粋で、素朴な願望を持つことだけです。私たちはしばしば、暴力的な人、盲目的な野心家、不信と嘘を広める人の心的傾向に屈してしまうかもしれません。政治や経済を自分たちの権力闘争の場と見なし続ける人もいるかもしれません。私たちは、善なるものを育み、奉仕に身を置きましょう。

 78.私たちは底辺から始め、一件づつ、最も具体的かつ地域レベルで行動することができ、その後、あのサマリア人が負傷した男のそれぞれの傷に示したのと同じような世話と関心を持って、私たちの国と世界の最も遠くまで展開することができます。痛みや能力不足を恐れずに、他者を探し出し、ありのままの世界を受け入れましょう。そこに神が人間の心に植え付けられた全ての善が見いだされるからです。圧倒されそうな困難は、成長の機会であって、ただ黙認につながる陰気な諦めの言い訳にはなりません。とは言え、一人の個人としてこのようなことをしないようにしましょう。

   マタイ福音書に登場するサマリア人には、自分の世話をしてくれる宿屋の主人がいました。私たちもまた、「小さな個人の集合体」よりも「強い家族」として団結するように求められています。それは「全体は部分よりも大きいが、また、部分の総和よりも大きい」(60) からです。無用な争いと絶え間ない対立をもたらしている心の狭さと憤りを捨てましょう。自分自身に同情するのをやめ、自分の罪、無関心、嘘を認めましょう。償いと和解が、私たちに新しい命を与え、私たち皆を恐怖から解放してくれるでしょう。

 79.途中で立ち止まったサマリア人は、何のお礼も感謝も期待することなく、その場を離れて行きました。人を助けようとする努力は、彼の人生に、そして神の前で大きな満足感を与え、そうして、義務となりました。自分の民族、そして地球上の全ての民族の傷を負った人々に対する責任が、私たち全員にあります。「善きサマリア人」が見せたのと同じ友愛の精神による気配りと親密さをもって,すべての老若男女が必要としていることに、気を配りましょう。

*境界をもたない隣人 

 80. イエスは、「私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、善きサマリア人のたとえ話をされました。イエスの時代の社会では、「隣人」という言葉は通常、「自分たちに最も近い人たち」を意味していました。助けは、主に「自分の集団や種族に与えられるべきものだ」と考えられていました。

 当時のユダヤ人の一部にとっては、サマリア人が見下され、不潔な者と見なされ、助けられるべき存在ではありませんでした。自らもユダヤ人であるイエスは、そのような認識を完全に改められます。イエスは私たちに、「誰が、私たちの隣人になれるほど親しいか」決めるのではなく、私たち自身がすべての人の隣人になるようにと、求めておられます。

 

81. イエスは、私たちに、「助けを必要としている人たちが、私たちの社会的な集団に属しているかどうか、にかかわらず、その人たちに寄り添うように」と求めておられます。たとえ話のサマリア人は、けがをしたユダ人の隣人となりました。彼は身をもって、けがをした人に近づき、寄り添うことで、すべての文化的、歴史的な境界を渡りました。

イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)という言葉で、たとえ話を締めくくられます。言い換えれば、イエスは私たちに、すべての違いを脇に置いて、苦しみを前にする時には、”問答無用”で他者に寄り添うように、促しておられるのです。私たちはもはや、「私には助けてくれる隣人がいる」と言うべきではなく、「私自身が他人の隣人にならねばならない」と言うべきです。

 

82.  しかし、このたとえ話には悩ましい側面があります。と言うのは、けがをした人はユダ人であり、立ち止まって彼を助けた人はサマリア人だったと、イエスが言われるからです。この点は、すべての人を包み込む愛について私たちが深く思いめぐらすために、とても重要です。サマリア人は異教の儀式が行われていた地域に住んでいました。それが、ユダヤ人にとって、彼らを不潔で、忌まわしく危険な存在にしたのです。実際、あるユダヤの古文書では、ひどく嫌われた国々に言及した箇所で、サマリア人のことを「民ではない者たち」(シラ書50章25節)と語っています。「シェケムに住む愚かな者ども」(50章26節)としてもいます。

83. このことは、あのサマリア人の女性がイエスに「水を飲ませてください」と言われた時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしい、と頼むのですか」(ヨハネ福音書4章9節)と、そっけなく答えた理由、を説明しています。

イエスの信用を落としたい者たちがもたらそうとした最も侮辱的な容疑は、イエスが「悪霊に取りつかれている」と「サマリア人だ」(ヨハネ福音書8章 48節)ということでした。 

それで、この(注:けがをした)サマリア人と(彼に寄り添った)ユダヤ人の間の”慈しみの出会い”は、非常に挑戦的であり、イデオロギー的に操作の余地がなく、未開拓の分野を広げるようにと、私たちに迫ります。それは、すべての偏見、すべての歴史的および文化的な壁、すべてのささいな利益を超越する、普遍的な広がりを、私たちの愛への呼びかけに与えてくれるのです。

 

*助けを求めるよそ者の声 

 84. 最後に、福音書の別の一節で、イエスは、「(あなたがたは、私が)よそ者であったときに、宿を貸し(てくれた)」(マタイ福音書25章35節)と言われていることに注目したいと思います。イエスは、他人の困難に敏感であり、寛大な御心を持っておられるため、その御言葉を話されることができました。

 聖パウロは私たちに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)と促しています。私たちが心を込めてそのように行うと、相手がどこで生まれたのか、どこから来たのかを気にすることなく、彼らに共感することができるのです。その過程で、私たちは、他者のことを「自分の肉親」(イザヤ書58章7節)として体験するようになります。

85. キリスト信者にとって、イエスの御言葉はさらに深い意味を持っています。それは、私たちの見捨てられた、あるいは除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25章40節、45節を参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するように、導いてくれます。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力があります。信者たちは、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るようになるからです(61)。

 同じように、私たちは、キリストが私たち一人ひとりのために御血を流してくださったこと、そして、キリストの普遍的な愛の及ばない者はいないことを信じています。私たちは、三位一体の神の存在そのものである、愛の究極の源に向かうならば、聖三位のペルソナの交わりの中で、社会におけるすべての命の原点と完全な模範に出会うことになります。神学は、この偉大な真理を思いめぐらすことによって、豊かさを増し続けています。

 86.  このことを考えると、「なぜ教会が奴隷制や様々な形の暴力をはっきりと非難するのに、こんなにも長い時間がかかったのだろう」と不思議に思うことが、私にはあります。私たちの霊性と神学が発達した今日では、私たちには言い訳がありません。それでも、様々な偏狭で暴力的な民族主義、外国人嫌悪や軽蔑、さらには自分たちと異なる人たちを虐待するのを支援するように、信仰によって励まされている、あるいは、少なくとも許されている、と感じている人たちがいるようです。

 信仰と、それに鼓舞される人道主義は、これらの傾向に直面しても批判的な感覚を保ち、それらが頭をもたげるたびに、すぐに対応を促さなければなりません。このため、教理教育(カテキ-シス)と説教は、存在の社会的な意味、霊性の友愛的な側面、各人の不可侵の尊厳に対する私たちの信念、そしてすべての兄弟姉妹を愛し、受け入れる我々の理由について、より直接的かつ明確に話すことが重要です。

 

 

 

第3章 開かれた世界を考え生み出す ENVISAGING AND ENGENDERING AN OPEN WORLD

 

87.人間は「心から自分を他者に与えることに於いて」(62)しか生き、発展し、満足することはできないように造られています。また、他者との出会いなしに、自分を十分に知ることもできません。「私は、他者と理解し合うことによってのみ自分自身をきちんと理解することができるのです」(63)。誰も、他者とかかわりを持つことなく、真に愛することなく、人生の本当の美しさを経験することはできません。

これは、真正な人間存在の神秘です。「心の絆、親交、兄弟愛のある所に人生があるのです。そして、それが真の結びつきと忠誠心の絆の上に建てられているとき、生きることは死よりも強いのです。その反対に、自己満足を求め、孤独に生活するなら、生きているとは言えません。こういう態度で生きるなら、死の方が勝ります」(64)。

 

*自分自身から抜け出す 

 88.すべての人の心の底深くに、愛は絆を作り、存在を広げます。愛は人に、自分自身から抜け出させ、他者へと向かわせるからです(65)。私たちは愛のために造られているので、私たち各々の中で、「ekstasisの法則」が働くようです-「愛するものは他者の中でもっと充実した存在になることを求めて自己の“外に出てゆく”のです(66)。そのために「人はいつも自分自身から抜け出すという覚悟を持たねばならないのです」(67)。

89.また、私の人生を小さなグループ、たとえ自分の家族でも、との関係だけに縮小することもできません;私より先に生まれ、私の全人生を形作ってくれた人々を含め、もっと広い人間関係のネットワークから離れて自分自身を知ることは出来ません。私が大切に思う人々との関係では、彼らが私のためだけに生きているのでもなければ、私が彼らのためだけに生きているのでもないという事実に気付かねばなりません。

 私たちの関係は、もし健全で確実なものなら、私たちを広げ、私たちを豊かにしてくれる他者へ向けて開いてくれます。昨今は、あたかも深い関係であるかのような印象を与える自己中心的なチャットによって、私たちの最も気高い社会的本能が簡単にくじかれます。

反対に、本物の、成熟した愛と、真の友情は、他者との関係を通じて成長するよう開かれた心に深く根をおろすのみです。夫婦や友人として、私たちが自分たちの外に足を踏み出し、他者を抱擁するとき、私たちの心は広がるのです。他者を自分たちと区別する閉じたグループや夫婦は、自分本位や単なる自己保存に傾きがちです。

 90.意義深いことに、人里離れた地域に住む多くの小さな共同体は、「人を親切にもてなす」という神聖な義務を果たすために、巡礼者たちを歓迎する、という素晴らしい慣習を作り上げました。聖ベネディクトの宗規にもみられるように、中世の修道院も、同様でした。それは修道院の規律や静寂には邪魔になったはずですが、それにもかかわらず、ベネディクトは「貧しい人たちや巡礼者たちを最大の心遣いで世話するべきだ」(66)と主張しました。

 親切にもてなすことは、自分たちの仲間の外の人々との出会いで、外に心を開こうと行動する挑戦であり、贈り物です。修道士たちは、外に喜んで目を向け、他者に心を開いていくことが必要だ、とはっきり理解していました。

 

*ユニークな愛の価値 

 91.人々は、不屈の精神やまじめさ、勤勉、などのような道徳的に価値があるように思える習慣を身に着けていくことができます。しかし、様々な道徳的価値のある行為を目指すなら、他者に向けどれだけ心を開き一致していけるかも考える必要があります。それは、神が注がれる慈愛によって可能になるのです。

 慈愛なくしては、おそらく美徳に見得るものをもっているだけで、それでは人生全般を支えることはできません。それ故、聖トマス・アクイナス(注:1225年頃 – 1274年3月=中世ヨーロッパイタリア神学者哲学者ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者)は、その言葉を引用するなら、「欲深い人の節制は決して有徳ではない」(69)と言い得たのです。一方、聖ボナヴェントゥラ(注:1221頃-1274=トマス・アクィナスと並び称されるフランシスコ会学派の二大神学者の一人)は、慈愛がないなら、ほかのどんな徳も、厳密に言って、「神が彼らに望むように」(70)という掟を満たしていない、と言っています。

 92.人の一生の霊的価値は、愛によって測られます。愛が、最終的に「その人生に価値があったか、欠けていたか、の決定的基準」(71)となるのです。しかし、それは自分たちのイデオロギーをほかの人たちに押し付けることにあるとか、激しく真実を防御することにあるとか、印象的に力を証明することにあると考える信者たちもいます。信者として、私たちすべてが、まず愛が一番大切であることを認識する必要があるのです。決して愛が危険にさらされてはならず、最大の危険は、愛がないことにあるのです。(コリントの信徒への手紙1・13章1~13節参照)

93.トマス・アクイナスは、おそらく神の恩恵によってつくられた他者のために外へ向かう愛を述べようとしました。その愛によって私たちは「何かで私たち自身と結ばれた愛しい人たち」(72)のことを考えます。私たちは他者への愛情から、自然に彼らに良かれと求めます。

 これはすべて、他者への好意や、彼らの価値を認識することから発しています。これは突き詰めれば「慈愛」という言葉の裏にある考え方です。すなわち、愛される人々は私にとって「いとしい人」、または「大きな価値のあると思われる人々」(73)なのです。そして、「幸せにしてもらえる愛があるために、無償で何かを与える」(74)のです。

94.それなら、愛とはただの一連の慈悲深い行為以上のものになります。これらの好意は他者を身体的、または道徳的外観とは別に、価値あるもの、魅力的で美しいものと考えてますます他者へと向かう結びつきから出たものです。他者への愛は、それがだれであれ、私たちに彼らの最良の人生を求めさせます。お互いに関係を持つこのやり方を育てることによってのみ、誰をも排除しない社会的友情、すべての人に開かれた友愛を可能にすることができるのです。

 

*ますます開かれた愛 

 95.愛は私たちを、普遍的な交わりへと向かわせます。誰も他者から離れて成熟し、達成感を得ることは出来ません。愛はもともと、より大きく開かれた心と、周囲すべてをより大きな意味で共通の財産と思わせる予期せぬ経験の連続として他者をうけいれる能力を求めるのです。イエスが言っています-「あなたたちはみな兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)と。

96.このためには、異なる地域や国に対して私たち自身が持っている境界を超えることが必要です。実に、今日の世界の、ますます広がる交流や情報伝達は、私たちに国家間の共通の結束と共通の運命を強く意識させます。歴史の流れや民族のグループ,社会や文化の中に、私たちはお互いに受け入れ、気遣う兄弟姉妹からなる共同体をつくるという召命の種を見るのです。

 

*すべての人を融和させる開かれた社会

 97.町の中心部であれ、家族間であれ、私たちに閉ざされた周辺があります。それゆえ、普遍的に開かれた愛には地理的よりむしろ存在にかかわる側面があるのです。私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。私が住んでいる社会に見捨てられたり、無視されたりしている兄弟姉妹は、同じ国に生まれているにもかかわらず、実際にはそこに存在する外国人(よそ者)なのです。彼らは立派に権利を持つ市民でありながら、自分の国で外国人のように扱われているのです。人種差別は素早く突然変異するウイルスです。消えるのではなく、隠れ、潜伏するのです。

98.私は社会の中でやはり異質のものとして扱われている「精神的追放」をされている人々のことを述べたいと思います(76)。障害のある多くの人たちが、「社会の一員として、社会に参加することなく存在していると感じています」。そればかりか、完全な自由権を妨げられています。

私たちは、彼らを、世話することだけでなく、民間または教会の共同体に活動的に参加できるようにすることに関心を持つべきです。それは、時間のかかる、骨の折れる作業ですが、一人一人の人間を類のないかけがえのないもの、と認めることのできる心を育てることにだんだんと貢献していきます。

 私は、また「障害があるゆえに、時に重荷と考えられている高齢者」のことも考えます。しかし、高齢者はそれぞれ、「彼らの素晴らしい人生の経験を通して皆のために独特の貢献」ができるのです。もう一度繰り返します。私たちは、「悲しいことに、いくつかの国では、今日でさえ、障害のある人たちを『同じ尊厳を持つ人々だ』と認めることがなかなかできないでいる。だからこそ、障害の故に差別されている人々に発言できる機会を与える勇気」(77)を持つことが必要です。

*普遍的愛の不十分な理解 

 99.教会を超えることのできる愛は、あらゆる都市や国で「社会的友情」と呼ぶことのできるものの基礎となります。社会の中での本物の社会的友情は、真の普遍的な心の広さを可能にします。これは、「自分自身の国の人々を我慢できないとか、愛せないために、絶えず海外に出掛ける人々」の誤った普遍主義とは、まったく違うものです。

 自分自身の国民を見下す人々は、社会の中に、「ファーストクラス」と「セカンドクラス」、あるいは「重要な人」と「劣る人」、「大きな権利をもつ人」と「そうでない人」とという区別を作りがちです。こんな風に、彼らはすべての人のために場所があることを否定するのです。

100.私は決して、少数のグループによって立案または計画され、人を平準化したり支配したりするための理想として提示された権威主義的、あるいは抽象的な普遍主義を提案しているのではありません。

 実際に、ある”グローバル化”のモデルでは、「意識的に皮相的な均一性を目指し、表面的な画一性を求めるあまり、すべての違いや伝統を無くそうとします。もし、ある種の”グローバル化”が、すべての人を同じにし、すべての人を均一化しようと求めるなら、そのグローバル化は、各人、各国民の豊かな才能とユニークさを破壊することになります」(78)。

 このような誤った普遍性は、世の中から様々な色合い、その美しさ、最後にはその人間性まで奪ってしまうことになりかねません。しかし、未来は“モノクローム”ではありません。もし私たちに勇気があるなら、各個人が提供するはずのあらゆる多様性や相違点を考えに入れて、未来を描くことができるのです。私たちのすべてが同じでなくても、調和して平和に共に生きるために、私たち人類家族は多くを学ばねばならないでしょう。

*「仲間」の世界を超えて

 101.善きサマリア人のたとえ話に戻りましょう。それは、今でも私たちに言えることがたくさんあるからです。道端に怪我をした人が倒れています。通りかかる人たちは、隣人として行動せよ、という心の内なる命令に注意を払いませんでした。社会の中で、自分たちの仕事、社会的地位や職業的立場が大事だったのです。当時の社会で、自分たちを重要だと思っていて、自分たちに相応の役割を果たしたい、と切に思っていました。

 道端に怪我をして見捨てられた人は、そのすべてを邪魔する迷惑な存在でしかありませんでした。いずれにしても、大切な存在ではありませんでした。平凡な、取るに足らない人で、自分たちの将来に、無関係の人でした。

よきサマリア人は、このような狭量な人々を超えていました。彼らのどの範疇にも当てはまりませんでした。社会では居場所のない異国人にすぎません。名も地位もなく、旅を中断しても特に支障はなく、予定を変更して、助けを求めている傷ついた人を、前もっての用意もなく助けたのです。

102.他の人から自分たちを引き離すアイデンティティにしがみつく社会集団が絶え間なく現れ、成長する今日の世界では、この同じ物語が起きたら、そうした人々はどのように反応するでしょうか。彼らのアイデンティティや、閉ざされた自分だけに関係した組織を脅かされない異質の人たちを防ごう、と団結する人々の行動に、どう影響するでしょうか。

 隣人として行動する、という可能性は除外したとしても、彼らの目的にかなった人たちにだけ、隣人なのです。そこでは「隣人」という言葉がすべての意味を失います。ある利益を遂行するパートナーである「仲間」という言葉でしかなくなります。

*自由、平等、友愛 

 103.「友愛」という言葉は、個人の自由を尊重する社会的風土だけでなく、行政的にも保障された平等の風土の中で生まれます。友愛は、必然的に、何かもっと偉大なもの、自由と平等を高めるようなものを求めます。友愛が意識的に育成されなかったら、教育を通じて、対話を通じ、また相互作用や互いに豊かにし合うことの価値を認識することを通じて、友愛を奨励しよう、とする政治的意思が欠けていたら、一体何が起こるでしょう。

 「自由」とは、私たちが誰と何に属するかを、全く自由に選べ、また単に全く自由に所有したり、利用したりして生活する状況、というだけのことになってしまいます。このような浅い理解は、とりわけ愛へと導く自由の豊かさとは無縁のものです。

 

* 愛はいつも開かれている   

 104.また平等は、「男も女も含めすべての人間は平等である」というような、観念的な宣言によって達成されるものでもありません。それは、友愛を意識的に、注意深く育んだ結果なのです。「仲間」だけしかつくれない人々は閉ざされた世界を作ります。そのような枠組みの中で、仲間のグループには入れないが、それでも自分自身や家族のためにより良い生活を求める人々に居場所はあるのでしょうか。

105. 個人主義は、私たちをもっと自由に、もっと平等に、もっと友愛に満ちたものにしてはくれません。個人的な利益を集めただけでは、人類という家族全体のためにより良い世界を生み出すことはできません。また、今ますますグローバル化している多くの病気から私たちを救うこともできません。

 過激な個人主義は、取り除くのが非常に難しいウイルスです。それは賢いからです。それは、私たちに、あたかもますます膨らむ野望を追いかけ、何とか共有の利益に役立つ安全網を作り上げることによって、すべて自分自身の野望のまま、やりたいようにできることにある、と信じ込ませるからです。

 

*人を高める普遍の愛 

 106.いつでも、どこでも、社会的な友情と普遍的な友愛は、必ず一人一人の人間の価値を認めることを求めます。各個人が皆、大きな価値があるのですから「資源に乏しく、発展していない場所に生まれたという事実だけで、その人たちが、尊厳を欠いた生活をしている、という現実を正当化することにはならない」(81)ことは、明確に、断固として述べられねばなりません。これは、彼らの世界観に合わないとか、彼らの目的に貢献しない、と感じる人々によって、色々なやり方で無視されがちな社会生活の基本的な原則なのです。

 107.すべての人間は、尊厳をもって、完全に発展する権利を持っています。いかなる国も、この基本的な権利を否定することはできません。たとえ非生産的に生まれても、欠陥を持って生まれても、人にはこの権利があります。これは、彼らの人間としての偉大な尊厳を減ずることにはなりません。それは、境遇を基にした尊厳ではなく、彼らの存在に本来、備わっている尊厳です。もしこの基本的な原則が擁護されないなら、友愛にも人間性の存続にも、未来はないでしょう。

 108.この原則をある程度受け入れている社会もあります。機会はすべての人に与えられるべきだ、ということに同意しています。そして、すべては個人次第だ、というのです。このゆがんだ大局観からは、「遅い人々、弱い人々、才能に恵まれない人々が、人生の機会を見つけるのを助ける努力に投資するのを支持するのは、無意味に思えることでしょう」(82)。弱者を援助することに投資しても利益がないだろうとか、物事の能率を悪くするだろう,と思うのです。

 実際、私たちに必要なのは、現存し、活動的な国家や民間組織で、ある種の経済的、政治的イデオロギー的組織の自由で効率的な働きを超えたその先を見て、まず第一に、個人と共通善に関心をもつ国家や民間組織なのです。

109.経済的に安定した家庭に生まれ、立派な教育を受け、よく成長し、また、天性の素晴らしい才能を持っている人々もいます。彼らには確かに積極的な取り組みをする国家は必要ないでしょう。彼らは自由を求めるだけで事足ります。

 しかし、障害のある人や、悲惨な貧困の中に生まれた人や、良い教育を受けられず、十分な健康管理を受ける手段を持たない人に、同じルールは明らかに当てはまりません。もし社会が主として市場の自由と効率の良さの基準で統治されているなら、そのような人々の居場所はなく、友愛はただのうつろな理想のままになるでしょう。

 110 実際、「現実の状況のせいで、多くの人の手に届かず、雇用の可能性も減少している状況で経済的自由を要求することは意味がありません」(83)。自由や民主主義や友愛などという言葉は、意味のないものとなる。それは、「私たちの経済的社会的システムが、もはや一人の犠牲者も生み出さず、一人も置き去りにしない時に初めて、私たちは普遍的友愛の宴を祝うことができるようになるからなのです」(84)。

  本当に人間的で友愛に満ちた社会では、その構成員の誰もが、人生のあらゆる段階で、効率的かつ安定した方法で寄り添い助けてもらえるのです。必要最低限のものを与えるだけでなく、うまくできなくとも、ペースが遅くとも、効率よくできなくても、彼らが最大の力を発揮できるように助けるのです。

 111.人には、奪うことのできない権利があり、生まれつき関係を持つように開かれているのです。私たちのうちに深く植え付けられているは、他者との出会いを通して自分自身を超えよ、という呼びかけです。その理由で、「人権という概念と、その誤った使い方に注意しなければなりません。今日、もっと広い意味での個人的-私は個人主義的と言いたくなりますが-な権利を要求する傾向があります。その根本には、一段と他者と関わりを持たない個体であるかのような『すべての社会的、人類学的文脈人から切り離された人間関係』という概念が潜んでいます。…もし、各個人の権利がより大きな善のために調和するよう命じられないなら、これらの権利は最終的には際限がなくなり、絶えず闘争や暴力の源となるでしょう」(85)。

*道徳的善を促進する

 112. 他者の利益と人類家族全体の利益を求め追及することは、総合的な人間の発展を助長する道徳的な価値を個人や社会が成熟させるのを助けることを意味する、ということも述べたいと思います。新約聖書は、霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)のことをギリシャ語でagathosyneと表現しています。それは「善を愛し,善を追い求める」ことを意味します。更に、それは、他者の美点と他者のため最上のものを目指して努力することを示唆しています。

  彼らの成熟度や健康が増すこと、彼らの価値を高めることで、単に物質的な幸福だけではありません。同様の表現がラテン語にもあります。Venevolentiaです。これは、他者の「幸福を願う」態度のことです。これは、善へのあこがれと、素晴らしく、卓越したものへの傾倒、他者の人生を美しく、崇高で、啓発的なもので満たしたい、という願望を示します。

 113.しかし、残念なことに、ここで、私は「私たちが十分に不道徳で、倫理、善、信仰、正直さを軽視してきたことも、繰り返し言わねばならない、と感じます。軽率な気持ち、皮相的なものは私たちのためになっていない、ということを認める時です。一度、社会生活の基礎がむしばまれたら、起こることは利害の対立をめぐっての闘いです」(86)。

 私たち自身と、全人類家族のために善の促進に立ち返りましょう。そして、このようにして本物の総合的な成長に向かって進みましょう。すべての社会は、確実に価値観が伝えられることを必要としています。さもないと、子供たちに伝わるものは、利己主義と、暴力と、いろいろな形の堕落、無関心、そして、最後には閉ざされた、超越のない生活、個人の利益に凝り固まった生活だけです。

*連帯の価値 

 114.私は、特に「連帯」について述べたいと思います。それはこのようなことです。

 「個人的回心から生まれた倫理的美徳と社会的態度として、教育や育成に責任のある人々に、献身的に関わることを求める。私はまず、家庭を考えるー家庭は、教育について最も重要な任務を負っている。家庭は、愛や兄弟姉妹の愛、連帯感と分かち合い、他者を思いやり、気遣うことの価値観を持って生涯を生き抜き、次の世代に伝えられる最初の場所である。家庭は、また、母親が子供たちに教える最初の簡単な信仰を表す身振りから始まり、信仰を伝える最高の場所だ。

 そして教師たち-子供たちや若者たちを学校やその他の場所で教えるという、やりがいのある仕事を持つ人たち-は、自分たちの彼らへの責任が人生の道徳的、精神的、社会的な側面にまで及ぶ、と意識する必要がある。自由や互いに敬意を払うことや、連帯の価値は、幼い頃から伝えることができる…。情報伝達に携わる人たちにも教育と人間形成に責任がある。特に、情報と伝達の手段がこれほど幅広く普及した今日においては」(87)。

115.すべてが、ばらばらで、一貫性を無くしているように見える時には、「連帯」(88)に訴えることが有効です。それは、私たちが共通の未来を作り上げて行く努力の中で、他の人々の弱さに責任がある、という意識から生まれたもの。連帯には、奉仕するための具体的な表現方法があり、他の人々を大切にしようと努める中で、あらゆる形をとることが可能です。

 そして、奉仕は主として「弱さへのいたわり、私たちの家庭、社会、そして国民の中の弱い仲間を守る」ことを意味します。そのような奉仕を提供することで、人は学ぶのです。「最も弱い人々が実際に見つめる瞳の前では、自分の願いや願望、自分の権力の追及などをわきに置くことを。…奉仕するときはいつも彼らの顔を見て、彼らの体に触れ、彼らとの近さを感じ、時にはその近さに『苦しみ』さえして、彼らを助けようとするのです。奉仕は決して観念的なものではない。なぜなら、私たちは”観念”に奉仕するのではなく、”人々”に奉仕するから」(89)です。

 116.貧しい人々は、一般的に貧困者同士の間で、特別に連帯しています。そして、私たちの文明は、それを忘れているように見え、実際、忘れていたいのです。

 「連帯」は「いつも良く思われるとは限らない言葉だ。ある状況では、それは禁句で、あえて言わない言葉となっている。『連帯』とは、散発的に寛大な行為に従事する以上のことを意味します。それは、地域共同体の点から考え、行動することを意味する。それは、すべての人の生活が、少数の人々が富を占有することよりも大切だ、ということを意味する」「それはまた、貧困、不平等、仕事や土地や住まいの不足、社会的な労働の権利の否定などの原因となる構造、と闘うことを意味する。それは、お金の帝国の破壊的な影響と対決すること意味する…  連帯とは、その最も深い意味で理解するなら、歴史を作る方法で、これが、今の人々のしている運動の在り方」(90)なのです。

117.私たちの共通の家である地球を守る必要について話すとき、私たちは、まだ人々の心の中にあるかもしれない普遍的な意識と、相互の関心のひらめきに訴えます。豊富な水を謳歌し、より大きな人類家族のために大切に使うことを選ぶ人たちは、自分たちや自分たちの属する集団を超越してものを見ることのできる、道徳的な高さに達しています。

 人間は何と素晴らしいのでしょう!私たちがすべての人たちの権利、自分自身の境界を超えて生まれた人々の権利を認めることができるかどうか、同じ態度が求められているのです。

 

*財産の社会的役割を改めて考える 

 118.世界は、すべての人のために存在します。それは、私たちすべてが、同じ尊厳をもって生まれたからです。肌の色、宗教、才能、生まれた場所、住んでいる場所、その他、色々な違いを、ある者たちだけが特権を持つことを正当化するために、使うことはできません。共同体として、私たちには、すべての人が尊厳をもって、完全に発展するための十分な機会を持つことを、保証する義務があるのです。

 119.キリスト教の初期の時代に、多くの思想家たちが、創造物の共通の目的についての考察で、普遍的な見方を発展させました(91)。尊厳をもって生きるのに必要なもの欠く人が一人でもいたら、それは、他の人がそれを奪っているからだ、と悟らせました。

 聖ヨハネス・クリュソストモス(注:347年に シリアのアンティオキア生まれた。カトリック教会の他、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されている)は、それを、このように要約しています-「私たちの富を貧しい人々に分け与えないことは、彼らから強奪し、彼らの生計を奪うことです。私たちが所有する富は、私たち自身のものではなく、彼らのものでもあるのです(92)。また、大聖グレゴリウス(注: 540?生まれの教皇グレゴリウス1世のこと。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人)は、こう言っています-「貧しい人々に最低必要限のものを与える時、私たちは、私たちのものでなく、もともと彼らのものを与えているのだ」(93)と。

120.もう一度、聖ヨハネ・パウロ2世が語られたことを繰り返したいと思います-彼の力強さは、おそらく十分に認識されていません-「神は、地球に、全人類のため、生きるために必要なものを与えられた。誰一人除外することなく、誰一人特別扱いすることなく」(94)。

 私としては、こう言いたいと思います。「キリスト教の伝統は、財産を絶対的で、不可侵のものとして所有することを、決して認めていません。そして、あらゆる形の私的財産の社会的目的を強調している」(95)と。創造物を共有して使う原則は「すべての倫理的、社会的順序の中で、一番の原則です」(96)。それは、他の何より優先される生来の本来備わった権利なのです(97)。

 人が目的を完全に満たすために必要な、すべての他の権利は、私的財産や他の種類の財産を含め、聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「決してこの権利を妨げてはならず、その実行を積極的に促進するものでなければならない」(98)のです。私的財産の権利は、創造物の普遍的な目的の原則からすると、二次的な生来の権利でしかありません。これは、社会の働きの中でよく考えられねばならない明確な重要性をもつものです。それでも、二次的な権利が第一の、最優先の権利にとって代わり、まったく見当違いのことが行われることがよくあります。

*境界を持たない権利 

 121.ですから、出生地ゆえに、まして、より大きな機会に恵まれた土地に生まれた人たちが享受する特権ゆえに、誰もが排除されたままでいることはできません。個々の国の制限や境界が、妨げてはなりません。女性だという理由で、権利が(注:男性より)少ないことを容認できないように、単に出生地や居住地のせいで、発展した堂々たる人生の機会が減ってしまうことも、受け入れがたいことです。

122.発展は、少数の人が富を蓄積するように意図されてはなりません。「人権-個人的そして社会的に、経済的そして政治的に、国家や人々の権利を含めた人権」(99)を保障するものでなくてはなりません。自由企業や市場の自由への誰かの権利は、人々の権利、貧しい人々の尊厳に取って代わることはできない、さらに言えば、自然環境への敬意に取って代わることはできません。「もし私たちが何かを自分のものとするなら、すべての人の利益のためにそれを管理するためだけ、なのです」(100)。

 123.経済活動は、本質的に「富を生み、私たちの世界をより良くするための、気高い使命」(101)です。神は、私たちに与えられた才能を伸ばすように仕向けられ、私たちの世界を、計り知れないほど可能性のあるもの、とされました。神の計画では、それぞれの人に自己開発を促進することを求め(102)、これには、商品を何倍にもし、富を増やす最良の経済的、技術的な手段を見つけることも含まれています。

 神から与えられた経済活動の能力は、いつでも、明確に他の人々の発展に向けられ、特に、さまざまな就業の機会を産み出すことを通して、貧困を無くすことに向けられるべきです。私的財産の権利には、「すべての私的財産は地球の財の世界的な最終目的に従う」という第一の優先原則が、常に伴うのです。そして、このようにして、すべて人の権利は、その使用に帰するのです(103)。

 

*諸国民の権利 

 124.今日では、地球の財の共通の目的への確固たる信念は、この原則が国家、領土、資源にも適用されることを求めています。私的財産や市民権の正当性だけでなく、「財の共通の目的」という第一の原則に立てば、それぞれの国も、自国の領土の財を「他から来た貧しい人々に使わせない」と言ってはならない、といえます。

 米国の司教たちが教えているように「神によって造られたそれぞれの人に認められた尊厳から流れ出てくるがゆえに、どのような社会にも優先する基本的な権利」(104)があるのです。

125.これは、国家間の関係や交流を違った方法で理解することを前提としています。仮に、すべての人間が奪うことのできない尊厳を持っているなら、仮に、すべての人々が私の兄弟姉妹であるなら、そして、仮に、世界が本当にすべての人のものであるなら、私の隣人が私の国で生まれていようが、他の地で生まれていようが、どうでもよいことです。私自身の国が、その人の発展の責任を負っているのです。

 どのように責任を果たせるか、色々方法がありますが、緊急に助けを求めている人々を寛大に受け入れることもできるし、国民の尊厳ある発展を妨げている腐敗した組織を助けることや搾取するのを拒絶したり、天然資源が奪われることを拒絶したりすることで、自分が生まれた国の生活環境改善のために働くこともできます。

 国に当てはまることは、国内の地域にも当てはまります。そこに、とても大きな不平等がしばしば存在しているからです。人間の対等な尊厳を認めることができないと、国内の発展した地域は、貧しい地域という「重荷」を捨てて、自分たちの消費水準を高めようと考える時もあります。

126.私たちは、国際関係の新しいネットワークについて、実際に話しているのです。仮に、私たちが、個人間や小さなクループ間での相互援助の観点からしか考え続けられないなら、世界の重大な問題を解決することは、決してできないからです。また、私たちは「不公平が、個人だけでなく国家全体に影響することを忘れるべきではない。それは、私たちに国際関係の倫理について考えさる」(105)。実際のところ、正義は、個人の権利だけでなく、社会的権利や国民の権利も認め、尊重することを求めます(106)。

 これは、「国民の生存と進歩、という基本的権利」(107)-対外債務で生み出される圧力によって、時として厳しく制限されることのある権利です。多くの場合、債務返済の負担は、経済的発展の促進を不可能にするだけでなく、重大な制限や条件付けをします。

 「すべての合法的な公的な借金は、返還されなければならない」という原則を尊重することは必要ですが、多くの貧しい国々が、返済義務を果たすために、生存や成長を危うくすることになってはなりません。

 127.確かに、このことすべてのためには、別の考え方をすることが必要です。その努力なしにはー私の言うことは、はなはだしく非現実的に思われるでしょうが。一方で、私たちには、奪うことのできない人間の尊厳から生まれた権利がある-という大原則を受け入れるなら、新しい人間性を求める挑戦に立ち上がることができるのです。

 私たちは、すべての人に土地と住居と仕事を与えることを、世界に求めることができます。これは、外部の脅威に直面しての『恐怖と不信の種をまく、無分別で近視眼的な戦略』ではなく、真の平和への道です。真に永続的な平和は「人類家族全体の独立と、責任の分担で実現する、『未来に貢献する連帯と協力のグローバルな倫理』を基礎として初めて可能」(108)なのです。

 

第4章  世界に開かれた心  A HEART OPEN TO THE WORLD

 128. もしすべての人々が兄弟姉妹であるという確信が、抽象的な考えに留まるのではなく、具体的なものとして見いだせるならば、多くの関連する諸問題が明らかになり、私たちは新しい光で、新たな対応を展開できるようになるでしょう。

 

*国境とその限界 

 129. たまたま隣人が移民であると、複雑な問題が発生します(109)。理想としては不必要な移住は避けるべきです。そのためには、母国での尊厳のある生活と総合的な発展を必要とする環境の創出が必然的に求められます。しかし、この目的の達成という実体的な発展を遂げるまで、移民やその家族が基本的なニーズにかなう場所を見つけ、すべての個人が充足感を得られるように、すべての個人の権利を尊重する義務が私たちにあります。

 移民が到着した時の私たちの反応は、歓迎、保護、支援、統合の四つの言葉に要約することができます。なぜならば、「これはトップダウン形式の福祉プログラムを実施するケースではなく、むしろこれらの四つの行動を通して都市や国を構築するための旅を一緒に始めるというケースだからです。旅の目的は、相互の文化と宗教上のアイデンティティを維持しつつ、相違に心を開き、人間の兄弟愛という精神から、いかにして移住者を支援するかを知っている都市や国を構築することです」(110)。

130. このために幾つかの必要不可欠なステップを踏む必要があります。特に深刻な人道的危機に瀕している人々への対応です。

 次のような例を挙げることができます。ビザ申請の簡素化と許可数の増加、個人あるいはコミュニティ支援プログラムの採用、最も弱い立場にある難民に対する人道回廊を開くこと、適切で尊厳の維持できる住居の提供、個人の身の安全の保障と基本的なサービスを受けられること、十分な領事館の支援と個人の身分証明の書類を保有できる権利の保障、公正な司法制度へのアクセス、銀行口座の開設と最低限の生活保障、移動の自由と就業、未成年者の保護と通常の教育が受けられること、一時的な身元引受人(後見人)やシェルタープログラムの提供、宗教の自由の保障、社会への適合の促進、家族再会の支援、統合プロセスに役立つ地域コミュニティの準備です(111)。

131. 最近移住したのではなく、すでにすでに社会に組み込まれている移民にとって、「市民権」という概念の適用は重要です。なぜなら市民権は「すべての人々が公平を享受する元となっている、権利と義務の同等性に基づいているからです。故に、私たちの社会で『完全な市民権』の概念を明確にして、孤立感と劣等感を生む『マイノリティ』という差別用語の使用を拒否することが重要になります。差別用語の使用は敵意と不和への道となるからです。それはいかなる成功をも台無しにし、差別待遇をされている市民の宗教の権利と市民権を奪い取るものです」(112)。

132. たとえ人々がこのような重要なステップを踏んだときでさえ、国家は十分な解決策を彼らだけで実行することはできません。「なぜなら、それぞれの国家が決めた結論は、すべての国際的なコミュニティに影響を及ぼすことが不可避だからです」。結果として、「私たちの対応は」移民の移住に関してグローバルなガバナンスという形態を発展させるための「共同の努力の結実でしかないのです」(113)。このように「緊急的対応に限定されない、中期と長期にわたる計画が必要」です。

 このような計画は、受け入れ国で移民が社会に適合するために有効な支援を含まなければなりません。しかし、同様に両国の連帯によって生まれた政策を用いて彼らの祖国の発展を促進させる有効な支援も含まれるべきです。しかし、そのとき、支援される人々(移民)の文化とかけ離れた、あるいは反対のイデオロギー的な政策や慣習に支援を関連づけるべきではありません」(114)。

 

*互いに与え合う贈り物

 133. 生活様式や文化の異なる所から来た移民の到来は贈り物になり得ます。なぜなら「移住者のストーリーは常に個人間、文化間の出会いのストーリーでもあるからです。移住先のコミュニティや社会にとって、移住者はあらゆるものの豊かさと総合的な人間成長のチャンスをもたらします」(115)。

 このために、私は特に若者に、強く促したいと思います。「自分たちの国に新しくやってきた若者に反対するよう煽るだけでなく、彼らを脅威と見なし『我々と同じ尊厳を持っていない』と見なすように誘う人たちの、術中に陥らないように」(116)と。

134. 実際に、私たちが自分とは異なる人々に心を開くと、彼らは自分自身を保ちつつも新しい方法で成長することができます。何世紀にも渡って繁栄してきた異文化は, 私たちの世界が貧弱にならないように保存されるべきです。同時に、それらの異文化が他者の持つ現実と出会い、新しい体験に触れることも勧められるべきです。なぜなら、文化面での硬化症に陥るリスクが常に存在するのです。

 そのリスクに陥らないために、「私たちは互いに連絡をとり、一人ひとりが持つ贈り物を発見し、私たちを結びつけているものを強め、尊敬し合いながら成長するチャンスとして、私たちの相違を見なす必要があります。対話では忍耐と信頼が求められます。忍耐と信頼は、彼ら自身の文化の価値を伝えつつ、他からの与えられる良い体験を喜んで受け入れるために、個人、家族、コミュニティを容認することを可能にします」(117)。

135. 私がこれまでに取り上げた幾つかの例について述べたいと思います。ラテンアメリカ人の文化は「アメリカを非常に豊にすることのできる価値と可能性を発酵させる種」です。なぜなら、「奮闘する移民は移住先の文化に影響を与え、変革させるからです。アルゼンチンでは奮闘するイタリアからの移民が社会の文化に痕跡を残し、およそ20万人のユダヤ人の存在はブエノスアイレスの文化の『形』に大きな影響を与えました。移民は社会に統合するように支援されるなら、神からの恵みとなり、社会を成長に導く豊かさの源であり、新しい贈り物となるのです」(118)。

 136. さらにもっと広範囲に及ぶスケールで、グランドイマームのアハメド・エルタエブ師と私は次のように確認しました。

 「東西間の良い関係は議論の余地もなく双方に必要であり、互いに無視してはいけません。実りをもたらすやりとりと対話を通して東西が互いに豊かになるからです。西側の人々は、蔓延る物質主義が原因となっている精神的および宗教的な病弊に対する治療法を東側の人々のなかに見いだすことができます。また、東側の人々は、弱さ、分断、争い、そして科学的、技術的、文化的な衰退から抜け出る助けとなる様々な要素を西側に見いだすことができます」。

 「東側の人々の特徴、文化、文明を形成する重要な構成要素である、宗教的、文化的、歴史的な相違点に注目することは重要です。同様に東西のすべての男女に対して尊厳ある生活を保障する手助けとなる基本的人権の保障を強固にすることも大切です。そのとき、ダブルスタンダードによる政治判断は避けなければなりません」(119)。

*実り多い交流 

 137. 国家間の相互支援が、双方に豊かさをもたらすことが証明されています。自分たちに固有の文化的土台にしっかりと根ざして前進する国は、全人類にとっての宝です。今日、私たち皆が助かるか、あるいは誰も助からないか、のどちらかである、という自覚を高める必要があります。

 地球の一部に存在する貧困、衰退、苦しみは、やがて全世界に悪影響を及ぼすことになる諸問題に対して、無言の血を流す根拠となっています。たとえ私たちがある特定の種類のものが消滅し、そのことで悩むにしても、貧しさや構造的な限界によって個人や人々の持つ可能性や美しさの発展が奪われる地域が世界に幾つかあるということで、もっと悩むでしょう。最終的に、そのようにして私たち皆が貧しくなってしまうのです。

138. このことはこれまでも常に事実でしたが、世界がグローバル化されて相互に関わり合っている今日ほど明白になったことは決してありませんでした。私たちは「連帯しつつすべての人々が発展するように国際的な協力を強め、目指すことのできる」グローバルな司法的、政治的、経済的な秩序を達成する必要があります」(120)。最終的に相互支援(国際協力)は、全世界の利益になるでしょう。なぜなら「貧しい国への発展支援」は「すべての人々に豊かさをもたらすこと」を意味するからです(121)。

 総合的発展という見地から、相互支援は、「より貧しい国民に、双方の意思決定に基づいた有効な声を届け」(122)、「貧困と開発途上という苦しみを抱える国々に、国際的なマーケットへのアクセスを容易にする」資格(地位)を「与えることが前提となります」(123)。

*無償で他者に開放する 

 139. たとえそうであっても、私はこのような提示を功利的なアプローチに限定したくはありません。すなわち、常に「無償」の要素があります。個人的な利得や報酬を気にせずに、それ自体が良いという理由だけで、何かを実行できることです。たとえ即座に目に見える利点がもたらされなくても、無償の行為は見知らぬ人を歓迎できるように導きます。科学者や投資家のみであれば、受け入れたい、と思っている国々もありますが。

140. 兄弟的な無償の行為がない生活は、猛烈なビジネスの形をとり、絶えず、何を与えて、何を貰うかを計算します。一方、神は不忠実な人々さえ無償で助けるほどです。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせます」(マタイ福音書5章45節)。イエスが私たちに語られたことに理由があります。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(同6章3-4節)。私たちは無償で命を受け取りました。そのために1円たりとも払っていません。従って、私たちは誰でも何も返礼を期待せずに、良く待遇してくれることを要求せずに、他者に親切にすることができるのです。イエスが弟子に告げられたように、です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(同10章8節)。

141. 世界の国々がそれぞれ異なることの真の価値は、ただ単に一つの国としてだけではなく、より大きな人間家族の一部として考える、という能力によって計ることができます。特に危機にあるときはこのことがよく分かります。ナショナリズム(国家主義・民族主義)という狭義の形は、この無償の意味を把握できていない極端な表われです。ナショナリズムは、他者の破滅を無視して自分たちだけで発展できる、また、他者にドアを閉めることで、自分たちがより安全である、と考える過ちを犯します。

 移民たちは何も与えるものを持たない強奪者とみなされます。この考えは、貧しい人々は危険で役に立たない、一方、権力のある人々は寛大な恩恵を施す人々、という最も単純な信念に導きます。「無償で」他者を快く歓迎する、という社会的、政治的な文化のみが、未来を手に入れることができるでしょう。

*地域と普遍 

142. 私たちが頭に入れておくべきことは、次のことですー「『グローバル化』と『ローカル(地域)化』の間には、本質的な緊張が存在する。狭量で陳腐な考えを避けるために『グローバル』に注意を払う必要があるが、『ローカル』にも目を向ける必要があるーそうすることが、私たちの足を地に着いたものにするからだ。この二つが、人々は抽象的な概念、『グローバル化された世界』に巻き込まれる、あるいは、世界と離れ、目新しいものに挑まれることも、神が境界に置かれた素晴らしいものを正当に評価することもできず、同じことの繰り返しを運命づけられた”地域の民族伝承館”に入り込む、という、グローバル、ローカルの両極端に落ち込むのを防いでくれる」(124)。

 狭量な地域愛から私たちを救い出す「グローバルな視野」を持つ必要があります。私たちの家が、家庭であることをやめ、壁で囲まれた場所、”刑務所の監房”になろうとする時、「グローバル」が、私たちを救けに来ますー私たちを実践にひきつける”final cause(目的因)”+のように。しかし同時に、「ローカル」も喜んで受け入れねばなりません。「グローバル」が持っていないもの持っているからです。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができます。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たします。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことでしょう。

アリストテレスの説く、事物が生成するための四原因のひとつ。例えば、家に対しては、家としての役割・働きがこれにあたる=三省堂刊「大辞林」

 

*郷土の香り 

 143. その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではありません。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ません。堅固な基盤の上に立っていなければ、私は他の人々と真の出会いをすることができないーなぜなら、私が贈り物を受け取とった相手に、自分自身の本物の贈り物を返すことができるのは、そうした基盤の上に立っているからです。異なる人々を喜んで受け入れ、彼らがするに違いない素晴らしい貢献の価値を認めることができるのは、私が自分自身の仲間と文化にしっかりと根を下ろしている場合に限られます。

 誰もが、彼の、あるいは彼女の郷土と村を愛し、大切にすることは、ちょうど、彼らが家庭を愛し、大切にし、個人的に家庭を維持する責任をもつこと同じです。それと同じように、共通善は、私たちが郷土を守り、愛することを求めています。そうしなければ、ある国の災害が、最終的にこの地球全体に悪影響を及ぼすことになってしまいます。これらすべてのことは、所有物に対する権利について肯定的な意味をもたらしますーすべての善に貢献できるようなやり方で、私は自分の持っているものを大切にし、育てるのです。

 144. それはまた、健康的で豊か交流を生みます。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれます。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しません。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからです。

それが、昔からあるバベルの塔の物語で言及されている誘惑です。天まで届く塔を建てる試みは、さまざまな土地から来た多様な人々の団結の表明ではありませんでした。そうではなく、諸民族のために作られた、神の意図された計画とは別の単一なものを作り上げようとする、高慢と野心から生まれた誤った試みだったのです(創世記11章1~9節参照)。

145. 偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性があります-それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因します。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばなりません。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、です。

私たちは、神からの贈り物である自分の故郷の肥沃な土地と歴史に、もっと深く根を張る必要があります。私たちは、近隣で、小規模であっても、大きな視野をもって働けます… 全世界が息苦しい思いをする必要はないし、特定の地域が不毛だと証明することもありません」(125)。私たちの手本は、多面体のようなものであるべきですー個人それぞれの価値がたいせつにされ、そこでは「全体は部分よりも大きいが、それは各部分の総体よりもさらに大きい」(126)からです。

*普遍的な視野 

 146. 自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルなナルシズム(自己陶酔)」があります。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれます。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全な「ローカル」であることは不可能です。 

 一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心します。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになります。このようにローカルなレベルの生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなります。このようにして地域発展の可能性は狭められ、地域は退屈し、脆弱になります。

 一方、健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的です。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えません」(127)。

147. 私たちの精神と心が狭くなっている時、周りの世界を理解することがより難しくなっている、ということを理解しましよう。互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身とその郷土をも明確に、且つ完全に理解することが困難になります。他の文化は、私たちが自身を守るための「敵」ではなく、人間の生活が持つ尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのです。私たちがもう一人の自分、つまり他者の観点で自分自身を見ると、私たちと私たちの文化がそれぞれ持つ、ユニークな特徴、つまり、豊かさ、可能性、限界がよりよく理解できます。私たちのローカルな体験は、様々な文化的環境の中で生きている人々の体験と「対照的」に、かつ「調和」して発展させる必要があります(128)。

148. 実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりしません。他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合します。輸入された要素自身が豊になり、最終的にすべての人々にとって益となる新しい統合体となります。これが、私たちが地元の人々に自身のルーツと先祖の文化を大切に育てるように、強く勧める理由です。

  同時に、「いかなる類いの混血の人々(メスティーソ)をも拒否するような、壁に囲まれた完全な閉鎖、変わらずに続いてきた歴史的な静止状態の『原住民主義』」を提案するつもりはない,と強調したいと思います。なぜなら、「私たちの文化的な独自性は、それと異なる独自性をもつ他の文化との対話によって強められ豊かになるからです。さらに、私たちの真の独自性は、不毛な孤立によって維持されることはありません」(129)。いかなる文化的な押しつけもない、開かれた文化間に生まれた統合を維持することで、世界は成長し、新しい美しさで満たされるのです。

149. 郷土への愛と、もっと大きな人類家族に属しているという、しっかりした感覚の間にある健全な関係のために、「グローバルな社会とは、異なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体だ」ということを念頭に置くことが役に立ちます。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのです。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの美を発見するのです。出自が何であれ、個々人すべてが、より大きな人間家族の構成員であることを知るのです。それなしには、自分自身を十分に理解することはできないでしょう。

 150. このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という喜ばしい認識をもたらします。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのです。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵、となるのです。なぜなら「人間は無限でありながら限界のある存在」だからです(130)。

*自分の地域から始める

 151. 地域的な交流によって、より貧しい国々が、より広い世界に対して開放的になりますが、普遍性が彼らの独自な特徴を弱めることには、必ずしもなりません。世界に向けた適切かつ信頼できる開放性は、(地域の)国々の集団の中で隣人に開放的であることを前提とします。ですから、隣国の人々との文化的、経済的、政治的な統合は、隣人愛の価値を奨励する教育を伴う必要がありますーそれが、健全な普遍的統合を成し遂げるため、最初に、絶対必要なステップなのです。

152. 私たちの都市のいくつかの地域で、生き生きとした隣人関係が続いています。一人ひとりが、彼、あるいは彼女の隣人に寄り添い、助ける必要のあることを極めて自然に理解しています。このような共同体の価値観が保持されている所で、感謝、連帯、互恵が特徴的に見られる親密さを、人々は体験しています。隣人関係は、”shared identity(自他同一性)”の感覚を人々にもたらします(131)。同じように近隣諸国が”隣人の精神”を人々の間に奨励できるとよいのですが!

 一方で、個人主義の精神も、諸国間の関係に影響を与えます。互いに相手から自分を守るべきだ、と考えることの危険性、あるいは他者を競争相手、危険な敵と見なすことの危険性は、同じ地域の人々との関係にも、影響を与えます。おそらく私たちは、この類いの恐怖と不信の中で教育されてきたのです。

 153. このような孤立から利益を得、それぞれの国と別々に交渉することを好む、強国や大企業があります。その一方で、小さな、あるいは貧しい国々は、地域の一員として交渉することを認める隣国と協定を結ぶことで、分断され、孤立し、大国に依存せねばならなくなる事態を避けることが可能です。今日、孤立したままでは、どの国も人々の共通善を確保することはできません。

 

第5章 より良い政治 A BETTER KIND OF POLITICS

 

154. 諸国民と諸国家による社会的友愛の実践を基礎に置いた兄弟愛の世界的な共同体社会の発展には、より良い政治、真に共通善に奉仕する政治が必要とされます。残念なことに、今日の政治はしばしば、今とは違う世界に向けた進歩を妨げる形をとっています。

*「ポピュリズム」と「リベラリズム」

 155. 弱者への思いやりの欠如は、それ自体の目的のために彼らを煽り立て、搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に役立つ「リベラリズム」の背後に隠れることがあります。どちらの場合も、最も弱い人々を含む、すべての人のための場を作り、異なる文化を尊重する開かれた世界を心に描くことを難しくします。

*「ポピュラー」と「ポピュリスト」

 156. 近年、「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉が、メディアや日常会話によく使われるようになっています。その結果、そうした言葉が持っていたかもしれない価値を失い、すでに分裂した社会で二極化のもう一つの原因になっています。国民、集団、社会、政府の全体を「ポピュリスト」かそうでないか、に分類する努力がされています。今日では、どちらかに分類されずに、いかなる課題についても見解-それが、不当に評判を落とすか、絶賛されるか、いずれかにしても-を述べることができなくなっています。

157. ”ポピュリズム”を社会的現実の解釈の鍵、と見なそうとする試みは、別の方法で問題があります。「人々」という言葉の正当な意味を無視するからです。この意味を一般的な用語から取り除く努力は、「人民による政治」という民主主義の概念そのものの排除につながる可能性があります。社会が「単なる個人の集合体ではない」ことを堅持したいなら、「人々」という言葉が必要です。多数派を生み出す社会的な現象だけでなく、時代の大きな流れや共同体主義への強い願望もあります。

 男性と女性は、違いを超越する共通の目標を考え出すことができ、共に努力することができます。だが、それが「共有された願望」にならないなら、長期的な計画を実行するのは、とても難しい。こうした要因のすべては、「人々」と「人気」という言葉の使われ方の背後にあります。それらが考慮されない限り、”煽動”への健全な批判とともに、社会的現実の基本的な側面が見過ごされることになるでしょう。

158. ここで、誤解が生じる可能性があります。

 「『人々』は論理的な分類ではなく、神秘的な分類でもないー仮に、このことで、人々が行うすべてのことが善であり、あるいは人々が『天使のような』実在だ、ということを意味するなら、である。それよりも、神話に分類されるべきだろう… 『人々』が何を意味するか説明せねばならない時、あなたは説明のために論理的な分類を使います。必然的にそうなる。だが、そのようなやり方で、『人々』に属することの意味を説明することはできない。『人々』は、純粋に論理的な言葉で説明できない、もっと深い意味を持っている。『 人々』の一員になることは、社会的、文化的絆から生まれる共有のアイデンティティーの一部となることだ。 それは自動的に得られるものではなく、かなりゆっくりと、困難な経路をたどり… 共通の計画に向けて進むもの」(132)だからです。

 159. ”人気”のあるリーダーたち、人々の感情や文化的な活動、そして社会の重要な流れを読み取ることのできるリーダーたちは、確かに存在します。彼らが一致して主導する努力によって提供するサービスは、変革と成長の永続的なビジョンの基礎となりますーそれは、共通善を追求する中で、他の人々のための場を作ることも含むでしょう。

 しかし、どのようなお題目を立てようと、個々人が、個人的な利益を得る、あるいは権力支配を続けるために、人々の文化を政治的に不当に利用できるようになれば、不健全な”ポピュリズム”に堕落することが、在り得ます。あるいは、他の場合、人々のうち特定の分野の人が持つ最も卑しく、最も利己的な性向に訴えることで人気を得ようとする場合も、そうです。このことは、粗雑なやり方だろうと、もっと狡猾なやり方だろうと、制度と法の乱用に繋がる場合、一段と深刻なものになります。

 160.  閉鎖的なポピュリストの集団は、「人々」という言葉を歪めています。彼らが「本当の人々」について話していないからです。 「人々」の概念には、実際に制限がありません。 生き生きと活動的な人々、未来のある人々は、違いを歓迎する能力を通じて、常に新しい統合を受け入れます。 人々は、適切な独自性を否定しませんが、他者に動かされ、挑戦され、拡大され、そして豊かにされ、そうしてさらに成長し、発展いくことに開かれています。

161.”人気”のあるリーダーシップの衰退のもう一つの兆候は、目先の利益への気遣いです。選挙での票や支持を得るために、多くの人の要求に応えますが、人々が開発を必要とする資源を生み出し、自分自身の努力と創造性によって生計を立てる根気のいる不断の努力がなされません。

この点で、私は「無責任なポピュリズムを提案するつもりがない」ことを明確にしています(133)。不平等をなくすには、それぞれの地域の潜在性を引き出し、持続可能な平等を保証するのを助けることのできる経済成長が必要です(134)。同時に、「福祉事業-特定の緊急の要請に応えるもの-は、単に一時的な対応と見なされるべきだ」ということになります(135)。

 162. 最大の問題は雇用です。真に”人気”があるのは、人々の善を促進するために神が私たち一人一人に植えられた種、つまり私たちの才能、進取の精神、そして私たちの生来の才覚を育てる機会を、すべての人に提供することです。これは私たちが貧しい人々にできる最高の助けであり、尊厳ある人生への最良の道です。ですから、私が主張しているのは、「差し迫った必要がある場合に貧しい人々を経済的に助けることは、常に暫定的な対応策でなければならない。より幅広く目指すべきは、常に人々が仕事を通して、尊厳のある生き方ができるようにする」(136)ことです。

 生産システムは変わり得るので、政治システムが、彼、彼女が自分の才能と努力を生かせる機会を手にするような社会を構築するために、働き続けねばなりません。 「仕事と仕事の尊厳を奪うことよりも悪い貧困はない」(137)からです。真に発展した社会では、仕事は社会生活の不可欠な要素です。それは、仕事は毎日のパンを稼ぐ手段であるだけでなく、個人の成長、健全な関係の構築、自己表現、贈り物を交換する手段でもあるからです。仕事は、私たちに世界の発展、そして最終的には人としての私たちの人生に対する共通の責任感を与えてくれます。

*既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 

 163. コミュニティと文化的絆の前向きな見方を必然的に伴う「人々」の概念は、通常、社会を単に「共存する利益の総和」と見なす個人主義的な既存の概念にとらわれないアプローチによって拒否されます。 ある人は自由の尊重について話しますが、共有された物語に根を持ちません。 特定の状況では、社会の最も脆弱な構成員の権利を擁護する人々は、「ポピュリスト」として批判される傾向があります。「 人々」という概念は、抽象的な複合概念、実際には存在しないもの、と考えられています。 しかし、これは不必要な二項対立を作ります。 「人々」の概念も「隣人」の概念も、社会組織、科学や市民の機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような仕方で、純粋に抽象的な、あるいはロマンチックなもの、と見なすことはできません(138)。

164. 一方、慈善活動は、抽象的側面と制度的側面の両方を持っていますー制度、法律、技術、経験、専門知識、科学的分析、行政手続きなど、すべてを包含する歴史的変遷の効果的なプロセスを必要とするからです。 さらに言えば、「私的生活は、公的な秩序によって守られない限り存在できない。 家の炉端は、法律によって、法律に基づく安全な状態によって、守られない限り、本当の暖さがない。守られることで、分業、商取引、社会正義、および政治的市民権によって保証される最小限の幸福を享受する」(139)ことができるのです。

165. 真の慈善活動は、これらすべての要素を他者への関心に組み込むことができます。遠く離れた、あるいは忘れ去られた兄弟姉妹を含めた、個人的な出会いにおいて、そうしたことは、可能ですー「組織化され、自由で創造的な社会の諸団体が生み出すことのできる資源」をすべてを利用することで。たとえば、善きサマリア人でさえ、(注:自分が助けた人に)彼個人ではできないような助けができる近くの宿が必要でした。隣人への愛は具体的であり、「貧しい人々や不利な立場にある人々に利益をもたらす可能性のある歴史的な変化」に必要な資源を、無駄使いすることはありません。

 時には、個人主義的な行動様式や効果のない手順に結び付いた左翼主義者のイデオロギーや社会原理が、ほんの少しだけ、人々に影響を与えます。大部分の人は、他の人の善意に依存し続けます。このことは、より大きな友愛精神の必要だけでなく、貧しい国で苦しみ、死に瀕している”捨てられた人々”を悩ませている問題の解決を助ける、より効率的な世界的な組織の必要性を明確に示しています。また、すべてに無差別に適用できるような、一つの解決策、単一の受け入れ可能な方法論、経済的な対策が無い、ということも示しています。最も綿密な科学研究でさえ、さまざまな行動方針を提案しないとも限らないのです。

 

166. したがって、すべては、心、態度、生活様式の変化の必要性を理解する、私たちの能力に依存しています。そうでなければ、政治宣伝、メディア、世論形成者は、個人主義的で批判精神に乏しい文化ーすでに過剰な権力を享受している人々に奉仕する無秩序な経済的利益や社会制度に利するような文化ーを促進し続けることになるでしょう。

 私の専門技術者的なものの見方に対する批判は、「行き過ぎをうまくコントロールできるだろう」と単純に考える以上のものを含みます。より大きなリスクは、特定の対象、物質的な現実あるいは制度そのものからではなく、それらの使われ方から生じます。それは人間の弱さーキリスト教の伝統が「concupiscence(貪欲)」と呼ぶものの一部である利己主義の性癖、自分自身、自分の集団、自分自身のささいな興味だけに関心を持つ人間の性癖と関係があります。

 貪欲は、私たちが生きている今に限られた欠陥ではなく、人類の初めから存在し、歴史のそれぞれの時に、使える手段なら何でも使って、これまでずっと様々な形に変化し、続いてきました。しかし、貪欲は、神の助けを借りて克服することができるのです。

 167. 教育としつけ、他者への配慮、人生と精神的成長の十分に一体化したものの見方。これらはすべて、質の高い人間関係のために、経済、技術、政治、メディアの不正、常軌を逸した対応、権力の乱用に、社会そのものが対応できるようにするために、欠かせません。いくつかの自由主義的な対応は、人間の弱さのそうした要素を無視し、決まった秩序に従って、それ自体で明るい未来を保証でき、あらゆる問題の解決策を提供することができる、という世界を心に描きます。

168. 市場は、それ自身ですべての問題を解決することはできませんが、それでも、私たちは、この”ネオ・リベラリズム(注:個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきとする考え方)信仰”の教義を信じるように求められています。課題が何であれ、この不毛で繰り返しなされる”流派”は、常に同じ”調理法”を提示します。”ネオ・リベラリズム”は、社会問題の唯一の解決策として、名前を使わずに、「溢出」あるいは「漏出」の魔法の理論に頼ることで、それ自体を単純に再現します。主張されている「溢出」が、社会構造を脅かす新たな形の暴力を引き起こす不平等を解決しない、という事実への正当な評価が少しもありません。

 強く求められているのは、「生産的な多様性とビジネスの創造性を優先する経済の促進」(140)に向けた積極的な経済政策を持つこと、雇用を作り出し、減らさないことを可能にすること、です。手早く利益を上げることを目的とした金融投機が、大きな混乱を引き起こし続けています。実際、「連帯と相互信頼が市場関係者の間になければ、市場は適切な経済的機能を完全に果たすことはできない。そして今日、この信頼は存在しなくなっている」(141)のです。

 物語は、それが意図された方法を終えておらず、「主流となっている経済理論の独断的な公式は完全無欠ではない」ことが証明されました。新型コロナウイルスの大感染に直面した世界システムの脆弱性は、「市場の自由によってすべてが解決できるわけではない」ことを実証しています。また、金融の指示に従わない健全な政治生活を取り戻すことに加えて、「私たちは人間の尊厳を再び中心に置き、その柱の上に、私たちが必要とする社会構造を構築しなければならない」ことも明らかにしています(142)。

169.たとえば、一部の閉鎖的で単色の経済的な対応では、大衆運動-失業者、臨時・非公式雇用の労働者、そして既存の構造で働く場所を簡単に見つけることができない他の多くの労働者を団結させる運動-の場が不在のように思われますが、このような運動は、さまざまな形態の大衆経済と共同体生産を巧みに扱います。必要なのは、社会的、政治的、経済的な参加のモデル-大衆運動を含めることができ、共通の運命の構築において排除されたものを包含することから生じる、道徳的なエネルギーの本流をもって、地方、国内、および国際的な統治構造を活気づけることができるモデル-です。そして「この惑星の下層土から成長する連帯の経験は、一緒になり、調整され、互いに出会い、続けられる」ことを保証します(143)。

 しかし、これは、「変化の種を蒔く人、何百万もの行動を伴うプロセスの促進者、大きい者、小さい者、詩の言葉のように創造的に編み合わされた者」として行動する、彼らの独特のやり方を裏切らない方法でされる必要があります。その意味で、このような運動は、独自の方法で活動し、提案し、促進し、発散する、”社会詩人”です。「社会政策は”貧しい人々のため”の政策だが、””貧しい人々共に”や”貧しい人々の”では決してなく、人々を再結集させるプロジェクトの一部でもないという考え」(145)を超えた、欠ける所のない人間開発を可能にするのに役立ちます。それは煩わしいことかもしれませんし、特定の”理論家たち”は、分類するのが難しいと感じるかもしれませんが、それでも私たちは、知る勇気を持たねばなりませんーそれなしには、「民主主義は単なる言葉、形式になってしまう。代表的な性格を失い、実体を無くしてしまう。なぜなら、未来を作る中で、尊厳を求める日々の戦いの中に人々を置き去りにしてしまうから」(146)です。

 

*国際的な力

 170. 「2007年から2008年にかけての国際金融危機は、新しい経済-倫理的原則にもっと注意を払う経済-と、投機的な金融慣行と仮想的な財力に対する新たな規制の方法を開発する機会を提供した。だが、この危機への対応には、世界を支配し続けている時代遅れの基準を見直することは含まれていなかった」(147)。たしかに、この危機をきっかけに世界中で実際に開発された戦略は、いつも危機を無傷で逃れる方法を見つける真に力のある人々のために、以前よりもっと強烈な個人主義、もっと少ない協調、そしてもっと大きな自由を、助長したように思われます。

171. 私はまた、このように主張したいと思います-「『各人に各人のものを』という古典的な『正義』の定義は、いかなる個人あるいは集団も、自分を、他の個人や社会的集団の尊厳と権利を凌駕する資格を与えられている『絶対的な存在』と見なすことができない、ということを意味する。複数の主体間での力(特に政治的、経済的、防衛関連、そして技術的な力)の効果的な分配、そして、主張と利益の調整のための司法制度の創設は、力を制限するひとつの具体的な方法だ。だが、それでもなお、今日の世界は、多くの誤った権利を、同時に、脆弱な幅広い領域、酷く使われた力による犠牲者たちを、私たちに見せている」(148)ということを。

172. 21世紀は、「国民国家の弱体化を目の当たりにしています。なぜなら、国境を超えた経済、金融の活動分野が、政治よりも優先する傾向になっているからです。このような状況を考えれば、各国政府間の合意で公正に任命され、制裁を課す権限を与えられた責任者を置く、強力で効率的に組織された国際機関を立案することが、どうしても必要です。

法律によって規制された何らかの形の世界的権威を持つ機関の可能性(150)について話す場合、必ずしも個人的な権威について考える必要はありません。それでも、そうした権威は、少なくとも、世界的な共通善を提供する力、飢餓と貧困をなくし、基本的人権をしっかりと守る力を備えた、効果的な世界的組織を推進すべきです。

173. この点で、私はまた、国連、そして経済関係機関と国際金融制度の改革の必要性を指摘したいと思います。これらの改革によって、「国家の家族についての概念は、本当の効力を持つ」(151)のです。言うまでもなく、これには、少数の国だけが権力を握るのを避け、イデオロギーの違いによる文化的押し付けや弱い国の基本的自由の制限を防ぐために、明確な法規制が求められます。それは、「この国際共同体は、加盟各国の主権に基づいた法的な共同体であり、その独立を否定または制限するような拘束を受けない」(152)からです。

 同時に「国連の基本綱領の序文と最初の条項に定められた原則よれば、国連の活動は、法の支配の発展と促進として見ることができる。それは、正義が、普遍的な友愛の理想を実現するための不可欠な条件だということだ… 基本的な法規範を真に構成する国連憲章が提起しているように、議論の余地のない法の支配と、交渉、調停、仲裁をひたすら頼みとする体制を確かなものとする必要」(153)があります。そして、国連が非合法化されないようにせねばなりません。その問題と欠点は、共同で対応し、解決できるからです。

174.共通の目標を進んで確立し、特定の重要な規範を世界全体で遵守するためには、勇気と寛容さが必要です。これが本当に役立つためには、「pacta sunt servanda(注:「合意は拘束する」「合意は守られなければならない」などと日本語訳されるラテン語起源の成句。主に国際法および契約法で用いられる)」(154)を堅持し、「『法の力』ではなく『力の法則』に訴えようとする誘惑」を避けることが不可欠」(155)です。これは、「紛争の平和的解決のための規範的手段… その範囲と拘束力の強化」(156)を強固にすることを意味します。これらの規範的手段の中で、国家間の多国間協定を優先する必要があります。なぜなら、二国間協定よりも、真に普遍的な共通善の促進と、弱い国の保護を保証するからです。

175 時宜を得た形で、市民社会の多くの集団や組織は、国際社会の欠点、複雑な状況での調整の欠如、基本的人権への注意の欠如、そして特定の集団の重要な必要性を補うのに役立ちます。国の活動を統合、補完する手段として、下位レベルの共同体社会や組織の参加と活動を正当化する、補完性原理の具体的な適用を見ることができます。これらの集団や組織は、公益のために称賛に値する努力をすることが多く、その構成員たちは時には真の英雄となり、人類がまだ実現可能な多少の素晴らしい事柄を展望しています。

*社会的および政治的慈善

 176. 今日、多くの人々にとって「政治」は不快な言葉であり、多くの場合、一部の政治家の過ち、汚職、非効率性が原因です。政治の信用を傷つけたり、経済に置き換えたり、一つのイデオロギーあるいは他のイデオロギーに捻じ曲げたりする試みもあります。でも、私たちの世界は政治なしで機能することができるでしょうか?健全な政治活動抜きに、普遍的な友愛と社会的平和に向けた効果的な成長のプロセスが存在するでしょうか?(157)

*必要とされる政治 

 177. 私がここでもう一度、注視したいのは、「政治は経済の影響を受けてはならず、経済はテクノクラートの効率主導の規範の命ずるところを受けてはならない」(158)ということです。権力の乱用、汚職、法の無視、非効率性は、はっきりと拒絶せねばなりませんが、「政治のない経済は正当化できない。現在の危機のさまざまな側面に対処する他の方法を支持することを不可能にするから」です。必要なのは、「先見の明があり、危機のさまざまな側面に対処するための、新しい、統合された学際的なアプローチが可能な政治」(160)をすること。言い換えれば、「健全な政治… 制度を改革し、調整し、最善の措置を進め、過度の圧力と官僚的な慣性を克服することができる政治」(161)です。こうしたことを行うように経済に期待することも、国の真の力を引き継ぐのを経済に認めることも、私たちは当然のことと考えることはできません。

178. 目先の利益に焦点を当てた多くのささいな政治の形を前にして、私は繰り返しますー「困難な時期に、私たちが大義名分を掲げて、長期的な共通善を考えるとき、真の政治手腕ははっきりしている。政治権力は、国家建設の事業においてこの義務を担うのは容易ではない」(162)、現在そして将来、人類家族のための共通の事業計画を構築する可能性はずっと少ない。私たちの後に来る人々のことを考えることは、選挙の目的としては役立ちませんが、それでも、それは真の正義が求めるものです。ポルトガルの司教団が教えているように、地球は「各世代に貸し出され、次の世代に引き継がれる](163)のです。

179.グローバル社会は、断片的な解決策や手早い修正では解決できない重大な構造的欠陥に苦しんでいます。抜本的な改革と大幅な刷新による多くの変化が必要です。この過程を監督できるのは、最も多様な分野と技術を巻き込んだ健全な政治だけです。「公共の利益に向けられた政治的、社会的、文化的、そして大衆的なプログラムの不可欠な部分」である経済は、「人間の創造性とその進歩の理想を抑圧することを伴わない、さまざまな可能性への道を開くことができるが、それよりもむしろ、新たな流れに沿ったエネルギーを指向」(164)します。

*政治的な愛 

 180. 「すべての人が私たちの兄弟姉妹であること」を認識し、「すべての人を包含する社会的友愛の形」を求めることは、単なるユートピアではありません。この理想実現のために効果的な手段を考える、という決定的な関与が求められます。そうした線に沿ったあらゆる努力をすることは、慈善の高潔な動きとなります。個人が困っている人を助けられるのに対し、人々が一緒になって、すべての人のために友愛と正義の社会的取り組みを始めるとき、「最も幅広い慈善、すなわち政治的な慈善の現場」に入っていきます。これは、核心が社会的慈善である社会的、政治的な秩序のために働くことを伴います(166)。再度、訴えます。「共通善を追求する限り、高遠な召命であり、慈善の最高の形の1つ」(167)である、と。

181. 教会の社会教説に触発されたすべての誓約は「慈愛から生まれたものであり、イエスの教えによれば、それは律法全体を合わせたもの(マタイ福音書22章36-40節参照)」(168) です。それは、次のことを認めることを意味します-「愛、互いのいたわりの小さな振る舞いであふれる愛はまた、市民的かつ政治的でもあり、それ自体を、より良い世界を作ろうとするすべての行動に自体を感じさせる」(169)。 ですから、慈愛は、親密で懇意な関係に、だけでなく、「マクロ的な関係、つまり社会的、経済的、政治的な関係」(170)にも表れるのです。

182. この政治的な慈愛は、すべての個人主義的な考え方を超越する社会的認識をもとに生まれます。「『社会的な慈愛は、私たちに共通善を愛するようにさせる』、それは私たちに、すべての人の善-個々、あるいは私人としてだけでなく、それらを結びつける社会的側面として考えられる(171)-を効果的に求めるようにさせる。私たちが人々の一部であるとき、私たち一人一人は完全に人です。同時に、一人ひとりの個性を尊重しない人はいない。『人々』と『人』は相関関係にある言葉だが、にもかかわらず、今日では、見せかけの利益を追求する権力によって、人々を、容易に操作される孤立した個人に矮小化する試みがされているのです。優れた政治は、グローバリゼーションを再調整、方向転換させ、それによってグローバリゼーションの破壊的な影響を回避するために、社会生活のあらゆるレベルで、共同体を構築する方法を追求します。

*効果的な愛 

 183. 「社会的愛」(172)は、私たち全員が呼ばれていると感じることのできる”愛の文明”に向かって進むことを可能にします。慈愛は、全体に広めたいという衝動をもって、新しい世界を構築すること可能です(173)。単なる感情ではなく、すべての人にとって効果的な発展の道を見つけるための最良の手段です。「社会的な愛」とは、「今日の世界の問題に取り組む、新しい方法の策定を刺激し、社会の仕組み、組織、法制度を内側から大幅に刷新できる力」(174)です。

184. 慈愛は、すべての健康で開かれた社会の核心ですが、今日では「道徳的責任を解釈し、指示を与えることとは無関係だ、として簡単に却下されてしまいます」(175)。慈愛は、真実への責任を伴う場合、個人的な感情以上のものであり、「偶発的かつ主観的な感情や意見の餌食になる」(176)必要はありません。確かに、真実との密接な関係は、その普遍性を促進し、「関係のない狭い分野に限定される」ことから守ります(177)。そうでなければ、「知識と実践の間の対話で、普遍的な人間開発を促進する計画と過程から除外さてしまう」(178)でしょう。真実がなければ、感情は相関的、社会的な内容を欠いてしまいます。そして、真実に開かれた慈愛は、「人間的で普遍的な幅の広さを奪う信仰主義(宗教上の真理は、理性によってではなく, 信仰によるとする主義)から守ります(179)。

185.慈愛は、私たちが常に求めている真理の光を必要とします。「その光は、理性の光であり、信仰の光」(180)でもあり、そして、いかなる形の相対主義も認めません。 ただし、科学の発展と、望ましい結果をもたらすのに最も確実で最も実用的な手段を見つけるための科学の不可欠な貢献を、尊重します。 他の人々の福利が危機に瀕しているとき、善意だけでは十分ではありません。 彼らと彼らの国が発展するのに必要なものら何でも提供するために、具体的な努力がされねばなりません。

*政治的な愛の行使

 186. 「導き出される」という愛の形がありますーその行為は慈愛の美徳から直接始まり、個々人と人々に向けられます。より健全な制度、より公正な規制、より支援的な構造を作るように人々を励ます慈愛の活動で表される「統率された」愛もあります(181)。それは当然、「隣人が貧困に陥らないように社会を組織し構築しようと努力することも、同様にかけがえのない愛の行為」(182)ということになります。

 苦しむ人を助けるのは慈愛の行為ですが、相手を知らないとしても、彼あるいは彼女の苦しみを引き起こしている社会的な状況を変えるために働くことも、慈愛の行為です。高齢者が川を渡るのを手伝うなら、それは素晴らしい慈愛の行為です。

   政治家は橋を架けますが、それも慈愛の行為です。ある人が食べ物を提供することで他の人を助ける一方で、政治家はその人のために働き口を作り、彼または彼女の政治的な活動を気高くする慈愛の高潔な形を実践します。

*愛から生まれた犠牲 

 187. 政治の精神的な核心であるこの慈愛は、常に最も必要としている人々に示される選択的な愛ですーそれは、私たちが彼らに代わって行うすべてのことを補強します(183)。慈愛によって変えられた眼差しだけが、他の人々の尊厳が認められることを可能にし、その結果として、貧しい人々が認識され、尊厳が重んじられ、彼らの独自性と文化に敬意が払われ、そうして、真に社会に受け入れられるのです。

 その眼差しは、本物の政治精神の核心であり、魂のない実利主義の道とは異なる道が開かれるのを確かめます。 それは、私たちにはっきりと理解させますー「貧困の恥ずべきことに、貧しい人々を落ち着かせ、従順にし、無害にするだけの”封じ込め戦略”を進めることでは対処できない。利他的といわれる仕事の裏で、受け身的になっているのを知るのは何と悲しいことだろうか」(184)。必要なのは、自己表現と社会への参加の新たな小道です。教育は、一人ひとりの人間が自分の将来を形成できるようにすることで、そのことに役立ちます。ここでも、「連帯の原則」と切り離すことにできない「補完性の原則」の重要性が分かります。

188. これらの考察は、基本的人権を脅かす、あるいは侵害するすべてのものと戦う、差し迫った必要性を認識するのに役立ちます。政治家は「個々人や人々のニーズに応えるよう求められている。機能的で私営化された思考、無情にも”使い捨て文化”につながる思考が幅を利かす中で、困窮している人々を世話するためには、力と優しさ、努力と寛容さがひつようであり…それは、社会からの完全な疎外と苦悩の状況とともに、今現在に責任を取ること、それに尊厳を与えることができることも含む」(185)のです。

 同様に、それは「人間の社会的な身分と尊厳を守るためにすべてが行われる」(186)のを確実にする激しい努力を奮い立たせるでしょう。政治家は、野心的な目標を持った実行者であり、建設者であり、自身の境界を越えてものを見る、広く現実的で実利的な眼差しを持っています。

 彼らの最大の関心事は、世論調査で支持率が落ちることではなく、諸問題の効果的な解決方法を見つけることにあります-「”社会的および経済的な排除”の現象、その有害な結果”としての、人身売買、人間の臓器や生体組織の売買、少年少女の性的搾取、少女、売春を含む奴隷労働、麻薬と武器の取引、テロリズム、国際組織犯罪。これらの状況の悲惨さ、そして無実の命の犠牲は、ありにも大きく、私たちの良心を癒やすような”declarationist nominalism(宣言主義者の唯名論)”に陥らせるあらゆる誘惑を避けねばなりません。私たちの機関・組織がこれら全ての悲惨な事態との闘いにおいて、本当に効果的に働くことを、私たちは確実にする必要」(187)があります。これには、技術開発によってもたらされる膨大な資源を、知性をもって活用することが含まれます。

