(VaticanNews解説)「教会の歴史の悲劇の一ページ」-”マカリック報告”を受けて

(2020.11.10 Vatican News  Andrea Tornielli)

 バチカン国務省は10日、未成年性的虐待で枢機卿のタイトルを剥奪され、さらに司祭職を追われた米国の元ワシントン大司教、セオドア・マカリックに関する膨大な調査書類と証言からなる報告書を公表した。以下はその概要である。

*不完全な情報もとにワシントン大司教に任命

 マカリックを2000年にワシントン大司教に任命した際、聖座は、部分的で不完全な情報をもとにそれを行なった。今回の調査で明るみになったのは、(注:知っていたはずの問題の)省略、過小評価、そして後で間違いが証明されたいくつかの選択であるーそれには、バチカンが求めた人物評価の過程で、聞き取り調査の相手が知っていたことを全て開示したとは限らなかったことも含まれる。2017年に至るまで、マカリックに関して、未成年者に対する性的虐待、脅し、傷害についての詳細な告発は全くなかった。虐待を受けた時点で未成年だった被害者からの報告があった2017年、教皇フランシスコは直ちに対応し、既にワシントン大司教区の長を定年で退任していた,この高齢の枢機卿の肩書をはく奪し、されに司祭職を取り上げた。

 この報告書の膨大な量の情報とりまとめ、そして公表は、マカリックに関わる意思決定過程を徹底的に調べ上げ、その結果は必ず公表しなければならない、という教皇の要請に対応するものだ。また今回の報告書公表には、マカリックのような人物を教会の高位聖職者の地位に就かせてしまったことで傷つき、苦しんでいる米国のカトリック教会共同体への教皇の司牧的配慮も働いている。

*”過ちの歴史”を繰り返さないために

  報告書の特徴は、内容の完全さだけでなく、提供する概観にもある。概観によって、考慮する必要のあるいくつかの重要なポイントを明らかにしている。

 最初のポイントは、犯された過ちに関するものだ。これらは、”過ちの歴史”が繰り返されるのを避けるために、すでに教会内で新しい規則の採用につながっている。 2つ目は、マカリックによる未成年者の性的虐待に関する具体的な告発が、2017年に至るまで、なかったことだ。

 1990年代に、軽微な虐待をほのめかすいくつかの匿名の手紙が、米国の枢機卿たちとワシントンのバチカン大使によって受け取られていたのは事実だが、手紙には、虐待などの詳細、被害者の氏名などが明らかにされていなかったー具体的な説明がされていなかったため、残念ながら、信頼できる情報とは見なされなかったのだ。

 

*最初の具体的な告発は2017年に

 未成年者に関する最初の具体的な告発は、今から3年前に出され、それを受けて、教皇フランシスコが直ちに教会法にもとずく対応に着手、二つの決定を下した。一つは、名誉枢機卿の地位をはく奪したことであり、もう一つは司祭職を解任したことだ。教会法上の調査を含む手続きが始まった際、進んで証言した人々は、真実が知られるようにしたことで称賛されるべきであり、自分たちが経験した辛い過去を語るという苦痛を克服しながら対応してくれたことも、感謝されるべきだろう。

 報告によれば、マカリックが最初に司教候補者とされた1977年、ニュージャージー州のメツチェン教区の司教に任命された1981年、さらにニューアーク教区の大司教に任命された1986年に、本人の昇進に否定的な情報ー道徳上の振る舞いに関する情報-の提供を求められた人はいなかった。

 1990年代半ば、教皇ヨハネ・パウロ二世がニューアーク教区を訪問される前に、同教区から、マカリック大司教の神学生と司祭に対する振る舞いに関するいくつかの訴えについての、最初の非公式な”評価”がなされたことがある。評価を行ったのはニューヨーク大司教のジョン・オコナー枢機卿だったが、米国内の司教を含む関係者から情報を集め、検討の結果、教皇のニューアーク訪問に「障害」はない、と判断した。

*オコナー枢機卿のマカリック昇進を否定する意見

 マカリック問題で重要な点は、彼が(注:さまざまな問題が浮上していたにもかかわらず)マカリックがワシントン大司教に任命されたことにある。 マカリックが伝統的に枢機卿のポストになっているワシントン大司教になる可能性が出てきた何か月かの間、彼の人物評価について、肯定的な意見が影響力のある人々から出される中で、オコナー枢機卿からの否定的な意見が出されていた。彼は直接情報を持っていないことを認めつつがら、1999年10月28日付けの駐米バチカン大使あての手紙で、マカリックの新しいポストへの任命は間違いであると思う、と説明していた。その理由として挙げていたのは、マカリックを巡る様々なうわさーマカリックが過去に、司祭館で若い成人と、ビーチハウスで神学生とベッドを共にしていたなどーから判断して、深刻なスキャンダルの危険がある 、というものだった。

