(2020.8.24 カトリック・あい)
8月22日は国連が定めた「宗教および信条に基づく暴力行為の犠牲者を記念する国際デー」だった。教皇フランシスコは翌日23日の年間第21主日の正午の祈りの説教の後で、まず、このことに触れられた。
そして教皇は、「宗教あるいは信念を守る為に犠牲となっている兄弟姉妹のために祈りましょう。そして、祈りと連帯をもって彼らを支えましょう」と世界の人々に呼び掛け、「今日、信仰と宗教のゆえに迫害される方が沢山います。沢山いるのです」と強調された。
国連総会は昨年5月、毎年8月22日を「世界で続いている宗教・信条を根拠にした暴力の犠牲者追悼の日」として、この国際デーとすることを決議し、今回はその二年目を迎えた。
第二次大戦中のナチス・ドイツでのユダヤ人大量虐殺を教訓に、1948年の国連総会で採択された「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(通称「ジェノサイド条約条約」)は「国民的,人種的,民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもって行われた」殺人,加害などを「集団殺害」(第2条)と規定し、「集団殺害が平時に行われるか戦時に行われるかを問わず,国際法上の犯罪であることを確認し,これを防止し処罰する」(第1条)としている。
近年、宗教や信念を貫こうとする人々に対する弾圧、虐待、そして殺害が目立ち、 特にシリアとイラク、ミャンマー、ナイジェリア、中国などで顕著になっており、中国が新疆ウイグル自治区でウイグル人イスラム教徒に対して行っている行為などについては、これに該当する可能性があり、第三者による公正かつ厳正な実態調査と是正を求める声が国際社会で高まっている。国連の国際デー制定は、こうした状況を受けたものだ。
*近隣国の宗教迫害に、何もしない日本の教会
中国や北朝鮮、ミャンマーなど近隣の国々で、信教の自由や人権を侵す迫害が相次いでいる中で、日本のカトリック教会のリーダーである司教団が、こうした教皇の繰り返しの訴えに何の反応もしないのは不思議なことだ。関心がないのか、それとも「日本以外の国の内政に口を出すことは控えたい」というこのグローバル化時代に、アジア司教協議会連盟のボー会長や東南アジアの枢機卿の中にも特定国の人権侵犯問題に声を上げる時代に、時代錯誤的な尺度を持ち続けているからなのだろうか。日本社会から浮き上がった存在になっているのはやむをえない、と諦めねばならないのだろうか。
おまけに司教団は、昨年秋の教皇来日を受けて5月に、9月1日から10月初めにかけてを「すべてのいのちを守るための月間」とすることを発表しているが、その時の「日本カトリック司教協議会 会長・髙見三明長崎大司教」のメッセージは「すべてのいのちを守るためには、ライフスタイルと日々の行動の変革が重要であることはいうまでもありませんが、とくにこの月間に、日本の教会全体で、すべてのいのちを守るという意識と自覚を深め、地域社会の人々、とくに若者たちとともに、それを具体的な行動に移す努力をしたいと思います」と、極めて緊張感を欠いた、抽象的できれいごとの羅列、国民は当然のこと多くの信徒の心を打つようなメッセージには程遠い。
*半年以上もコロナ禍で苦しんでいる日本社会ー9月になって、”命を守る月間”とは
しかも、そのメッセージに示された行事指針ー①毎年9月第一日曜日(被造物を大切にする世界祈願日)に、全国で一斉に祈り、各共同体単位で具体的な行動を起こす②期間中、「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)を唱える③地球環境の実態について学習し、エコロジー教育を推進する④行政、自治体、環境保護団体などと連携して活動する⑤上記について、今必要な行動・活動例…資源の消費・浪費・廃棄量の削減(水・電気・食料など)、化学物質を含む洗剤やプラスチック製品など、環境汚染物質の不使用、使用量の削減、美化活動(海浜、里地里山、街中など、身近な場所でのゴミ拾い・清掃)ーは、いまだにそのまま。月間が始まる直前になっても、24日現在で見る限り、教会として、「祈り」のほかに何の具体的な行動予定も示されていない。すべては「コロナで動けない」で済むことなのだろうか。今何をすべきか、識別能力が欠如しているのではないか。
*教皇は就任時からずっと宗教迫害の悲惨さを取り上げ、祈りと連帯を呼び掛けられている
教皇フランシスコは、2013年の就任以来、教会のリーダーとしての立場から、宗教、信条を守ろうとして犠牲になる人々の問題を繰り返し取り上げられてきた。就任直後の4月には、キリスト教徒として最初の殉教者である聖ステファノについて言及したうえで、「殉教者の時代はまだ終わっていません。今日でも、実際には教会には最初の1世紀よりも多くの殉教者がいると言えます。多くの男女が、イエスに対する憎しみ、信仰に対する憎しみの犠牲になっている。多くの国で、迫害されています」と訴えられた。
翌年3月にも、「私たちは、かつて多くのキリスト教徒が、ナチスの収容所、共産主義者の収容所で苦しめられたことを忘れがちです。そして、今も、キリスト教徒であろうとするために…。聖書を持っていることで非難され、十字架を身に着けることができない… 迫害されているため、皆で一緒に祈ることができす、福音を聞くことも、聖書は持つこともできない」と迫害を受ける人々に思いをはせられた。
さらに、今年4月29日の一般謁見での「山上の説教」をテーマにしたカテケーシスでは、「精神の貧しい人々、嘆き悲しむ人々、柔和な人々、神聖さ、慈悲を渇望する人々、心の清い人々、平和主義者たちは、キリストのために迫害に遭うかも知れません… 今この瞬間、世界中の多くのキリスト教徒が迫害に苦しんでいるのを思い浮かべるのは辛いことです。彼らへの迫害がすぐにも終わるよう望み、祈らなければなりません。私たちキリスト教徒は一つの体。迫害に遭っている人々は、血を流しているキリストの手と足です」と祈りと連帯を呼び掛けられている。
教皇は昨年11月の日本司牧訪問で、日本到着直後に日本の司教団と会見され、「主の道は、『神を忘れまい』と努める忠実な民の日常生活の中で、ご自分がいかに『働かれる』かを示しています。沈黙の中に隠れておられますが、聖霊の力と優しさをもって、二人またはそれ以上が、主の名において集まるところには主がおられることを思い出させてくれる、生きた記憶です。あなたがたの共同体の DNA には、この証しが刻まれています」とされ、「皆さんは、迫害の中で主のみ名を呼び続け、主がいかに自分たちを導かれたかを見つめてきた、生きている教会です」と強調されたうえで、「日本の教会は小さく、カトリック信者が少数派であることは知っています。しかし、それが、あなたたちの福音宣教の熱意を冷ますようではいけません」と注意を与えられた。
「いのち」にばかり気を取られた日本の司教団は、この短い言葉に託された教皇の日本の教会のリーダーたちへの真摯な注文を、真剣に受け止め、生かそうとしているのか。残念ながら、筆者にはそのようには見えない。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)