189. 私たちは、最も基本的な人権の”グローバル化”にはまだほど遠い状態にあります。だからこそ、世界の政治は、飢餓を効果的に無くすことを最重要かつ不可欠な目標の一つにする必要があります。確かに現在の世界では「投機資金が食糧価格を操作し、食糧を単なる商品一つとして扱い、それによって何百万もの人々が飢餓に苦しみ、亡くなっています。その一方で、たくさんの食べ物が捨てられています」。これは「正真正銘の不祥事です。飢餓は犯罪です。食物は不可侵の権利なのです」(188)。

 多くの場合、私たちが意味論的、あるいはイデオロギー的な論争を続けるとき、兄弟姉妹が避難所や医療の提供を受けられず、飢えと渇きで亡くなっていきます。こうして基本的な援助を満足にできないことに加えて、人身売買は、人類にとってもう一つの恥の源です。国際社会で政治分野の責任者たちは、”素晴らしいスピーチ”と”善意”に留まってはならない、こうした事態を許してはなりません。これはぜひとも必要なことです。先延ばしはできないのです。

 

*集合し、結束させる愛  

 190. 政治的慈愛はまた、「すべての人に開かれた精神」で表現されます。 政府指導者は、出会いを育てるように犠牲を払い、少なくともいくつかの問題について意見の一致を求める第一人者となるべきです。 他の人々の視点に耳を傾け、すべての人のために道をあける用意をする必要があります。 犠牲と忍耐を通して、誰もが場を持つ素晴らしい多面体の現実を作り上げるのを助けることが可能です。 ここでは、経済的なやり方は機能しません。 他のやり方ー共通善の贈り物の交換ーが必要です。これはあまりにも純真で、夢想的に見えるかも知れませんが、このような高遠な目的を捨てることはできないのです。

191. さまざまな形の原理主義的不寛容が、個人、集団、そして人々の間の関係を傷つけている時、私たちは努めましょうー彼あるいは彼女の考え、意見、習慣、さらには罪を超えて、他人に敬意を払うことの大切さ、違いを進んで受け入れる愛、そしてすべての人間の尊厳を最優先することを実践し、教えるように。現代社会で、狂信、偏見、そして社会的、文化的な断片化が蔓延しているとしても、優れた政治家は、最初の一歩を踏み出し、異なる声が聞こえると主張します。意見の不一致は紛争を引き起こす可能性がありますが、均一であることは息苦しく、文化の衰退につながります。私たちは、現実の一つの断片に取り囲まれて満足していいのでしょうか。

192. この点で、グランドイマーム・ アーマド・タイーブ(Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb)と私は、国際政治と世界経済のリーダーたちに対して「寛容の文化を広め、平和的に共存するために精力的に取り組むこと、罪のない血の流出を止めるために最も早い機会に介入すること」(189)を求めました。特定の政策が、自国の繁栄の名の下に、他国に対する憎悪と恐怖をまき散らすとき、進路を修正することを気にかけ、遅滞なく、速やかに対応するようにする必要があります。

 

*結果を超える実りの豊かさ

 193. たゆまぬ活動を続ける政治家は(注:私たちと同じ)男性、女性でもあります。日常の対人関係で愛を実践するように求められています。 人として、彼らは次のことを考慮する必要があります。

 「技術進歩により、現代の世界は、人間の欲求の満たすよう機能する傾向を一段と強め、さまざまなサービスに分類され、細分化されています。 人々が名前で呼ばれることは、ますます少なくなり、このようなユニークな存在が、彼または彼女自身の感情、苦しみ、問題、喜びおよび家族を持つ人として扱われることは、ますます少なくなるでしょう。彼らの病いは癒すためにだけに知られ、金融は彼らの為に提供されるだけに必要とされ、彼らに宿舎を与えるだけに住まいが不足し、彼らを満足させるためだけの保養と娯楽への彼らの欲求です」。

  だが忘れてならないのは、「兄弟として最も取るに足らない人間を愛することは、まるでこの世界に、彼のほかは誰もいないかのように、時間の無駄とは見なされない」(190)ということなのです。

194. 政治もまた、他人の優しい愛に道を開けねばなりません。 「優しさとは何でしょうか?近くに行き、現実になるのが愛です。私たちの心から始まり、目、耳、手に届く動き… 優しさは、最も強く、最も勇敢な男性と女性が選択する道」(191)です。

政治生活の日々の関心事の中で「最も小さく、最も弱く、最も貧しい人々が、私たちの心に触れるようにすべきです。彼らは、私たちの心と魂に訴える「権利」を持っています。彼らは、私たちの兄弟姉妹であり、そのために私たちは彼らを愛し、世話をしなければなりません」(192)。

195.これらすべてが、「重要なのは、常に素晴らしい結果をもたらさない」ということを理解するのに役立ちます。結果達成が常に可能であるとは限らないからです。政治活動で、覚えておく必要があるのは次のことです-「外見にもかかわらず、すべての人は非常に神聖であり、愛するに値する。だから、少なくとも一人の人がより良い生活を送るのを助けることができれば、それはすでに私の人生の捧げ物を正当化します。神の忠実な民であることは素晴らしいことです。壁を壊し、心がさまざまな顔と名前で満たされるとき、私たちは充実感を得るのです!」(193)。

 私たちの夢と計画の大きな目標は、部分的にしか達成できない可能性があります。それでも、こうした問題を乗り越え、愛し、政治を単に権力の追求と見なさなくなった人々は、「自分たちの愛の行為は失われず、他の人々に対する誠実な配慮の行為も失われないことを確信するかもしれません。神への愛の単一の行為が失われることはなく、寛大な努力で無意味なものはなく、痛みを伴う忍耐が無駄になることもありません。これらすべてが、生命力のように私たちの世界を取り巻いています」(194)。

196. このような理由から、私たちが蒔く善の種の隠された力に、希望を置き、それによって他の人が実を結ぶプロセスを開始することは、本当に気高いことです。良い政治は、愛と希望、そして人間の心に存在する善の蓄えへの自信を兼ね備えています。確かに「法の尊重と個人間の率直な対話に基づいて構築された本物の政治活動は、すべての女性と男性、そしてすべての新しい世代が『新しい相関的、知的、文化的、精神的なエネルギーの展望をもたらす』という認識がされるたびに、常に新しくされる」(195)のです。

 197. こうして見てくると、政治は、思わせぶりな言動、物の取引に関係する活動、目まぐるしいメディアの動きよりも、気高いものであるはずです。分裂や争い、共通の目標を追求するように人々を動かすこともできない陰鬱な冷笑的な考えの種を蒔く以外の何ものでもありません。将来について考えるとき、時として、私たちはこのように自問します。「なぜ、私は、これをしているのか?」「私の本当の目標は何だろうか?」。

 時が経ち、過去を振り返ったとき、私たちが自己に問うのは「何人が、私を支持したのか?」「何人が、私に投票したのか?」「何人が、私に前向きなイメージを持っていたのか?」ではなく、現実的で、そして潜在的に痛みを伴う次のような問いになるでしょう。

「自分の仕事に、私はどれだけ愛を注いだのか?」「人々の進歩のために、私は何をしたのか?」 「どのような痕跡を、私は社会の営みに残したのか?」 「どのような本当の絆を、私は築いたのか?」 「どのような前向きな力を、私は発揮したのか?」 「どれほど多くの社会的平和の種を、私は蒔いたのか?」 「自分に任された立場で、私はどのように役立てたのか?」。

第6章 社会における対話と友情 DIALOGUE AND FRIENDSHIP IN SOCIETY

198. 近づくこと、話すこと、聴くこと、目を向けること、互いに知り合い理解し、共有できる場を見つけようとすることーこれらのことは「対話」という一語に尽きます。互いに出会い、助けたいと思うのであれば、対話が必要です。私が対話の利点を強調する必要性はありません。私が考えなければならないのは唯一つ、家庭と共同体を維持している、多くの寛容な人々の忍耐強い対話がなかったら、この世界はどうなるか、ということです。不一致や戦いと違って、不断の勇気ある対話は、ニュースの主見出しにはなりませんが、私たちが考える以上に、世界中の人々がずっとよく生きる助けとなるのです。

*新しい文化に向かう社会的な対話 

 199. 自分の小さく安全な世界に避難し、現実から逃れようとする人々もいれば、現実に対して破壊的な暴力で対応しようとする人々もいます。しかし、「『自己中心的な無関心』と『暴力的な抗議』の間に、常にもう一つの可能な選択があります。それは「対話」です。世代間の対話、私たち国民の対話、真実に心を開き、受け取ろう、与えようとする意欲です。沢山の豊かな文化-大衆文化、大学文化、若者文化、芸術的文化、技術的文化、経済的文化、家庭文化、そしてメディアの文化-の間で建設的な対話がなされるとき、国は繁栄する」(196)のです。

 200. 対話は、かなり違ったものと、よく混同されます。いつも信頼できるとは限らないメディアの情報にしばしば基づいた「ソーシャルネットワーク上の熱に浮かされたような意見のやり取り」と混同されるのです。こうしたやり取りは、どこまで行っても交わることのない独り言に過ぎません。そのような独り言は、鋭く攻撃的な口調のために、ある程度の注目を浴びるかもしれませんが、誰とも交わることはなく、内容はしばしば利己的で、矛盾しています。

 201. 実際のところ、メディアによる事実と意見の耳障りな寄せ集めは、しばしば対話の邪魔になります。なぜなら、そうしたメディア情報は、「他の人は間違っている」を口実にして、彼、あるいは彼女の考え、関心事、選択に頑固に固執させるようにするからです。そして、それは、より深いレベルでの合意を目指す、相手に敬意を払う対話に心を開くことなく、最初から相手の信用を傷つけ、侮辱するのを容易にします。さらに悪いことには、政治の動きをカバーするメディアから通常引き出されるこの種の言葉は、日常会話の一部になるほど広く行き渡ってしまいます。

 議論は、力のある特定の利害関係者によって、しばしば操作されますー世論を、自分たちに都合のいいように捻じ曲げようとします。この種の操作は、政府によって行われるだけでなく、経済、政治、情報、宗教、およびその他の分野でもなされます。自分たちの経済的、あるいはイデオロギー的な利益に導こうとするときに、そうした操作を正当化しようとしたり、弁明しようとしたりする可能性があります。しかし、早かれ遅かれ、まさにそうした利益とは反対の結果を招くことになります。

 202. 対話の不足は、これらの個々の分野で、人々が共通善について関心を持つのではなく、有利な権力の立場、あるいは、よくても彼ら自身の考えを強いる手段に関心があることを意味します。このようにして、”円卓会議”は、単なる交渉の会合となり、参加者それぞれが、共通善を協力して追求しようとするよりも、得られそうな利益なら何でも手に入れようと試みます。将来、英雄となる人たちは、不健全な考え方を捨て、個人的な利益を脇に置いて、誠実さを推し進めることを、敬意をもって決意できる人たちです。幸いにも、そのような英雄たちは、現在でも、私たちの社会の中に、目立たない形で現れ出ています。

*共に作り上げる 

 203. 真の社会的対話には、相手の観点に敬意を払い、「その観点には、正当な信念や関心事が含まれることもある」ということを受け入れる能力も必要です。他の人々は、それぞれの独創性と経験に基づいた貢献ができ、さらに実りのある、開かれた議論のために彼らの立場を明確に示すことが望まれます。個人や集団が首尾一貫した考えを持ち、価値と信念を守り、議論を発展させる時、確実に社会に恩恵をもたらします。

しかし、これは真の対話と他者に心を開く場合にのみ、起こり得ます。まさに、「対話という真の精神において、たとえ他者の言動を私たちの信念として受け入れることができなくても、私たちは彼らの言動の意味を理解する能力を大きく成長させることができる。このようにして議論しながら、私たちの信念について率直であり、開放的であり、接点を求め、そして何よりも共に働き、懸命に努力できるようになる」(197)のです。

 もし、誰にでも場所を空け、情報を操作したり、隠ぺいしたりしないなら、開かれた議論は、絶えず刺激され、真理のよりよい把握に導き、あるいは、少なくとも、そのような議論のより効果的な表われとなります。それは、それぞれの領域の人々が、彼らの見解と範囲内の関心事に満足し、自己中心的になるのを防ぎます。「違いは『創造的』であること、違いは『緊張』をもたらし、緊張の解決の中に『人類の進歩』がある」ということを忘れないようにしましょう(198)。

 204. 専門的な科学の進歩とともに、より広い学際的なコミュニケーションを必要としている、との確信が大きくなりつつあります。現実は一つであっても、異なる方法で、様々な角度から近づくことができるからです。ただ、科学の進歩だけでは、生活、社会、世界の特定の一面だけを見る唯一のレンズになってしまう恐れがあります。自分が担当する分野の専門家でありながら、他の科学や専門分野にも精通している研究者なら、研究対象の他の側面も認識できる立場にあり、結果として、現実に関する包括的、統合的な知識に開放的になるはずです。

205. 今日のグローバルな社会は、このように言うこともできるでしょう。「私たちはメディアを通して互いにより近いと感じ、人間家族としての一体感が生まれる。その一体感は、すべての人々に、さらに尊厳のある生活を保障するための連帯と、真摯な努力を奨励する…。ヒューマン・コミュニケーションのネットワークは、これまでにないほど発展してきたが、メディアは、特に今日、私たちを大いに助けることができる。特にインターネットは、出会いと連帯のための計り知れない可能性を提供している。これは実に素晴らしいことで、神からの贈り物である」(199)。

 私たちが常に確実にする必要があるのは、「現代のコミュニケーションのさまざまな形が、実際に、他の人々との豊かな出会い、すべての真理に対する誠実な追求、奉仕、恵まれていない人々への寄り添い、共通善の増進へと私たちを絶えず導く」ことです。オーストラリアのある司教さまが指摘されたように、「私たちの弱さに付け込み、人々の中にある最悪なものを引き出そうとする、デジタルの世界」(200)を受け入れることはできません。

*合意の根幹 

 206. この問題の答えは相対主義(注:哲学用語。人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、 真理の絶対的な妥当性を認めない立場)ではありません。相対主義は、寛大さを装って、最終的に倫理的価値の解釈を力のある者たちに委ね、彼らは自分に都合がいいように定義します。「私たち自身の欲求と目先の必要を満たすことだけで、客観的事実、あるいは健全な原則を欠く場合は… 政治的努力あるいは法律の力は十分だろう、と考えてはなりません… 文化そのものが堕落して、客観的な真実と普遍妥当(注:どんなものにも、どんなときにも適切に当てはまること)の原則がもはや是認されないとき、法律は、一方的な強制、あるいは避けるべき障害と見なされるだけです」(201)。

207. 真実を気遣い、命の最も深い意味に応える真実を得ようと努力することが、できるでしょうか。長年に渡って培われた熟考と非常にすばらしい知恵から生まれた確信、つまり、一人ひとりが神聖で、犯すべからざる存在である、という確信がなければ、法律とは何でしょうか。もし、社会に未来があるのであれば、社会は、人間の持つ尊厳という真理に敬意を払い、従わなければなりません。

 殺人が間違っているのは、それが社会的に容認できず、法律によって罰を受ける、という理由だけではなく、それよりも、もっと深い確信のためです。その確信は、理性によって得られ、良心に受け入れられた、交渉の余地のない真理なのです。真実の追究を応援し、真理の最も基本的なことを厳守するために、社会は高潔で良識的であらねばなりません。

208. 公的、あるいは、私的な会話の中で、真実を操作し、歪め、隠蔽するというさまざまな手法を用いる時につける仮面をいかにして剥がすかについて、私たちは学ぶ必要があります。いわゆる「真実」は、私たちが新聞で読む事実や出来事の単なる報告ではなく、私たちの決断や法律を維持している確固とした根拠を、まず、追求することなのです。そうするには、当面の心配事を超えて、過去のみならず現在も変わることのない、特定の真実を把握することのできる心を人間は持っている、という認識が必要です。真実が人間の本性に目を凝らす時、理性は、そこに普遍的な価値を見いだすのです。

209. さもなければ、私たちが「疑う余地もない」と考えている基本的人権が、権力を持つ者たちが「無関心な、あるいは、怖気づいた人々」からいったん「合意」を得てしまうと、彼らによって否定されてしまう、ということは考えられないでしょうか?同様に、異なる国々の間にある単なる合意は、操作されやすく、国々を守るのに十分ではないのではありませんか。

 私たちは、素晴らしいことができる、という十分な裏付けを持っていますが、私たちの中にある破壊的な性向も認めなければなりません。私たちの陥っている無関心と薄情な個人主義も、目先の必要を超えた価値、より大切な価値を、追求することを怠った結果でないでしょうか。

 相対主義は常に危険をもたらします。何らかの主張された事実が、権力をもつ者や如才ない人々によって押しつけられる、という危険です。しかし、「内在する悪を禁じる道徳規範ということになると、誰にも特別扱いや例外はありません。この地球上で、世界の征服者か、「貧しい人々の中で最も貧しい人」かも、関係ありません。道徳律を求められる前に、私たちはみな完全に平等なのです」(202)。

210. 現在起きている”歪んだ不毛の思考法”に私たちを引き寄せるのは、倫理学と政治学が、物理学のレベルになったからです。善悪は、倫理学にも、政治学にも、もはや存在していません。”利益と負担の微積分学”があるだけです。道徳理論が置き換えられた結果、法律は、もはや正義についての基本的な観念を反映するものとしてではなく、現在流行している観念を鏡に映すものとして見られます。その結果、崩壊が起き、浅薄な交換による合意で、すべてが”水準を落とし、最終的に、最も力のある人々の法律が支配してしまうのです。

*合意と真理

 211. 多元的な社会では、一時的な合意は別として、対話は、何が常に肯定され、尊重されるべきかを理解するための、最良の方法です。そのような対話は、明確な思考、合理的な議論、多種多様な視点、様々な分野の知識と観点によって豊かにされ、啓発される必要があります。そして、それは、常に支持され、特定の基本的な真理に到達できるか、という確信を排除してはなりません。
特定の永続する価値を認めることは、その価値を識別することがどれほど必要とされるにしても、健全で堅固な社会倫理に役立ちます。これらの基本的な価値が、ひとたび対話と合意によって認められ、採り入れられると、それらの価値が合意を超えることが分かりますー私たちの具体的な状況を超越し、妥協はなくなります。価値の意味と領域についての理解が増すことができ、この点で、合意は動的な現実になりますが、それ自身の中で、その本来の意味のおかげで永続すると思われます。

212. もし、何かが社会がうまく働くのに常に役立つとすれば、その先に、識者たちに理解しやすい永続的な真理があるから、ではないのでしょうか。人間とその社会に本質的に備わっている、私たちの進歩と生存を支えるための特定の基本的構造が、存在するのです。このように特定の必要な事項が後に続き、そして、それらは対話を通して見つけられるにもかかわらず、厳密に言えば、合意によっては作り出されません。特定のルールが社会にまさに活気を与えるのに不可欠だ、という事実は、それ自体として「善である」ということの表われ、なのです。ですから、社会の利益、合意、客観的真理という現実に反対する必要はありません。対話を通して、物事の核心に達するのを恐れないとき、いつもこれらの三つの現実が調和できるのです

213.  他者の尊厳は、いかなる状況においても、大切にされねばなりません。なぜなら、尊厳は、私たちが創り出したり、想像したりするものではなく、人間が固有の価値-有形物や不確定な状況の価値に勝るもの-を持っているからです。このことは、人々がそれぞれ異なる仕方で扱われることを求めます。一人ひとりが奪われることのない尊厳を持っているということは、あらゆる文化的変容の影響を受けない人間性に一致する真理です。

 こうした理由から、人間はいつの時代も、同じ不可侵の尊厳を持っており、この信念を否定したり、背いたりするように特別な立場によって権威づけられている、と考えることは、誰にもできません。識者たちは、熟考、経験、対話を通して、物事の現実を詳しく調べることができ、その現実の中に、普遍的な倫理上の要求の根幹を認識するようになるのです。

 214.不可知論者(注:人間は神の存在を証明することも反証することもできないと主張する者)に対して、このような認識の基盤は、基本的で譲歩の余地がない倫理的な原則-さらなる破滅的状況を回避するのに役立ちうる原則-について、堅固で安定した普遍的な正当性を与えることを、十分に証明できるでしょう。

 信仰者として、私たちは、人間の本性は、倫理的な原則の源として、神によって創造され、最終的にこれらの原則に確固とした基盤を与えたのも神だ、と確信しています(203)。このことは、倫理的な頑固さをもたらすことでも、道徳律のうちのどれか一つを押しつけようとすることでもありません。なぜなら、基本的で普遍的に正当な根拠のある倫理的な原則は、異なった実用的なルールに具現化できるからです。このように、対話のための機会は常に存在するでしょう。

 

*新しい文化 

 215. 「人生は、多くの対立があるにもかかわらず、”出会いの芸術”です」(204)。私は、何度も違いや境界を越えた、文化の出会いとその成長を呼びかけてきました。これは、多くの側面からなる一つの多面体を創出するために働くことを意味し、それらの異なる側面が、多様性を持つ統一をもたらし、そこでは「それぞれの側面より全体が重要」(205)になります。

 多面体のイメージは、「違いが共存する社会」、「対立や疑念の渦中にあっても、互いを補い合い、豊かにし、啓発し合う社会」として示すことができます。私たちは誰でも他の人から何かを学ぶことができ、誰一人として、役に立たない人も、使い捨てにされてよい人も、いません。これは同じように、社会の周縁部にいる人たちをも包含する道を見つけることを意味します。それは、周辺部にいる人たちは、物事を別の角度から見ており、自己に有利な決定をする権力の中心にいる人たちには見えない、現実の様々な側面を見ているからです。

*文化となる出会い 

 216. 「文化」という言葉は、民族の中で最も大切に培われてきた信念と生活様式が深く埋め込まれたものを指します。民族の文化は、抽象的な概念ではなく、彼らの欲求、関心、究極的には人生の生き方と関連があります。「出会いの文化」について語ることは、私たちが民族として、他者と会うことに情熱を燃やすこと-接点を探し求め、橋を架け、すべの人を含む計画を立てること-を意味します。それが、強い願望と生活様式になるのです。このような文化の主体はその民族。専門家やメディアの力を借りて他の人々を鎮めるような社会の単なる一部ではありません。

 217. 社会的平和は、大変な努力、熟練を必要とします。器用さと少ない資源で自由と相違を維持するのはそれよりも易しいかもしれません。しかし、そのようにして得られた平和は、浅薄で脆弱で、永続する安定をもたらす”出会いの文化”の成果を生まないでしょう。違いをまとめることは、はるかに難しく、時間のかかるプロセスとなりますが、本物の永続する平和を保証します。そのような平和は、純粋で無傷の人々だけに頼ることでは獲得できません。なぜなら、「過失のために疑問をもたれる人々でさえ、見過ごすことのできないものを持っている」(206)からです。

  社会的な要求を無視したり、騒ぎを鎮めたりしても、平和は訪れません。平和は「書類上の合意や満足した少数者のための、つかの間の平和」(207)ではないからです。重要なことは、出会いのプロセス、違いを受け入れることのできる人々を作りあげるプロセスを作り上げることです。私たちの子どもたちに、「対話」という武器で持たせましょう!”出会いの文化”を善戦するよう教えましょう!

*他者を認めることの喜び 

218. これらのことすべては、他の人々にも、自分自身らしくする権利、違いをもつ権利があることを認識する能力を要求します。そのような認識が文化となり、社会契約の創出を可能とします。社会契約がなければ、他の人々を、社会にとって取るに足りない、無関係の、価値のないものとみなす、悪賢い方法を見つけてしまう可能性があります。目に見えるような形の暴力を退けても、もっと狡猾な類いの暴力が根を下ろす可能性があります。それは、自分とは違う人々、特に彼らの要求が自分の利益を損なわせるような人々、を嫌悪する者たちの暴力です。

 219. 社会の一部が、世界の人々が提供せねばならないものすべてを不当に利用し、あたかも貧しい人々は存在しないかのように振る舞うなら、結局は重大な結果を持たることになるでしょう。他の人々の存在と権利を無視することは、早晩、何らかの暴力の形をとって、噴き出してくるでしょう。自由、平等、友愛が一人ひとりに適用されないかぎり、高遠な理想のままであり続けてしまいます。

 出会いは、経済的、政治的、学術的な力をもつ者の間だけのものであるはずがありません。本物の社会的な出会いは、大多数の人々によって共有される文化に関わる対話が必要です。よくあるのは、良い考えが社会の貧しい人々に受け入れられないことですが、それは、そうした考えが、彼ら自身のものではなく共感できない文化的な体裁で提示されるからです。現実的で包括的な社会契約もまた、「文化契約」、異なる世界観、文化、生活様式の共存を尊重し、認める契約でなければなりません。

220.たとえば、先住民の人々は進歩に反対ではありませんが、進歩の概念が違っていて、先進国の現代的な進歩よりも人間的なことがよくあります。彼らの考える進歩は、自分たちだけで「ある種の世俗的な楽園」を作ろうとする力を持つ者たちを利するような文化ではありません。固有の大衆文化に対する不寛容と敬意の欠如は、冷たく批判的な彼らに対する見方に根差した暴力の一形態です。

 本物の、深みと持続力のある変化は、異なる文化、特に貧しい人々の文化から始まるのでなければ、可能ではありません。文化契約は、特定の場所のもつ独自性を一枚岩的に理解することを控えます。すべての人に前進と社会的な融合の機会を提供することによって、多様性への敬意を必ず引き起こします。

221. そのような契約はまた、共通善のためにいくつかのことを捨てねばならない場合もある、ということを認めるよう求めます。誰にも、すべての真実を所有することも、彼、あるいは彼女の欲求をすべて満たすこともできません。なぜなら、そのようなことができると主張することは、相手の権利を否定し、力をそぐことに繋がるからです。

寛容についての誤った考えは、人々に同じことをする権利があることを認める一方で、自分自身の信条に忠実であり続ける人々、男女の側の、対話の現実主義に道を譲らねばなりません。これが他の人々についての本当の認識、愛だけで可能になるものなのです。もしも、他の人々の動機と関心の中に、本物、あるいは少なくとも理解できるものを見出さねばならない、とすれば、私たちは他の人々の立場に立たねばなりません。

*思いやりを取り戻す

 222. 大量消費・個人主義は、ひどい不正につながっています。私たちは、他の人々を、自分の平穏な生活の単なる”障害物”と見なすようになり、さらには”頭痛の種”として扱い、次第にけんか腰になっていきます。恐慌、大災害、困窮の時には、こうした傾向がさらに強まり、古い諺にあるように「自分の身は自分で守れ」と思いたくなります。でも、そのような時でさえ、私たちは思いやりを養うことを選ぶことができるのです。そうする人は、闇のただ中で「輝く星」になります。

 223. 聖パウロは、思いやり(kindness)を「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と記述しています。彼はギリシャ語の chrestotesでこの意味を表現していますが、ギリシャ語のこの言葉は「優しい」「温かい」「同情」という人の態度を表わし、「無礼「粗野」ではありません。このような資質の人たちは、他の人々の生活の重荷-特に彼らが抱える問題、困窮、恐怖といった重荷-を分かち合うことで、彼らが耐え易くなるように手助けをします。他にも様々な形の対応-親切な行為、言葉や行為で相手を不快にさせない配慮、喜んで彼らの重荷を軽減する-があります。それには「慰め、力、安らぎ、勇気という言葉を話すこと」が含まれますが、「貶める、悲しませる、怒る、侮蔑を示す」(208)ような言葉はありません。

 224. 思いやりは、時として人間関係を汚染する残酷さから、他の人々について考えないようにする不安な気持ちから、他の人々も自分と同じように幸せになる権利があることを忘れる激しく動揺した振る舞いから、私たちを解放します。最近、私たちには、足を止めて他人に思いやりを示す、あるいは「すみません」「ごめんなさい」「ありがとう」と言う時間もエネルギーもないことが、よくあります。

 それでも時折、奇跡的にも、思いやりのある人が現われ、皆が無関心の中で、他の人のことに関心を示し、自分がしていた事をすべて脇に置いて、ほほえみをプレゼントし、励ましの言葉をかけ、耳を傾けます。もし私たちが、この人と同じ努力を日々するなら、健全な社会環境を作ることができ、誤解は克服され、争いの芽は摘まれることになるでしょう。思いやりは養われるべきものです。浅薄なブルジョアの美徳ではありません。思いやりは他の人々への尊重と尊敬を伴うものであるからこそ、ひとたび思いやりが社会の中で文化になると、それは生活様式、交流関係、意見を交わし、比べるやり方一変させるのです。思いやりは合意を求めやすくし、敵意と衝突が全ての関係を断とうとするところに、新たな道を開くのです。

 

 

第7章 新しい出会いの道のり PATHS OF RENEWED ENCOUNTER

 

225. 世界の多くの地域では、深い傷を癒すための、平和の道が必要とされています。また、癒しと新たな出会いの取り組みを始めるために、大胆かつ創造的に活動し、平和をもたらす男女が必要です。

*真実から新たに始める 

 226. 新たな出会いとは、紛争以前に戻ることではありません。私たちは皆、時とともに変わっていきます。痛みと争いが私たちを変えます。現実を覆い隠すような空虚な外交、偽り、”二枚舌”、隠された思惑、現実を隠す巧みな振る舞いは、もはや通用しません。凶暴な敵同士であった者たちは、苛酷で明白な真実から話さねばなりませんー自分たちの後悔や問題や計画で未来を曇らせないために、過去を受け入れることのできる、悔悟の記憶を思い起こす力の養い方を学ばねばなりません。  出来事の歴史的真実に基づくことによってのみ、彼らはお互いを理解し、万人の利益のために、新たな統合を目指し、広く、粘り強い努力をすることができるのです。

 すべての「和平交渉には、永続的な取り組みが必要です。それは、真実と正義を求め、犠牲者を偲び、復讐の念よりも強い共通の希望への道を、一歩一歩、切り開くための忍耐強い努力です」(209)。コンゴの司教団が、繰り返し起きる紛争に関して言っているように、「紙の上の和平合意は十分ではありません。私たちは、繰り返される危機の本当の原因を明らかにすることを求める声に十分配慮することで、さらに進まねばなりません。人々は、何が起こったかを知る権利がある」(210)のです。

227. 「実際、真実とは、正義と憐れみの不可分の仲間です。平和を築くためには、この3つを欠かすことができず、さらに、互いに他方が変えられることを防ぎます…。真実は復讐につながるのではなく、むしろ和解と赦しにつながるべきです。真実とは、痛みで引き裂かれた家族に、行方不明になった親族に、何が起こったのかを伝えることです。真実とは、残酷で凶暴な者たちに徴用された未成年者の身に何が起こったのかを、告白することです。真実とは、暴力や虐待の被害者である女性の痛みを認識することです…。人間に対して行われるすべての暴力行為は、人類の体の傷であり、すべての暴力による死は、人間としての私たちの尊厳を損ないます…。暴力は、もっと多くの暴力を生み、憎しみは、もっと多くの憎しみを、死は、もっと多くの死をもたらします。私たちは、この避けられないように見える循環を断ち切らねばなりません」(211)。

*平和の巧みなわざと構造 

 228.平和への道は、社会を当たり障りのない、画一的なものにすることではなく、すべての人を益する目標を追求するために、人々が力を合わせ、協力し合うことです。様々な実践的な提案と多様な経験は、共通の目標を達成し、共通善に役立てることができます。社会が経験している問題は明確に識別される必要があります。そうした問題を認識し、解決する異なった方法があることが十分に理解されるように。

   社会的な一致への道は常に、他人が、少なくとも部分的でも、正当な観点や貢献できる価値のあるものを持っている可能性を認めることを、必然的に伴います。たとえ彼らが間違っていたとしても、あるいは不適切な行動をとっていたとしても、です。私たちは、「他の人たちが言ったことや行ったことで、その人たちを制約してはならず、むしろ彼らが体現している約束を大切にすべき」(212)です。それは、常に新しい希望の火花をもたらす約束なのです。

 229.南アフリカの司教団は、真の和解が積極的に達成されるために必要なことについて、次のように言明しています。「新しい社会-他の人々を支配するよりも、奉仕することを基礎に置いた社会、可能な限り多くの富を得ようと奪い合うよりも、持っているものを他の人々と分かち合うことを基礎に置いた社会、人間として共に生きる価値が、家族、国家、民族、あるいは文化などよりも、極めて重要である社会-を形成することだ」(213)。

 韓国の司教団が指摘しているように、真の平和は「対話を通じて、和解と相互の発展の追求を通し、正義のために努力することによってのみ、達成される」(214)のです。

 230. 一人ひとりとしての独自性を失わずに、私たちの分裂を克服しようとするためには、すべての人に基本的な帰属意識があることが前提となります。確かに、「各人や社会集団が本当に居心地よく感じるときに、社会はその恩恵を受けます。家族の中では、親、祖父母、子供は皆、居心地よくいられるのです。誰も除外されません。誰かが問題を抱えている場合、たとえ深刻な問題であっても、たとえ本人が自ら招いたことであっても、他の家族の者が彼を助け、彼を支えます。彼の問題は家族の問題なのです 。

  家族の中では、全員が共通の目標に貢献し、全員が共通の益のために働き、各々の個性を否定せずに、励ましたり、支えたりします。喧嘩はするかもしれませんが、変わらないものがあります。それは家族の絆です。家族の論争は必ずその後に解決されます。家族の一人ひとりの喜びや悲しみを全員が感じ取ります。これこそ、家族であることの意味なのです。

 私たちが、政治の分野での競争相手や隣人のことを、自分の子供たちや配偶者、母親、父親のことと同じように見なすことができれば、なんと良いことでしょう。私たちは自分たちの社会を愛しているのでしょうか。それとも、それは何かまだ遠く離れた存在で、私たちの関与しない何か匿名のもので、私たちがそのために尽力することのないもの、なのでしょうか」(215)。

 231.平和への具体的な道筋をつけるためには、しばしば交渉が必要となります。けれども、永続的な平和につながる変化の取り組みは、何よりも人々によって作られています。一人ひとりが、各自の日々の生活の仕方によって効果的なパン種として機能できます。素晴らしい変化は、机に向かっていたり、オフィスにいたりしては、生み出されません。これは、「一つの偉大な創造的な事業の中で果たすべき基本的な役割―希望と平和と和解に満ちた歴史の新しいページを書く役割-が誰にもあること」(216)を意味します。それぞれの専門分野に応じて、異なる社会制度が貢献する平和の「構造」がありますが、私たち全員が関わる平和の「巧みなわざ」もあります。

 世界各地で行われてきた様々な和平交渉から、「私たちは、このような平和のもたらし方、復讐よりも理性を優先させる方法、政治と法律の微妙な調和は、一般の人々の関与を無視できないことを学んできました。平和は、善意の政治的、または経済的集団間の規範的な枠組みや制度的な取り決めによって、達成されることではありません…。 様々な共同体自身が集合記憶(注:集団や社会全体に共有されている記憶のこと)の進歩に影響を与えることができるように、しばしば見過ごされてきた分野の経験を私たちの和平プロセスに取り入れることは、常に有益なことです」(217)。

 232. 一国の社会的平和の構築に終わりはありません。むしろ、それは終わりのない努力であり、すべての人の献身を要求し、国民の団結を構築するために、たゆまぬ努力をするように、私たちに迫ります。 平和共存の達成に向ける途中にある障害、相違、様々な視点にもかかわらず、この取り組みは、『出会いの文化』 を促進するための闘いを粘り強く続けることを、私たちに呼び掛けます。そのためには、私たちは最高の尊厳を享受する人間、および共通善の尊重を、すべての政治的、社会的、経済的活動の中心に置く必要があります。 この決意が、復讐の誘惑と短期的な党派的利害の満足から、私たちを逃す助けとなることを願いましょう。」(218)。

   暴力的な大衆的政治行動は、どちらの側にとっても、解決策を見つける助けにはなりません。その主な理由は、コロンビアの司教団が正しく指摘しているように、「市民のデモの原因と目的は必ずしも明確ではない。特定の政治的な操作が存在し、場合によっては党派的利害のために利用されてきた」(219)からです。

*最も小さな者から始める 

 233.社会的な友好関係の構築とは、歴史上の問題を抱えていた時期に、異なる立場にあった集団間の和解が求められるだけでなく、社会の最も貧しく脆弱な部門との新たな出会いを求めることでもあります。なぜなら、平和とは、「単に戦争がない、ということではなく、見過ごされたり、無視されたりすることが多い、私たちの兄弟姉妹の尊厳を認識し、守り、そして具体的に回復させるための、たゆまぬ努力することであり、とりわけ、大きな責任を負っている者たちにとって、それによって、自分自身を自分たちの国の運命の主な主役と見なすことができる」(220)からです。

234.多くの場合、社会のより脆弱な人たちが、”不公正な一般化”の犠牲者です。貧しい人々や疎外された人々が、反社会的に見える態度で反応することがあったら、そうした反応は多くの場合、軽蔑や社会的排除の歴史から生まれたものであることを認識すべきです。中南米の司教団は、「今日の貧しい人々の価値観、正当な望み、そして彼ら自身の信仰の生き方を、深く理解できるのは、私たちを友人にしてくれる親密さだけだ。貧しい人たちのための選択肢は、私たちを貧しい人たちとの友情に導くはず」(221)ということに気付いています。

235.平穏な社会的共存のために活動している人たちは、不平等と、統合的な人間開発の欠如が平和を不可能にしていることを、決して忘れてはなりません。確かに、「均等な機会がなければ、異なる形態の攻撃と紛争が増殖する肥沃な地勢を見つけ、いつか爆発してしまうでしょう。地域であれ、国家であれ、世界であれ、社会が自らの一部を周縁部に残すことを厭わないとき、法の執行や監視システムに費やされる、いかなる政治的な取り組みや人的物的資源も、いつまでも平穏を保障することはできません」(222)。私たちが新たに始めなければならないとしたら、それは常に私たちの兄弟姉妹の中で「最も小さな者」からでなければなりません。

*赦しの価値と意味 

 236.和解について語らない方がいい、と考えている人たちがいます。なぜなら、彼らは紛争、暴力、崩壊は「社会の正常な機能の一部」と考えているからです。どのような人間の集団においても、常に様々な当事者の間では、多かれ少なかれ、微妙な権力闘争が存在するのです。他の人たちは、赦しを促進するのは、自分の立場と影響力を他人に譲歩することを意味すると考えています。そのため、彼らは異なる集団間の勢力の均衡を保ちつつ、現状を維持した方が良い、と考えています。さらに、和解とは、弱さの表れだ、と考える人もいます。その人たちは本当の意味での真剣な対話ができず、不正なことを無視することによって、問題を回避することを選択します。彼らは問題に対処することができず、見かけ上の”平和”を選んでしまいます。

 

*避けられない対立 

 237. 赦しと和解は、キリスト教の中心的なテーマであり、そして様々な形で、他の宗教の中心的なテーマでもあります。しかし、これらの深い信念の理解と提示が不十分だと、運命論や無関心、不正、さらには不寛容や暴力につながる危険性があります。

 238.イエスは決して暴力や不寛容を促されませんでした。イエスは、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ福音書20章25節~26節)と、他人に対する権力を得るための武力行使を公然と非難しました。

 代わりに、福音書は「七の七十倍」(マタイ福音書18章22節)赦すように、私たちに教えており、また、自分自身は赦されているのに他人を赦すことができなかった、無慈悲な召使いの例を示してくれています(マタイ福音書18章23節~35節参照)。

239.新約聖書の他の箇所を読むと、腐敗と逸脱が蔓延した異教の世界に住む初期のキリスト教共同体が、いかに揺るぎない忍耐、寛容、理解を示そうとしたか、が分かります。いくつかの箇所には、この点について非常に明確なものがあります。

 私たちは、反対する者を「柔和な心で」教え導くように教えられており(使徒パウロのテモテへの手紙2・2章25節)、「誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。私たち自身もかつては無分別」(使徒パウロのテトスへの手紙3章2節~3節)だったからだ、と促されています。使徒言行録には、一部の権威によって迫害されていたにもかかわらず、弟子たちは「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章47節、4章21節、33節、5章13節参照)と記されています。

 240. しかし、赦しと平和と社会的調和について深く考えるとき、私たちはまた、キリストの耳障りな御言葉にも出会います―「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。/人をその父に/娘を母に/嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる」(マタイ福音書10章34節~36節)。

 これらの御言葉は、それが出てきた章の文脈の中で理解される必要があります。そこで、イエスがご自分に従う私たちの決断への忠実さ、を語っておられるのは明らかです。たとえその決断が様々な苦難を伴うものであっても、そして私たちの愛する人でさえ、それを受け入れるのを拒否しても、私たちはその決断を恥じるべきではありません。

   キリストの御言葉は、私たちに争いを求めるように勧めるのではなく、家族や社会の想定された平和のための他人への恭順が私たち自身の忠実さを損なうことのないように、避けられないときには耐え忍ぶことを促しているのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、教会は「あらゆる可能性のある社会的紛争を非難するつもりはありません。教会は、歴史の経過の中で、異なる社会集団間の利害の衝突が必然的に生じることを十分に認識しており、そのような紛争に直面する、キリスト者はしばしば、正直に、そして断固として、立場を取らなければならない」(223)と述べています。

 

*正当な対立と赦し 

 241.また、これは、私たち自身の権利を放棄したり、腐敗した役人や犯罪者、あるいは私たちの尊厳を傷つけたりするような人たちに立ち向かうことになっても、赦しを呼びかける、という意味でもありません。私たちは例外なく、すべての人を愛するように召されています。同時に、抑圧者を愛することは、その人が私たちを抑圧し続けることを許したり、彼がすることが許容されると思わせたりすることを、意味しません。そうではなく、抑圧者に対する真の愛とは、「抑圧をやめさせる方法を模索すること」であり、「彼が行使の仕方の分からない、自分と他人の人間性を損なう権力を剥ぎ取ること」を意味します。

    赦しとは、抑圧者が自分の尊厳と他人の尊厳を踏みにじり続けることを許したり、犯罪者が悪行を続けることを許したりすることではありません。不正に苦しむ人々は、神様からの愛情深い賜物として授かった尊厳を守らなければならないからこそ、自分と家族の権利を積極的に守らなければなりません。犯罪者が私や愛する人に危害を加えた場合、私が正義を求め、この人あるいは他の誰かが、再び私や他の人に危害を加えないように保障することを誰も禁じることはできません。これは完全に公正なことです。赦しはそれを禁じるのではなく、実際にはそれを要求します。

242. 大切なのは、私たち自身の魂や民族の魂にとって不健康な怒りを煽ったり、復讐や相手を滅ぼすようなことに執着したりしないことです。そのようなやり方では、誰も内なる平安を達成したり、普通の生活に戻ったりすることはできません。真実は、「人々を団結させ、一緒にし、違いを解決する力が、復讐と憎しみから生まれるものであるなら、いかなる家族にも、隣人の集団にも、いかなる民族にも、ましてや国にも、未来はない」ということです。 「私たちは、復讐のために和解し、団結することはできません。他人が私たちに遭わせたのと同じ暴力で、他人に遭わせたり、一見合法的な庇護の下で、報復の機会を計画したりすることもできません」(224)。そのようにして得られるものは何もなく、結局、すべてが失われてしまうのです。

243.確かに「紛争が残した不正、敵意、不信という苦い後遺症を克服するのは簡単なことではありません。それは、善をもって悪を克服し(使徒パウロのローマの信徒への手紙12章21節)、和解、団結、平和を育む美徳を培うことによってのみ可能」(225)なのです。そのようにして「善良な心を養う人は、困難や誤解の中にあっても、善良さが平和な良心と深い喜びに繋がることに気付くのです。たとえ怒っていても、善は決して弱くはなく、むしろ復讐を拒むことで強さを示します」(226)。

 私たち一人一人が気付くべきです。「私たちが自分の兄弟や姉妹に対して抱く手厳しい見方、癒されなかった傷、決して許されなかった罪、自分を傷つけるだけの憎しみさえも、全ては自分の心の中に抱える苦悶、大きく激しい炎になる前に消される必要のある”心の奥深くに燃える小さな炎””だ」(227)ということを。

*先に進むための最良の方法 

244. 対立が解消されず、隠されたり、過去に終わったこととされたりする場合、黙っていることは、重大な犯罪の共犯者になってしまう可能性があります。 本物の和解は、対立から逃げず、対話と、率直、誠実で忍耐強い交渉をすることで、達成されます。 異なる集団の間の対立は「憎しみや互いの嫌悪を自制すれば、正義への欲求に基づく、互いの相違についての率直な議論に徐々に変化」(228)します。

245. 私は何度もこのように話してきました。「社会における友情の構築に不可欠な原則、すなわち、一致は、対立よりも優れている… それは、一種の混合主義(syncretism=異なる信仰や一見相矛盾する信仰を、結合・混合すること、さまざまな学派・流派の実践・慣習を混合すること)や、一方の他方への吸収を選ぶのではなく、もうひとつ高いレベルで、双方が妥当で有益なものを保てるような解決を選ぶことだ」(229)と。

 私たち皆が知っているのは、「私たちが、個人や共同体として、自分や特定の利益よりも先を見ることを学ぶとき、対立、緊張、そして集団でさえ反目していると考えられていたものが、新しい命のもととなる多面的な一致を成し遂げることが可能な状況の中で、理解と相互の関わり合いが実を結ぶ…」(230)ということです。

*記憶について

 246. 多くの不当で残酷な苦しみに耐えてきた人々について、一種の「社会的な赦し」が求められてはなりません。 和解は個人的な行為であり、誰もそれを社会全体に押し付けることはできません。ただ、それを促進する必要性は非常に大きい。 それが社会とその司法制度によって全く合法的にそうすることが求められたとしても、厳密に個人的なやり方で、自由で寛大な判断によって、誰かが罰することを求めることを選ばない(マタイ福音書5章44-46節)ことはできます。

しかし、命令によって傷口を縛ったり、“忘却のマント”で不正行為を覆い隠したりすることで”包括的な和解”を宣言することはできません。誰が他の人の名において、赦す権利を主張できますか?受けた危害を忘れておくことのできる人によって示される赦しは感動的ですが、それはまた、赦すことのできない人にとっては人間的に理解しがたいことです。どのような場合にも、忘れることは決して、答えになりません。

247. 「ショア」(注:フランスのクロード・ランズマン監督が1985年に完成した長編映画。ユダヤ人絶滅政策ーホロコーストーに関わった人々へのインタビュー集だが、演出もところどころにされており、全くのドキュメンタリーではない)を忘れてはなりません。 それは、「誤ったイデオロギーに駆り立てられ、民族の起源や宗教的な信念に関係なく無条件に尊敬に値する一人ひとりの基本的な尊厳が見えなくなった時に、人の悪が沈む深さの永続的なシンボル」(231)です。

このことについて考える時、私はこのような祈りを繰り返さずにはいられません。「主よ、あなたの憐れみの中で私たちを思い起こしてください。 私たちに、自分たち人間がしたことを恥じ、この巨大な偶像崇拝を、あなたが土から創られ、その息で命を与えられた私たち自身の肉を軽んじ、打ち砕いたことを恥じる恵みを、お与えください。 そのようなことは二度と、主よ、二度といたしません!」(232)。

248. 広島と長崎に投下された原子爆弾も、忘れてはなりません。 もう一度、言います。「私はすべての犠牲者の方々に敬意を表します。そして、最初の瞬間を生き延び、その後何年もの間、肉体的な酷い苦しみと、活力を枯渇させた死の精神的な源に耐えた人々の力強さと尊厳に頭を下げます。 現在そして将来の世代が、過去に起きたこのようなことの記憶を失うことは、許されません。

それは、より公正で友愛に満ちた未来の構築を確実にし、奨励する記憶なのです」(233)。 また、さまざまな国で続いている迫害、奴隷取引、民族の抹殺、そして私たち人類を恥じさせる他の多くの歴史的出来事を、忘れてはなりません。 それらは常に、そして新たに記憶する必要があります。 私たちは決して、そうしたことに習慣化したり、慣れたりしてはなりません。

249.今では、ページをめくり、「これらすべてのことは、ずっと昔に起きたことだ。未来に目を向けるべきだ」と考えたくなるのは簡単です。でも、どうか、そのように考えないように!過去を振り返らずに、前に進むことはできません。正直で曇りのない記憶を欠いては、進歩しません。私たちは「集合意識(注:社会の成員に共通している信念や感情の総体)の炎を燃やし続け、起こったことの恐怖を次の世代に証言していく必要があります。なぜなら、証言は、「犠牲となった人々の記憶を蘇らせ、保存し、それによって、支配と破壊のあらゆる欲求に対して、人間の良心が立ち上がるようにする」(234)からです。

 犠牲者自身、個人、社会集団または国家が、そうする必要があります。大きな罪悪への忍耐という理由を付けて、報復とあらゆる種類の暴力を正当化する思考に負けないように。そのために、私が考えるのは、残虐行為だけでなく、そのように大きな非人道性と腐敗の中で尊厳を保ち、連帯、赦し、そして友愛を選んだすべての人々を、記憶することの必要性です。善いことを記憶することも、健全なことです。

*赦すことは「忘れること」ではない 

 250. 赦すことは「忘れること」を意味しませんー否定したり、相対化したり、隠蔽したりを決してできない現実に直面するとき、赦しがなお可能になるということです。決して容認できない、正当化できない、あるいは言い訳のできない行為に直面した時、私たちはそれでも赦すことができるのです。何らかの理由で忘れることのできないものに直面したとき、私たちはそれでも赦すことができるのです。強制されたのではない、心からの赦しは、気高く、赦すという神の無限の力の反映なのです。もし赦しが無償であれば、悔い改めに抵抗のある、赦しを乞えない人にさえ、示すことができるのです。

251. 本当に赦す人は、「忘れた」のではありません。忘れる代わりに、自分をひどく苦しめた破壊的な力と同じ力に従わない道を選んだのです。本当に赦す人は悪循環を断ち切り、破壊力が進むのを止めます。大打撃をもたらすような復讐心を、社会に広めない道を選びます。復讐が犠牲になった人を満足させることは、決してありません。犯罪があまりにもおぞましく、残酷であるため、犯人を罰しても受けた損害を償うのに十分ではないからです。犯人を殺したとしても、十分ではないし、どのように拷問をしても、犠牲になった人に与えられた苦痛に見合わないことは明らかです。復讐は何も解決しません。

 252. これは、処罰を免れることを意味しません。正義は、個人的な怒りのはけ口としてではなく、新たな罪を防ぎ、共通善を守る手段として、愛の正義と犠牲者への敬意から、適切な形で追求されるべきです。赦しはまさに、復讐の悪循環や忘却という不正に陥ることなく、正義を追求することを可能にするのです。

 253. 不正行為が双方に起きたとき、それが同程度に重大なのか、それとも何らかの方法で比べられるのかを、明確に考慮に入れることが重要です。国家が、組織や権力を使って犯した暴力は、特定の集団による暴力と同じ程度ではありません。いかなる出来事においても、一方の不当な被害だけを悼むべきだと主張することはできません。クロアチアの司教団は言明しています。「私たちは罪のない犠牲者一人ひとりに対して同等の敬意を払わなくてはならない。人種、国家、信仰、あるいは党派による差異は存在しえない」(235)と。

 254. 私は神に祈ります。「兄弟姉妹との出会いのために、私たちの心の準備をさせてくださいますように。そうすれば、私たちは政治的な考えや、言葉、文化、宗教から来る違いを克服できるやようになります。神の慈しみの香油で私たちの全身を聖別し、過ち、誤解、不和から生じた傷を癒やしてくださいますように。そして平和を求める厳しくも豊かな道へ、謙遜と優しさをもって、私たちを派遣してくださる恵みを、神にお願いしましょう」(236)。

*戦争と死刑 

 255.  特に劇的な環境での”解決策”として目にするかも知れない二つの極端な選択肢があります。そのような選択肢は、問題の解決にはならない誤った回答、そして国と国際社会の構造を破壊するような新たな要素をもたらす以外の何ものでもないものだ、という自覚を欠いたもの。つまり、それは「戦争」と「死刑」です。

 

*戦争の不正 

 256. 「悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜び」(箴言12章20節)があります。それでも、「戦争」に解決策を見出そうとする人々がいます。戦争は、さまざまな関係の崩壊、覇権主義的な野心、権力の乱用、他者への恐怖、多様性を障害物と見なす傾向、によって煽られることがよくあります(237)。戦争は過去からやってくる亡霊ではなく、常に存在する脅威なのです。私たちの世界は、「すでに活動を始め、良い実をつけ始めた平和への遅々とした歩み」の途上において、増大するさまざまな困難に遭遇しています。

257. 戦争の勃発を支持する状況が再び拡大していることから、私は何度も繰り返してこう言います。「戦争は、あらゆる権利の否定であり、環境への酷い攻撃です。もし私たちが真の人類の発展を望むなら、国家や人々の間の争いを避けるように、根気強く働かねばなりません。そのために、争う余地のない法の支配と、交渉、仲裁、調停に軸を置く姿勢を確実にする必要がありますー基本的な法的規範を定めた国連憲章が提示(238)しているように」。

 国連創設から75年と二千年期の最初の20年の経験は、国際的な規範の完全な適用がまさに有効であること、そしてその規範の適用に失敗することが害をもたらすことを教えました。
国連憲章は、透明性と誠実さをもって注意深く対象を観察し、適用されれば、守るべき正義の基準、平和への道筋になります。そこには、不当な意図を偽装したり、国や集団の党派的な利益を全地球的な共通善に優越させる余地はありません。諸規律が、都合の良い時に使われ、そうでなければ無視される、単なる手段として考えられるなら、制御できない力が解き放たれ、様々な社会、貧しく、傷つきやすい人々、友愛的な関係、環境、文化財に深刻な損害を与え、地球社会のとって取り返しのつかない損失をもたらします。

 258.戦争は、容易に選択されますーあらゆる種類のいわゆる人道主義的、防御的、あるいは予防的な言い訳に訴えることで、そして情報を操作することで、です。この数十年間、どの戦争も、表面的には「正当化」されてきました。「カトリック教会のカテキズム」は、軍事力を手段とした合法的な防御の可能性について語っています。そこには、特定の「倫理的正当性の厳格な条件」(239)がそろっていることを示すことも含まれています。 

 ただ、防御の権利を使うことについて、行き過ぎた拡大解釈に陥るのは容易です。そのようにして、ある人々は、”予防的”な攻撃や戦争行為-「取り除こうとする害よりも、もっと深刻な害や混乱」(240)を伴うのがほとんど避けられない行為-さえも、不当に正当化します。

 核兵器、生物化学兵器の開発や、新たな技術によって、もたらされる巨大で増大する(注:兵器としての)可能性が、戦争に、とても多くの罪のない一般人に対する制御不能の破壊力をもたらしているかどうかについて、議論が続いています。真理は「人類が自らに対してそのような力を持ったことは一度もなく、 しかも、そのような力が賢明に使われる保証は何もない」(241)ことにあります。

 私たちはもはや、戦争を解決策として考えることはできません。戦争がもたらす危険の可能性が、想定される利益よりも、恐らく、常にはるかに大きいからです。このような観点から、「正義の戦い」の可能性について語るために、これまで何世紀にもわたって入念に作られた合理的な基準を引き合いに出すことは、今日では極めて難しい。戦争は二度とあってはならない(242)のです!

 259. グローバル化の進展とともに、世界のある一つの地域の即時的、実際的な解決策と思われるものが、暴力の連鎖の始まり、結果として、地球全体に危害を与え、将来の新たな、もっとひどい戦争への道を開く潜在的な作用の始まりに、しばしばなるのだ、ということを、付け加える必要があります。

 今日の世界では、ある国と他の国で別々に戦争が起きることは、もはやありえません。私たちが体験しているのは「(注:一つのものが)断片的になされる世界大戦」です。国々の運命はグローバルな舞台で互いに極めて密接に関係づけられているからです。

 260. 聖ヨハネ23世教皇の「戦争は侵害された正義の修復に適切な道具である、と断言することは、もはや道理にかなっていない」(243)という言葉があります。彼は、大きな国際的緊張の最中に、この言葉によって、冷戦時代に高まった平和への強い願いを表わしたのです。平和を訴えることは、いかなる特定の利益のたくらみや武器使用への信頼よりも有効である、という確信を、彼は支持しました。

 しかし、冷戦終結によってもたらされた機会は、将来に対する洞察と、運命共同体という自覚の共有が足りなかったために、十分に活かされませんでした。その代わりに、普遍的な共通善を掲げずに、党派的な利益を追求する方が容易だ、ということになってしまった。こうして、戦争という恐ろしい怪物が、新たな地歩を固め始めたのです。

261. いかなる戦争も、私たちの世界を戦争前よりも悪化させています。戦争は、政治と人間性の敗北、恥ずべき解決の断念、悪の力の前での手痛い敗北です。”理論的議論”という泥沼にはまり続けるのではなく、傷ついた犠牲者の身体に触れましょう。「巻き添え」にされたすべての一般市民の死を、もう一度見ましょう。犠牲者自身に尋ねましょう。避難民や強制退去させられた人々、放射能や化学兵器の被害を受けた人々、子供を失った母親たち、身体的に不具になったり、”子供として過ごす時”を奪われた少年、少女のことを考えましょう。

 暴力の犠牲者たちの実際の話を聞き、彼らの目を通して現実を見つめ、心を開いて彼らの語る話に耳を傾けましょう。そうすることで、戦争の核心である”悪の地獄”を実感することができるのです。「平和を選ぶ軟弱な連中」とみなされても、私たちが悩むことはないでしょう。

262. もし私たちが、今起きている問題の解決として、核兵器、化学兵器、生物兵器の恐怖、あるいは脅威が「抑止力」になる、と考え続けるなら、ルールだけでは十分でありません。実際、平和と安全に対する最も重大な脅威―21世紀の多極な世界で多くの特性を持つ、たとえば、テロ、不均衡な戦い、ネットワーク上の安全保障(サイバーセキュリティ)、環境問題、貧困― を考えた場合、そのような課題への効果的な対応策としてきた”中途半端な核の抑止力”にかなり多くの疑問が生じます。

 どのような形であっても、核兵器の使用がもたらす、致命的な、人道上の、そして環境上の結果を考慮するとき、これらの懸念は、一層大きくなります。核兵器は、時間と場所を越えて、破壊的、無差別的、抑制不可能な影響を与えるからです。恐怖からくる安定が、実は恐怖を増大させ、人々の信頼関係を徐々に失わせるとき、どのようにして、この安定を持続できるか、私たち自身に問いかける必要があります。国際的な平和と安定は、安全に対する誤った意識、相互破壊や全滅の恐怖、単なる力のバランスの維持に基づくものであってはなりません。

 こうした文脈から、核兵器全廃という最終目的は、課題であり、倫理的、人道的責務となります。相互依存の増大とグローバル化は、「核兵器の脅威に対する対応は、すべて相互信頼に基づき、共同的、協調的であるべきだ」ということを意味します。このような相互信頼は、共通善に誠実に導かれる対話によってのみ、実現できます。ベールに覆われた、あるいは特定の利益を目指すような対話によって、ではありません」(244)。武器やその他の軍事費に使われるお金で、最終的に飢餓を終わらせ、最貧国の発展を奨励するグローバル基金(245)を創設しましょう。そうすれば、それらの国々の人々が、暴力や錯覚した解決策に訴えたり、より尊厳のある人生を求めて祖国を去る必要はなくなるでしょう。

 

*死刑について 

 263. もう一つ、他の人々を排除するやり方があります。それは、国ではなく個人に向けられたものー死刑です。聖ヨハネ・パウロ2世は、死刑は、倫理的観点から不適切であり、罰を科す正義という観点からももはや必要ではない、と明確かつ毅然として主張されています(246)。この立場から後退することはできません。今日、私たちは、はっきりと言います。「死刑は容認できない(247)し、カトリック教会は毅然として死刑廃止を世界中に求め、熱心に取り組む」(248)と。

 264. 新約聖書には、正義の名をもって自分の手で制裁してはならない(ローマの信徒への手紙12章17-19節参照)とする一方で、悪を行う者に権力が罰を科すことは必要(同13章4節、ペトロの手紙1・2章14節参照)との認識も示されています。実に、組織化された共同体を中心に組み立てられた市民生活は、共生のルール-故意の侵害に対して適切な償いを求めること-を必要とします」(249)。それは、合法的な公的権威は「犯罪の重大さに応じた罰を与える」(250)ことができ、そうせねばならないこと、そして司法権は「法律の領域で必要な独立性」(251)が保証されること、を意味します。

 265. 教会の最も初期の時代から、死刑に明確に反対していた人々がいました。例えばラクタンティウス(注:ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス(240頃 – 320頃)=キリスト教初期の神学者。最初のキリスト教徒ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1の助言者となり、その宗教政策が発展するように導いた)は、「一つでも例外があってはならない。一人の人を死刑にするのは常に違法である」(252)と断言しました。教皇ニコラウス1世(820頃? – 867。第105代ローマ教皇で在位は8584 – 867年11月)は、「無罪の人々だけでなく、いかなる有罪の人々も死刑から自由にする」(253)努力がなされるべきである、と強く主張しました。

    二人の司祭を殺害した犯人たちの裁判で、聖アウグスチヌスは、次のような理由を挙げて、彼らの命を奪わないように裁判官に求めました。「私たちは、あなたが、このような邪悪な者たちから、さらに罪を重ねる自由を奪うことに、反対しません。私たちの願いは、彼らの命を奪ったり、肉体の一部を損傷したりせずに、正義が全うされること、そしてまた、法による強制的な手段を用いて、彼らの理不尽な怒りを、健全な精神をもつ人の落ち着きに改め、悪事から何か役立つ職に就くようすること、なのです。有罪判決も考えられますが、そうせずに、野蛮な暴力が抑えられ、悔い改めさせるような矯正措置がとられる場合には、単なる制裁措置よりも有益だ、と考えられるべきです。彼らの罪である残虐な行為が、被害者の復讐心を煽ることなく、そうした行為が彼らの心に与えた傷を癒すことを切望させるように」(254)。.

266. 恐怖と憤りは、罰を、癒しや社会復帰へのプロセスの一環としてよりも、むしろ容易に、執念深く、残虐な手段として見るようになります。今日、いくつかの党派と特定のメディアは、犯罪に責任のある人々に対してだけでなく、立証されているかいないかにかかわらず、法律違反の疑いのある人々に対しての、公的、私的な暴力と報復を煽りたてています。時として意図的に、(注:特定の人や集団を)敵―社会にとっての脅威と感知され、解釈されるような特徴を示す人物―に仕立て上げる傾向もみられます。これらのイメージを形成するメカニズムは、人種差別主義者の考えを拡散させることを許したことと同じです(255)。このことは、世界のいくつかの国で、予防拘禁、裁判なしの投獄、そして死刑を慣行が強まることで、ますます危険性を増しています。

267. ここで私は強調したいと思いますー「今日、国家は、危害を与える者から人々の命を守るために死刑以外の手段をもたない、と考えることはできない」と。これに関して特に重大なのは、いわゆる”裁判外”あるいは超法規的な死刑の執行です。これは、「国家とその代理人に委任された故意になされる殺人行為。だが、『犯罪者とのぶつかり合いの結果だ』として見過ごされたり、『法律に則った理にかなった必要で適正な力の行使による意図しない結果だ』とされたりすることが、しばしばある」(256)のです。

 268. 「死刑に反対する議論は、数多く、よく知られています。カトリック教会は、これらの議論の幾つか-例えば、裁判官が判断を誤る可能性、あるいは、全体主義や独裁主義体制が、政治的な立場の違う人々を抑圧し、宗教的、文化的な少数派を迫害するための手段としての処罰-について注意を喚起してきました。迫害の犠牲者たちすべてが、そうした体制の国では法律で”犯罪者”と見なされるのです。今日、すべてのキリスト教徒と善意の人々は、合法、非合法を問わず、あらゆる形の死刑の廃止だけでなく、自由を奪われた人々の人間的尊厳の重んじることから、刑務所の環境改善へ、働きかけをするように求められています。私は死刑を終身刑と関連ずけたいと思います… 終身刑は、隠された形の死刑です」(257)。

 269. 覚えておきましょう。「殺人者であっても個人の尊厳は存在する。神ご自身がこれを保証すると約束されている」(258)ことを。死刑を断固として拒否することは、奪うことのできない一人ひとりの尊厳をどこまでも認めること、この世界で彼あるいは彼女の居場所がどこまでも存在すること、を受け入れることを示します。もし犯罪者の中で最も極悪な者の尊厳を否定しないなら、私は誰の尊厳も否定しないでしょう。互いの違いにもかかわらず、私は、この地球を分かち合う可能性を全ての人に与えたい。

270. この点について判断をためらい続けているキリスト教徒に、どんな形であれ暴力に屈する誘惑に駆られている人々に、イザヤ書の言葉を心に留めていただきたいと思います。「彼らはその剣を鋤きに打ち直す」(イザヤ書2章4節)。私たちにとって、この預言は、キリスト・イエスにおいて新たにされます。彼は、暴力を振るいそうになった弟子たちを目にして、きっぱりと言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる」(マタイ26章52節)と。これらの言葉は古くからの警告を繰り返しています。「私は人に、命の償いを求める。人の血を流す者は、人によってその血を流される」(創世記9章5-6節)。イエスの御心から湧き出た言葉は、何世紀にも及ぶ間隙を埋め、永続的な訴えとして現在まで届いているのです。

第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教

CHAPTER EIGHT RELIGIONS AT THE SERVICE OF FRATERNITY IN OUR WORLD

271. さまざまに異なった宗教は、神の子と呼ばれる被造物としての1人ひとりの人間への敬意を基礎に置き、社会における友愛を作り上げ、正義を守ることに、重要な貢献をしています。 異なった宗教を信仰する人々の間の対話は、単に外交関係のため、思いやりあるいは寛容さを示すために行われるのではありません。 インドの司教団の言葉を借りれば、「対話が目指すものは、友情、平和、調和を確立し、真理と愛の精神において、霊的、道徳的な価値と経験を共有すること」(259)なのです。

*究極の基礎

 272. 信者として、父に対しすべてにわたって心を開いていなければ、友愛を呼びかける揺るぎない、しっかりとした理由はない、と私たちは確信しています。 「私たちは孤児ではなく、子供なのだ、ということに気付くことだけで、互いに心穏やかに暮らせる」(260)と確信しています。それは、「理性それ自体は、人の間の平等をしっかりと理解し、彼ら市民の共存を安定させられるが、友愛を確立することはできない」(261)からです。

 273. この点に関して、私は記憶に残る次の言葉を引用したいと思います。「もしも、超越的な真理-それに従って人が、自己の完全な主体性を達成する真理-が無いのなら、人々の間の公正な関係を保証する確かな原則もない。階級、集団、国家としての利己心は、必然的に、彼らを対立させるだろう。人が超越的な真理を認めなければ、権力は引き継がれ、他の人々の権利などおかまいなく、自分の利益や自分の意見を押し通すために、それぞれが持てる手段を意のままに最大限に使う傾向に陥る …。現代の全体主義の根源は、「目に見えない神の目に見える姿として、まさにその本質から、何ものも、いかなる個人も、集団も、階級も、国民も、国家も侵害してはならない権利の対象」である人間の超越的な尊厳の否定に見つけることができる。社会的集団の大多数でさえも、少数派に反対することで、これらの権利を侵害することはできないだろう」(262=2011年. ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題 ― 教会と社会の百年を ふりかえって ― 』)

274. 私たちの信仰の経験と何世紀にもわたって蓄積された知恵からだけでなく、多くの弱点と失敗から学んだ教訓から、さまざまな宗教の信者である私たちは、神の証人が私たちの社会のためになることを知っています。誠実な心で神を求める努力は、それがイデオロギー的または自己奉仕的な目的によって決して汚されないなら、私たちが旅の仲間、真の兄弟姉妹としてお互いを認識するのに役立ちます。

 私たちは次のことを確信しています。「イデオロギーの名の下に社会から神を追い出す試みがなされ、偶像を崇拝するようになり、瞬く間に男女が道に迷うとき、彼らの尊厳は踏みにじられ、彼らの権利は侵される。あなた方は、良心の自由と宗教の自由の否定によって、どれほどの苦しみが引き起こされるか、そしてどのようにして、その心の傷が、貧しくされた人を置き去りにするのかを、よく知っている。なぜなら、それを導く希望や理想を欠くからだ」(263)ということを。

 275. 「現代世界の危機の最も重要な原因の中には、鈍感にされた人間の良心、宗教的価値観からの隔たり、そして『人間を神格化し、最高の超越的な規範の代わりに世俗的で物質的な価値観を引き入れる唯物論的な哲学』を伴う個人主義の蔓延がある 」(264)。 公開討論で聞かれる唯一の声が強力で「専門家」の声である場合、それは間違っています。

 何世紀にもわたる経験と知恵の宝庫である宗教的伝統から生まれた反省のための場所を作る必要があります。なぜなら、 「宗教的な古典は、あらゆる時代に、意味があることを証明できる(新たな領域を開き、思考を刺激し、心を広くする)永続的な力がある」からです。 しかし、宗教的古典はしばしば、「近視眼的な合理主義」(265)の結果として、軽蔑の目で見られがちです。

276. このような理由から、教会は、政治生活の自主性を尊重し、その使命を私的な領域に限ることをしません。むしろ、政治生活は、より良い世界を作るにあたっての「わき役に留まることはできないし、そうしてはならない」、あるいは、社会の向上に貢献できるような「精神的な活力を蘇らせる」(266)ことに失敗してはならないのです。

 確かなことは、聖職者たちは、一般信徒の領域である政党政治に関わってはならないが、共通善への絶え間ない関心と欠かすことのできない人作りを含む、生活の政治的な側面を放棄することもできない(267)ということです。

 教会は、「慈善的、教育的な活動に加えて、公的な役割を担っています」。「人類の進歩と普遍的な友愛の発展」(268)のために働いています。世俗的な力と競争することを要求せず、「今日の世界で証人となることを受け入れ、主と主が恵みとしての慈しみをもって愛される人々への信仰の希望と愛を受け入れる、家族の中の家族」(269)として献身します。そして、マリア、イエスの御母に倣って、「人生を共にし、希望を持ち続け、一致のしるしとなるために… 橋を架け、壁を壊し、和解の種を蒔くために、私たちは、奉仕する教会、家から離れ、祈りの場から出て、聖具室から出ていく」(270)のです。

*キリスト教徒の自己認識 

 277. 教会は、他の宗教において神が働かれる仕方に敬意を払います。そして、「こうした宗教における真実で聖なるいかなるものも、拒みません。その生き方と振る舞い、戒めと教義を高く評価し、それはしばしば、すべての男性と女性を教え導く真理の一筋の光を映しています」(271)。

 それでも、私たちキリスト教徒はとてもよく知っています。「福音の調べが私たちの存在の中で共鳴しなくなると、思いやりから生まれる喜び、信頼から生まれる優しい愛、私たちが許され、送り出されるという認識に源を発する和解の能力を失うことになる。私たちの家庭、私たちの公共の空間、私たちの職場、私たちの政治的、経済的生活で、福音の調べが響くのを止めれば、私たちはもう、すべての男女の尊厳を守るように私たちを鼓舞する旋律を聞くことはない」(272)ということを。

 他の人は他の水源から飲みます。私たちにとって、人間の尊厳と友愛の源泉はイエス・キリストの福音にあります。その源泉から「キリスト教徒の思考と教会の行動に、関係、他の神聖な神秘との出会い、すべての召命としての人間家族全体との普遍的な交わりに対して与えられた優先順位」(273)が生まれます。

278. あらゆる場所に根付くように呼ばれている教会は、世界中で何世紀にもわたって存在してきました。それが「カトリック」であることの意味です。このように、教会は自分自身の恵みと罪の経験から、普遍的な愛への招きの素晴らしさを理解できます。確かに、「人間のすべてのものが私たちの関心事です… 諸国の協議機関が集まって人間の権利と義務を確立するどこにおいても、私たちが仲間入りを許されるのを光栄に思います」(274)。 

 多くのキリスト教徒にとって、この友愛の旅には、マリアという名の母も共にいます。十字架の下ですべての人の母親の役割を受け入れ(ヨハネ福音書19章26節)、イエスだけでなく「他の子供たち」も気にかけています(黙示録12章17節参照)。復活された主の力によって、マリアは新たな世界を生み出すことを望みます。そこでは、私たち皆が兄弟姉妹であり、私たちの社会が放棄する人々すべてのための場があり、正義と平和が輝きます。

279. 私たちキリスト教徒は、キリスト教徒でない人々が少数派である所で自由を増進するとともに、私たち自身が少数派である国において自由が保障されるように求めます。友愛と平和を目指す旅で、一つの基本的な人権を忘れてはなりません。それはあらゆる宗教を信じる人々の信教の自由です。

 信教の自由は次のことを明言します。「私たちは異なる文化や宗教の間に、調和と理解を築くことができる。また、私たちが非常に多くの重要なものを共有していることから、穏やかで秩序のある平和的共存の方法を見つけることが可能であり、互いの違いを受け入れ、唯一の神の子供たちとして、私たち皆が兄弟姉妹であることを心から喜ぶ」(275)ことを。

280. 同時に、私たちは、神に対して、教会の中の一致を強めてくださるように願います。それは、聖霊の働きで和解した相違によって豊かにされる一致です。「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けた」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ので、それぞれの人がそれぞれ特色のある貢献をします。聖アウグスティヌスが語っているように「耳は目を通して見、目は耳を通して聞く」(276)のです。

 キリスト教諸宗派との間で、出会いの旅の証しを続けることも喫緊の課題です。「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節参照)というキリストの願いを忘れることはできません。キリストのこの呼びかけを聴く時、私たちは、グローバリゼーションが進む中で、キリスト教諸宗派の一致への預言的、霊的貢献が、なおも欠けていることを、悲しみをもって認めます。そのような現実にもかかわらず、「私たちには、完全な交わりに向けて旅をするとともに、人類への奉仕に共に働くことによってすべての人への神を愛について、共通の証しをする務めがある」(277)のです。

*宗教と暴力 

 281. 平和の旅は諸宗教間で可能です。 その出発点は、ものを見る神のなさり方でなければなりません。 「神はご自分の目でご覧になりません。ご自分の心でご覧になるのです。 そして、神の愛は、宗教に関係なく、すべての人にとって同じです。人が無神論者であっても、神の愛は同じです。 最後の日を迎え、まだ物事の本当の姿を見る十分な光があるとき、私たちは自分自身に非常に驚くことになるでしょう」(278)。

 282. したがって、「私たち信仰を持つ者は、互いに話し合い、共通善と貧しい人々の出世のために、共に働く機会を見つける必要がある。このことは、自分とは異なる考え方をしている人と出会ったとき、自分の最も深い信念を弱めたり隠したりすることとは何の関係もない… 私たちは、信徒としての主体性が深く、強く、豊かになればなるほど、自分自身の適切な貢献で他の人を豊かにすることができる」(279)のです。

  私たち信仰を持つ者は、自分自身の根源に回帰するように強く求められています。それは、欠かすことのできないこと。すなわち、神の崇敬と隣人への愛、私たちの教えのいくつかが文脈を離れ、他の人に対する軽蔑、嫌悪、恐怖症、否定の姿勢を養ってしまうことにならないようにするもの、です。真理は「暴力は、私たちの基本的な宗教的信念ではなく、その歪曲にのみ根拠がある」ということにあります。

283. 神への誠実で謙虚な崇拝は「差別、憎しみ、暴力ではなく、生命の神聖さ、他の人の尊厳と自由の尊重、そしてすべての人の幸せへの愛のこもった献身によって」(280)、実を結びます。それは「愛さない者は神を知りません。神は愛」(ヨハネの手紙1・4章8節)だからです。

 それゆえ、「テロ行為は嘆かわしいものであり、東西南北いずれの人々の安全を脅かし、パニック、恐怖、悲観主義を広める。しかし、テロリストが宗教を手段に利用したとしても、これは宗教によるものではない。それよりも、宗教的な文書の誤った解釈の蓄積と、飢餓、貧困、不正、抑圧、誇りに関連する政策によるものだ。だからこそ、資金供給、武器や戦略の提供によって、メディアされも使って活動を正当化する試みによって、テロリストたちの活動を支援するのを、やめる必要がある。これらはすべて、世界の安全と平和を脅かす国際的犯罪と見なされねばならない。このようなテロ行為は、そのすべての形態と表現において非難されなければならない」(281)のです。

   人の命のもつ神聖な意味についての宗教的信念は、私たちに次のようなことをさせます。「私たちに共通する人間性の基本的な価値、その価値の名において、私たちは協力、建設、そして対話、赦し、成長ができるし、必ずする。それは、異なる様々な声を、憎しみの半狂乱の叫びではなく、崇高な気品と美しさを作り上げることで一つにする」(282)

284 時折、原理主義者の暴力は、首謀者の思慮の無さから、どのような宗教であれ、いつくかの集団で、引き起こされます。 しかし、「平和の戒めは、私たちが代表する宗教的伝統の奥深くに刻まれている… 宗教指導者として、私たちは、真の『対話の人々』であり、『仲介業者』ではなく『正当な調停者』として、平和構築に協力するよう求められている。 仲介業者は、自分たちの得になるものを得るために、すべての人に”値引き”をさせようとするが、調停者は、自分のために何も持たず、平和を得られることだけを願って、力が尽きるまで惜しみなく身を捧げる。私たち一人一人が、分けるのではなく、一致させることで、憎しみにしがみつくのでなく、憎しみを消すことで、壁を作るのではなく、対話の道を開くことで、『平和の職人』となるように求められている」(283)のです。

*一つのアピール 

 285. グランド・イマーム、アフメト・アル・タイエブ師との、今も喜びをもって思い出す、友愛に溢れた会談で、私たちは断固として宣言しました。

 「宗教は、戦争、憎しみにあふれた振る舞い、敵意、過激な考えを、決して煽ってはならず、暴力や流血に駆り立ててはならない。そのような悲劇的な諸現実は、宗教的な教えから逸脱した結果であり、宗教を政治的に操作することから、歴史の過程で男女の心にある宗教的感情の力を利用してきた宗教的集団によって作られた解釈から、生じるものだ… 全能の神は、誰によっても守られる必要はなく、人々を恐怖に陥れるために御名が使われることを望まない」(284=「世界平和と共存のための人類友愛に関する文書」)。

そのような訳で、私は、私たちが共に作成した平和、正義、友愛のアピールを、ここで繰り返させていただきたいと思います。

 「すべての人間を権利、義務、尊厳において平等に創造され、兄弟姉妹として共に生き、地球を満たし、善、愛、平和の価値を知らしめるよう求められた神の名において、

 「神が人を殺す者は誰でも人類全体を殺す者のようであり、人を救う者は人類全体を救う者のようであると断言し、殺すことを禁じられた罪のない人間の命の名において、

 「神がすべての人々、特に富んだ人々や資力のある人々に求められる義務として助けるように、私たちに命じられた、貧しい人々、困窮した人々、疎外された人々、そして助けを必要としている人々の名において、

 「孤児、未亡人、難民、そして自分の住まいや国から追放された人々の名において、戦争、迫害、不正のすべての犠牲者の名において、弱者、恐怖の中で生きる人々、戦争捕虜、そして世界のどこであろうと拷問された人々の名において、

 「安全、平和、そして共に住む可能性を失い、破壊、災害、戦争の犠牲者となった人々の名において、

 「すべての人を包含し、結びつけ、平等にする人類友愛の名において、

    「過激主義と分裂の政策によって、無軌道な利益本位の仕組みによって、あるいは男女の行動と未来を操作する憎悪のイデオロギー的傾向によって引き裂かれた友愛の名の下において、

 「神がすべての人間に、制約の無い、その贈り物で区別した、自由の名において、

 「繁栄の基盤と信仰の礎石である、正義と慈悲の名において、

 「世界のあらゆる場所にいる善意のすべての人の名において、

 「神とこれまでに述べたすべての名において、(私たちは)対話の文化を道を採り、行動規範としての相互協力と方法と基準としての相互理解を進めることを宣言する」(285)。

 

286. 普遍的な友愛についての、以上のような考察を進める中で、私は、特にアッシジの聖フランシスコから霊感を得たと感じましたが、カトリック教徒ではない兄弟姉妹たちーマーティン・ルーサー・キング、デズモンド・ツツ、マハトマ・ガンディーなどからも霊感を得たと感じました。 それでもなお、私は、深い信仰を持ったもう一人の人物-神についての強烈な経験をもとにして、すべての人を兄弟と感じる変容の旅をした方-に言及して締めくくりたいと思います。私は、福者、シャルル・ド・フーコー( 18589月15 – 191612月1日=フランスカトリック教会神父で、探検家地理学者)のことを申し上げているのです。

287. 福者シャルルは、神に完全に身を任せる究極の目標を、アフリカの砂漠の真ん中に打ち捨てられた貧しい人々との一体感に向けました。そのような場で、自分自身がすべての人間の兄弟だと感じたい、という強い願望(286)を表わし、友人に「私が本当にすべての人の兄弟であることを神に祈ってくれる」(287)ように頼みました。結局は、「万人の兄弟」(288)になりたかったのです。けれども、実際には、最も乏しい人々と深く結びつくことによってだけ、すべての人の兄弟になることができたのです。神が私たち一人一人に、そのような夢を呼び起こしてくださいますように。 アーメン。

*(「カトリック・あい」注:福者、シャルル・ド・フーコーは、1858年9月15日 に生まれ 1916年12月1日に亡くなったフランスカトリック教会神父で、探検家地理学者。モロッコを探検して19世紀末の地理学に新時代を開いたが、 現世的名声を捨てて回心し、新しい修道会の創設を模索。 隠修士としてアフリカ・サハラ砂漠の遊牧民と生活していたが、 第一次大戦中に隣人に裏切られ、盗賊団に殺害され、殉教した。2005 年に列福。参考図書=「シャルル・ド・フ-コ-」(ジャン・フランソワ・シックス著、倉田清訳 聖母の騎士社刊)

【創造主への祈り A Prayer to the Creator】

 

主、私たち人類の父よ

  あなたはすべての人間を 尊厳のうちに 等しく創造されました

 私たちの心に友愛の精神を注がれ

  新たにされた出会い、対話、正義と平和の夢を 私たちに吹き込まれました

 私たちを、もっと健全な社会、もっと気高い世界 

  飢餓、貧困、暴力そして戦争の無い世界を作るために 働かせてください

  私たちの心を 地球のすべての人々と国に 開くことができますように

 あなたが 私たちすべてに蒔かれた 善と美を見分け

  一致の絆を 共通の計画を 共有の夢を 築くことができますように

  アーメン。

 