*教皇ヨハネ・パウロ二世の最初の判断

 この点について、教皇ヨハネ・パウロ2世によってなされた最初の決定を強調することが重要だ。教皇は駐米大使にこれらの告発の根拠を検証するように求めました。繰り返しになるが、マカリックの人物評価に関する書面による調査には具体的な証拠は含まれていなかった。なお、大使から相談を受けたニュージャージーの4人の司教のうち3人は、調査内容が「不正確で不完全」なことを明らかにする情報を提供した。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は1976年以来マカリックを知っており、米国訪問中にも彼に会ったが、当時の駐米大使ガブリエル・モンタルボと司教省長官のジョバンニ・バチスタの、マカリックを候補者リストから外すように、との提案を受け入れた。長官たちは、具体的な詳細が無くても、高位聖職者をワシントンに移すリスクを冒すべきではない、と主張した。彼らは、訴えが根拠のないものと見なされたとしても、再び表面化し、困惑とスキャンダルを引き起こす可能性があると確信していた。こうしたことから、マカリックはニューアーク教区に留まる運命にあるように思われていた。

*マカリックからの手紙と教皇の心変わり

 ところが、その後、マカリックの人事を巡る流れを根本的に変える何かが起こった。自分がワシントン大司教の候補になっていること、その人事を保留するべきだとする意見があることをしったマカリックは、2000年8月6日に教皇ヨハネ・パウロ二世の個人秘書であるスタニスラフ・ジウィス司教に手紙を書いた。手紙で、マカリックは、自分が無実であると言明し、 「老若男女、あるいは聖職者か一般人かを問わず、いかなる人とも、性的関係を持ったことは一度もありません」と訴えた。

 教皇はその手紙を読み、マカリックが真実を語っており、否定的な「噂」はまさに噂であり、根拠のない、あるいは、少なくとも、証明されていない情報だけだ、と確信した。したがって、当時の国務長官のアンジェロ・ソダーノ枢機卿に出した指示を通して、ワシントン大司教の候補者リストにマカリックを載せ直し、ワシントン大司教に彼を選んだのは、教皇ヨハネ・パウロ二世だった。

 報告書で引用されている証言によると、その期間の文脈をよりよく理解するために役立つと思われるのは、教皇がポーランドの大司教であった数年間に、当時のポーランドの共産党政府が司祭と司教の信用を傷つけようとして、嘘の告発を使ったことを経験していた、ということだ。

*教皇ベネディクト16世の判断は

 さらに、マカリックがワシントン大司教に任命された時点では、成人あるいは未成年の性的虐待の被害者は、大司教の不適切な振る舞いに関して訴えるために、バチカンあるいは駐米バチカン大使と接触していなかった。加えて、ワシントン大司教に就任してしばらくは、マカリックの振る舞いについて不適切とされることは、何も報告されなかった。だが、彼に対する成人への性的嫌がらせと虐待の訴えが再び表面化し始めた2005年になって、新しい教皇ベネディクト16世は、ワシントン大司教としての任期を2年間延長することを認めていたマカリックに早期引退を求めた。 マカリックは翌2006年にワシントン大司教区の長としての地位を離れ、名誉大司教となった。

 報告書は、この時期に、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が駐米バチカン大使として、マカリックの成人との関係に関わる情報について、上司であるバチカンの国務長官に報告し、事態の深刻さを告げている。だが、彼は警鐘を鳴らす一方で、証明されるような事実が無いことも理解していた。当時の国務長官、タルシチオ・ベルト―ネ枢機卿は、この情報を教皇ベネディクト16世に直接伝えた。その段階では、被害者に未成年がいないことになっており、問題とされる人物がすでに大司教区の長を退いている枢機卿であることから、教皇はマカリックの調査に公式の教会法に基づく手続きを開始することはしなかった。

*マカリックに「制裁」ではなく「勧奨」

 その後の数年間、マカリックは、バチカン司教省からの「出来る限り静かで控えめな生活を送り、公の場に頻繁に顔を出さないように」との指示を受けていたにもかかわらず、活動を続け、駐米バチカン大使の暗黙の了解のもとに、ローマを含めて海外にも頻繁に出かけた。マカリックがバチカンから、出来る限り控えめな生活を送るようにとの要請を受けていることについて、数多くの議論がなされた。だが、報告書で公開された文書や証言からみて、彼に「制裁」が課されたことは一度もなかったのは明白である。