【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り An Ecumenical Christian Prayer】

 

ああ神よ、愛の三位一体

  あなたの神聖な命との深い交わりから 兄弟愛の滝のような流れを 私たちの上に注いでください

 ナザレのイエスの家庭で そして初めのキリスト教共同体で イエスの振る舞いに映された愛を 

私たちにお与えてください

   願いをかなえてください 私たちキリスト教徒が 福音を生きることができますように

  1人ひとりの人の中に キリストを見出し 

この世の 打ち捨てられ そして忘れられた人たちの苦しみの中に

 十字架につけられたキリストがおられるのを

  そして 新たに歩み始める兄弟、姉妹それぞれの中に

 復活されるキリストがおられるのを 知ることができますように

   聖霊来てください

  地球上のすべての人たちの中に映された あなたの素晴らしさを見せてください

  そうして すべてのものが重要で すべてのものが必要であることを

  神がこれほどまでに愛しておられる人類の 様々に異なった顔を 改めて発見できますように  

                                   アーメン

私の教皇職の8年目、2020年10月3日の聖人の祝日の前日に、アッシジの聖フランシスコの墓前で

 

    フランシスコ

2020年11月24日

・世界カトリック女性連合の新回勅を学ぶオンライン会議ー「新回勅は普遍的愛へ私たちを鼓舞している」とタグレ枢機卿

Some of the participants at the World Union of Catholic Women’s Organisations (WUCWO) formation workshop on Fratelli tuttiSome of the participants at the World Union of Catholic Women’s Organisations (WUCWO) formation workshop on Fratelli tutti 

(2020.11.17 Vatican News   Fr. Benedict Mayaki, SJ)

  世界カトリック女性組織連合(WUCWO)主催の教皇フランシスコの新回勅「 Fratelli tutti 」を学ぶオンライン会議が17日開かれ、バチカン福音宣教省長官のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿は新回勅が社会的友情、普遍的な愛と友愛によるより良い世界を構築する道を歩むよう、私たちを鼓舞している、と強調した。

*フランシスコの三つの回勅に共通するもの

 会合はWUCWOの各国代表を中心に55名が参加。基調講演で、タグレ枢機卿は、新回勅の特筆すべき点について、教皇フランシスコこれまでに出された2つの回勅とセットになっていること、新回勅を含めた3つすべてがアッシジの聖フランシスコの記憶によって統一されていること、と指摘。

 最初の回勅『 Evangelii Gaudium(信仰の光)』は「聖フランシスコが教会を再建するために神から受け取った求めに触発されています。教皇フランシスコは、21世紀の教会が”福音の喜び”によって”再建”されるというビジョンを提起しました」。2つ目の回勅『Laudatosí(ラウダート・シ)』では「”共通の家”ー地球に対する私たちの共同の責任」について概説し、今回の新回勅『Fratellitutti』は「私たちを社会的な友情、互いに兄弟姉妹になるよう促しています」と述べた。

*新回勅で教皇が採用した方法論

 さらに枢機卿は、教皇が新回勅で次のような方法論を採用していることを指摘した。

 まず、現在の世界の状況、兆候、傾向を示し、分析する。次に、識別力と判断力を使い、信仰に照らした現代の解釈。そして、以上を受けた対応策ー現状を知り、分析したうえで、より良い住みかとなる世界の構築ーについて述べている。最後に、教会論につながるー私たち兄弟姉妹に奉仕する教会のビジョンを示している。「これは単なる”方法”ではなく、霊的ビジョンであると言う人もいます」と枢機卿は付け加えた。

*現在の世界の状況を直視する

 また枢機卿は、新回勅が「今日の世界の状況、兄弟愛と姉妹愛の欠如に注意を払う」ように私たちに呼びかけていることを強調。それはまた、これらの状況が「人類家族で起きている破壊を隠すために、外見を美しく着飾っている」ということを率直に認めるよう求めてもいる、とし、「私たちは、貧しい人々、忘れられた人々、無視された人々が、現在の”使い捨て文化の中で、一段と苦しみを味わっていることに注意を払う必要があります。これは、他者に『閉じられている』という思いと文脈の中で起こる。とりわけ移民、女性、少女、人身売買の犠牲者を含む”貧しい人々の視点”から見ることができます」と指摘した。

*開かれた世界のビジョンの基本は「普遍的な愛」

 そのうえで、枢機卿は、「『兄弟愛と姉妹愛に開かれた世界』という教皇のビジョンの基本は『普遍的な愛』にあります。それを通してのみ社会的友情を可能にすることができる」とし、「普遍的な愛は、自分を内に閉じこめるのではなく、他者-自分の集団、家族、コミュニティの文化…ーに対して開くこと。愛は他者との結合を求める形です。愛は他人の価値を見ます。愛は他人の価値を讃える… 愛は他の人にとって何が最も良いかを考えるのです」と述べた。

 そして、「これは単なるロマンチシズムや理想主義ではない。神がご自身を現された方法。イエスが愛し、すべての人のために死んだ方法。聖霊が息を吹きかける方法です。愛である神は、全面的、完全に開かれているのです」と強調。これは、教皇が新回勅で言及している「善きサマリア人のたとえ話」にも示されている、とし、「このサマリア人は、開かれた心をもって、道端に置き去りにされた見知らぬ人に歩み寄り、兄弟のように扱いました。別の人、つまり宿屋の主人に、けがを負った人の世話を頼むことで、普遍的な愛の道具になるように誘いました」と説明した。

*真心で対応することの重要性

 また枢機卿は「真心からの対応を欠いた”普遍的な愛”は、単なる概念またはスローガンにとどまる危険がある。真心を欠いた対応は、特定の具体的な人とすべての人間の共通の尊厳との間に緊張をもたらします。具体的な人に共鳴しなければ、すべての人間の尊厳に共鳴することができないからです」と注意した。

 新回勅のテーマとなっている「社会的友情」に関連して、「それを育てるためには、すべての文化の独自性を排除しない”普遍的な連帯”に心を開く必要があります」と述べ、「例えば私有財産を扱う際に、社会的友情を具体化することができます。財産が公益を犠牲にして絶対化されるべきではありません」とし、「社会的友情は、国際関係における国の政治と政治的慈善を刺激し、大衆迎合主義の罠と人々の分裂を生み出す偏狭なイデオロギーに引き込まれないように、国を導くことを可能にします」と述べた。

 さらに、「教皇は新回勅で、『間違いをした子供たちをいつも赦す母親』をたとえに引いて、赦しについて語っています。赦しは、恵みではありますが、それは、正義を否定したり、他人に与えられた恐怖を忘れたりすることではなく、最悪の犯罪者に対してさえも、憎しみで心を閉じたままでいるのを拒むこと、とされています」と指摘。

 続いて、「すべての人への呼びかけは、他​​の宗教や他の信仰をもつ人たちとの友好的な関係を通して、友愛と兄弟愛の中でキリスト教徒としての私たちの場所を見つけることです。これは、開かれた愛情のある対話と『出会いの文化』を通じてなされます」と説いた。

 

*枢機卿の三つの提案

 講演の最後に枢機卿は、新回勅のアピールに対する具体的な対応を促すためのいくつかの提案をした。

 まず、個人のレベルと集団のレベルの両方で、人間の心、キリスト教徒の精神面での人格形成の重要性を強調。「回勅は、私たちが心を開くのを妨げる『偏見』に立ち向かうよう、私たちを鼓舞します」と指摘した。

 二つ目は、諸文化は人によって活発にされることから、私たちは人間として、これまで当然のこととして受け入れられてきた政治・社会・経済政策、制度、文化を変革するために力を注ぐ必要がある。

 三つ目に、 WUCWOに対して、女性たちー苦痛を受けているが、心の扉を閉めることを拒否する女性たちーの話を集めることを、提案した。

 そして、締めくくりに、枢機卿は、イエスとその福音宣教、地上での生活に目を向けるように勧め、イエスが兄弟姉妹のように扱った、社会や集団からのけ者にされた人々ーザアカイ、マタイ、シリア・フェニキア生まれの女性(マルコ福音書7章24~30節)、井戸の側にいたサマリア人の女性ーとの関係の持ち方、そして、イエスと並んで十字架にかけられた盗賊への天国の約束から、刺激を受けるように促した。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年11月18日

・教皇が「兄弟愛と社会的友愛」を主題にした回勅「Fratelli tutti(All Brothers)」発表・概略

(2020.10.4 バチカン放送)

  教皇フランシスコが4日、兄弟愛と社会的友愛をテーマにした、2013年の教皇就任以来3番目の回勅「Fratelli tutti(All Brothers=兄弟である皆さん)」を発表した。

 回勅は8章287項からなり、教皇はこの社会的回勅の中で、人々と公共制度の皆が参与する一層の正義と平和に満ちた、より良い世界構築の道として「兄弟愛と社会的友愛」を示した。そして、戦争と”無関心のグローバル化”に対し、強い反対を唱えている。

 個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か?「Fratelli tutti(フラテッリ・トゥッティ)」は主にこうした問いに答えようとするものである。教皇はこの文書を「社会的回勅」(6) と定義し、そのタイトルを、アッシジの聖フランシスコの「Ammonizioni(アンモニツィオーニ)」から採っている。

 聖フランシスコは、「Fratelli tutti」(兄弟である皆さん、の意)というこの言葉を、「すべての兄弟姉妹に向け、福音の味のする生活の形を彼らに提案するために」(1) 用いていた。

 回勅は、世界の兄弟愛と社会的友愛の希求を促すことを目指している。その背景には、新型コロナウイルスの世界的大感染がある。教皇は、この大感染は「私がこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記している。しかしながら、この感染症による世界的な危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして「私たち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見るべき時」がついにやって来たことを示した、と述べている (7-8)。

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【第1章 閉じられた世界の闇】(9~55項)・・世界的問題、世界的行動

 全8章の本文のうち、第1章は「閉じられた世界の闇」と題されている。文書は、現代の多くの歪みとして、民主主義・自由・正義の概念の変質し歪められた解釈、利己主義と共通善への無関心、利益追求と「切り捨ての文化」に基づく市場論理の支配、失業、人種差別、貧困、権利の不平等、そして、奴隷化・人身取引・女性への抑圧・強制堕胎、臓器売買など人権からの逸脱を挙げる。グローバルな行動を要する世界的問題として、教皇は、組織犯罪をはびこらせ、怖れと孤独を生む「壁の文化」にも批判の目を向けている(27-28)。

【第2章 道端の異邦人】(56~86項)・・あいは橋を架ける‐善きサマリア人

 これらの多くの闇に対し、回勅は、「善きサマリア人」の光輝く模範をもって応える。「道端の異邦人」と題された第2章で、教皇は、人の苦しみに背を向け、弱い立場の人々に思いやりを持てない病んだ社会において (64-65)、先入観や個人的な利害を乗り越え、私たち皆が他者に寄り添うように呼ばれている(81)と強調する。実際、すべての人が受容的かつ統合的な、人の苦しみを和らげることのできる社会の構築に共同の責任を負っている(77)。愛とは橋を架けるものであり、私たちは「愛するために創られている」(88)。教皇は特にキリスト者に対し、あらゆる疎外された人の中にキリストの御顔を見つめるようにと招いている(85)。

【第3章 開かれた世界を考え、生み出す】(87~127項)・・生きる権利に国境はない

 この「普遍的な視点」をもって愛する力について、教皇は、第3章「開かれた世界を考え、生み出す」の中で、再び取り上げている。ここで教皇は、他者を通して自分の「人生の成長」を見出すために、「自分自身から抜け出し」(88)、私たちを「普遍的な交わり」へと向かわせる慈愛に促され、自分を他者に開くように励ましている (95)。つまるところ、人間の霊的な徳の高さは、他者のより良い人生を望む愛によって量られる(92-93)。連帯や兄弟愛の意識は、家庭の中で生まれる。家庭はその「基本的かつ不可欠な教育の使命」において、保護され、尊重されなければならない (114)。

 尊厳をもって生きる権利は、誰にも拒ばれることがあってはならない、と教皇は強調する。権利とは、その人がどこに生まれたかは関係なく、誰一人そこから除外されてはならない(121)。この観点から、教皇は「国際関係の倫理」についても考えるように招く(126)。なぜなら、すべての国は、そこにいる外国人のものでもあり、その領土の財産は、他所から来た、それを必要とする人々に拒むことはできないものだからである。従って、個人財産に対する自然権は、生み出された財の普遍的用途の原則に対して、二次的なものとなるであろう(120)。同回勅は、国外の負債問題についても考える。負債の返済の原則を確認しながらも、その負債が最も貧しい国々の発展と国民の生活を損なわないようにと願っている(126)。

【第4章 全世界に開かれた心】(128~155項)・・移民、難民問題に世界的取り組みを

 移民問題をめぐっては、第2章の一部と、第4章「全世界に開かれた心」にスペースが割かれている。そこで、教皇は、戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの「引き裂かれた生活」(37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を説いている。移民の向かう国においては、市民の権利と、移民の受け入れと支援の保証との間の、正しいバランスが重要となる(38-40)。

 教皇は、特に「重大な人道危機」から逃れる人々への不可欠な対応として、査証発行の増加と手続きの簡易化、人道回廊の設置、宿泊所の保証、安全と基本サービスの確保、就労と育成の機会の提供、家族の呼び寄せ条件の緩和、未成年者の保護、宗教の自由の保証などを示している。中でも必要とされるのは、個々の危機への対応はもとより、全人民への連帯的発展の名のもとに、移民のための長期的計画を実施する、グローバルな管理である(129-132)。

【第5章 より良い政治】(154~197項)・・”ポピュリズム”ではなく、”ポポラリズム”の提唱

  第5章のテーマは、「より良い政治」である。それは、共通善に奉仕し(180)、市民の重要さを認識し、対話に臨むことで(160)、愛(カリタス)をより貴重な形で表すことにある。これは、教皇フランシスコが示す「ポポララリズム」であり、それは「ポポロ(人民)」の概念を無視し、自らのために人民を惹きつけて利用する「ポピュリズム」とは意味を異にするものである(159)。

 最良の政治とは、「社会生活に欠かすことのできない側面」である労働を保護し、すべての人がそれぞれの能力を発揮できる世界を追求するものでもある(162)。貧困に対する真の戦略とは、単に困窮者を抑制するのではなく、連帯と「補完性の原則」(サブシディアリティ)の視点において、これらの人々を支援することである(187)。さらに、政治の課題は、社会的疎外、臓器・武器・麻薬等の取引、性的搾取、奴隷労働、テロリズム、組織犯罪など、基本的人権を攻撃するあらゆる事柄に対し、解決を見つけることである。教皇は、「人類の恥」であるこれらの取引、また、食料という譲ることのできない権利を侵害するがゆえに「犯罪」である飢餓を、完全に無くさねばならない、と述べている(188-189)。

 教皇は、「必要とされるのは、人間の尊厳を中心に据え、金融に支配されない政治」と強調し、それは、投機によって引き起こされた悲劇が示すように「市場だけではすべてを解決できない」からである、と述べている(168)。こうした中で、市民の運動は、真の「倫理的エネルギーの潮流」として、特別な重要性を帯びる。市民運動は社会の中に秩序をもって位置付けられなければならない。教皇は、こうすることで、貧しい人々に対する政治から、貧しい人々と共にある、貧しい人々の政治となる、と説いている(169)。

 同回勅が示すもう一つの希望は、国連の改革をめぐるものである。経済的側面の優位性を前にして、国連の課題は、共通善、貧困撲滅、人権保護のために働きながら、「国々の家族」としての概念を具体化することにある。同回勅は、国連は精力的に「交渉、仲介、調停」を用いながら、力の権利に対し、権利の力を推進しなければならない、と述べている(173-175)。

【第6章 対話と社会的友愛】(198~224項)・・すべての人々との”出会いの技術”

 第6章「対話と社会的友愛」では、世界の辺境の人々や先住民族の人々を含む、すべての人々との「出会いの芸術」としての生活の概念が浮かび上がる。すべての人から何かを学ぶことができ、誰一人無用な人はいない(215)。教皇は、特に取り戻すべき態度として「親切さの奇跡」を挙げ、それは現代に広がる「残酷さや、不安、気の散った慌ただしさ」における「闇の中の星」であると記している(222-224)。

【第7章 新しい出会いの道のり】(225~270項)・・平和は先を見越し、作り出すもの・軍事費を飢餓撲滅へまわす・死刑はなくすべき

 第7章「新しい出会いの道のり」は、平和の価値と推進について考える。ここで教皇は、平和とは「先を見越すもの」であり、他者への奉仕、和解の追求、相互の発展に基づく社会の形成を目指すものである。平和とは「作り出すもの」であり、誰もがそれに参与し、その役目は終わることがない(227-232)。平和に結びつくものとして、赦しがある。例外なくすべての人を愛さなければならない、と回勅は説く。しかしながら、抑圧者を愛することは、その人が変わることを助け、他者をそれ以上抑圧し続けないよう止めることである(241-242)。

 赦しとは、罰の免除というより、正義であり、記憶である。なぜなら、赦すとは忘れることを意味しないが、悪と復讐の破壊的な力を放棄することだからである。しかし、ホロコーストや、広島と長崎への原爆投下、民族迫害や虐殺は、私たちが無感覚になることなく、集団的な良心の火を生き生きと保つために、常に、新たに、記憶されるべきであり、善を記憶することも同様に大切である(246-252)。

 第7章の一部では、戦争について触れている。戦争は「絶え間ない脅威」であり、「すべての権利の否定」、「政治と人類の挫折」、「悪の力に対する恥ずべき降参」である。さらに、多くの無実の市民を襲う、核兵器、化学兵器、生物兵器のために、今日、もう過去のように「正義の戦争」の可能性を考えることはできず、力を込めて「二度と戦争は起こさない!」と強く主張しなければならない。核兵器廃絶は「倫理的、人道的必須」である。

 教皇は、軍拡費用で、飢餓を撲滅するための国際基金を設立することを提案している(255-262)。同様に、教皇フランシスコは、死刑制度に対しても、死刑は認容できないことであり、全世界で廃止されるべきであるという、確固たる立場を示す。「殺人犯は個人の尊厳を失うことはない。神がその保証人である」と記している(263-269)。同時に、生まれてくる前の子どもたちや、障害者、高齢者など、「人類の一部を犠牲にすることが可能であるかのような」今日において(18)、「命が聖なるものであること」を尊重する必要を強調している(283)。

【第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教】(271~287項)・・基本的人権である信教の自由の保証

 最終章、第8章で、教皇は「世界の兄弟愛に奉仕する宗教」について述べている。そして、テロリズムは宗教そのものが原因ではなく、宗教の経典の誤った解釈や、飢餓、貧困、不正義、抑圧などを生む政治によるものである、と強調する(282-283)。諸宗教間の平和の歩みは可能である。そのためには、信仰を持つすべての人のために、基本的人権である信教の自由を保証する必要がある(279)。回勅は、特に教会の役割について考察する。教会は個人におけるそのミッションを退けず、政治を行なわないながらも、福音の原則に沿って、生活の政治的側面、共通善への関心、人間の統合的発展への配慮を置き去りにすることはない(276-278)。

 最後に教皇は、2019年2月4日、アブダビで、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と共に署名した共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に言及。諸宗教対話の大きな節目となったこの共同文書から、教皇は、「人類の兄弟愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶ」よう、アピールを新たにしている(285)。

(編集「カトリック・あい」・各章の副見出しは、「カトリック・あい」でつけています)

 

2020年10月18日

・教皇の新回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」全8章日本語試訳+公式英語版

 教皇フランシスコの兄弟愛と社会的友愛についての回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」

  ENCYCLICAL LETTER FRATELLI TUTTI OF THE HOLY FATHER FRANCIS ON THE FRATERNITY AND SOCIAL FRIENDSHIP

 

 *全8章日本語試訳+公式英語版 総合編集・「カトリック・あい」南條俊二 

                 試訳担当=章ごとの担当=前文,1,5,7b,8 ⇒南條俊二、2,7a⇒ガブリエル・タン、3⇒岡山康子、4,6,7c⇒田中典子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

 

はじめに             p. 4

  *境界を設けない

 

第一章 閉じられた世界を覆う暗雲 (9~55項) p.8

  *打ち砕かれた夢 *歴史的思考の終焉 *皆のための計画が欠けている *「使い捨て」の世界    *万人に行き渡っていない「人権」 *争いと恐怖 *共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 *歴史における新型コロナ大感染と他の悲惨な出来事 *国境における人間の尊厳の欠如   *コミュニケーションの幻想 *臆面もない侵略 *叡智を欠いた情報 *服従と自己卑下の構造

  *希望

 

 第二章 道端の異邦人(56~86項) p.30

  *背景 *道端に捨てられた人 *絶えず繰り返されている物語 *物語の登場人物 *新たな出発 *境界を持たない隣人 *助けを求める者の声

 

第三章 開かれた世界を考え、生み出す(87~127項) p.46

   *自分自身から抜け出す *ユニークな愛の価値 *ますます開かれた愛 *すべての人を融和させる開かれた社会 *普遍的愛の不十分な理解 *自由・平等・愛 *愛はいつも開かれている *人を高める普遍の愛 *道徳的善を促進する *連帯の価値 *財産の社会的役割を改めて考える *境界を持たない権利 *諸国民の権利

 

第四章 全世界に開かれた心(128~155項) p.65

   *国境とその限界 *互いに与え合う贈物 *実り多い交流 *無償で他者に開放する *地域と普遍 *郷土の香り *普遍的な視野  *自分の地域から始める

 

第五章 より良い政治(154~197項) p.78

   *”ポピュリズム“と”リベラリズム“ *”ポピュラー“と”ポピュリスト“ *既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 *国際的な力 *社会的および政治的慈善 *必要とされる政治 *政治的な愛 *効果的な愛 *”政治的な愛“の行使 *愛から生まれた犠牲 *集合し、結束させる力

 

第六章 対話と社会的友愛(198~224項) p.100

   *新しい文化に向かう社会的な対話 *共に作り上げる *合意の根幹 *合意と真理 *新しい文化 *文化となる出会い *他者を認めることの喜び *思いやりを取り戻す

 

第七章 新しい出会いの道のり(225~270項) p.113

   *真実から新たに始める *平和の巧みなわざと構造 *最も小さな者から始める *赦しの意味と価値 *避けられない対立 *正当な対立と赦し *先に進めるための最良の方法 *記憶について *赦すことは忘れることではない *戦争と死刑 *戦争の不正 *死刑について

 

第八章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教(271~287項) p136

 *究極の基礎 *キリスト教徒の自己認識 *宗教と暴力 *一つのアピール 

 

 【創造主への祈り】 【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

1.「FRATELLI  TUTTI」(1)―この言葉をもって、アッシジの聖フランシスコは、兄弟姉妹に話しかけ、福音の香りによって特徴づけられる生き方を、彼らに示しました。フランシスコの勧めの中から、私は一つを選び取りたいと思いますーそれは、地理的な、あるいは距離の壁を越える愛を呼びかけ、「遠く離れている時も、そばにいる時と同じように」自分たちの兄弟を愛する、神に祝福された全ての人に対する宣言です(2)。簡潔で直接的な仕方で、聖フランシスコは、兄弟愛的な開かれた心の真髄を述べられましたーそれは、私たちが、彼または彼女がどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人一人を認め、感謝し、愛することを可能にします。

 

“FRATELLI TUTTI”.[1] With these words, Saint Francis of Assisi addressed his brothers and sisters and proposed to them a way of life marked by the flavour of the Gospel. Of the counsels Francis offered, I would like to select the one in which he calls for a love that transcends the barriers of geography and distance, and declares blessed all those who love their brother “as much when he is far away from him as when he is with him”.[2] In his simple and direct way, Saint Francis expressed the essence of a fraternal openness that allows us to acknowledge, appreciate and love each person, regardless of physical proximity, regardless of where he or she was born or lives.

 

2. この兄弟愛、質素、そして喜びの聖人は、私に回勅 Laudato Si’を書くように促し、さらに、この新しい回勅を友愛と社会的友情に捧げるように、もう一度促します。 フランシスコは、自分自身を太陽、海、そして風の兄弟と感じ、肉親よりもっと身近であることを知っていました。 行く先々で、平和の種を蒔き、貧しい人、見捨てられた人、身体の弱い人、そして社会からのけ者にされた人、兄弟姉妹の中で最も小さい人と共に歩みました。

 

This saint of fraternal love, simplicity and joy, who inspired me to write the Encyclical Laudato Si’, prompts me once more to devote this new Encyclical to fraternity and social friendship. Francis felt himself a brother to the sun, the sea and the wind, yet he knew that he was even closer to those of his own flesh. Wherever he went, he sowed seeds of peace and walked alongside the poor, the abandoned, the infirm and the outcast, the least of his brothers and sisters.

 

*境界を設けない WITHOUT BORDERS

 

3.聖フランシスコの人生には、「窮まるところを知らず、家柄、国籍、肌の色、あるいは宗教の違いを超越した彼の心の広さ」を示すエピソードがあります。それは、エジプトにいたスルタン、マリク・エル・カミルへの訪問です。これにはかなりの困難が伴いました。フランシスコは貧しく、手持ちの資金は不足し、行程は長く、言葉、文化、宗教の違いもありました。十字軍の時代に行われたこの旅は、すべての人を受け入れようとする彼の愛の広さと大きさを、一段と示すことになったのです。

 フランシスコの主への忠誠は、彼の兄弟姉妹への愛に見合うものでした。困難や危険を気にせず、弟子たちに教えたのと同じ態度でスルタンに会いに行きました-もしも、弟子たちが「自分はサラセン人や他の信仰を持たない人々の中にいる」と知ったら、自分のアイデンティティを放棄せず、「議論や論争に加わらず、神のためにどの人間にも従うように」というのです(3)。当時の時代的背景からみて、これは尋常ではない勧めでした。今から約800年前、聖フランシスコはあらゆる形の敵意や対立を避け、信仰を共有しない人々に対して、謙虚で兄弟的な「服従」を示すように弟子たちに求めたことに、私たちは感銘を受けます。

 

There is an episode in the life of Saint Francis that shows his openness of heart, which knew no bounds and transcended differences of origin, nationality, colour or religion. It was his visit to Sultan Malik-el-Kamil, in Egypt, which entailed considerable hardship, given Francis’ poverty, his scarce resources, the great distances to be traveled and their differences of language, culture and religion.That journey, undertaken at the time of the Crusades, further demonstrated the breadth and grandeur of his love, which sought to embrace everyone.

Francis’ fidelity to his Lord was commensurate with his love for his brothers and sisters. Unconcerned for the hardships and dangers involved, Francis went to meet the Sultan with the same attitude that he instilled in his disciples: if they found themselves “among the Saracens and other nonbelievers”, without renouncing their own identity they were not to “engage in arguments or disputes, but to be subject to every human creature for God’s sake”.[3] In the context of the times, this was an extraordinary recommendation. We are impressed that some eight hundred years ago Saint Francis urged that all forms of hostility or conflict be avoided and that a humble and fraternal “subjection” be shown to those who did not share his faith.

 

4. フランシスコは、教義を課すことを目的とした言葉の戦争をしませんでした。ひたすら神の愛を広めました。「神は愛であり、愛のうちにとどまる人々は、神のうちにとどまる」(ヨハネの手紙1・4章16節)ことを理解していました。そのようにして、彼はすべての人の父親になり、友愛的な社会の夢を奮い立たせました。確かに、「他人を自分の人生に引き込むのではなく、これまで以上に彼ら自身になるのを助けるために、他人に近づく人だけが、本当に『父』と呼ばれるのです」(4)。

 当時の世界では、貧しさが田園地域に広がっていても、都市は望楼と防御壁に囲まれ、強い力をもつ家系同士の残忍な争いの舞台でした。それでも、フランシスコは心に真の平和を迎え入れ、他の人々に力を振るいたいという欲求にとらわれませんでした。貧しい人の一人となり、すべての人と調和の中で生きようとしました。フランシスコは、この回勅のいくつものページに霊感を与えてくれました。

 

Francis did not wage a war of words aimed at imposing doctrines; he simply spread the love of God. He understood that “God is love and those who abide in love abide in God” (1 Jn 4:16). In this way, he became a father to all and inspired the vision of a fraternal society. Indeed, “only the man who approaches others, not to draw them into his own life, but to help them become ever more fully themselves, can truly be called a father”.[4]

 In the world of that time, bristling with watchtowers and defensive walls, cities were a theatre of brutal wars between powerful families, even as poverty was spreading through the countryside. Yet there Francis was able to welcome true peace into his heart and free himself of the desire to wield power over others. He became one of the poor and sought to live in harmony with all. Francis has inspired these pages.

5. 人間の兄弟愛と社会的友愛の問題は、常に私の関心事でした。近年、私はこれについて繰り返し、さまざまな異なる場で話しました。この回勅で、私はそれらの発言の多くを一つにまとめ、幅広い省察の流れに置くことを希望しています。前の回勅Laudato Si’を準備する際、私は、兄弟であるバーソロミュー正教総主教から霊感を得ましたー被造物を大切にすることの必要性を力強く話されたのでした。

今回の回勅では、アブダビでお会いしたグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師に特に勇気づけられましたーアブダビで、私たちは「神はすべての人間を、権利、義務、尊厳において平等に創造し、彼らに兄弟姉妹として一緒に暮らすよう求められた」(5)。これは単なる外交儀礼ではなく、対話と共通の約束から生まれた省察でした。この回勅で、私たちが署名した文書で提起さ​​れた素晴らしいテーマのいくつかを取り上げ、発展させています。また、私自身の考えとともに、世界中の多くの個人やグループからいただいた多くの手紙、文書、意見を取り入れています。

 

Issues of human fraternity and social friendship have always been a concern of mine. In recent years, I have spoken of them repeatedly and in different settings. In this Encyclical, I have sought to bring together many of those statements and to situate them in a broader context of reflection. In the preparation of Laudato Si’, I had a source of inspiration in my brother Bartholomew, the Orthodox Patriarch, who has spoken forcefully of our need to care for creation. In this case, I have felt particularly encouraged by the Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb, with whom I met in Abu Dhabi, where we declared that “God has created all human beings equal in rights, duties and dignity, and has called them to live together as brothers and sisters”.[5]

 This was no mere diplomatic gesture, but a reflection born of dialogue and common commitment. The present Encyclical takes up and develops some of the great themes raised in the Document that we both signed. I have also incorporated, along with my own thoughts, a number of letters, documents and considerations that I have received from many individuals and groups throughout the world.

 

  1. 前文に続くページが、兄弟愛についての完全な教えを提供するとは断言しません。というよりも、その普遍的な視野、すべての男性と女性への開放性を考慮しています。私はこの社会的回勅を、継続的な反省へのささやかな貢献として提供します。他者を排除あるいは無視しようとする試みに直面している今日、言葉のレベルに留まらない兄弟愛と社会的友愛の新しい展望をもって対処することが可能だと証明できるように願っています。私を励まし、支えてくれるキリスト教徒の信念からこの回勅を書きましたが、この省察を、善意のすべての人々の間の対話へ招き、となるよう努めました。

 

The following pages do not claim to offer a complete teaching on fraternal love, but rather to consider its universal scope, its openness to every man and woman. I offer this social Encyclical as a modest contribution to continued reflection, in the hope that in the face of present-day attempts to eliminate or ignore others, we may prove capable of responding with a new vision of fraternity and social friendship that will not remain at the level of words. Although I have written it from the Christian convictions that inspire and sustain me, I have sought to make this reflection an invitation to dialogue among all people of good will.

 

 

7. 私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露されました。この危機に対して、さまざまな国がさまざまな対応をしましたが、国同士が協力できないことは非常に明白になりました。

私たちのすべてのハイパー・コネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)において、私たち全員に影響を与える問題を解決することをより困難にする”断片化”を目の当たりにしました。『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」。

 

As I was writing this letter, the Covid-19 pandemic unexpectedly erupted, exposing our false securities. Aside from the different ways that various countries responded to the crisis, their inability to work together became quite evident. For all our hyper-connectivity, we witnessed a fragmentation that made it more difficult to resolve problems that affect us all. Anyone who thinks that the only lesson to be learned was the need to improve what we were already doing, or to refine existing systems and regulations, is denying reality.

 

  1. 私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、友愛への普遍的な願望の再生に貢献できることです。すべての男性と女性の間の友愛。 「ここに、どのように夢を見、人生を素晴らしい冒険に変える方法を示す、素敵な秘密があります。誰も孤立した状態で人生に立ち向かうことはできません… 私たちは、自分を支え、助けてくれる共同体―私たちが前を見続けるように互いに助け合うことのできる共同体-を必要としています。共に夢を見ることが、どれほど重要か… 私たちには、蜃気楼ーそこに実在しないものを見る危険があります。一方で、夢は共に構築されます」(6)。

 それでは、共に夢を見ましょう-ひとつの人間家族として、同じ肉体を共有する仲間の旅人として、共通の家である同じ地球の子供たちとして、一人ひとりが、彼または彼女それぞれの信念と確信の豊かさをもたらすことを夢見てみましょうー私たちそれぞれが、彼あるいは彼女自身の声、兄弟姉妹の皆と共に。

 

It is my desire that, in this our time, by acknowledging the dignity of each human person, we can contribute to the rebirth of a universal aspiration to fraternity. Fraternity between all men and women. “Here we have a splendid secret that shows us how to dream and to turn our life into a wonderful adventure. No one can face life in isolation… We need a community that supports and helps us, in which we can help one another to keep looking ahead. How important it is to dream together… By ourselves, we risk seeing mirages, things that are not there. Dreams, on the other hand, are built together”.[6]

Let us dream, then, as a single human family, as fellow travelers sharing the same flesh, as children of the same earth which is our common home, each of us bringing the richness of his or her beliefs and convictions, each of us with his or her own voice, brothers and sisters all

 

 

 

 

 

第一章 閉じられた世界を覆う暗雲 DARK CLOUDS OVER A CLOSED WORLD 

 

9. ここでは徹底的な分析を実行したり、私たちの現在の経験のあらゆる側面を研究したりすることはせず、単に普遍的な友愛の発展を妨げている私たちの世界の特定の傾向を考えて行くつもりです。

 

Without claiming to carry out an exhaustive analysis or to study every aspect of our present-day experience, I intend simply to consider certain trends in our world that hinder the development of universal fraternity.

 

*打ち砕かれた夢 SHATTERED DREAMS

 

  1. これまで何十年もの間、世界は多くの戦争や災害から教訓を学び、さまざまな形の統合に向かってゆっくりと動いていたように見えました。たとえば、欧州の共通のルーツを認め、その豊かな多様性を讃えることのできる、統一された欧州の夢がありました。私たちは「分かれているところを橋渡しし、欧州大陸のすべての人々の間の平和と交流を促す能力に基づいて未来を構想した欧州連合の創設者の確固たる信念」を思い浮かべています(7)。

 ラテンアメリカでの統合への欲求も高まり、この方向にいくつかの措置が講じられました。一部の国や地域では、和解の試みが実を結び、他の地域でも大きな期待が寄せられました。

 

For decades, it seemed that the world had learned a lesson from its many wars and disasters, and was slowly moving towards various forms of integration. For example, there was the dream of a united Europe, capable of acknowledging its shared roots and rejoicing in its rich diversity. We think of “the firm conviction of the founders of the European Union, who envisioned a future based on the capacity to work together in bridging divisions and in fostering peace and fellowship between all the peoples of this continent”.[7]

 There was also a growing desire for integration in Latin America, and several steps were taken in this direction. In some countries and regions, attempts at reconciliation and rapprochement proved fruitful, while others showed great promise.

 

  1. しかし、私たち自身の日々をみると、特定の後退の兆候を示しているようです。長い間埋もれていたと考えられていた昔の紛争が新たに発生し、近視眼的で過激な、いきり立った攻撃的なナショナリズムがあちこちで台頭しています。一部の国では、さまざまなイデオロギーに影響されたポピュリズムと挙国一致の概念が、国益の保護を装って、新しい形の利己主義と社会的感覚の喪失を生み出しています。

 このことは、「それぞれの新しい世代は、過去の世代が行った闘争と成果を引き受け、その目標をさらに高く設定することが求められている」ことを、改めて思い出させてくれます。これが、私たちがとるべき道です。善は、愛、正義、連帯とともに、一回限りで、それで終わり、というものではなく、毎日、実現していかねばなりません。兄弟姉妹の多くが、依然として、私たちに『注意を向けてくれ』と叫ばねばならないような状況に耐えている、という現実を、なぜか無視できるかのようにして、過去に達成されたことをもって良しとし、自己満足的に謳歌することはできないのです」(8)。

 

Our own days, however, seem to be showing signs of a certain regression. Ancient conflicts thought long buried are breaking out anew, while instances of a myopic, extremist, resentful and aggressive nationalism are on the rise. In some countries, a concept of popular and national unity influenced by various ideologies is creating new forms of selfishness and a loss of the social sense under the guise of defending national interests.

 Once more we are being reminded that “each new generation must take up the struggles and attainments of past generations, while setting its sights even higher. This is the path. Goodness, together with love, justice and solidarity, are not achieved once and for all; they have to be realized each day. It is not possible to settle for what was achieved in the past and complacently enjoy it, as if we could somehow disregard the fact that many of our brothers and sisters still endure situations that cry out for our attention”.[8]

 

12. 「世界に門戸を開く」は、現在は、経済・金融セクターによって採用され、外国の利益に対して独占的に使われる、あるいは、すべての国において障害や複雑さを伴わずに投資するための経済力の自由に使われる表現です。地域紛争と公益の無視は、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって悪用されています。このような文化は世界を統合しますが、人々と国々を分けてしまいます。「社会は、グローバル化するにつれて、私たちを”隣人”にしますが、私たちを”兄弟”にはしない」からです[9]。

 個人の利益を伸長させ、生活の共同体的側面を弱める一段と大規模化する世界で、私たちは、従来以上に孤独です。確かに、個人が”単なる消費者”あるいは”傍観者”になる市場は存在します。一般的に、この種のグローバリズムの進展は、自分自身を守ることができる強い地域のアイデンティティを強化しますが、それより弱い地域、貧しい地域のアイデンティティを弱め、いっそう脆弱に、依存度を高める傾向があります。このようにして、政治活動は、「分割統治」の原則に基づいて運営され、国境を越える経済力を前にして、一層、脆弱になっています。

 

“Opening up to the world” is an expression that has been co-opted by the economic and financial sector and is now used exclusively of openness to foreign interests or to the freedom of economic powers to invest without obstacles or complications in all countries. Local conflicts and disregard for the common good are exploited by the global economy in order to impose a single cultural model. This culture unifies the world, but divides persons and nations, for “as society becomes ever more globalized, it makes us neighbours, but does not make us brothers”.[9]

We are more alone than ever in an increasingly massified world that promotes individual interests and weakens the communitarian dimension of life. Indeed, there are markets where individuals become mere consumers or bystanders. As a rule, the advance of this kind of globalism strengthens the identity of the more powerful, who can protect themselves, but it tends to diminish the identity of the weaker and poorer regions, making them more vulnerable and dependent. In this way, political life becomes increasingly fragile in the face of transnational economic powers that operate with the principle of “divide and conquer”.

 

 

 

*歴史的思考の終焉 The end of historical consciousness

 

13. その結果、歴史的思考がますます失われ、さらに分裂につながっていきます。「人間の自由がゼロからすべてを創造する」と主張する一種の「脱構築主義」が、今日の文化の中で進展しています。それが結果として残すものの一つが「際限ない消費と空虚な個人主義の表現」への衝動です。そうした懸念が、私に、若い人たちへのいくつかのアドバイスをさせました。

 「誰かが若い人々に、『自分たちの歴史を無視し、年長者の経験を拒絶し、過去を軽蔑し、そして自分自身が抱く未来を楽しみにするように』と言うなら、その方向に彼らを引き寄せ、その者の言うことだけをするようにするのが、容易になるのではないか?その者は、若者に浅薄で、根無しで、他に不信感を抱くことを求め、その者が約束することだけを信じ、その者の計画に従って行動するようにするのです。それが、さまざまなイデオロギーのなす業です。(注:人々の間に存在する)すべての違いを破壊(または脱構築)し、抵抗なく統治できるようにします。しかし、そうするためには、歴史を必要とせず、過去の世代から受け継いだ精神的、人間的な富を拒絶し、彼らの前に来るすべてのものに無知な若い人々、を必要とするのです」[10]

 

As a result, there is a growing loss of the sense of history, which leads to even further breakup. A kind of “deconstructionism”, whereby human freedom claims to create everything starting from zero, is making headway in today’s culture. The one thing it leaves in its wake is the drive to limitless consumption and expressions of empty individualism. Concern about this led me to offer the young some advice.

 “If someone tells young people to ignore their history, to reject the experiences of their elders, to look down on the past and to look forward to a future that he himself holds out, doesn’t it then become easy to draw them along so that they only do what he tells them? He needs the young to be shallow, uprooted and distrustful, so that they can trust only in his promises and act according to his plans. That is how various ideologies operate: they destroy (or deconstruct) all differences so that they can reign unopposed. To do so, however, they need young people who have no use for history, who spurn the spiritual and human riches inherited from past generations, and are ignorant of everything that came before them”.[10]

 

  1. こうしたことは、新しい形の「文化的な植民地化」です。 忘れないようにしましょう、それによって、自分たちの文化を捨て、そして、「伝統を放棄し、他人を模倣したり、暴力を助長したりすることから、あるいは、許されないような怠慢や無関心から、自分の魂を奪わせ、精神的なアイデンティティだけでなく、道徳的な一貫性、そして最終的には知的、経済的、政治的な独立性をも失う」(11)ことを。

 歴史的な意識、批判的思考、正義のための闘争、統合のプロセスを弱める効果的な方法の一つは、それらの意味の素晴らしい言葉を空にするか、それらを操作することです。 今日、民主主義、自由、正義、団結のような言葉は、本当は何を意味するのでしょうか? それらは、支配のための道具として、あらゆる行動を正当化するために使える無意味な奉仕をするための下げ札として機能するように、曲げられ、形を作られています。

 

These are the new forms of cultural colonization. Let us not forget that “peoples that abandon their tradition and, either from a craze to mimic others or to foment violence, or from unpardonable negligence or apathy, allow others to rob their very soul, end up losing not only their spiritual identity but also their moral consistency and, in the end, their intellectual, economic and political independence”.[11] One effective way to weaken historical consciousness, critical thinking, the struggle for justice and the processes of integration is to empty great words of their meaning or to manipulate them. Nowadays, what do certain words like democracy, freedom, justice or unity really mean? They have been bent and shaped to serve as tools for domination, as meaningless tags that can be used to justify any action.

 

*皆のための計画が欠けている LACKING A PLAN FOR EVERYONE

 

15. 人々を支配し、支配するために最もいい方法は、特定の価値観を擁護することを装ってでも、絶望と落胆を人々の間に広めることです。今日、多くの国で、誇張、過激主義、二極化が、政治的な道具になっています。「嘲笑と疑惑、執拗な批判の戦略」を採用し、さまざまな方法で、人々が存在したり意見を述べたりする権利を否定します。人々の真実と価値観の共有は拒絶され、結果として、人々の生活は貧しくなり、権力者の傲慢に翻弄されます。

政治的活動はもはや、「人々の生活を改善し、公益を促進するための長期計画に関する健全な議論」と関係しなくなり、他の人々の信用を傷つけることを目的とした巧妙な商いの手法とだけ関係を持ちます。そうした告訴と反訴の卑劣なやり取りの中で、議論は不一致と対立の永続的な状態へと退化していきます。

 

The best way to dominate and gain control over people is to spread despair and discouragement, even under the guise of defending certain values. Today, in many countries, hyperbole, extremism and polarization have become political tools. Employing a strategy of ridicule, suspicion and relentless criticism, in a variety of ways one denies the right of others to exist or to have an opinion. Their share of the truth and their values are rejected and, as a result, the life of society is impoverished and subjected to the hubris of the powerful. Political life no longer has to do with healthy debates about long-term plans to improve people’s lives and to advance the common good, but only with slick marketing techniques primarily aimed at discrediting others. In this craven exchange of charges and counter-charges, debate degenerates into a permanent state of disagreement and confrontation.

 

16. 勝つことの目的がは敵を排除することにある”利益相反の争い”の中で、私たちは、どのようにしたら、視力を向上し、隣人を認識したり、途中で倒れた人々を助けたりできるのでしょうか? 今の世の中では、私たち人間家族全員の発展へ素晴らしい目標を設定する計画を立てる、というのは、狂気のように聞こえます。私たちの互いの距離はどんどん遠くなってきています。人々が強く結びついた公正な世界に向けたゆっくりとした、苦労に満ちた行進は、新しくて劇的な挫折を味わっています。

 

Amid the fray of conflicting interests, where victory consists in eliminating one’s opponents, how is it possible to raise our sights to recognize our neighbors or to help those who have fallen along the way? A plan that would set great goals for the development of our entire human family nowadays sounds like madness. We are growing ever more distant from one another, while the slow and demanding march towards an increasingly united and just world is suffering a new and dramatic setback.

 

  1. 私たちが住んでいるこの世界を大切にすることは、自分自身を世話することに通じます。しかも、自分たちを”共通の家”に住む一つ家族として考えることが一層、必要になって来ています。「大切にする」ことは、目先の利益を要求する経済的な力に関心をもちません。多くの場合、環境を守るために上げられた声は、特別な利益のための単なる隠れ蓑である一見、合理的な論法によって、黙らされ、笑いものにされます。しかし、私たちが作り上げた浅薄で近視眼的な文化は、共通のビジョンを失い、「いったん特定の資源が枯渇してしまえば、気高い主張を装ってはいるものの、新たな戦いための道具建てがなされる、ということが予見できる」(12)のです。

 

To care for the world in which we live means to care for ourselves. Yet we need to think of ourselves more and more as a single family dwelling in a common home. Such care does not interest those economic powers that demand quick profits. Often the voices raised in defence of the environment are silenced or ridiculed, using apparently reasonable arguments that are merely a screen for special interests. In this shallow, short-sighted culture that we have created, bereft of a shared vision, “it is foreseeable that, once certain resources have been depleted, the scene will be set for new wars, albeit under the guise of noble claims”.[12]

 

*「使い捨て」の世界 A “throwaway” world

 

18. 私たち人間家族の中には、苦労の無い生き方がふさわしいと考えられる人のために、たやすく犠牲にされるような人がいるようです。 結局のところ、「人は、特に、貧しく、身体が不自由だったり、胎児のように『まだ役に立たない』、あるいは高齢者のように『もう必要ない』とされたりする場合、もはや、世話をされ、敬意を払われる最も高い価値のあるもの、とは見なされません。 私たちは、この上なく嘆かわしい食べ物の無駄を始めとする、あらゆる種類の無駄に、いっそう無関心になってきています」(13)。

 

Some parts of our human family, it appears, can be readily sacrificed for the sake of others considered worthy of a carefree existence. Ultimately, “persons are no longer seen as a paramount value to be cared for and respected, especially when they are poor and disabled, ‘not yet useful’ – like the unborn, or ‘no longer needed’ – like the elderly. We have grown indifferent to all kinds of wastefulness, starting with the waste of food, which is deplorable in the extreme”.[13]

 

19. 出生率が低下しているー悲しみと孤独の存在への高齢者の格下げをともなう、人口の高齢化につながるーは、それが私たちに関する全てだ、私たちの個々の関心がただ一つの重要事だ、とする巧妙な言い方です。そのようにして、捨てられるのは「食べ物や必要不可欠な物だけでなく、しばしば、人間自身」です。[14]

 新型コロナウイルスの大感染の結果、世界の特定の場所で、高齢者たちに何が起こったのかを私たちは見てきました。彼らは死ぬ必要がなかったのです。同様のことは、熱波や他の災害によって、これまでも起きてきました。そして、高齢者たちは、自分が残酷に見捨てられていることに気づきました。でも私たちは気づいていませんー高齢者たちを隔離し、家族の親密さやいたわりもなく、他人の世話に任せることで、家族そのものをそこない、衰えさせることを。そして結局は、若い人たちから、自分のルーツとの欠かすことのできない繋がりと自分自身だけでは得られない知恵を、奪うことになるのです。

 A decline in the birthrate, which leads to the aging of the population, together with the relegation of the elderly to a sad and lonely existence, is a subtle way of stating that it is all about us, that our individual concerns are the only thing that matters. In this way, “what is thrown away are not only food and dispensable objects, but often human beings themselves”.[14]

 We have seen what happened with the elderly in certain places in our world as a result of the coronavirus. They did not have to die that way. Yet something similar had long been occurring during heat waves and in other situations: older people found themselves cruelly abandoned. We fail to realize that, by isolating the elderly and leaving them in the care of others without the closeness and concern of family members, we disfigure and impoverish the family itself. We also end up depriving young people of a necessary connection to their roots and a wisdom that the young cannot achieve on their own.

 

  1. 他の人を捨て去るこのやり方は、さまざまな形をとる可能性があります。例えば、失業を引き起こし貧困を拡大させるという深刻な結果をもたらすことを考えずに、労働コストを下げることに執着することです[15]。また、他の人を捨て去る気持ちは、人種差別など、ずっと昔からあり、影を潜めても繰り返し現れる、敵意に満ちた振る舞いに、滲み出ます。人種差別の数々の出来事は、私たちに恥ずかしい思いをさせ続けています。私たちが思っている社会の進歩が、自分で考えるほど本当でも、信頼できるものでもない、ということを、それが示しているからです。

 

This way of discarding others can take a variety of forms, such as an obsession with reducing labour costs with no concern for its grave consequences, since the unemployment that it directly generates leads to the expansion of poverty.[15] In addition, a readiness to discard others finds expression in vicious attitudes that we thought long past, such as racism, which retreats underground only to keep reemerging. Instances of racism continue to shame us, for they show that our supposed social progress is not as real or definitive as we think.

 

  1. いくつかの経済ルールは、成長に効力を発揮していますが、統合的な人間開発(integral human development=注:パウロ6世教皇が1967年に出された回勅『ポプロールム・プログレシオ ― 諸民族の進歩推進 について ― 』のキーワード、「発展」は経済的、および物質的成長に限定するものではなく、「すべての人の全体としての開発を促進すること」を意味する)には効力を発揮していません[16]。

富は増加しましたが、不平等とともに、「新しい形態の貧困が出現する」結果になりました[17]。現代世界で貧困が減っている、という主張は、現実に対応しない過去の基準で貧困を測定することでなされています。たとえば、電気の供給する体制が欠けていることが「貧困のしるし」とは見なされず、困窮の原因ともされなかった、というケースもあります。貧困は常に、時々の歴史的な期間において採用可能な実際の条件の文脈で理解され、測られねばなりません。

 

Some economic rules have proved effective for growth, but not for integral human development.[16] Wealth has increased, but together with inequality, with the result that “new forms of poverty are emerging”.[17] The claim that the modern world has reduced poverty is made by measuring poverty with criteria from the past that do not correspond to present-day realities. In other times, for example, lack of access to electric energy was not considered a sign of poverty, nor was it a source of hardship. Poverty must always be understood and gauged in the context of the actual opportunities available in each concrete historical period.

 

*万人に行き渡っていない「人権」 Insufficiently universal human rights

 

22.ひんぱんに明確になっているのは、実際問題として、人権がすべての人に平等ではない、ということです。人権の尊重は「国の社会的および経済的発展の前提条件です。人間の尊厳に敬意が払われ、彼あるいは彼女の権利が認められ、保証されれば、創造性と相互依存関係が成長し、人間の個性の創造性は、共通善を促進する行動を通して発揮されます。」(18)。

しかし、「現代社会を注意深く観察することで、70年前に厳粛に宣言された『すべての人間の平等な尊厳」が、あらゆる状況で真に認識され、尊重され、保護され、促進されているのか、疑問を生じるような、数多くの矛盾があることが分かります。

 今日の世界では、還元主義的な人類学の考え方(注:上位階層において成立する基本法則や基本概念が「常に必ずそれより下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方ーを指していると思われる)によって、また、人間を搾取し、捨て、さらには殺すことさえためらわない利益本位の経済モデルによって、様々な形の不平等が続いています。一部の人たちは豊かに暮らしていますが、他の人たちは、尊厳そのものが否定され、軽蔑され、踏みにじられ、基本的権利が取り上げられ、あるいは侵害されています」(19) 。このことは、生来の人間の尊厳に基づいた権利の平等について、私たちに何を語るのでしょうか?

 

It frequently becomes clear that, in practice, human rights are not equal for all. Respect for those rights “is the preliminary condition for a country’s social and economic development. When the dignity of the human person is respected, and his or her rights recognized and guaranteed, creativity and interdependence thrive, and the creativity of the human personality is released through actions that further the common good”.[18] Yet, “by closely observing our contemporary societies, we see numerous contradictions that lead us to wonder whether the equal dignity of all human beings, solemnly proclaimed seventy years ago, is truly recognized, respected, protected and promoted in every situation.

 

In today’s world, many forms of injustice persist, fed by reductive anthropological visions and by a profit-based economic model that does not hesitate to exploit, discard and even kill human beings. While one part of humanity lives in opulence, another part sees its own dignity denied, scorned or trampled upon, and its fundamental rights discarded or violated”.[19] What does this tell us about the equality of rights grounded in innate human dignity?

 

23.  同じように、世界中の社会組織は、女性が男性と同じ尊厳、同一の権利を持っていることを明確に反映するには、まだほど遠い状態です。私たちは、言葉である事を話しますが、決定と現実は別の話です。確かに、「重ね重ね哀れなのは、のけ者にされ、虐待され、暴力を振るわれることに耐える女性たちだ。それは、彼女たちがしばしば自分の権利を守れないためである」(20)。

 

Similarly, the organization of societies worldwide is still far from reflecting clearly that women possess the same dignity and identical rights as men. We say one thing with words, but our decisions and reality tell another story. Indeed, “doubly poor are those women who endure situations of exclusion, mistreatment and violence, since they are frequently less able to defend their rights”.[20]

 

24. また、「国際社会は、あらゆる形態の奴隷制を終わらせることを目的とした数多くの協定を採択し、この事態と戦うためのさまざまな戦略に手を付けましたが、現在も、何百万の人々―子供、そしてあらゆる年齢の女性、男性―の自由が奪われ、奴隷のような境遇で生きることを強制されています… 奴隷制は今も、過去と同じように、彼または彼女を物として扱うのを認めるような、人間についての考え方に根ざしているのです… 強制され、だまされ、あるいは肉体的、精神的に強迫されることで、神の似姿として創られた人間が、自由を奪われ、売られ、他人の所有物になり、目的達成の手段として扱われます…

 犯罪組織のネットワークは、世界のさまざまな地域で、若い男性と女性を誘惑する方法として最新の通信手段を使うことに習熟しています」(21)。女性を意のままに操り、妊娠中絶を強制する時、あらゆる規制をかいくぐる悪行。臓器売買のために人々を誘拐までする憎悪すべき行為。人身売買やその他の現代的な形で引き起こされている奴隷制は、人類全体が真剣に取り組む必要のある世界的な問題です。「犯罪組織が目標達成に世界的な犯罪網を使っている以上、こうした行為を消し去る取り組みも、共通の、社会のさまざまな部門における世界的な努力が必要です」(22)。

 

We should also recognize that “even though the international community has adopted numerous agreements aimed at ending slavery in all its forms, and has launched various strategies to combat this phenomenon, millions of people today – children, women and men of all ages – are deprived of freedom and forced to live in conditions akin to slavery… Today, as in the past, slavery is rooted in a notion of the human person that allows him or her to be treated as an object… Whether by coercion, or deception, or by physical or psychological duress, human persons created in the image and likeness of God are deprived of their freedom, sold and reduced to being the property of others. They are treated as means to an end…

[Criminal networks] are skilled in using modern means of communication as a way of luring young men and women in various parts of the world”.[21] A perversion that exceeds all limits when it subjugates women and then forces them to abort. An abomination that goes to the length of kidnapping persons for the sake of selling their organs. Trafficking in persons and other contemporary forms of enslavement are a worldwide problem that needs to be taken seriously by humanity as a whole: “since criminal organizations employ global networks to achieve their goals, efforts to eliminate this phenomenon also demand a common and, indeed, a global effort on the part of various sectors of society”.[22]

 

*争いと恐怖 Conflict and fear

 

25. 戦争、テロリストによる襲撃、人種的あるいは宗教的な迫害、その他の、人間の尊厳を踏みにじる数多くの行為は、特定の、主として経済的な利益にどれほど都合がいいかによって、異なった判断が下されています。権力を持つ者にとって都合がいい場合に真実である事が、都合が悪くなれば真実でなくなります。悲しいことに、これらの暴力行為は「ばらばらな状態で実際に起きている『第三次世界大戦』を構成するほど一般的になってきています」(23)。

 

War, terrorist attacks, racial or religious persecution, and many other affronts to human dignity are judged differently, depending on how convenient it proves for certain, primarily economic, interests. What is true as long as it is convenient for someone in power stops being true once it becomes inconvenient. These situations of violence, sad to say, “have become so common as to constitute a real ‘third world war’ fought piecemeal”.[23]

 

  1.  私たちを結びつける共通の領域が、もはや無いことに気付いたとしても、驚くべきことではありません。 確かに、どの戦争でも最初に犠牲となるのは「人間家族の友愛への、本来備わっている神から召された使命」です。 その結果、「あらゆる脅迫的な状況が不信感を生み、人々を自分の安全圏に引きこもらせる」(24)。 私たちの世界は奇妙な矛盾に陥っているーその世界で、私たちは、自分が「恐怖と不信の心性によって支えられた誤った安心感を通して、安定と平和を確保できるのだ」(25)と信じているのです。

 

This should not be surprising, if we realize that we no longer have common horizons that unite us; indeed, the first victim of every war is “the human family’s innate vocation to fraternity”. As a result, “every threatening situation breeds mistrust and leads people to withdraw into their own safety zone”.[24] Our world is trapped in a strange contradiction: we believe that we can “ensure stability and peace through a false sense of security sustained by a mentality of fear and mistrust”.[25]

 

27. 逆説的ですが、私たちには、技術開発が排除することに成功していない、という先祖代々の恐れがあります。確かに、そうした恐れは、新技術の裏に隠れて広がることができました。今日でも、古代から続く町の壁の外には、計り知れない深み、未知の領域、荒れ野があります。そこから来るものは、何であろうと信頼できません。なぜなら、それは未知で、なじみがなく、村の一部ではないからです。それは「野蛮人」の領土であり、そこから私たちはどんな犠牲を払っても自分自身を守らなければなりません。

 その結果、自衛のために新しい壁が建てられ、外の世界は存在をやめ、「私」の世界だけが残り、他の人々は、もはや奪われることのない尊厳を持っている人間とは見なされず、ただの「彼ら」になります。

 もう一度、私たちは「他の文化や他の人々と出会うのを防ぐために『壁の文化』を構築し、壁-心の壁、土地の壁を立てたい、という誘惑に出会います。そして、壁を立てる人々は、自分が立てたまさにその壁の中で奴隷になってしまうでしょう。彼らは視野を失ったまま残されます。他の人々との交流を欠いているからです」(26)。

 

Paradoxically, we have certain ancestral fears that technological development has not succeeded in eliminating; indeed, those fears have been able to hide and spread behind new technologies. Today too, outside the ancient town walls lies the abyss, the territory of the unknown, the wilderness. Whatever comes from there cannot be trusted, for it is unknown, unfamiliar, not part of the village. It is the territory of the “barbarian”, from whom we must defend ourselves at all costs.

 As a result, new walls are erected for self-preservation, the outside world ceases to exist and leaves only “my” world, to the point that others, no longer considered human beings possessed of an inalienable dignity, become only “them”. Once more, we encounter “the temptation to build a culture of walls, to raise walls, walls in the heart, walls on the land, in order to prevent this encounter with other cultures, with other people. And those who raise walls will end up as slaves within the very walls they have built. They are left without horizons, for they lack this interchange with others”.[26]

 

28. システムに見捨てられたと感じる人々が経験する孤独、恐れ、不安は、さまざまな「マフィアたち」のための肥沃な土地を作り出します。彼らは繁栄します。なぜなら、犯罪によって利益を追求している時でさえも、社会から忘れられた人々に、様々な形の援助をひんぱんに提供することで、擁護者である、と主張するからです。そして、偽りの共同体主義の神秘的雰囲気を振り撒くことで、抜け出すのがとても難しい「依存と忠誠の絆」作り出す、典型的な“mafioso(マフィアの一員)”の”教育学”も存在するのです。

 

The loneliness, fear and insecurity experienced by those who feel abandoned by the system creates a fertile terrain for various “mafias”. These flourish because they claim to be defenders of the forgotten, often by providing various forms of assistance even as they pursue their criminal interests. There also exists a typically “mafioso” pedagogy that, by appealing to a false communitarian mystique, creates bonds of dependency and fealty from which it is very difficult to break free.

 

*共通の工程表を欠いたグローバリゼーションと進歩 GLOBALIZATION AND PROGRESS WITHOUT A

SHARED ROADMAP

 

29. アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師も同じお考えですが、私たちは、科学、技術、医学、産業、福祉の分野で、とりわけ先進国においてなされた疑いようのない進歩を無視することはしません。それにもかかわらず、それが「歴史的な進歩、偉大で価値あるものであると同時に、国際的な活動に影響を与える道徳的な劣化、そして、精神的価値と責任感の弱体化が起きていることも、強調しておきたいと思います。これは、欲求不満、孤立、絶望という一般的な感覚を生む一因となります」

 私たちが目にするのは「不確実性、幻滅、未来への恐れに支配され、限られた経済的利益によって支配されている世界的な状況の中で、敵対関係の発生と武器と弾薬の蓄積」です。また、「重大な政治的危機、不正がはびこり、天然資源の公平な分配の欠如… 貧困と飢餓から衰弱した何百万人もの子供たちの死をもたらすような危機に直面しているにもかかわらず、容認することのできない国際的なレベルでの沈黙があります」(27)。このような世界は、その否定できない進歩にもかかわらず、より人間的な未来につながるようには見えません。

 

With the Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb, we do not ignore the positive advances made in the areas of science, technology, medicine, industry and welfare, above all in developed countries. Nonetheless, “we wish to emphasize that, together with these historical advances, great and valued as they are, there exists a moral deterioration that influences international action and a weakening of spiritual values and responsibility. This contributes to a general feeling of frustration, isolation and desperation”.

 We see “outbreaks of tension and a buildup of arms and ammunition in a global context dominated by uncertainty, disillusionment, fear of the future, and controlled by narrow economic interests”. We can also point to “major political crises, situations of injustice and the lack of an equitable distribution of natural resources… In the face of such crises that result in the deaths of millions of children – emaciated from poverty and hunger – there is an unacceptable silence on the international level”.[27] This panorama, for all its undeniable advances, does not appear to lead to a more humane future.

 

30. 今日の世界では、「ひとつの人間家族に属している」という感覚は薄れつつあり、「正義と平和のために力を合わせる」という夢は、時代遅れのユートピアのよう思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた「クールで、心地よく、グローバル化された無関心」です。

私たちは、全員が同じ船に乗っていることに気づかず、「自分が全能だ」と考えます― このような幻想は、偉大な友愛の価値を意識せず、「一種の冷笑的な考え」につながります。 それは、私たちが幻滅と失望の道を進んだ場合に直面する誘惑です… 孤立し、自己の利益に逃げ込むことは、希望を取り戻し、再生をもたらす道ではありません。 希望、再生に必要なのは、親密さです。 出会いの文化です。 孤立はノー、親密さはイエス。文化の衝突はノー、 出会いの文化はイエス、です」(28)。

 

In today’s world, the sense of belonging to a single human family is fading, and the dream of working together for justice and peace seems an outdated utopia. What reigns instead is a cool, comfortable and globalized indifference, born of deep disillusionment concealed behind a deceptive illusion: thinking that we are all-powerful, while failing to realize that we are all in the same boat. This illusion, unmindful of the great fraternal values, leads to “a sort of cynicism. For that is the temptation we face if we go down the road of disenchantment and disappointment… Isolation and withdrawal into one’s own interests are never the way to restore hope and bring about renewal. Rather, it is closeness; it is the culture of encounter. Isolation, no; closeness, yes. Culture clash, no; culture of encounter, yes”.[28]

 

31. 速いスピードで進むものの、共通の工程表がない現在の世界では、「『個人の幸福への関心』と、より大きな『人間家族の繁栄』の間のギャップが、個々人と人間的な共同体社会の間に完全な分裂をもたらすまで広がっているように思われます… 『共に暮らすことを余儀なくされている』と感じることと、強く求め育てる必要のある共同生活の種子の豊かさと素晴らしさに価値を置くことは、まったく別です」(29)。技術は絶えず進歩していますが、「科学技術革新の進展が、もっと平等で多様性を包み込む社会に繋がるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。私たちが遠くの惑星を発見するとともに、私たちの周りを回る兄弟姉妹が求めているものを再発見することは、どれほど素晴らしいことでしょう」(30)。

 

In this world that races ahead, yet lacks a shared roadmap, we increasingly sense that “the gap between concern for one’s personal well-being and the prosperity of the larger human family seems to be stretching to the point of complete division between individuals and human community… It is one thing to feel forced to live together, but something entirely different to value the richness and beauty of those seeds of common life that need to be sought out and cultivated”.[29] Technology is constantly advancing, yet “how wonderful it would be if the growth of scientific and technological innovation could come with more equality and social inclusion. How wonderful would it be, even as we discover faraway planets, to rediscover the needs of the brothers and sisters who orbit around us”.[30]

 

*歴史における新型コロナウイルス大感染と他の悲惨な出来事 PANDEMICS AND OTHER CALAMITIES IN HISTORY

 

32. 新型コロナウイルスの世界的大感染の悲劇は、私たちが皆、世界的な共同体の船に乗っているのだという感覚を、ほんの一瞬、復活させましたーそこでは、一人の問題が、全員の問題です。改めて、一人だけで救われる人はいない、ということに気づきました。私たちは一緒にしか救われません。先に私が申し上げたように、「(注:コロナ大感染の)嵐は私たちの弱さを露呈し、確かだと思っていたことー日々の日程、計画、習慣、優先すべきもの…などーが間違っていた、過信していたことを明らかにしました… この嵐の最中に、私たちが偽装した自分のエゴ、いつも外見を気にしていた「固定概念の建物の正面」が崩れ去り、『私たちが互いの一部であり、互いに兄弟姉妹だ』という避けがたく、神に祝福された認識が、改めて明るみに出されたのです」(31)。

  

True, a worldwide tragedy like the Covid-19 pandemic momentarily revived the sense that we are a global community, all in the same boat, where one person’s problems are the problems of all. Once more we realized that no one is saved alone; we can only be saved together. As I said in those days, “the storm has exposed our vulnerability and uncovered those false and superfluous certainties around which we constructed our daily schedules, our projects, our habits and priorities… Amid this storm, the façade of those stereotypes with which we camouflaged our egos, always worrying about appearances, has fallen away, revealing once more the ineluctable and blessed awareness that we are part of one another, that we are brothers and sisters of one another”.[31]

 

33. 世界は、「技術進歩で『人的損失』の削減を目指す経済」に向かって執拗に進んできましたー市場の自由はすべてを保証するに足るもの、と私たちを信じ込ませた人々がいました。しかし、現在の制御不能な新型コロナ感染の、残忍で予期しない打撃は、人間への配慮を、少数者の利益でなく、すべての人のために取り戻すように、私たちに強く教えました。

 今、私たちは知ることができますー「私たちは素晴らしさと壮大さの夢の上に生き、結局は、娯楽、偏狭、孤独に時間を費やすことになった。ネットワーキングに夢中になり、友愛の味を忘れた。安直に手に入る安全な結果を探し求めたが、焦りと不安に圧倒された。仮想現実の囚人たちー私たちは本当の現実の味と香りを無くした」[32]。コロナ大感染によってもたらされた痛み、不確実さ、恐れ、そして自分自身の限界の認識は、これまでの生活様式、人間関係、社会の組織、そして何よりも、自分の存在の意味を考え直すことを、これまで以上に緊急の課題として、私たちに提示しているのです。

 

The world was relentlessly moving towards an economy that, thanks to technological progress, sought to reduce “human costs”; there were those who would have had us believe that freedom of the market was sufficient to keep everything secure. Yet the brutal and unforeseen blow of this uncontrolled pandemic forced us to recover our concern for human beings, for everyone, rather than for the benefit of a few.

 

Today we can recognize that “we fed ourselves on dreams of splendour and grandeur, and ended up consuming distraction, insularity and solitude. We gorged ourselves on networking, and lost the taste of fraternity. We looked for quick and safe results, only to find ourselves overwhelmed by impatience and anxiety. Prisoners of a virtual reality, we lost the taste and flavour of the truly real”.[32] The pain, uncertainty and fear, and the realization of our own limitations, brought on by the pandemic have only made it all the more urgent that we rethink our styles of life, our relationships, the organization of our societies and, above all, the meaning of our existence.

 

34.すべてが繋がっていますーこの地球規模の災害が、私たちが現実にアプローチする方法、自分自身の人生と存在するすべてのものの「至高の主人」である、という私たちの主張と無関係だというのは想像しがたいことです。私は神の報復について話したくありませんし、私たちの自然に与える害がそれ自体、私たちの罪に対する罰である、と言うだけでは不十分です。世界そのものが反逆の声を上げています。私たちは「tears of things」-人生と歴史の不幸を呼び起こす詩人ウェルギリウスの有名な詩を思い起こします(33)。

(「カトリック・あい」注:プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro=紀元前70年10月15日? – 紀元前19年9月21日)=共和政ローマ末の内乱の時代からオクタビアヌスの台頭に伴う帝政の確立期に生涯を過ごし、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作品によって知られ、欧州文学史上、ラテン文学において最も重視される人物)

 

Everything is connected, it is hard to imagine that this global disaster is unrelated to our way of approaching reality, our claim to be absolute masters of our own lives and of all that exists. I do not want to speak of divine retribution, nor would it be sufficient to say that the harm we do to nature is itself the punishment for our offences. The world is itself crying out in rebellion. We are reminded of the well-known verse of the poet Virgil that evokes the “tears of things”, the misfortunes of life and history.[33]

 

35. しかし、私たちはあまりにも早く、歴史の教訓ー「人生の教師」[34]を忘れてしまいます。現在のコロナ危機が過ぎ去った後の、私たちの最悪の対応は、熱狂的な消費主義と新しい形の身勝手な自己保存に、さらに深くのめりこんでしまうことです。神が希望されるのは、現在の危機がすべて終わった後、私たちがもはや「彼ら」と「それら」の観点から考えることをせず、「私たち」の観点から考えることです。

そうすることで、「私たちが何ら教訓を学ばない歴史上の単なる悲劇」の一つではないことを証明できればいい。毎年、医療制度が壊され続けたことが一つの理由となって、人工呼吸器が不足したことで亡くなった多くの高齢者の方々のことを肝に銘じることができればいい。この計り知れない悲しみが、無駄にならず、私たちが新しい人生の過ごし方に一歩踏み出させればいい。私たちが互いを必要としていることを再発見し、そのようにして、私たち人間家族が、自分が立てた壁を乗り越えて、皆の顔、皆の手、そして皆の声とともに再生できればいいのです。

 

All too quickly, however, we forget the lessons of history, “the teacher of life”.[34] Once this health crisis passes, our worst response would be to plunge even more deeply into feverish consumerism and new forms of egotistic self-preservation. God willing, after all this, we will think no longer in terms of “them” and “those”, but only “us”. If only this may prove not to be just another tragedy of history from which we learned nothing. If only we might keep in mind all those elderly persons who died for lack of respirators, partly as a result of the dismantling, year after year, of healthcare systems. If only this immense sorrow may not prove useless, but enable us to take a step forward towards a new style of life. If only we might rediscover once for all that we need one another, and that in this way our human family can experience a rebirth, with all its faces, all its hands and all its voices, beyond the walls that we have erected.

 

36. 私たちが、「親密な関係を持つ共同体、自分たちの時間、エネルギー、資源の価値のある連帯」を作り上げる共通の情熱を取り戻さない限り、私たちを惑わした世界的な幻想は崩壊し、多くの人々が苦悩と空虚に支配されてしまうでしょう。また、「消費者主義の生活様式への執着は、特にそれを維持できる人がほとんどいない場合、暴力と相互破壊につながるだけだ」(35) という見方を単純に拒むべきではありません。「すべての人は自分自身のために」という考えは、どのような感染症の大流行よりもひどい「気ままなやりたい放題」へと堕落していくでしょう。

 

Unless we recover the shared passion to create a community of belonging and solidarity worthy of our time, our energy and our resources, the global illusion that misled us will collapse and leave many in the grip of anguish and emptiness. Nor should we naively refuse to recognize that “obsession with a consumerist lifestyle, above all when few people are capable of maintaining it, can only lead to violence and mutual destruction”.[35] The notion of “every man for himself” will rapidly degenerate into a free-for-all that would prove worse than any pandemic.

 

*国境における人間の尊厳の欠如 AN ABSENCE OF HUMAN DIGNITY ON THE BORDER山口

 

37. 特定のポピュリスト的な政治体制や、特定のリベラルな経済的な取り組みを進める人々は、「移民の流入はどのようなコストを払っても防ぐ必要がある」と言い張っています。 貧しい国々への援助を抑えることの妥当性についても、そのような主張がされます。その結果、そうした国々がどん底に落ち込み、縮政策を強いられることになるかも知れません。

そのような観念的で,支持しがたい主張の裏で、多くの命が危機に瀕していることに気付かないのです。 多くの移民たちは、戦争、迫害、自然災害から逃れてきました。 そうでない人たちは、当然のことながら、「自分自身と自分の家族のための良い機会を求めています。より良い未来を夢見ており、それを手に入れる条件を整えたいと思っています」(36)。

 

Certain populist political regimes, as well as certain liberal economic approaches, maintain that an influx of migrants is to be prevented at all costs. Arguments are also made for the propriety of limiting aid to poor countries, so that they can hit rock bottom and find themselves forced to take austerity measures. One fails to realize that behind such statements, abstract and hard to support, great numbers of lives are at stake. Many migrants have fled from war, persecution and natural catastrophes. Others, rightly, “are seeking opportunities for themselves and their families. They dream of a better future and they want to create the conditions for achieving it”.[36]

38. 悲しいことに、一部の人は「西洋文化に惹かれ、時には非現実的な期待を抱き、深刻な失望にさらされます。麻薬カルテルや武器カルテルに頻繁に関わる悪意をもった人身売買業者は、移民の弱点を悪用します。移民は、移動中に暴力、人身売買、精神的および肉体的虐待など、計り知れない苦しみを頻繁に味わいます」(37)。  

移住する人々は「故郷との関係を断たれ、しばしば文化的および宗教的な喪失を経験します。離散は、彼らが残した共同体社会にも感じられ、彼らは最も活発で進取の気風を失い、特に両親の一方または両方が、子供たちを生まれた国に残して、移住する時に、それを感じます」(38)。このような理由から、「移住しない、つまり故郷に留まる権利を、再確認する必要」(39)もあります。

 

Sadly, some “are attracted by Western culture, sometimes with unrealistic expectations that expose them to grave disappointments. Unscrupulous traffickers, frequently linked to drug cartels or arms cartels, exploit the weakness of migrants, who too often experience violence, trafficking, psychological and physical abuse and untold sufferings on their journey”.[37] Those who emigrate “experience separation from their place of origin, and often a cultural and religious uprooting as well. Fragmentation is also felt by the communities they leave behind, which lose their most vigorous and enterprising elements, and by families, especially when one or both of the parents migrates, leaving the children in the country of origin”.[38] For this reason, “there is also a need to reaffirm the right not to emigrate, that is, to remain in one’s homeland”.[39]

 

39. それからまた、「一部の移民受入国では、移住は恐怖と警戒を引き起こし、しばしば政治目的のために煽り立てられ、利用されます。 移民たちが自分自身の中に閉じこもることが、外国人恐怖症につながる恐れがあり、それに断固として対応する必要があります」(40) 。移民たちは、それ以外の人のように移住先の社会生活に参加する資格があるとは見なされず、他の人と同じ本質的な尊厳を持っていることが忘れられています。

 したがって、彼らは「自分自身の贖罪の代理人」(41)であるべきなのです。 彼らが人間であることを公然と否定する人は誰もいませんが、実際には、私たちの判断と彼らへの対応によって、彼らを価値が低く、重要性が低く、人間性が低い、と見なしていることを示すことになり得るのです。 キリスト教徒にとって、このような考え方と振る舞いは受け入れられません。それが、信仰―どのような出自、人種あるいは宗教であっても、奪うことが許されない一人ひとりの尊厳、そして友愛という最高法規―への強い確信よりも、特定の政治的な選好を、上に置くからです。

 

Then too, “in some host countries, migration causes fear and alarm, often fomented and exploited for political purposes. This can lead to a xenophobic mentality, as people close in on themselves, and it needs to be addressed decisively”.[40] Migrants are not seen as entitled like others to participate in the life of society, and it is forgotten that they possess the same intrinsic dignity as any person.

 Hence they ought to be “agents in their own redemption”.[41] No one will ever openly deny that they are human beings, yet in practice, by our decisions and the way we treat them, we can show that we consider them less worthy, less important, less human. For Christians, this way of thinking and acting is unacceptable, since it sets certain political preferences above deep convictions of our faith: the inalienable dignity of each human person regardless of origin, race or religion, and the supreme law of fraternal love.

 

40. 「移住は、これまで以上に、私たちの世界の将来に、極めて重要な役割を果たすでしょう」(42)。しかし現在、移住は「すべての市民社会の基盤となっている兄弟姉妹に対する責任感の喪失」の影響を受けています(43)。たとえば、欧州は、そうした道を歩むリスクを冒しています。にもかかわらず、「その偉大な文化的および宗教的遺産に助けられ、人間が中心であるという考えを守り、そして『市民の権利を守り、移民を助け、受け入れることを保証する、という二重の道徳的責任』の間に適切な均衡を見つける手段を持っています」(44)。

 

“Migrations, more than ever before, will play a pivotal role in the future of our world”.[42] At present, however, migration is affected by the “loss of that sense of responsibility for our brothers and sisters on which every civil society is based”.[43] Europe, for example, seriously risks taking this path. Nonetheless, “aided by its great cultural and religious heritage, it has the means to defend the centrality of the human person and to find the right balance between its twofold moral responsibility to protect the rights of its citizens and to assure assistance and acceptance to migrants”.[44]

 

41. 私は、移民に戸惑い、恐れている人がいることを承知しています。これは、私たちの自然な自己防衛の本能の一部だと思います。しかしまた、一人の個人、一つの集団は、他の人々への創造的な開放性を育てる場合に限って、実り豊かで生産的になることも、事実です。私は皆さんに、こうした最初の反応を乗り越えて振る舞うようにお願いします。なぜなら、「(注:私たちの移民の人たちに対する)疑いや恐れが、私たちを不寛容で、閉鎖的で、そして恐らく自覚無しに、人種差別主義者にまでにしてしまう、考えと振る舞いを条件づける、という問題があるからです。そのようにして、恐れが『他の人と出会いたい』という強い希望と能力を、私たちから奪うのです」(45)。

 

I realize that some people are hesitant and fearful with regard to migrants. I consider this part of our natural instinct of self-defense. Yet it is also true that an individual and a people are only fruitful and productive if they are able to develop a creative openness to others. I ask everyone to move beyond those primal reactions because “there is a problem when doubts and fears condition our way of thinking and acting to the point of making us intolerant, closed and perhaps even – without realizing it – racist. In this way, fear deprives us of the desire and the ability to encounter the other”.[45]」

 

*コミュニケーションの幻想 THE ILLUSION OF COMMUNICATION

42. おかしなことに、他の人々に対する閉鎖的で不寛容な態度が高まる一方で、(注:人と人の間の)距離が縮み、あるいはプライバシーの権利がほとんど消えてしまうほどに薄らいでいます。すべてが調べられ、検閲される一種の惨状が起き、人々の生活は、常に監視されるようになっています。デジタル通信は、すべてを白日の下に晒そうとしていますー人々の生活は、情報がバーコード化され、むき出しにされ、あちこちに言いふらされ、それがしばしば匿名でなされます。他の人への敬意が崩れ、たとえ他の人々をはねつけ、無視し、距離を置いても、彼らの生活の隅々を、臆面もなく、のぞき込むことができるのです。

 

Oddly enough, while closed and intolerant attitudes towards others are on the rise, distances are otherwise shrinking or disappearing to the point that the right to privacy scarcely exists. Everything has become a kind of spectacle to be examined and inspected, and people’s lives are now under constant surveillance. Digital communication wants to bring everything out into the open; people’s lives are combed over, laid bare and bandied about, often anonymously. Respect for others disintegrates, and even as we dismiss, ignore or keep others distant, we can shamelessly peer into every detail of their lives.

 

43. 憎悪と破壊のデジタル促進運動は、それ自体、私たちが信じ込まされているような、相互支援の前向きなものではなく、認識された共通の敵に対して一つになった、単なる個人の集団の動きです。

「デジタルメディアはまた、人々を、中毒にし、孤立させ、現実との接触を徐々に失っていく危険にさらし、本当の人間関係が育つのを妨げる可能性がある」(46)。デジタルメディアは、私たちに話しかけ、人間的なコミュニケーションの一部であるもの-身体的表現、顔の表情、沈黙の瞬間、身振りや手振り、そして匂い、手の震え、赤面と発汗さえも-欠いています。

 デジタルによる関係ー友情が徐々に育っていくことや、安定した交流、あるいは時間とともに成熟する総意の構築を必要としない関係ーは、社交的なように見えます。だが、実際には、共同体社会を構築せず、個人主義であることを隠して、広げていく傾向があり、それは、よそ者を嫌い、弱い者を軽蔑する中に、自然と現れます。デジタルによる接続は、”橋”を作るのに十分ではありません。人類を一つにすることはできないのです。

 

Digital campaign of hatred and destruction, for their part, are not – as some would have us believe – a positive form of mutual support, but simply an association of individuals united against a perceived common enemy. “Digital media can also expose people to the risk of addiction, isolation and a gradual loss of contact with concrete reality, blocking the development of authentic interpersonal relationships”.[46] They lack the physical gestures, facial expressions, moments of silence, body language and even the smells, the trembling of hands, the blushes and perspiration that speak to us and are a part of human communication.

 Digital relationships, which do not demand the slow and gradual cultivation of friendships, stable interaction or the building of a consensus that matures over time, have the appearance of sociability. Yet they do not really build community; instead, they tend to disguise and expand the very individualism that finds expression in xenophobia and in contempt for the vulnerable. Digital connectivity is not enough to build bridges. It is not capable of uniting humanity.

 

*臆面もない侵略 Shameless aggression

 

44. そうした人々は、個人個人で心地よい消費者主義者の孤独を保っている時でさえも、他の人を打ち壊すような、あからさまな敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、言葉の暴力をかきたてる、絶え間ない熱狂的な結びつきを、「物理的な接触では、皆を引き裂かないために求められる、自制心」を欠いたまま、選択することが可能です。社会的な侵略は、コンピューターやモバイル・デバイスを介した拡大の未だかつてなかった場を見つけたのです。

 

Even as individuals maintain their comfortable consumerist isolation, they can choose a form of constant and febrile bonding that encourages remarkable hostility, insults, abuse, defamation and verbal violence destructive of others, and this with a lack of restraint that could not exist in physical contact without tearing us all apart. Social aggression has found unparalleled room for expansion through computers and mobile devices.

 

45. このことは、今や、諸々のイデオロギーに完全な行動の自由を与えました。数年前まで、皆の尊敬を失う危険を冒さずに口にできなかったことを、今では、責任を問われることなく、極めて粗雑な言葉で、一部の政治家さえも話すようになっています。そして、忘れてならないのは、次のようなことですー「デジタルの世界では巨大な経済的利益が働いており、その世界は、侵略的で、良心と民主主義的な手続きを操作するメカニズムを作るのと同じような、巧妙な管理形態を実行することができる。多くの(注:デジタル)プラットフォームの機能は、結局は、同じような考えを持つ人同士の出会いを促し、議論をさせないようにすることにつながる。こうした閉鎖された回路は、偽のニュースや虚偽の情報の拡散を促進し、偏見や憎悪を助長する」[47]。

 

This has now given free rein to ideologies. Things that until a few years ago could not be said by anyone without risking the loss of universal respect can now be said with impunity, and in the crudest of terms, even by some political figures. Nor should we forget that “there are huge economic interests operating in the digital world, capable of exercising forms of control as subtle as they are invasive, creating mechanisms for the manipulation of consciences and of the democratic process. The way many platforms work often ends up favouring encounter between persons who think alike, shielding them from debate. These closed circuits facilitate the spread of fake news and false information, fomenting prejudice and hate”.[47]

 

46. 私たちが認識すべきことは、キリスト教徒を含む宗教を信じる人々の間で、破壊的な形の狂信的振る舞いが散見されることですーそうした人々もまた、「インターネットやデジタル通信によるさまざまな公開討論の場を通じて、言葉による暴力のネットワークに巻き込まれる可能性があります。カトリックのメディアさえも、限界を超え、名誉毀損や誹謗中傷が当たり前になり、あらゆる倫理基準と他の人の名誉の尊重を捨てる可能性があります」[48]。このことが、私たちの父が求める友愛に、どのように貢献できるのでしょうか。

 

We should also recognize that destructive forms of fanaticism are at times found among religious believers, including Christians; they too “can be caught up in networks of verbal violence through the internet and the various forums of digital communication. Even in Catholic media, limits can be overstepped, defamation and slander can become commonplace, and all ethical standards and respect for the good name of others can be abandoned”.[48] How can this contribute to the fraternity that our common Father asks of us?

 

*叡智を欠いた情報 Information without wisdom

 

47. 真の叡智は、現実との出会いを求めます。しかし今日では、すべてを作り上げ、偽装し、変えてしまうことが可能です。したがって、ほんの初歩的な現実をもっての直接の出会いさえも、耐え難いものになる可能性があります。そうすると、選択のメカニズムが働きます。これによって、好きなものと嫌いなもの、魅力的と思うものと、そうでないものを、一瞬のうちに区別することができます。同じ様に、私たちは自分たちの世界を共有したい人を選ぶことが可能です。今日の仮想現実のネットワークでは、不快な人、あるいは不快と思われる人や状況が削除され、仮想のサークルが作成され、自分が住んでいる現実の世界から切り離されてしまいます。

 

True wisdom demands an encounter with reality. Today, however, everything can be created, disguised and altered. A direct encounter even with the fringes of reality can thus prove intolerable. A mechanism of selection then comes into play, whereby I can immediately separate likes from dislikes, what I consider attractive from what I deem distasteful. In the same way, we can choose the people with whom we wish to share our world. Persons or situations we find unpleasant or disagreeable are simply deleted in today’s virtual networks; a virtual circle is then created, isolating us from the real world in which we are living.

 

  1. 腰を下ろして人の話を聞く能力は、対人関係特有のもので、自己愛を超え、他の人を受け入れ、気遣い、自分の生活に喜んで迎える人々によって示される、歓迎の態度の典型です。 しかし、「今の世界は、全体的に”耳が遠い”世界になっています… 時には、現代世界の我を忘れたような動きが、他の人の話に注意深く耳を傾けるのを妨げます。相手の話の途中に割り込み、その人がまだ言い終えていない意見に反論しようとします。私たちは 聞く能力を失ってはなりません」。 聖フランシスコは「神の声を聞き、貧しい人々の声を聞き、弱い人々の声を聞き、自然の声を聞きました。 彼はそれを、生き方にしました。 私の強い願いは、聖フランシスコの植えた種が、多くの人の心の中で育つことです」(49)。

 

The ability to sit down and listen to others, typical of interpersonal encounters, is paradigmatic of the welcoming attitude shown by those who transcend narcissism and accept others, caring for them and welcoming them into their lives. Yet “today’s world is largely a deaf world… At times, the frantic pace of the modern world prevents us from listening attentively to what another person is saying. Halfway through, we interrupt him and want to contradict what he has not even finished saying. We must not lose our ability to listen”. Saint Francis “heard the voice of God, he heard the voice of the poor, he heard the voice of the infirm and he heard the voice of nature. He made of them a way of life. My desire is that the seed that Saint Francis planted may grow in the hearts of many”.[49]

 

49. 静かに、注意して聴く習慣が、(注:SMSなどによる)メッセージ交換の狂乱に取って代わられることで、知者の人間的コミュニケーションの基本構造が危機に瀕しています。欲しいものだけを作り、コントロールできないものや、簡単に表面的に知ることができないものは、すべて排除する、という新しい生活様式が生まれ、その固有の論理によって、私たちを共有の知恵に導くような、静かに、深く考えることを、できなくしてしまいます。

 

As silence and careful listening disappear, replaced by a frenzy of texting, this basic structure of sage human communication is at risk. A new lifestyle is emerging, where we create only what we want and exclude all that we cannot control or know instantly and superficially. This process, by its intrinsic logic, blocks the kind of serene reflection that could lead us to a shared wisdom.

 

50. 私たちは共に、対話、リラックスした会話、あるいは情熱的な討論で真実を探し求めることができます。そのためには忍耐力が必要です。沈黙と苦しみの瞬間を伴いますが、それでも個人と人々の広い経験を辛抱強く受け入れることができます。

 私たちの”指先での情報”の洪水は、大きな知恵にはなりません。知恵は、インターネットでの迅速な検索から生まれるものでも、未検証のデータの塊でもありません。そのようなやり方は、真実との出会いの中で成熟する方法ではありません。そのようなやり方の会話は、最新のデータだけを中心に展開され、単に水平的なものの積み重ねになります。注意を集中し続け、問題の核心に入り、生活に意味を与えるために何が欠かせないかを認識する、ということができません。そうして、自由は、自分があちこちに売られている、という幻想になり、インターネットをあやつる能力とたやすく混同されてしまいます。

 友愛を築く取り組みは、それが地域的であろうと普遍的であろうと、自由な、本物の出会いに開かれた精神によってのみ、始めることができるのです。

 

Together, we can seek the truth in dialogue, in relaxed conversation or in passionate debate. To do so calls for perseverance; it entails moments of silence and suffering, yet it can patiently embrace the broader experience of individuals and peoples.

The flood of information at our fingertips does not make for greater wisdom. Wisdom is not born of quick searches on the internet nor is it a mass of unverified data. That is not the way to mature in the encounter with truth. Conversations revolve only around the latest data; they become merely horizontal and cumulative. We fail to keep our attention focused, to penetrate to the heart of matters, and to recognize what is essential to give meaning to our lives. Freedom thus becomes an illusion that we are peddled, easily confused with the ability to navigate the internet.

The process of building fraternity, be it local or universal, can only be undertaken by spirits that are free and open to authentic encounters.

 

*服従と自己卑下の構造 FORMS OF SUBJECTION AND OF SELF-CONTEMPT

 

51. 特定の経済的に繁栄している国は、発展途上国のための文化的なモデルとして提案される傾向があります。 それよりも、これらの国々が独自の方法で成長し、適切な文化の価値を尊重しながら変革能力を高めていくように支援する必要があります。 他人を模倣したい、という浅薄で情けない欲求は、創造ではなく、コピーと消費につながり、国民に低い自尊心を育ててしまいます。 多くの貧しい国の富裕層や、最近貧困から抜け出した人々には、先住民の考え方や行動に抵抗があり、 すべての病いの唯一の原因であるかのように、自分自身の文化的アイデンティティを軽蔑する傾向があります。

 

Certain economically prosperous countries tend to be proposed as cultural models for less developed countries; instead, each of those countries should be helped to grow in its own distinct way and to develop its capacity for innovation while respecting the values of its proper culture. A shallow and pathetic desire to imitate others leads to copying and consuming in place of creating, and fosters low national self-esteem. In the affluent sectors of many poor countries, and at times in those who have recently emerged from poverty, there is a resistance to native ways of thinking and acting, and a tendency to look down on one’s own cultural identity, as if it were the sole cause of every ill.

 

52. 自尊心を壊すことは、他の人を支配する容易な方法です。私たちの世界を平準化しがちなこうした時代的流れの背後には、メディアやネットワークを通じて上流階級に奉仕する新たな文化を創造する試みをする一方で、低い自尊心を利用する強い関心が蔓延しています。金融の投機家や乗っ取り屋のご都合主義の思うつぼにはまり、貧しい人々がいつも敗者になってしまいます。そして、人々の文化を無視することは、多くの政治指導者が、自由に受け入れられ、長期にわたって維持されるような効果的な開発計画を考案できないことに繋がっています。

 

Destroying self-esteem is an easy way to dominate others. Behind these trends that tend to level our world, there flourish powerful interests that take advantage of such low self-esteem, while attempting, through the media and networks, to create a new culture in the service of the elite. This plays into the opportunism of financial speculators and raiders, and the poor always end up the losers. Then too, ignoring the culture of their people has led to the inability of many political leaders to devise an effective development plan that could be freely accepted and sustained over time.

 

53. 私たちはくよくよ悩みませんー「誰にも属さず、根こそぎにされた、と感じることほど悪い形の疎外感はない。土地が人々の帰属意識を育み、各世代の間と異なる共同体社会の間の統合の絆を生み出し、他の人に鈍感にさせ、疎外感を強めさせるすべてのことが避けられる限り、その土地は豊かになり、人々は実を結び、未来を生み出す」[50]ということを。

 

We forget that “there is no worse form of alienation than to feel uprooted, belonging to no one. A land will be fruitful, and its people bear fruit and give birth to the future, only to the extent that it can foster a sense of belonging among its members, create bonds of integration between generations and different communities, and avoid all that makes us insensitive to others and leads to further alienation”.[50]

 

*希望 HOPE

 

54. このような無視できないような黒雲にもかかわらず、私はこれからのページで、多くの新たな希望の道を取り上げ、議論したいと思います。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからです。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせました。 

私たちは気づき始めました―私たちの生活が、共有する歴史の決定的な出来事を果敢に形成する人々ー医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士…―と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解しました[51]。

 

Despite these dark clouds, which may not be ignored, I would like in the following pages to take up and discuss many new paths of hope. For God continues to sow abundant seeds of goodness in our human family. The recent pandemic enabled us to recognize and appreciate once more all those around us who, in the midst of fear, responded by putting their lives on the line. We began to realize that our lives are interwoven with and sustained by ordinary people valiantly shaping the decisive events of our shared history: doctors, nurses, pharmacists, storekeepers and supermarket workers, cleaning personnel, caretakers, transport workers, men and women working to provide essential services and public safety, volunteers, priests and religious… They understood that no one is saved alone.[51]

 

55. 私はすべての人に、新たな希望を求めますー希望は「すべての人の心に深く根差す何かについて、それと別に、私たちの環境と歴史的な条件について、私たちに話しかける」からです。希望は、渇き、大望、充実した人生への憧れ、偉大なことを成し遂げたい強い希望、私たちの心を満たし、私たちの精神を真、善、美、正義と愛のような高遠な現実に引き上げることを、私たちに語ります… 希望は大胆です―それは私たちの視野を制限するような個人的な都合、ささやかな安心、報酬の先を見据え、人生をもっと素晴らしく、価値のあるものにする壮大な理想に私たちの心を広げます」(52)。それでは、希望の道に沿って前進を続けようではありませんか。

 

I invite everyone to renewed hope, for hope “speaks to us of something deeply rooted in every human heart, independently of our circumstances and historical conditioning. Hope speaks to us of a thirst, an aspiration, a longing for a life of fulfillment, a desire to achieve great things, things that fill our heart and lift our spirit to lofty realities like truth, goodness and beauty, justice and love… Hope is bold; it can look beyond personal convenience, the petty securities and compensations which limit our horizon, and it can open us up to grand ideals that make life more beautiful and worthwhile”.[52] Let us continue, then, to advance along the paths of hope.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 道端の異邦人  A STRANGER ON THE ROAD

 

56. 前章は、今日の問題の、冷淡で切り離されたような記述として読まれるべきではありません。なぜなら、「現代の人々、特に貧しい人々や苦しんでいる人々の喜びや希望、悲しみや苦悩は、キリストに従う者の喜びや希望、悲しみや苦悩でもある。真に人間的なものは全て、彼らの心に響く」[53]からです。

 私たちが経験していることの中に一筋の光を探そうとする試みとして、また、いくつかの行動を提案する前に、私は今、2000年前にイエス・キリストによって語られたたとえ話に1章を割きたいと思います。本回勅は、宗教的信念に関係なく、善意のあるすべての人々に向けられていますが、次のたとえ話は、私たちの誰もが共感し、また困難であると感じることができます。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は答えた。『「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります」。

 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。

 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章25節~37節)。

 

The previous chapter should not be read as a cool and detached description of today’s problems, for “the joys and hopes, the grief and anguish of the people of our time, especially of

those who are poor or afflicted, are the joys and hopes, the grief and anguish of the followers of Christ as well. Nothing that is genuinely human fails to find an echo in their hearts”.[53] In the attempt to search for a ray of light in the midst of what we are experiencing, and before proposing a few lines of action, I now wish to devote a chapter to a parable told by Jesus Christ two thousand years ago. Although this Letter is addressed to all people of good will, regardless of their religious convictions, the parable is one that any of us can relate to and find  hallenging.

 “Just then a lawyer stood up to test Jesus. ‘Teacher,’ he said, ‘what must I do to inherit eternal life?’ He said to him, ‘What is written in the law? What do you read there?’ He answered, ‘You shall love the Lord your God with all your heart, and with all your soul, and with all your strength, and with all your mind; and your neighbour as yourself.’ And he said to him, ‘You have given the right answer; do this, and you will live.’ But wanting to justify himself, he asked Jesus, ‘And who is my neighbour?’

Jesus replied, ‘A man was going down from Jerusalem to Jericho, and fell into the hands of robbers, who stripped him, beat him, and went away, leaving him half dead. Now by chance a priest was going down that road; and when he saw him, he passed by on the other side. So likewise a Levite, when he came to the place and saw him, passed by on the other side. But a Samaritan while traveling came near him; and when he saw him, he was moved with pity. He went to him and bandaged his wounds, having poured oil and wine on them. Then he put him on his own animal, brought him to an inn, and took care of him. The next day he took out two denarii, gave them to the innkeeper, and said, ‘Take care of him; and when I come back, I will repay you whatever more you spend.’ Which of these three, do you think, was a neighbour to the man who fell into the hands of the robbers?” He said, ‘The one who showed him mercy.’ Jesus said to him, ‘Go and do likewise.’” (Lk 10:25-37).

 

*背景  The context

 

  1. このたとえ話は、古くからある問題に関係しています。聖書は、世界と人間の創造についての記述後、間もなく、人間関係の問題を取り上げています。カインは弟アベルを殺し、神が「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」 (創世記4章9節)と問われるのが聞こえます。彼の答え「私は弟の番人でしょうか」(同書)とは、私たちがよく答えにするものです。神が問われるまさにそのご質問によって、私たちの無関心の正当化として、決定論や宿命論に訴える余地が与えられてはいません。代わりに、神は、私たちが対立を解決し、お互いを守りあう異なる文化の創出を勧めておられるのです。

 

This parable has to do with an age-old problem. Shortly after its account of the creation of the world and of man, the Bible takes up the issue of human relationships. Cain kills his brother Abel and then hears God ask: “Where is your brother Abel?” (Gen 4:9). His answer is one that we ourselves all too often give: “Am I my brother’s keeper?” (ibid.). By the very question he asks, God leaves no room for an appeal to determinism or fatalism as a justification for our own indifference. Instead, he encourages us to create a different culture, in which we resolve our conflicts and care for one another.

 

  1. 「私を胎内に造った方は彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを母の胎に形づくられたのではないか」(ヨブ記 31章15節)。ヨブ記は、唯一の創造主における私たちの起源を、特定の共通の権利の基礎と見なします。何世紀も後に、聖エイレナイオスは旋律のイメージを使って同様に主張しています。「真理を求める者は、音符と音符の違いに集中して、それぞれが別々に、そして他から離れて作られたかのように考えるべきではない。代わりに、一人の同じ人物が全体の旋律を作曲したことに気づくべきだ」[54]。

 

The Book of Job sees our origin in the one Creator as the basis of certain common rights: “Did not he who made me in the womb also make him? And did not the same one fashion us in the womb?” (Job 31:15). Many centuries later, Saint Irenaeus would use the image of a melody to make the same point: “One who seeks the truth should not concentrate on the differences between one note and another, thinking as if each was created separately and apart from the others; instead, he should realize that one and the same person composed the entire melody”.[54]

 

  1.  初期のユダヤの伝統では、他人を愛し、大切にする義務は、同じ国の人々の間の関係に限られていたようです。「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)という古代の戒めは、通常、自分の同胞を指すものと理解されていましたが、その境界は次第に拡大されていき、とりわけ、イスラエルの地の外で発展したユダヤ教にしてそうです。

私たちは、自分が他人にしてほしくないことを他人にしてはならない」(トビト記4章15節参照)という戒めに出会います。紀元前1世紀に、ラビ・ヒルレルがこう言いました。「これがトーラー全体なのだ。それ以外はすべて解説だ」(55)。「人の憐れみは、その隣人に及ぶが、主の憐れみは、肉なる者すべてに及ぶ」(シラ書18章13節)というように、神ご自身の行動を模倣したい、という気持ちは、次第に、自分に最も近い人だけを考える傾向に、取って代わっていきました。

 

In earlier Jewish traditions, the imperative to love and care for others appears to have been limited to relationships between members of the same nation. The ancient commandment to “love your neighbour as yourself” (Lev 19:18) was usually understood as referring to one’s fellow citizens, yet the boundaries gradually expanded, especially in the Judaism that developed outside of the land of Israel. We encounter the command not to do to others what you would not want them to do to you (cf. Tob 4:15). In the first century before Christ, Rabbi Hillel stated: “This is the entire Torah. Everything else is commentary”.[55] The desire to imitate God’s own way of acting gradually replaced the tendency to think only of those nearest us: “The ompassion of man is for his neighbour, but the compassion of the Lord is for all living beings” (Sir 18:13).

 

  1.  新約聖書では、ヒルレルの教えが前向きな言葉で表現されています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ福音書7章12節)。天の御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせて」(マタイによる福音書5章45節)くださるので、この掟は普遍的な範囲であり、私たちが共有している人間性に基づいてすべての人を包含しています。それゆえ、「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)という呼びかけがなされているのです。

 

In the New Testament, Hillel’s precept was expressed in positive terms: “In everything, do to others as you would have them do to you; for this is the law and the prophets” (Mt 7:12). This

command is universal in scope, embracing everyone on the basis of our shared humanity, since the heavenly Father “makes his sun rise on the evil and on the good” (Mt 5:45). Hence the

summons to “be merciful, just as your Father is merciful” (Lk 6:36).

 

  1. 聖書の最も古い文書の中に、私たちの心が外国人を受け入れるように広げるべき理由が見つかります。それは,ユダヤ人自身がかつてエジプトで外国人として生活していたという,ユダヤ人の永続的な記憶に由来しています。

 「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)(注:[聖書の訳本によって節が違っている=英語訳・21節、日本語訳・20節)

 「 あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。

 「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった」(レビ記19章34節)。

 「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。

 兄弟愛への呼びかけは、新約聖書全体に響き渡っています。

 「なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)

   「兄弟を愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいる」(ヨハネの手紙1・2章10節~11節)。

 「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死の内にとどまっています」(ヨハネの手紙1・3章14節)

 「目に見える自分の兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(ヨハネの手紙1・4章20節)。

 

In the oldest texts of the Bible, we find a reason why our hearts should expand to embrace theforeigner. It derives from the enduring memory of the Jewish people that they themselves had once lived as foreigners in Egypt:“You shall not wrong or oppress a stranger, for you were strangers in the land of Egypt” (Ex22:21).  “You shall not oppress a stranger; you know the heart of a stranger, for you were strangers in theland of Egypt” (Ex 23:9).

 “When a stranger resides with you in your land, you shall not do him wrong. The stranger who resides with you shall be to you as the citizen among you; you shall love the stranger as yourself, for you were strangers in the land of Egypt” (Lev 19:33-34).

 “When you gather the grapes of your vineyard, do not glean what is left; it shall be for the  sojourner, the orphan, and the widow. Remember that you were a slave in the land of Egypt” (Deut 24:21-22).

 The call to fraternal love echoes throughout the New Testament:

 “For the whole law is summed up in a single commandment, ‘You shall love your neighbour asyourself’” (Gal 5:14).

 “Whoever loves a brother or sister lives in the light, and in such a person there is no cause forstumbling. But whoever hates another believer is in the darkness” (1 Jn 2:10-11).

 “We know that we have passed from death to life because we love one another. Whoever does notlove abides in death” (1 Jn 3:14).

“Those who do not love a brother or sister whom they have seen, cannot love God whom theyhave not seen” (1 Jn 4:20).

 

  1. しかし、この愛の呼びかけは誤解される可能性があります。キリスト者の初期の共同体が、閉鎖的で孤立した集団を形成する誘惑を認識している聖パウロは、弟子たちに「互いの愛とすべての人への愛」(テサロニケの信徒への手紙1・3章12節)に豊かに満ち溢れるように促しました。ヨハネ文書の共同体においては、たとえ「よそからきた人たち」(ヨハネの手紙3・5節)であっても、同胞のキリスト者が歓迎されることになっています。このような背景の中で、「善きサマリア人」のたとえ話の意義は、よりよく理解することができるのです。

 すなわち、愛は、困っている兄弟姉妹がどこから来たかを気にしません。なぜなら、「愛は、私たちを孤立させ、分離させ続ける鎖を打ち砕き、 その代わりに橋を架けてくれます。 愛は、私たち全員がくつろぐことのできる一つの偉大な家族、を作ることを可能にしてくれます… 愛は慈悲と尊厳を醸し出す」[56]からです。

 

Yet this call to love could be misunderstood. Saint Paul, recognizing the temptation of the earliest Christian communities to form closed and isolated groups, urged his disciples to abound in love “for one another and for all” (1 Thess 3:12). In the Johannine community, fellow Christians were to be welcomed, “even though they are strangers to you” (3 Jn 5). In this context, we can better understand the significance of the parable of the Good Samaritan: love does not care if a brother or sister in need comes from one place or another. For “love shatters the chains that keep us isolated and separate; in their place, it builds bridges. Love enables us to create one great family, where all of us can feel at home… Love exudes compassion and dignity”.[56]

 

*道端に見捨てられた人 Abandoned on the wayside

 

  1. イエスは、強盗に襲われ、道端で負傷して横たわっている男の人の話をされています。何人かが彼のそばを通りましたが、足を止めませんでした。彼らは、重要な社会的地位にあるにもかかわらず、共通善に対する真の関心を欠いていたのです。けがをした男の人を介抱したり、助けを呼んだりするのに数分も費やそうとしません。

そうした中で、ある一人の人が立ち止まり、男の人の所に行って、介抱し、必要なものを提供するために自分のお金まで使いました。皆が忙しく立ち回る世の中でしっかりとつかまるものを与えました。自分の時間を与えました。男の人を助けた人には当然、その日の予定、必要としているもの、約束や強く希望するものがありました。それでも、助けが必要な人に出会った時、そうしたことを全部、脇に置きました。けがをしている人について何も知らないにもかかわらず、彼のことを自分の時間を費やし、世話をするに値する人だと見なしたのです。

 

Jesus tells the story of a man assaulted by thieves and lying injured on the wayside. Several persons passed him by but failed to stop. These were people holding important social positions yet lacking in real concern for the common good. They would not waste a couple of minutes caring for the injured man, or even in calling for help. Only one person stopped, approached the man and cared for him personally, even spending his own money to provide for his needs. He also gave him something that in our frenetic world we cling to tightly: he gave him his time. Certainly, he had his own plans for that day, his own needs, commitments and desires. Yet he was able to put all that aside when confronted with someone in need. Without even knowing the injured man, he saw him as deserving of his time and attention.

 

  1. あなたはこれらの人のうち, 誰を自分と同一視するでしょうか?これは唐突な質問ですが、率直で鋭い質問です。このたとえ話の登場人物の誰に似ているでしょうか?他の人、特に弱い人を無視しようという誘惑に常に駆られていることを認識する必要が、私たちにはあります。これまで成し遂げてきたあらゆる進歩にもかかわらず、この進んだ社会でいちばん弱く、壊れやすい人々に付き添い、思いやりをし、支援することについて、私たちはまだ 「無学」 であることを認めましょう。私たちは、自分が直接、影響を受けるまで、周りの状況を無視したり、通り過ぎたり、背を向けたりすることに慣れてしまっているのです。

 

Which of these persons do you identify with? This question, blunt as it is, is direct and incisive. Which of these characters do you resemble? We need to acknowledge that we are constantly tempted to ignore others, especially the weak. Let us admit that, for all the progress we have made, we are still “illiterate” when it comes to accompanying, caring for and supporting the most frail and vulnerable members of our developed societies. We have become accustomed to looking the other way, passing by, ignoring situations until they affect us directly.

 

  1. 私たちの街で、誰かが襲われ、多くの人は気づかなかったかのように急いで立ち去る… 自分の車で誰かをはねた人が、その場から逃げ出すーそうした人たちの動機は「問題を避ける」こと。自分がその場から逃げることによって、その人が死ぬかもしれない、というのは問題ではありません。こうしたことは、様々な形で、巧妙な仕方で、人々の間に広がっている”処世術”の兆候です。私たちは、自分自身の必要を満たすことに夢中になり、苦しんでいる人の姿が邪魔になる… それでいて、他人の問題に費やす時間がないことが、私たちを不安にさせるーこうしたことは、不健全な社会の症状です。繁栄を求め、苦しみに背を向ける社会です。

 

Someone is assaulted on our streets, and many hurry off as if they did not notice. People hit  someone with their car and then flee the scene. Their only desire is to avoid problems; it does not matter that, through their fault, another person could die. All these are signs of an approach to life that is spreading in various and subtle ways. What is more, caught up as we are with our own needs, the sight of a person who is suffering disturbs us. It makes us uneasy, since we have no time to waste on other people’s problems. These are symptoms of an unhealthy society. A society that seeks prosperity but turns its back on suffering.

 

  1.  私たちがこのような深みに沈むことがないように!善きサマリア人のたとえ話を振り返りましょう。イエスのたとえ話は、私たちがそれぞれの国、そして全世界の市民として、新しい社会的な絆の構築者である召命を再発見するように招いているのです。この招きはいつも新しいものではすが、私たちの存在の基本的な法則に基づいています。私たちは、共通善の追求に社会を向かわせ、その目的を念頭に置いて、政治的、社会的秩序、関係性の基盤、人間の目標を強化することに全力を尽くすように求められています。善きサマリア人は、その振る舞いによって「一人一人の存在は、他の人の存在と深く結びついている。人生は、単に過ぎ去る時間ではなく、相互作用のための時間だ」ということを示しています。[57]

 

May we not sink to such depths! Let us look to the example of the Good Samaritan. Jesus’parable summons us to rediscover our vocation as citizens of our respective nations and of the entire world, builders of a new social bond. This summons is ever new, yet it is grounded in a fundamental law of our being: we are called to direct society to the pursuit of the common good and, with this purpose in mind, to persevere in consolidating its political and social order, its fabric of relations, its human goals. By his actions, the Good Samaritan showed that “the existence of each and every individual is deeply tied to that of others: life is not simply time that passes; life is a time for interactions”. [57]

 

67.. このたとえ話は、私たちの傷ついた世界を立て直すために、私たちが下す必要のある基本的な決断を雄弁に表しています。このように多くの痛みと苦しみに直面している中、私たちの唯一の道は、善きサマリア人を見習うことです。それ以外のどんな決定では、私たちを強盗の一人か、道端の男の苦しみに思いやりを示さずに通りかかった一人にするでしょう。

このたとえ話は、他の人の脆弱性に共感し、排除的な社会の創出を拒否し、代わりに隣人として行動し、倒れた者を持ち上げ、更生する男女によって、共通善のために、共同体がどのように再建できるかを示してくれます。それと同時に、自分のことしか考えず、人生の必然的な責任をありのままに背負うことを怠る人たちの態度についても警告してくれます。

 

The parable eloquently presents the basic decision we need to make in order to rebuild our wounded world. In the face of so much pain and suffering, our only course is to imitate the Good

Samaritan. Any other decision would make us either one of the robbers or one of those who walked by without showing compassion for the sufferings of the man on the roadside. The parable shows us how a community can be rebuilt by men and women who identify with the vulnerability of others, who reject the creation of a society of exclusion, and act instead as neighbours, lifting up and rehabilitating the fallen for the sake of the common good. At the same time, it warns us about the attitude of those who think only of themselves and fail to shoulder the inevitable responsibilities of life as it is.

 

  1. このたとえ話は明らかに、抽象的な道徳に耽っておらず、その伝えたいことは単に社会的かつ倫理的なものでもありません。私たちは愛の中でのみ見つけられる成就のために造られたのだ、という私たちの共通の人間性の本質的で、忘れられがちな側面を語ってくれているのです。私たちは苦しみに無関心でいられません。誰もが除け者として人生を送ることを許すことができません。代わりに、私たちは憤りを感じ、快適な孤立からの抜け出しに迫られ、人間の苦しみとの接触によって変えられるべきです。それが尊厳の意味です。

 

The parable clearly does not indulge in abstract moralizing, nor is its message merely social and ethical. It speaks to us of an essential and often forgotten aspect of our common humanity: we were created for a fulfilment that can only be found in love. We cannot be indifferent to suffering; we cannot allow anyone to go through life as an outcast. Instead, we should feel indignant,

challenged to emerge from our comfortable isolation and to be changed by our contact with human suffering. That is the meaning of dignity.

 

*絶えず繰り返されている物語 A story constantly retold

 

  1. このたとえ話は明快で分かりやすいものですが、それはまた、私たちが兄弟姉妹との関係を通して徐々に自分自身を知るようになるにつれて、私たち一人一人が経験する内面的な葛藤をも呼び起こします。遅かれ早かれ、私たちは誰もが苦しんでいる人に出会うことになるでしょう。今日では、そのような人たちがますます増えています。道端に横たわる負傷者を含めるか、除外するかの決定は、あらゆる経済的、政治的、社会的、宗教的プロジェクトを判断する基準となり得ます。

  私たちは毎日、善きサマリア人になるか、無関心な傍観者になるかを決めなければなりません。そして、自分の人生の歴史と全世界の歴史に目を向けてみると、私たちは皆、たとえ話の中の各登場人物のようであり、あるいはそうであったことがあるのです。私たちは皆、自分の中には、負傷した男の一面、強盗の一面、通行人の一面、そして善きサマリア人の一面があります。

 

The parable is clear and straightforward, yet it also evokes the interior struggle that each of us experiences as we gradually come to know ourselves through our relationships with our brothers

and sisters. Sooner or later, we will all encounter a person who is suffering. Today there are more and more of them. The decision to include or exclude those lying wounded along the roadside can serve as a criterion for judging every economic, political, social and religious project.

 Each day we have to decide whether to be Good Samaritans or indifferent bystanders. And if we extend our gaze to the history of our own lives and that of the entire world, all of us are, or have been, like each of the characters in the parable. All of us have in ourselves something of the wounded man, something of the robber, something of the passers-by, and something of the Good Samaritan.

 

  1. 道端での可哀想な男の痛ましい光景に一度直面すると、物語の様々な登場人物がどのように変わっていくかは顕著的なことです。ユダヤ人とサマリア人と、祭司と商人との区別は取るに足らないことになっていきます。今では、傷ついている人の世話をする人と通りすがりの人、身をかがめて助けようとする人と、背を向けて急いで立ち去る人の二種類しかいません。ここでは、私たちのあらゆる区別、レッテル、仮面が落ちていきます。それは真実の瞬間です。

 私たちは身をかがめて他人の傷に触れ、癒すのでしょうか。私たちは身をかがめて、立ち上がるために他人を助けるのでしょうか?これが今日の課題であり、私たちはそれに向き合うことを恐れるべきではなりません。危機の瞬間には、決断は急務となります。今ここで、強盗でも通行人でもない人は、自分自身が負傷しているか、負傷者を肩に担いでいるかのどちらかだと言えるでしょう。

 

It is remarkable how the various characters in the story change, once confronted by the painful sight of the poor man on the roadside. The distinctions between Judean and Samaritan, priest and merchant, fade into insignificance. Now there are only two kinds of people: those who care for someone who is hurting and those who pass by; those who bend down to help and those who look the other way and hurry off. Here, all our distinctions, labels and masks fall away: it is the momentof truth.

 Will we bend down to touch and heal the wounds of others? Will we bend down and help another to get up? This is today’s challenge, and we should not be afraid to face it. In moments of

crisis, decisions become urgent. It could be said that, here and now, anyone who is neither a robber nor a passer-by is either injured himself or bearing an injured person on his shoulders.

 

  1. 善きサマリア人の物語は絶えず繰り返されています。国内的および国際的な紛争や機会の奪い合いが、多くの周縁化された人々を道端に置き去りにされている中で、社会的、政治的な惰性が世界の多くの地域を荒涼とした脇道に変えつつあることが、はっきり見えます。

イエスはたとえ話の中で代替案を提示されなく、もし負傷した男や彼を助けた人が怒りや復讐への渇望に屈していたらどうなっていただろうかとは問いかけておられません。イエスは人間の精神の最善を信頼しておられます。このたとえ話によって、イエスは、私たちが愛のうちにたゆまず努力し続け、苦しんでいる人たちへの尊厳を取り戻し、その名にふさわしい社会を築くことができるように励ましてくださいます。

 

The story of the Good Samaritan is constantly being repeated. We can see this clearly as social and political inertia is turning many parts of our world into a desolate byway, even as domestic and international disputes and the robbing of opportunities are leaving great numbers of the marginalized stranded on the roadside. In his parable, Jesus does not offer alternatives; he does

not ask what might have happened had the injured man or the one who helped him yielded to anger or a thirst for revenge. Jesus trusts in the best of the human spirit; with this parable, he

encourages us to persevere in love, to restore dignity to the suffering and to build a society worthy of the name.

 

*物語の登場人物 The characters of the story

 

  1. たとえ話は強盗から始まります。イエスは、私たちが犯罪そのものと、それを犯した泥棒のことにこだわらないように、強盗がすでに起こったときに始めることを選ばれました。けれども、私たちはそれらのことをよく知っています。私たちは、権力や利得、分裂といった些細な利益に奉仕する、怠慢と暴力の暗い影が、私たちの世界に降り立っているのを見てきました。

 本当の問いかけは、私たちは負傷した人を見捨てて、暴力から避難するために逃げるのか、それとも泥棒を追いかけるのか、ということです。負傷した人は、私たちの和解のできない分裂、非情な無関心、内紛を正当化するものになってしまうのでしょうか?

 

 The parable begins with the robbers. Jesus chose to start when the robbery has already taken place, lest we dwell on the crime itself or the thieves who committed it. Yet we know them well. We have seen, descending on our world, the dark shadows of neglect and violence in the service of petty interests of power, gain and division. The real question is this: will we abandon the injured man and run to take refuge from the violence, or will we pursue the thieves? Will the wounded man end up being the justification for our irreconcilable divisions, our cruel indifference, our intestine conflicts?

 

73.  たとえ話は私たちに、通りすがりの人にしっかりと目を向けるよう求めています。悪気があろうとなかろうと、軽蔑あるいは注意散漫によるものであろうと、彼らを道の反対側に通らせてしまうbびくびくとした無関心は、あの祭司とレビ人のことを、私たち自身と周囲の世界との間に拡大しつつある大きな隔たりを示す悲しむべき姿にして見せます。安全な距離をおいて通り過ぎるためには、その人を避けるように歩いたり、無視したり、苦しみに無関心でいたりするなど、様々なやり方があります。

 あるいは、ただ単に見て見ぬふりをすることもあるでしょうー一部の国やその国の特定の分野で見られるように、です。そこでは、貧しい人たちや彼らの文化が軽蔑されているにもかかわらず、あたかも、外から持ち込まれた開発計画が、彼らを徐々に排除することができるかのように、見て見ぬふりがされます。これが、自分たちの無関心を正当化するやり方ですー貧しい人々はーその必死に助けを求める声は心に触れるかも知れないがー単に、存在しないのだ、と。貧しい人たちは、彼らの関心の視界の外にあるのです。

 

 The parable then asks us to take a closer look at the passers-by. The nervous indifference that makes them pass to the other side of the road – whether innocently or not, whether the result of disdain or mere distraction – makes the priest and the Levite a sad reflection of the growing gulf between ourselves and the world around us. There are many ways to pass by at a safe distance: we can retreat inwards, ignore others, or be indifferent to their plight.

 Or simply look elsewhere, as in some countries, or certain sectors of them, where contempt is shown for the poor and their culture, and one looks the other way, as if a development plan imported from without could edge them out. This is how some justify their indifference: the poor, whose pleas for help might touch their hearts, simply do not exist. The poor are beyond the scope of their interest.

 

  1.  通り過ぎて行った人たちについての詳しい言及にも、注意を向けましょうー彼らは信心深く、神の崇拝に献身する祭司とレビ人でした。この点を見落としてはなりません。彼らの振る舞いは「神への信仰と崇拝だけでは、神に喜ばれるような生き方を私たちが実際にしている、と保証するには不十分だ」ということを示しています。自身の信仰に求められていること全てに忠実でないにもかかわらず、「自分は神の近くにおり、他の人よりも優れている」と考える信徒がいますが、私たちの兄弟姉妹に心を開く信仰の実践こそ、神に対して真の素直な心を開く保証になるのです。

 聖ヨハネ・クリゾストモは、当時のキリスト教徒の聴衆に挑戦的な姿勢を取った際、このように辛らつな言葉を投げかけました。「救い主の御体を敬いたいですか?御体が裸になった時、軽蔑してはいけません。御体が、戸外で裸で、寒さで震えているのに、教会の中で絹の祭服を着て敬ってはなりません」(58)と。逆説的ですが、「自分はキリスト教徒でない」と言う人の方が、キリスト教徒よりも神の御旨をよく実行に移すことができることがあります。

  (*「カトリック・あい」注:  聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(347年ごろ-407年)は、シリアのアンティオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、神学やギリシャ哲学も修めた。年少時から修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となり、すばらしい説教で人々を感動させたことから、後世になって「クリゾストモ」(黄金の口)と讃えられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放され、その地で多くの手紙・著作を書いた。)

 

 

One detail about the passers-by does stand out: they were religious, devoted to the worship of God: a priest and a Levite. This detail should not be overlooked. It shows that belief in God and the worship of God are not enough to ensure that we are actually living in a way pleasing to God. A believer may be untrue to everything that his faith demands of him, and yet think he is close to God and better than others. The guarantee of an authentic openness to God, on the other hand, is a way of practicing the faith that helps open our hearts to our brothers and sisters.

 Saint John Chrysostom expressed this pointedly when he challenged his Christian hearers: “Do you wish to honor the body of the Saviour? Do not despise it when it is naked. Do not honor it in church with silk vestments while outside it is naked and numb with cold”.[58] Paradoxically, those who claim to be unbelievers can sometimes put God’s will into practice better than believers.

 

  1. 「強盗たち」は通常、「通り過ぎる、または目をそらす」者たちの中に、”秘密の味方”が見つけます。社会を操り欺く人々と、自立した公正な批評家だと言いながら、その社会の構造と利益で暮らしを立てている人々の間には、一定の相互作用があります。犯罪の責任を免れ、個人や企業の利益のための制度を悪用し、そして撲滅することが不可能に見える他の悪事が、あらゆるものに対する容赦のない批判、不信と混乱をもたらす絶え間ない”疑惑の種まき””伴っているところに、嘆かわしい偽善が存在します。

  「すべてが壊されている」との不満には、「修理できない」あるいは「私に何ができるというのか」という言葉で答えられています。それは、幻滅と絶望につながり、結束と寛大さの精神を促すことはありません。人々を絶望に陥らせることは、完全に捻じ曲げられた循環を閉ざします。これが、人的物的な資源と思考や意見表明の可能性を共に支配する隠れた利権の”目に見えない独裁権力”の計略なのです。

 

 “Robbers” usually find secret allies in those who “pass by and look the other way”. There is a certain interplay between those who manipulate and cheat society, and those who, while claiming

to be detached and impartial critics, live off that system and its benefits. There is a sad hypocrisy when the impunity of crime, the use of institutions for personal or corporate gain, and other evils apparently impossible to eradicate, are accompanied by a relentless criticism of everything, a constant sowing of suspicion that results in distrust and confusion.

 The complaint that “everything is broken” is answered by the claim that “it can’t be fixed”, or “what can I do?” This feeds into disillusionment and despair, and hardly encourages a spirit of solidarity and generosity. Plunging people into despair closes a perfectly perverse circle: such is the agenda of the invisible dictatorship of hidden interests that have gained mastery over both resources and the possibility of thinking and expressing opinions.

 

  1. 最後に、襲われてけがをした男の人に目を向けましょう。私たちも、彼のように、ひどいけがをし、道端に置き去りにされていることを感じる時があります。また、私たちの組織が、軽視されて必要なものが足りないことで、あるいは単に内外の少数者の利益に奉仕していることで、無力感を覚えることもあります。確かに「グローバル化された社会は、しばしば視線を逸らす優雅な方法をとる。政治的な正しさやイデオロギー的な流行を装って、苦しんでいる人々を、触れずに、眺める。彼らのライブ映像をテレビで放映し、婉曲的な言葉を使い、見かけだけの寛大さで、彼らについて語ることさえある」(59)]のです。

 

 Let us turn at last to the injured man. There are times when we feel like him, badly hurt and left on side of the road. We can also feel helpless because our institutions are neglected and lack

resources, or simply serve the interests of a few, without and within. Indeed, “globalized society often has an elegant way of shifting its gaze. Under the guise of being politically correct or

ideologically fashionable, we look at those who suffer without touching them. We televise live pictures of them, even speaking about them with euphemisms and with apparent tolerance”.[59]

 

*新たな出発 Starting anew

 

  1.  私たちには日々、新たな機会、新たな可能性が与えられています。全てのことを、私たちを治める者に期待すべきではありません。子供じみているからです。私たちには、物事の新しい進め方や変化を創造し、実行に移すための共同責任に必要な余地があります。問題を抱えた社会の再生と支援に積極的に参加していきましょう。今日、私たちは、生来の友愛の感覚を表現し、さらなる憎しみや恨みを煽るのではなく、他人の苦難の痛みを担う「善きサマリア人」になる絶好の機会に恵まれています。

   たとえ話の中の、たまたまその場に居合わせた旅人のように、私たちに必要なのは、「倒れた者を助け上げ、歩みを共にし、包み込むために絶え間なく努力する人や共同体になろう」という純粋で、素朴な願望を持つことだけです。私たちはしばしば、暴力的な人、盲目的な野心家、不信と嘘を広める人の心的傾向に屈してしまうかもしれません。政治や経済を自分たちの権力闘争の場と見なし続ける人もいるかもしれません。私たちは、善なるものを育み、奉仕に身を置きましょう。

 

 Each day offers us a new opportunity, a new possibility. We should not expect everything from those who govern us, for that would be childish. We have the space we need for co-responsibility in creating and putting into place new processes and changes. Let us take an active part in renewing and supporting our troubled societies. Today we have a great opportunity to express our innate sense of fraternity, to be Good Samaritans who bear the pain of other people’s troublesrather than fomenting greater hatred and resentment.

 Like the chance traveller in the parable, we need only have a pure and simple desire to be a people, a community, constant and tireless in the  effort to include, integrate and lift up the fallen. We may often find ourselves succumbing to the mentality of the violent, the blindly ambitious, those who spread mistrust and lies. Others may continue to view politics or the economy as an arena for their own power plays. For our part, let us foster what is good and place ourselves at its service.

 

  1. 私たちは底辺から始め、一件づつ最も具体的かつ地域レベルで行動することができ、その後、あのサマリア人が負傷した男のそれぞれの負傷に示したのと同じような世話と関心を持って、私たちの国と世界の最も遠くまで展開することができます。痛みや能力不足感を恐れずに、他者を探し出し、ありのままの世界を受け入れましょう。そこに神が人間の心に植え付けられた全ての善が見いだされるからです。圧倒されそうな困難は、成長の機会であって、ただ黙認につながる陰気な諦めの言い訳ではありません。とは言え、一人の個人としてこのようなことをしないようにしましょう。

   マタイ福音書に登場するサマリア人には、自分の世話をしてくれる宿屋の主人がいました。私たちもまた、「小さな個人の集合体」よりも「強い家族」として団結するように求められています。それは「全体は部分よりも大きいが、また、部分の総和よりも大きい」(60) からです。無用な争いと絶え間ない対立をもたらしている心の狭さと憤りを捨てましょう。自分自身に同情するのをやめ、自分の罪、無関心、嘘を認めましょう。償いと和解が、私たちに新しい命を与え、私たち皆を恐怖から解放してくれるでしょう。

 

 We can start from below and, case by case, act at the most concrete and local levels, and then expand to the farthest reaches of our countries and our world, with the same care and concern that the Samaritan showed for each of the wounded man’s injuries. Let us seek out others and embrace the world as it is, without fear of pain or a sense of inadequacy, because there we will

discover all the goodness that God has planted in human hearts. Difficulties that seem overwhelming are opportunities for growth, not excuses for a glum resignation that can lead only to

acquiescence. Yet let us not do this alone, as individuals.

 The Samaritan discovered an innkeeper who would care for the man; we too are called to unite as a family that is stronger than the sum of small individual members. For “the whole is greater than the part, but it is also greater than the sum of its parts”.[60] Let us renounce the pettiness and resentment of useless in-fighting and constant confrontation. Let us stop feeling sorry for ourselves and acknowledge our crimes, our apathy, our lies. Reparation and reconciliation will give us new life and set us all free from fear.

 

  1.  途中で立ち止まったサマリア人は、何のお礼も感謝も期待することなく、その場を離れて行きました。人を助けようとする努力は、彼の人生に、そして神の前で大きな満足感を与え、そうして、義務となりました。自分の民族、そして地球上の全ての民族の傷を負った人々に対する責任が、私たち全員にあります。「善きサマリア人」が見せたのと同じ友愛の精神による気配りと親密さをもって,すべての老若男女が必要としていることに、気を配りましょう。

 

 The Samaritan who stopped along the way departed without expecting any recognition or gratitude. His effort to assist another person gave him great satisfaction in life and before his God,

and thus became a duty. All of us have a responsibility for the wounded, those of our own people and all the peoples of the earth. Let us care for the needs of every man and woman, young and

old, with the same fraternal spirit of care and closeness that marked the Good Samaritan.

 

*境界をもたない隣人 Neighbors without borders

 

80. イエスは、「私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、善きサマリア人のたとえ話をされました。イエスの時代の社会では、「隣人」という言葉は通常、「自分たちに最も近い人たち」を意味していました。助けは、主に「自分の集団や種族に与えられるべきものだ」と考えられていました。当時のユダヤ人の一部にとっては、サマリア人が見下され、不潔な者と見なされ、助けられるべき存在ではありませんでした。自らもユダヤ人であるイエスは、そのような認識を完全に改められます。イエスは私たちに、「誰が、私たちの隣人になれるほど親しいか」決めるのではなく、私たち自身がすべての人の隣人になるようにと、求めておられます。

 

 Jesus told the parable of the Good Samaritan in answer to the question: Who is my neighbor? The word “neighbor”, in the society of Jesus’ time, usually meant those nearest us. It was felt that help should be given primarily to those of one’s own group and race. For some Jews of that time, Samaritans were looked down upon, considered impure. They were not among those to be helped. Jesus, himself a Jew, completely transforms this approach. He asks us not to decide who is close enough to be our neighbor, but rather that we ourselves become neighbors to all.

 

81. イエスは、私たちに、「助けを必要としている人たちが、私たちの社会的な集団に属しているかどうか、にかかわらず、その人たちに寄り添うように」と求めておられます。たとえ話のサマリア人は、けがをしたユダ人の隣人となりました。彼は身をもって、けがをした人に近づき、寄り添うことで、すべての文化的、歴史的な境界を渡りました。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ福音書10章37節)という言葉で、たとえ話を締めくくられます。言い換えれば、イエスは私たちに、すべての違いを脇に置いて、苦しみを前にする時には、”問答無用”で他者に寄り添うように、促しておられるのです。私たちはもはや、「私には助けてくれる隣人がいる」と言うべきではなく、「私自身が他人の隣人にならねばならない」と言うべきです。

 

 Jesus asks us to be present to those in need of help, regardless of whether or not they belong to our social group. In this case, the Samaritan became a neighbor to the wounded Judean. By approaching and making himself present, he crossed all cultural and historical barriers. Jesus concludes the parable by saying: “Go and do likewise” (Lk 10:37). In other words, he challenges us to put aside all differences and, in the face of suffering, to draw near to others with no questions asked. I should no longer say that I have neighbors to help, but that I must myself be a neighbor to others.

 

82.  しかし、このたとえ話には悩ましい側面があります。と言うのは、けがをした人はユダ人であり、立ち止まって彼を助けた人はサマリア人だったと、イエスが言われるからです。この点は、すべての人を包み込む愛について私たちが深く思いめぐらすために、とても重要です。サマリア人は異教の儀式が行われていた地域に住んでいました。それが、ユダヤ人にとって、彼らを不潔で、忌まわしく危険な存在にしたのです。実際、あるユダヤの古文書では、ひどく嫌われた国々に言及した箇所で、サマリア人のことを「民ではない者たち」(シラ書50章25節)と語っています。「シェケムに住む愚かな者ども」(50章26節)としてもいます。

 

 The parable, though, is troubling, for Jesus says that that the wounded man was a Judean, while the one who stopped and helped him was a Samaritan. This detail is quite significant for our reflection on a love that includes everyone. The Samaritans lived in a region where pagan rites were practiced. For the Jews, this made them impure, detestable, dangerous. In fact, one ancient Jewish text referring to nations that were hated, speaks of Samaria as “not even a people” (Sir 50:25); it also refers to “the foolish people that live in Shechem” (50:26).

 

83. このことは、あのサマリア人の女性がイエスに「水を飲ませてください」と言われた時、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしい、と頼むのですか」(ヨハネ福音書4章9節)と、そっけなく答えた理由、を説明しています。イエスの信用を落としたい者たちがもたらそうとした最も侮辱的な容疑は、イエスが「悪霊に取りつかれている」と「サマリア人だ」(ヨハネ福音書8章 48節)ということでした。

 それで、この(注:けがをした)サマリア人と(彼に寄り添った)ユダヤ人の間の”慈しみの出会い”は、非常に挑戦的であり、イデオロギー的に操作の余地がなく、未開拓の分野を広げるようにと、私たちに迫ります。それは、すべての偏見、すべての歴史的および文化的な壁、すべてのささいな利益を超越する、普遍的な広がりを、私たちの愛への呼びかけに与えてくれるのです。

 

 This explains why a Samaritan woman, when asked by Jesus for a drink, answered curtly: “How is it that you, a Jew, ask a drink of me, a woman of Samaria?” (Jn 4:9). The most offensive charge that those who sought to discredit Jesus could bring was that he was “possessed” and “a Samaritan” (Jn 8:48). So this encounter of mercy between a Samaritan and a Jew is highly provocative; it leaves no room for ideological manipulation and challenges us to expand our frontiers. It gives a universal dimension to our call to love, one that transcends all prejudices, all historical and cultural barriers, all petty interests.

 

*助けを求めるよそ者の声 The plea of the stranger

 

84. 最後に、福音書の別の一節で、イエスは、「(あなたがたは、私が)よそ者であったときに、宿を貸し(てくれた)」(マタイ福音書25章35節)と言われていることに注目したいと思います。イエスは、他人の困難に敏感であり、寛大な御心を持っておられるため、その御言葉を話されることができました。聖パウロは私たちに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)と促しています。私たちが心を込めてそのように行うと、相手がどこで生まれたのか、どこから来たのかを気にすることなく、彼らに共感することができるのです。その過程で、私たちは、他者のことを「自分の肉親」(イザヤ書58章7節)として体験するようになります。

 

 Finally, I would note that in another passage of the Gospel Jesus says: “I was a stranger and you welcomed me” (Mt 25:35). Jesus could speak those words because he had an open heart,

sensitive to the difficulties of others. Saint Paul urges us to “rejoice with those who rejoice, weep with those who weep” (Rom 12:15). When our hearts do this, they are capable of identifying with

others without worrying about where they were born or come from. In the process, we come to experience others as our “own flesh” (Is 58:7).

 

 

85. キリスト信者にとって、イエスの御言葉はさらに深い意味を持っています。それは、私たちの見捨てられた、あるいは除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25章40節、45節を参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するようをに、強いてくれます。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力があります。信者たちは、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るようになるからです(61)。

 同じように、私たちは、キリストが私たち一人ひとりのために御血を流してくださったこと、そして、キリストの普遍的な愛の及ばない者はいないことを信じています。私たちは、三位一体の神の存在そのものである、愛の究極の源に向かうならば、聖三位のペルソナの交わりの中で、社会におけるすべての命の原点と完全な模範に出会うことになります。神学は、この偉大な真理を思いめぐらすことによって、豊かさを増し続けています。

 

 For Christians, the words of Jesus have an even deeper meaning. They compel us to recognize Christ himself in each of our abandoned or excluded brothers and sisters (cf. Mt 25:40.45). Faith has untold power to inspire and sustain our respect for others, for believers come to know that God loves every man and woman with infinite love and “thereby confers infinite dignity” upon all humanity.[61] We likewise believe that Christ shed his blood for each of us and that no one is beyond the scope of his universal love. If we go to the ultimate source of that love which is the very life of the triune God, we encounter in the community of the three divine Persons the origin and perfect model of all life in society. Theology continues to be enriched by its reflection on this great truth.

 

86.  このことを考えると、なぜ教会が奴隷制や様々な形の暴力をはっきりと非難するのに、こんなにも長い時間がかかったのだろう、と不思議に思うことが、私にはあります。私たちの霊性と神学が発達した今日では、私たちには言い訳がありません。それでも、様々な偏狭で暴力的な民族主義、外国人嫌悪や軽蔑、さらには自分たちと異なる人たちを虐待するのを支援するように、信仰によって励まされている、あるいは、少なくとも許されている、と感じている人たちがいるようです。

 信仰と、それに鼓舞される人道主義は、これらの傾向に直面しても批判的な感覚を保ち、それらが頭をもたげるたびに、すぐに対応を促さなければなりません。このため、教理教育(カテキシス)と説教は、存在の社会的な意味、霊性の友愛的な側面、各人の不可侵の尊厳に対する私たちの信念、そしてすべての兄弟姉妹を愛し、受け入れる我々の理由について、より直接的かつ明確に話すことが重要です。

 

 I sometimes wonder why, in light of this, it took so long for the Church unequivocally to condemn slavery and various forms of violence. Today, with our developed spirituality and theology, we have no excuses. Still, there are those who appear to feel encouraged or at least permitted by their faith to support varieties of narrow and violent nationalism, xenophobia and contempt, and even the mistreatment of those who are different. Faith, and the humanism it inspires, must maintain a critical sense in the face of these tendencies, and prompt an immediate response whenever they rear their head. For this reason, it is important that catechesis and preaching speak more directly and clearly about the social meaning of existence, the fraternal dimension of spirituality, our conviction of the inalienable dignity of each person, and our reasons for loving and accepting all our brothers and sisters.

第三章 開かれた世界を考え生み出す ENVISAGING AND ENGENDERING AN OPEN WORLD

 

87.人間は「心から自分を他者に与えることに於いて」(62)しか生き、発展し、満足することはできないように造られています。また、他者との出会いなしに、自分を十分に知ることもできません。「私は、他者と理解し合うことによってのみ自分自身をきちんと理解することができるのです」(63)。

 誰も、他者と関わりを持つことなく、真に愛することなく、人生の本当の美しさを経験することはできません。これは、真正な人間存在の神秘です。「心の絆,親交、兄弟愛のある所に人生があるのです。そして、それが真の結びつきと忠誠心の絆の上に建てられているとき、生きることは死よりも強いのです。その反対に、自己満足を求め、孤独に生活するなら、生きているとは言えません。こういう態度で生きるなら、死の方が勝ります」(64)。

 

  Human beings are so made that they cannot live, develop and find fulfilment except “in the sincere gift of self to others”.[62] Nor can they fully know themselves apart from an encounter with other persons: “I communicate effectively with myself only insofar as I communicate with others”.[63] No one can experience the true beauty of life without relating to others, without having real faces to love. This is part of the mystery of authentic human existence. “Life exists where there is bonding, communion, fraternity; and life is stronger than death when it is built on true relationships and bonds of fidelity. On the contrary, there is no life when we claim to be self-sufficient and live as islands: in these attitudes, death prevails”.[64

 

*自分自身から抜け出す MOVING BEYOND OURSELVES

 

88.すべての人の心の底深くに、愛は絆を作り、存在を広げます。愛は人に、自分自身から抜け出させ、他者へと向かわせるからです(65)。私たちは愛のために造られているので、私たち各々の中で、「ekstasisの法則」が働くようです:「愛するものは他者の中でもっと充実した存在になることを求めて自己の“外に出てゆく”のです(66)。このために「人はいつも自分自身から抜け出すという覚悟を持たねばならないのです」(67)。

 

 In the depths of every heart, love creates bonds and expands existence, for it draws people out of themselves and towards others.[65] Since we were made for love, in each one of us “a law of ekstasis” seems to operate: “the lover ‘goes outside’ the self to find a fuller existence in another”.[66] For this reason, “man always has to take up the challenge of moving beyond himself”.[67]

 

89.また、私の人生を小さなグループ、たとえ自分の家族でも、との関係だけに縮小することもできません;私より先に生まれ、私の全人生を形作ってくれた人々を含め、もっと広い人間関係のネットワークから離れて自分自身を知ることは出来ません。私が大切に思う人々との関係では、彼らが私のためだけに生きているのでもなければ、私が彼らのためだけに生きているのでもないという事実に気付かねばなりません。

 私たちの関係は、もし健全で確実なものなら、私たちを広げ、私たちを豊かにしてくれる他者へ向けて開いてくれます。昨今は、あたかも深い関係であるかのような印象を与える自己中心的なチャットによって、私たちの最も気高い社会的本能が簡単にくじかれます。反対に、本物の、成熟した愛と、真の友情は、他者との関係を通じて成長するよう開かれた心に深く根をおろすのみです。夫婦や友人として、私たちが自分たちの外に足を踏み出し、他者を抱擁するとき、私たちの心は広がるのです。他者を自分たちと区別する閉じたグループや夫婦は、自分本位や単なる自己保存の現れになりがちです。

 

 Nor can I reduce my life to relationships with a small group, even my own family; I cannot know myself apart from a broader network of relationships, including those that have preceded me and shaped my entire life. My relationship with those whom I respect has to take account of the fact that they do not live only for me, nor do I live only for them. Our relationships, if healthy and authentic, open us to others who expand and enrich us. Nowadays, our noblest social instincts can easily be thwarted by self-centred chats that give the impression of being deep relationships. On the contrary, authentic and mature love and true friendship can only take root in hearts open to growth through relationships with others. As couples or friends, we find that our hearts expand as we step out of ourselves and embrace others. Closed groups and self-absorbed couples that define themselves in opposition to others tend to be expressions of selfishness and mere self-preservation.

 

  1. 意義深いことに、人里離れた地域に住む多くの小さな共同体は、人を新親切にもてなすという神聖な義務の遂行として、巡礼者たちを歓迎するという素晴らしい慣習を作り上げました。聖ベネディクトの宗規にもみられるように、中世の修道院も、同様でした。それは修道院の規律や静寂には邪魔になったはずですが、それにもかかわらず、ベネディクトは「貧しい人たちや巡礼者たちを最大の心遣いで世話するべきだ」と主張しました(68)。

 親切にもてなすことは、自分たちの仲間の外の人々との出会いで、外に心を開こうと行動する挑戦であり、贈り物です。修道士たちは、彼らが深めようとしている価値観には、自分たちの外へ喜んで目を向け、他者に開いてゆくことが必要だとはっきり理解していました。

 

 Significantly, many small communities living in desert areas developed a remarkable system of welcoming pilgrims as an exercise of the sacred duty of hospitality. The medieval monastic communities did likewise, as we see from the Rule of Saint Benedict. While acknowledging that it might detract from the discipline and silence of monasteries, Benedict nonetheless insisted that “the poor and pilgrims be treated with the utmost care and attention”.[68] Hospitality was one specific way of rising to the challenge and the gift present in an encounter with those outside one’s own circle. The monks realized that the values they sought to cultivate had to be accompanied by a readiness to move beyond themselves in openness to others.

 

*ユニークな愛の価値 The unique value of love

 

91.人々は、不屈の精神やまじめさ、勤勉、などのような道徳的に価値があるように思える習慣を身に着けていくことができます。しかし、様々な道徳的価値のある行為を目指すなら、他者に向けどれだけ心を開き一致していけるかも考える必要があります。それは、神が注がれる慈愛によって可能になるのです。慈愛なくしては、おそらく美徳に見得るものをもっているだけで、それでは人生全般を支えることはできません。それ故、聖トマス・アクイナスは、その言葉を引用するなら、「欲深い人の節制は決して有徳ではない」(69)と言い得たのです。一方、聖ボナヴェントゥラは、慈愛がないなら、ほかのどんな徳も、厳密に言って、「神が彼らに望むように」(70)という掟を満たしていない、と言っています。

 

 People can develop certain habits that might appear as moral values: fortitude, sobriety, hard work and similar virtues. Yet if the acts of the various moral virtues are to be rightly directed, one needs to take into account the extent to which they foster openness and union with others. That is made possible by the charity that God infuses. Without charity, we may perhaps possess only apparent virtues, incapable of sustaining life in common. Thus, Saint Thomas Aquinas could say – quoting Saint Augustine – that the temperance of a greedy person is in no way virtuous.[69] Saint Bonaventure, for his part, explained that the other virtues, without charity, strictly speaking do not fulfil the commandments “the way God wants them to be fulfilled”.[70]

 

 

 

92.人の一生の霊的価値は、愛によって測られます。愛が、最終的に「その人生に価値があったか、欠けていたか、の決定的基準」[71]となるのです。しかし、それは自分たちのイデオロギーをほかの人たちに押し付けることにあるとか、激しく真実を防御することにあるとか、印象的に力を証明することにあると考える信者たちもいます。信者として、私たちすべてが、まず愛が一番大切であることを認識する必要があるのです。決して愛が危険にさらされてはならず、最大の危険は、愛がないことにあるのです。(コリントの信徒への手紙1・13章1~13節)

 

The spiritual stature of a person’s life is measured by love, which in the end remains “the criterion for the definitive decision about a human life’s worth or lack thereof”.[71] Yet some believers think that it consists in the imposition of their own ideologies upon everyone else, or in a violent defence of the truth, or in impressive demonstrations of strength. All of us, as believers, need to recognize that love takes first place: love must never be put at risk, and the greatest danger lies in failing to love (cf. 1 Cor 13:1-13).

 

93.トマス・アクイナスは、おそらく神の恩恵によってつくられた他者のために外へ向かう愛を述べようとしました。その愛によって私たちは「何かで私たち自身と結ばれた愛しい人たち」(72)のことを考えます。私たちは他者への愛情から、自然に彼らに良かれと求めます。これはすべて、他者への好意や、彼らの価値を認識することから発しています。これは突き詰めれば「慈愛」という言葉の裏にある考え方です。すなわち、愛される人々は私にとって「いとしい人」、または「大きな価値のあると思われる人々」(73)なのです。そして、「幸せにしてもらえる愛があるために、無償で何かを与える」(74)のです。

 

  Saint Thomas Aquinas sought to describe the love made possible by God’s grace as a movement outwards towards another, whereby we consider “the beloved as somehow united to ourselves”.[72] Our affection for others makes us freely desire to seek their good. All this originates in a sense of esteem, an appreciation of the value of the other. This is ultimately the idea behind the word “charity”: those who are loved are “dear” to me; “they are considered of great value”.[73] And “the love whereby someone becomes pleasing (grata) to another is the reason why the latter bestows something on him freely (gratis)”.[74]

 

94.それなら、愛とはただの一連の慈悲深い行為以上のものになります。これらの好意は他者を身体的、または道徳的外観とは別に、価値あるもの、魅力的で美しいものと考えてますます他者へと向かう結びつきから出たものです。他者への愛は、それがだれであれ、私たちに彼らの最良の人生を求めさせます。お互いに関係を持つこのやり方を育てることによってのみ、誰をも排除しない社会的友情、すべての人に開かれた友愛を可能にすることができるのです。

 

 Love, then, is more than just a series of benevolent actions. Those actions have their source in a union increasingly directed towards others, considering them of value, worthy, pleasing and beautiful apart from their physical or moral appearances. Our love for others, for who they are, moves us to seek the best for their lives. Only by cultivating this way of relating to one another will we make possible a social friendship that excludes no one and a fraternity that is open to all.

 

*ますます開かれた愛 A LOVE EVER MORE OPEN

 

95.愛は私たちを、普遍的な交わりへと向かわせます。誰も他者から離れて成熟し、達成感を得ることは出来ません。愛はもともと、より大きく開かれた心と、周囲すべてをより大きな意味で共通の財産と思わせる予期せぬ経験の連続として他者をうけいれる能力を求めるのです。イエスが言っています:「あなたたちはみな兄弟なのだ」(マタイ福音書23章8節)と。

 

 Love also impels us towards universal communion. No one can mature or find fulfilment by withdrawing from others. By its very nature, love calls for growth in openness and the ability to accept others as part of a continuing adventure that makes every periphery converge in a greater sense of mutual belonging. As Jesus told us: “You are all brothers” (Mt 23:8).

 

96.このためには、異なる地域や国に対して私たち自身が持っている境界を超えることが必要です。実に、「今日の世界の、ますます広がる交流や情報伝達は、私たちに国家間の共通の結束と共通の運命を強く意識させます。歴史の流れや民族のグループ、社会や文化の中に、私たちはお互いに受け入れ、気遣う兄弟姉妹からなる共同体をつくるという召命の種を見るのです」(75)。

 

 This need to transcend our own limitations also applies to different regions and countries. Indeed, “the ever-increasing number of interconnections and communications in today’s world makes us powerfully aware of the unity and common destiny of the nations. In the dynamics of history, and in the diversity of ethnic groups, societies and cultures, we see the seeds of a vocation to form a community composed of brothers and sisters who accept and care for one another”.[75]

 

*すべての人を融和させる開かれた社会 Open societies that integrate everyone

 

97.町の中心部であれ、家族間であれ、私たちに閉ざされた周辺があります。それゆえ、普遍的に開かれた愛には地理的よりむしろ存在にかかわる側面があるのです。私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。私が住んでいる社会に見捨てられたり、無視されたりしている兄弟姉妹は、同じ国に生まれているにもかかわらず、実際にはそこに存在する外国人(よそ者)なのです。かれらは立派に権利を持つ市民でありながら、自分の国で外国人のように扱われているのです。人種差別は素早く突然変異するウイルスです。消えるのではなく、隠れて潜伏するのです。

 

 Some peripheries are close to us, in city centres or within our families. Hence there is an aspect of universal openness in love that is existential rather than geographical. It has to do with our daily efforts to expand our circle of friends, to reach those who, even though they are close to me, I do not naturally consider a part of my circle of interests. Every brother or sister in need, when abandoned or ignored by the society in which I live, becomes an existential foreigner, even though born in the same country. They may be citizens with full rights, yet they are treated like foreigners in their own country. Racism is a virus that quickly mutates and, instead of disappearing, goes into hiding, and lurks in waiting.

 

98.私は社会の中でやはり異質のものとして扱われている「精神的追放」をされている人々のことを述べたいと思います(76)。障害のある多くの人たちが、「社会の一員として、社会に参加することなく存在していると感じています」。そればかりか、完全な自由権を妨げられています。私たちは、彼らを、世話することだけでなく、民間または教会の共同体に活動的に参加できるようにすることに関心を持つべきです。それは、時間のかかる、骨の折れる作業ですが、一人一人の人間を類のないかけがえのないものと認めることのできる心を育てることにだんだんと貢献してゆきます。

 私は、また「障害があるゆえに時に重荷と考えられている高齢者」のことも考えます。しかし、高齢者はそれぞれ「彼らの素晴らしい人生の経験を通してみんなのために独特の貢献」ができるのです。もう一度繰り返します。私たちは、「悲しいことに、いくつかの国では、今日でさえ、障害のある人たちを『同じ尊厳を持つ人々だ』と認めることがなかなかできないでいるので、障害の故に差別されている人々に発言できる機会を与える勇気」(77)を持つことが必要です。

 

 I would like to mention some of those “hidden exiles” who are treated as foreign bodies in society.[76] Many persons with disabilities “feel that they exist without belonging and without participating”. Much still prevents them from being fully enfranchised. Our concern should be not only to care for them but to ensure their “active participation in the civil and ecclesial community. That is a demanding and even tiring process, yet one that will gradually contribute to the formation of consciences capable of acknowledging each individual as a unique and unrepeatable person”.

 I think, too, of “the elderly who, also due to their disability, are sometimes considered a burden”. Yet each of them is able to offer “a unique contribution to the common good through their remarkable life stories”. Let me repeat: we need to have “the courage to give a voice to those who are discriminated against due to their disability, because sadly, in some countries even today, people find it hard to acknowledge them as persons of equal dignity”.[77]

 

*普遍的愛の不十分な理解 Inadequate understandings of universal love

 

99.教会を超えることのできる愛は、あらゆる都市や、国で「社会的友情」と呼ばれ得るものの基礎となります。社会の中での本物の社会的友情は、真の普遍的心の広さを可能にします。これは、自分自身の国の人々が我慢できないとか、愛せないために、絶えず海外に旅している人々の誤った普遍主義とは、まったく違うものです。自分自身の国民を見下す人々は、社会の中に、ファーストクラスやセカンドクラスという範疇、重要な人、劣る人、大きな権利を有するもの、そうでないものという範疇を作りがちです。こんな風に、彼らはすべての人のために場所があることを否定するのです。

 

 A love capable of transcending borders is the basis of what in every city and country can be called “social friendship”. Genuine social friendship within a society makes true universal openness possible. This is a far cry from the false universalism of those who constantly travel abroad because they cannot tolerate or love their own people. Those who look down on their own people tend to create within society categories of first and second class, people of greater or lesser dignity, people enjoying greater or fewer rights. In this way, they deny that there is room for everybody.

 

100.私は決して、少数のグループによって立案または計画され、人を平準化したり支配したりするための理想として提示された権威主義的、あるいは抽象的な普遍主義を提案しているのではありません。実際に、あるグローバル化のモデルでは、「意識的に皮相的な均一性を目指し、表面的な画一性を求めるあまりすべての違いや伝統を無くそうとします。もしある種のグローバル化が」、すべての人を同じ西、すべての人を均一化しようと求めるなら、そのグローバル化は各人、各国民の豊かな才能とユニークさを破壊することになります」(78)。

 

 この誤った普遍性は最後には世の中から様々な色合い、その美しさ、最後にはその人間性まで奪ってしまいます。というのは、「未来はモノクロームではありません。もし私たちに勇気があるなら、各個人が提供するはずのあらゆる多様性や相違点を考えに入れて、未来を描くことができるのです。私たちのすべてが同じでなくても、調和して平和に共に生きるためには、私たち人類家族はどれほど学ばねばならないのでしょう。

 

 I am certainly not proposing an authoritarian and abstract universalism, devised or planned by a small group and presented as an ideal for the sake of levelling, dominating and plundering. One model of globalization in fact “consciously aims at a one-dimensional uniformity and seeks to eliminate all differences and traditions in a superficial quest for unity… If a certain kind of globalization claims to make everyone uniform, to level everyone out, that globalization destroys the rich gifts and uniqueness of each person and each people”.[78] This false universalism ends up depriving the world of its various colors, its beauty and, ultimately, its humanity. For “the future is not monochrome; if we are courageous, we can contemplate it in all the variety and diversity of what each individual person has to offer. How much our human family needs to learn to live together in harmony and peace, without all of us having to be the same!”[79]

 

*「仲間」の世界を超えて BEYOND A WORLD OF “ASSOCIATES”

 

101.善きサマリア人のたとえ話に戻ってみましょう。それは、今でも私たちに言えることがたくさんあるからです。道端に怪我人が倒れています。通りかかる人たちは、隣人として行動せよ、という心の内なる命令に注意を払いませんでした。彼らは、社会の中でも自分たちの仕事や、社会的地位や職業的立場が大事だったのです。彼らは当時の社会で、自分たちを重要だと思っていて、自分たちに相応の役割を果たしたい、と切に思っていました。

 道端の傷を負って見捨てられた人は、そのすべてを邪魔する迷惑なものでしかありませんでした。とにかく、大切なものではありませんでした。彼は、平凡な、取るに足らない人で、彼らの将来にとって無関係の人でした。よきサマリア人は、このような狭い部類を超えていました。彼自身はそれらのどの範疇にも当てはまりませんでした。彼は、社会では居場所のない異国人にすぎませんでした。名も地位もなく、旅を中断しても構わず、計画を変えて、彼の助けを求めている傷ついた人を、思いがけなくも助けたのです。

 

  Let us now return to the parable of the Good Samaritan, for it still has much to say to us. An injured man lay on the roadside. The people walking by him did not heed their interior summons to act as neighbours; they were concerned with their duties, their social status, their professional position within society. They considered themselves important for the society of the time, and were anxious to play their proper part.

 The man on the roadside, bruised and abandoned, was a distraction, an interruption from all that; in any event, he was hardly important. He was a “nobody”, undistinguished, irrelevant to their plans for the future. The Good Samaritan transcended these narrow classifications. He himself did not fit into any of those categories; he was simply a foreigner without a place in society. Free of every label and position, he was able to interrupt his journey, change his plans, and unexpectedly come to the aid of an injured person who needed his help.

 

102.今日の、他の人から自分たちを引き離すアイデンティティにしがみつく社会グループが絶え間なく現れ、成長する世界であったら、この同じ物語にどのように反応するでしょうか。彼らのアイデンティティや、彼らの閉ざされた自分だけに関係した組織を脅かしかねない異質の人たちを防ごうと団結する人々に、どう影響するでしょうか。隣人として行動するという可能性は除外したとしても、彼らの目的にかなった人たちにだけは隣人なのです。「隣人」という言葉がすべての意味を失います。ある利益を遂行するためのパートナーである「仲間」という言葉だけでしかなくなります。

 

 What would be the reaction to that same story nowadays, in a world that constantly witnesses the emergence and growth of social groups clinging to an identity that separates them from others? How would it affect those who organize themselves in a way that prevents any foreign presence that might threaten their identity and their closed and self-referential structures? There, even the possibility of acting as a neighbor is excluded; one is a neighbor only to those who serve their purpose. The word “neighbor” loses all meaning; there can only be “associates”, partners in the pursuit of particular interests.[80]

 

*自由、平等、友愛 Liberty, equality and fraternity

 

103.友愛という言葉は個人の自由を尊重する社会的風土だけでなく、行政的にも保証された平等の風土の中で生まれます。友愛は、必然的に、何かもっと偉大なもの、今度は自由と平等を高めるようなものを求めます。友愛が意識的に育成されなかったら、教育通じて、対話を通じ、また相互作用や互いに豊かにし合うことの価値を認識することを通じて友愛を奨励しようとする政治的意思が欠けていたら、一体何が起こるでしょう。

 自由とは、私たちが誰と何に属するかを、全く自由に選べ、また単に全く自由に所有したり、利用したりして生活する状況、というだけのことになってしまいます。こんな浅い理解は、とりわけ愛へと導く自由の豊かさとは無縁のものです。

 

 Fraternity is born not only of a climate of respect for individual liberties, or even of a certain administratively guaranteed equality. Fraternity necessarily calls for something greater, which in turn enhances freedom and equality. What happens when fraternity is not consciously cultivated, when there is a lack of political will to promote it through education in fraternity, through dialogue and through the recognition of the values of reciprocity and mutual enrichment? Liberty becomes nothing more than a condition for living as we will, completely free to choose to whom or what we will belong, or simply to possess or exploit. This shallow understanding has little to do with the richness of a liberty directed above all to love.

 

愛はいつも開かれている   A LOVE EVER MORE OPEN

 

104.また平等は、「男も女も含めすべての人間は平等である」というような、観念的な宣言によって達成されるものでもありません。そうではなく、それは、友愛を意識的に、注意深く育んだ結果なのです。「仲間」だけしかつくれない人々は閉ざされた世界を作ります。そのような枠組みの中で、仲間のグループには入れないが、それでも自分自身や家族のためにより良い生活を求める人々に居場所はあるのでしょうか。

 

 Nor is equality achieved by an abstract proclamation that “all men and women are equal”. Instead, it is the result of the conscious and careful cultivation of fraternity. Those capable only of being “associates” create closed worlds. Within that framework, what place is there for those who are not part of one’s group of associates, yet long for a better life for themselves and their families?

 

105.個人主義は、私たちをもっと自由に、もっと平等に、もっと友愛に満ちたものにしてはくれません。個人的な利益を集めただけでは、人類という家族全体のためにより良い世界を生み出すことはできません。また、今ますますグローバル化している多くの病気から私たちを救うこともできません。

 過激な個人主義は、取り除くのが非常に難しいウイルスです。それは賢いからです。それは、私たちに、あたかもますます膨らむ野望を追いかけ、何とか共有の利益に役立つ安全網を作り上げることによって、すべて自分自身の野望のまま、やりたいようにできることにあると信じ込ませるからです。

 Individualism does not make us more free, more equal, more fraternal. The mere sum of individual interests is not capable of generating a better world for the whole human family. Nor can it save us from the many ills that are now increasingly globalized. Radical individualism is a virus that is extremely difficult to eliminate, for it is clever. It makes us believe that everything consists in giving free rein to our own ambitions, as if by pursuing ever greater ambitions and creating safety nets we would somehow be serving the common good.

 

 

*人を高める普遍の愛  A UNIVERSAL LOVE THAT PROMOTES PERSONS

106.いつでも、どこでも、社会的な友情と普遍的な友愛は必ず一人一人の人間の価値を認めることを求めます。各個人が皆、大きな価値があるのですから「資源に乏しく、発展していない場所に生まれたという事実だけで、その人たちが、尊厳を欠いた生活をしている、という現実を正当化することにはならない」(81)ことは、明確に、断固として述べられねばなりません。これは、彼らの世界観に合わないとか、彼らの目的に貢献しない、と感じる人々によって、色々なやり方で無視されがちな社会生活の基本的な原則なのです。

 

 Social friendship and universal fraternity necessarily call for an acknowledgement of the worth of every human person, always and everywhere. If each individual is of such great worth, it must be stated clearly and firmly that “the mere fact that some people are born in places with fewer resources or less development does not justify the fact that they are living with less dignity”.[81] This is a basic principle of social life that tends to be ignored in a variety of ways by those who sense that it does not fit into their worldview or serve their purposes.

 

107.すべての人間は、尊厳をもって、完全に発展する権利を持っています。いかなる国も、この基本的な権利を否定することはできません。たとえ非生産的に生まれても、発達の欠陥を持って生まれても、人にはこの権利があります。これは、彼らの人間としての偉大な尊厳を減ずることにはなりません。それは、境遇を基にした尊厳ではなく、彼らの存在に本来備わっている尊厳です。もしこの基本的な原則が擁護されないなら、友愛にも人間性の存続にも、未来はないでしょう。

 

 Every human being has the right to live with dignity and to develop integrally; this fundamental right cannot be denied by any country. People have this right even if they are unproductive, or were born with or developed limitations. This does not detract from their great dignity as human persons, a dignity based not on circumstances but on the intrinsic worth of their being. Unless this basic principle is upheld, there will be no future either for fraternity or for the survival of humanity.