 それは「制裁」というよりも「推奨」であり、2006年に本人に口頭で伝えられ、2008年に文書で伝えられたが、それが教皇ベネディクト16世の率直な願望だ、とはしていなかった。マカリックの善意と尊重を前提とした「推奨」だった。マカリックは活発に活動を続け、旅行を続け、バチカンから権限を与えられていないにもかかわらず、様々な国で宣教活動を行い、それが容認されていることを示した。

 2012年になって、マカリックに対する新たな訴えを受けたビガノ駐米大使は、司教省から調査の指示をうけたが、今回の報告によれば、彼は指示された調査を全て実行したわけではなく、従来なされていた手法をそのまま取り続け、マカリックの活動、米国内外の旅行を制限するような重要な措置をとることをしなかった。

*フランシスコ教皇がとった厳正な措置

 フランシスコが教皇に選ばれた際には、マカリックはすでに80歳を超えており、投票権を失っていた。マカリックは相変わらず、習慣となった旅行を続け、一方で、就任した手の教皇には、マカリックに対する性的虐待の訴えの深刻さを知らせるような文書や証言は報告されていなかった。報告されていたのは、マカリックがワシントン大司教に任命される前に、彼に対する訴えと「成人との不道徳な行為に関連する噂」だけだった。この段階では、マカリックに対する訴えは教皇ヨハネ・パウロ二世によって調査され、否認されており、また、前任のベネディクト16世の教皇在任中、マカリックが活発に活動していたことを良く知っていたため、教皇フランシスコは「前任の教皇たちが採用した方針」を修正する必要がある、とは考えなかった。

 このようなことから、教皇フランシスコが、マカリックに課されていた制裁や制限を無効にしたり、弱めたりした、というのは、真実ではない。2017年に、未成年者に対する性的虐待の訴えが初めて出て来た時に、これまでの流れが全く変わったのだ。教皇は即座に対応し、枢機卿の地位はく奪、司祭職の解職という重大で前例のない措置に踏み切った。

 

*カトリック教会が得た教訓は

 この報告書を通して提供される膨大な量の証言や文書で語られているのは、間違いなく、最近のカトリックの歴史における悲劇のな一ページであり、教会全体がそこから学ぶ痛ましい事の次第である。実際、マカリック事件のレンズを通して、2019年2月の未成年者の保護に関する全世界司教協議会会長会議の結果を受けて教皇フランシスコが講じた措置のいくつかを読むことができる。

 たとえば、自発教令Vos estis lux mundiーバチカンの関係部署間の、バチカンと各国司教協議会などとの間の情報交換に関する指示、初期調査への首都大司教の関与、訴えに対する敏速な対応、教皇秘密の廃止、などを含むーがそれだ。これらの決定はすべて、実際に起きたことを考慮に入れ、機能していなかったこと、手順が適切に踏まれていなかったこと、遺憾ながらさまざまなレベルで過小評価さらたことから、学んでいる。教会は、今回のマカリックのケースを含めて、性的虐待との戦いから、学び続けている。それは、今年7月に、匿名の訴えを破棄しないよう司教や修道会の会長たちに求める教理省の指針からも明らかだ。

 

*傷口は開いたままー必要な「へりくだり」と「悔い改め」

 以上が、この報告書に示された証拠文書で明らかにされた全体像ー従来知られていたことよりもずっと詳しく、複雑な事実を再構成しようとしている。過去20年の間、カトリック教会は、聖職者による性的虐待に対する苦悩、未成年者の保護を保証する必要性、この現象と戦うことができる規範の重要性を、従来よりも強く意識するようになった。また、弱い立場にある成人を性的虐待や、権力の乱用から守る必要性をいっそう強く認識し始めた。

 カトリック教会にとって、米国とバチカンにおいて、セオドール・マカリックーかなりの程度の理解力と心構えを持っており、聖職者内部と同様、政治的な分野でも多くの人間関係を織り合わせることのできる高位聖職者ーの関わる問題が、傷口ー何よりも、彼が被害者たちにもたらした痛みと苦しみーは開いたままだ。この傷は、新たな法律や効果的とされる行動規範だけでは対処できない。なぜなら、この犯罪は、(注:宗教上、道徳上の)罪でもあるからだ。この傷を癒すために、へりくだりと悔い改め、神の赦しと癒しを求めることが必要なのだ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年11月11日