 

108.この原則をある程度受け入れている社会もあります。機会はすべての人に与えられるべきだ、ということに同意しています。そして、すべては個人次第だ、というのです。このゆがんだ大局観からは、「遅い人々、弱い人々、才能に恵まれない人々が、人生の機会を見つけるのを助ける努力に投資するのを支持するのは、無意味に思えることでしょう」(82)。弱者を援助することに投資しても利益がないだろうとか、物事の能率を悪くするだろう,と思うのです。そうではありません。実際、私たちに必要なのは、現存し、活動的な国家や民間組織で、ある種の経済的、政治的イデオロギー的組織の自由で効率的な働きを超えたその先を見て、まず第一に、個人と共通善に関心をもつ国家や民間組織なのです。

 

 Some societies accept this principle in part. They agree that opportunities should be available to everyone, but then go on to say that everything depends on the individual. From this skewed perspective, it would be pointless “to favor an investment in efforts to help the slow, the weak or the less talented to find opportunities in life”.[82] Investments in assistance to the vulnerable could prove unprofitable; they might make things less efficient.

No. What we need in fact are states and civil institutions that are present and active, that look beyond the free and efficient working of certain economic, political or ideological systems, and are primarily concerned with individuals and the common good.

 

  1. 経済的に安定した家庭に生まれ、立派な教育を受け、よく成長し、また、天性の素晴らしい才能を持っている人々もいます。彼らには確かに積極的な取り組みをする国家は必要ないでしょう。彼らは自由を求めるだけで事足ります。しかし、障害のある人や、悲惨な貧困の中に生まれた人や、良い教育を受けられず、十分な健康管理を受ける手段を持たない人に、同じルールは明らかに当てはまりません。もし社会が主として市場の自由と効率の良さの基準で統治されているなら、そのような人々の居場所はなく、友愛はただの、うつろな理想のままになるでしょう。

 

 Some people are born into economically stable families, receive a fine education, grow up well nourished, or naturally possess great talent. They will certainly not need a proactive state; they need only claim their freedom. Yet the same rule clearly does not apply to a disabled person, to someone born in dire poverty, to those lacking a good education and with little access to adequate health care. If a society is governed primarily by the criteria of market freedom and efficiency, there is no place for such persons, and fraternity will remain just another vague ideal.

 

110 実際、「現実の状況のせいで、多くの人の手に届かず、雇用の可能性も減少している状況で経済的自由を要求することは意味がありません」(83)。自由や民主主義や友愛などという言葉は、意味のないものとなる。それは、「私たちの経済的社会的システムが、もはや一人の犠牲者も生み出さず、一人も置き去りにしない時に初めて、私たちは普遍的友愛の宴を祝うことができるようになるからなのです」(84)。

  本当に人間的で友愛に満ちた社会では、その構成員の誰もが、人生のあらゆる段階で、効率的かつ安定した方法で寄り添い助けてもらえるのです。必要最低限のものを与えるだけでなく、うまくできなくとも、ペースが遅くとも、効率よくできなくても、彼らが最大の力を発揮できるように助けるのです。

 

 Indeed, “to claim economic freedom while real conditions bar many people from actual access to it, and while possibilities for employment continue to shrink, is to practice doublespeak”.[83] Words like freedom, democracy or fraternity prove meaningless, for the fact is that “only when our economic and social system no longer produces even a single victim, a single person cast aside, will we be able to celebrate the feast of universal fraternity”.[84] A truly human and fraternal society will be capable of ensuring in an efficient and stable way that each of its members is accompanied at every stage of life. Not only by providing for their basic needs, but by enabling them to give the best of themselves, even though their performance may be less than optimum, their pace slow or their efficiency limited.

 

111.人間には、奪うことのできない権利があり、生まれつき関係を持つように開かれているのです。私たちのうちに深く植え付けられているは、他者との出会いを通して自分自身を超えよ、という呼びかけです。その理由で、「人権という概念と、その誤った使い方に注意しなければなりません。

 今日、もっと広い意味での個人的―個人主義的と言いたくなりますが―、権利を要求する傾向があります。その根本には、一段と他者と関わりを持たない個体であるかのような「すべての社会的、人類学的文脈人から切り離された人間関係」という概念が潜んでいます。…もし、各個人の権利がより大きな善のために調和するよう命じられないなら、これらの権利は最終的には際限がなくなり、絶えず闘争や暴力の源となるでしょう」(85)。

 

The human person, with his or her inalienable rights, is by nature open to relationship. Implanted deep within us is the call to transcend ourselves through an encounter with others. For this reason, “care must be taken not to fall into certain errors which can arise from a misunderstanding of the concept of human rights and from its misuse. Today there is a tendency to claim ever broader individual – I am tempted to say individualistic – rights.

Underlying this is a conception of the human person as detached from all social and anthropological contexts, as if the person were a “monad” (monás), increasingly unconcerned with others… Unless the rights of each individual are harmoniously ordered to the greater good, those rights will end up being considered limitless and consequently will become a source of conflicts and violence”.[85]

 

*道徳的善を促進する PROMOTING THE MORAL GOOD

 

112. 他者の利益と人類家族全体の利益を求め追及することは、総合的な人間の発展を助長する道徳的な価値を個人や社会が成熟させるのを助けることを意味する、ということも述べたいと思います。新約聖書は、霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)のことをギリシャ語でagathosyneと表現しています。それは「善を愛し,善を追い求める」ことを意味します。

 さらに、それは、他者の美点と他者のため最上のものを目指して努力することを示唆しています。彼らの成熟度や健康が増すこと、彼らの価値を高めることで、単に物質的な幸福だけではありません。同様の表現がラテン語にもあります―Venevolentiaです。これは、他者の「幸福を願う」態度のことです。これは、善へのあこがれと、素晴らしく、卓越したものへの傾倒、他者の人生を美しく、崇高で、啓発的なもので満たしたいという願望を示します。

 

 Nor can we fail to mention that seeking and pursuing the good of others and of the entire human family also implies helping individuals and societies to mature in the moral values that foster integral human development. The New Testament describes one fruit of the Holy Spirit (cf. Gal 5:22) as agathosyne; the Greek word expresses attachment to the good, pursuit of the good. Even more, it suggests a striving for excellence and what is best for others, their growth in maturity and health, the cultivation of values and not simply material wellbeing. A similar expression exists in Latin: benevolentia. This is an attitude that “wills the good” of others; it bespeaks a yearning for goodness, an inclination towards all that is fine and excellent, a desire to fill the lives of others with what is beautiful, sublime and edifying.

 

113.しかし、残念なことに、ここで、私は「私たちは十分に不道徳で、倫理、善、信仰、正直さを軽視してきたことも繰り返し言わねばならないと感じます。軽率な気持ちの皮相なものは私たちのためになっていないことを認める時です。一旦社会生活の基礎がむしばまれたら、起こることは利害の対立をめぐっての闘いです」(86)。

 私たち自身と、全人類家族のために善の促進に立ち返りましょう。そして、このようにして本物の総合的な成長に向かって進みましょう。すべての社会は、確実に価値観が伝えられることを必要としています。さもないと、子供たちに伝わるものは、利己主義と、暴力と、いろいろな形の堕落、無関心、そして、最後には閉ざされた、超越のない生活、個人の利益に凝り固まった生活だけです。

 

 Here, regrettably, I feel bound to reiterate that “we have had enough of immorality and the mockery of ethics, goodness, faith and honesty. It is time to acknowledge that light-hearted superficiality has done us no good. Once the foundations of social life are corroded, what ensues are battles over conflicting interests”.[86] Let us return to promoting the good, for ourselves and for the whole human family, and thus advance together towards an authentic and integral growth. Every society needs to ensure that values are passed on; otherwise, what is handed down are selfishness, violence, corruption in its various forms, indifference and, ultimately, a life closed to transcendence and entrenched in individual interests.

 

*連帯の価値 The value of solidarity

 

114.私は、特に連帯について述べたいと思います。それはこのようなことです―「個人的回心から生まれた倫理的美徳と社会的態度として、教育や育成に責任のある人々に、献身的に関わることを求める。私はまず、家庭を考える―家庭は、教育について最も重要な任務を負っている。家庭は、愛や兄弟姉妹の愛、連帯感と分かち合い、他者を思いやり、気遣うことの価値観を持って生涯を生き抜き、次の世代に伝えられる最初の場所である。家庭は、また、母親が子供たちに教える最初の簡単な信仰を表す身振りから始まり、信仰を伝える最高の場所だ。そして教師たち―子供たちや若者たちを学校やその他の場所で教えるという、やりがいのある仕事を持つ人たちは、自分たちの彼らへの責任が人生の道徳的、精神的、社会的な側面にまで及ぶ、と意識する必要がある。自由や互いに敬意を払うことや、連帯の価値は、幼い頃から伝えることができる…。情報伝達に携わる人たちにも教育と人間形成に責任があるー特に、情報と伝達の手段がこれほど幅広く普及した今日においては」(87)。

 

 I would like especially to mention solidarity, which, “as a moral virtue and social attitude born of personal conversion, calls for commitment on the part of those responsible for education and formation. I think first of families, called to a primary and vital mission of education. Families are the first place where the values of love and fraternity, togetherness and sharing, concern and care for others are lived out and handed on. They are also the privileged milieu for transmitting the faith, beginning with those first simple gestures of devotion which mothers teach their children. Teachers, who have the challenging task of training children and youth in schools or other settings, should be conscious that their responsibility extends also to the moral, spiritual and social aspects of life. The values of freedom, mutual respect and solidarity can be handed on from a tender age… Communicators also have a responsibility for education and formation, especially nowadays, when the means of information and communication are so widespread”.[87]

 

115.すべてが、ばらばらで、一貫性を無くしているように見える時には、「連帯」(88)に訴えることが有効です―それは、私たちが共通の未来を作り上げて行く努力の中で、他の人々の弱さに責任がある、という意識から生まれたもの。連帯には、奉仕するための具体的な表現方法があり、他の人々を大切にしようと努める中で、あらゆる形をとることが可能です。

 そして、奉仕は主として「弱さへのいたわり、私たちの家庭、社会、そして国民の中の弱い仲間を守る」ことを意味します。そのような奉仕を提供することで、人は学ぶのです。「最も弱い人々が実際に見つめる瞳の前では、自分の願いや願望、自分の権力の追及などをわきに置くことを。…奉仕するときはいつも彼らの顔を見て、彼らの体に触れ、彼らとの近さを感じ、時にはその近さに『苦しみ』さえして、彼らを助けようとするのです。奉仕は決して観念的なものではない。なぜなら、私たちは”観念”に奉仕するのではなく、”人々”に奉仕するから」(89)です。

 

 At a time when everything seems to disintegrate and lose consistency, it is good for us to appeal to the “solidity”[88] born of the consciousness that we are responsible for the fragility of others as we strive to build a common future. Solidarity finds concrete expression in service, which can take a variety of forms in an effort to care for others. And service in great part means “caring for vulnerability, for the vulnerable members of our families, our society, our people”. In offering such service, individuals learn to “set aside their own wishes and desires, their pursuit of power, before the concrete gaze of those who are most vulnerable… Service always looks to their faces, touches their flesh, senses their closeness and even, in some cases, ‘suffers’ that closeness and tries to help them. Service is never ideological, for we do not serve ideas, we serve people”.[89]

 

116.貧しい人々は、一般的に貧困者同士の間で、特別に連帯しています。そして、私たちの文明は、それを忘れているように見え、実際、忘れていたいのです。「連帯」は「いつも良く思われるとは限らない言葉だ。ある状況では、それは禁句で、あえて言わない言葉となっている。『連帯』とは、散発的に寛大な行為に従事する以上のことを意味します。それは、地域共同体の点から考え、行動することを意味する。それは、すべての人の生活が、少数の人々が富を占有することよりも大切だ、ということを意味する。それはまた、貧困、不平等、仕事や土地や住まいの不足、社会的な労働の権利の否定などの原因となる構造、と闘うことを意味する。それは、お金の帝国の破壊的な影響と対決すること意味する…  連帯とは、その最も深い意味で理解するなら、歴史を作る方法で、これが、今の人々のしている運動の在り方」(90)なのです。

 

 The needy generally “practise the special solidarity that exists among those who are poor and suffering, and which our civilization seems to have forgotten or would prefer in fact to forget. Solidarity is a word that is not always well received; in certain situations, it has become a dirty word, a word that dare not be said. Solidarity means much more than engaging in sporadic acts of generosity.   It means thinking and acting in terms of community. It means that the lives of all are prior to the appropriation of goods by a few. It also means combatting the structural causes of poverty, inequality, the lack of work, land and housing, the denial of social and labour rights. It means confronting the destructive effects of the empire of money… Solidarity, understood in its most profound meaning, is a way of making history, and this is what popular movements are doing”.[90]

 

117.私たちの共通の家である、私たちの惑星を守る必要について話すとき、私たちは、まだ人々の心の中にあるかもしれない普遍的な意識と、相互の関心のひらめきに訴えます。豊富な水を謳歌し、より大きな人類家族のために大切に使うことを選ぶ人たちは、自分たちや自分たちの属する集団を超越してものを見ることのできる、道徳的な高さに達しています。人間は何と素晴らしいのでしょう!私たちがすべての人たちの権利、自分自身の境界を超えて生まれた人々の権利を認めることができるかどうか、同じ態度が求められているのです。

 

 When we speak of the need to care for our common home, our planet, we appeal to that spark of universal consciousness and mutual concern that may still be present in people’s hearts. Those who enjoy a surplus of water yet choose to conserve it for the sake of the greater human family have attained a moral stature that allows them to look beyond themselves and the group to which they belong. How marvellously human! The same attitude is demanded if we are to recognize the rights of all people, even those born beyond our own borders.

 

*財産の社会的役割を改めて考える RE-ENVISAGING THE SOCIAL ROLE OF PROPERTY

 

118.世界は、すべての人のために存在します。それは、私たちすべてが、同じ尊厳をもって生まれたからです。肌の色、宗教、才能、生まれた場所、住んでいる場所、その他、色々な違いを、ある者たちだけが特権を持つことを正当化するために、使うことはできません。共同体として、私たちには、すべての人が尊厳をもって、完全に発展するための十分な機会を持つことを、保証する義務があるのです。

 

 The world exists for everyone, because all of us were born with the same dignity. Differences of colour, religion, talent, place of birth or residence, and so many others, cannot be used to justify the privileges of some over the rights of all. As a community, we have an obligation to ensure that every person lives with dignity and has sufficient opportunities for his or her integral development.

 

119.キリスト教の初期の時代に、多くの思想家たちが、創造物の共通の目的についての考察で、普遍的な見方を発展させました(91)。尊厳をもって生きるのに必要なもの欠く人が一人でもいたら、それは、他の人がそれを奪っているからだ、と悟らせました。聖ヨハネス・クリュソストモス(注:347年に シリアのアンティオキア生まれた。カトリック教会の他、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されている)は、それを、このように要約していますー「私たちの富を貧しい人々に分け与えないことは、彼らから強奪し、彼らの生計を奪うことです。私たちが所有する富は、私たち自身のものではなく、彼らのものでもあるのです(92)。また、大聖グレゴリウス(注: 540年?生まれの教皇グレゴリウス1世のこと。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人)は、こう言っていますー「貧しい人々に最低必要限のものを与える時、私たちは、私たちのものでなく、もともと彼らのものを与えているだ」(93)と。

 

 In the first Christian centuries, a number of thinkers developed a universal vision in their reflections on the common destination of created goods.[91] This led them to realize that if one person lacks what is necessary to live with dignity, it is because another person is detaining it. Saint John Chrysostom summarizes it in this way: “Not to share our wealth with the poor is to rob them and take away their livelihood. The riches we possess are not our own, but theirs as well”.[92] In the words of Saint Gregory the Great, “When we provide the needy with their basic needs, we are giving them what belongs to them, not to us”.[93]

 

120.もう一度、聖ヨハネパウロ2世の述べられたことを繰り返したいと思います。彼の力強さは、おそらく十分に認識されていませんー「神は、地球に、全人類のため、生きるために必要なものを与えられた。誰一人除外することなく、誰一人特別扱いすることなく」(94)。私としては、こう言いたいと思いますー「キリスト教の伝統は、財産を絶対的で、不可侵のものとして所有することを、決して認めていません。そして、あらゆる形の私的財産の社会的目的を強調している」(95)と。創造物を共有して使う原則は「すべての倫理的、社会的順序の中で、一番の原則です」(96)。それは、他の何より優先される生来の本来備わった権利なのです(97)。

 人が目的を完全に満たすために必要な、すべての他の権利は、私的財産や他の種類の財産を含め、聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「決してこの権利を妨げてはならず、その実行を積極的に促進するものでなければならない」(98)のです。私的財産の権利は、創造物の普遍的な目的の原則からすると、二次的な生来の権利でしかありません。これは、社会の働きの中でよく考えられねばならない明確な重要性をもつものです。それでも、二次的な権利が第一の、最優先の権利にとって代わり、まったく見当違いのことが行われることがよくあります。

 

 Once more, I would like to echo a statement of Saint John Paul II whose forcefulness has perhaps been insufficiently recognized: “God gave the earth to the whole human race for the sustenance of all its members, without excluding or favoring anyone”.[94] For my part, I would observe that “the Christian tradition has never recognized the right to private property as absolute or inviolable, and has stressed the social purpose of all forms of private property”.[95] The principle of the common use of created goods is the “first principle of the whole ethical and social order”;[96] it is a natural and inherent right that takes priority over others.[97]

 All other rights having to do with the goods necessary for the integral fulfilment of persons, including that of private property or any other type of property, should – in the words of Saint Paul VI – “in no way hinder [this right], but should actively facilitate its implementation”.[98] The right to private property can only be considered a secondary natural right, derived from the principle of the universal destination of created goods. This has concrete consequences that ought to be reflected in the workings of society. Yet it often happens that secondary rights displace primary and overriding rights, in practice making them irrelevant.

 

*境界を持たない権利 Rights without borders

  1. ですから、出生地ゆえに、まして、より大きな機会に恵まれた土地に生まれた人たちが享受する特権ゆえに、誰もが排除されたままでいることはできません。個々の国の制限や境界が、妨げてはなりません。女性だという理由で、権利が(注:男性より)少ないことを容認できないように、単に出生地や居住地のせいで、発展した堂々たる人生の機会が減ってしまうことも、受け入れがたいことです。

 

 No one, then, can remain excluded because of his or her place of birth, much less because of privileges enjoyed by others who were born in lands of greater opportunity. The limits and borders of individual states cannot stand in the way of this. As it is unacceptable that some have fewer rights by virtue of being women, it is likewise unacceptable that the mere place of one’s birth or residence should result in his or her possessing fewer opportunities for a developed and dignified life.

 

  1. 発展は、少数の人が富を蓄積するように意図されてはなりませんが、「人権ー個人的そして社会的に、経済的そして政治的に、国家や人々の権利を含めた人権」(99)を保障するものでなくてはなりません。自由企業や市場の自由への誰かの権利は、人々の権利、貧しい人々の尊厳に取って代わることはできません。あるいは、さらに言えば、自然環境への敬意に取って代わることはできない、「もし私たちが何かを自分のものとするなら、すべての人の利益のためにそれを管理するためだけなのです」(100)。

 

 Development must not aim at the amassing of wealth by a few, but must ensure “human rights – personal and social, economic and political, including the rights of nations and of peoples”.[99] The right of some to free enterprise or market freedom cannot supersede the rights of peoples and the dignity of the poor, or, for that matter, respect for the natural environment, for “if we make something our own, it is only to administer it for the good of all”.[100]

 

  1. 経済活動は、本質的に「富を生み、私たちの世界をより良くするための、気高い使命」(101)です。神は、私たちに与えられた才能を伸ばすように仕向けられ、私たちの世界を、計り知れないほど可能性のあるもの、とされました。神の計画では、それぞれの人に自己開発を促進することを求め(102)、これには、商品を何倍にもし、富を増やす最良の経済的、技術的な手段を見つけることも含まれています。

 神から与えられた経済活動の能力は、いつでも、明確に他の人々の発展に向けられ、特に、さまざまな就業の機会を産み出すことを通して、貧困を無くすことに向けられるべきです。私的財産の権利には、「すべての私的財産は地球の財の世界的な最終目的に従う」という第一の優先原則が、常に伴うのです。そして、このようにして、すべて人の権利は、その使用に帰するのです(103)。

 

 Business activity is essentially “a noble vocation, directed to producing wealth and improving our world”.[101] God encourages us to develop the talents he gave us, and he has made our universe one of immense potential. In God’s plan, each individual is called to promote his or her own development,[102] and this includes finding the best economic and technological means of multiplying goods and increasing wealth. Business abilities, which are a gift from God, should always be clearly directed to the development of others and to eliminating poverty, especially through the creation of diversified work opportunities. The right to private property is always accompanied by the primary and prior principle of the subordination of all private property to the universal destination of the earth’s goods, and thus the right of all to their use.[103]

 

*諸国民の権利 The rights of peoples

 

124.今日では、地球の財の共通の目的への確固たる信念は、この原則が国家、領土、資源にも適用されることを求めています。私的財産や市民権の正当性だけでなく、財の共通の目的という第一の原則の立場から見れば、それぞれの国も、外国人のものでもあり、その領土の財は、他から来た貧しい人々に使わせないと言ってはならない、といえます。米国の司教たちが教えているように「神によって造られたそれぞれの人に認められた尊厳から流れ出てくるがゆえに、どのような社会にも優先する基本的な権利」(104)があるのです。

 

 Nowadays, a firm belief in the common destination of the earth’s goods requires that this principle also be applied to nations, their territories and their resources. Seen from the standpoint not only of the legitimacy of private property and the rights of its citizens, but also of the first principle of the common destination of goods, we can then say that each country also belongs to the foreigner, inasmuch as a territory’s goods must not be denied to a needy person coming from elsewhere. As the Bishops of the United States have taught, there are fundamental rights that “precede any society because they flow from the dignity granted to each person as created by God”.[104]

 

125.これは、国家間の関係や交流を違った方法で理解することを前提としています。仮に、すべての人間が奪うことのできない尊厳を持っているなら、仮に、すべての人々が私の兄弟姉妹であるなら、そして、仮に、世界が本当にすべての人のものであるなら、私の隣人が私の国で生まれていようが、他の地で生まれていようが、どうでもよいことです。私自身の国が、その人の発展の責任を負っているのです。

 どのように責任を果たせるか、色々方法がありますが、緊急に助けを求めている人々を寛大に受け入れることもできるし、国民の尊厳ある発展を妨げている腐敗した組織を助けたり、その国を搾取したりするのを拒絶したり、天然資源が奪われることを拒絶したりすることで、自分が生まれた国の生活環境を改善するために働くこともできます。国に当てはまることは、国内の異なる地域にも当てはまります。そこにとても大きな不平等がしばしば存在しているからです。人間の対等な尊厳を認めることができないと、国内の発展した地域は、貧しい地域という「重荷」を捨てて、自分たちの消費水準を高めようと考える時もあります。

 

 This presupposes a different way of understanding relations and exchanges between countries. If every human being possesses an inalienable dignity, if all people are my brothers and sisters, and if the world truly belongs to everyone, then it matters little whether my neighbour was born in my country or elsewhere. My own country also shares responsibility for his or her evelopment, although it can fulfil that responsibility in a variety of ways. It can offer a generous welcome to those in urgent need, or work to improve living conditions in their native lands by refusing to xploit those countries or to drain them of natural resources, backing corrupt systems that hinder the dignified development of their peoples. What applies to nations is true also for different regions within each country, since there too great inequalities often exist. At times, the inability to recognize equal human dignity leads the more developed regions in some countries to think that they can jettison the “dead weight” of poorer regions and so increase their level of consumption.

 

126.私たちは、国際関係の新しいネットワークについて、実際に話しているのです。仮に、私たちが、個人間や小さなクループ間での相互援助の観点からしか考え続けられないなら、世界の重大な問題を解決することは、決してできないからです。また、私たちは「不公平が、個人だけでなく国家全体に影響することを忘れるべきではない。それは、私たちに国際関係の倫理について考えさる」(105)。実際のところ、正義は、個人の権利だけでなく、社会的権利や国民の権利も認め、尊重することを求めます(106)。

 これは、「国民の生存と進歩、という基本的権利」(107)―対外債務で生み出される圧力によって、時として厳しく制限されることのある権利です。多くの場合、債務返済の負担は、経済的発展の促進を不可能にするだけでなく、重大な制限や条件付けをします。「すべての合法的な公的な借金は、返還されなければならない」という原則を尊重することは必要ですが、多くの貧しい国々が、返済義務を果たすために、生存や成長を危うくすることになってはなりません。

 

 We are really speaking about a new network of international relations, since there is no way to resolve the serious problems of our world if we continue to think only in terms of mutual assistance between individuals or small groups. Nor should we forget that “inequity affects not only individuals but entire countries; it compels us to consider an ethics of international relations”.[105] Indeed, justice requires recognizing and respecting not only the rights of individuals, but also social rights and the rights of peoples.[106] This means finding a way to ensure “the fundamental right of peoples to subsistence and progress”,[107] a right which is at times severely restricted by the pressure created by foreign debt. In many instances, debt repayment not only fails to promote development but gravely limits and conditions it. While respecting the principle that all legitimately acquired  debt must be repaid, the way in which many poor countries fulfil this obligation should not end up compromising their very existence and growth.

 

127.確かに、このことすべてのためには、別の考え方をすることが必要です。その努力なしには―私の言うことは、はなはだしく非現実的に思われるでしょうが。一方で、私たちには、奪うことのできない人間の尊厳から生まれた権利がある―という大原則を受け入れるなら、新しい人間性を求める挑戦に立ち上がることができるのです。

 私たちは、すべての人に土地と住居と仕事を与えることを、世界に求めることができます。これは、外部の脅威に直面しての『恐怖と不信の種をまく、無分別で近視眼的な戦略』ではなく、真の平和への道です。真に永続的な平和は「人類家族全体の独立と、責任の分担で実現する、『未来に貢献する連帯と協力のグローバルな倫理』を基礎として初めて可能」(108)なのです。

 

 Certainly, all this calls for an alternative way of thinking. Without an attempt to enter into that way of thinking, what I am saying here will sound wildly unrealistic. On the other hand, if we accept the great principle that there are rights born of our inalienable human dignity, we can rise to the challenge of envisaging a new humanity. We can aspire to a world that provides land, housing and work for all. This is the true path of peace, not the senseless and myopic strategy of sowing fear and mistrust in the face of outside threats. For a real and lasting peace will only be possible “on the basis of a global ethic of solidarity and cooperation in the service of a future shaped by interdependence and shared responsibility in the whole human family”.[108]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章  世界に開かれた心  A HEART OPEN TO THE WORLD

128. もしすべての人々が兄弟姉妹であるという確信が、抽象的な考えに留まるのではなく、具体的なものとして見いだせるならば、多くの関連する諸問題が明らかになり、私たちは新しい光で、新たな対応を展開できるようになるでしょう。

 

 If the conviction that all human beings are brothers and sisters is not to remain an abstract ideabut to find concrete embodiment, then numerous related issues emerge, forcing us to see things in a new light and to develop new responses.

 

*国境とその限界 BORDERS AND THEIR LIMITS

 

129. たまたま隣人が移民であると、複雑な問題が発生します(109)。理想としては不必要な移住は避けるべきです。そのためには、母国での尊厳のある生活と総合的な発展を必要とする環境の創出が必然的に求められます。しかし、この目的の達成という実体的な発展を遂げるまで、移民やその家族が基本的なニーズにかなう場所を見つけ、すべての個人が充足感を得られるように、すべての個人の権利を尊重する義務が私たちにあります。

 移民が到着した時の私たちの反応は、歓迎、保護、支援、統合の四つの言葉に要約することができます。なぜならば、「これはトップダウン形式の福祉プログラムを実施するケースではなく、むしろこれらの四つの行動を通して都市や国を構築するための旅を一緒に始めるというケースだからです。旅の目的は、相互の文化と宗教上のアイデンティティを維持しつつ、相違に心を開き、人間の兄弟愛という精神から、いかにして移住者を支援するかを知っている都市や国を構築することです」(110)。

 

 Complex challenges arise when our neighbour happens to be an immigrant.[109] Ideally, unnecessary migration ought to be avoided; this entails creating in countries of origin the onditions needed for a dignified life and integral development. Yet until substantial progress is made in achieving this goal, we are obliged to respect the right of all individuals to find a place that meets their basic needs and those of their families, and where they can find personal fulfilment.

 Our response to the arrival of migrating persons can be summarized by four words: welcome, protect, promote and integrate. For “it is not a case of implementing welfare programmes from the top down, but rather of undertaking a journey together, through these four actions, in order to build cities and countries that, while preserving their respective cultural and religious identity, are open to differences and know how to promote them in the spirit of human fraternity”.[110]

 

130. このために幾つかの必要不可欠なステップを踏む必要があります。特に深刻な人道的危機に瀕している人々への対応です。例えば次のような例を挙げることができます。

 ビザ申請の簡素化と許可数の増加、個人あるいはコミュニティ支援プログラムの採用、最も弱い立場にある難民に対する人道回廊を開くこと、適切で尊厳の維持できる住居の提供、個人の身の安全の保障と基本的なサービスを受けられること、十分な領事館の支援と個人の身分証明の書類を保有できる権利の保障、公正な司法制度へのアクセス、銀行口座の開設と最低限の生活保障、移動の自由と就業できること、未成年者の保護と通常の教育が受けられること、一時的な身元引受人(後見人)やシェルタープログラムの提供、宗教の自由の保障、社会への適合の促進、家族再会の支援、統合プロセスに役立つ地域コミュニティの準備です(111)。

 

 This implies taking certain indispensable steps, especially in response to those who are fleeing grave humanitarian crises. As examples, we may cite: increasing and simplifying the granting of visas; adopting programs of individual and community sponsorship; opening humanitarian corridors for the most vulnerable refugees; providing suitable and dignified housing; guaranteeing personal security and access to basic services; ensuring adequate consular assistance and the right to retain personal identity documents; equitable access to the justice system; the possibility of opening bank accounts and the guarantee of the minimum needed to survive; freedom of movement and the possibility of employment; protecting minors and ensuring their regular access to education; providing for programs of temporary guardianship or shelter; guaranteeing religious freedom; promoting integration into society; supporting the reuniting of families; and preparing local communities for the process of integration.[111]

 

131. 最近移住したのではなく、すでにすでに社会に組み込まれている移民にとって、「市民権」という概念の適用は重要です。なぜなら市民権は「すべての人々が公平を享受する元となっている、権利と義務の同等性に基づいているからです。故に、私たちの社会で『完全な市民権』の概念を明確にして、孤立感と劣等感を生む『マイノリティ』という差別用語の使用を拒否することが重要になります。差別用語の使用は敵意と不和への道となるからです。それはいかなる成功をも台無しにし、差別待遇をされている市民の宗教の権利と市民権を奪い取るものです」(112)。

 

For those who are not recent arrivals and already participate in the fabric of society, it is important to apply the concept of “citizenship”, which “is based on the equality of rights and duties, under which all enjoy justice. It is therefore crucial to establish in our societies the concept of full citizenship and to reject the discriminatory use of the term minorities, which engenders feelings of isolation and inferiority. Its misuse paves the way for hostility and discord; it undoes any successes and takes away the religious and civil rights of some citizens who are thus discriminated against”.[112]

 

132. たとえ人々がこのような重要なステップを踏んだときでさえ、国家は十分な解決策を彼らだけで実行することはできません。「なぜなら、それぞれの国家が決めた結論は、すべての国際的なコミュニティに影響を及ぼすことが不可避だからです」。結果として、「私たちの対応は」移民の移住に関してグローバルなガバナンスという形態を発展させるための「共同の努力の結実でしかないのです」(113)。このように「緊急的対応に限定されない、中期と長期にわたる計画が必要です」。

 このような計画は、受け入れ国で移民が社会に適合するために有効な支援を含まなければなりません。しかし、同様に両国の連帯によって生まれた政策を用いて彼らの祖国の発展を促進させる有効な支援も含まれるべきです。しかし、そのとき、支援される人々(移民)の文化とかけ離れた、あるいは反対のイデオロギー的な政策や慣習に支援を関連づけるべきではありません」(114)。

 

 Even when they take such essential steps, states are not able, on their own, to implement adequate solutions, “since the consequences of the decisions made by each inevitably have

repercussions on the entire international community”. As a result, “our response can only be the fruit of a common effort”[113] to develop a form of global governance with regard to movements of migration.Thus, there is “a need for mid-term and long-term planning which is not limited to emergency responses.

 Such planning should include effective assistance for integrating migrants in their receiving countries, while also promoting the development of their countries of origin through policies inspired by solidarity, yet not linking assistance to ideological strategies and practices alien or contrary to the

cultures of the peoples being assisted”.[114]

 

*互いに与え合う贈り物 RECIPROCAL GIFTS

 

133. 生活様式や文化の異なる所から来た移民の到来は贈り物になり得ます。なぜなら「移住者のストーリーは常に個人間、文化間の出会いのストーリーでもあるからです。移住先のコミュニティや社会にとって、移住者はあらゆるものの豊かさと総合的な人間成長のチャンスをもたらします」(115)。このために、「私は特に若者に強く促したいです。自分たちの国に新しくやってきた若者に反対するように勧めるだけでなく、彼らを脅威と見なし、他の誰かのように同じ奪うことのできない尊厳を持っていないのだと見なすように誘惑する人たちの術中に陥らないようにと」(116)。

 

 The arrival of those who are different, coming from other ways of life and cultures, can be a gift, for “the stories of migrants are always stories of an encounter between individuals and between cultures. For the communities and societies to which they come, migrants bring an opportunity for enrichment and the integral human development of all”.[115] For this reason, “I especially urge young people not to play into the hands of those who would set them against other young people, newly arrived in their countries, and who would encourage them to view the latter as a threat, and not possessed of the same inalienable dignity as every other human being”(116).

 

134. 実際に、私たちが自分とは異なる人々に心を開くと、彼らは自分自身を保ちつつも新しい方法で成長することができます。何世紀にも渡って繁栄してきた異文化は, 私たちの世界が貧弱にならないように保存されるべきです。同時に、それらの異文化が他者の持つ現実と出会い、新しい体験に触れることも勧められるべきです。なぜなら、文化面での硬化症に陥るリスクが常に存在するのです。

  そのリスクに陥らないために、「私たちは互いに連絡をとり、一人ひとりが持つ贈り物を発見し、私たちを結びつけているものを強め、尊敬し合いながら成長するチャンスとして、私たちの相違を見なす必要があります。

 対話では忍耐と信頼が求められます。忍耐と信頼は、彼ら自身の文化の価値を伝えつつ、他からの与えられる良い体験を喜んで受け入れるために、個人、家族、コミュニティを容認することを可能にします」(117)。

 

 Indeed, when we open our hearts to those who are different, this enables them, while continuing to be themselves, to develop in new ways. The different cultures that have flourished over the centuries need to be preserved, lest our world be impoverished. At the same time, those cultures should be encouraged to be open to new experiences through their encounter with other realities, for the risk of succumbing to cultural sclerosis is always present. That is why “we need to communicate with each other, to discover the gifts of each person, to promote that which unites us, and to regard our differences as an opportunity to grow in mutual respect. Patience and trust are called for in such dialogue, permitting individuals, families and communities to hand on the values of their own culture and welcome the good that comes from others’ experiences”(117).

 

135. 私がこれまでに取り上げた幾つかの例について述べたいと思います。ラテンアメリカ人の文化は「アメリカを非常に豊にすることのできる価値と可能性を発酵させる種」です。なぜなら、「奮闘する移民は移住先の文化に影響を与え、変革させるからです。アルゼンチンでは奮闘するイタリアからの移民が社会の文化に痕跡を残し、およそ20万人のユダヤ人の存在はブエノスアイレスの文化の『形』に大きな影響を与えました。移民は社会に統合するように支援されるなら、神からの恵みとなり、社会を成長に導く豊かさの源であり、新しい贈り物となるのです」(118)。

 

 Here I would mention some examples that I have used in the past. Latino culture is “a ferment of values and possibilities that can greatly enrich the United States”, for “intense immigration always ends up influencing and transforming the culture of a place… In Argentina, intense immigration from Italy has left a mark on the culture of the society, and the presence of some 200,000 Jews has a great effect on the cultural ‘style’ of Buenos Aires. Immigrants, if they are helped to integrate, are a blessing, a source of enrichment and new gift that encourages a society to grow”(118).

 

136. さらにもっと広範囲に及ぶスケールで、グランドイマームのアハメド・エルタエブ師と私は次のように確認しました。「東西間の良い関係は議論の余地もなく双方に必要であり、互いに無視してはいけません。実りをもたらすやりとりと対話を通して東西が互いに豊かになるからです。西側の人々は、蔓延る物質主義が原因となっている精神的および宗教的な病弊に対する治療法を東側の人々のなかに見いだすことができます。また、東側の人々は、弱さ、分断、争い、そして科学的、技術的、文化的な衰退から抜け出る助けとなる様々な要素を西側に見いだすことができます。

 東側の人々の特徴、文化、文明を形成する重要な構成要素である、宗教的、文化的、歴史的な相違点に注目することは重要です。同様に東西のすべての男女に対して尊厳ある生活を保障する手助けとなる基本的人権の保障を強固にすることも大切です。そのとき、ダブルスタンダードによる政治判断は避けなければなりません」(119)。

 

 On an even broader scale, Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb and I have observed that “good relations between East and West are indisputably necessary for both. They must not be neglected, so that each can be enriched by the other’s culture through fruitful exchange and dialogue. The West can discover in the East remedies for those spiritual and religious maladies that are caused by a prevailing materialism. And the East can find in the West many elements that can help free it from weakness, division, conflict and scientific, technical and cultural decline. It is important to pay attention to religious, cultural and historical differences that are a vital component in shaping the character, culture and civilization of the East. It is likewise important to reinforce the bond of fundamental human rights in order to help ensure a dignified life for all the men and women of East and West, avoiding the politics of double standards”(119).

 

*実り多い交流 A fruitful exchange

 

137. 国家間の相互支援が、双方に豊かさをもたらすことが証明されています。自分たちに固有の文化的土台にしっかりと根ざして前進する国は、全人類にとっての宝です。今日、私たち皆が助かるか、あるいは誰も助からないか、のどちらかである、という自覚を高める必要があります。地球の一部に存在する貧困、衰退、苦しみは、やがて全世界に悪影響を及ぼすことになる諸問題に対して、無言の血を流す根拠となっています。

 たとえ私たちがある特定の種類のものが消滅し、そのことで悩むにしても、貧しさや構造的な限界によって個人や人々の持つ可能性や美しさの発展が奪われる地域が世界に幾つかあるということで、もっと悩むでしょう。最終的に、そのようにして私たち皆が貧しくなってしまうのです。

 

 Mutual assistance between countries proves enriching for each. A country that moves forward while remaining solidly grounded in its original cultural substratum is a treasure for the whole of

humanity. We need to develop the awareness that nowadays we are either こうall saved together or no one is saved. Poverty, decadence and suffering in one part of the earth are a silent breeding ground for problems that will end up affecting the entire planet. If we are troubled by the extinction of certain species, we should be all the more troubled that in some parts of our world individuals or peoples are prevented from developing their potential and beauty by poverty or other structural limitations. In the end, this will impoverish us all.

 

138. このことはこれまでも常に事実でしたが、世界がグローバル化されて相互に関わり合っている今日ほど明白になったことは決してありませんでした。私たちは「連帯しつつすべての人々が発展するように国際的な協力を強め、目指すことのできる」グローバルな司法的、政治的、経済的な秩序を達成する必要があります」(120)。最終的に相互支援(国際協力)は、全世界の利益になるでしょう。なぜなら「貧しい国への発展支援」は「すべての人々に豊かさをもたらすこと」を意味するからです(121)。

 総合的発展という見地から、相互支援は、「より貧しい国民に、双方の意思決定に基づいた有効な声を届け」(122)、「貧困と開発途上という苦しみを抱える国々に、国際的なマーケットへのアクセスを容易にする」資格(地位)を「与えることが前提となります」(123)。

 

 Although this has always been true, never has it been more evident than in our own day, when the world is interconnected by globalization. We need to attain a global juridical, political and economic order “which can increase and give direction to international cooperation for the development of all peoples in solidarity”.[120] Ultimately, this will benefit the entire world, since “development aid for poor countries” implies “creating wealth for all”.[121]

 From the standpoint of integral development, this presupposes “giving poorer nations an effective voice in shared decision-making”[122] and the capacity to “facilitate access to the international market on the part of countries suffering from poverty and underdevelopment”.[123]

 

*無償で他者に解放する A gratuitousness open to others

 

139. たとえそうであっても、私はこのような提示を功利的なアプローチに限定したくはありません。すなわち、常に「無償」の要素があります。個人的な利得や報酬を気にせずに、それ自体が良いという理由だけで、何かを実行できることです。たとえ即座に目に見える利点がもたらされなくても、無償の行為は見知らぬ人を歓迎できるように導きます。科学者や投資家のみであれば、受け入れたい、と思っている国々もありますが。

 

 Even so, I do not wish to limit this presentation to a kind of utilitarian approach. There is always the factor of “gratuitousness”: the ability to do some things simply because they are good in themselves, without concern for personal gain or recompense. Gratuitousness makes it possible for us to welcome the stranger, even though this brings us no immediate tangible benefit. Some countries, though, presume to accept only scientists or investors.

 

140. 兄弟的な無償の行為がない生活は、猛烈なビジネスの形をとり、絶えず、何を与えて、何を貰うかを計算します。一方、神は不忠実な人々さえ無償で助けるほどです。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせます」(マタイ福音書5章45節)。イエスが私たちに語られたことに理由があります。「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(同6章3-4節)。私たちは無償で命を受け取りました。そのために1円たりとも払っていません。従って、私たちは誰でも何も返礼を期待せずに、良く待遇してくれることを要求せずに、他者に親切にすることができるのです。イエスが弟子に告げられたように、です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(同10章8節)。

 

 Life without fraternal gratuitousness becomes a form of frenetic commerce, in which we are constantly weighing up what we give and what we get back in return. God, on the other hand, gives freely, to the point of helping even those who are unfaithful; he “makes his sun rise on the evil and on the good” (Mt 5:45). There is a reason why Jesus told us: “When you give alms, do not let your right hand know what your left hand is doing, so that your alms may be in secret” (Mt 6:3-4). We received life freely; we paid nothing for it. Consequently, all of us are able to give without expecting anything in return, to do good to others without demanding that they treat us well in return. As Jesus told his disciples: “Without cost you have received, without cost you are to give” (Mt 10:8).

 

141. 世界の国々がそれぞれ異なることの真の価値は、ただ単に一つの国としてだけではなく、より大きな人間家族の一部として考える、という能力によって計ることができます。特に危機にあるときはこのことがよく分かります。ナショナリズム(国家主義・民族主義)という狭義の形は、この無償の意味を把握できていない極端な表われです。ナショナリズムは、他者の破滅を無視して自分たちだけで発展できる、また、他者にドアを閉めることで、自分たちがより安全である、と考える過ちを犯します。

 移民たちは何も与えるものを持たない強奪者とみなされます。この考えは、貧しい人々は危険で役に立たない、一方、権力のある人々は寛大な恩恵を施す人々、という最も単純な信念に導きます。「無償で」他者を快く歓迎する、という社会的、政治的な文化のみが、未来を手に入れることができるでしょう。

 

 The true worth of the different countries of our world is measured by their ability to think not simply as a country but also as part of the larger human family. This is seen especially in times of crisis. Narrow forms of nationalism are an extreme expression of an inability to grasp the meaning of this gratuitousness. They err in thinking that they can develop on their own, heedless of the ruin of others, that by closing their doors to others they will be better protected.

 Immigrants are seen as usurpers who have nothing to offer. This leads to the simplistic belief that the poor are dangerous and useless, while the powerful are generous benefactors. Only a social and political culture that readily and “gratuitously” welcomes others will have a future.

 

*地域と普遍  LOCAL AND UNIVERSAL

 

142. 私たちが頭に入れておくべきことは、次のことですー「グローバル化とローカル化の間には、本質的な緊張が存在する。狭量で陳腐な考えを避けるために”グローバル”に注意を払う必要があるが、”ローカル”にも目を向ける必要があるーそうすることが、私たちの足を地に着いたものにするからだ。この二つが、人々は抽象的な概念、”グローバル化された世界”に巻き込まれる、あるいは、世界と離れ、目新しいものに挑まれることも、神が境界に置かれた素晴らしいものを正当に評価することもできず、同じことの繰り返しを運命づけられた”地域の民族伝承館”に入り込む、という、グローバル、ローカルの両極端に落ち込むのを防いでくれる」(124)。

 狭量な地域愛から私たちを救い出す、グローバルな視野を持つ必要があります。私たちの家が、家庭であることをやめ、壁で囲まれた場所、”刑務所の監房”になろうとする時、”グローバル”が、私たちを救けに来ますー私たちを実践にひきつける”final cause(目的因=アリストテレスの説く、事物が生成するための四原因のひとつ。例えば、家に対しては、家としての役割・働きがこれにあたる=三省堂刊大辞林)”のように。しかし同時に、”ローカル”も喜んで受け入れねばなりません。”グローバル”が持っていないもの持っているからです。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができます。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たします。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことでしょう。

 

 It should be kept in mind that “an innate tension exists between globalization and localization. We need to pay attention to the global so as to avoid narrowness and banality. Yet we also need to look to the local, which keeps our feet on the ground. Together, the two prevent us from falling into one of two extremes. In the first, people get caught up in an abstract, globalized universe… In the other, they turn into a museum of local folklore, a world apart, doomed to doing the same things over and over, incapable of being challenged by novelty or appreciating the beauty which God bestows beyond their borders”.[124]

 We need to have a global outlook to save ourselves from petty provincialism. When our house stops being a home and starts to become an enclosure, a cell, then the global comes to our rescue, like a “final cause” that draws us towards our fulfilment. At the same time, though, the local has to be eagerly embraced, for it possesses something that the global does not: it is capable of being a leaven, of bringing enrichment, of sparking mechanisms of subsidiarity. Universal fraternity and social friendship are thus two inseparable and equally vital poles in every society. To separate them would be to disfigure each and to create a dangerous polarization.

 

*ローカルの香り Local flavour

 

143. その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではありません。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ません。堅固な基盤の上に立っていなければ、私は他の人々と真の出会いをすることができない―なぜなら、私が贈り物を受け取とった相手に、自分自身の本物の贈り物を返すことができるのは、そうした基盤の上に立っているからです。異なる人々を喜んで受け入れ、彼らがするに違いない素晴らしい貢献の価値を認めることができるのは、私が自分自身の仲間と文化にしっかりと根を下ろしている場合に限られます。

 誰もが、彼の、あるいは彼女の郷土と村を愛し、大切にすることは、ちょうど、彼らが家庭を愛し、大切にし、個人的に家庭を維持する責任をもつこと同じです。それと同じように、共通善は、私たちが郷土を守り、愛することを求めています。そうしなければ、ある国の災害が、最終的にこの地球全体に悪影響を及ぼすことになってしまいます。これらすべてのことは、所有物に対する権利について肯定的な意味をもたらしますーすべての善に貢献できるようなやり方で、私は自分の持っているものを大切にし、育てるのです。

 

 The solution is not an openness that spurns its own richness. Just as there can be no dialogue with “others” without a sense of our own identity, so there can be no openness between peoples except on the basis of love for one’s own land, one’s own people, one’s own cultural roots. I cannot truly encounter another unless I stand on firm foundations, for it is on the basis of these that I can accept the gift the other brings and in turn offer an authentic gift of my own. I can welcome others who are different, and value the unique contribution they have to make, only if I am firmly rooted in my own people and culture.

 Everyone loves and cares for his or her native land and village, just as they love and care for their home and are personally responsible for its upkeep. The common good likewise requires that we protect and love our native land. Otherwise, the consequences of a disaster in one country will end up affecting the entire planet. All this brings out the positive meaning of the right to property: I care for and cultivate something that I possess, in such a way that it can contribute to the good of all.

 

144. それはまた、健康的で豊か交流を生みます。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれます。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しません。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからです。それが、昔からあるバベルの塔の物語で言及されている誘惑ですー天まで届く塔を建てる試みは、さまざまな土地から来た多様な人々の団結の表明ではありませんでした。そうではなく、諸民族のために作られた、神の意図された計画とは別の単一なものを作り上げようとする、高慢と野心から生まれた誤った試みだったのです(創世記11章1-9節参照)。

 

 It also gives rise to healthy and enriching exchanges. The experience of being raised in a particular place and sharing in a particular culture gives us insight into aspects of reality that others cannot so easily perceive. Universal does not necessarily mean bland, uniform and standardized, based on a single prevailing cultural model, for this will ultimately lead to the loss of a rich palette of shades and colours, and result in utter monotony. Such was the temptation referred to in the ancient account of the Tower of Babel. The attempt to build a tower that would reach to heaven was not an expression of unity between various peoples speaking to one another from their diversity. Instead, it was a misguided attempt, born of pride and ambition, to create a unity other than that willed by God in his providential plan for the nations (cf. Gen 11:1-9).

 

145. 偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性があります-それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因します。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばなりません。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、です。

 私たちは、神からの贈り物である自分の故郷の肥沃な土地と歴史に、もっと深く根を張る必要があります。私たちは、近隣で、小規模であっても、大きな視野をもって働けます… 全世界が息苦しい思いをする必要はないし、特定の地域が不毛だと証明することもありません」(125)。私たちの手本は、多面体のようなものであるべきですー個人それぞれの価値がたいせつにされ、そこでは「全体は部分よりも大きいが、それは各部分の総体よりもさらに大きい」(126)からです。

 

 There can be a false openness to the universal, born of the shallowness of those lacking insight into the genius of their native land or harboring unresolved resentment towards their own people. Whatever the case, “we constantly have to broaden our horizons and see the greater good which will benefit us all. But this has to be done without evasion or uprooting. We need to sink our roots deeper into the fertile soil and history of our native place, which is a gift of God. We can work on a small scale, in our own neighborhood, but with a larger perspective… The global need not stifle, nor the particular prove barren”;[125] our model must be that of a polyhedron, in which the value of each individual is respected, where “the whole is greater than the part, but it is also greater than the sum of its parts”.[126]

 

*普遍的な視野  A universal horizon

 

146. 自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルな(地域的)」ナルシズム(自己陶酔)があります。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれます。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全に「ローカル」であることは不可能です。 

 一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心します。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになります。このようにローカルなレベルの生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなります。このようにして地域発展の可能性は狭められ、地域は退屈し、脆弱になります。一方、健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的です。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えません」(127)。

 

  There is a kind of “local” narcissism unrelated to a healthy love of one’s own people and culture. It is born of a certain insecurity and fear of the other that leads to rejection and the desire to erect walls for self-defence. Yet it is impossible to be “local” in a healthy way without being sincerely open to the universal, without feeling challenged by what is happening in other places, without openness to enrichment by other cultures, and without solidarity and concern for the tragedies affecting other peoples.

   A “local narcissism” instead frets over a limited number of ideas, customs and forms of security; incapable of admiring the vast potential and beauty offered by the larger world, it lacks an

authentic and generous spirit of solidarity. Life on the local level thus becomes less and less welcoming, people less open to complementarity. Its possibilities for development narrow; it grows weary and infirm. A healthy culture, on the other hand, is open and welcoming by its very nature; indeed, “a culture without universal values is not truly a culture”.[127]

 

147. 私たちの精神と心が狭くなっている時、周りの世界を理解することがより難しくなっている、ということを理解しましよう。互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身とその郷土をも明確に、且つ完全に理解することが困難になります。他の文化は、私たちが自身を守るための「敵」ではなく、人間の生活が持つ尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのです。

 私たちがもう一人の自分、つまり他者の観点で自分自身を見ると、私たちと私たちの文化がそれぞれ持つ、ユニークな特徴、つまり、豊かさ、可能性、限界がよりよく理解できます。私たちのローカルな体験は、様々な文化的環境の中で生きている人々の体験と「対照的に」、かつ「調和して」発展させる必要があります(128)。

 

  Let us realize that as our minds and hearts narrow, the less capable we become of understanding the world around us. Without encountering and relating to differences, it is hard to achieve a clear and complete understanding even of ourselves and of our native land. Other cultures are not “enemies”from which we need to protect ourselves, but differing reflections of the inexhaustible richness of human life. Seeing ourselves from the perspective of another, of one who is different, we can better recognize our own unique features and those of our culture: its richness, its ossibilities and its limitations. Our local experience needs to develop “in contrast to” and “in harmony with” the experiences of others living in diverse cultural contexts.[128]

 

 

148. 実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりしません。他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合します。輸入された要素自身が豊になり、最終的にすべての人々にとって益となる新しい統合体となります。これが、私たちが地元の人々に自身のルーツと先祖の文化を大切に育てるように、強く勧める理由です。

  同時に、「いかなる類いの混血の人々(メスティーソ)をも拒否するような、壁に囲まれた完全な閉鎖、変わらずに続いてきた歴史的な静止状態の『原住民主義』」を提案するつもりはない,と強調したいと思います。なぜなら、「私たちの文化的な独自性は、それと異なる独自性をもつ他の文化との対話によって強められ豊かになるからです。さらに、私たちの真の独自性は、不毛な孤立によって維持されることはありません」(129)。いかなる文化的な押しつけもない、開かれた文化間に生まれた統合を維持することで、世界は成長し、新しい美しさで満たされるのです。

 

  In fact, a healthy openness never threatens one’s own identity. A living culture, enriched by elements from other places, does not import a mere carbon copy of those new elements, but integrates

them in its own unique way. The result is a new synthesis that is ultimately beneficial to all, since the original culture itself ends up being nourished. That is why I have urged indigenous peoples to cherish their roots and their ancestral cultures.

     At the same time, though, I have wanted to stress that I have no intention of proposing “a completely enclosed, a-historic, static ‘indigenism’ that would reject any kind of blending (mestizaje)”. For “our own cultural identity is strengthened and enriched as a result of dialogue with those unlike ourselves. Nor is our authentic identity preserved by an impoverished isolation”.[129] The world grows and is filled with new beauty, thanks to the successive syntheses produced between cultures that are open and free of any form of cultural imposition.

 

149. 郷土への愛と、もっと大きな人類家族に属しているというしっかりした感覚の間にある健全な関係のために、「グローバルな社会とは、異なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体だ」ということを念頭に置くことが役に立ちます。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのです。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの美を発見するのです。出自が何であれ、個々人すべてが、より大きな人間家族の構成員であることを知るのです。それなしには、自分自身を十分に理解することはできないでしょう。

 

 For a healthy relationship between love of one’s native land and a sound sense of belonging to our larger human family, it is helpful to keep in mind that global society is not the sum total of different countries, but rather the communion that exists among them. The mutual sense of belonging is prior to the emergence of individual groups. Each particular group becomes part of the fabric of universal communion and there discovers its own beauty. All individuals, whatever their origin, know that they are part of the greater human family, without which they will not be able to understand themselves fully.

 

150. このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という喜ばしい認識をもたらします。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのです。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵、となるのです。なぜなら「人間は無限でありながら限界のある存在」だからです(130)。

 

 To see things in this way brings the joyful realization that no one people, culture or individual can achieve everything on its own: to attain fulfilment in life we need others. An awareness of our own limitations and incompleteness, far from being a threat, becomes the key to envisaging and pursuing a common project. For “man is a limited being who is himself limitless”.[130]

 

*自分の地域から始める Starting with our own region

 

151. 地域的な交流によって、より貧しい国々が、より広い世界に対して開放的になりますが、普遍性が彼らの独自な特徴を弱めることには、必ずしもなりません。世界に向けた適切かつ信頼できる開放性は、(地域の)国々の集団の中で隣人に開放的であることを前提とします。ですから、隣国の人々との文化的、経済的、政治的な統合は、隣人愛の価値を奨励する教育を伴う必要があります―それが、健全な普遍的統合を成し遂げるため、最初に、絶対必要なステップなのです。

 

 Thanks to regional exchanges, by which poorer countries become open to the wider world, universality does not necessarily water down their distinct features. An appropriate and authentic

openness to the world presupposes the capacity to be open to one’s neighbour within a family of nations. Cultural, economic and political integration with neighbouring peoples should therefore be accompanied by a process of education that promotes the value of love for one’s neighbour, the first indispensable step towards attaining a healthy universal integration.

 

152. 私たちの都市のいくつかの地域で、生き生きとした隣人関係が続いています。一人ひとりが、彼、あるいは彼女の隣人に寄り添い、助ける必要のあることを極めて自然に理解しています。このような共同体の価値観が保持されている所で、感謝、連帯、互恵が特徴的に見られる親密さを、人々は体験しています。隣人関係は、”shared identity(自他同一性)”の感覚を人々にもたらします(131)。同じように近隣諸国が”隣人の精神”を人々の間に奨励できるとよいのですが!

 一方で、個人主義の精神も、諸国間の関係に影響を与えます。互いに相手から自分を守るべきだ、と考えることの危険性、あるいは他者を競争相手、危険な敵と見なすことの危険性は、同じ地域の人々との関係にも、影響を与えます。おそらく私たちは、この類いの恐怖と不信の中で教育されてきたのです。

 

 In some areas of our cities, there is still a lively sense of neighbourhood. Each person quite spontaneously perceives a duty to accompany and help his or her neighbour. In places where these

community values are maintained, people experience a closeness marked by gratitude, solidarity and reciprocity. The neighbourhood gives them a sense of shared identity.[131]   Would that neighbouring countries were able to encourage a similar neighbourly spirit between their peoples!

 

Yet the spirit of individualism also affects relations between countries. The danger of thinking that we have to protect ourselves from one another, of viewing others as competitors or dangerous enemies, also affects relations between peoples in the same region. Perhaps we were trained in this kind of fear and mistrust.

 

153. このような孤立から利益を得、それぞれの国と別々に交渉することを好む、強国や大企業があります。その一方で、小さな、あるいは貧しい国々は、地域の一員として交渉することを認める隣国と協定を結ぶことで、分断され、孤立し、大国に依存せねばならなくなる事態を避けることが可能です。今日、孤立したままでは、どの国も人々の共通善を確保することはできません。

 

 There are powerful countries and large businesses that profit from this isolation and prefer to negotiate with each country separately. On the other hand, small or poor countries can sign agreements with their regional neighbours that will allow them to negotiate as a bloc and thus avoid being cut off, isolated and dependent on the great powers. Today, no state can ensure the common good of its population if it remains isolated.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五章 より良い政治 A BETTER KIND OF POLITICS

 154. 諸国民と諸国家による社会的友愛の実践を基礎に置いた兄弟愛の世界的な共同体社会の発展には、よいよい政治、真に共通善に奉仕する政治が必要とされます。残念なことに、今日の政治はしばしば、今とは違う世界に向けた進歩を妨げる形をとっています。

 

 The development of a global community of fraternity based on the practice of social friendship on the part of peoples and nations calls for a better kind of politics, one truly at the service of the common good. Sadly, politics today often takes forms that hinder progress towards a different world.

 

*”ポピュリズム”と”リベラリズム”の形 FORMS OF POPULISM AND LIBERALISM

 

155. 弱者への思いやりの欠如は、それ自体の目的のために彼らを煽り立て、搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に役立つ「自由主義」の背後に隠れることがあります。どちらの場合も、最も弱い人々を含む、すべての人のための場を作り、異なる文化を尊重する開かれた世界を心に描くことを難しくします。

 

 Lack of concern for the vulnerable can hide behind a populism that exploits them demagogically for its own purposes, or a liberalism that serves the economic interests of the powerful. In both cases, it becomes difficult to envisage an open world that makes room for everyone, including the most vulnerable, and shows respect for different cultures.

 

*”ポピュラー”対”ポピュリスト”” Popular vs. populist

 

156. 近年、「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉が、メディアや日常会話によく使われるようになっています。その結果、そうした言葉が持っていたかもしれない価値を失い、すでに分裂した社会で二極化のもう一つの原因になっています。国民、集団、社会、政府の全体を「ポピュリスト」かそうでないか、に分類する努力がされています。今日では、どちらかに分類されずに、いかなる課題についても見解―それが、不当に評判を落とすか、絶賛されるか、いずれかにしてもーを述べることができなくなっています。

 

  In recent years, the words “populism” and “populist” have invaded the communications media and everyday conversation. As a result, they have lost whatever value they might have had, and have become another source of polarization in an already divided society. Efforts are made to classify entire peoples, groups, societies and governments as “populist” or not. Nowadays it has become impossible for someone to express a view on any subject without being categorized one way or the other, either to be unfairly discredited or to be praised to the skies.

 

 

  1.  ”ポピュリズム”を「社会的現実を解釈するための鍵」と見なそうとする試みは、別の方法で問題があります―「人々」という言葉の正当な意味を無視するからです。この意味を一般的な用語から取り除く努力は、「人民による政治」という民主主義の概念そのものの排除につながる可能性があります。社会が「単なる個人の集合体ではないこと」を私たちが堅持したいのであれば、「人々」という言葉が必要です。多数派を生み出す社会的な現象だけでなく、時代の大きな流れや共同体主義への強い願望もあります。

 男性と女性は、違いを超越する共通の目標を考え出すことができ、共に努力することができます。だが、それが「共有された願望」にならないなら、長期的な計画を実行するのは、とても難しい。こうした要因のすべては、「人々」と「人気」という言葉の使われ方の背後にあります。それらが考慮されない限り、”煽動”への健全な批判とともに、社会的現実の基本的な側面が見過ごされることになるでしょう。

 

 The attempt to see populism as a key for interpreting social reality is problematic in another way: it disregards the legitimate meaning of the word “people”. Any effort to remove this concept from common parlance could lead to the elimination of the very notion of democracy as “government by the people”. If we wish to maintain that society is more than a mere aggregate of individuals, the term “people” proves necessary. There are social phenomena that create majorities, as well as megatrends and communitarian aspirations.

 Men and women are capable of coming up with shared goals that transcend their differences and can thus engage in a common endeavour. Then too, it is extremely difficult to carry out a long-term project unless it becomes a collective aspiration. All these factors lie behind our use of the words “people” and “popular”. Unless they are taken into account – together with a sound critique of demagoguery – a fundamental aspect of social reality would be overlooked.

 

158. ここで、誤解が生じる可能性があります。 「『人々』は論理的な分類ではなく、神秘的な分類でもないー仮に、このことで、人々が行うすべてのことが善であり、あるいは人々が『天使のような』実在あることを意味するのであれば、である。それよりも、神話に分類されるべきだろう… 『人々』が何を意味するか説明せねばならない時、あなたは説明のために論理的な分類を使います。必然的にそうなる。だが、そのようなやり方で、『人々』に属することの意味を説明することはできない。『人々』は、純粋に論理的な言葉で説明できない、もっと深い意味を持っている。『 人々』の一員になることは、社会的、文化的絆から生まれる共有のアイデンティティーの一部となることだ。 それは自動的に得られるものではなく、かなりゆっくりと、困難な経路をたどり… 共通の計画に向けて進むもの」[132]だからです。

 

 Here, there can be a misunderstanding. “‘People’ is not a logical category, nor is it a mystical category, if by that we mean that everything the people does is good, or that the people is an ‘angelic’ reality. Rather, it is a mythic category… When you have to explain what you mean by people, you use logical categories for the sake of explanation, and necessarily so. Yet in that way you cannot explain what it means to belong to a people. The word ‘people’ has a deeper meaning that cannot be set forth in purely logical terms. To be part of a people is to be part of a shared identity arising from social and cultural bonds. And that is not something automatic, but rather a slow, difficult process… of advancing towards a common project”.[132]

 

 

159. ”人気”のあるリーダーたち、人々の感情や文化的な活動、そして社会の重要な流れを読み取ることのできるリーダーたちは、確かに存在します。彼らが一致して主導する努力によって提供するサービスは、変革と成長の永続的なビジョンの基礎となります―それは、共通善を追求する中で、他の人々のための場を作ることも含むでしょう。

 しかし、どのようなお題目を立てようと、個々人が、個人的な利益を得る、あるいは権力支配を続けるために、人々の文化を政治的に不当に利用できるようになれば、不健全な”ポピュリズム”に堕落することが、在り得ます。あるいは、他の場合、人々のうち特定の分野の人が持つ最も卑しく、最も利己的な性向に訴えることで人気を得ようとする場合も、そうです。このことは、粗雑なやり方だろうと、もっと狡猾なやり方だろうと、制度と法の乱用に繋がる場合、一段と深刻なものになります。

 

 “Popular” leaders, those capable of interpreting the feelings and cultural dynamics of a people, and significant trends in society, do exist. The service they provide by their efforts to unite and lead can become the basis of an enduring vision of transformation and growth that would also include making room for others in the pursuit of the common good. But this can degenerate into an unhealthy “populism” when individuals are able to exploit politically a people’s culture, under whatever ideological banner, for their own personal advantage or continuing grip on power. Or when, at other times, they seek popularity by appealing to the basest and most selfish inclinations of certain sectors of the population. This becomes all the more serious when, whether in cruder or more subtle forms, it leads to the usurpation of institutions and laws.

 

160.  閉鎖的なポピュリストの集団は、「人々」という言葉を歪めています。彼らが「本当の人々」について話していないからです。 「人々」の概念には、実際に制限がありません。 生き生きと活動的な人々、未来のある人々は、違いを歓迎する能力を通じて、常に新しい統合を受け入れます。 人々は、適切な独自性を否定されることはありませんが、他者によって動員され、挑戦され、拡大され、そして豊かにされ、そうすることでさらに成長し、発展いくことに開かれています。

 

 Closed populist groups distort the word “people”, since they are not talking about a true people. The concept of “people” is in fact open-ended. A living and dynamic people, a people with a future, is one constantly open to a new synthesis through its ability to welcome differences. In this way, it does not deny its proper identity, but is open to being mobilized, challenged, broadened and enriched by others, and thus to further growth and development.

 

  1. 人気”のあるリーダーシップの衰退のもう一つの兆候は、目先の利益への気遣いです。選挙票や支持を得るために、多くの人の要求に応えますが、人々が開発を必要とする資源を生み出し、自分自身の努力と創造性によって生計を立てる根気のいる不断の努力がなされません。この点で、私は「無責任なポピュリズムを提案するつもりはない」ことを明確にしています(133)。不平等をなくすには、それぞれの地域の潜在性を引き出し、持続可能な平等を保証するのを助けることのできる経済成長が必要です(134)。同時に、「福祉事業ー特定の緊急の要請に応えるものーは、単に一時的な対応と見なされるべきだ」ということになります(135)。

 

 Another sign of the decline of popular leadership is concern for short-term advantage. One meets popular demands for the sake of gaining votes or support, but without advancing in an arduous and constant effort to generate the resources people need to develop and earn a living by their own efforts and creativity. In this regard, I have made it clear that “I have no intention of proposing an irresponsible populism”.[133] Eliminating inequality requires an economic growth that can help to tap each region’s potential and thus guarantee a sustainable equality.[134] At the same time, it follows that “welfare projects, which meet certain urgent needs, should be considered merely temporary responses”.[135]

 

162. 最大の問題は雇用です。真に”人気”があるのはー人々の善を促進するためにー神が私たち一人一人に植えられた種、つまり私たちの才能、進取の精神、そして私たちの生来の才覚を育てる機会を、すべての人に提供することです。これは私たちが貧しい人々にできる最高の助けであり、尊厳ある人生への最良の道です。ですから、私が主張しているのは、「差し迫った必要がある場合に貧しい人々を経済的に助けることは、常に暫定的な対応策でなければならない。より幅広く目指すべきは、常に人々が仕事を通して尊厳のある生き方ができるようにする」(136)ことです。

 生産システムは変わり得るので、政治システムが、彼、彼女が自分の才能と努力を生かせる機会を手にするような社会を構築するために、働き続けねばなりません。 「仕事と仕事の尊厳を奪うことよりも悪い貧困はない」(137)からです。真に発展した社会では、仕事は社会生活の不可欠な要素です。それは、仕事は毎日のパンを稼ぐ手段であるだけでなく、個人の成長、健全な関係の構築、自己表現、贈り物を交換する手段でもあるからです。仕事は、私たちに世界の発展、そして最終的には人としての私たちの人生に対する共通の責任感を与えてくれます。

 

 The biggest issue is employment. The truly “popular” thing – since it promotes the good of the people – is to provide everyone with the opportunity to nurture the seeds that God has planted in each of us: our talents, our initiative and our innate resources. This is the finest help we can give to the poor, the best path to a life of dignity. Hence my insistence that, “helping the poor financially must always be a provisional solution in the face of pressing needs. The broader objective should always be to allow them a dignified life through work”.[136]

 Since production systems may change, political systems must keep working to structure society in such a way that everyone has a chance to contribute his or her own talents and efforts. For “there is no poverty worse than that which takes away work and the dignity of work”.[137] In a genuinely developed society, work is an essential dimension of social life, for it is not only a means of earning one’s daily bread, but also of personal growth, the building of healthy relationships, self-expression and the exchange of gifts. Work gives us a sense of shared responsibility for the development of the world, and ultimately, for our life as a people.

 

*既存の概念から自由なアプローチの利点と限界 The benefits and limits of liberal approaches

 

163. コミュニティと文化的絆の前向きな見方を必然的に伴う「人々」の概念は、通常、社会を単に「共存する利益の総和」と見なす個人主義的なリベラリズムのアプローチによって拒否されます。 ある人は自由の尊重について話しますが、共有された物語に根を持ちません。 特定の状況では、社会の最も脆弱な構成員の権利を擁護する人々は、「ポピュリスト」として批判される傾向があります。「 人々」という概念は、抽象的な複合概念、実際には存在しないもの、と考えられています。 しかし、これは不必要な二項対立を作ります。 「人々」の概念も「隣人」の概念も、社会組織、科学や市民の機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような仕方で、純粋に抽象的な、あるいはロマンチックなもの、と見なすことはできません(138)。

 

 The concept of a “people”, which naturally entails a positive view of community and cultural bonds, is usually rejected by individualistic liberal approaches, which view society as merely the sum of coexisting interests. One speaks of respect for freedom, but without roots in a shared narrative; in certain contexts, those who defend the rights of the most vulnerable members of society tend to be criticized as populists. The notion of a people is considered an abstract construct, something that does not really exist. But this is to create a needless dichotomy. Neither the notion of “people” nor that of “neighbour” can be considered purely abstract or romantic, in such a way that social organization, science and civic institutions can be rejected or treated with contempt.[138]

 

164. 一方、慈善活動は、抽象的側面と制度的側面の両方を持っていますー制度、法律、技術、経験、専門知識、科学的分析、行政手続きなど、すべてを包含する歴史的変遷の効果的なプロセスを必要とするからです。 さらに言えば、「私的生活は、公的な秩序によって守られない限り存在できない。 家の炉端は、法律によって、法律に基づく安全な状態によって、守られない限り、本当の暖さがない。守られることで、分業、商取引、社会正義、および政治的市民権によって保証される最小限の幸福を享受する」(139)ことができるのです。

 

 Charity, on the other hand, unites both dimensions – the abstract and the institutional – since it calls for an effective process of historical change that embraces everything: institutions, law, technology, experience, professional expertise, scientific analysis, administrative procedures, and so forth. For that matter, “private life cannot exist unless it is protected by public order. A domestic hearth has no real warmth unless it is safeguarded by law, by a state of tranquility founded on law, and enjoys a minimum of wellbeing ensured by the division of labor, commercial exchange, social justice and political citizenship”.[139]

 

165. 真の慈善活動は、これらすべての要素を他者への関心に組み込むことができます。遠く離れた、あるいは忘れ去られた兄弟姉妹を含めた、個人的な出会いにおいて、そうしたことは、ー「組織化され、自由で創造的な社会の諸団体が生み出すことのできる資源」をすべて利用することで可能です。たとえば、善きサマリア人でさえ、(注:自分が助けた人に)彼個人ではできないような助けができる近くの宿が必要でした。隣人への愛は具体的であり、「貧しい人々や不利な立場にある人々に利益をもたらす可能性のある歴史的な変化」に必要な資源を、無駄使いすることはありません。

 時には、個人主義的な行動様式や効果のない手順に結び付いた左翼主義者のイデオロギーや社会原理が、ほんの少しだけ、人々に影響を与えます。大部分の人は、他の人の善意に依存し続けます。このことは、より大きな友愛精神の必要だけでなく、貧しい国で苦しみ、死に瀕している”捨てられた人々”を悩ませている問題の解決を助ける、より効率的な世界的な組織の必要性を明確に示しています。また、すべてに無差別に適用できるような、一つの解決策、単一の受け入れ可能な方法論、経済的な対策が無い、ということも示しています。最も綿密な科学研究でさえ、さまざまな行動方針を提案しないとも限らないのです。

 True charity is capable of incorporating all these elements in its concern for others. In the case of personal encounters, including those involving a distant or forgotten brother or sister, it can do so by employing all the resources that the institutions of an organized, free and creative society are capable of generating. Even the Good Samaritan, for example, needed to have a nearby inn that could provide the help that he was personally unable to offer. Love of neighbour is concrete and squanders none of the resources needed to bring about historical change that can benefit the poor and disadvantaged.

 At times, however, leftist ideologies or social doctrines linked to individualistic ways of acting and ineffective procedures affect only a few, while the majority of those left behind remain dependent on the goodwill of others. This demonstrates the need for a greater spirit of fraternity, but also a more efficient worldwide organization to help resolve the problems plaguing the abandoned who are suffering and dying in poor countries. It also shows that there is no one solution, no single acceptable methodology, no economic recipe that can be applied indiscriminately to all. Even the most rigorous scientific studies can propose different courses of action.

 

166. したがって、すべては、心、態度、生活様式の変化の必要性を理解する、私たちの能力に依存しています。そうでなければ、政治宣伝、メディア、世論形成者は、個人主義的で批判精神に乏しい文化―すでに過剰な権力を享受している人々に奉仕する無秩序な経済的利益や社会制度に利するような文化―を促進し続けることになるでしょう。

 私の専門技術者的なものの見方に対する批判は、「行き過ぎをコントロールすれば、うまくいくだろう」と単純に考える以上のものを含みます。より大きなリスクは、特定の対象、物質的な現実あるいは制度そのものからではなく、それらの使われ方から生じます。それは人間の弱さ―キリスト教の伝統が「concupiscence(貪欲)」と呼ぶものの一部である利己主義の性癖、自分自身、自分の集団、自分自身のささいな興味だけに関心を持つ人間の性癖と関係があります。

 貪欲は、私たちが生きている今に限られた欠陥ではなく、人類の初めから存在し、歴史のそれぞれの時に、使える手段なら何でも使って、これまでずっと様々な形に変化し、続いてきました。しかし、貪欲は、神の助けを借りて克服することがでるのです。

 

 Everything, then, depends on our ability to see the need for a change of heart, attitudes and lifestyles. Otherwise, political propaganda, the media and the shapers of public opinion will continue to promote an individualistic and uncritical culture subservient to unregulated economic interests and societal institutions at the service of those who already enjoy too much power.

 My criticism of the technocratic paradigm involves more than simply thinking that if we control its excesses everything will be fine. The bigger risk does not come from specific objects, material realities or institutions, but from the way that they are used. It has to do with human weakness, the proclivity to selfishness that is part of what the Christian tradition refers to as “concupiscence”: the human inclination to be concerned only with myself, my group, my own petty interests.

 Concupiscence is not a flaw limited to our own day. It has been present from the beginning of humanity, and has simply changed and taken on different forms down the ages, using whatever means each moment of history can provide. Concupiscence, however, can be overcome with the help of God.

167. 教育としつけ、他者への配慮、人生と精神的成長の十分に一体化したものの見方。これらはすべて、質の高い人間関係のために、経済、技術、政治、メディアの不正、常軌を逸した対応、権力の乱用に、社会そのものが対応できるようにするために、欠かせません。いくつかの自由主義的な対応は、人間の弱さのそうした要素を無視し、決まった秩序に従って、それ自体で明るい未来を保証でき、あらゆる問題の解決策を提供することができる、という世界を心に描きます。

 

 Education and upbringing, concern for others, a well-integrated view of life and spiritual growth: all these are essential for quality human relationships and for enabling society itself to react against injustices, aberrations and abuses of economic, technological, political and media power. Some liberal approaches ignore this factor of human weakness; they envisage a world that follows a determined order and is capable by itself of ensuring a bright future and providing solutions for every problem.

 

168. 市場は、それ自身ですべての問題を解決することはできませんが、それでも、私たちは、この”新自由主義(注:個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきとする考え方)信仰”の教義を信じるように求められています。

 課題が何であれ、この不毛で繰り返しなされる”流派”は、常に同じ”調理法”を提示します。”新自由主義”は、社会問題の唯一の解決策として、名前を使わずに、「溢出」あるいは「漏出」の魔法の理論に頼ることで、それ自体を単純に再現します。主張されている「溢出」が、社会構造を脅かす新たな形の暴力を引き起こす不平等を解決しない、という事実への正当な評価が少しもありません。

 強く求められているのは、「生産的な多様性とビジネスの創造性を優先する経済の促進」(140)に向けた積極的な経済政策をとること、雇用を作り出し、減らさないことを可能にすること、です。手早く利益を上げることを目的とした金融投機が、大きな混乱を引き起こし続けています。実際、「連帯と相互信頼が市場関係者の間になければ、市場は適切な経済的機能を完全に果たすことはできない。そして今日、この信頼は存在しなくなっている」(141)のです。

 物語は、それが意図された方法を終えておらず、「主流となっている経済理論の独断的な公式は完全無欠ではない」ことが証明されました。新型コロナウイルスの大感染に直面した世界システムの脆弱性は、「市場の自由によってすべてが解決できるわけではない」ことを実証しています。また、金融の指示に従わない健全な政治生活を取り戻すことに加えて、「私たちは人間の尊厳を再び中心に置き、その柱の上に、私たちが必要とする社会構造を構築しなければならない」ことも明らかにしています(142)。

 

 The marketplace, by itself, cannot resolve every problem, however much we are asked to believe this dogma of neoliberal faith. Whatever the challenge, this impoverished and repetitive school of thought always offers the same recipes. Neoliberalism simply reproduces itself by resorting to the magic theories of “spillover” or “trickle” – without using the name – as the only solution to societal problems. There is little appreciation of the fact that the alleged “spillover” does not resolve the inequality that gives rise to new forms of violence threatening the fabric of society.

 It is imperative to have a proactive economic policy directed at “promoting an economy that favours productive diversity and business creativity”[140] and makes it possible for jobs to be created and not cut. Financial speculation fundamentally aimed at quick profit continues to wreak havoc. Indeed, “without internal forms of solidarity and mutual trust, the market cannot completely fulfil its proper economic function. And today this trust has ceased to exist”.[141]

 The story did not end the way it was meant to, and the dogmatic formulae of prevailing economic theory proved not to be infallible. The fragility of world systems in the face of the pandemic has demonstrated that not everything can be resolved by market freedom. It has also shown that, in addition to recovering a sound political life that is not subject to the dictates of finance, “we must put human dignity back at the centre and on that pillar build the alternative social structures we need”.[142]

 

  1.  たとえば、一部の閉鎖的で単色の経済的な対応では、大衆運動ー失業者、臨時・非公式雇用の労働者、そして既存の構造で働く場所を簡単に見つけることができない他の多くの労働者を団結させる運動ーの場が不在のように思われますが、このような運動は、さまざまな形態の大衆経済と共同体生産を巧みに扱います。必要なのは、社会的、政治的、経済的な参加のモデル―大衆運動を含めることができ、共通の運命の構築において排除されたものを包含することから生じる、道徳的なエネルギーの本流をもって、地方、国内、および国際的な統治構造を活気づけることができるモデル―です。そして「この惑星の下層土から成長する連帯の経験は、一緒になり、調整され、互いに出会い続けられる」ことを保証します(143)。

 しかし、これは、「変化の種を蒔く人、何百万もの行動を伴うプロセスの促進者、大きい者、小さい者、詩の言葉のように創造的に編み合わされた者」として行動する、彼らの独特のやり方を裏切らない方法でされる必要があります。その意味で、このような運動は、独自の方法で活動し、提案し、促進し、発散する、”社会詩人”です。

 社会政策は「”貧しい人々のため”の政策だが、””貧しい人々共に”や”貧しい人々の”では決してなく、人々を再結集させるプロジェクトの一部でもないという考え」(145)を超えた、欠ける所のない人間開発を可能にするのに役立ちます。それは煩わしいことかもしれませんし、特定の”理論家たち”は、分類するのが難しいと感じるかもしれませんが、それでも私たちは、知る勇気を持たねばなりません―それなしには、「民主主義は単なる言葉、形式になってしまう。代表的な性格を失い、実体を無くしてしまう。なぜなら、未来を作る中で、尊厳を求める日々の戦いの中に人々を置き去りにしてしまうから」(146)です。

 

 In some closed and monochrome economic approaches, for example, there seems to be no place for popular movements that unite the unemployed, temporary and informal workers and many others who do not easily find a place in existing structures. Yet those movements manage various forms of popular economy and of community production. What is needed is a model of social, political and economic participation “that can include popular movements and invigorate local, national and international governing structures with that torrent of moral energy that springs from including the excluded in the building of a common destiny”, while also ensuring that “these experiences of solidarity which grow up from below, from the subsoil of the planet – can come together, be more coordinated, keep on meeting one another”.[143]

 This, however, must happen in a way that will not betray their distinctive way of acting as “sowers of change, promoters of a process involving millions of actions, great and small, creatively intertwined like words in a poem”.[144] In that sense, such movements are “social poets” that, in their own way, work, propose, promote and liberate. They help make possible an integral human development that goes beyond “the idea of social policies being a policy for the poor, but never with the poor and never of the poor, much less part of a project that reunites peoples”.[145] They may be troublesome, and certain “theorists” may find it hard to classify them, yet we must find the courage to acknowledge that, without them, “democracy atrophies, turns into a mere word, a formality; it loses its representative character and becomes disembodied, since it leaves out the people in their daily struggle for dignity, in the building of their future”.[146]

 

*国際的な力 INTERNATIONAL POWER

 

170. 「2007年から2008年にかけての国際金融危機は、新しい経済―倫理的原則にもっと注意を払う経済―と、投機的な金融慣行と仮想的な財力に対する新たな規制の方法を開発する機会を提供した。だが、この危機への対応には、世界を支配し続けている時代遅れの基準を見直することは含まれていなかった」(147)。たしかに、この危機をきっかけに世界中で実際に開発された戦略は、いつも危機を無傷で逃れる方法を見つける真に力のある人々のために、以前よりもっと強烈な個人主義、もっと少ない協調、そしてもっと大きな自由を、助長したように思われます。

 

 I would once more observe that “the financial crisis of 2007-08 provided an opportunity to develop a new economy, more attentive to ethical principles, and new ways of regulating speculative financial practices and virtual wealth. But the response to the crisis did not include rethinking the outdated criteria which continue to rule the world”.[147] Indeed, it appears that the actual strategies developed worldwide in the wake of the crisis fostered greater individualism, less integration and increased freedom for the truly powerful, who always find a way to escape unscathed.

 

171. 私はまた、このように主張したいと思いますー「『各人に各人のものを』という古典的な『正義』の定義は、いかなる個人あるいは集団も、自分を、他の個人や社会的集団の尊厳と権利を凌駕する資格を与えられている『絶対的な存在』と見なすことができない、ということを意味する。複数の主体間での力(特に政治的、経済的、防衛関連、そして技術的な力)の効果的な分配、そして、主張と利益の調整のための司法制度の創設は、力を制限するひとつの具体的な方法だ。だが、それでもなお、今日の世界は、多くの誤った権利を、同時に、脆弱な幅広い領域、酷く使われた力による犠牲者たちを、私たちに見せている」(148)ということを。

 

 I would also insist that “to give to each his own – to cite the classic definition of justice – means that no human individual or group can consider itself absolute, entitled to bypass the dignity and the rights of other individuals or their social groupings. The effective distribution of power (especially political, economic, defence-related and technological power) among a plurality of subjects, and the creation of a juridical system for regulating claims and interests, are one concrete way of limiting power. Yet today’s world presents us with many false rights and – at the same time – broad sectors which are vulnerable, victims of power badly exercised”.[148]

 

 

172. 21世紀は、「国民国家の弱体化を目の当たりにしています。なぜなら、国境を超えた経済、金融の活動分野が、政治よりも優先する傾向になっているからです。このような状況を考えれば、各国政府間の合意で公正に任命され、制裁を課す権限を与えられた責任者を置く、強力で効率的に組織された国際機関を立案することが、どうしても必要です。

 法律によって規制された何らかの形の世界的権威を持つ機関の可能性(150)について話す場合、必ずしも個人的な権威について考える必要はありません。それでも、そうした権威は、少なくとも、世界的な共通善を提供する力、飢餓と貧困をなくし、基本的人権をしっかりと守る力を備えた、効果的な世界的組織を推進すべきです。

 

 The twenty-first century “is witnessing a weakening of the power of nation states, chiefly because the economic and financial sectors, being transnational, tend to prevail over the political. Given this situation, it is essential to devise stronger and more efficiently organized international institutions, with functionaries who are appointed fairly by agreement among national governments, and empowered to impose sanctions”.[149] When we talk about the possibility of some form of world authority regulated by law,[150] we need not necessarily think of a personal authority. Still, such an authority ought at least to promote more effective world organizations, equipped with the power to provide for the global common good, the elimination of hunger and poverty and the sure defense of fundamental human rights.

 

173. この点で、私はまた、国連、そして経済関係機関と国際金融制度の改革の必要性を指摘したいと思います。これらの改革によって、「国家の家族についての概念は、本当の効力を持つ」(151)のです。言うまでもなく、これには、少数の国だけが権力を握るのを避け、イデオロギーの違いによる文化的押し付けや弱い国の基本的自由の制限を防ぐために、明確な法規制が求められます。それは、「この国際共同体は、加盟各国の主権に基づいた法的な共同体であり、その独立を否定または制限するような拘束を受けない」(152)からです。

 同時に「国連の基本綱領の序文と最初の条項に定められた原則よれば、国連の活動は、法の支配の発展と促進として見ることができる。それは、正義が、普遍的な友愛の理想を実現するための不可欠な条件だということだ… 基本的な法規範を真に構成する国連憲章が提起しているように、議論の余地のない法の支配と、交渉、調停、仲裁をひたすら頼みとする体制を確かなものとする必要」(153)があります。そして、国連が非合法化されないようにせねばなりません。その問題と欠点は、共同で対応し、解決できるからです。

 

 In this regard, I would also note the need for a reform of “the United Nations Organization, and likewise of economic institutions and international finance, so that the concept of the family of nations can acquire real teeth”.[151] Needless to say, this calls for clear legal limits to avoid power being co-opted only by a few countries and to prevent cultural impositions or a restriction of the basic freedoms of weaker nations on the basis of ideological differences. For “the international community is a juridical community founded on the sovereignty of each member state, without bonds of subordination that deny or limit its independence”.[152]

 At the same time, “the work of the United Nations, according to the principles set forth in the Preamble and the first Articles of its founding Charter, can be seen as the development and promotion of the rule of law, based on the realization that justice is an essential condition for achieving the ideal of universal fraternity… There is a need to ensure the uncontested rule of law and tireless recourse to negotiation, mediation and arbitration, as proposed by the Charter of the United Nations,which constitutes truly a fundamental juridical norm”.[153] There is need to prevent this Organization from being delegitimized, since its problems and shortcomings are capable of being jointly addressed and resolved.

 

  1. 共通の目標を進んで確立し、特定の重要な規範を世界全体で遵守するためには、勇気と寛容さが必要です。これが本当に役立つためには、「pacta sunt servanda(注:「合意は拘束する」「合意は守られなければならない」などと日本語訳されるラテン語起源の成句。主に国際法および契約法で用いられる)」(154)を堅持し、「『法の力』ではなく『力の法則』に訴えようとする誘惑」を避けるすることが不可欠」(155)です。これは、「紛争の平和的解決のための規範的手段… その範囲と拘束力の強化」(156)を強固にすることを意味します。これらの規範的手段の中で、国家間の多国間協定を優先する必要があります。なぜなら、二国間協定よりも、真に普遍的な共通善の促進と、弱い国の保護を保証するからです。

 

 Courage and generosity are needed in order freely to establish shared goals and to ensure the worldwide observance of certain essential norms. For this to be truly useful, it is essential to uphold “the need to be faithful to agreements undertaken (pacta sunt servanda)”,[154] and to avoid the “temptation to appeal to the law of force rather than to the force of law”.[155] This means reinforcing the “normative instruments for the peaceful resolution of controversies… so as to strengthen their scope and binding force”.[156] Among these normative instruments, preference should be given to multilateral agreements between states, because, more than bilateral agreements, they guarantee the promotion of a truly universal common good and the protection of weaker states.

 

175 時宜を得た形で、市民社会の多くの集団や組織は、国際社会の欠点、複雑な状況での調整の欠如、基本的人権への注意の欠如、そして特定の集団の重要な必要性を補うのに役立ちます。国の活動を統合、補完する手段として、下位レベルの共同体社会や組織の参加と活動を正当化する、補完性原理の具体的な適用を見ることができます。これらの集団や組織は、公益のために称賛に値する努力をすることが多く、その構成員たちは時には真の英雄となり、人類がまだ実現可能な多少の素晴らしい事柄を展望しています。

 

 Providentially, many groups and organizations within civil society help to compensate for the shortcomings of the international community, its lack of coordination in complex situations, its lack of attention to fundamental human rights and to the critical needs of certain groups. Here we can see a concrete application of the principle of subsidiarity, which justifies the participation and activity of communities and organizations on lower levels as a means of integrating and complementing the activity of the state. These groups and organizations often carry out commendable efforts in the service of the common good and their members at times show true heroism, revealing something of the grandeur of which our humanity is still capable.

 

*社会的および政治的慈善 SOCIAL AND POLITICAL CHARITY

 

176. 今日、多くの人々にとって「政治」は不快な言葉であり、多くの場合、一部の政治家の過ち、汚職、非効率性が原因です。政治の信用を傷つけたり、経済に置き換えたり、一つのイデオロギーあるいは他のイデオロギーに捻じ曲げたりする試みもあります。でも、私たちの世界は政治なしで機能することができるでしょうか?健全な政治活動抜きに、普遍的な友愛と社会的平和に向けた効果的な成長のプロセスが存在するでしょうか?(157)

 

 For many people today, politics is a distasteful word, often due to the mistakes, corruption and inefficiency of some politicians. There are also attempts to discredit politics, to replace it with economics or to twist it to one ideology or another. Yet can our world function without politics? Can there be an effective process of growth towards universal fraternity and social peace without a sound political life?[157]

 

*必要とされる政治 The politics we need

 

177. 私がここでもう一度、注視したいのは、「政治は経済の影響を受けてはならず、経済はテクノクラートの効率主導の規範の命ずるところを受けてはならない」(158)ということです。権力の乱用、汚職、法の無視、非効率性は、はっきりと拒絶せねばなりませんが、「政治のない経済は正当化できない。現在の危機のさまざまな側面に対処する他の方法を支持することを不可能にするから」です。

 必要なのは、「先見の明があり、危機のさまざまな側面に対処するための、新しい、統合された学際的なアプローチが可能な政治」(160)をすること。言い換えれば、「健全な政治… 制度を改革し、調整し、最善の措置を進め、過度の圧力と官僚的な慣性を克服することができる政治」(161)です。こうしたことを行うように経済に期待することも、国の真の力を引き継ぐのを経済に認めることも、私たちは当然のことと考えることはできません。

 

 Here I would once more observe that “politics must not be subject to the economy, nor should the economy be subject to the dictates of an efficiency-driven paradigm of technocracy”.[158] Although misuse of power, corruption, disregard for law and inefficiency must clearly be rejected, “economics without politics cannot be justified, since this would make it impossible to favour other ways of handling the various aspects of the present crisis”.[159] Instead, “what is needed is a politics which is far-sighted and capable of a new, integral and interdisciplinary approach to handling the different aspects of the crisis”.[160] In other words, a “healthy politics… capable of reforming and coordinating institutions, promoting best practices and overcoming undue pressure and bureaucratic inertia”.[161] We cannot expect economics to do this, nor can we allow economics to take over the real power of the state.

 

178. 目先の利益に焦点を当てた多くのささいな政治の形を前にして、私は繰り返しますー「困難な時期に、私たちが大義名分を掲げて、長期的な共通善を考えるとき、真の政治手腕ははっきりしている。政治権力は、国家建設の事業においてこの義務を担うのは容易ではない」(162)、現在そして将来、人類家族のための共通の事業計画を構築する可能性はずっと少ない。私たちの後に来る人々のことを考えることは、選挙の目的としては役立ちませんが、それでも、それは真の正義が求めるものです。ポルトガルの司教団が教えているように、地球は「各世代に貸し出され、次の世代に引き継がれる](163)のです。

 In the face of many petty forms of politics focused on immediate interests, I would repeat that “true statecraft is manifest when, in difficult times, we uphold high principles and think of the long-term common good. Political powers do not find it easy to assume this duty in the work of nation-building”,[162] much less in forging a common project for the human family, now and in the future. Thinking of those who will come after us does not serve electoral purposes, yet it is what authentic justice demands. As the Bishops of Portugal have taught, the earth “is lent to each generation, to be handed on to the generation that follows”.[163]

 

  1.  グローバル社会は、断片的な解決策や手早い修正では解決できない重大な構造的欠陥に苦しんでいます。抜本的な改革と大幅な刷新による多くの変化が必要です。この過程を監督できるのは、最も多様な分野と技術を巻き込んだ健全な政治だけです。「公共の利益に向けられた政治的、社会的、文化的、そして大衆的なプログラムの不可欠な部分」である経済は、「人間の創造性とその進歩の理想を抑圧することを伴わない、さまざまな可能性への道を開くことができるが、それよりもむしろ、新たな流れに沿ったエネルギーを指向」(164)します。

 

 Global society is suffering from grave structural deficiencies that cannot be resolved by piecemeal solutions or quick fixes. Much needs to change, through fundamental reform and major renewal. Only a healthy politics, involving the most diverse sectors and skills, is capable of overseeing this process. An economy that is an integral part of a political, social, cultural and popular programme directed to the common good could pave the way for “different possibilities which do not involve stifling human creativity and its ideals of progress, but rather directing that energy along new channels”.[164]

 

*政治的な愛 Political love

 

180. 「すべての人が私たちの兄弟姉妹であること」を認識し、「すべての人を包含する社会的友愛の形」を求めることは、単なるユートピアではありません。この理想実現のために効果的な手段を考える、という決定的な関与が求められます。そうした線に沿ったあらゆる努力をすることは、慈善の高潔な動きとなります。個人が困っている人を助けられるのに対し、人々が一緒になって、すべての人のために友愛と正義の社会的取り組みを始めるとき、「最も幅広い慈善、すなわち政治的な慈善の現場」に入っていきます。これは、核心が社会的慈善である社会的、政治的な秩序のために働くことを伴います(166)。再度、訴えますー「共通善を追求する限り、高遠な召命であり、慈善の最高の形の1つ」(167)であると。

 

 Recognizing that all people are our brothers and sisters, and seeking forms of social friendship that include everyone, is not merely utopian. It demands a decisive commitment to devising effective means to this end. Any effort along these lines becomes a noble exercise of charity. For whereas individuals can help others in need, when they join together in initiating social processes of fraternity and justice for all, they enter the “field of charity at its most vast, namely political charity”.[165] This entails working for a social and political order whose soul is social charity.[166] Once more, I appeal for a renewed appreciation of politics as “a lofty vocation and one of the highest forms of charity, inasmuch as it seeks the common good”.[167]

181. 教会の社会教説に触発されたすべての誓約は「慈愛から生まれたものであり、イエスの教えによれば、それは律法全体を合わせたもの(マタイ福音書22章36-40節参照)」(168) です。それは、次のことを認めることを意味しますー「愛、互いのいたわりの小さな振る舞いであふれる愛はまた、市民的かつ政治的でもあり、それ自体を、より良い世界を作ろうとするすべての行動に自体を感じさせる」(169)。 ですから、慈愛は、親密で懇意な関係に、だけでなく、「マクロ的な関係、つまり社会的、経済的、政治的な関係」(170)にも表れるのです。

 

 Every commitment inspired by the Church’s social doctrine is “derived from charity, which according to the teaching of Jesus is the synthesis of the entire Law (cf. Mt 22:36-40)”.[168] This means acknowledging that “love, overflowing with small gestures of mutual care, is also civic and political, and it makes itself felt in every action that seeks to build a better world”.[169] For this reason, charity finds expression not only in close and intimate relationships but also in “macro-relationships: social, economic and political”.[170]

 

182. この政治的な慈愛は、すべての個人主義的な考え方を超越する社会的認識をもと生まれます。「『社会的な慈愛は、私たちに共通善を愛するようにさせる』、それは私たちに、すべての人の善―個々の人々、あるいは私人としてだけでなく、それらを結びつける社会的側面として考えられる」(171)を効果的に求めるようにさせます。

 私たちが人々の一部であるとき、私たち一人一人は完全に人です。同時に、一人ひとりの個性を尊重しない人はいない。『人々』と『人』は相関関係にある言葉だが、にもかかわらず、今日では、見せかけの利益を追求する権力によって、人々を、容易に操作される孤立した個人に矮小化する試みがされているのです。優れた政治は、グローバリゼーションを再調整、方向転換させ、それによってグローバリゼーションの破壊的な影響を回避するために、社会生活のあらゆるレベルで、共同体を構築する方法を追求します。

 

 This political charity is born of a social awareness that transcends every individualistic mindset: “‘Social charity makes us love the common good’, it makes us effectively seek the good of all people, considered not only as individuals or private persons, but also in the social dimension that unites them”.[171] Each of us is fully a person when we are part of a people; at the same time, there are no peoples without respect for the individuality of each person. “People” and “person” are correlative terms. Nonetheless, there are attempts nowadays to reduce persons to isolated individuals easily manipulated by powers pursuing spurious interests. Good politics will seek ways of building communities at every level of social life, in order to recalibrate and reorient globalization and thus avoid its disruptive effects.

 

*効果的な愛 Effective love

 

183. 「社会的愛」(172)は、私たち全員が呼ばれていると感じることのできる”愛の文明”に向かって進むことを可能にします。慈愛は、全体に広めたいという衝動をもって、新しい世界を構築すること可能です(173)。単なる感情ではなく、すべての人にとって効果的な発展の道を見つけるための最良の手段です。「社会的な愛」とは、「今日の世界の問題に取り組む、新しい方法の策定を刺激し、社会の仕組み、組織、法制度を内側から大幅に刷新できる力」(174)です。

 

 “Social love”[172] makes it possible to advance towards a civilization of love, to which all of us can feel called. Charity, with its impulse to universality, is capable of building a new world.[173] No mere sentiment, it is the best means of discovering effective paths of development for everyone. Social love is a “force capable of inspiring new ways of approaching the problems of today’s world, of profoundly renewing structures, social organizations and legal systems from within”.[174]

 

184. 慈愛は、すべての健康で開かれた社会の核心ですが、今日では「道徳的責任を解釈し、指示を与えることとは無関係だ、として簡単に却下されてしまいます」(175)。慈愛は、真実への責任を伴う場合、個人的な感情以上のものであり、「偶発的かつ主観的な感情や意見の餌食になる」(176)必要はありません。確かに、真実との密接な関係は、その普遍性を促進し、「関係のない狭い分野に限定される」ことから守ります(177)。

 そうでなければ、「知識と実践の間の対話で、普遍的な人間開発を促進する計画と過程から除外さてしまう」(178)でしょう。真実がなければ、感情は相関的、社会的な内容を欠いてしまいます。そして、真実に開かれた慈愛は、「人間的で普遍的な幅の広さを奪う信仰主義(宗教上の真理は、理性によってではなく, 信仰によるとする主義)から守ります(179)。

 

 Charity is at the heart of every healthy and open society, yet today “it is easily dismissed as irrelevant for interpreting and giving direction to moral responsibility”.[175] Charity, when accompanied by a commitment to the truth, is much more than personal feeling, and consequently need not “fall prey to contingent subjective emotions and opinions”.[176] Indeed its close relation to truth fosters its universality and preserves it from being “confined to a narrow field devoid of relationships”.[177] Otherwise, it would be “excluded from the plans and processes of promoting human development of universal range, in dialogue between knowledge and praxis”.[178] Without truth, emotion lacks relational and social content. Charity’s openness to truth thus protects it from “a fideism that deprives it of its human and universal breadth”.[179]

 

  1.  慈愛は、私たちが常に求めている真理の光を必要とします。「その光は、理性の光であり、信仰の光」(180)でもあり、そして、いかなる形の相対主義も認めません。 ただし、科学の発展と、望ましい結果をもたらすのに最も確実で最も実用的な手段を見つけるための科学の不可欠な貢献を、尊重します。 他の人々の福利が危機に瀕しているとき、善意だけでは十分ではありません。 彼らと彼らの国が発展するのに必要なものら何でも提供するために、具体的な努力がされねばなりません。

 

 Charity needs the light of the truth that we constantly seek. “That light is both the light of reason and the light of faith”,[180] and does not admit any form of relativism. Yet it also respects the development of the sciences and their essential contribution to finding the surest and most practical means of achieving the desired results. For when the good of others is at stake, good intentions are not enough. Concrete efforts must be made to bring about whatever they and their nations need for the sake of their development.

 

*政治的な愛の行使 THE EXERCISE OF POLITICAL LOVE

 

186. 「導き出される」という愛の形がありますーその行為は慈愛の美徳から直接始まり、個々人と人々に向けられます。より健全な制度、より公正な規制、より支援的な構造を作るように人々を励ます慈愛の活動で表される「統率された」愛もあります(181)。それは当然、「隣人が貧困に陥らないように社会を組織し構築しようと努力することも、同様にかけがえのない愛の行為」(182)ということになります。

 苦しむ人を助けるのは慈愛の行為ですが、相手を知らないとしても、彼あるいは彼女の苦しみを引き起こしている社会的な状況を変えるために働くことも、慈愛の行為です。高齢者が川を渡るのを手伝うなら、それは素晴らしい慈愛の行為です。

   政治家は橋を架けますが、それも慈愛の行為です。ある人が食べ物を提供することで他の人を助ける一方で、政治家はその人のために働き口を作り、彼または彼女の政治的な活動を気高くする慈愛の高潔な形を実践します。

 

 There is a kind of love that is “elicited”: its acts proceed directly from the virtue of charity and are directed to individuals and peoples. There is also a “commanded” love, expressed in those acts of charity that spur people to create more sound institutions, more just regulations, more supportive structures.[181] It follows that “it is an equally indispensable act of love to strive to organize and structure society so that one’s neighbour will not find himself in poverty”.[182]

 It is an act of charity to assist someone suffering, but it is also an act of charity, even if we do not know that person, to work to change the social conditions that caused his or her suffering. If someone helps an elderly person cross a river, that is a fine act of charity.

 The politician, on the other hand, builds a bridge, and that too is an act of charity. While one person can help another by providing something to eat, the politician creates a job for that other person, and thus practices a lofty form of charity that ennobles his or her political activity.

 

*愛から生まれた犠牲 Sacrifices born of love

 

187. 政治の精神的な核心であるこの慈愛は、常に最も必要としている人々に示される選択的な愛ですーそれは、私たちが彼らに代わって行うすべてのことを補強します(183)。慈愛によって変えられた眼差しだけが、他の人々の尊厳が認められることを可能にし、その結果として、貧しい人々が認識され、尊厳が重んじられ、彼らの独自性と文化に敬意が払われ、そうして、真に社会に受け入れられるのです。

 その眼差しは、本物の政治精神の核心であり、魂のない実利主義の道とは異なる道が開かれるのを確かめます。 それは、私たちにはっきりと理解させますー「貧困の恥ずべきことに、貧しい人々を落ち着かせ、従順にし、無害にするだけの”封じ込め戦略”を進めることでは対処できない。利他的といわれる仕事の裏で、受け身的になっているのを知るのは何と悲しいことだろうか」(184)。必要なのは、自己表現と社会への参加の新たな小道です。教育は、一人ひとりの人間が自分の将来を形成できるようにすることで、そのことに役立ちます。ここでも、「連帯の原則」と切り離すことにできない「補完性の原則」の重要性が分かります。

 

 This charity, which is the spiritual heart of politics, is always a preferential love shown to those in greatest need; it undergirds everything we do on their behalf.[183] Only a gaze transformed by charity can enable the dignity of others to be recognized and, as a consequence, the poor to be acknowledged and valued in their dignity, respected in their identity and culture, and thus truly integrated into society.

 That gaze is at the heart of the authentic spirit of politics. It sees paths open up that are different from those of a soulless pragmatism. It makes us realize that “the scandal of poverty cannot be addressed by promoting strategies of containment that only tranquilize the poor and render them tame and inoffensive. How sad it is when we find, behind allegedly altruistic works, the other being reduced to passivity”.[184] What are needed are new pathways of self-expression and participation in society. Education serves these by making it possible for each human being to shape his or her own future. Here too we see the importance of the principle of subsidiarity, which is inseparable from the principle of solidarity.

 

188. これらの考察は、基本的人権を脅かす、あるいは侵害するすべてのものと戦う、差し迫った必要性を認識するのに役立ちます。政治家は「個々人や人々のニーズに応えるよう求められている。機能的で私営化された思考、無情にも”使い捨て文化”につながる思考が幅を利かす中で、困窮している人々を世話するためには、力と優しさ、努力と寛容さがひつようであり…それは、社会からの完全な疎外と苦悩の状況とともに、今現在に責任を取ること、それに尊厳を与えることができることも含む」(185)のです。

 同様に、それは「人間の社会的な身分と尊厳を守るためにすべてが行われる」(186)のを確実にする激しい努力を奮い立たせるでしょう。政治家は、野心的な目標を持った実行者であり、建設者であり、自身の境界を越えてものを見る、広く現実的で実利的な眼差しを持っています。

 彼らの最大の関心事は、世論調査で支持率が落ちることではなく、諸問題の効果的な解決方法を見つけることにありますー「”社会的および経済的な排除”の現象、その有害な結果”としての、人身売買、人間の臓器や生体組織の売買、少年少女の性的搾取、少女、売春を含む奴隷労働、麻薬と武器の取引、テロリズム、国際組織犯罪。これらの状況の悲惨さ、そして無実の命の犠牲は余りにも大きく、私たちの良心を癒やすような”declarationist nominalism(宣言主義者の唯名論)”に陥らせるあらゆる誘惑を避けねばなりません。私たちの機関・組織がこれら全ての悲惨な事態との闘いにおいて、本当に効果的に働くことを、私たちは確実にする必要」(187)があります。これには、技術開発によってもたらされる膨大な資源を、知性をもって活用することが含まれます。

 

 These considerations help us recognize the urgent need to combat all that threatens or violates fundamental human rights. Politicians are called to “tend to the needs of individuals and peoples. To tend those in need takes strength and tenderness, effort and generosity in the midst of a functionalistic and privatized mindset that inexorably leads to a ‘throwaway culture’… It involves taking responsibility for the present with its situations of utter marginalization and anguish, and being capable of bestowing dignity upon it”.[185]

 It will likewise inspire intense efforts to ensure that “everything be done to protect the status and dignity of the human person”.[186] Politicians are doers, builders with ambitious goals, possessed of a broad, realistic and pragmatic gaze that looks beyond their own borders.

 

 Their biggest concern should not be about a drop in the polls, but about finding effective solutions to “the phenomenon of social and economic exclusion, with its baneful consequences: human trafficking, the marketing of human organs and tissues, the sexual exploitation of boys and girls, slave labour, including prostitution, the drug and weapons trade, terrorism and international organized crime.Such is the magnitude of these situations, and their toll in innocent lives, that we must avoid every temptation to fall into a declarationist nominalism that would assuage our consciences. We need to ensure that our institutions are truly effective in the struggle against all these scourges”.[187] This includes taking intelligent advantage of the immense resources offered by technological development.

 

189. 私たちは、最も基本的な人権の”グローバル化”にはまだほど遠い状態にあります。だからこそ、世界の政治は、飢餓を効果的に無くすことを最重要かつ不可欠な目標の一つにする必要があります。確かに現在の世界では「金融投機が食糧価格を操作し、食糧を単なる商品一つとして扱い、それによって何百万もの人々が飢餓に苦しみ、亡くなっています。その一方で、たくさんの食べ物が捨てられています」。これは「正真正銘の不祥事です。飢餓は犯罪です。食物は不可侵の権利なのです」(188)。

 多くの場合、私たちが意味論的、あるいはイデオロギー的な論争を続けるとき、兄弟姉妹が避難所や医療の提供を受けられず、飢えと渇きで亡くなっていきます。こうして基本的な援助を満足にできないことに加えて、人身売買は、人類にとってもう一つの恥の源です。国際社会で政治分野の責任者たちは、”素晴らしいスピーチ”と”善意”に留まってはならない、こうした事態を許してはなりません。これはぜひとも必要なことです。先延ばしはできないのです。

 

 We are still far from a globalization of the most basic of human rights. That is why world politics needs to make the effective elimination of hunger one of its foremost and imperative goals. Indeed, “when financial speculation manipulates the price of food, treating it as just another commodity, millions of people suffer and die from hunger. At the same time, tons of food are thrown away. This constitutes a genuine scandal. Hunger is criminal; food is an inalienable right”.[188]

 Often, as we carry on our semantic or ideological disputes, we allow our brothers and sisters to die of hunger and thirst, without shelter or access to health care. Alongside these basic needs that remain unmet, trafficking in persons represents another source of shame for humanity, one that international politics, moving beyond fine speeches and good intentions, must no longer tolerate. These things are essential; they can no longer be deferred.

 

*集合し、結束させる愛  A love that integrates and unites

 

190. 政治的慈愛はまた、すべての人に開かれた精神で表現されます。 政府指導者は、出会いを育てるように犠牲を払い、少なくともいくつかの問題について意見の一致を求める第一人者となるべきです。 他の人々の視点に耳を傾け、すべての人のために道をあける用意をする必要があります。 犠牲と忍耐を通して、誰もが場を持つ素晴らしい多面体の現実を作り上げるのを助けることが可能です。 ここでは、経済的なやり方は機能しません。 他のやり方―共通善の贈り物の交換―が必要です。これはあまりにも純真で、夢想的に見えるかも知れませんが、このような高遠な目的を捨てることはできないのです。

 Political charity is also expressed in a spirit of openness to everyone. Government leaders should be the first to make the sacrifices that foster encounter and to seek convergence on at least some issues. They should be ready to listen to other points of view and to make room for everyone. Through sacrifice and patience, they can help to create a beautiful polyhedral reality in which everyone has a place. Here, economic negotiations do not work. Something else is required: an exchange of gifts for the common good. It may seem naïve and utopian, yet we cannot renounce this lofty aim.

 

191. さまざまな形の原理主義的不寛容が、個人、集団、そして人々の間の関係を傷つけている時、私たちは努めましょう―彼あるいは彼女の考え、意見、習慣、さらには罪を超えて、他人に敬意を払うことの大切さ、違いを進んで受け入れる愛、そしてすべての人間の尊厳を最優先することを実践し、教えるように。

 現代社会で、狂信、偏見、そして社会的、文化的な断片化が蔓延しているとしても、優れた政治家は、最初の一歩を踏み出し、異なる声が聞こえると主張します。意見の不一致は紛争を引き起こす可能性がありますが、均一であることは息苦しく、文化の衰退につながります。私たちは、現実の一つの断片に取り囲まれて満足していいのでしょうか。

 

 At a time when various forms of fundamentalist intolerance are damaging relationships between individuals, groups and peoples, let us be committed to living and teaching the value of respect for others, a love capable of welcoming differences, and the priority of the dignity of every human being over his or her ideas, opinions, practices and even sins. Even as forms of fanaticism, closedmindedness and social and cultural fragmentation proliferate in present-day society, a good politician will take the first step and insist that different voices be heard. Disagreements may well give rise to conflicts, but uniformity proves stifling and leads to cultural decay. May we not be content with being enclosed in one fragment of reality.

 

192. この点で、グランドイマーム・ ア-マド・タイーブ(Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb)と私は、「国際政治と世界経済の建築家に、寛容の文化を広め、平和的に共存するために精力的に取り組むこと、罪のない血の流出を止めるために最も早い機会に介入すること」(189)を求めました。特定の政策が、自国の繁栄の名の下に、他国に対する憎悪と恐怖をまき散らすとき、進路を修正することを気にかけ、遅滞なく、速やかに対応するようにする必要があります。

 

 In this regard, Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb and I have called upon “the architects of international policy and world economy to work strenuously to spread the culture of tolerance and of living together in peace; to intervene at the earliest opportunity to stop the shedding of innocent blood”.[189] When a specific policy sows hatred and fear towards other nations in the name of its own country’s welfare, there is need to be concerned, to react in time and immediately to correct the course.

 

*結果を超える実りの豊かさ FRUITFULNESS OVER RESULTS

193. たゆまぬ活動を続ける政治家は(注:私たちと同じ)男性、女性でもあります。日常の対人関係で愛を実践するように求められています。 人として、彼らは次のことを考慮する必要があります―「技術進歩により、現代の世界は、人間の欲求の満たすよう機能する傾向を一段と強め、さまざまなサービスに分類され、細分化されています。 人々が名前で呼ばれることは、ますます少なくなり、このようなユニークな存在が、彼または彼女自身の感情、苦しみ、問題、喜びおよび家族を持つ人として扱われることは、ますます少なくなるでしょう。彼らの病いは癒すためにだけに知られ、金融は彼らの為に提供されるだけに必要とされ、彼らに宿舎を与えるだけに住まいが不足し、彼らを満足させるためだけの保養と娯楽への彼らの欲求です」。

 だが忘れてならないのは、「兄弟として最も取るに足らない人間を、まるでこの世界に彼のほかは誰もいないかのように愛することは、時間の無駄、と見なされることはできない」(190)ということです。

 

 Apart from their tireless activity, politicians are also men and women. They are called to practice love in their daily interpersonal relationships. As persons, they need to consider that “the modern world, with its technical advances, tends increasingly to functionalize the satisfaction of human desires, now classified and subdivided among different services. Less and less will people be called by name, less and less will this unique being be treated as a person with his or her own feelings, sufferings, problems, joys and family. Their illnesses will be known only in order to cure them, their financial needs only to provide for them, their lack of a home only to give them lodging, their desires for recreation and entertainment only to satisfy them”. Yet it must never be forgotten that “loving the most insignificant of human beings as a brother, as if there were no one else in the world but him, cannot be considered a waste of time”.[190]

 

194. 政治もまた、他人の優しい愛に道を開けねばなりません。 「優しさとは何でしょうか?近くに行き、現実になるのが愛です。私たちの心から始まり、目、耳、手に届く動き… 優しさは、最も強く、最も勇敢な男性と女性が選択する道」(191)です。政治生活の日々の関心事の中で「最も小さく、最も弱く、最も貧しい人々が、私たちの心に触れるようにすべきです。彼らは、私たちの心と魂に訴える「権利」を持っています。彼らは、私たちの兄弟姉妹であり、そのために私たちは彼らを愛し、世話をしなければなりません」(192)。

 

 Politics too must make room for a tender love of others. “What is tenderness? It is love that draws near and becomes real. A movement that starts from our heart and reaches the eyes, the ears and the hands… Tenderness is the path of choice for the strongest, most courageous men and women”.[191] Amid the daily concerns of political life, “the smallest, the weakest, the poorest should touch our hearts: indeed, they have a ‘right’ to appeal to our heart and soul. They are our brothers and sisters, and as such we must love and care for them”.[192]

 

  1.  これらすべてが、「重要なのは、常に素晴らしい結果をもたらさない」ということを理解するのに役立ちます。結果達成が常に可能であるとは限らないからです。政治活動で、覚えておく必要があるのは次のことですー「外見にもかかわらず、すべての人は非常に神聖であり、愛するに値する。だから、少なくとも一人の人がより良い生活を送るのを助けることができれば、それはすでに私の人生の捧げ物を正当化します。神の忠実な民であることは素晴らしいことです。壁を壊し、心がさまざまな顔と名前で満たされるとき、私たちは充実感を得るのです!」(193)。

 私たちの夢と計画の大きな目標は、部分的にしか達成できない可能性があります。それでも、こうした問題を乗り越え、愛し、政治を単に権力の追求と見なさなくなった人々は、「自分たちの愛の行為は失われず、他の人々に対する誠実な配慮の行為も失われないことを確信するかもしれません。神への愛の単一の行為が失われることはなく、寛大な努力で無意味なものはなく、痛みを伴う忍耐が無駄になることもありません。これらすべてが、生命力のように私たちの世界を取り巻いています」(194)。

 

 All this can help us realize that what is important is not constantly achieving great results, since these are not always possible. In political activity, we should remember that, “appearances notwithstanding, every person is immensely holy and deserves our love. Consequently, if I can help at least one person to have a better life, that already justifies the offering of my life. It is a wonderful thing to be God’s faithful people. We achieve fulfilment when we break down walls and our hearts are filled with faces and names!”[193] The great goals of our dreams and plans may only be achieved in part. Yet beyond this, those who love, and who no longer view politics merely as a quest for power, “may be sure that none of our acts of love will be lost, nor any of our acts of sincere concern for others. No single act of love for God will be lost, no generous effort is meaningless, no painful endurance is wasted. All of these encircle our world like a vital force”.[194]

 

196. このような理由から、私たちが蒔く善の種の隠された力に、希望を置き、それによって他の人が実を結ぶプロセスを開始することは、本当に気高いことです。良い政治は、愛と希望、そして人間の心に存在する善の蓄えへの自信を兼ね備えています。確かに「法の尊重と個人間の率直な対話に基づいて構築された本物の政治活動は、すべての女性と男性、そしてすべての新しい世代が『新しい相関的、知的、文化的、精神的なエネルギーの展望をもたらす』という認識がされるたびに、常に新しくされる」(195)のです。

 

 For this reason, it is truly noble to place our hope in the hidden power of the seeds of goodness we sow, and thus to initiate processes whose fruits will be reaped by others. Good politics combines love with hope and with confidence in the reserves of goodness present in human hearts. Indeed, “authentic political life, built upon respect for law and frank dialogue between individuals, is constantly renewed whenever there is a realization that every woman and man, and every new generation, brings the promise of new relational, intellectual, cultural and spiritual energies”.[195]

 

197. こうして見てくると、政治は、思わせぶりな言動、物の取引に関係する活動、目まぐるしいメディアの動きよりも、気高いものですーこれらは、分裂や争い、共通の目標を追求するように人々を動かすこともできない陰鬱な冷笑的な考えの種を蒔く以外の何ものでもありません。将来について考えるとき、時として、私たちはこのように自問します。「なぜ、私は、これをしているのか?」「私の本当の目標は何だろうか?」。

 時が経ち、過去を振り返ったとき、私たちが自己に問うのは「何人が、私を支持したのか?」「何人が、私に投票したのか?」「何人が、私に前向きなイメージを持っていたのか?」ではなく、現実的で、そして潜在的に痛みを伴う次のような問いになるでしょう。「自分の仕事に、私はどれだけ愛を注いだのか?」「人々の進歩のために、私は何をしたのか?」 「どのような痕跡を、私は社会の営みに残したのか?」 「どのような本当の絆を、私は築いたのか?」 「どのような前向きな力を、私は発揮したのか?」 「どれほど多くの社会的平和の種を、私は蒔いたのか?」 「自分に任された立場で、私はどのように役立てたのか?」。

 

 Viewed in this way, politics is something more noble than posturing, marketing and media spin. These sow nothing but division, conflict and a bleak cynicism incapable of mobilizing people to pursue a common goal. At times, in thinking of the future, we do well to ask ourselves, “Why I am doing this?”, “What is my real aim?”

 For as time goes on, reflecting on the past, the questions will not be: “How many people endorsed me?”, “How many voted for me?”, “How many had a positive image of me?” The real, and potentially painful, questions will be, “How much love did I put into my work?” “What did I do for the progress of our people?” “What mark did I leave on the life of society?” “What real bonds did I create?” “What positive forces did I unleash?” “How much social peace did I sow?” “What good did I achieve in the position that was entrusted to me?”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第六章 社会における対話と友情 DIALOGUE AND FRIENDSHIP IN SOCIETY

198. 近づくこと、話すこと、聴くこと、目を向けること、互いに知り合い理解し、共有できる場を見つけようとすることーこれらのことは「対話」という一語に尽きます。互いに出会い、助けたいと思うのであれば、対話が必要です。私が対話の利点を強調する必要性はありません。

 私が考えなければならないのは唯一つ、家庭と共同体を維持している、多くの寛容な人々の忍耐強い対話がなかったら、この世界はどうなるか、ということです。不一致や戦いと違って、不断の勇気ある対話は、ニュースの主見出しにはなりませんが、私たちが考える以上に、世界中の人々がずっとよく生きる助けとなるのです。

 

 Approaching, speaking, listening, looking at, coming to know and understand one another, and to find common ground: all these things are summed up in the one word “dialogue”. If we want to encounter and help one another, we have to dialogue. There is no need for me to stress the benefits of dialogue. I have only to think of what our world would be like without the patient dialogue of the many generous persons who keep families and communities together. Unlike disagreement and conflict, persistent and courageous dialogue does not make headlines, but quietly helps the world to live much better than we imagine.

 

*新しい文化に向かう社会的な対話 SOCIAL DIALOGUE FOR A NEW CULTURE

 

199. 自分の小さく安全な世界に避難し、現実から逃れようとする人々もいれば、現実に対して破壊的な暴力で対応しようとする人々もいます。しかし、「『自己中心的な無関心』と『暴力的な抗議』の間に、常にもう一つの可能な選択があります。それは「対話」です。世代間の対話、私たち国民中での対話(私たちは国民なので)、真実に心を開き、受け取ろう、与えようとする意欲です。沢山の豊かな文化の分野―大衆文化、大学文化、若者文化、芸術的文化、技術的文化、経済的文化、家庭文化、そしてメディアの文化―の間で建設的な対話がなされるとき、国は繁栄する」(196)のです。

 

 Some people attempt to flee from reality, taking refuge in their own little world; others react to it with destructive violence. Yet “between selfish indifference and violent protest there is always another possible option: that of dialogue. Dialogue between generations; dialogue among our people, for we are that people; readiness to give and receive, while remaining open to the truth. A country flourishes when constructive dialogue occurs between its many rich cultural components: popular culture, university culture, youth culture, artistic culture, technological culture, economic culture, family culture and media culture”.[196]

 

200. 対話は、かなり違ったものと、よく混同されます。いつも信頼できるとは限らないメディアの情報にしばしば基づいた「ソーシャルネットワーク上の熱狂的な意見のやり取り」と混同されるのです。こうしたやり取りは、どこまで行っても交わることのない独り言に過ぎません。そのような独り言は、鋭く攻撃的な口調のために、ある程度の注目を浴びるかもしれませんが、誰とも交わることはなく、内容はしばしば利己的で、矛盾しています。

 Dialogue is often confused with something quite different: the feverish exchange of opinions on social networks, frequently based on media information that is not always reliable. These exchanges are merely parallel monologues. They may attract some attention by their sharp and aggressive tone. But monologues engage no one, and their content is frequently self-serving and contradictory.

 

201. 実際のところ、メディアによる事実と意見の耳障りな寄せ集めは、しばしば対話の邪魔になります。なぜなら、そうしたメディア情報は、「他の人は間違っている」を口実にして、彼、あるいは彼女の考え、関心事、選択に頑固に固執させるようにするからです。そして、それは、より深いレベルでの合意を目指す、相手に敬意を払う対話に心を開くことなく、初めから相手の信用を傷つけ、侮辱するのを容易にします。さらに悪いことには、政治活動をカバーするメディアから通常引き出されるこの種の言葉は、日常会話の一部になるほど広く行き渡ってしまいます。

 議論は、力のある特定の利害関係者によって、しばしば操作されます。世論を、自分たちに都合のいいように捻じ曲げようとします。この種の操作は、政府によって行われるだけでなく、経済、政治、情報、宗教、およびその他の分野でもなされます。自分たちの経済的、あるいはイデオロギー的な利益に導こうとするときに、そうした操作を正当化しようとしたり、弁明しようとしたりする可能性があります。しかし、早かれ遅かれ、まさにそうした利益とは反対の結果を招くことになります。

 

 Indeed, the media’s noisy potpourri of facts and opinions is often an obstacle to dialogue, since it lets everyone cling stubbornly to his or her own ideas, interests and choices, with the excuse that everyone else is wrong. It becomes easier to discredit and insult opponents from the outset than to open a respectful dialogue aimed at achieving agreement on a deeper level. Worse, this kind of language, usually drawn from media coverage of political campaigns, has become so widespread as to be part of daily conversation.

 Discussion is often manipulated by powerful special interests that seek to tilt public opinion unfairly in their favor. This kind of manipulation can be exercised not only by governments, but also in economics, politics, communications, religion and in other spheres. Attempts can be made to justify or excuse it when it tends to serve one’s own economic or ideological interests, but sooner or later it turns against those very interests.

 

202. 対話の不足は、これらの個々の分野で、人々が共通善について関心を持つのではなく、有利な権力の立場、あるいは、よくても彼ら自身の考えを強いる手段に関心があることを意味します。このようにして、”円卓会議”は、単なる交渉の会合となり、参加者それぞれが、共通善を協力して追求しようとするよりも、得られそうな利益なら何でも手に入れようと試みます。将来、英雄となる人たちは、不健全な考え方を捨て、個人的な利益を脇に置いて、誠実さを推し進めることを、敬意をもって決意することができる人たちです。幸いにも、そのような英雄たちは、現在でも、私たちの社会の中に、目立たない形で現れ出ています。

 

 Lack of dialogue means that in these individual sectors people are concerned not for the common good, but for the benefits of power or, at best, for ways to impose their own ideas. Round tables thus become mere negotiating sessions, in which individuals attempt to seize every possible advantage, rather than cooperating in the pursuit of the common good. The heroes of the future will be those who can break with this unhealthy mindset and determine respectfully to promote truthfulness, aside from personal interest. God willing, such heroes are quietly emerging, even now, in the midst of our society.

 

*共に作り上げる Building together

 

203. 真の社会的対話には、相手の観点に敬意を払い、「その観点には、正当な信念や関心事が含まれることもある」ということを受け入れる能力も必要です。他の人々は、それぞれの独創性と経験に基づいた貢献ができ、さらに実りのある、開かれた議論のために彼らの立場を明確に示すことが望まれます。個人や集団が首尾一貫した考えを持ち、価値と信念を守り、議論を発展させる時、確実に社会に恩恵をもたらします。

 しかし、これは真の対話と他者に心を開く場合だけに、起こり得ます。まさに、「対話という真の精神において、たとえ他者の言動を私たちの信念として受け入れることができなくても、私たちは彼らの言動の意味を理解する能力を大きく成長させることができる。このようにして議論しながら、私たちの信念について率直であり、開放的であり、接点を求め、そして何よりも共に働き、懸命に努力できるようになる」(197)のです。

 もし、誰にでも場所を空け、情報を操作したり、隠ぺいしたりしないなら、開かれた議論は、絶えず刺激され、真理のよりよい把握に導き、あるいは、少なくともそのような議論のより効果的な表われとなります。それは、それぞれの領域の人々が、彼らの見解と範囲内の関心事に満足し、自己中心的になるのを防ぎます。「違いは『創造的』であること、違いは『緊張』をもたらし、緊張の解決の中に『人類の進歩』がある」ということを、忘れないようにしましょう(198)。

 

 Authentic social dialogue involves the ability to respect the other’s point of view and to admit that it may include legitimate convictions and concerns. Based on their identity and experience, others have a contribution to make, and it is desirable that they should articulate their positions for the sake of a more fruitful public debate. When individuals or groups are consistent in their thinking, defend their values and convictions, and develop their arguments, this surely benefits society.

 Yet, this can only occur to the extent that there is genuine dialogue and openness to others. Indeed, “in a true spirit of dialogue, we grow in our ability to grasp the significance of what others say and do, even if we cannot accept it as our own conviction.  In this way, it becomes possible to be frank and open about our beliefs, while continuing to discuss, to seek points of contact, and above all, to work and struggle together”.[197]

 Public discussion, if it truly makes room for everyone and does not manipulate or conceal information, is a constant stimulus to a better grasp of the truth, or at least its more effective expression. It keeps different sectors from becoming complacent and self-centered in their outlook and their limited concerns. Let us not forget that “differences are creative; they create tension and in the resolution of tension lies humanity’s progress”.[198]

 

204. 専門的な科学の進歩とともに、より広い学際的なコミュニケーションを必要としている、との確信が大きくなりつつあります。現実は一つであっても、異なる方法で、様々な角度から近づくことができるからです。ただ、科学の進歩だけでは、生活、社会、世界の特定の一面だけを見る唯一のレンズになってしまう恐れがあります。自分が担当する分野の専門家でありながら、他の科学や専門分野にも精通している研究者なら、研究対象の他の側面も認識できる立場にあり、結果として、現実に関する包括的、統合的な知識に開放的になるはずです。

 

 There is a growing conviction that, together with specialized scientific advances, we are in need of greater interdisciplinary communication. Although reality is one, it can be approached from various angles and with different methodologies. There is a risk that a single scientific advance will be seen as the only possible lens for viewing a particular aspect of life, society and the world. Researchers who are expert in their own field, yet also familiar with the findings of other sciences and disciplines, are in a position to discern other aspects of the object of their study and thus to become open to a more comprehensive and integral knowledge of reality.

 

  1.  今日のグローバルな社会をこう言うこともできるでしょう。「私たちはメディアを通して互いにより近いと感じ、人間家族としての一体感が生まれる。その一体感は、すべての人々に、さらに尊厳のある生活を保障するための連帯と、真摯な努力を奨励する…  ヒューマン・コミュニケーションのネットワークは、これまでにないほど発展してきたが、メディアは、特に今日、私たちを大いに助けることができる。特にインターネットは、出会いと連帯のための計り知れない可能性を提供している。これは実に素晴らしいことで、神からの贈り物である」(199)。

 私たちが常に確実にする必要があるのは「現代のコミュニケーションのさまざまな形が、実際に、他の人々との豊かな出会い、すべての真理に対する誠実な追求、奉仕、恵まれていない人々への寄り添い、共通善の増進へと私たちを絶えず導く」ことです。オーストラリアのある司教さまが指摘されたように、「私たちの弱さに付け込み、人々の中にある最悪なものを引き出そうとする、デジタルの世界」(200)を受け入れることはできません。

 

 In today’s globalized world, “the media can help us to feel closer to one another, creating a sense of the unity of the human family which in turn can inspire solidarity and serious efforts to ensure a more dignified life for all… The media can help us greatly in this, especially nowadays, when the networks of human communication have made unprecedented advances. The internet, in particular, offers immense possibilities for encounter and solidarity. This is something truly good, a gift from God”.[199]

 We need constantly to ensure that present-day forms of communication are in fact guiding us to generous encounter with others, to honest pursuit of the whole truth, to service, to closeness to the underprivileged and to the promotion of the common good. As the Bishops of Australia have pointed out, we cannot accept “a digital world designed to exploit our weaknesses and bring out the worst in people”.[200]

 

*合意の根幹  The BASIS of Consensus

 

206. この問題の答えは、相対主義(注:哲学用語。人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、 真理の絶対的な妥当性を認めない立場)ではありません。相対主義は、寛大さを装って、最終的に倫理的価値の解釈を力のある者たちに委ね、彼らは自分に都合がいいように定義します。「私たち自身の欲求と目先の必要を満たすことだけで、客観的事実、あるいは健全な原則を欠く場合は… 政治的努力あるいは法律の力は十分だろう、と考えてはなりません… 文化そのものが堕落して、客観的な真実と普遍妥当(注:どんなものにも、どんなときにも適切に当てはまること)の原則がもはや是認されないとき、法律は、一方的な強制、あるいは避けるべき障害と見なされるだけです」(201)。

 

 The solution is not relativism. Under the guise of tolerance, relativism ultimately leaves the interpretation of moral values to those in power, to be defined as they see fit. “In the absence of

objective truths or sound principles other than the satisfaction of our own desires and immediate needs… we should not think that political efforts or the force of law will be sufficient… When the culture itself is corrupt, and objective truth and universally valid principles are no longer upheld, then laws can only be seen as arbitrary impositions or obstacles to be avoided”.[201]

 

207. 真実を気遣い、命の最も深い意味に応える真実を得ようと努力することが、できるでしょうか。長年に渡って培われた熟考と非常にすばらしい知恵から生まれた確信、つまり、一人ひとりが神聖で、犯すべからざる存在である、という確信がなければ、法律とは何でしょうか。もし、社会に未来があるのであれば、社会は、人間の持つ尊厳という真理に敬意を払い、従わなければなりません。

 殺人が間違っているのは、それが社会的に容認できず、法律によって罰を受ける、という理由だけではなく、それよりも、もっと深い確信のためです。その確信は、理性によって得られ、良心に受け入れられた、交渉の余地のない真理なのです。真実の追究を応援し、真理の最も基本的なことを厳守するために、社会は高潔で良識的であらねばなりません。

 

 Is it possible to be concerned for truth, to seek the truth that responds to life’s deepest meaning? What is law without the conviction, born of age-old reflection and great wisdom, that each human being is sacred and inviolable? If society is to have a future, it must respect the truth of our human dignity and submit to that truth.

 Murder is not wrong simply because it is socially unacceptable and punished by law, but because of a deeper conviction. This is a non-negotiable truth attained by the use of reason and accepted in conscience. A society is noble and decent not least for its support of the pursuit of truth and its adherence to the most basic of truths.

 

208. 公的、あるいは、私的な会話の中で、真実を操作し、歪め、隠蔽するというさまざまな手法を用いる時につける仮面をいかにして剥がすかについて、私たちは学ぶ必要があります。いわゆる「真実」は、私たちが新聞で読む事実や出来事の単なる報告ではなく、私たちの決断や法律を維持している確固とした根拠を、まず、追求することなのです。そうするには、当面の心配事を超えて、過去のみならず現在も変わることのない、特定の真実を把握することのできる心を人間は持っている、という認識が必要です。真実が人間の本性に目を凝らす時、理性は、そこに普遍的な価値を見いだすのです。

 

 We need to learn how to unmask the various ways that the truth is manipulated, distorted and concealed in public and private discourse. What we call “truth” is not only the reporting of facts and events, such as we find in the daily papers. It is primarily the search for the solid foundations sustaining our decisions and our laws. This calls for acknowledging that the human mind is capable of transcending immediate concerns and grasping certain truths that are unchanging, as true now as in the past. As it peers into human nature, reason discovers universal values derived from that same nature.

 

209. さもなければ、私たちが「疑う余地もない」と考えている基本的人権が、権力を持つ者たちが「無関心な、あるいは、怖気づいた人々」からいったん「合意」を得てしまうと、彼らによって否定されてしまう、ということは考えられないでしょうか?同様に、異なる国々の間にある単なる合意は、操作されやすく、国々を守るのに十分ではないのではありませんか。

 私たちは、素晴らしいことができる、という十分な裏付けを持っていますが、私たちの中にある破壊的な性向も認めなければなりません。私たちの陥っている無関心と薄情な個人主義も、目先の必要を超えた価値、より大切な価値を、追求する ことを怠った結果でないでしょうか。

 相対主義は常に危険をもたらします。何らかの主張された事実が、権力をもつ者や如才ない人々によって押しつけられる、という危険です。しかし、「内在する悪を禁じる道徳規範ということになると、誰にも特別扱いや例外はありません。この地球上で、世界の征服者か、「貧しい人々の中で最も貧しい人」かも、関係ありません。道徳律を求められる前に、私たちはみな完全に平等なのです」(202)。

 

 Otherwise, is it not conceivable that those fundamental human rights which we now consider unassailable will be denied by those in power, once they have gained the “consensus” of an apathetic or intimidated population? Nor would a mere consensus between different nations, itself equally open to manipulation, suffice to protect them.

 We have ample evidence of the great good of which we are capable, yet we also have to acknowledge our inherent destructiveness. Is not the indifference and the heartless individualism into which we have fallen also a result of our sloth in pursuing higher values, values that transcend our immediate needs?

 Relativism always brings the risk that some or other alleged truth will be imposed by the powerful or the clever. Yet, “when it is a matter of the moral norms prohibiting intrinsic evil, there are no privileges or exceptions for anyone. It makes no difference whether one is the master of the world or the ‘poorest of the poor’ on the face of the earth. Before the demands of morality we are all absolutely equal”.[202]

 

210. 現在起きている”歪んだ不毛の思考法”に私たちを引き寄せるのは、倫理学と政治学が、物理学のレベルになったからです。善悪は、倫理学にも、政治学にも、もはや存在していません。”利益と負担の微積分学”があるだけです。道徳理論が置き換えられた結果、法律は、もはや正義についての基本的な観念を反映するものとしてではなく、現在流行している観念を鏡に映すものとして見られます。その結果、崩壊が起き、浅薄な交換による合意で、すべてが水準を落とし、最終的に、最も力のある人々の法律が支配してしまうのです。

 

 What is now happening, and drawing us into a perverse and barren way of thinking, is the reduction of ethics and politics to physics. Good and evil no longer exist in themselves; there is only a calculus of benefits and burdens. As a result of the displacement of moral reasoning, the law is no longer seen as reflecting a fundamental notion of justice but as mirroring notions currently in vogue. Breakdown ensures: everything is “leveled down” by a superficial bartered consensus. In the end, the law of the strongest prevails.

 

*合意と真理 Consensus and truth

 

211. 多元的な社会では、一時的な合意は別として、対話は、何が常に肯定され、尊重されるべきかを理解するための、最良の方法です。そのような対話は、明確な思考、合理的な議論、多種多様な視点、様々な分野の知識と観点によって豊かにされ、啓発される必要があります。そして、それは、常に支持され、特定の基本的な真理に到達できるか、という確信を排除してはなりません。

 特定の永続する価値を認めることは、その価値を識別することがどれほど必要とされるにしても、健全で堅固な社会倫理に役立ちます。これらの基本的な価値が、ひとたび対話と合意によって認められ、採り入れられると、それらの価値が合意を超えることが分かります。私たちの具体的な状況を超越し、妥協はなくなります。価値の意味と領域についての理解が増すことができ、そして、この点で、合意は動的な現実になりますが、それ自身の中で、その本来の意味のおかげで、永続すると思われます。

 

 In a pluralistic society, dialogue is the best way to realize what ought always to be affirmed and respected apart from any ephemeral consensus. Such dialogue needs to be enriched and illumined by clear thinking, rational arguments, a variety of perspectives and the contribution of different fields of knowledge and points of view. Nor can it exclude the conviction that it is possible to arrive at certain fundamental truths always to be upheld.

 Acknowledging the existence of certain enduring values, however demanding it may be to discern them, makes for a robust and solid social ethics. Once those fundamental values are acknowledged and adopted through dialogue and consensus, we realize that they rise above consensus; they transcend our concrete situations and remain non-negotiable. Our understanding of their meaning and scope can increase – and in that respect, consensus is a dynamic reality – but in themselves, they are  held to be enduring by virtue of their inherent meaning.

 

212. もし、何かが社会がうまく働くのに常に役立つとすれば、その先に、識者たちに理解しやすい永続的な真理があるから、ではないのでしょうか。人間とその社会に本質的に備わっている、私たちの進歩と生存を支えるための特定の基本的構造が存在するのです。このように特定の必要な事項が後に続き、そして、それらは対話を通して見つけられるにもかかわらず、厳密に言えば、合意によっては作り出されません。

 特定のルールが社会にまさに活気を与えるのに不可欠だ、という事実は、それ自体として「善である」ということの表われ、なのです。ですから、社会の利益、合意、客観的真理という現実に反対する必要はありません。対話を通して、物事の核心に達するのを恐れないとき、いつもこれらの三つの現実が調和できるのです。

 

 If something always serves the good functioning of society, is it not because, lying beyond it, there is an enduring truth accessible to the intellect? Inherent in the nature of human beings and society there exist certain basic structures to support our development and survival. Certain requirements thus ensue, and these can be discovered through dialogue, even though, strictly speaking, they are not created by consensus. The fact that certain rules are indispensable for the very life of society is a sign that they are good in and of themselves. There is no need, then, to oppose the interests of society, consensus and the reality of objective truth. These three realities can be harmonized whenever, through dialogue, people are unafraid to get to the heart of an issue.

  1.   他者の尊厳は、いかなる状況においても、大切にされねばなりません。なぜなら、尊厳は、私たちが創り出したり、想像したりするものではなく、人間が固有の価値ー有形物や不確定な状況の価値に勝るものーを持っているからです。このことは、人々がそれぞれ異なる仕方で扱われることを求めます。一人ひとりが奪われることのない尊厳を持っている、ということは、あらゆる文化的変容の影響を受けない人間性に一致する真理です。

 こうした理由から、人間はいつの時代も、同じ不可侵の尊厳を持っており、この信念を否定したり、背いたりするように特別な立場によって権威づけられている、と考えることは、誰にもできません。識者たちは、熟考、経験、対話を通して、物事の現実を詳しく調べることができ、その現実の中に、普遍的な倫理上の要求の根幹を認識するようになるのです。

 

 The dignity of others is to be respected in all circumstances, not because that dignity is something we have invented or imagined, but because human beings possess an intrinsic worth superior to that of material objects and contingent situations. This requires that they be treated differently. That every human being possesses an inalienable dignity is a truth that corresponds to human nature apart from all cultural change.

 For this reason, human beings have the same inviolable dignity in every age of history and no one can consider himself or herself authorized by particular situations to deny this conviction or to act against it. The intellect can investigate the reality of things through reflection, experience and dialogue, and come to recognize in that reality, which transcends it, the basis of certain universal moral demands.

 

  1. 不可知論者(注:人間は神の存在を証明することも反証することもできないと主張する者)に対して、このような認識の基盤は、基本的で譲歩の余地がない倫理的な原則―さらなる破滅的状況を回避するのに役立ちうる原則―について、堅固で安定した普遍的な正当性を与えることを、十分に証明できるでしょう。

 信仰者として、私たちは、人間の本性は、倫理的な原則の源として、神によって創造され、最終的にこれらの原則に確固とした基盤を与えたのも神だ、と確信しています(203)。このことは、倫理的な頑固さをもたらすことでも、道徳律のうちのどれか一つを押しつけようとすることでもありません。なぜなら、基本的で普遍的に正当な根拠のある倫理的な原則は、異なった実用的なルールに具現化できるからです。このように、対話のための機会は常に存在するでしょう。

 

 To agnostics, this foundation could prove sufficient to confer a solid and stable universal validity on basic and non-negotiable ethical principles that could serve to prevent further catastrophes. As believers, we are convinced that human nature, as the source of ethical principles, was created by God, and that ultimately it is he who gives those principles their solid foundation.[203] This does not result in an ethical rigidity nor does it lead to the imposition of any one moral system, since fundamental and universally valid moral principles can be embodied in different practical rules. Thus, room for dialogue will always exist.

 

*新しい文化 A NEW CULTURE

 

215. 「人生は、多くの対立があるにもかかわらず、”出会いの芸術”です」(204)。私は、何度も違いや境界を越えた、文化の出会いとその成長を呼びかけてきました。これは、多くの側面からなる一つの多面体を創出するために働くことを意味し、それらの異なる側面が、多様性を持つ統一をもたらし、そこでは「それぞれの側面より全体が重要」(205)になります。

 多面体のイメージは、「違いが共存する社会」、「対立や疑念の渦中にあっても、互いを補い合い、豊かにし、啓発し合う社会」として示すことができます。私たちは誰でも他の人から何かを学ぶことができ、誰一人として、役に立たない人も、使い捨てにされてよい人も、いません。これは同じように、社会の周縁部にいる人たちをも包含する道を見つけることを意味します。それは、周辺部にいる人たちは、物事を別の角度から見ており、自己に有利な決定をする権力の中心にいる人たちには見えない、現実の様々な側面を見ているからです。

 

 “Life, for all its confrontations, is the art of encounter”.[204] I have frequently called for the growth of a culture of encounter capable of transcending our differences and divisions. This means working to create a many-faceted polyhedron whose different sides form a variegated unity, in which “the whole is greater than the part”.[205] The image of a polyhedron can represent a society where differences coexist, complementing, enriching and reciprocally illuminating one another, even amid disagreements and reservations. Each of us can learn something from others. No one is useless and no one is expendable. This also means finding ways to include those on the peripheries of life. For they have another way of looking at things; they see aspects of reality that are invisible to the centers of power where weighty decisions are made.

 

*文化となる出会い Encounter that becomes culture

 

216. 「文化」という言葉は、民族の中で最も大切に培われてきた信念と生活様式が深く埋め込まれたものを指します。民族の文化は、抽象的な概念ではなく、彼らの欲求、関心、究極的には人生の生き方と関連があります。「出会いの文化」について語ることは、私たちが民族として、他者と会うことに情熱を燃やすことー接点を探し求め、橋を架け、すべの人を含む計画を立てることーを意味します。それが、強い願望と生活様式になるのです。このような文化の主体はその民族。専門家やメディアの力を借りて他の人々を鎮めるような社会の単なる一部ではありません。

 

 The word “culture” points to something deeply embedded within a people, its most cherished convictions and its way of life. A people’s “culture” is more than an abstract idea. It has to do with their desires, their interests and ultimately the way they live their lives. To speak of a “culture of encounter” means that we, as a people, should be passionate about meeting others, seeking points of contact, building bridges, planning a project that includes everyone. This becomes an aspiration and a style of life. The subject of this culture is the people, not simply one part of society that would pacify the rest with the help of professional and media resources.

 

217. 社会的平和は、大変な努力、熟練を必要とします。器用さと少ない資源で自由と相違を維持するのはそれよりも易しいかもしれません。しかしそのようにして得られた平和は、浅薄で脆弱で、永続する安定をもたらす”出会いの文化”の成果を生まないでしょう。違いをまとめることは、はるかに難しく、時間のかかるプロセスとなりますが、本物の永続する平和を保証します。そのような平和は、純粋で無傷の人々だけに頼ることでは獲得できません。なぜなら、「過失のために疑問をもたれる人々でさえ、見過ごすことのできないものを持っている」(206)からです。

   社会的な要求を無視したり、騒ぎを鎮めたりしても、平和は訪れません。平和は「書類上の合意や満足した少数者のための、つかの間の平和」(207)ではないからです。重要なことは、出会いのプロセス、違いを受け入れることのできる人々を作りあげるプロセスを作り上げることです。私たちの子どもたちに、「対話」という武器で持たせましょう! ”出会いの文化”を善戦するよう教えましょう!

 

 Social peace demands hard work, craftsmanship. It would be easier to keep freedoms and differences in check with cleverness and a few resources. But such a peace would be superficial and fragile, not the fruit of a culture of encounter that brings enduring stability. Integrating differences is a much more difficult and slow process, yet it is the guarantee of a genuine and lasting peace. That peace is not achieved by recourse only to those who are pure and untainted, since “even people who can be considered questionable on account of their errors have something to offer which must not be overlooked”.[206]

 Nor does it come from ignoring social demands or quelling disturbances, since it is not “a consensus on paper or a transient peace for a contented minority”.[207] What is important is to create processes of encounter, processes that build a people that can accept differences. Let us arm our children with the weapons of dialogue! Let us teach them to fight the good fight of the culture of encounter!

 

*他者を認めることの喜び The joy of acknowledging others

 

218. これらのことすべては、他の人々にも、自分自身らしくする権利、違いをもつ権利があることを認識する能力を要求します。そのような認識が文化となり、社会契約の創出を可能とします。社会契約がなければ、他の人々を、社会にとって取るに足りない、無関係の、価値のないものとみなす、悪賢い方法を見つけてしまう可能性があります。目に見えるような形の暴力を退けても、もっと狡猾な類いの暴力が根を下ろす可能性があります。それは、自分とは違う人々、特に彼らの要求が自分の利益を損なわせるような人々、を嫌悪する者たちの暴力です。

 

 All this calls for the ability to recognize other people’s right to be themselves and to be different. This recognition, as it becomes a culture, makes possible the creation of a social covenant. Without it, subtle ways can be found to make others insignificant, irrelevant, of no value to society. While rejecting certain visible forms of violence, another more insidious kind of violence can take root: the violence of those who despise people who are different, especially when their demands in any way compromise their own particular interests.

 

219. 社会の一部が、世界の人々が提供せねばならないものすべてを不当に利用し、あたかも貧しい人々は存在しないかのように振る舞うなら、結局は重大な結果を持たることになるでしょう。他の人々の存在と権利を無視することは、早晩、何らかの暴力の形をとって、噴き出してくるでしょう。自由、平等、友愛が一人ひとりに適用されないかぎり、高遠な理想のままであり続けてしまいます。

 出会いは、経済的、政治的、学術的な力をもつ者の間だけのものであるはずがありません。本物の社会的な出会いは、大多数の人々によって共有される文化に関わる対話が必要です。よくあるのは、良い考えが社会の貧しい人々に受け入れられないことですが、それは、そうした考えが、彼ら自身のものではなく共感できない文化的な体裁で提示されるからです。現実的で包括的な社会契約もまた、「文化契約」、異なる世界観、文化、生活様式の共存を尊重し、認める契約でなければなりません。

 

 When one part of society exploits all that the world has to offer, acting as if the poor did not exist, there will eventually be consequences. Sooner or later, ignoring the existence and rights of others will erupt in some form of violence, often when least expected. Liberty, equality and fraternity can remain lofty ideals unless they apply to everyone.

 Encounter cannot take place only between the holders of economic, political or academic power. Genuine social encounter calls for a dialogue that engages the culture shared by the majority of the population. It often happens that good ideas are not accepted by the poorer sectors of society because they are presented in a cultural garb that is not their own and with which they cannot identify. A realistic and inclusive social covenant must also be a “cultural covenant”, one that respects and acknowledges the different worldviews, cultures and lifestyles that coexist in society.

 

  1. たとえば、先住民の人々は進歩に反対ではありませんが、進歩の概念が違っていて、先進国の現代的な進歩よりも人間的なことがよくあります。彼らの考える進歩は、自分たちだけで「ある種の世俗的な楽園」を作ろうとする力を持つ者たちを利するような文化ではありません。固有の大衆文化に対する不寛容と敬意の欠如は、冷たく批判的な彼らに対する見方に根差した暴力の一形態です。

 本物の、深みと持続力のある変化は、異なる文化、特に貧しい人々の文化から始まるのでなければ、可能ではありません。文化契約は、特定の場所のもつ独自性を一枚岩的に理解することを控えます。すべての人に前進と社会的な融合の機会を提供することによって、多様性への敬意を必ず引き起こします。

 

 Indigenous peoples, for example, are not opposed to progress, yet theirs is a different notion of progress, often more humanistic than the modern culture of developed peoples. Theirs is not a culture meant to benefit the powerful, those driven to create for themselves a kind of earthly paradise. Intolerance and lack of respect for indigenous popular cultures is a form of violence groundedにold and judgmental way of viewing them. No authentic, profound and enduring change is possible unless it starts from the different cultures, particularly those of the poor. A cultural covenant eschews a monolithic understanding of the identity of a particular place; it entails respect for diversity by offering opportunities for advancement and social integration to all.

 

221. そのような契約はまた、共通善のためにいくつかのことを捨てねばならない場合もある、ということを認めるよう求めます。誰にも、すべての真実を所有することも、彼、あるいは彼女の欲求をすべて満たすこともできません。なぜなら、そのようなことができると主張することは、相手の権利を否定し、力をそぐことに繋がるからです。

 寛容についての誤った考えは、他の人々に同じことをする権利があることを認める一方で、自分自身の信条に忠実であり続ける人々、男女の側の、対話の現実主義に道を譲らねばなりません。これが他の人々についての本当の認識、愛だけで可能になるものーなのです。もしも、他の人々の動機と関心の中に、本物、あるいは少なくとも理解できるものを見出さねばならない、とすれば、私たちは他の人々の立場に立たねばなりません。

 

 Such a covenant also demands the realization that some things may have to be renounced for the common good. No one can possess the whole truth or satisfy his or her every desire, since that pretension would lead to nullifying others by denying their rights. A false notion of tolerance has to give way to a dialogic realism on the part of men and women who remain faithful to their own principles while recognizing that others also have the right to do likewise. This is the genuine acknowledgment of the other that is made possible by love alone. We have to stand in the place of others, if we are to discover what is genuine, or at least understandable, in their motivations and concerns.

 

*思いやりを取り戻す RECOVERING KINDNESS

 

222. 大量消費・個人主義は、ひどい不正につながっています。私たちは、他の人々を、自分の平穏な生活の単なる”障害物”と見なすようになり、さらには”頭痛の種”として扱い、次第にけんか腰になっていきます。恐慌、大災害、困窮の時には、こうした傾向がさらに強まり、古い諺にあるように「自分の身は自分で守れ」と思いたくなります。でも、そのような時でさえ、私たちは思いやりを養うことを選ぶことができるのです。そうする人は、闇のただ中で「輝く星」になります。

 

 Consumerist individualism has led to great injustice. Other persons come to be viewed simply as obstacles to our own serene existence; we end up treating them as annoyances and we become increasingly aggressive. This is even more the case in times of crisis, catastrophe and hardship, when we are tempted to think in terms of the old saying, “every man for himself”. Yet even then, we can choose to cultivate kindness. Those who do so become stars shining in the midst of darkness.

 

223. 聖パウロは、思いやり(kindness)を「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)と記述しています。彼はギリシャ語の chrestotesでこの意味を表現していますが、ギリシャ語のこの言葉は「優しい」「温かい」「同情」という人の態度を表わし、「無礼「粗野」ではありません。このような資質の人たちは、他の人々の生活の重荷―特に彼らが抱える問題、困窮、恐怖といった重荷―を分かち合うことで、彼らが耐え易くなるように手助けをします。

 他にも様々な形の対応―親切な行為、言葉や行為で相手を不快にさせない配慮、喜んで彼らの重荷を軽減する―があります。それには「慰め、力、安らぎ、勇気という言葉を話すこと」が含まれますが、「貶める、悲しませる、怒る、侮蔑を示す」(208)ような言葉はありません。

 

 Saint Paul describes kindness as a fruit of the Holy Spirit (Gal 5:22). He uses the Greek word chrestótes, which describes an attitude that is gentle, pleasant and supportive, not rude or coarse.

Individuals who possess this quality help make other people’s lives more bearable, especially by sharing the weight of their problems, needs and fears. This way of treating others can take different forms: an act of kindness, a concern not to offend by word or deed, a readiness to alleviate their burdens. It involves “speaking words of comfort, strength, consolation and encouragement” and not “words that demean, sadden, anger or show scorn”. [208]

 

224. 思いやりは、時として人間関係を汚染する残酷さから、他の人々について考えないようにする不安な気持ちから、他の人々も自分と同じように幸せになる権利があることを忘れる激しく動揺した振る舞いから、私たちを解放します。最近、私たちには、足を止めて他人に思いやりを示す、あるいは「すみません」「ごめんなさい」「ありがとう」と言う時間もエネルギーもないことが、よくあります。

 それでも時折、奇跡的にも、思いやりのある人が現われ、皆が無関心の中で、他の人のことに関心を示し、自分がしていた事をすべて脇に置いて、ほほえみをプレゼントし、励ましの言葉をかけ、耳を傾けます。もし私たちが、この人と同じ努力を日々するなら、健全な社会環境を作ることができ、誤解は克服され、争いの芽は摘まれることになるでしょう。

 思いやりは養われるべきものです。浅薄なブルジョアの美徳ではありません。思いやりは他の人々への尊重と尊敬を伴うものであるからこそ、ひとたび思いやりが社会の中で文化になると、それは生活様式、交流関係、意見を交わし、比べるやり方一変させるのです。思いやりは合意を求めやすくし、敵意と衝突が全ての関係を断とうとするところに、新たな道を開くのです。

 

 Kindness frees us from the cruelty that at times infects human relationships, from the anxiety that prevents us from thinking of others, from the frantic flurry of activity that forgets that others also have a right to be happy. Often nowadays we find neither the time nor the energy to stop and be kind to others, to say “excuse me”, “pardon me”, “thank you”.

 Yet every now and then, miraculously, a kind person appears and is willing to set everything else aside in order to show interest, to give the gift of a smile, to speak a word of encouragement, to listen amid general indifference. If we make a daily effort to do exactly this, we can create a healthy social atmosphere in which misunderstandings can be overcome and conflict forestalled. Kindness ought to be cultivated; it is no superficial bourgeois virtue. Precisely because it entails esteem and respect for others, once kindness becomes a culture within society it transforms lifestyles, relationships and the ways ideas are discussed and compared. Kindness facilitates the quest for consensus; it opens new paths where hostility and conflict would burn all bridges.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第7章 新しい出会いの道のり PATHS OF RENEWED ENCOUNTER

225. 世界の多くの地域では、深い傷を癒すための、平和の道が必要とされています。また、癒しと新たな出会いの取り組みを始めるために、大胆かつ創造的に活動し、平和をもたらす男女が必要です。

 

 In many parts of the world, there is a need for paths of peace to heal open wounds. There is also a need for peacemakers, men and women prepared to work boldly and creatively to initiate processes of healing and renewed encounter.

 

*真実から新たに始める STARTING ANEW FROM THE TRUTH  

 

226. 新たな出会いとは、紛争以前に戻ることではありません。私たちは皆、時とともに変わっていきます。痛みと争いが私たちを変えます。現実を覆い隠すような空虚な外交、偽り、”二枚舌”、隠された思惑、現実を隠す巧みな振る舞いは、もはや通用しません。

 凶暴な敵同士であった者たちは、苛酷で明白な真実から話さねばなりません―自分たちの後悔や問題や計画で未来を曇らせないために、過去を受け入れることのできる、悔悟の記憶を思い起こす力の養い方を学ばねばなりません。  出来事の歴史的真実に基づくことによってのみ、彼らはお互いを理解し、万人の利益のために、新たな統合を目指し、広く、粘り強い努力をすることができるのです。

 すべての「和平交渉には、永続的な取り組みが必要です。それは、真実と正義を求め、犠牲者を偲び、復讐の念よりも強い共通の希望への道を、一歩一歩、切り開くための忍耐強い努力です」(209)。コンゴの司教団が、繰り返し起きる紛争に関して言っているように、「紙の上の和平合意は十分ではありません。私たちは、繰り返される危機の本当の原因を明らかにすることを求める声に十分配慮することで、さらに進まなねばなりません。人々は、何が起こったかを知る権利がある」(210)のです。

 

 Renewed encounter does not mean returning to a time prior to conflicts. All of us change over time. Pain and conflict transform us. We no longer have use for empty diplomacy, issimulation, double-speak, hidden agendas and good manners that mask reality. Those who were fierce enemies have to speak from the stark and clear truth. They have to learn how to cultivate a penitential memory, one that can accept the past in order not to cloud the future with their own regrets, problems and plans. Only by basing themselves on the historical truth of events will they be able to make a broad and persevering effort to understand one another and to strive for a new synthesis for the good of all.

 Every “peace process requires enduring commitment. It is a patient effort to seek truth and justice, to honour the memory of victims and to open the way, step by step, to a shared hope stronger than the desire for vengeance”.[209] As the Bishops of the Congo have said with regard to one recurring conflict: “Peace agreements on paper will not be enough. We will have to go further, by respecting the demands of truth regarding the origins of this recurring crisis. The people have the right to know what happened”.[210]

 

227. 「実際、真実とは、正義と憐れみの不可分の仲間です。平和を築くためには、この3つを欠かすことができず、さらに、互いに他方が変えられることを防ぎます…。真実は復讐につながるのではなく、むしろ和解と赦しにつながるべきです。真実とは、痛みで引き裂かれた家族に、行方不明になった親族に、何が起こったのかを伝えることです。真実とは、残酷で凶暴な者たちに徴用された未成年者の身に何が起こったのかを、告白することです。真実とは、暴力や虐待の被害者である女性の痛みを認識することです…。人間に対して行われるすべての暴力行為は、人類の体の傷であり、すべての暴力による死は、人間としての私たちの尊厳を損ないます…。暴力は、もっと多くの暴力を生み、憎しみは、もっと多くの憎しみを、死は、もっと多くの死をもたらします。私たちは、この避けられないように見える循環を断ち切らねばなりません」(211)。

 

 “Truth, in fact, is an inseparable companion of justice and mercy. All three together are essential to building peace; each, moreover, prevents the other from being altered… Truth should not lead to revenge, but rather to reconciliation and forgiveness. Truth means telling families torn apart by pain what happened to their missing relatives. Truth means confessing what happened to minors recruited by cruel and violent people. Truth means recognizing the pain of women who are victims of violence and abuse… Every act of violence committed against a human being is a wound in humanity’s flesh;every violent death diminishes us as people… Violence leads to more violence, hatred to more hatred, death to more death. We must break this cycle which seems inescapable”.[211]

 

*平和の巧みなわざと構造 THE ART AND ARCHITECTURE OF PEACE

 

  1. 平和への道は、社会を当たり障りのない、画一的なものにすることではなく、すべての人を益する目標を追求するために、人々が力を合わせ、協力し合うことです。様々な実践的な提案と多様な経験は、共通の目標を達成し、共通善に役立てることができます。社会が経験している問題は明確に識別される必要があります―そうした問題を認識し、解決する異なった方法があることが十分に理解されるように。

   社会的な一致への道は常に、他人が、少なくとも部分的でも、正当な観点や貢献できる価値のあるものを持っている可能性を認めることを、必然的に伴います。たとえ彼らが間違っていたとしても、あるいは不適切な行動をとっていたとしても、です。私たちは、「他の人たちが言ったことや行ったことで、その人たちを制約してはならず、むしろ彼らが体現している約束を大切にすべき」(212)です。それは、常に新しい希望の火花をもたらす約束なのです。

 

 The path to peace does not mean making society blandly uniform, but getting people to work together, side-by-side, in pursuing goals that benefit everyone. A wide variety of practical proposals and diverse experiences can help achieve shared objectives and serve the common good. The problems that a society is experiencing need to be clearly identified, so that the existence of different ways of understanding and resolving them can be appreciated.

 The path to social unity always entails acknowledging the possibility that others have, at least in part, a legitimate point of view, something worthwhile to contribute, even if they were in error or acted badly. “We should never confine others to what they may have said or done, but value them for the promise that they embody”,[212] a promise that always brings with it a spark of new hope.

  1.  南アフリカの司教団は、真の和解が積極的に達成されるために必要なことについて、次のように言明しています。「新しい社会―他の人々を支配するよりも、奉仕することを基礎に置いた社会、可能な限り多くの富を得ようと奪い合うよりも、持っているものを他の人々と分かち合うことを基礎に置いた社会、人間として共に生きる価値が、家族、国家、民族、あるいは文化などよりも、極めて重要である社会―を形成することだ」(213)。韓国の司教団が指摘しているように、真の平和は「対話を通じて、和解と相互の発展の追求を通し、正義のために努力することによってのみ、達成される」(214)のです。

 

 The Bishops of South Africa have pointed out that true reconciliation is achieved proactively, “by forming a new society, a society based on service to others, rather than the desire to dominate; a society based on sharing what one has with others, rather than the selfish scramble by each for as much wealth as possible; a society in which the value of being together as human beings is ultimately more important than any lesser group, whether it be family, nation, race or culture”.(213) As the Bishops of South Korea have pointed out, true peace “can be achieved only when we strive for justice through dialogue, pursuing reconciliation and mutual development”.[214]

 

230. 一人ひとりとしての独自性を失わずに、私たちの分裂を克服しようとするためには、すべての人に基本的な帰属意識があることが前提となります。確かに、「各人や社会集団が本当に居心地よく感じるときに、社会はその恩恵を受けます。家族の中では、親、祖父母、子供は皆、居心地よくいられるのです。誰も除外されません。

 誰かが問題を抱えている場合、たとえ深刻な問題であっても、たとえ本人が自ら招いたことであっても、他の家族の者が彼を助け、彼を支えます。彼の問題は家族の問題なのです… 。 家族の中では、全員が共通の目標に貢献し、全員が共通の益のために働き、各々の個性を否定せずに、励ましたり、支えたりします。喧嘩はするかもしれませんが、変わらないものがあります。それは家族の絆です。家族の論争は必ずその後に解決されます。家族の一人ひとりの喜びや悲しみを全員が感じ取ります。これこそ、家族であることの意味なのです。

 私たちが、政治の分野での競争相手や隣人のことを、自分の子供たちや配偶者、母親、父親のことと同じように見なすことができれば、なんと良いことでしょう。私たちは自分たちの社会を愛しているのでしょうか。それとも、それは何かまだ遠く離れた存在で、私たちの関与しない何か匿名のもので、私たちがそのために尽力することのないもの、なのでしょうか」(215)。

 

 Working to overcome our divisions without losing our identity as individuals presumes that a basic sense of belonging is present in everyone. Indeed, “society benefits when each person and social group feels truly at home. In a family, parents, grandparents and children all feel at home; no one is excluded. If someone has a problem, even a serious one, even if he brought it upon himself, the rest of the family comes to his assistance; they support him. His problems are theirs… In families, everyone contributes to the common purpose; everyone works for the common good, not denying each person’s individuality but encouraging and supporting it. They may quarrel, but there is something that does not change: the family bond. Family disputes are always resolved afterwards. The joys and sorrows of each of its members are felt by all. That is what it means to be a family! If only we could view our political opponents or neighbours in the same way that we view our children or our spouse, mother or father! How good would this be! Do we love our society or is it still something remote, something anonymous that does not involve us, something to which we are not committed?”[215]

 

  1. 平和への具体的な道筋をつけるためには、しばしば交渉が必要となります。けれども、永続的な平和につながる変化の取り組みは、何よりも人々によって作られています。一人ひとりが、各自の日々の生活の仕方によって効果的なパン種として機能できます。素晴らしい変化は、机に向かっていたり、オフィスにいたりしては、生み出されません。

 これは、「一つの偉大な創造的な事業の中で果たすべき基本的な役割―希望と平和と和解に満ちた歴史の新しいページを書く役割-が誰にもあること」(216)を意味します。それぞれの専門分野に応じて、異なる社会制度が貢献する平和の 「構造」 がありますが、私たち全員が関わる平和の「巧みなわざ」 もあります。

 世界各地で行われてきた様々な和平交渉から、「私たちは、このような平和のもたらし方、復讐よりも理性を優先させる方法、政治と法律の微妙な調和は、一般の人々の関与を無視できないことを学んできました。平和は、善意の政治的、または経済的集団間の規範的な枠組みや制度的な取り決めによって、達成されることではありません…。 様々な共同体自身が集合記憶(注:集団や社会全体に共有されている記憶のこと)の進歩に影響を与えることができるように、しばしば見過ごされてきた分野の経験を私たちの和平プロセスに取り入れることは、常に有益なことです」(217)。

 

 Negotiation often becomes necessary for shaping concrete paths to peace. Yet the processes of change that lead to lasting peace are crafted above all by peoples; each individual can act as an effective leaven by the way he or she lives each day. Great changes are not produced behind desks or in offices. This means that “everyone has a fundamental role to play in a single great creative project: to write a new page of history, a page full of hope, peace and reconciliation”.[216] There is an “architecture” of peace, to which different institutions of society contribute, each according to its own area of expertise, but there is also an “art” of peace that involves us all.

 From the various peace processes that have taken place in different parts of the world, “we have learned that these ways of making peace, of placing reason above revenge, of the delicate harmony between politics and law, cannot ignore the involvement of ordinary people. Peace is not achieved by normative frameworks and institutional arrangements between well-meaning political or economic groups… It is always helpful to incorporate into our peace processes the experience of those sectors that have often been overlooked, so that communities themselves can influence the development of a collective memory”.[217]

 

232. 一国の社会的平和の構築に終わりはありません。むしろ、それは終わりのない努力であり、すべての人の献身を要求し、国民の団結を構築するために、たゆまぬ努力をするように、私たちに迫ります。 平和共存の達成に向ける途中にある障害、相違、様々な視点にもかかわらず、この取り組みは、『出会いの文化』 を促進するための闘いを粘り強く続けることを、私たちに呼び掛けます。そのためには、私たちは最高の尊厳を享受する人間、および共通善の尊重を、すべての政治的、社会的、経済的活動の中心に置く必要があります。 この決意が、復讐の誘惑と短期的な党派的利害の満足から、私たちを逃す助けとなることを願いましょう。」(218)。

   暴力的な大衆的政治行動は、どちらの側にとっても、解決策を見つける助けにはなりません。その主な理由は、コロンビアの司教団が正しく指摘しているように、「市民のデモの原因と目的は必ずしも明確ではない。特定の政治的な操作が存在し、場合によっては党派的利害のために利用されてきた」(219)からです。

 

 There is no end to the building of a country’s social peace; rather, it is “an open-ended endeavour, a never-ending task that demands the commitment of everyone and challenges us to work tirelessly to build the unity of the nation. Despite obstacles, differences and varying perspectives on the way to achieve peaceful coexistence, this task summons us to persevere in the struggle to promote a ‘culture of encounter’. This requires us to place at the center of all political, social and economic activity the human person, who enjoys the highest dignity, and respect for the common good. May this determination help us flee from the temptation for revenge and the satisfaction of short term partisan interests”.[218]

 Violent public demonstrations, on one side or the other, do not help in finding solutions. Mainly because, as the Bishops of Colombia have rightly noted, the “origins and objectives of civil demonstrations are not always clear; certain forms of political manipulation are present and in some cases they have been exploited for partisan interests”.[219]

 

*最も小さな者から始める  Beginning with the least

 

  1. 社会的な友好関係の構築とは、歴史上の問題を抱えていた時期に、異なる立場にあった集団間の和解が求められるだけでなく、社会の最も貧しく脆弱な部門との新たな出会いを求めることでもあります。なぜなら、平和とは、「単に戦争がない、ということではなく、見過ごされたり、無視されたりすることが多い、私たちの兄弟姉妹の尊厳を認識し、守り、そして具体的に回復させるための、たゆまぬ努力することであり、とりわけ、大きな責任を負っている者たちにとって、それによって、自分自身を自分たちの国の運命の主な主役と見なすことができる」(220)からです。

 

 Building social friendship does not only call for rapprochement between groups who took different sides at some troubled period of history, but also for a renewed encounter with the most impoverished and vulnerable sectors of society. For peace “is not merely absence of war but a tireless commitment – especially on the part of those of us charged with greater responsibility – to recognize, protect and concretely restore the dignity, so often overlooked or ignored, of our brothers and sisters, so that they can see themselves as the principal protagonists of the destiny of their nation”.[220]

 

  1. 多くの場合、社会のより脆弱な人たちが、”不公正な一般化”の犠牲者です。貧しい人々や疎外された人々が、反社会的に見える態度で反応することがあったら、そうした反応は多くの場合、軽蔑や社会的排除の歴史から生まれたものであることを認識すべきです。中南米の司教団は「今日の貧しい人々の価値観、正当な望み、そして彼ら自身の信仰の生き方を、深く理解できるのは、私たちを友人にしてくれる親密さだけだ。貧しい人たちのための選択肢は、私たちを貧しい人たちとの友情に導くはず」(221)ということに気付いています。

 

 Often, the more vulnerable members of society are the victims of unfair generalizations. If at times the poor and the dispossessed react with attitudes that appear antisocial, we should realize that in many cases those reactions are born of a history of scorn and social exclusion. The Latin American Bishops have observed that “only the closeness that makes us friends can enable us to appreciate deeply the values of the poor today, their legitimate desires, and their own manner of living the faith. The option for the poor should lead us to friendship with the poor”.[221]

 

  1. 平穏な社会的共存のために活動している人たちは、不平等と、統合的な人間開発の欠如が平和を不可能にしていることを、決して忘れてはなりません。確かに、「均等な機会がなければ、異なる形態の攻撃と紛争が増殖する肥沃な地勢を見つけ、いつか爆発してしまうでしょう。地域であれ、国家であれ、世界であれ、社会が自らの一部を周縁部に残すことを厭わないとき、法の執行や監視システムに費やされる、いかなる政治的な取り組みや人的物的資源も、いつまでも平穏を保障することはできません」(222)。私たちが新たに始めなければならないとしたら、それは常に私たちの兄弟姉妹の中で「最も小さな者」からでなければなりません。

 

 Those who work for tranquil social coexistence should never forget that inequality and lack of integral human development make peace impossible. Indeed, “without equal opportunities, different forms of aggression and conflict will find a fertile terrain for growth and eventually explode. When a society – whether local, national or global – is willing to leave a part of itself on the fringes, no political programmes or resources spent on law enforcement or surveillance systems can indefinitely guarantee tranquility”.[222] If we have to begin anew, it must always be from the least of our brothers and sisters.

 

*赦しの価値と意味 THE VALUE AND MEANING OF FORGIVENESS

 

  1. 和解について語らない方がいい、と考えている人たちがいます。なぜなら、彼らは紛争、暴力、崩壊は「社会の正常な機能の一部」と考えているからです。どのような人間の集団においても、常に様々な当事者の間では、多かれ少なかれ、微妙な権力闘争が存在するのです。他の人たちは、赦しを促進するのは、自分の立場と影響力を他人に譲歩することを意味すると考えています。

 そのため、彼らは異なる集団間の勢力の均衡を保ちつつ、現状を維持した方が良い、と考えています。さらに、和解とは、弱さの表れだと考える人もいます。その人たちは本当の意味での真剣な対話ができず、不正なことを無視することによって、問題を回避することを選択します。彼らは問題に対処することができず、見かけ上の”平和”を選んでしまいます。

 

There are those who prefer not to talk of reconciliation, for they think that conflict, violence and breakdown are part of the normal functioning of a society. In any human group there are always going to be more or less subtle power struggles between different parties. Others think that promoting forgiveness means yielding ground and influence to others. For this reason, they feel it is better to keep things as they are, maintaining a balance of power between differing groups. Still others believe that reconciliation is a sign of weakness; incapable of truly serious dialogue, they choose to avoid problems by ignoring injustices. Unable to deal with problems, they opt for an apparent peace.

 

*避けられない対立  Inevitable conflict

 

237. 赦しと和解は、キリスト教の中心的なテーマであり、そして様々な形で、他の宗教の中心的なテーマでもあります。しかし、これらの深い信念の理解と提示が不十分だと、運命論や無関心、不正、さらには不寛容や暴力につながる危険性があります。

 

 Forgiveness and reconciliation are central themes in Christianity and, in various ways, in other religions. Yet there is a risk that an inadequate understanding and presentation of these profound convictions can lead to fatalism, apathy and injustice, or even intolerance and violence.

 

  1. イエスは決して暴力や不寛容を促されませんでした。イエスは、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ福音書20章25節~26節)と、他人に対する権力を得るための武力行使を公然と非難しました。

 代わりに、福音書は「七の七十倍」(マタイ福音書18章22節)赦すように、私たちに教えており、また、自分自身は赦されているのに他人を赦すことができなかった、無慈悲な召使いの例を示してくれています(マタイ福音書18章23節~35節参照)。

 

 Jesus never promoted violence or intolerance. He openly condemned the use of force to gain power over others: “You know that the rulers of the Gentiles lord itoverover them, and their great ones are tyrants over them. It will not be so among you” (Mt 20:25-26). Instead, the Gospel tells us to forgive “seventy times it over (Mt 18:22) and offers the example of the unmerciful servant who was himself forgiven, yet unable to forgive others in turn (cf. Mt 18:23-35).

 

  1. 新約聖書の他の箇所を読むと、腐敗と逸脱が蔓延した異教の世界に住む初期のキリスト教共同体が、いかに揺るぎない忍耐、寛容、理解を示そうとしたか、が分かります。いくつかの箇所には、この点について非常に明確なものがあります。私たちは、反対する者を「柔和な心で」教え導くように教えられており(使徒パウロのテモテへの手紙2・2章25節)、「誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。

 私たち自身もかつては無分別」(使徒パウロのテトスへの手紙3章2節~3節)だったからだ、と促されています。使徒言行録には、一部の権威によって迫害されていたにもかかわらず、弟子たちは「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章47節、4章21節、33節、5章13節参照)と記されています。

 

 Reading other texts of the New Testament, we can see how the early Christian communities, living in a pagan world marked by widespread corruption and aberrations, sought to show unfailing patience, tolerance and understanding. Some texts are very clear in this regard: we are told to admonish our opponents “with gentleness” (2 Tim 2:25) and encouraged “to speak evil of no one, to avoid quarreling, to be gentle, and to show every courtesy to everyone. For we ourselves were once foolish” (Tit 3:2-3). The Acts of the Apostles notes that the disciples, albeit persecuted by some of the authorities, “had favour with all the people” (2:47; cf. 4:21.33; 5:13).

 

240. しかし、赦しと平和と社会的調和について深く考えるとき、私たちはまた、キリストの耳障りな御言葉にも出会います―「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。/人をその父に/娘を母に/嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる」(マタイ福音書10章34節~36節)。

 これらの御言葉は、それが出てきた章の文脈の中で理解される必要があります。そこで、イエスがご自分に従う私たちの決断への忠実さ、を語っておられるのは明らかです。たとえその決断が様々な苦難を伴うものであっても、そして私たちの愛する人でさえ、それを受け入れるのを拒否しても、私たちはその決断を恥じるべきではありません。

   キリストの御言葉は、私たちに争いを求めるように勧めるのではなく、家族や社会の想定された平和のための他人への恭順が私たち自身の忠実さを損なうことのないように、避けられないときには耐え忍ぶことを促しているのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、教会は「あらゆる可能性のある社会的紛争を非難するつもりはありません。教会は、歴史の経過の中で、異なる社会集団間の利害の衝突が必然的に生じることを十分に認識しており、そのような紛争に直面する、キリスト者はしばしば、正直に、そして断固として、立場を取らなければならない」(223)と述べています。

 

 Yet when we reflect upon forgiveness, peace and social harmony, we also encounter the jarring saying of Christ: “Do not think that I have come to bring peace to the earth; I have not come to bring peace, but a sword. For I have  come to set a man against his father, and a daughter against her mother, and a daughter-in-law against her mother-in-law; and a man’s foes will be members of his own household” (Mt 10:34-36). These words need to be understood in the context of the chapter in which they are found, where it is clear that Jesus is speaking of fidelity to our decision to follow him; we are not to be ashamed of that decision, even if it entails hardships of various sorts, and even our loved ones refuse to accept it.

 Christ’s words do not encourage us to seek conflict, but simply to endure it when it inevitably comes, lest deference to others, for the sake of supposed peace in our families or society, should detract from our own fidelity. Saint John Paul II observed that the Church “does not intend to condemn every possible form of social conflict. The Church is well aware that in the course of history conflicts of interest between different social groups inevitably arise, and that in the face of such conflicts Christians must often take a position, honestly and decisively”.[223]

 

*正当な対立と赦し Legitimate conflict and forgiveness

 

  1. また、これは、私たち自身の権利を放棄したり、腐敗した役人や犯罪者、あるいは私たちの尊厳を傷つけたりするような人たちに立ち向かうことになっても、赦しを呼びかける、という意味でもありません。私たちは例外なく、すべての人を愛するように召されています。

 また、抑圧者を愛することは、その人が私たちを抑圧し続けることを許したり、彼がすることが許容されると思わせたりすることを、意味しません。そうではなく、抑圧者に対する真の愛とは、「抑圧をやめさせる方法を模索すること」であり、「彼が行使の仕方の分からない、自分と他人の人間性を損なう権力を剥ぎ取ること」を意味します。

    赦しとは、抑圧者が自分の尊厳と他人の尊厳を踏みにじり続けることを許したり、犯罪者が悪行を続けることを許したりすることではありません。不正に苦しむ人々は、神様からの愛情深い賜物として授かった尊厳を守らなければならないからこそ、自分のと家族の権利を積極的に守らなければなりません。犯罪者が私や愛する人に危害を加えた場合、私が正義を求め、この人あるいは他の誰かが、再び私や他の人に危害を加えないように保障することを誰も禁じることはできません。これは完全に公正なことです。赦しはそれを禁じるのではなく、実際にはそれを要求します。

 

 Nor does this mean calling for forgiveness when it involves renouncing our own rights, confronting corrupt officials, criminals or those who would debase our dignity. We are called to love everyone, without exception; at the same time, loving an oppressor does not mean allowing him to keep oppressing us, or letting him think that what he does is acceptable. On the contrary, true love for an oppressor means seeking ways to make him cease his oppression; it means stripping him of a power that he does not know how to use, and that diminishes his own humanity and that of others.

Forgiveness does not entail allowing oppressors to keep trampling on their own dignity and that of others, or letting criminals continue their wrongdoing. Those who suffer injustice have to defend strenuously their own rights and those of their family, precisely because they must preserve the dignity they have received as a loving gift from God. If a criminal has harmed me or a loved one, no one can forbid me from demanding justice and ensuring that this person – or anyone else – will not harm me, or others, again. This is entirely just; forgiveness does not forbid it but actually demands it.

 

242. 大切なのは、私たち自身の魂や民族の魂にとって不健康な怒りを煽ったり、復讐や相手を滅ぼすようなことに執着したりしないことです。そのようなやり方では、誰も内なる平安を達成したり、普通の生活に戻ったりすることはできません。真実は、「人々を団結させ、一緒にし、違いを解決する力が、復讐と憎しみから生まれるものであるなら、いかなる家族にも、隣人の集団にも、いかなる民族にも、ましてや国にも、未来はない」ということです。

  「私たちは、復讐のために和解し、団結することはできません。他人が私たちに遭わせたのと同じ暴力で、他人に遭わせたり、一見合法的な庇護の下で、報復の機会を計画したりすることもできません」(224)。そのようにして得られるものは何もなく、結局、すべてが失われてしまうのです。

 

 The important thing is not to fuel anger, which is unhealthy for our own soul and the soul of our people, or to become obsessed with taking revenge and destroying the other. No one  chieves inner peace or returns to a normal life in that way. The truth is that “no family, no group of neighbours, no ethnic group, much less a nation, has a future if the force that unites them, brings them together and resolves their differences is vengeance and hatred. We cannot come to terms and unite for the sake of revenge, or treating others with the same violence with which they treated us, or plotting opportunities for retaliation under apparently legal auspices”.[224] Nothing is gained this way and, in the end, everything is lost.

  1. 確かに「紛争が残した不正、敵意、不信という苦い後遺症を克服するのは簡単なことではありません。それは、善をもって悪を克服し(使徒パウロのローマの信徒への手紙12章21節)、和解、団結、平和を育む美徳を培うことによってのみ可能」(225)なのです。そのようにして「善良な心を養う人は、困難や誤解の中にあっても、善良さが平和な良心と深い喜びに繋がることに気付くのです。たとえ怒っていても、善は決して弱くはなく、むしろ復讐を拒むことで強さを示します」(226)。

 私たち一人一人が気付くべきです。「私たちが自分の兄弟や姉妹に対して抱く手厳しい見方、癒されなかった傷、決して許されなかった罪、自分を傷つけるだけの憎しみさえも、全ては自分の心の中に抱える苦悶、大きく激しい炎になる前に消される必要のある”心の奥深くに燃える小さな炎””だ」(227)ということを。

 

 To be sure, “it is no easy task to overcome the bitter legacy of injustices, hostility and mistrust left by conflict. It can only be done by overcoming evil with good (cf. Rom 12:21) and by cultivating those virtues which foster reconciliation, solidarity and peace”.[225] In this way, “persons who nourish goodness in their heart find that such goodness leads to a peaceful conscience and to profound joy, even in the midst of difficulties and misunderstandings. Even when affronted, goodness is never weak but rather, shows its strength by refusing to take revenge”.[226]

 Each of us should realize that “even the harsh judgment I hold in my heart against my brother or my sister, the open wound that was never cured, the offense that was never forgiven, the rancour that is only going to hurt me, are all instances of a struggle that I carry within me, a little flame deep in my heart that needs to be extinguished before it turns into a great blaze”.[227]

 

*先に進むための最良の方法 The best way to move on

 

244. 対立が解消されず、隠されたり、過去に終わったこととされたりする場合、黙っていることは、重大な犯罪の共犯者になってしまう可能性があります。 本物の和解は、対立から逃げず、対話と、率直、誠実で忍耐強い交渉をすることで、達成されます。 異なる集団の間の対立は「憎しみや互いの嫌悪を自制すれば、正義への欲求に基づく、互いの相違についての率直な議論に徐々に変化」(228)します。

 

  When conflicts are not resolved but kept hidden or buried in the past, silence can lead to complicity in grave misdeeds and sins. Authentic reconciliation does not flee from conflict, but is achieved in conflict, resolving it through dialogue and open, honest and patient negotiation. Conflict between different groups “if it abstains from enmities and mutual hatred, gradually changes into an honest discussion of differences founded on a desire for justice”.[228]

 

245. 私は何度もこのように話してきました。「社会における友情の構築に不可欠な原則、すなわち、一致は、対立よりも優れている… それは、一種の混合主義(syncretism=異なる信仰や一見相矛盾する信仰を、結合・混合すること、さまざまな学派・流派の実践・慣習を混合すること)や、一方の他方への吸収を選ぶのではなく、もうひとつ高いレベルで、双方が妥当で有益なものを保てるような解決を選ぶことだ」(229)と。

 私たち皆が知っているのは、「私たちが、個人や共同体として、自分や特定の利益よりも先を見ることを学ぶとき、対立、緊張、そして集団でさえ反目していると考えられていたものが、新しい命のもととなる多面的な一致を成し遂げることが可能な状況の中で、理解と相互の関わり合いが実を結ぶ…」(230)ということです。

 

 On numerous occasions, I have spoken of “a principle indispensable to the building of friendship in society: namely, that unity is greater than conflict… This is not to opt for a kind of syncretism, or for the absorption of one into the other, but rather for a resolution which takes place on a higher plane and preserves what is valid and useful on both sides”.[229] All of us know that “when we, as individuals and communities, learn to look beyond ourselves and our particular interests, then understanding and mutual commitment bear fruit… in a setting where conflicts, tensions and even groups once considered inimical can attain a multifaceted unity that gives rise to new life”.[230]

 

*記憶について

 

246. 多くの不当で残酷な苦しみに耐えてきた人々について、一種の「社会的な赦し」が求められてはなりません。 和解は個人的な行為であり、誰もそれを社会全体に押し付けることはできません。ただ、それを促進する必要性は非常に大きい。 それが社会とその司法制度によって全く合法的にそうすることが求められたとしても、厳密に個人的なやり方で、自由で寛大な判断によって、誰かが罰することを求めることを選ばない(マタイ福音書5章44-46節)ことはできます。

 しかし、命令によって傷口を縛ったり、”忘却のマント”で不正行為を覆い隠したりすることで”包括的な和解”を宣言することはできません。誰が他の人の名において、赦す権利を主張できますか?受けた危害を忘れておくことのできる人によって示される赦しは感動的ですが、それはまた、赦すことのできない人にとっては人間的に理解しがたいことです。どのような場合にも、忘れることは決して、答えになりません。

 

 Of those who have endured much unjust and cruel suffering, a sort of “social forgiveness” must not be demanded. Reconciliation is a personal act, and no one can impose it upon an entire society, however great the need to foster it. In a strictly personal way, someone, by a free and generous decision, can choose not to demand punishment (cf. Mt 5:44-46), even if it is quite legitimately demanded by society and its justice system. However, it is not possible to proclaim a “blanket reconciliation” in an effort to bind wounds by decree or to cover injustices in a cloak of oblivion. Who can claim the right to forgive in the name of others? It is moving to see forgiveness shown by those who are able to leave behind the harm they suffered, but it is also humanly understandable in the case of those who cannot. In any case, forgetting is never the answer.

 

247. 「ショア」(注:フランスのクロード・ランズマン監督が1985年に完成した長編映画。ユダヤ人絶滅政策ーホロコーストーに関わった人々へのインタビュー集だが、演出もところどころにされており、全くのドキュメンタリーではない)を忘れてはなりません。 それは、「誤ったイデオロギーに駆り立てられ、民族の起源や宗教的な信念に関係なく無条件に尊敬に値する一人ひとりの基本的な尊厳が見えなくなった時に、人の悪が沈む深さの永続的なシンボル」(231)です。

 このことについて考える時、私はこのような祈りを繰り返さずにはいられませんー「主よ、あなたの憐れみの中で私たちを思い起こしてください。 私たちに、自分たち人間がしたことを恥じ、この巨大な偶像崇拝を、あなたが土から創られ、その息で命を与えられた私たち自身の肉を軽んじ、打ち砕いたことを恥じる恵みを、お与えください。 そのようなことは二度と、主よ、二度といたしません!」(232)。

 

 The Shoah must not be forgotten. It is “the enduring symbol of the depths to which human evil can sink when, spurred by false ideologies, it fails to recognize the fundamental dignity of each person, which merits unconditional respect regardless of ethnic origin or religious belief”.[231] As I think of it, I cannot help but repeat this prayer: “Lord, remember us in your mercy. Grant us the grace to be ashamed of what we men have done, to be ashamed of this massive idolatry, of having despised and destroyed our own flesh which you formed from the earth, to which you gave life with your own breath of life. Never again, Lord, never again!”.[232]

 

248. 広島と長崎に投下された原子爆弾も、忘れてはなりません。 もう一度、言います。「私はすべての犠牲者の方々に敬意を表します。そして、最初の瞬間を生き延び、その後何年もの間、肉体的な酷い苦しみと、活力を枯渇させた死の精神的な源に耐えた人々の力強さと尊厳に頭を下げます。 現在そして将来の世代が、過去に起きたこのようなことの記憶を失うことは、許されません。

 それは、より公正で友愛に満ちた未来の構築を確実にし、奨励する記憶なのです」(233)。 また、さまざまな国で続いている迫害、奴隷取引、民族の抹殺、そして私たち人類を恥じさせる他の多くの歴史的出来事を、忘れてはなりません。 それらは常に、そして新たに記憶する必要があります。 私たちは決して、そうしたことに習慣化したり、慣れたりしてはなりません。

 

 Nor must we forget the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki. Once again, “I pay homage to all the victims, and I bow before the strength and dignity of those who, having survived those first moments, for years afterward bore in the flesh immense suffering, and in their spirit seeds of death that drained their vital energy… We cannot allow present and future generations to lose the memory of what happened. It is a memory that ensures and encourages the building of a more fair and fraternal future”.[233] Neither must we forget the persecutions, the slave trade and the ethnic killings that continue in various countries, as well as the many other historical events that make us ashamed of our humanity. They need to be remembered, always and ever anew. We must never grow accustomed or inured to them.

 

  1. 今では、ページをめくり、「これらすべてのことは、ずっと昔に起きたことだ。未来に目を向けるべきだ」と考えたくなるのは簡単です。でも、どうか、そのように考えないように!過去を振り返らずに、前に進むことはできません。正直で曇りのない記憶を欠いては、進歩しません。

 私たちは「集合意識(注:社会の成員に共通している信念や感情の総体)の炎を燃やし続け、起こったことの恐怖を次の世代に証言していく必要があります。なぜなら、証言は、「犠牲となった人々の記憶を蘇らせ、保存し、それによって、支配と破壊のあらゆる欲求に対して、人間の良心が立ち上がるようにする」(234)からです。

 犠牲者自身、個人、社会集団または国家が、そうする必要があります。大きな罪悪への忍耐という理由を付けて、報復とあらゆる種類の暴力を正当化する思考に負けないように。そのために、私が考えるのは、残虐行為だけでなく、そのように大きな非人道性と腐敗の中で尊厳を保ち、連帯、赦し、そしての友愛を選んだすべての人々を、記憶することの必要性です。善いことを記憶することも、健全なことです。

 

 Nowadays, it is easy to be tempted to turn the page, to say that all these things happened long ago and we should look to the future. For God’s sake, no! We can never move forward without remembering the past; we do not progress without an honest and unclouded memory. We need to “keep alive the flame of collective conscience, bearing witness to succeeding generations to the horror of what happened”, because that witness “awakens and preserves the memory of the victims, so that the conscience of humanity may rise up in the face of every desire for dominance and destruction”.[234] The victims themselves – individuals, social groups or nations – need to do so, lest they succumb to the mindset that leads to justifying reprisals and every kind of violence in the name of the great evil endured. For this reason, I think not only of the need to remember the atrocities, but also all those who, amid such great inhumanity and corruption, retained their dignity and, with gestures small or large, chose the part of solidarity, forgiveness and fraternity. To remember goodness is also a healthy thing.

 

*赦すことは「忘れること」ではない Forgiving but not forgetting

 

250. 赦すことは「忘れること」を意味しませんー否定したり、相対化したり、隠蔽したりを決してできない現実に直面するとき、赦しがなお可能になるということです。決して容認できない、正当化できない、あるいは言い訳のできない行為に直面した時、私たちはそれでも赦すことができるのです。何らかの理由で忘れることのできないものに直面したとき、私たちはそれでも赦すことができるのです。強制されたのではない、心からの赦しは、気高く、赦すという神の無限の力の反映なのです。もし赦しが無償であれば、悔い改めに抵抗のある、赦しを乞えない人にさえ、示すことができるのです。

 

 Forgiving does not mean forgetting. Or better, in the face of a reality that can in no way be denied, relativized or concealed, forgiveness is still possible. In the face of an action that can never be tolerated, justified or excused, we can still forgive. In the face of something that cannot be forgotten for any reason, we can still forgive. Free and heartfelt forgiveness is something noble, a reflection of God’s own infinite ability to forgive. If forgiveness is gratuitous, then it can be shown even to someone who resists repentance and is unable to beg pardon.

 

251. 本当に赦す人は、「忘れた」のではありません。忘れる代わりに、自分をひどく苦しめた破壊的な力と同じ力に従わない道を選んだのです。本当に赦す人は悪循環を断ち切り、破壊力が進むのを止めます。大打撃をもたらすような復讐心を、社会に広めない道を選びます。復讐が犠牲になった人を満足させることは、決してありません。犯罪があまりにもおぞましく、残酷であるため、犯人を罰しても受けた損害を償うのに十分ではないからです。犯人を殺したとしても、十分ではないし、どのように拷問をしても、犠牲になった人に与えられた苦痛に見合わないことは明らかです。復讐は何も解決しません。

 

 Those who truly forgive do not forget. Instead, they choose not to yield to the same destructive force that caused them so much suffering. They break the vicious circle; they halt the advance of the forces of destruction. They choose not to spread in society the spirit of revenge that will sooner or later return to take its toll. Revenge never truly satisfies victims. Some crimes are so horrendous and cruel that the punishment of those who perpetrated them does not serve to repair the harm done. Even killing the criminal would not be enough, nor could any form of torture prove commensurate with the sufferings inflicted on the victim. Revenge resolves nothing.

 

252. これは、処罰を免れることを意味しません。正義は、個人的な怒りのはけ口としてではなく、新たな罪を防ぎ、共通善を守る手段として、愛の正義と犠牲者への敬意から、適切な形で追求されるべきです。赦しはまさに、復讐の悪循環や忘却という不正に陥ることなく、正義を追求することを可能にするのです。

 

 This does not mean impunity. Justice is properly sought solely out of love of justice itself, out of respect for the victims, as a means of preventing new crimes and protecting the common good, not as an alleged outlet for personal anger. Forgiveness is precisely what enables us to pursue justice without falling into a spiral of revenge or the injustice of forgetting.

 

253. 不正行為が双方に起きたとき、それが同程度に重大なのか、それとも何らかの方法で比べられるのかを、明確に考慮に入れることが重要です。国家が、組織や権力を使って犯した暴力は、特定の集団による暴力と同じ程度ではありません。いかなる出来事においても、一方の不当な被害だけを悼むべきだと主張することはできません。クロアチアの司教団は言明しています。「私たちは罪のない犠牲者一人ひとりに対して同等の敬意を払わなくてはならない。人種、国家、信仰、あるいは党派による差異は存在しえない」(235)と。

 

 When injustices have occurred on both sides, it is important to take into clear account whether they were equally grave or in any way comparable. Violence perpetrated by the state, using its structures and power, is not on the same level as that perpetrated by particular groups. In any event, one cannot claim that the unjust sufferings of one side alone should be commemorated. The Bishops of Croatia have stated that, “we owe equal respect to every innocent victim. There can be no racial, national, confessional or partisan differences”.[235]

 

254. 私は神に祈ります。「兄弟姉妹との出会いのために、私たちの心の準備をさせてくださいますように。そうすれば、私たちは政治的な考えや、言葉、文化、宗教から来る違いを克服できるやようになります。神の慈しみの香油で私たちの全身を聖別し、過ち、誤解、不和から生じた傷を癒やしてくださいますように。そして平和を求める厳しくも豊かな道へ、謙遜と優しさをもって、私たちを派遣してくださる恵みを、神にお願いしましょう」(236)。

 

 I ask God “to prepare our hearts to encounter our brothers and sisters, so that we may overcome our differences rooted in political thinking, language, culture and religion. Let us ask him to anoint our whole being with the balm of his mercy, which heals the injuries caused by mistakes, misunderstandings and disputes. And let us ask him for the grace to send us forth, in humility and meekness, along the demanding but enriching path of seeking peace”.[236]

*戦争と死刑  War and the Death Penalty

 

255.  特に劇的な環境での”解決策”として目にするかも知れない二つの極端な選択肢があります。そのような選択肢は、問題の解決にはならない誤った回答、そして国と国際社会の構造を破壊するような新たな要素をもたらす以外の何ものでもないものだ、という自覚を欠いたもの。つまり、それは「戦争」と「死刑」です。

 

 There are two extreme situations that may come to be seen as solutions in especially dramatic circumstances, without realizing that they are false answers that do not resolve the problems they are meant to solve and ultimately do no more than introduce new elements of destruction in the fabric of national and global society. These are war and the death penalty.

 

*戦争の不正 The injustice of war

 

256. 「悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜び」(箴言12章20節)があります。それでも、「戦争」に解決策を見い出そうとする人々がいます。戦争は、さまざまな関係の崩壊、覇権主義的な野心、権力の乱用、他者への恐怖、多様性を障害物と見なす傾向、によって煽られることがよくあります(237)。戦争は過去からやってくる亡霊ではなく、常に存在する脅威なのです。私たちの世界は、「すでに活動を始め、良い実をつけ始めた平和への遅々とした歩み」の途上において、増大するさまざまな困難に遭遇しています。

 

 “Deceit is in the mind of those who plan evil, but those who counsel peace have joy” (Prov 12:20).Yet there are those who seek solutions in war, frequently fueled by a breakdown in relations, hegemonic ambitions, abuses of power, fear of others and a tendency to see diversity as an obstacle.[237] War is not a ghost from the past but a constant threat. Our world is encountering growing difficulties on the slow path to peace upon which it had embarked, and which had already begun to bear good fruit.

 

257. 戦争の勃発を支持する状況が再び拡大していることから、私は何度も繰り返してこう言います。「戦争は、あらゆる権利の否定であり、環境への酷い攻撃です。もし私たちが真の人類の発展を望むなら、国家や人々の間の争いを避けるように、根気強く働かねばなりません。そのために、争う余地のない法の支配と、交渉、仲裁、調停に軸を置く姿勢を確実にする必要がありますー基本的な法的規範を定めた国連憲章が提示(238)しているように」。

 国連創設から75年と二千年期の最初の20年の経験は、国際的な規範の完全な適用がまさに有効であること、そしてその規範の適用に失敗することが害をもたらすことを教えました。

国連憲章は、透明性と誠実さをもって注意深く対象を観察し、適用されれば、守るべき正義の基準、平和への道筋になります。そこには、不当な意図を偽装したり、国や集団の党派的な利益を全地球的な共通善に優越させる余地はありません。諸規律が、都合の良い時に使われ、そうでなければ無視される、単なる手段として考えられるなら、制御できない力が解き放たれ、様々な社会、貧しく、傷つきやすい人々、友愛的な関係、環境、文化財に深刻な損害を与え、地球社会のとって取り返しのつかない損失をもたらします。

 

 Since conditions that favour the outbreak of wars are once again increasing, I can only reiterate that “war is the negation of all rights and a dramatic assault on the environment. If we want true integral human development for all, we must work tirelessly to avoid war between nations and peoples. To this end, there is a need to ensure the uncontested rule of law and tireless recourse to negotiation, mediation and arbitration, as proposed by the Charter of the United Nations, which constitutes truly a fundamental juridical norm”.[238]

 The seventy-five years since the establishment of the United Nations and the experience of the first twenty years of this millennium have shown that the full application of international norms proves truly effective, and that failure to comply with them is detrimental. The Charter of the United Nations, when observed and applied with transparency and sincerity, is an obligatory  eference point of justice and a channel of peace. Here there can be no room for disguising false intentions or placing the partisan interests of one country or group above the global common good.

 If rules are considered simply as means to be used whenever it proves advantageous, and to be ignored when it is not, uncontrollable forces are unleashed that cause grave harm to societies, to the poor and vulnerable, to fraternal relations, to the environment and to cultural treasures, with irretrievable losses for the global community.

 

  1.  戦争は、容易に選択されます―あらゆる種類のいわゆる人道主義的、防御的、あるいは予防的な言い訳に訴えることで、そして情報を操作することで、です。この数十年間、どの戦争も、表面的には「正当化」されてきました。「カトリック教会のカテキズム」には、軍事力を手段とした合法的な防御の可能性について書かれています。それには、特定の「倫理的正当性の厳格な条件」(239)がそろっていることを示すことも含まれています。

 ただ、防御の権利の行使について行き過ぎた拡大解釈に陥るのは容易です。そのようにして、ある人々は”予防的”な攻撃や戦争行為―「取り除こうとする害よりも、もっと深刻な害や混乱」(240)を伴うのがほとんど避けられない行為―さえも、不当に正当化します。

 核兵器、生物化学兵器の開発や、新たな技術によってもたらされる巨大で増大する(注:兵器としての)可能性が、戦争に、とても多くの罪のない一般人に対する「制御不能の破壊力」をもたらしているかどうかについて、議論が続いています。真理は「人類が自らに対してそのような力を持ったことは一度もなく、 しかも、そのような力が賢明に使われる保証は何もない」(241)ことにあります。

 私たちはもはや、戦争を解決策として考えることはできません。戦争がもたらす危険の可能性が、想定される利益よりも、恐らく、常にはるかに大きいからです。このような観点から、「正義の戦い」の可能性について語るために、これまで何世紀にもわたって入念に作られた合理的な基準を引き合いに出すことは、今日では極めて難しい。戦争は二度とあってはならない(242)のです!

 

 War can easily be chosen by invoking all sorts of allegedly humanitarian, defensive or precautionary excuses, and even resorting to the manipulation of information. In recent decades, every single war has been ostensibly “justified”. The Catechism of the Catholic Church speaks of the possibility of legitimate defense by means of military force, which involves demonstrating that certain “rigorous conditions of moral legitimacy”[239] have been met. Yet it is easy to fall into an overly broad interpretation of this potential right. In this way, some would also wrongly justify even “preventive” attacks or acts of war that can hardly avoid entailing “evils and disorders graver than the evil to be eliminated”.[240]

 At issue is whether the development of nuclear, chemical and biological weapons, and the enormous and growing possibilities offered by new technologies, have granted war an uncontrollable destructive power over great numbers of innocent civilians. The truth is that “never has humanity had such power over itself, yet nothing ensures that it will be used wisely”.[241] We can no longer think of war as a solution, because its risks will probably always be greater than its supposed benefits. In view of this, it is very difficult nowadays to invoke the rational criteria elaborated in earlier centuries to speak of the possibility of a “just war”. Never again war![242]

 

259. グローバル化の進展とともに、世界のある一つの地域の即時的、実際的な解決策と思われるものが、暴力の連鎖の始まり、結果として、地球全体に危害を与え、将来の新たな、もっとひどい戦争への道を開く潜在的な作用の始まりに、しばしばなるのだ、ということを、付け加える必要があります。今日の世界では、ある国と他の国で別々に戦争が起きることは、もはやありえません。私たちが体験しているのは「(注:一つのものが)断片的になされる世界大戦」です。国々の運命はグローバルな舞台で互いに極めて密接に関係づけられているからです。

 

 It should be added that, with increased globalization, what might appear as an immediate or practical solution for one part of the world initiates a chain of violent and often latent effects that end up harming the entire planet and opening the way to new and worse wars in the future. In today’s world, there are no longer just isolated outbreaks of war in one country or another; Instead, we are experiencing a “world war fought piecemeal”, since the destinies of countries are so closely interconnected on the global scene.

 

260. 聖ヨハネ23世教皇の「戦争は侵害された正義の修復に適切な道具である、と断言することは、もはや道理にかなっていない」(243)という言葉があります。彼は、大きな国際的緊張の最中に、この言葉によって、冷戦時代に高まった平和への強い願いを表わしたのです。平和を訴えることは、いかなる特定の利益のたくらみや武器使用への信頼よりも有効である、という確信を、彼は支持しました。

 しかし、冷戦終結によってもたらされた機会は、将来に対する洞察と、運命共同体という自覚の共有が足りなかったために、十分に活かされませんでした。その代わりに、普遍的な共通善を掲げずに、党派的な利益を追求する方が容易だ、ということになってしまった。こうして、戦争という恐しい怪物が、新たな地歩を固め始めたのです。

 

 In the words of Saint John XXIII, “it no longer makes sense to maintain that war is a fit instrument with which to repair the violation of justice”.[243] In making this point amid great international tension, he voiced the growing desire for peace emerging in the Cold War period. He supported the conviction that the arguments for peace are stronger than any calculation of particular interests and confidence in the use of weaponry. The opportunities offered by the end of the Cold War were not, however, adequately seized due to a lack of a vision for the future and a shared consciousness of our common destiny. Instead, it proved easier to pursue partisan interests without upholding the universal common good. The dread spectre of war thus began to gain new ground.

 

261. いかなる戦争も、私たちの世界を戦争前よりも悪化させています。戦争は、政治と人間性の敗北、恥ずべき解決の断念、悪の力の前での手痛い敗北です。”理論的議論”という泥沼にはまり続けるのではなく、傷ついた犠牲者の身体に触れましょう。「巻き添え」にされたすべての一般市民の死をもう一度見ましょう。犠牲者自身に尋ねましょう。避難民や強制退去させられた人々、放射能や化学兵器の被害を受けた人々、子供を失った母親たち、身体的に不具になったり、”子供として過ごす時”を奪われた少年、少女のことを考えましょう。

 暴力の犠牲者たちの実際の話を聞き、彼らの目を通して現実を見つめ、心を開いて彼らの語る話に耳を傾けましょう。そうすることで、戦争の核心である”悪の地獄”を実感することができるのです。「平和を選ぶ軟弱な連中」とみなされても、私たちが悩むことはないでしょう。

 

 Every war leaves our world worse than was before. War is a failure of politics and of humanity, a shameful capitulation, a stinging defeat before the forces of evil. Let us not remain mired in theoretical discussions, but touch the wounded flesh of the victims. Let us look once more at all those civilians whose killing was considered “collateral damage”. Let us ask the victims themselves. Let us think of the refugees and displaced, those who suffered the effects of atomic radiation or chemical attacks, the mothers who lost their children, and the boys and girls maimed or deprived of their childhood.

 Let us hear the true stories of these victims of violence, look at reality through their eyes, and listen with an open heart to the stories they tell. In this way, we will be able to grasp the abyss of evil at the heart of war. Nor will it trouble us to be deemed naive for choosing peace.

 

262. もし私たちが、今起きている問題の解決として、核兵器、化学兵器、生物兵器の恐怖、あるいは脅威が「抑止力」になる、と考え続けるなら、ルールだけでは十分でありません。実際、平和と安全に対する最も重大な脅威―21世紀の多極な世界で多くの特性を持つ、たとえば、テロ、不均衡な戦い、ネットワーク上の安全保障(サイバーセキュリティ)、環境問題、貧困― を考えた場合、そのような課題への効果的な対応策としてきた”中途半端な核の抑止力”にかなり多くの疑問が生じます。

 どのような形であっても、核兵器の使用がもたらす、致命的な、人道上の、そして環境上の結果を考慮するとき、これらの懸念は、一層大きくなります。核兵器は、時間と場所を越えて、破壊的、無差別的、抑制不可能な影響を与えるからです。恐怖からくる安定が、実は恐怖を増大させ、人々の信頼関係を徐々に失わせるとき、どのようにして、この安定を持続できるか、私たち自身に問いかける必要があります。国際的な平和と安定は、安全に対する誤った意識、相互破壊や全滅の恐怖、単なる力のバランスの維持に基づくものであってはなりません。

 こうした文脈から、核兵器全廃という最終目的は、課題であり、倫理的、人道的責務となります。相互依存の増大とグローバル化は、「核兵器の脅威に対する対応は、すべて相互信頼に基づき、共同的、協調的であるべきだ」ということを意味します。このような相互信頼は、共通善に誠実に導かれる対話によってのみ、実現できます。ベールに覆われた、あるいは特定の利益を目指すような対話によって、ではありません」(244)。武器やその他の軍事費に使われるお金で、最終的に飢餓を終わらせ、最貧国の発展を奨励するグローバル基金(245)を創設しましょう。そうすれば、それらの国々の人々が、暴力や錯覚した解決策に訴えたり、より尊厳のある人生を求めて祖国を去る必要はなくなるでしょう。

 

 Rules by themselves will not suffice if we continue to think that the solution to current problems is deterrence through fear or the threat of nuclear, chemical or biological weapons. Indeed, “if we take into consideration the principal threats to peace and security with their many dimensions in this multipolar world of the twenty-first century as, for example, terrorism, asymmetrical conflicts, cybersecurity, environmental problems, poverty, not a few doubts arise regarding the inadequacy of nuclear deterrence as an effective response to such challenges.

 These concerns are even greater when we consider the catastrophic humanitarian and environmental consequences that would follow from any use of nuclear weapons, with devastating, indiscriminate and uncontainable effects, over time and space… We need also to ask ourselves how sustainable is a stability based on fear, when it actually increases fear and undermines relationships of trust between peoples. International peace and stability cannot be based on a false sense of security, on the threat of mutual destruction or total annihilation, or on simply maintaining a balance of power…

 In this context, the ultimate goal of the total elimination of nuclear weapons becomes both a challenge and a moral and humanitarian imperative… Growing interdependence and globalization mean that any response to the threat of nuclear weapons should be collective and concerted, based on mutual trust. This trust can be built only through dialogue that is truly directed to the common good and not to the protection of veiled or particular interests”.[244] With the money spent on weapons and other military expenditures, let us establish a global fund[245] that can finally put an end to hunger and favour development in the most impoverished countries, so that their citizens will not resort to violent or illusory solutions, or have to leave their countries in order to seek a more dignified life.

 

*死刑について The death penalty

 

263. もう一つ、他の人々を排除するやり方があります。それは、国ではなく個人に向けられたものー死刑です。聖ヨハネ・パウロ2世は、死刑は、倫理的観点から不適切であり、罰を科す正義という観点からももはや必要ではない、と明確かつ毅然として主張されています(246)。この立場から後退することはできません。今日、私たちは、はっきりと言います。「死刑は容認できない(247)し、カトリック教会は毅然として死刑廃止を世界中に求め、熱心に取り組む」(248)と。

 

 There is yet another way to eliminate others, one aimed not at countries but at individuals. It is the death penalty. Saint John Paul II stated clearly and firmly that the death penalty is inadequate from a moral standpoint and no longer necessary from that of penal justice.[246] There can be no stepping back from this position. Today we state clearly that “the death penalty is inadmissible”[247] and the Church is firmly committed to calling for its abolition worldwide.[248]

 

264. 新約聖書には、正義の名をもって自分の手で制裁してはならない(ローマの信徒への手紙12章17-19節参照)とする一方で、悪を行う者に権力が罰を科すことは必要(同13章4節、ペトロの手紙1・2章14節参照)との認識も示されています。実に、組織化された共同体を中心に組み立てられた市民生活は、共生のルールー故意の侵害に対して適切な償いを求めることーを必要とします」(249)。それは、合法的な公的権威は「犯罪の重大さに応じた罰を与える」(250)ことができ、そうせねばならないこと、そして司法権は「法律の領域で必要な独立性」(251)が保証されること、を意味します。

 

 In the New Testament, while individuals are asked not to take justice into their own hands (cf. Rom 12:17.19), there is also a recognition of the need for authorities to impose penalties on

evildoers (cf. Rom 13:4; 1 Pet 2:14). Indeed, “civic life, structured around an organized community, needs rules of coexistence, the wilful violation of which demands appropriate redress”.[249] This means that legitimate public authority can and must “inflict punishments according to the seriousness of the crimes”[250] and that judicial power be guaranteed a “necessary independence in the realm oflaw”.[251]

 

265. 教会の最も初期の時代から、死刑に明確に反対していた人々がいました。例えばラクタンティウス(注:ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス(240年頃 – 320年頃)=キリスト教初期の神学者。最初のキリスト教徒のローマ皇帝となったコンスタンティヌス1世の助言者となり、その宗教政策が発展するように導いた)は、「一つでも例外があってはならない。一人の人を死刑にするのは常に違法である」(252)と断言しました。

教皇ニコラウス1世(820年頃? – 867年。第105代ローマ教皇で在位は858年4月 – 867年11月)も、「無罪の人々だけでなく、いかなる有罪の人々も死刑から自由にする」(253)努力がなされるべきである、と強く主張しました。

    二人の司祭を殺害した犯人たちの裁判で、聖アウグスチヌスは、次のような理由を挙げて、彼らの命を奪わないように裁判官に求めました。「私たちは、あなたが、このような邪悪な者たちから、さらに罪を重ねる自由を奪うことに、反対しません。私たちの願いは、彼らの命を奪ったり、肉体の一部を損傷したりせずに、正義が全うされること、そしてまた、法による強制的な手段を用いて、彼らの理不尽な怒りを、健全な精神をもつ人の落ち着きに改め、悪事よりも何か役立つ職に就くようすること、なのです。

 有罪判決も考えられますが、そうせずに、野蛮な暴力が抑えられ、悔い改めさせるような矯正措置がとられる場合には、単なる制裁措置よりも有益だ、と考えられるべきです。彼らの罪である残虐な行為が、被害者の復讐心を煽ることなく、そうした行為が彼らの心に与えた傷を癒すことを切望させるように」(254)。

 

 From the earliest centuries of the Church, some were clearly opposed to capital punishment. Lactantius, for example, held that “there ought to be no exception at all; that it is always unlawful to put a man to death”.[252] Pope Nicholas I urged that efforts be made “to free from the punishment of death not only each of the innocent, but all the guilty as well”.[253] During the trial of the murderers of two priests, Saint Augustine asked the judge not to take the life of the assassins with this argument: “We do not object to your depriving these wicked men of the freedom to commit further crimes. Our desire is rather that justice be satisfied without the taking of their lives or the maiming of their bodies in any part. And, at the same time, that by the coercive measures provided by the law, they be turned from their irrational fury to the calmness of men of sound mind, and from their evil deeds to some useful employment.

 This too is considered a condemnation, but who does not see that, when savage violence is restrained and remedies meant to produce repentance are provided, it should be considered a benefit rather than a mere punitive measure… Do not let the atrocity of their sins feed a desire for vengeance, but desire instead to heal the wounds which those deeds have inflicted on their souls”.[254]

 

266. 恐怖と憤りは、罰を、癒しや社会復帰へのプロセスの一環としてよりも、むしろ容易に、執念深く、残虐な手段として見るようになります。今日、いくつかの党派と特定のメディアは、犯罪に責任のある人々に対してだけでなく、立証されているかいないかにかかわらず、法律違反の疑いのある人々に対しての、公的、私的な暴力と報復を煽りたてています。

 時として意図的に、(注:特定の人や集団を)敵-社会にとっての脅威と感知され、解釈されるような特徴を示す人物-に仕立て上げる傾向もみられます。これらのイメージを形成するメカニズムは、人種差別主義者の考えを拡散させることを許したことと同じです(255)。このことは、世界のいくつかの国で、予防拘禁、裁判なしの投獄、そして死刑を慣行が強まることで、ますます危険性を増しています。

 

 Fear and resentment can easily lead to viewing punishment in a vindictive and even cruel way, rather than as part of a process of healing and reintegration into society. Nowadays, “in some political sectors and certain media, public and private violence and revenge are incited, not only against those responsible for committing crimes, but also against those suspected, whether proven or not, of breaking the law… There is at times a tendency to deliberately fabricate enemies: stereotyped figures who represent all the characteristics that society perceives or interprets as threatening. The mechanisms that form these images are the same that allowed the spread of racist ideas in their time”.[255] This has made all the more dangerous the growing practice in some countries of resorting to preventive custody, imprisonment without trial and especially the death penalty.

 

267. ここで私は強調したいと思いますー「今日、国家は、危害を与える者から人々の命を守るために死刑以外の手段をもたない、と考えることはできない」と。これに関して特に重大なのは、いわゆる”裁判外”あるいは超法規的な死刑の執行です。これは、「国家とその代理人に委任された故意になされる殺人行為。だが、『犯罪者とのぶつかり合いの結果だ』として見過ごされたり、『法律に則った理にかなった必要で適正な力の行使による意図しない結果だ』とされたりすることが、しばしばある」(256)のです。

 

 Here I would stress that “it is impossible to imagine that states today have no other means than capital punishment to protect the lives of other people from the unjust aggressor”. Particularly serious in this regard are so-called extrajudicial or extralegal executions, which are “homicides deliberately committed by certain states and by their agents, often passed off as clashes with criminals or presented as the unintended consequences of the reasonable, necessary and proportionate use of force in applying the law”.[256]

 

268. 「死刑に反対する議論は、数多く、よく知られています。カトリック教会は、これらの議論の幾つか―例えば、裁判官が判断を誤る可能性、あるいは、全体主義や独裁主義体制が、政治的な立場の違う人々を抑圧し、宗教的、文化的な少数派を迫害するための手段としての処罰―について注意を喚起してきました。迫害の犠牲者たちすべてが、そうした体制の国では法律で”犯罪者”と見なされるのです。今日、すべてのキリスト教徒と善意の人々は、合法、非合法を問わず、あらゆる形の死刑の廃止だけでなく、自由を奪われた人々の人間的尊厳の重んじることから、刑務所の環境改善へ、働きかけをするように求められています。私は死刑を終身刑と関連づけたいと思います… 終身刑は、隠された形の死刑です」(257)。

 

 “The arguments against the death penalty are numerous and well-known. The Church has rightly called attention to several of these, such as the possibility of judicial error and the use made of such punishment by totalitarian and dictatorial regimes as a means of suppressing political dissidence or persecuting religious and cultural minorities, all victims whom the legislation of those regimes consider ‘delinquents’. All Christians and people of good will are today called to work not only for the abolition of the death penalty, legal or illegal, in all its forms, but also to work for the improvement of prison conditions, out of respect for the human dignity of persons deprived of their freedom. I would link this to life imprisonment… A life sentence is a secret death penalty”.[257]

 

269. 覚えておきましょう。「殺人者であっても個人の尊厳は存在する。神ご自身がこれを保証すると約束されている」(258)ことを。死刑を断固として拒否することは、奪うことのできない一人ひとりの尊厳をどこまでも認めること、この世界で彼あるいは彼女の居場所がどこまでも存在すること、を受け入れることを示します。もし犯罪者の中で最も極悪な者の尊厳を否定しないなら、私は誰の尊厳も否定しないでしょう。互いの違いにもかかわらず、私は、この地球を分かち合う可能性を全ての人に与えたい。

 

 Let us keep in mind that “not even a murderer loses his personal dignity, and God himself pledges to guarantee this”.[258] The firm rejection of the death penalty shows to what extent it is possible to recognize the inalienable dignity of every human being and to accept that he or she has a place in this universe. If I do not deny that dignity to the worst of criminals, I will not deny it to anyone. I will give everyone the possibility of sharing this planet with me, despite all our differences.

 

270. この点について判断をためらい続けているキリスト教徒に、どんな形であれ暴力に屈する誘惑に駆られている人々に、イザヤ書の言葉を心に留めていただきたいと思います。「彼らはその剣を鋤きに打ち直す」(イザヤ書2章4節)。私たちにとって、この預言は、キリスト・イエスにおいて新たにされます。彼は、暴力を振るいそうになった弟子たちを目にして、きっぱりと言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる」(マタイ26章52節)と。これらの言葉は古くからの警告を繰り返しています。「私は人に、命の償いを求める。人の血を流す者は、人によってその血を流される」(創世記9章5-6節)。イエスの御心から湧き出た言葉は、何世紀にも及ぶ間隙を埋め、永続的な訴えとして現在まで届いているのです。

 

I ask Christians who remain hesitant on this point, and those tempted to yield to violence in any form, to keep in mind the words of the book of Isaiah: “They shall beat their swords into plowshares” (2:4). For us, this prophecy took flesh in Christ Jesus who, seeing a disciple tempted to violence, said firmly: “Put your sword back into its place; for all who take the sword will perish by the sword” (Mt 26:52). These words echoed the ancient warning: “I will require a reckoning for human life. Whoever sheds the blood of a man, by man shall his blood be shed” (Gen 9:5-6). Jesus’ reaction, which sprang from his heart, bridges the gap of the centuries and reaches the present as an enduring appeal.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第8章 世界の兄弟愛に奉仕する宗教・・基本的人権である信教の自由の保証

          RELIGIONS AT THE SERVICE OF FRATERNITY IN OUR WORLD

 

271. さまざまに異なった宗教は、神の子と呼ばれる被造物としての1人ひとりの人間への敬意を基礎に置き、社会における友愛を作り上げ、正義を守ることに、重要な貢献をしています。 異なった宗教を信仰する人々の間の対話は、単に外交関係のため、思いやりあるいは寛容さを示すために行われるのではありません。 インドの司教団の言葉を借りれば、「対話が目指すものは、友情、平和、調和を確立し、真理と愛の精神において、霊的、道徳的な価値と経験を共有すること」(259)なのです。

 

 The different religions, based on their respect for each human person as a creature called to be a child of God, contribute significantly to building fraternity and defending justice in society. Dialogue between the followers of different religions does not take place simply for the sake of diplomacy, consideration or tolerance. In the words of the Bishops of India, “the goal of dialogue is to establish friendship, peace and harmony, and to share spiritual and moral values and experiences in a spirit of truth and love”.[259]

 

*究極の基礎 THE ULTIMATE FOUNDATION

 

272. 信者として、父に対しすべてにわたって心を開いていなければ、友愛を呼びかける揺るぎない、しっかりとした理由はない、と私たちは確信しています。 「私たちは孤児ではなく、子供なのだ、ということに気付くことだけで、互いに心穏やかに暮らせる」(260)と確信しています。それは、「理性それ自体は、人の間の平等をしっかりと理解し、彼ら市民の共存を安定させられるが、友愛を確立することはできない」(261)からです。

 

As believers, we are convinced that, without an openness to the Father of all, there will be no solid and stable reasons for an appeal to fraternity. We are certain that “only with this awareness that we are not orphans, but children, can we live in peace with one another”.[260] For “reason, by itself, is capable of grasping the equality between men and of giving stability to their civic coexistence, but it cannot establish fraternity”.[261]

 

273. この点に関して、私は記憶に残る次の言葉を引用したいと思います。「もしも、超越的な真理―それに従って人が、自己の完全な主体性を達成する真理―が無いのなら、人々の間の公正な関係を保証する確かな原則もない。階級、集団、国家としての利己心は、必然的に、彼らを対立させるだろう。人が超越的な真理を認めなければ、権力は引き継がれ、他の人々の権利などおかまいなく、自分の利益や自分の意見を押し通すために、それぞれが持てる手段を意のままに最大限に使う傾向に陥る …。

 現代の全体主義の根源は、人間―目に見えない神の目に見える姿として、まさにその本質から、何ものも、いかなる個人も、集団も、階級も、国民も、国家も侵害してはならない権利の対象―の超越的な尊厳、の否定に見つけることができる。社会的集団の大多数でさえも、少数派に反対することで、これらの権利を侵害することはできないだろう」(262=2011年. ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題 - 教会と社会の百年をふりかえって』)

 

In this regard, I wish to cite the following memorable statement: “If there is no transcendent truth, in obedience to which man achieves his full identity, then there is no sure principle for guaranteeing just relations between people. Their self-interest as a class, group or nation would inevitably set them in opposition to one another. If one does not acknowledge transcendent truth, then the force of power takes over, and each person tends to make full use of the means at his disposal in order to impose his own interests or his own opinion, with no regard for the rights of others…

 The root of modern totalitarianism is to be found in the denial of the transcendent dignity of the human person who, as the visible image of the invisible God, is therefore by his very nature the subject of rights that no one may violate – no individual, group, class, nation or state. Not even the majority of the social body may violate these rights, by going against the minority”.[262]

 

274. 私たちの信仰の経験と何世紀にもわたって蓄積された知恵からだけでなく、多くの弱点と失敗から学んだ教訓から、さまざまな宗教の信者である私たちは、神の証人が私たちの社会のためになることを知っています。誠実な心で神を求める努力は、それがイデオロギー的または自己奉仕的な目的によって決して汚されないなら、私たちが旅の仲間、真の兄弟姉妹としてお互いを認識するのに役立ちます。

 私たちは次のことを確信しています。「イデオロギーの名の下に社会から神を追い出す試みがなされ、偶像を崇拝するようになり、瞬く間に男女が道に迷うとき、彼らの尊厳は踏みにじられ、彼らの権利は侵される。あなた方は、良心の自由と宗教の自由の否定によって、どれほどの苦しみが引き起こされるか、そしてどのようにして、その心の傷が、貧しくされた人を置き去りにするのかを、よく知っている。なぜなら、それを導く希望や理想を欠くからだ」(263)ということを。

 

 From our faith experience and from the wisdom accumulated over centuries, but also from lessons learned from our many weaknesses and failures, we, the believers of the different religions, know that our witness to God benefits our societies. The effort to seek God with a sincere heart, provided it is never sullied by ideological or self-serving aims, helps us recognize one another as travelling companions, truly brothers and sisters.

 We are convinced that “when, in the name of an ideology, there is an attempt to remove God from a society, that society ends up adoring idols, and very soon men and women lose their way, their dignity is trampled and their rights violated. You know well how much suffering is caused by the denial of freedom of conscience and of religious freedom, and how that wound leaves a humanity which is impoverished, because it lacks hope and ideals to guide it”.[263]

 

275. 「現代世界の危機の最も重要な原因の中には、鈍感にされた人間の良心、宗教的価値観からの隔たり、そして『人間を神格化し、最高の超越的な規範の代わりに世俗的で物質的な価値観を引き入れる唯物論的な哲学』を伴う個人主義の蔓延がある 」(264)。 公開討論で聞かれる唯一の声が強力で「専門家」の声である場合、それは間違っています。

 何世紀にもわたる経験と知恵の宝庫である宗教的伝統から生まれた反省のための場所を作る必要があります。なぜなら、 「宗教的な古典は、あらゆる時代に、意味があることを証明できる (新たな領域を開き、思考を刺激し、心を広くする)永続的な力がある」からです。 しかし、宗教的古典はしばしば、「近視眼的な合理主義」(265)の結果として、軽蔑の目で見られがちです。

 

 It should be acknowledged that “among the most important causes of the crises of the modern world are a desensitized human conscience, a distancing from religious values and the prevailing individualism accompanied by materialistic philosophies that deify the human person and introduce worldly and material values in place of supreme and transcendental principles”.[264] It is wrong when the only voices to be heard in public debate are those of the powerful and “experts”. Room needs to be made for reflections born of religious traditions that are the repository of centuries of experience and wisdom. For “religious classics can prove meaningful in every age; they have an enduring power [to open new horizons, to stimulate thought, to expand the mind and the heart]”. Yet often they are viewed with disdain as a result of “the myopia of a certain rationalism”.[265)

 

276. このような理由から、教会は、政治生活の自主性を尊重し、その使命を私的な領域に限ることをしません。むしろ、政治生活は、より良い世界を作るにあたっての「わき役に留まることはできないし、そうしてはならない」、あるいは、社会の向上に貢献できるような「精神的な活力を蘇らせる」(266)ことに失敗してはならないのです。

 確かなことは、聖職者たちは、一般信徒の領域である政党政治に関わってはならないが、共通善への絶え間ない関心と欠かすことのできない人作りを含む、生活の政治的な側面を放棄することもできない(267)ということです。

 教会は、「慈善的、教育的な活動に加えて、公的な役割を担っています」。「人類の進歩と普遍的な友愛の発展」(268)のために働いています。世俗的な力と競争することを要求せず、「今日の世界で証人となることを受け入れ、主と主が恵みとしての慈しみをもって愛される人々への信仰の希望と愛を受け入れる、家族の中の家族」(269)として献身します。そして、マリア、イエスの御母に倣って、「人生を共にし、希望を持ち続け、一致のしるしとなるために… 橋を架け、壁を壊し、和解の種を蒔くために、私たちは、奉仕する教会、家から離れ、祈りの場から出て、聖具室から出ていく」(270)のです。

 

 For these reasons, the Church, while respecting the autonomy of political life, does not restrict her mission to the private sphere. On the contrary, “she cannot and must not remain on the sidelines” in the building of a better world, or fail to “reawaken the spiritual energy” that can contribute to the betterment of society.[266] It is true that religious ministers must not engage in the party politics that are the proper domain of the laity, but neither can they renounce the political dimension of life itself,[267] which involves a constant attention to the common good and a concern for integral human development.

 The Church “has a public role over and above her charitable and educational activities”. She works for “the advancement of humanity and of universal fraternity”.[268] She does not claim to compete with earthly powers, but to offer herself as “a family among families, this is the Church, open to bearing witness in today’s world, open to faith、 hope and love for the Lord and for those whom he loves with a preferential love. A home with open doors. The Church is a home with open doors, because she is a mother”.[269] And in imitation of Mary, the Mother of Jesus, “we want to be a Church that serves, that leaves home and goes forth from its places of worship, goes forth from its sacristies, in order to accompany life, to sustain hope, to be the sign of unity… to build bridges, to break down walls, to sow seeds of reconciliation”.[270]

 

*キリスト教徒の自己認識 Christian identity

 

277. 教会は、他の宗教において神が働かれる仕方に敬意を払います。そして、「こうした宗教における真実で聖なるいかなるものも、拒みません。その生き方と振る舞い、戒めと教義を高く評価し、それはしばしば、すべての男性と女性を教え導く真理の一筋の光を映しています」(271)。

 それでも、私たちキリスト教徒はとてもよく知っています。「福音の調べが私たちの存在の中で共鳴しなくなると、思いやりから生まれる喜び、信頼から生まれる優しい愛、私たちが許され、送り出されるという認識に源を発する和解の能力を失うことになる。私たちの家庭、私たちの公共の空間、私たちの職場、私たちの政治的、経済的生活で、福音の調べが響くのを止めれば、私たちはもう、すべての男女の尊厳を守るように私たちを鼓舞する旋律を聞くことはない」(272)ということを。

 他の人は他の水源から飲みます。私たちにとって、人間の尊厳と友愛の源泉はイエス・キリストの福音にあります。その源泉から「キリスト教徒の思考と教会の行動に、関係、他の神聖な神秘との出会い、すべての召命としての人間家族全体との普遍的な交わりに対して与えられた優先順位」(273)が生まれます。

 

 The Church esteems the ways in which God works in other religions, and “rejects nothing of what is true and holy in these religions. She has a high regard for their manner of life and conduct, their precepts and doctrines which… often reflect a ray of that truth which enlightens all men and women”.[271]

 Yet we Christians are very much aware that “if the music of the Gospel ceases to resonate in our very being, we will lose the joy born of compassion, the tender love born of trust, the capacity for reconciliation that has its source in our knowledge that we have been forgiven and sent forth. If the music of the Gospel ceases to sound in our homes, our public squares, our workplaces, our political and financial life, then we will no longer hear the strains that challenge us to defend the dignity of every man and woman”.[272]

 Others drink from other sources. For us the wellspring of human dignity and fraternity is in the Gospel of Jesus Christ. From it, there arises, “for Christian thought and for the action of the Church, the primacy given to relationship, to the encounter with the sacred mystery of the other, to universal communion with the entire human family, as a vocation of all”.[273]

 

278. あらゆる場所に根付くように呼ばれている教会は、世界中で何世紀にもわたって存在してきました。それが「カトリック」であることの意味です。このように、教会は自分自身の恵みと罪の経験から、普遍的な愛への招きの素晴らしさを理解できます。確かに、「人間のすべてのものが私たちの関心事です… 諸国の協議機関が集まって人間の権利と義務を確立するどこにおいても、私たちが仲間入りを許されるのを光栄に思います」(274)。

多くのキリスト教徒にとって、この友愛の旅には、マリアという名の母も共にいます。十字架の下ですべての人の母親の役割を受け入れ(ヨハネ福音書19章26節)、イエスだけでなく「他の子供たち」も気にかけています(黙示録12章17節参照)。復活された主の力によって、マリアは新たな世界を生み出すことを望みますーそこでは、私たち皆が兄弟姉妹であり、私たちの社会が放棄する人々すべてのための場があり、正義と平和が輝きます。

 

Called to take root in every place, the Church has been present for centuries throughout the world, for that is what it means to be “catholic”. She can thus understand, from her own experience of grace and sin, the beauty of the invitation to universal love. Indeed, “all things human are our concern… wherever the councils of nations come together to establish the rights and duties of man, we are honoured to be permitted to take our place among them”.[274] For many Christians, this journey of fraternity also has a Mother, whose name is Mary. Having received this universal motherhood at the foot of the cross (cf. Jn 19:26), she cares not only for Jesus but also for “the rest of her children” (cf. Rev 12:17). In the power of the risen Lord, she wants to give birth to a new world, where all of us are brothers and sisters, where there is room for all those whom our societies discard, where justice and peace are resplendent.

 

279. 私たちキリスト教徒は、キリスト教徒でない人々が少数派である所で自由を増進するとともに、私たち自身が少数派である国において自由が保障されるように求めます。友愛と平和を目指す旅で、一つの基本的な人権を忘れてはなりません。 それはあらゆる宗教を信じる人々の信教の自由です。

 信教の自由は次のことを明言します。「私たちは異なる文化や宗教の間に、調和と理解を築くことができる。また、私たちが非常に多くの重要なものを共有していることから、穏やかで秩序のある平和的共存の方法を見つけることが可能であり、互いの違いを受け入れ、唯一の神の子供たちとして、私たち皆が兄弟姉妹であることを心から喜ぶ」(275)ことを。

 

 We Christians ask that, in those countries where we are a minority, we be guaranteed freedom, even as we ourselves promote that freedom for non-Christians in places where they are a minority. One fundamental human right must not be forgotten in the journey towards fraternity and peace. It is religious freedom for believers of all religions. That freedom proclaims that we can “build harmony and understanding between different cultures and religions. It also testifies to the fact that, since the important things we share are so many, it is possible to find a means of serene, ordered and peaceful coexistence, accepting our differences and rejoicing that, as children of the one God, we are all brothers and sisters”.[275]

 

280. 同時に、私たちは、神に対して、教会の中の一致を強めてくださるように願います。それは、聖霊の働きで和解した相違によって豊かにされる一致です。「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けた」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ので、それぞれの人がそれぞれ特色のある貢献をします。聖アウグスティヌスが語っているように「耳は目を通して見、目は耳を通して聞く」(276)のです。

 キリスト教諸宗派との間で、出会いの旅を証し続けることも、喫緊の課題です。 「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節参照)というキリストの願いを忘れることはできません。キリストのこの呼びかけを聴く時、私たちは、グローバリゼーションが進む中で、キリスト教諸宗派の一致への預言的、霊的貢献が、なおも欠けていることを、悲しみをもって認めます。そのような現実にもかかわらず、「私たちには、完全な交わりに向けて旅をするとともに、人類への奉仕に共に働くことによってすべての人への神を愛について、共通の証しをする務めがある」(277)のです。

 

At the same time, we ask God to strengthen unity within the Church, a unity enriched by differences reconciled by the working of the Spirit. For “in the one Spirit we were all baptized into one body” (1 Cor 12:13), in which each member has his or her distinctive contribution to make. As Saint Augustine said, “the ear sees through the eye, and the eye hears through the ear”.[276]

 It is also urgent to continue to bear witness to the journey of encounter between the different Christian confessions. We cannot forget Christ’s desire “that they may all be one” (cf. Jn 17:21). Hearing his call, we recognize with sorrow that the process of globalization still lacks the prophetic and spiritual contribution of unity among Christians. This notwithstanding, “even as we make this journey towards full communion, we already have the duty to offer common witness to the love of God for all people by working together in the service of humanity”.[277]

 

*宗教と暴力 RELIGION AND VIOLENCE

 

281 .平和の旅は諸宗教間で可能です。 その出発点は、ものを見る神のなさり方でなければなりません。 「神はご自分の目でご覧になりません。ご自分の心でご覧になるのです。 そして、神の愛は、宗教に関係なく、すべての人にとって同じです。人が無神論者であっても、神の愛は同じです。 最後の日を迎え、まだ物事の本当の姿を見る十分な光があるとき、私たちは自分自身に非常に驚くことになるでしょう」(278)。

 

 A journey of peace is possible between religions. Its point of departure must be God’s way of seeing things. “God does not see with his eyes, God sees with his heart. And God’s love is the same for everyone, regardless of religion. Even if they are atheists, his love is the same. When the last day comes, and there is sufficient light to see things as they really are, we are going to find ourselves quite surprised”.[278]

 

282. したがって、「私たち信仰を持つ者は、互いに話し合い、共通善と貧しい人々の出世のために、共に働く機会を見つける必要がある。 このことは、自分とは異なる考え方をしている人と出会ったとき、自分の最も深い信念を弱めたり隠したりすることとは何の関係もない… 私たちは、信徒としての主体性が深く、強く、豊かになればなるほど、自分自身の適切な貢献で他の人を豊かにすることができる」(279)のです 。

 私たち信仰を持つ者は、自分自身の根源に回帰するように強く求められています。それは、欠かすことのできないこと。すなわち、神の崇敬と隣人への愛、私たちの教えのいくつかが、文脈を離れ、他の人に対する軽蔑、嫌悪、恐怖症、否定の姿勢を養ってしまうことにならないようにするもの、です。真理は「暴力は、私たちの基本的な宗教的信念ではなく、その歪曲にのみ根拠がある」ということにあります。

 

It follows that “we believers need to find occasions to speak with one another and to act together for the common good and the promotion of the poor. This has nothing to do with watering down or concealing our deepest convictions when we encounter others who think differently than ourselves… For the deeper, stronger and richer our own identity is, the more we will be capable of enriching others with our own proper contribution”.[279] We believers are challenged to return to our sources, in order to concentrate on what is essential: worship of God and love for our neighbour, lest some of our teachings, taken out of context, end up feeding forms of contempt, hatred, xenophobia or negation of others. The truth is that violence has no basis in our fundamental religious convictions, but only in their distortion.

 

283. 神への誠実で謙虚な崇拝は「差別、憎しみ、暴力ではなく、生命の神聖さ、他の人の尊厳と自由の尊重、そしてすべての人の幸せへの愛のこもった献身によって」(280)、実を結びます。それは「愛さない者は神を知りません。神は愛」(ヨハネの手紙1・4章8節)だからです。

 それゆえ、「テロ行為は嘆かわしいものであり、東西南北いずれの人々の安全を脅かし、パニック、恐怖、悲観主義を広める。しかし、テロリストが宗教を手段に利用したとしても、これは宗教によるものではない。それよりも、宗教的な文書の誤った解釈の蓄積と、飢餓、貧困、不正、抑圧、誇りに関連する政策によるものだ。だからこそ、資金供給、武器や戦略の提供によって、メディアされも使って活動を正当化する試みによって、テロリストたちの活動を支援するのを、やめる必要がある。これらはすべて、世界の安全と平和を脅かす国際的犯罪と見なされねばならない。このようなテロ行為は、そのすべての形態と表現において非難されなければならない」(281)のです。

   人の命のもつ神聖な意味についての宗教的信念は、私たちに次のようなことをさせますー「私たちに共通する人間性の基本的な価値、その価値の名において、私たちは協力、建設、そして対話、赦し、成長ができるし、必ずする。それは、異なる様々な声を、憎しみの半狂乱の叫びではなく、崇高な気品と美しさを作り上げることで一つにする」(282)

 

Sincere and humble worship of God “bears fruit not in discrimination, hatred and violence, but in respect for the sacredness of life, respect for the dignity and freedom of others, and loving commitment to the welfare of all”.[280] Truly, “whoever does not love does not know God, for God is love” (1 Jn 4:8). For this reason, “terrorism is deplorable and threatens the security of people – be they in the East or the West, the North or the South – and disseminates panic, terror and pessimism, but this is not due to religion, even when terrorists instrumentalize it. It is due, rather, to an accumulation of incorrect interpretations of religious texts and to policies linked to hunger, poverty, injustice, oppression and pride. That is why it is so necessary to stop supporting terrorist movements fuelled by financing, the provision of weapons and strategy, and by attempts to justify these movements, even using the media. All these must be regarded as international crimes that threaten security and world peace. Such terrorism must be condemned in all its forms and expressions”.[281]

 Religious convictions about the sacred meaning of human life permit us “to recognize the fundamental values of our common humanity, values in the name of which we can and must cooperate, build and dialogue, pardon and grow; this will allow different voices to unite in creating a melody of sublime nobility and beauty, instead of fanatical cries of hatred”.[282]

 

284 時折、原理主義者の暴力は、首謀者の思慮の無さから、どのような宗教であれ、いつくかの集団で、引き起こされます。 しかし、「平和の戒めは、私たちが代表する宗教的伝統の奥深くに刻まれている… 宗教指導者として、私たちは、真の『対話の人々』であり、『仲介業者』ではなく『正当な調停者』として、平和構築に協力するよう求められている。 仲介業者は、自分たちの得になるものを得るために、すべての人に”値引き”をさせようとするが、調停者は、自分のために何も持たず、平和を得られることだけを願って、力が尽きるまで惜しみなく身を捧げる。

私たち一人一人が、分けるのではなく、一致させることで、憎しみにしがみつくのでなく、憎しみを消すことで、壁を作るのではなく、対話の道を開くことで、『平和の職人』となるように求められている」(283)のです。

 

At times fundamentalist violence is unleashed in some groups, of whatever religion, by the rashness of their leaders. Yet, “the commandment of peace is inscribed in the depths of the religious traditions that we represent… As religious leaders, we are called to be true ‘people of dialogue’, to cooperate in building peace not as intermediaries but as authentic mediators. Intermediaries seek to give everyone a discount, ultimately in order to gain something for themselves. The mediator, on the other hand, is one who retains nothing for himself, but rather spends himself generously until he is consumed, knowing that the only gain is peace. Each one of us is called to be an artisan of peace, by uniting and not dividing, by extinguishing hatred and not holding on to it, by opening paths of dialogue and not by constructing new walls”.[283]

 

*一つのアピール An appeal

 

285. グランド・イマーム、アフメト・アル・タイエブ師との、今も喜びをもって思い出す、友愛に溢れた会談で、私たちは断固として宣言しました。

 「宗教は、戦争、憎しみにあふれた振る舞い、敵意、過激な考えを、決して煽ってはならず、暴力や流血に駆り立ててはならない。そのような悲劇的な諸現実は、宗教的な教えから逸脱した結果であり、宗教を政治的に操作することから、歴史の過程で男女の心にある宗教的感情の力を利用してきた宗教的集団によって作られた解釈から、生じるものだ… 全能の神は、誰によっても守られる必要はなく、人々を恐怖に陥れるために御名が使われることを望まない」(284=「世界平和と共存のための人類友愛に関する文書」)。

 そのような訳で、私は、私たちが共に作成した平和、正義、友愛のアピールを、ここで繰り返させていただきたいと思います。

 

In my fraternal meeting, which I gladly recall, with the Grand Imam Ahmad Al-Tayyeb, “we resolutely [declared] that religions must never incite war, hateful attitudes, hostility and extremism, nor must they incite violence or the shedding of blood. These tragic realities are the consequence of a deviation from religious teachings. They result from a political manipulation of religions and from interpretations made by religious groups who, in the course of history, have taken advantage of the power of religious sentiment in the hearts of men and women… God, the Almighty, has no need to be defended by anyone and does not want his name to be used to terrorize people”.[284] For this reason I would like to reiterate here the appeal for peace, justice and fraternity that we made together:

 

 「すべての人間を権利、義務、尊厳において平等に創造され、兄弟姉妹として共に生き、地球を満たし、善、愛、平和の価値を知らしめるよう求められた神の名において、

 「神が人を殺す者は誰でも人類全体を殺す者のようであり、人を救う者は人類全体を救う者のようであると断言し、殺すことを禁じられた罪のない人間の命の名において、

 「神がすべての人々、特に富んだ人々や資力のある人々に求められる義務として助けるように、私たちに命じられた、貧しい人々、困窮した人々、疎外された人々、そして助けを必要としている人々の名において、

 「孤児、未亡人、難民、そして自分の住まいや国から追放された人々の名において、戦争、迫害、不正のすべての犠牲者の名において、弱者、恐怖の中で生きる人々、戦争捕虜、そして世界のどこであろうと拷問された人々の名において、

 「安全、平和、そして共に住む可能性を失い、破壊、災害、戦争の犠牲者となった人々の名において、

 「すべての人を包含し、結びつけ、平等にする人類友愛の名において、

    「過激主義と分裂の政策によって、無軌道な利益本位の仕組みによって、あるいは男女の行動と未来を操作する憎悪のイデオロギー的傾向によって引き裂かれた友愛の名の下において、

 「神がすべての人間に、制約の無い、その贈り物で区別した、自由の名において、

 「繁栄の基盤と信仰の礎石である、正義と慈悲の名において、

 「世界のあらゆる場所にいる善意のすべての人の名において、

 「神とこれまでに述べたすべての名において、(私たちは)対話の文化を道を採り、行動規範としての相互協力と方法と基準としての相互理解を進めることを宣言する」(285)。

 

“In the name of God, who has created all human beings equal in rights, duties and dignity, and who has called them to live together as brothers and sisters, to fill the earth and make known the values of goodness, love and peace;

“In the name of innocent human life that God has forbidden to kill, affirming that whoever kills a person is like one who kills the whole of humanity, and that whoever saves a person is like one who saves the whole of humanity;

“In the name of the poor, the destitute, the marginalized and those most in need, whom God has commanded us to help as a duty required of all persons, especially the wealthy and those of means;

“In the name of orphans, widows, refugees and those exiled from their homes and their countries; in the name of all victims of wars, persecution and injustice; in the name of the weak, those who live in fear, prisoners of war and those tortured in any part of the world, without distinction;

 “In the name of peoples who have lost their security, peace and the possibility of living together, becoming victims of destruction, calamity and war;

 “In the name of human fraternity, that embraces all human beings, unites them and renders them equal;

“In the name of this fraternity torn apart by policies of extremism and division, by systems of unrestrained profit or by hateful ideological tendencies that manipulate the actions and the future of men and women;

 “In the name of freedom, that God has given to all human beings, creating them free and setting them apart by this gift;

 

“In the name of justice and mercy, the foundations of prosperity and the cornerstone of faith;

 “In the name of all persons of goodwill present in every part of the world;

 “In the name of God and of everything stated thus far, [we] declare the adoption of a culture of dialogue as the path; mutual cooperation as the code of conduct; reciprocal understanding as the method and standard”.[285]

 

* * *

286. 普遍的な友愛についての、以上のような考察を進める中で、私は、特にアッシジの聖フランシスコから霊感を得たと感じましたが、カトリック教徒ではない兄弟姉妹たちーマーティン・ルーサー・キング、デズモンド・ツツ、マハトマ・ガンディーなどからも霊感を得たと感じました。 それでもなお、私は、深い信仰を持ったもう一人の人物-神についての強烈な経験をもとにして、すべての人を兄弟と感じる変容の旅をした方ーに言及して、締めくくりたいと思います。私は、福者、シャルル・ド・フーコー( 1858年9月15日 – 1916年12月1日=フランスのカトリック教会の神父で、探検家、地理学者)のことを申し上げているのです。

 

In these pages of reflection on universal fraternity, I felt inspired particularly by Saint Francis of Assisi, but also by others of our brothers and sisters who are not Catholics: Martin Luther King, Desmond Tutu, Mahatma Gandhi and many more. Yet I would like to conclude by mentioning another person of deep faith who, drawing upon his intense experience of God, made a journey of transformation towards feeling a brother to all. I am speaking of Blessed Charles de Foucauld.

 

287. 福者シャルルは、神に完全に身を任せる究極の目標を、アフリカの砂漠の真ん中に打ち捨てられた貧しい人々との一体感に向けました。 そのような場で、自分自身がすべての人間の兄弟だと感じたい、という強い願望(286)を表わし、友人に「私が本当にすべての人の兄弟であることを神に祈ってくれる」(287)ように頼みました。結局は、「万人の兄弟」(288)になりたかったのです。けれども、実際には、最も乏しい人々と深く結びつくことによってだけ、すべての人の兄弟になることができたのです。 神が私たち一人一人に、そのような夢を呼び起こしてくださいますように。 アーメン。

 

*(「カトリック・あい」注:福者、シャルル・ド・フーコーは、1858年9月15日 に生まれ 1916年12月1日に亡くなったフランスのカトリック教会の神父で、探検家、地理学者。モロッコを探検して19世紀末の地理学に新時代を開いたが、 現世的名声を捨てて回心し、新しい修道会の創設を模索。 隠修士としてアフリカ・サハラ砂漠の遊牧民と生活していたが、 第一次大戦中に隣人に裏切られ、盗賊団に殺害され、殉教した。2005 年に列福。参考図書=「シャルル・ド・フ-コ-」(ジャン・フランソワ・シックス著、倉田清訳 聖母の騎士社刊)

 

Blessed Charles directed his ideal of total surrender to God towards an identification with the poor, abandoned in the depths of the African desert. In that setting, he expressed his desire to feel himself a brother to every human being,[286] and asked a friend to “pray to God that I truly be the brother of all”.[287] He wanted to be, in the end, “the universal brother”.[288] Yet only by identifying with the least did he come at last to be the brother of all. May God inspire that dream in each one of us. Amen.

 

【創造主への祈り A Prayer to the Creator】

 

 主、私たち人類の父よ

  あなたはすべての人間を 尊厳のうちに 等しく創造されました

 私たちの心に友愛の精神を注がれ

  新たにされた出会い、対話、正義と平和の夢を 私たちに吹き込まれました

 私たちを、もっと健全な社会、もっと気高い世界

  飢餓、貧困、暴力そして戦争の無い世界を作るために 働かせてください

 私たちの心を 地球のすべての人々と国に 開くことができますように

  あなたが 私たちすべてに蒔かれた 善と美を見分け

 一致の絆を 共通の計画を 共有の夢を 築くことができますように

  アーメン。

Lord, Father of our human family,

you created all human beings equal in dignity:

pour forth into our hearts a fraternal spirit

and inspire in us a dream of renewed encounter,

dialogue, justice and peace.

Move us to create healthier societies

and a more dignified world,

a world without hunger, poverty, violence and war.

 

May our hearts be open

to all the peoples and nations of the earth.

May we recognize the goodness and beauty

that you have sown in each of us,

and thus forge bonds of unity, common projects,

and shared dreams. Amen.

 

【教会一致を目指すキリスト教徒の祈り An Ecumenical Christian Prayer】

 

 ああ神よ、愛の三位一体

 あなたの神聖な命との深い交わりから

  兄弟愛の滝のような流れを 私たちの上に注いでください

 ナザレのイエスの家庭で そして初めのキリスト教共同体で

  イエスの振る舞いに映された愛を 私たちにお与えてください

 願いをかなえてください 私たちキリスト教徒が 福音を生きることができますように

  1人ひとりの人の中に キリストを見出し

 この世の 打ち捨てられ そして忘れられた人たちの苦しみの中に

  十字架につけられたキリストがおられるのを

 そして 新たに歩み始める兄弟、姉妹それぞれの中に

  復活されるキリストがおられるのを 知ることができますように

 

 聖霊来てください

  地球上のすべての人たちの中に映された あなたの素晴らしさを見せてください

   そうして すべてのものが重要で すべてのものが必要であることを

   神がこれほどまでに愛しておられる人類の 様々に異なった顔を

  改めて発見できますように  アーメン。

 

O God, Trinity of love,

from the profound communion of your divine life,

pour out upon us a torrent of fraternal love.

Grant us the love reflected in the actions of Jesus,

in his family of Nazareth,

and in the early Christian community.

 

Grant that we Christians may live the Gospel,

discovering Christ in each human being,

recognizing him crucified

in the sufferings of the abandoned

and forgotten of our world,

and risen in each brother or sister

who makes a new start.

 

Come, Holy Spirit, show us your beauty,

reflected in all the peoples of the earth,

so that we may discover

that all are important and all are necessary,

different faces of the one humanity

that God so loves. Amen.

 

私の教皇職の8年目、2020年10月3日の聖人の祝日の前日に、アッシジの聖フランシスコの墓前で   

        フランシスコ

Given in Assisi, at the tomb of Saint Francis, on 3 October, Vigil of the Feast of the Saint, in ar 2020, the eighth of my Pontificate.                              Franciscus

[1] Admonitions, 6, 1. English translation in Francis of Assisi: Early Documents, vol 1., New York, London, Manila (1999), 131.

[2] Ibid., 25: op. cit., 136.

[3] SAINT FRANCIS OF ASSISI, Earlier Rule of the Friars Minor (Regula non bullata), 16: 3.6: op. cit. 74.

[4] ELOI LECLERC, O.F.M., Exil et tendresse, Éd. Franciscaines, Paris, 1962, 205.

[5] Document on Human Fraternity for World Peace and Living Together, Abu Dhabi (4 February 2019): L’Osservatore Romano, 4-5 February 2019, p. 6.

[6] Address at the Ecumenical and Interreligious Meeting with Young People, Skopje, North Macedonia (7 May 2019): L’Osservatore Romano, 9 May 2019, p. 9.

[7] Address to the European Parliament, Strasbourg (25 November 2014): AAS 106 (2014), 996.

[8] Meeting with Authorities, Civil Society and the Diplomatic Corps, Santiago, Chile (16 January 2018): AAS 110 (2018), 256.

[9] BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 19: AAS 101 (2009), 655.

[10] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus vivit (25 March 2019), 181.

[11] CARDINAL RAÚL SILVA HENRÍQUEZ, Homily at the Te Deum, Santiago de Chile (18 September 1974).

[12] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 57: AAS 107 (2015), 869.

[13] Address to the Diplomatic Corps accredited to the Holy See (11 January 2016): AAS 108 (2016), 120.

[14] Address to the Diplomatic Corps accredited to the Holy See (13 January 2014): AAS 106 (2014), 83-84.

[15] Cf. Address to the “Centesimus Annus pro Pontifice” Foundation (25 May 2013): Insegnamenti I, 1 (2013), 238.

[16] Cf. SAINT PAUL VI, Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967): AAS 59 (1967), 264.

[17] BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 22: AAS 101 (2009), 657.

[18] Address to the Civil Authorities, Tirana, Albania (21 September 2014): AAS 106 (2014), 773.

[19] Message to Participants in the International Conference “Human Rights in the Contemporary World: Achievements, Omissions, Negations” (10 December 2018): L’Osservatore Romano, 10-11 December 2018, p. 8.

[20] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 212: AAS 105 (2013), 1108.

[21] Message for the 2015 World Day of Peace (8 December 2014), 3-4: AAS 107 (2015), 69-71. [22] Ibid., 5: AAS 107 (2015), 72.

[23] Message for the 2016 World Day of Peace (8 December 2015), 2: AAS 108 (2016), 49.

[24] Message fro the 2020 World Day of Peace (8 December 2019), 1: L’Osservatore Romano, 13 December 2019, p. 8.

[25] Address on Nuclear Weapons, Nagasaki, Japan (24 November 2019): L’Osservatore Romano, 25-26 November 2019, p. 6.

[26] Dialogue with Students and Teachers of the San Carlo College in Milan (6 April 2019): L’Osservatore Romano, 8-9 April 2019, p. 6.

[27] Document on Human Fraternity for World Peace and Living Together, Abu Dhabi (4 February 2019): L’Osservatore Romano, 4-5 February 2019, p. 6.

[28] Address to the World of Culture, Cagliari, Italy (22 September 2013): L’Osservatore Romano, 23-24 September 2013, p. 7.

[29] Humana Communitas. Letter to the President of the Pontifical Academy for Life on the Twenty-fifth Anniversary of its Founding (6 January 2019), 2.6: L’Osservatore Romano, 16 January 2019, pp. 6-7.

[30] Video Message to the TED Conference in Vancouver (26 April 2017): L’Osservatore Romano, 27 April 2017, p. 7.

[31] Extraordinary Moment of Prayer in Time of Epidemic (27 March 2020): L’Osservatore Romano, 29 March 2020, p. 10.

[32] Homily in Skopje, North Macedonia (7 May 2019): L’Osservatore Romano, 8 May 2019, p. 12.

[33] Cf. Aeneid 1, 462: “Sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt”.

[34] “Historia… magistra vitae” (CICERO, De Oratore, 2, 6).

[35] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 204: AAS 107 (2015), 928.

[36] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 91. [37] Ibid., 92. [38] Ibid., 93.

[39] BENEDICT XVI, Message for the 2013 World Day of Migrants and Refugees (12 October 2012): AAS 104 (2012), 908.

[40] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 92.

[41] Message for the 2020 World Day of Migrants and Refugees (13 May 2020): L’Osservatore Romano, 16 May 2020, p. 8.

[42] Address to the Diplomatic Corps accredited to the Holy See (11 January 2016): AAS 108 (2016), 124.

[43] Address to the Diplomatic Corps accredited to the Holy See (13 January 2014): AAS 106 (2014), 84.

[44] Address to the Diplomatic Corps accredited to the Holy See (11 January 2016): AAS 108 (2016), 123.

[45] Message for the 2019 World Day of Migrants and Refugees (27 May 2019): L’Osservatore Romano, 27-28 May 2019, p. 8.

[46] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 88. [47] Ibid., 89.

[48] Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 115.

[49] From the film Pope Francis: A Man of His Word, by Wim Wenders (2018).

[50] Address to Authorities, Civil Society and the Diplomatic Corps, Tallinn, Estonia (25 September 2018): L’Osservatore Romano, 27 September 2018, p. 7.

[51] Cf. Extraordinary Moment of Prayer in Time of Epidemic (27 March 2020): L’Osservatore Romano, 29 March 2020, p. 10; Message for the 2020 World Day of the Poor (13 June 2020), 6: L’Osservatore Romano, 14 June 2020, p. 8.

[52] Greeting to Young People at the Padre Félix Varela Cultural Centre, Havana, Cuba (20 September 2015): L’Osservatore Romano, 21-22 September 2015, p. 6.

[53] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Pastoral Constitution on the Church in the Modern World Gaudium et Spes, 1.

[54] SAINT IRENAEUS OF LYONS, Adversus Haereses, II, 25, 2: PG 7/1, 798ff.

[55] Talmud Bavli (Babylonian Talmud), Shabbat, 31a.

[56] Address to Those Assisted by the Charitable Works of the Church, Tallinn, Estonia (25 September 2018): L’Osservatore Romano, 27 September 2018, p. 8.

[57] Video Message to the TED Conference in Vancouver (26 April 2017):L’Osservatore Romano, 27 April 2017, p. 7.

[58] Homiliae in Matthaeum, 50: 3-4: PG 58, 508.

[59] Message to the Meeting of Popular Movements, Modesto, California, United States of America (10 February 2017): AAS 109 (2017), 291.

[60] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 235: AAS 105 (2013), 1115.

[61] SAINT JOHN PAUL II, Message to the Handicapped, Angelus in Osnabrück, Germany (16 November 1980): Insegnamenti III, 2 (1980), 1232.

[62] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Pastoral Constitution on the Church in the Modern World Gaudium et Spes, 24.

[63] Gabriel Marcel, Du refus à l’invocation, ed. NRF, Paris, 1940, 50.

[64] Angelus (10 November 2019): L’Osservatore Romano, 11-12 November 2019, 8.

[65] Cf. Saint Thomas Aquinas: Scriptum super Sententiis, lib. 3, dist. 27, q. 1, a. 1, ad 4: “Dicitur amor extasim facere et fervere, quia quod fervet extra se bullit et exhalat”.

[66] Karol Wojtyła, Love and Responsibility, London, 1982, 126.

[67] Karl Rahner, Kleines Kirchenjahr. Ein Gang durch den Festkreis, Herderbücherei 901, Freiburg, 1981, 30.

[68] Regula, 53, 15: “Pauperum et peregrinorum maxime susceptioni cura sollicite exhibeatur”.

[69] Cf. Summa Theologiae, II-II, q. 23, a. 7; Saint Augustine, Contra Julianum, 4, 18: PL 44, 748: “How many pleasures do misers forego, either to increase their treasures or for fear of seeing them diminish!”.

[70] “Secundum acceptionem divinam” (Scriptum super Sententiis, lib. 3, dist. 27, a. 1, q. 1, concl. 4).

[71] Benedict XVI, Encyclical Letter Deus Caritas Est (25 December 2005), 15: AAS 98 (2006), 230.

[72] Summa Theologiae II-II, q. 27, a. 2, resp.

[73] Cf. ibid., I-II, q. 26, a. 3, resp. [74] Ibid., q. 110, a. 1, resp.

[75] Message for the 2014 World Day of Peace (8 December 2013), 1: AAS 106 (2014), 22.

[76] Cf. Angelus (29 December 2013): L’Osservatore Romano, 30-31 December 2013, p. 7; Address to the Diplomatic Corps Accredited to the Holy See (12 January 2015): AAS 107 (2015), 165.

[77] Message for the World Day of Persons with Disabilities (3 December 2019): L’Osservatore Romano, 4 December 2019, 7.

[78] Address to the Meeting for Religious Liberty with the Hispanic Community and Immigrant Groups, Philadelphia, Pennsylvania, United States of America (26 September 2015): AAS 107 (2015), 1050-1051.

[79] Address to Young People, Tokyo, Japan (25 November 2019): L’Osservatore Romano, 25-26 November 2019, 10.

[80] In these considerations, I have been inspired by the thought of Paul Ricoeur, “Le socius et le prochain”, in Histoire et Verité, ed. Le Seuil, Paris, 1967, 113-127.

[81] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 190: AAS 105 (2013), 1100.

[82] Ibid., 209: AAS 105 (2013), 1107.

[83] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 129: AAS 107 (2015), 899.

[84] Message for the “Economy of Francesco” Event (1 May 2019): L’Osservatore Romano, 12 May 2019, 8.

[85] Address to the European Parliament, Strasbourg (25 November 2014): AAS 106 (2014), 997.

86] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 229: AAS 107 (2015), 937.

[87] Message for the 2016 World Day of Peace (8 December 2015), 6: AAS 108 (2016), 57-58.

[88] Solidity is etymologically related to “solidarity”. Solidarity, in the ethical-political meaning that it has taken on in the last two centuries, results in a secure and firm social compact.

[89] Homily, Havana, Cuba (20 September 2015): L’Osservatore Romano, 21-22 September 2015, 8.

[90] Address to Participants in the Meeting of Popular Movements (28 October 2014): AAS 106 (2014), 851-852.

[91] Cf. Saint Basil, Homilia XXI, Quod rebus mundanis adhaerendum non sit, 3.5: PG 31, 545-549; Regulae brevius tractatae, 92: PG 31, 1145-1148; Saint peter chrysologus, Sermo 123: PL 52, 536-540; Saint Ambrose, De Nabuthe, 27.52: PL 14, 738ff.; Saint Augustine, In Iohannis Evangelium, 6, 25: PL 35, 1436ff.

[92] De Lazaro Concio, II, 6: PG 48, 992D. [93] Regula Pastoralis, III, 21: PL 77, 87.

[94] Saint John Paul II, Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 31: AAS 83 (1991), 831.

[95] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 93: AAS 107 (2015), 884.

[96] Saint John Paul II, Encyclical Letter Laborem Exercens (14 September 1981), 19: AAS 73 (1981), 626.

[97] Cf.Pontifical Council for Justice and Peace, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 172.

[98]Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967): AAS 59 (1967), 268.

[99] Saint John Paul II, Encyclical Letter Sollicitudo Rei Socialis (30 December 1987), 33: AAS 80 (1988), 557.

[100] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 95: AAS 107 (2015), 885.

[101] Ibid., 129: AAS 107 (2015), 899.

[102] Cf. Saint Paul VI, Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967): AAS 59 (1967), 265; Benedict XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 16: AAS 101 (2009), 652.

[103] Cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 93: AAS 107 (2015), 884-885; Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 189-190: AAS 105 (2013), 1099-1100.

[104] United States Conference of Catholic Bishops, Pastoral Letter Against Racism Open Wide Our Hearts: The Enduring Call to Love (November 2018).

[105] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 51: AAS 107 (2015), 867.

[106] Cf. Benedict XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 6: AAS 101 (2009), 644.

[107] Saint John Paul II, Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 35: AAS 83 (1991), 838.

[108] Address on Nuclear Weapons, Nagasaki, Japan (24 November 2019): L’Osservatore Romano, 25-26 November 2019, 6.

[109] Cf. CATHOLIC BISHOPS OF MEXICO AND THE UNITED STATES, A Pastoral Letter Concerning Migration: “Strangers No Longer Together on the Journey of Hope” (January 2003).

[110] General Audience (3 April 2019): L’Osservatore Romano, 4 April 2019, p. 8.

[111] Cf. Message for the 2018 World Day of Migrants and Refugees (14 January 2018): AAS 109 (2017), 918-923.

[112] Document on Human Fraternity for World Peace and Living Together, Abu Dhabi (4 February 2019): L’Osservatore Romano, 4-5 February 2019, p. 7.

[113] Address to the Diplomatic Corps Accredited to the Holy See, 11 January 2016: AAS 108 (2016), 124. [114] Ibid., 122.

[115] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 93. [116] Ibid., 94.

[117] Address to Authorities, Sarajevo, Bosnia and Herzegovina (6 June 2015): L’Osservatore Romano, 7 June 2015, p. 7.

[118] Latinoamérica. Conversaciones con Hernán Reyes Alcaide, ed. Planeta, Buenos Aires, 2017, 105.[119] Document on Human Fraternity for World Peace and Living Together, Abu Dhabi (4 February 2019): L’Osservatore Romano, 4-5 February 2019, p. 7.

[120] BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 67: AAS 101 (2009), 700.

[121] Ibid., 60: AAS 101 (2009), 695. [122] Ibid., 67: AAS 101 (2009), 700.

[123] PONTIFICAL COUNCIL FOR JUSTICE AND PEACE, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 447.

[124] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 234: AAS 105 (2013), 1115.

[125] Ibid., 235: AAS 105 (2013), 1115. [126] Ibid.

[127] SAINT JOHN PAUL II, Address to Representatives of Argentinian Culture, Buenos Aires, Argentina (12 April 1987), 4: L’Osservatore Romano, 14 April 1987, p. 7.

[128] Cf. ID., Address to the Roman Curia (21 December 1984), 4: AAS 76 (1984), 506.

[129] Post-Synodal Apostolic Exhortation Querida Amazonia (2 February 2020), 37.

[130] GEORG SIMMEL, Brücke und Tür. Essays des Philosophen zur Geschichte, Religion, Kunst und Gesellschaft, ed. Michael Landmann, Köhler-Verlag, Stuttgart, 1957, 6.

[131] Cf. JAIME HOYOS-VÁSQUEZ, S.J., “Lógica de las relaciones sociales. Reflexión onto-lógica”, Revista Universitas Philosophica, 15-16 (December 1990-June 1991), Bogotá, 95-106.

[132] ANTONIO SPADARO, S.J., Le orme di un pastore. Una conversazione con Papa Francesco, in JORGE MARIO BERGOLIO – PAPA FRANCESCO, Nei tuoi occhi è la mia parola. Omelie e discorsi di Buenos Aires 1999-2013, Rizzoli, Milan 2016, XVI; cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 220-221: AAS 105 (2013), 1110-1111.

[133] Apostolic Exaltation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 204: AAS 105 (2013), 1106.

[134] Cf. ibid.: AAS 105 (2013), 1105-1106. [135] Ibid., 202: AAS 105 (2013), 1105.

[136] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 128: AAS 107 (2015), 898.

[137] Address to the Diplomatic Corps Accredited to the Holy See (12 January 2015): AAS 107 (2015), 165; cf. Address to Participants in the World Meeting of Popular Movements (28 October 2014): AAS 106 (2014), 851-859.

[138] A similar point could be made with regard to the biblical category of the Kingdom of God.

[139] PAUL RICOEUR, Histoire et Verité, ed. Le Seuil Paris, 1967, 122.

[140] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 129: AAS 107 (2015), 899.

[141] BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 35: AAS 101 (2009), 670.

[142] Address to Participants in the World Meeting of Popular Movements (28 October 2014): AAS 106 (2014), 858. [143] Ibid.

[144] Address to Participants in the World Meeting of Popular Movements (5 November 2016): L’Osservatore Romano, 7-8 November 2016, pp. 4-5. [145] Ibid. [146] Ibid.

[147] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 189: AAS 107 (2015), 922.

[148] Address to the Members of the General Assembly of the United Nations Organization, New York (25 September 2015): AAS 107 (2015), 1037.

[149] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 175: AAS 107 (2015), 916-917.

[150] Cf. BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 67: AAS 101 (2009), 700-701.

[151] Ibid.: AAS 101 (2009), 700.

[152] PONTIFICAL COUNCIL FOR JUSTICE AND PEACE, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 434.

[153] Address to the Members of the General Assembly of the United Nations Organization, New York (25 September 2015): AAS 107 (2015), 1037, 1041.

[154] Pontifical Council for Justice and Peace, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 437.

[155] SAINT JOHN PAUL II, Message for the 2004 World Day of Peace, 5: AAS 96 (2004), 117.

[156] Pontifical Council for Justice and Peace, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 439.

[157] Cf. SOCIAL COMMISSION OF THE BISHOPS OF FRANCE, Declaration Réhabiliter la Politique (17 February 1999).

[158] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 189: AAS 107 (2015), 922.

[159] Ibid., 196: AAS 107 (2015), 925. [160] Ibid., 197: AAS 107 (2015), 925. 

[161] Ibid., 181: AAS 107 (2015), 919. [162] Ibid., 178: AAS 107 (2015), 918.

[163] PORTUGUESE BISHOPS’ CONFERENCE, Pastoral Letter Responsabilidade Solidária pelo Bem Comum (15 September 2003), 20; cf. Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 159: AAS 107 (2015), 911.

[164] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 191: AAS 107 (2015), 923.

[165] PIUS XI, Address to the Italian Catholic Federation of University Students (18 December 1927): L’Osservatore Romano, 23 December 1927, p. 3.

166] Cf. ID., Encyclical Letter Quadragesimo Anno (15 May 1931): AAS 23 (1931), 206-207.

[167] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 205: AAS 105 (2013), 1106

[168] Benedict XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 2: AAS 101 (2009), 642.

[169] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 231: AAS 107 (2015), 937.

[170] Benedict XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 2: AAS 101 (2009), 642.

[171] Pontifical Council for Justice and Peace, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 207.

[172] SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Redemptor Hominis (4 March 1979), 15: AAS 71 (1979), 288.

[173] Cf. SAINT PAUL VI, Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967), 44: AAS 59 (1967), 279.

[174] Pontifical Council for Justice and Peace, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 207.

[175] Benedict XVI, Encyclical Letter Caritas in Veritate (29 June 2009), 2: AAS 101 (2009), 642.

[176] Ibid., 3: AAS 101 (2009), 643. [177] Ibid., 4: AAS 101 (2009), 643. [178] Ibid.

[179] Ibid., 3: AAS 101 (2009), 643. [180] Ibid.: AAS 101 (2009), 642.

[181] Catholic moral doctrine, following the teaching of Saint Thomas Aquinas, distinguishes between “elicited” and “commanded” acts; cf. Summa Theologiae, I-II, qq. 8-17; M. ZALBA, S.J., Theologiae Moralis Summa. Theologia Moralis Fundamentalis. Tractatus de Virtutibus Theologicis, ed. BAC, Madrid, 1952, vol. I, 69; A. ROYO MARÍN, Teología de la Perfección Cristiana, ed. BAC, Madrid, 1962, 192-196.

[182] PONTIFICAL COUNCIL FOR JUSTICE AND PEACE, Compendium of the Social Doctrine of the Church, 208.

[183] Cf. SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Sollicitudo Rei Socialis (30 December 1987), 42: AAS 80 (1988), 572-574; Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 11: AAS 83 (1991), 806-807.

[184] Address to Participants in the World Meeting of Popular Movements (28 October 2014): AAS 106 (2014), 852.

185] Address to the European Parliament, Strasbourg (25 November 2014): AAS 106 (2014), 999.

[186] Address at the Meeting with Authorities and the Diplomatic Corps in the Central African Republic, Bangui (29 November 2015): AAS 107 (2015), 1320.

[187] Address to the United Nations Organization, New York (25 September 2015): AAS 107 (2015), 1039.

[188] Address to Participants in the World Meeting of Popular Movements (28 October 2014): AAS 106 (2014), 853.

[189] Document on Human Fraternity for World Peace and Living Together, Abu Dhabi (4 February 2019): L’Osservatore Romano, 4-5 February 2019, p. 6.

[190] RENÉ VOILLAUME, Frères de tous, ed. Cerf, Paris, 1968, 12-13.

[191] Video Message to the TED Conference in Vancouver (26 April 2017): L’Osservatore Romano, 27 April 2017, p. 7.

[192] General Audience (18 February 2015): L’Osservatore Romano, 19 February 2015, p. 8.

[193] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 274: AAS 105 (2013), 1130.

[194] Ibid., 279: AAS 105 (2013), 1132.

[195] Message for the 2019 World Day of Peace (8 December 2018), 5: L’Osservatore Romano, 19 December 2018, p. 8.

[196] Meeting with Brazilian Political, Economic and Cultural Leaders, Rio de Janeiro, Brazil (27 July 2013): AAS 105 (2013), 683-684.

[197] Apostolic Exhortation Querida Amazonia (2 February 2020), 108.

[198] From the film Pope Francis: A Man of His Word, by Wim Wenders (2018).

[199] Message for the 2014 World Communications Day (24 January 2014): AAS 106 (2014), 113.

[200] AUSTRALIAN CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE, Commission for Social Justice, Mission and Service, Making It Real: Genuine Human Encounter in Our Digital World (November 2019).

[201] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 123: AAS 107 (2015), 896.

[202] SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Veritatis Splendor (6 August 1993), 96: AAS 85 (1993), 1209.

[203] As Christians, we also believe that God grants us his grace to enable us to act as brothers and sisters.

[204] VINICIUS DE MORAES, Samba da Benção, from the recording Um encontro no Au bon Gourmet, Rio de Janeiro (2 August 1962).

[205] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 237: AAS 105 (2013), 1116.

[206] Ibid., 236: AAS 105 (2013), 1115. [207] Ibid., 218: AAS 105 (2013), 1110.

[208] Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 100: AAS 108 (2016), 351.

[209] Message for the 2020 World Day of Peace (8 December 2019), 2: L’Osservatore Romano, 13 December 2019, p. 8.

[210] EPISCOPAL CONFERENCE OF THE CONGO, Message au Peuple de Dieu et aux femmes et aux hommes de bonne volonté (9 May 2018).

[211] Address at the National Reconciliation Encunter, Villavicencio, Colombia (8 September 2017): AAS 109 (2017), 1063-1064, 1066.

[212] Message for the 2020 World Day of Peace (8 December 2019), 3: L’Osservatore Romano, 13 December 2019, p. 8.

[213] SOUTHERN AFRICAN CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE, Pastoral Letter on Christian Hope in the Current Crisis (May 1986).

[214] CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE OF KOREA, Appeal of the Catholic Church in Korea for Peace on the Korean Peninsula (15 August 2017).

[215] Meeting with Political, Economic and Civic Leaders, Quito, Ecuador (7 July 2015): L’Osservatore Romano, 9 July 2015, p. 9.

[216] Interreligious Meeting with Youth, Maputo, Mozambique (5 September 2019): L’Osservatore Romano, 6 September 2019, p. 7.

[217] Homily, Cartagena de Indias, Colombia (10 September 2017): AAS 109 (2017), 1086.

[218] Meeting with Authorities, the Diplomatic Corps and Representatives of Civil Society, Bogotá, Colombia (7 September 2017): AAS 109 (2017), 1029.

[219] BISHOPS’ CONFERENCE OF COLOMBIA, Por el bien de Colombia: diálogo, reconciliación y desarrollo integral (26 November 2019), 4.

[220] Meeting with the Authorities, Civil Society and the Diplomatic Corps, Maputo, Mozambique (5 September 2019): L’Osservatore Romano, 6 September 2019, p. 6.

[221] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 398.

[222] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 59: AAS 105 (2013), 1044.

[223] Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 14: AAS 83 (1991), 810.

[224] Homily at Mass for the Progress of Peoples, Maputo, Mozambique (6 September 2019): L’Osservatore Romano, 7 September 2019, p. 8.

[225] Arrival Ceremony, Colombo, Sri Lanka (13 January 2015): L’Osservatore Romano, 14 January 2015, p. 7.

[226] Meeting with the Children of the “Bethany Centre” and Representatives of other Charitable Centres of Albania, Tirana, Albania (21 September 2014): Insegnamenti II, 2 (2014), 288.

[227] Video Message to the TED Conference in Vancouver (26 April 2017): L’Osservatore Romano, 27 April 2017, p. 7.

[228] PIUS XI, Encyclical Letter Quadragesimo Anno (15 May 1931): AAS 23 (1931), 213.

[229] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 228: AAS 105 (2013), 1113.

[230] Meeting with the Civil Authorities, Civil Society and the Diplomatic Corps, Riga, Latvia (24 September 2018): L’Osservatore Romano, 24-25 September 2018, p. 7.

[231] Arrival Ceremony, Tel Aviv, Israel (25 May 2014): Insegnamenti II, 1 (2014), 604.

[232] Visit to the Yad Vashem Memorial, Jerusalem (26 May 2014): AAS 106 (2014), 228.

[233] Address at the Peace Memorial, Hiroshima, Japan (24 November 2019): L’Osservatore Romano, 25-26 November 2019, p. 8.

 

2020年10月18日

・「”思いやりと連帯、正義のワクチン“開発が教会に求められている」-アジア司教協議会連盟議長、各国司教に新回勅の実践呼びかけ

(2020.10.14 VaticanNews  Robin Gomes)

 アジア司教協議会連盟会長のチャールズ・ボー枢機卿(ミャンマー・ヤンゴン大司教)が、教皇フランシスコが出された新回勅「Fratelli tutti」を受けた書簡を12日付けで、連盟加盟の各国司教たちに送り、アジアの現状と未来を見据えて、実践に強めるよう呼びかけた。

   書簡でボー枢機卿は、新型コロナウイスが白日の下にさらした数多くの”社会的な感染症”の最中あって、「アジアのカトリック教会は、兄弟愛と社会的友愛を論じた教皇フランシスコの新回勅の精神を生かし、”思いやりと連帯、正義のワクチン”を開発するよう求められています」と強調。

 そして、「私たちの教皇の連帯、出会い、そして無償への呼びかけが、人生と地域社会に響き渡りますように。(聖なる父が)すべての人に対話、敬意、寛大な姿勢を示すようにとの教皇の懸命の呼び掛けを受け入れてくださいますように」と神に祈った。

*共通善

 また枢機卿は、「私たちのアジアの現実は、緊急のメッセージである新回勅に反映されています… そのアジアは今、岐路に立っており、私たちがとる道が、次の世代に残す遺産を決定する」としたうえで、各国の教会の指導者、政治家、政府関係者たちに対して、「その遺産は、浪費されてしまうのでしょうか?それとも蓄えられるのでしょうか?アジアは個人の欲望を選ぶのでしょうか、それとも共通善に専心するのでしょうか?」と問いかけ、アジアが将来どうなるかは、「新型コロナウイルス大感染終息後の社会をどのように再建するかにかかっています」と訴えた。

 だが、それにもかかわらず、アジアの多くの政府は「すでに試みられ、失敗した経済、社会モデルに戻ろうとしています」と警告し、「共通の、普遍的な善のための政治。人々のための、人々と共にある政治。人間の尊厳を大事にする政治。政治の場で愛を実践する女性と男性の政治。経済と社会、文化の構造を、首尾一貫して元気を与える人間的な事業に統合する政治」を目指すよう呼び掛けた。

*危機を超える

 さらに、枢機卿は、新型コロナウイルスの世界的な大感染で、2020年は「人々にとって混乱、恐れ、喪失の時期となりました… それでも、教皇は私たち司教に、使命を果たすことを決してやめないように促され、『生きている教会であるなら、いつも驚きを持たねばなりません』と訴えておられます」と強調。「福音の喜びを心の中で衰えさせないように。”無関心の文化”に屈しないように。苦痛に取り巻かれていても、聖なる父は、圧倒的で、計り知れない、驚くべき、不相応なほどの友愛の賜物を強く求めておられるのです」と訴えた。

 また、教皇が新回勅で強調された友愛について、「私たちの姉妹と兄弟への配慮と敬意を意味します… 平和の基盤、道。連帯と対話。真の宗教です。友愛がなければ、自由と平等は意味がありません」と説いた。

*たくさんの潜在的なウイルス

 枢機卿は、新回勅で教皇が「新型コロナウイルスの大感染は、人種差別、不平等、ヘイトスピーチ、貧しい人々や高齢者、胎児の軽視、女性と子供の人身売買、死の文化など、社会に潜在しているのあらゆる”感染症”を白日の下にさらした」と指摘。また、アジアは、少なくとも18の国で死刑が合法となっている地域であること、世界の中で最も長期にわたる紛争がいくつも続いていること、何百万人もの人々が、職を求めて、家族と離れ、国を出ざるを得ない状況にあること、などの問題も挙げた。

*善きサマリア人

 こうした問題すべてに対して、教皇は新回勅で「善きサマリア人のたとえ話」と使って、「平和への専心、戦争と死刑の拒絶、社会内での許しと和解の奨励、そして私たちの共通の家へのいたわりなどによって、人類のための共通の道筋を示しておられます」と枢機卿は語り、「善きサマリア人の目で、私たちは”捨てる文化”を批判し、社会によって弱くされた人々ー女性、子供、少数民族、難民、胎児、高齢者、その他多くの人々ーの人権を守るように求められています。人々と共通善に対する敬意は、真の友愛だけから育つのです」と強調した。

 

*宗教間の関係

 枢機卿は書簡で、新型コロナウイルスの大感染がもたらしている危機に処する際の宗教間の友愛関係と、それが生み出す危険と機会についても言及。教皇は新回勅で「神が望んでおられる世界を今ここに築く機会を、勇気と創造力を持って探求するように私たちに促しておられます。大感染から再び立ち上がる社会は、友愛が大切にされる社会でなければなりません」と改めて訴えている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年10月17日

・「苦悩する世界に時宜を得た呼びかけ、公式翻訳には時間」新回勅で菊地大司教がメッセージ

(2020.10.9 カトリック・あい)

 教皇フランシスコが4日、公表された新回勅「Fratelli tutti」について、菊地・東京大司教が9日、以下のようなメッセージを発表した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 教皇様は、10月3日、訪れていたアシジの聖堂で新しい回勅に署名され、公表されました。教皇の文書は、多くの場合その冒頭の言葉をタイトルとしますが、今回の新しい回勅は「Fratelli tutti」とよばれています。どう訳すかは定まらないことでしょうが、「兄弟の皆さん」と呼びかけるアシジの聖フランシスコの言葉で始まっています。

 手元に英語版がメールで送付されてきたのが前日でしたから、まだすべて読み切れてはいません。回勅について知らせるバチカンニュースによれば、新しい回勅は、いわゆる社会教説(現実世界の諸問題に対して表明される、教会の立場や教え)で、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か?」という問いかけに答えるものであると言うことです。

 特に教皇様は、この回勅を準備中に新型コロナの状況に直面したことで、兄弟愛と社会的友愛に基づいた正義と平和に満ちた世界を構築する道を考察しておられます。教皇様はコロナ禍にあって、貧富の格差が拡大していることや、利己的な保護主義的考えが蔓延し、助けを必要としている人への配慮が忘れ去られているとしばしば警告されてきました。

 たとえば、教皇様は今年の世界難民移住移動者の祈願日メッセージにおいて、世界が感染症対策にばかり目を奪われている陰で、「大勢の人々を苦しめている他の多くの人道的緊急事態が過小評価され、人命救済のため緊急で欠くことのできない国際的な取り組みや援助が、国の政策課題の最下位に押しやられていることは確か」と指摘されました。

 その上で教皇様は、「今は忘れる時ではありません。自分たちが直面しているこの危機を理由に、大勢の人を苦しめている他の緊急事態を忘れることがあってはなりません」と呼びかけておられました。この危機に直面することで、誰も一人で生きてはいけず、互いに支え合い連帯を強めなくてはならないとの教皇様の願いが、この新しい回勅に詳述されています。

 新しい回勅の中で教皇様は、現代社会の経済システムのはらむ課題に詳しく触れ、矛盾が生み出す様々な悪を指摘した上で、「特にキリスト者に対し、あらゆる疎外された人の中にキリストの御顔を見つめるようにと招いて」います。

 また教皇様は、かなりの分量をさいて、「戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの『引き裂かれた生活』(37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を」説いています。

 そのほか教皇様はこの回勅の中で、政治のあり方や、戦争についても触れていますが、特に「正戦論」に対して、ある一定の考え方を提示している箇所が注目されます。終わりの部分で教皇様は、「人類の兄弟愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶよう」アピールをされています。

 2020年に私たちは世界的な規模で、未知の感染症によって命の危機に直面し、また社会がこれまで当然としてきた多くのことを見直す機会をあたえられました。教会も、集まれない現実の中で、それでは教会共同体であるとはどういうことなのかをあらためて考えさせられています。

 命を守るための行動は、まだまだ続くでしょう。日夜命を救うための活動に取り組まれる医療関係者に心から敬意を表すると共に、病床にある多くの方に御父のいつくしみ深い手がさしのべられ、健康を回復されるように祈ります。

 この現実のただ中で、教皇様はこの回勅を通じて、世界全体の進む方向を見直すように呼びかけられています。守るべきものは賜物である命であること、それも例外なくすべての命であることを明確に示されています。まさしく時宜を得た社会への呼びかけの回勅であろうと思います。

 さて、そういう重要な回勅ですが、公式の翻訳が整うまでには、今しばらく時間がかかるものと思います。バチカンのサイトにはすでに8カ国語の翻訳が掲載されていますが、もちろん日本語は含まれていません。これら8カ国語は、最初からバチカンで整えられた公式訳です。

 これらの言葉を使っている国の司教団は、うらやましいものだと思います。出来上がっている翻訳を、あとは広めるだけですから、様々な方法がすぐに思い浮かびます。うらやましい。日本語訳は、もちろん日本の司教協議会で行わなくてはなりません。原文が数日前に届いたばかりですから、これからです。

 中央協議会には翻訳のための職員がいますが、こちらは日常の翻訳業務がありますから、これからまず、どの言語版を底本とするかを決めて、その言語の翻訳者を探さなくてはなりません。

 もちろん仕事としての翻訳作業と出版作業ですから、それなりの費用が発生します。よく尋ねられる、「どうして無料でネット公開しないのか」というご意見は、申し訳ないのですが、経済的に厳しいものがあります。また公式訳は、それまでの教皇回勅と翻訳の整合性をとらなくてはならないので、原語とその翻訳を、以前の同様の用語の翻訳と合わせるためのチェック作業が不可欠です。そうしないと、たとえば「「いつくしみ」と「あわれみ」のように、同じ原語に複数の翻訳があって、後々に難しいことになってしまいます。どうしても即座に翻訳発行とはなりませんので、今しばらくお待ちください。

2020年10月17日

・米、豪、英などの司教団が新回勅 “Fratelli tutti”に歓迎を表明・・日本は?

Pope Francis signing “Fratelli tutti” Encyclical on the tomb of St. Francis of Assisi 

 教皇フランシスコが4日、新たな回勅「Fratelli tutti」を発表されたのに対し、米国、英国、そしてオーストラリアの司教団が相次いで、これに歓迎を表明。連帯と人間の友愛に対する教皇の訴えを真剣に受け止めている。

 残念ながら、日本では、「カトリック中央協議会」のインターネット・ページを見る限り、新回勅の内容はもちろん、発表されたことさえ、6日現在、全く伝えられていない。従来、教皇フランシスコが出される回勅や使徒的勧告の、日本語の翻訳には半年から一年を要しているので、今回もそれを待たねばならないのだろうか。新型コロナウイルスの大感染が世界を危機に陥れ、教会の危機克服への対応が注目されている今、この”周回遅れ”は致命的なことになりかねない。

*オーストラリアの司教団「ポスト・コロナの世界のロードマップに」

 Vatican Newsによると、オーストラリア司教協議会会長のコールリッジ大司教は4日、声明を出し、「新型コロナウイルス大感染の後のあり方を見出すことのできない世界は、新回勅で、新たなロードマップを手に入れることが可能になった」と述べ、「友愛と対話の新しい文化を構築するための呼びかけが、すべての人間の尊厳のビジョンになる」と強調した。

 また大司教は、教皇の言葉に倣って「コロナ危機が過ぎ去った後の私たちの最悪の対応は、『熱狂的な消費主義と新しい形の自己中心の自己保存』に陥ること」としてき、「私たちは『彼ら』や『それら』の観点でなく、『私たち』の観点から、物事を考えねばならない」と自省を込めて語った。

 さらに、教皇が特定の人々、つまり女性、高齢者、胎児、先住民、移民が公正さを欠いた形で扱われている、とされていることを取り上げ、オーストラリアでも同じようなことが行われていることを認めたうえて、教皇のメッセージが世界の自分たちとは別の地域だけに関係していると考えることが誤りであることを指摘している。

*米国司教団「政治経済システムの道徳的刷新の強力で緊急のビジョン」

 米国司教協議会の会長、ホセ・.ゴメス大司教も4日、新しい回勅を歓迎する声明を発表。「米国のカトリック教会を代表して、私は教皇フランシスコの人間の友愛に関する新しい回勅を歓迎します。この回勅は、前の回勅「Laudato si」以前のラウダートシとともに、教会の豊かな社会教説の伝統に大きく貢献するもの」と評価した。

 そして、新回勅に込められた教皇のメッセージは、「私たちの個人的な関係や社会や経済の組織化など、私たちの生活のあらゆる側面に影響を与える神の人類の計画を思い起こさせる」とし、現在の世界の状況に対し、「教皇は、政治と政治経済システムの道徳的刷新のための強力で緊急のビジョンを提示された」と強調。

 また、教会にとって、教皇は私たちに「自分たちの文化における個人主義を克服し、愛をもって隣人に仕え、すべての人の中にイエス・キリストを見、正義と憐れみ、思いやりと互いへの関心をもつ社会を追求する」ことを求めておられる、と受け止め、カトリック教徒と善意のすべての人々が教皇のメッセージをしっかりと受け止め、熟考し、「人間の家族の団結を求めるための新たな誓約をする」ことができるように祈った。

*英国司教団・社会正義委員会「”善きサマリア人”は個人の関係だけでなく国もレベルにも」

 一方、Cruxによると、英国でも司教協議会の社会正義委員会の委員長を務めるリチャード・モス司教が、インタビューに答え、新回勅で、「教皇は、個人や国に、早すぎるスピードを落とし、耳を傾け、兄弟姉妹として関わり合うように呼びかけておられます」とし、新回勅の「大きな挑戦」は、善きサマリア人の福音のたとえ話に示されている原則を採用し、「同じレンズを通して他の人々を見るように人々を促すことだ」と語った。

 そして、新型コロナウイルスの大感染との関係では、「もちろん、多くの人が、愛する人の喪失を悲しんでいます。医療従事者たち今も、途方もない緊張の下で働いています。非常に多くの人を襲っているこのウイルスに対処しようとする闘いの中で、それが、私たちの知っているすべてのこと」とだが、同時に、 この現実から、多くの人が思ったのは、「私たちが必ずしも物事を元の状態に戻すことを望んでいない、ということでした」「教皇も、この回勅で言っておられます。元に戻すことではない、と」と言明。

  「私たちの兄弟姉妹に対する見方を考えましょう。地域だけでなく世界的に、共通善のために、人類の未来と神が私たちに与えてくださった地球のため。これらすべてが非常にうまくかみ合っている、と私は思います」と述べた。

 また新回勅で教皇が使われた「善きサマリア人」のたとえ話を取り上げ、盗賊に襲われて重傷を負ったにもかかわらず、通行人に無視された人を、サマリア人が助けた、という行為は、個人同士の関係だけでなく、すべての国々と国民にも適用することが課題として示されている、と指摘。「これは私たちにとって非常に大きな挑戦です。なぜなら、私たちが普通に持っている考え方を改める必要があるからです」とした。

 「他の人の人間性を認めるのは当たり前のこととして、他のすべてのことを見るために飛躍する誘惑がある」が、実際には、教皇は私たちに、「物事をもっと深く見つめ、まず人間を見、そのうえで他のすべてのことに注意を向けるように言われている」と述べ、「それが、この回勅を通して、教皇が示された極めて強力なメッセージであり、私たちがこの挑戦を受け入れるなら、世界がどのレベルでもなすべきことをする方法を実際に変革する潜在的な力をもつことになります」と強調した。

 

2020年10月17日

・「新回勅は『世界が危機に瀕している』と警告している」と教皇側近の枢機卿(Crux)

(2020.10.6 ROME BUREAU CHIEF Inés San Martín

     教皇フランシスコの側近の一人、バチカン人間開発省次官のマイケル・チェルニー枢機卿は5日、米国の ジョージタウン大学が開いたオンライン・シンポジウムで発言し、教皇フランシスコが現在の世界は、キューバのミサイル危機、第二次世界大戦、あるいは3万人近い死傷者を出したイスラム過激派による米国での同時多発テロに匹敵する危機的状況にあると見、それに対応するメッセージが求められている、とお考えになっている、と述べ、4日に発表された教皇の新回勅『Fratelli Tutti』を十分に理解するためには、「私たちが危機の瀬戸際にある」ことを認識する必要がある、と強調した。

 枢機卿は「第二次世界大戦中にピオ十二世教皇がクリスマスのメッセージを聞いた時、どう感じましたか?ヨハネ23世教皇が(1963年に)回勅「Pacem in Terris(地上の平和)」を出された時は?2001年の米国での同時多発テロ、2007年に始まった世界金融危機は?新回勅を理解するためには、その時の思いを全身で、心の底から思い起こさねばなりません」と語った。

 そして、2015年に教皇が出された被造物へのいたわりを強調した環境回勅「 Laudato Si’」が私たちに「すべてのものが、つながっている」ことを教えているとすれば、今回の回勅「Fratelli Tutti」は「すべての人が、つながっている」ことを教えている、と指摘。「私たちが”共通の家”と兄弟姉妹に責任を負うなら、私たちに良い機会が与えられるでしょう。そして希望を再び燃え立たせ、根気強く、もっと多くのことをするように促されるでしょう」と述べた。

 また新回勅で「教皇は、ほとんどの人が、自分たちのしていることを認識しないまま同意するような見解を強く批判されたうえで、いくつかの大きな問題を、私たち一人一人に提起しておられます… 私たちは、神を創造主として認識せず、自分が誰の助けも必要としない自立した存在であり、繁栄し、すべてのものを所有し消費するに値する存在だと思い込んでいますが、実際は、”孤児”であり、つながりを断ち切られ、完全に”自由”で、一人ぼっちなのです」。

 そして、教皇がご自身で作られた言葉は、新回勅では使われていないが、その言葉は、回勅が何を言おうとし、回勅がそれを読む人たちをどこに導こうとしているのか、理解するのに役に立つ、とし、その言葉を紹介したー「真実、それは自我自尊の、冨を謳歌する”孤児”であることとは、正反対です」。

 シンポジウムにはチェルニー枢機卿とともに、女子修道会指導者会議前議長のシスター、ナンシー・シュレックや、シカゴの移民保護活動家で Bread for the Worldの理事のエディス・アビラ・オレア氏、 Religion News Service バチカン特派員のクレア・ジアングレーブ氏も参加した。

 その中で、シスター・シュレックは「現在、多くの人々が希望を失い、次々と起こる悲劇に恐怖を抱いていますが、私たちを支配する文化風潮は、もっともっと懸命に働き、同じことをするように言っている… 新回勅で私がとても勇気づけられるのは、教皇フランシスコが私たちの生活の中で何が起きているかを調べる方法を提供してくださり、今この瞬間にも、新しいことが起きる可能性があることです」と回勅を評価。新回勅は、「お互いを、人間関係を築く隣人、友人」と見るよう招いており、世界が政治的に分裂していると感じる今、その傷を癒すのに役立つ、と指摘した。

 また、フランシスコ会の一員として、十字軍のイスラムとの戦いの最中にスルタン・アル・マリク・アル・カミルを訪れた聖フランシスコについて取り上げ、「当時の支配的な考えは人を殺すことでしたが、聖人が同行した人々に命じたのは、『話すのではなく、聞くこと』でした。そして、二人は出会いの結果、互いの関係を築きました。そして聖人はアッシジに戻り、彼とフランシスコ会の兄弟たちの生活に、『祈りの呼びかけ』など、イスラム教徒のいくつかの習慣を取り入れました」と語った。

 そして、ここから得られる教訓は、「私たちは、敵と考える人の所に行くかも知れない、私たちの文化風潮が敵を呼び寄せるかもしれない、ということです、そして、私たちは関係を築くことができるかもしれません」と述べ、「私たちはそのことを、新回勅のあらあゆる箇所から学びます」とした。

 シスターはまた、新回勅の経済の観点から見て優れた点は、「私の隣人は誰なのか、貧しい人々を生み出すシステムで捨てられた人々をどのように扱うか」について言及していること、とし、「世界の多くの地域で、私たちの現在の金融モデルは、多くの人々を排除あるいは破壊することで、少数の人々が恩恵をもたらしています… それを改めるために、資源を持つ人と持たない人の間に関係の絆を築き続けねばなりません。私たちの思考を導くのは『関係』です」と強調した。

 これに関連して、チェルニー枢機卿は「経済や政治をどのように運営するかを教えることは、教会の指導者の役割でも、教皇の役割でもない」としたうえで、「教皇は世界を特定の価値観に導くことができる。これは教皇が新回勅でなさっていることです」と述べた。

 またアビラ氏は、生後8か月のときに家族と一緒にアメリカに移住した自己の経験をもとに、「私は移民として、普通の人とは違う立場にいます。なぜなら、移民であることで生じる困難を避けられないからです。私は不確実性を抱えて生きています。メディアやインターネットで耳にする絶え間ない反移民の言動など、絶え間ない脅威からもたらされる悪夢とともに生き、それから逃れることはできません」。

 だが、そうした中で、新回勅は「安らぎへの招き、希望を持ち続けることへの招き、十字架は苦難に満ちているが、その後に復活があることを思い起こす招き… カトリック教徒として、社会に貢献し、社会をより良くするための招き」と受け止めている、と語った。さらに、教皇がご自身も移民として、自分に話しかけていることを感じ、「さまざまに混ざり合った状態にある家族で育った者は、理解したり、対処したりするのが容易でない課題を抱えています。ですが、教会がここにあり、バチカンから遠く離れているにもかかわらず、米国の移民コミュニティの一員としての私の痛みと苦しみを聞いてくださっていると感じと、とても感動しました」と語った。

 ジアングレーブ氏は、「大学生の時に、カフェで同世代の人たちと、国境や財産、そして個々の人間の権利、どのようにさまざまな宗教が一緒になれるか、最も弱い立場にある貧しい人々の利益を考えた対話と政治をどのように実際に行うことができるか、などについて議論したことを覚えています」としたうえで、自分にとって、教皇フランシスコがたびたび語る「年配者は夢を見、若者はする」を”感じる”のは楽しかったが、「それを実際に経験したことは一度もなかった。私の知っている年配者は、夢を多くは見ていない。過ぎ去った時について思い出し、考えることでとても忙しそうでした」と述べた。

 そして、「ところが、(注:年配者である)教皇フランシスコは、この回勅の中で夢を語っておられます。それは、若者としての私を、そして他の多くの若い人たちを、奮い立たせ、多分、無知だからかもしれませんが、この世の中でされているやり方でないことについて興奮させます」と語った。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2020年10月17日

・新回勅-教皇は、教会の伝統的教え「正戦論」を覆したか(Crux)

A Ukrainian soldier is seen at a position on the front line near the town of Novotoshkivske July 26, 2020. (Credit: Iryna Rybakova/Press Service of Ukrainian Defense Ministry handout via Reuters via CNS.)In new encyclical, Pope questions usefulness of Church’s ‘just war’ doctrine

 (2020.10.6 Crux  MANAGING EDITOR Charles Collins)

 4日発表された教皇フランシスコの新しい回勅 Fratelli Tutti は、「正戦」に関してわずか6段落しか費やしていないが、この主題に関するカトリック教会の教えを覆した可能性がある。

*注*西欧における「正しい戦争」という考え方は、中世において繰り返された戦争・暴力という状況から、「戦ってもよい戦争」と」「戦ってはいけない戦争」を区別し、戦争・暴力の、行使・発生を制限する事を願って生まれ、10世紀後半以降、議論が活発となった。その際、「神の命じた戦争の遂行を義務」とする旧約聖戦観念と、ストア派ローマ法に由来する「穏健で必要最小限度の暴力行使という原則」を結びつけた聖アウグスティヌスの説が大きな影響力をもった。カトリック教会も、これまでその伝統的解釈を受け継ぎ、聖ヨハネ・パウロ二世によって、1992年に第二バチカン公会議30周年を記念して出された現行の「カトリック教会のカテキズム」でも、厳しい条件付きで、「軍事力による正当防衛の行使」という表現で「正しい戦争」を認めている。(「カトリック・あい」)

*「正戦論を完全否定はしていないが…」

 教皇はこの回勅で「戦争のリスクはおそらく、常に想定される利益よりも大きいため、戦争を解決策と考えることはできなくなりました。このことを考慮すると、今日では、『正戦』の可能性について話すために、数世紀前に作成された合理的な基準を思い起こすことは非常に困難です。戦争は二度とあってはなりません!」と述べている。

 そして、「カトリック教会のカテキズム」は、「道徳的正当性の厳格な条件」が満たされている限り、軍事力による正当防衛の可能性について語っている(「カトリック教会のカテキズム」2309項)が、「この潜在的な権利について過度の拡大解釈に陥りやすい」と警告。ここ数十年ですべての戦争は、それを始めた人々によって「正義の戦争」とされたことに注意を向けるように求めている。

 「教皇は新回勅で正戦論を絶対的な仕方で否定はしていないが、前任者たちと同じように、ヨハネ23世教皇以来、教会が進んできた道を継承している」というのが、米ペンシルベニア州のメアリーウッド大学「正義と平和研究プログラム」のディレクター、ダニエル・コサッキ氏の見方だ。

*「新回勅で教皇が言いたいのは『戦争で平和は築けない』だ」

 そして、「非常に分かりやすく言えば、教皇は『戦争によって平和を築くことはできない』と言っているのです… 『カトリック教会の教え』は、これまで何十年もの間、単なる戦争の伝統から離れてきました… しかし、(注:正戦を否定する)メッセージを聞きたくない人はたくさんいます」と語った。それはカトリック教会の「正戦」の伝統が1500年以上前にさかのぼり、伝統的に軍事介入が求められる侵略、人道的災害、その他の国際的危機の現実世界の問題に対処してきたからかも知れない。

*「カトリックの伝統から、『戦争が本質的に悪』と決めつけるのは問題」

 カナダのプリンス・エドワード・アイランド大学の哲学・宗教の准教授、ピーター・コリタンスキーは、「カトリックの伝統において、戦争が『本質的に悪』だと示唆することには、問題がある」と語る。

 「『戦争が本質的に悪だ』と示唆することは、神が、選ばれた人々に『武器を取れ』と命じることで、『本質的に邪悪な行動』をとるように命令したことを意味します。同様に、そのような示唆は、教会の教えに反することになるでしょう。教会の教えは、平和論よりも正戦論を明確に選択しているからです」。

 そして、「これらの理由から、私は、教皇の言葉をこのように解釈するのがいいと思います-『環境を変える』というよりも、『環境を変えるために教会の教えを改めて適用する』ことを意味している、と。それが、『本質的な悪』の解釈を成り立たせます」と述べた。

 さらに、教皇の言葉が暗示しているのは「過去よりも、現代の世界では、戦争を道徳的に正当化するのが難しい」ということであり、そウした考えの背景にあるのは、「近代兵器、特に核兵器と化学兵器の登場です。核兵器によって引き起こされる大量破壊は、戦争を始めるかどうかの判断を、劇的に変えているのです」と指摘した。

 

*「新回勅の”脚注”で、聖アウグスチヌスは隅に押しやられた?」

 だが、メアリーウッド大学のコサッキ氏は、「教皇は、戦争の正当性に関する教会の理解に対して、もっと劇的な変化を示唆しています… 2016年の使徒的勧告「愛の喜び」で扱った離婚し再婚した信徒の聖体拝領の問題と同様に、問題はすべて『脚注』に行きつくのです」と言う。

 新回勅の脚注242には、次のように書かれているー「聖アウグスチヌスは、現代ではもはや掲げることのない『正戦』の概念を構築し、こう述べているー言葉をもって戦争をすることは、剣で人を殺す、そして戦争ではなく、平和によって平和を獲得あるいは維持するよりも、誉れ高いーと」

 「これは私にとってショックでした」とコサッキは語る。「聖アウグスティヌスは通常、(彼の指導者である聖アンブローズと共に)正戦論の『創始者』あるいは『父』とされています。彼の正戦論には3つの重要なポイントがあります。①戦争は不正な侵略者への対応であること②戦争は担当の権威ある者が宣言すること③アウグスチヌスは、戦争中の正しい行動そのものに関心を持っていることーです」と説明。

 さらに、「今、これらの3つのポイントは、教会の正戦論においてアウグスティヌスに続く多くの議論の基礎になっています… ですから、教会は、アウグスティヌスが4世紀に持っていたのと同じ戦争への理解を持ち続けはしなかったが、正戦論を廃止するのではなく、時代時代の戦争への理解をもとに、再構築してきたのです。それを、教皇フランシスコは『もはや支持しない』と言う… この言葉が、この脚注に、教会が正戦論を超えて進む状況を作る道を開かせるのです」と強調した。

 

*「教皇が、アウグスチヌスの『正戦論』を単に破棄した、と見るのは誤り」

 これに対して、コリタンスキー準教授は、「教皇が、アウグスチヌスの『正しい戦争の教え』を『単に破棄した』と見るのは誤りです」と反論する。

 「教皇の言葉は、二通りの解釈ができます。一つは『正戦の概念そのものを、現在の教会が否定している』、もう一つは『正戦の概念そのものは完全に有効だが、現在の世界に適用するのは、従来よりもはるかに難しくなっている、と言っている』です。一つ目の解釈には、この脚注にある教皇が実際に選んだ言葉がもつ通常の意味を反映するという利点がありますが、二つ目の解釈には、教皇が神聖な伝統と矛盾するのを防ぐという利点があります」と説明した。

 準教授はまた、回勅に述べられた正戦論に関する教皇の言葉の「曖昧さ」について不満がある、と言う。その一つは「戦争」の定義だ。教皇は回勅で、国連の役割について前向きに話しているが、国連の平和維持活動、あるいは国連の警察行動も、このカテゴリーに入れるのだろうか。「そのような区別は非常に重要です。現在、国際社会が理解しているように、教皇も『戦争』を非難する際に、国連の平和維持活動の活動を念頭に置いてはいないようですが」としている。

*「人道的軍事介入は支持できるとしても、それを開戦の口実にすることが多い、と教皇は警告」

 米ジョージタウン大学の宗教平和世界問題センターのシニア・フェローでイエズス会士のドリュー・クリスチャンセン神父は、「私が最初に注目したのは、教皇が『原則として、軍事的手段を使う場合でも人道的介入は支持ができるが、それにもかかわらず、そのような言い方は、戦争を始める際の説明として、頻繁に使われている』と言われている箇所です」と述べた。

 コサッキ氏は、国連の介入は「非暴力を基本としており、紛争に関与している当事者にさらなる暴力を行使するよう仕向けない限り、(注:軍事力の行使は)正当化できる、と(注:教皇も判断しておられると解釈)してもいい」と述べた。

 教皇が2014年に韓国を訪問した際、「不正な侵略者を止めることは合法である」と言われたが、同時に、「私は、こういう動詞を強調したいー止めなさい、と。私は、爆弾を落とせ、戦争をせよ、とは言いません、何らかの手段で止めなさい、と言います。どういう手段を使って、止められますか?それは評価される必要があります」とも語られている。

 国連では、このような議論こそ、行われるべきだ、と述べたコサッキ氏は、「それは間違いなく、困難な状況に対処する場合の、教皇が好むやり方です」と指摘した。

*「戦争と死刑をまとめて扱った意味は…残る曖昧さと今後」

 フランシスコの曖昧な言葉は、前々任者の聖ヨハネ・パウロ2世を思い起こさせる。1995年に出した回勅「 Evangelium Vitae(命の福音)」でヨハネ・パウロ二世は、現代社会で死刑の適用を正当化できるケースは「事実上存在しない、とは言わないまでも、非常にまれである」と述べた。 2018年に教皇フランシスコはさらに踏み込んで、死刑について「容認できない」と「教会のカテキズム」を書き換えた。

 コサッキ氏は、教皇フランシスコが死刑と戦争を新回勅で一つにまとめていることに注目し、「この二つがつながっている」と教皇が考えている、と見る。(教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「Evangelium Vitae」も2つの主題をリンクさせていることに注意するのは興味深いことだ。)

 そして、このように語るー「戦争と死刑は、教皇にとって容易に解決できる問題。これら2つを一緒に考え、否定する理由として教皇は三つ挙げています。それは、①いずれも、生命に関わる事態だ②いずれも、意図されたようにすることに失敗する誤った答えだ③いずれも、結果としてもたらされるのは、ますますひどくなる暴力の悪循環だけだ、ということです」。

 だが、コリタンスキー准教授は、死刑と正戦の両方についての教皇フランシスコの扱いには、「明確さを欠いている」という難点がある、と指摘する。

 「『戦争と死刑は本質的に悪』と示唆することで教会のこれまでの教えを真逆にすることは、神学的には支持できないにもかかわらず、通常の常識的な感覚で関係個所を読むことで、(注:この二つを巡る教会の対応についての)歴史的な経緯を知らず、合理的にものを考える人ー人は、まさにそうした結論に導かれるでしょう」。

 そして、「神学的に正確な言葉を望んでいる人々からの問いかけ、特に戦争と死刑が『本質的に悪』であるかどうかについての問いかけを受けて、私たちが『理論的議論に夢中にならないように』と教皇は警告しておられます」と准教授は付け加えた。

 コサッキ氏は、教皇フランシスコがご自分の後継者が「戦争の正当性」について、さらに決定的な判断を下すための土台を準備している、とし、次のように語った。

 「教皇ヨハネ・パウロ二世が1995年に、死刑が正当化されるケースを限定した際になさったように、教皇フランシスコは、正当化された戦争について同様の指摘をされました。しかし、ヨハネ・パウロ二世が、次に来る教皇(フランシスコ)が「死刑を容認できない」と宣言するようにしたように、フランシスコは次に来る教皇が『正当化された戦争について同じ主張をするだろう』と言っているように見える」と彼は言った。

Jack Lyons contributed to this story.

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月17日

・新回勅‐自分自身と世界を救うために兄弟姉妹として他者を見る(Vatican News 解説)

(2020.10.4 Vatican News  Editorial Director   Andrea Tornielli)

 教皇フランシスコの新しい社会回勅のメッセージはー誰も一人で救われることはないーだ。そして友愛の社会を提案している。社会が戦争、憎しみ、暴力、無関心、そして新しい諸々の壁に圧倒されないように。

 私たちは「閉じられた世界を覆う暗雲」に取り巻かれている。だが、暗闇に屈服せず、夢と希望を抱き、兄弟愛と社会的友愛を築くことに専念することで手を汚し続ける人もいる。Child refugees

 小規模にばらばらに起きている第三次世界大戦、利益本意の市場原理は、一見、健全な政治に根ざしているようでもあり、「使い捨て文化」が普及しているように見え、飢えた人々のうめき声は聞こえない。だが、これとは異なる、もっと思いやりのある世界を作るための、はっきりとした道を示す人もいるのだ。

 5年前、教皇は、環境危機、社会危機、戦争、移住、貧困の間に存在するつながりを明確に描写した環境回勅「Laudato si」を発出し、達成すべき目標を示したー今よりも、もっと公正な経済、社会システム、被造物を大切にし、人間を、至高の〝神”に祭り上げたお金よりも、母なる地球の守り手として、中心に置くことーだ。

 4日発表された社会的回勅「 Fratelli tutti,」、教皇は、その目標を達成するための具体的な道を示している。その方法とは、自分たちを兄弟姉妹として認識すること。なぜなら私たちは子供たちであり、互いに養育係であり、皆同じ船に乗っているからだ。そのことは、現在の新型ウイルスの世界的大感染の中で一段と明らかになっている。

 言い方を変えれば、homo homini lupus(他者に対して狼のように振る舞う人)となる誘惑、新たな壁を作り、孤立する誘惑に屈するのを避け、「善きサマリア人」という画期的な福音宣教の模範を掲げて進め、ということだ。

 教皇フランシスコが示す道は、他の人を”よそ者”とする見方を壊されたイエスのメッセージを基礎に置いている。そして、すべてのキリスト教徒に、次のことを求めているーそれぞれの人の中におられるキリストを見い出し、私たちの世界で捨てられ、忘れられ、苦悩する人々の中に「十字架につけられたキリスト」を、再び歩けるようになった兄弟姉妹1人ひとりの中に「復活されたキリストを見る」ことだ。兄弟愛のメッセージは、他の宗教を信じる男性と女性、そして宗教を信じない多くの女性と男性によって受け入れられ、理解され、思いを共有されることのできるものだ。

 新回勅は、教皇の社会教説の要約として示されています。それは彼が教皇に就任にされてから、これまで7年間になさった説教、講話や質疑応答で示された要点を体系的にまとめたものになっている。その発想の元になっているものの1つは、間違いなく昨年2月に訪問先のアブダビで、アルアズハルのグランド・イマームのアフマド・アル・タイーブ師と合意、署名された「世界の平和と共に生きるための人間の友愛に関する文書」だ。教皇は、宗教間の対話にとって歴史的な出来事となったこの共有宣言をもとに、「対話が道であり、共通した協力がmodus operandi(方法)であり、相互理解が方法であり基準だ」ということを強調されている。

 だが、新回勅の意義を宗教間対話の領域にのみにとどめることはできない。回勅のメッセージは、私たち皆に関係している。社会的、政治的分野でも啓蒙的な内容が含まれている。”荒れ野に叫ぶ声”である教皇が、金銭的利益と市場の神話ー管理監督がされなくても全ての人に幸せがもたらされるという”神話”ーをあまりにも長い間、信頼してきた後で、健全で特定の役割を担うことを可能にする政治、を支持するプロジェクトに再び手を付けるのは、逆説的に思えるかもしれない。

 新回勅は、一つの章全体を「奉仕の観点から、慈善の証人として、偉大な理想によって育まれた政治」にあてている。目先の利益ではなく、共通善について考えることで将来のために、そして特に若い世代を念頭に置いた計画を考えている。そして、多くの国々が互いに密接に関係し合っている現在、教皇は、改めて国際的な諸機関への信頼を喪失しないように、改革の必要を強く訴えている。

 また、新回勅が最も力を入れたもののひとつは、戦争を断罪し、死刑を否定することだ。教皇はまず、教皇ヨハネ23世の「Pacem in terris(世界の平和)」の主旨に沿い、過去何十年かの間に起きた数多くの紛争が何百万人という罪もない人々の生活を踏みにじるという破壊的な結果についての、現実的な評価から始めて、回勅の最も強力なページの中には、戦争の非難と死刑の拒否に捧げられたページがあります。教皇ヨハネ23世の領土内のペースに沿って、過去数十年間に非常に多くの紛争が何百万人もの罪のない人々の生活に影響を与えた壊滅的な結果の現実的な評価をした。そして、”正義の戦争”があるという考え方を支持する、過去何世紀にもわたって醸成された合理的基準を維持することが、今や極めて難しくなった、との判断を示された。

 また、死刑に頼ることは、正当化することができず、容認することもできない、として、世界全域で廃止されねばならない、としている。

 教皇が指摘しているように、「今日の世界では、私たちが一つの人間家族に属している、という感覚は薄れつつあり、正義と平和のために協力する世界、という夢は、時代遅れのユートピアのように見える」。それでも、今、再び夢を見なおし、何よりも、その夢を共に実現する必要があるー手遅れになる前に。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年10月17日

・教皇の新回勅は、ポスト・コロナの世界の”投票案内”だ(Crux)

( 2020.10.4 Crux  

Pope’s new encyclical offers ‘voter’s guide’ for post-pandemic world

Pope Francis celebrates Mass in the crypt of the Basilica of St. Francis, in Assisi, Italy, Saturday, Oct. 3, 2020.  (Credit: Vatican Media via AP.)

  アッシジ(イタリア)=教皇フランシスコは、新しい回勅 Fratelli Tuttiで、新型コロナウイルス大感染後の世界の再構築のための処方箋を、”個人”や”市場”ではなく、共同体社会と貧しい人々を優先するシステムを作るために、政治と市民の言説を完全に作り直すことから説き始めている。

 300ページ近くを費やしたこの文書は、新型コロナウイルス大感染で痛手を負った世界が重大な選択をしようとする直近の未来のためのフランシスコ自身の”投票案内”だ。

 フランシスコの視野は世界的だが、その言葉には米国に対する明確な”バンチ”が詰まっている。米国では論争に明け暮れ、敵意に満ちた政治的戦いでもあった選挙戦の末に、来月初めに大統領が選ばれる。

 回勅で教皇は、新型コロナウイスの大感染に世界が力を合わすことができない現状に対する教皇自身の評価から始まる-前文の第7項で、コロナ大感染によって、世界の「誤った安全保障」の実態が暴露された、と述べている。

 「今回の危機に対し、さまざまな国が、異なった対応をしたものの、力を合わすことができない、ということが非常にはっきりしました… 私たちが、ハイパーコネクティビティ(注:「インターネットによって高度に緊密に結ばれている状態」の意味)にあるにもかかわらず、私たち全体に影響を与える問題を解決することを従来よりもっと難しくする”断片化”が起きていることを目の当たりにしました」と教皇は言明。

 「『学ぶべき唯一の教訓は、私たちがすでに行っていることを改善する、あるいは、既存のシステムや規制を改良する必要があるということだった』と考える人は誰でも、現実を否定しています」と述べている。。

 文書の以上の以外の部分を通して、教皇自身が現在のグローバルな政治と経済システムで誤っている見ているところを分析。「ポピュリズム」「自由主義」「自由市場資本主義」に対する批判を頻繁に繰り返し、移民や難民を含む最も脆弱な人々を優先する多国間協力と政策を支持している。

 また、今日の「過分極化し、攻撃的なソーシャルメディア文化」を激しく批判し、「現代の社会的相互作用の多くを支配する毒性」を治療する薬として友愛を示している。

 さらに、女性の権利と平等を訴え、高齢者を幅広く守るよう促し、人種差別と最近のいくつもの事件が引き起こした暴力的な抗議行動を早急に終息させるよう求めている。

*社会的攻撃

 教皇の見方によれば、「恥ずべき攻撃」意識の高まりは、急激に分極化する現在の”グローバル文化”の欠陥だ。

 回勅の44項で、「”快適な消費者の孤立”を”保っている時でさえも、彼らは、休むことのない、熱に浮かれたような結束を選ぶことが可能です-それは、他の人に対する敵意、侮辱、虐待、名誉毀損、そして破壊的な言葉の暴力をかきたてます」と述べ、そうしたことは、多くの場合、物理的な接触では、私たちを引き裂かずには済まない”自制心の欠如”を伴う、と指摘している。

 そして「社会的攻撃」は、「コンピューターやモバイルデバイスを介して空前の拡大の余地」を見出し、この「中毒性のある冷やかし」は「イデオロギーに好きなようする力を与えました」と批判。「わずか数年前まで、尊敬をなくすリスクを冒さずに誰も口に出せなかったことを、今では、一部の政治家さえも、責任を問われず、極めて粗雑な言葉で話すようになっています」(45項)と述べたが、これは明らかに、米国のトランプ大統領の攻撃的な政治スタイルなどを念頭に置いているとみられる。

 さらに教皇は現在の「ソーシャルメディア文化」を掘り下げ、ソーシャルネットワークで発生する「熱狂的な」やり取りは、単なる「平行線の独り言」であり、「常に信頼できるとは限らないメディアの情報」に基づくことが多い、とし、「鋭く攻撃的な口調で注目を集めるかもしれませんが、独り言は誰とも関わりを持たず、その内容はしばしば利己的で矛盾しています… さらに悪いことに、この種の言葉は、通常、政治的なキャンペーンについのメディアの報道をもとにし、日常的な会話の一部をなすほど広がるようになっている」と批判を重ねた。

 「自分自身の経済的またはイデオロギー的な利益」に一致するか役に立つ場合、こうした振る舞いを正当化あるいは弁明する試みがなされるが、「遅かれ早かれ、そうした利益とは反対になります」と指摘した。

*政治の問題

 現在の政治情勢に関して、回勅で教皇は、現代の「ポピュリズム」と「リベラリズム」の傾向を批判する立場から、政治的美徳と悪徳の普遍的な再考を強く促している。

 この箇所では、「より良い種類の政治」を取り上げ、ポピュリズムとリベラリズムに対する批判を含む第5章で、世界の多くの地域で「さまざまなイデオロギーの影響を受けた一般民衆の国民的一致の概念が、国益の保護の名のもとに、新しい形の利己主義と、社会的意識の喪失を生み出している」と指摘。

 貧しく脆弱な人々への思いやりの欠如は、自分たちの為に煽動的なやり方で彼らを搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に奉仕する「リベラリズム」の陰に隠れる可能性があり、いずれの場合も、「最も弱い人を含めた、すべての人に場を提供し、異なる文化に敬意を払う『開かれた世界』を思い描くことが難しくなる」と警告した。

 また、「ポピュリスト」と「ポピュリズム」という用語について頻繁にさまざまな角度から考えることが、それらが持つ意味を失わせた、とし、「諸々の国民、集団、社会、政府の全体を『ポピュリスト』か『ポピュリストでないか』で分ける努力がされているが、それが、ある人々にとって、「一方がいいか、他方がいいか」「不当に批判すべきか、絶賛すべきか」の二者択一でない見解を表明することを、ほとんど不可能にしている、と批判。

 さらに教皇は、「ポピュリズム」を社会の現実を解釈するためのレンズとして使うことの問題は、「『people(人々)』という言葉の正当な意味」を無視することにあり、この考えを普通の言葉から取り除くいかなる努力も、「人々による統治」という民主主義の核心となる概念を排除することを意味します」と述べ、「政府に何ができるかについて現実的な期待を持つ必要性」、そして「課題に対してそれぞれの地域の解決策を備えた水平的な統治の必要性」を強調。、民衆運動が果たし得る役割を賞賛し、「大きな政府」と「福祉国家」の”話術”を批判した。

 「新自由主義のモデル」を、経済的に安定した家庭に生まれ、とくに「前向きな取り組み」を必要としない人々がいる一方で、障害を持つ人や十分な教育や医療を受けられない極度の貧困な環境に生まれ、国の政策に依存する人々が存在するのを認めるもの、とし、「社会が『市場の自由と効率』で支配されている場合、そうした弱い人々の場はなく、友愛は単なる漠然とした理想にとどまります」と述べた。

 そして、新自由主義は、「社会問題の唯一の解決策として、『あふれ出す』あるいは『少しずつ漏れ出す』効果がもたらされる、という魔法の理論に頼ることで、自己を再生産するにすぎず、この「あふれ出す」効果が「社会の構造を脅かす新しい形態の暴力のもとになる不平等を解決する」ことはない、と断言。「欠かせないのは、生産的な多様性とビジネスの創造性を指向し、雇用を削減せず、創出することを可能にする経済を推進することを目的とした積極的な経済政策を持つことです」と強調した。

 教皇は、国民国家の現在の「弱体化」が起こしている問題を克服するために、「これまでよりも強力で、効率的に組織化された国際的な諸機関」の創設を提唱。これらの機関を担当する人々は「各国政府間の合意によって公正に」選ばれ、執行の権限を付与される必要がある、とした。

 そうした立場から、教皇は、国際連合を支持し、国連憲章は「法的規範の基本」であり、「透明性と誠実さをもって遵守、運用されれば、正義の必須の基準となり、平和の手段となる」が、そうなるためには、「『諸国家の家族』の概念が実際に効力を得るような改革が必要」と指摘した。

 また、国家間の協定についても、「二国間協定よりも、普遍的な公益の促進と脆弱な国の保護を保証するような多国間協定を優先する必要があります」と踏み込んだ考えを示した。

*移民、人種差別、戦争、死刑

 2013年に教皇に就任して以来、移民・難民問題は、フランシスコの重要な政策問題となっている。この回勅で教皇は、1991年に聖ヨハネ・パウロ二世が出した社会的回勅「Centesimus Annus(新しい課題 ― 教会と社会の百年をふりかえって  )」で述べられた「地球は、特定の国々や個人ではなく、全人類に属するもの」という「社会的財産」の概念に基づいて、普遍的な移民計画のビジョンを展開した。

 移民・難民の入国管理に当たっては、地球の財物の共通の目的地は、領土、資源と同様に国にも適用されねばならず、そうした観点から見れば、「いかなる地域から助けを求めてやって来る人に対しても、財物を拒否されないかぎり、どの国も、外国人に属すると言えます」と述べた。

 今年初めにアフリカ系アメリカ人が警察に殺害された後、抗議活動が続いている米国にとって悩ましい人種差別の問題についても取り上げ、国民の一致と共に、社会の平和を育て、守ることの重要性を強調。「復讐の誘惑と目先の党派的利益の満足感から脱する」ように求め、「暴力的な抗議行動は、解決策を見つけるのに役立ちません」と訴えた。

 また教皇は、この回勅で、戦争について、「正戦」の考えを否定し、現代の諸状況の中では暴力的な紛争を正当化することはできない、と主張。核兵器の廃止と死刑も繰り返し呼びかけ、死刑については「命の根絶」と言う言葉を使った。そして、270項で、死刑について判断をためらっているキリスト教徒に直接、訴え、預言者イザヤ、そしてイエスが聖書の中で語っていることを思い出すように求めたー「彼らはその剣を鋤に…」(イザヤ書2章4節)。そしてイエスは弟子たちに言われたー「剣を鞘に納めなさい」(マタイ福音書26章52節)と。

 

*政治的な慈善行為

 現在の世界の政治状況、社会状況に対する教皇の一般的な評価は厳しいが、その中で、教皇は、「敵意を破り、普遍的な兄弟愛の感覚を育むことができると信じる解決策」として「政治的な慈善」を提唱する。

 「もしも、誰かが、お年寄りが川を渡るのを助けるなら、それはすばらしい慈善の行為です。政治家が橋を架けることも、慈善行為です」と述べ、 「人は食べるものを提供することで他の人を助けることができますが、政治家はその人に仕事を提供し、自身の政治的な活動を気高いものにする慈善活動を実践することになるのです」、そして、このような社会的な慈善活動を「政治の霊的な心」と呼び、それが常に「貧しい人々や最も助けを必要としている人々に優先して注がれる愛」として表現されていると強調した。

 それは「私たちが彼らに代わって行う、すべてのことを支えています… 貧困の窮状は、貧しい人々を鎮静し、大人しく、無害な存在にする『封じ込め戦略』を進めることで対処できないことを私たちに認識させます。必要なのは、『自己表現と社会への参加の新たな道』を示すことです」と彼は述べた。

 また、世界はまだ、「最も基本的な人権のグローバリゼーション」から遠く離れた段階にあり、「世界政治は、飢餓の効果的な排除を最重要かつ不可欠な目標の1つにする必要がある」と強調した。

 そして、教皇が主張する選択肢は、人間の友愛の倫理だ。「さまざまな形の『原理主義的な不寛』が、個人、集団、人々の関係を傷つけている時にあって、他人を尊重することの価値、違いを喜んで受け入れる愛、そして他の人々の発想、意見、行い、そして罪さえも人間としての尊厳を最優先する価値を大切にして生き、他の人に教えるように、全力を尽くしましょう」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月17日