・(解説)協働性と聖職者による性的虐待の危機: 教会はまだトレント公会議に”執着”(LaCroix)

(2019.12.10 LaCroix  Massimo Faggioli)

 8日の日曜日は、第一バチカン公会議(1869年12月8日から1870年10月20日まで4期にわたって開催)が始まって150周年だった。教皇ピオ9世が、後に教皇の首位性と不可謬性の宣言で知られることになる公会議を招集した。この公会議は、リベラルな近代化の動きを押し戻そうとするカトリック教会の象徴となった。

 そしてカトリックの宣教学者、ロバート・シュライターは、第一公会議は、教会内に「確信の期間」への道を開いたもの、として、以下のように語る。

 (シュライター師は1970年生まれ。米国の聖アウグスチノ会経営のビラノバ大学で神学と宗教学の担当教授、米国のカトリック評論誌 Commonweal への寄稿者でもある。オーストラリアの神学教育研究所Broken Bay Instituteの非常勤教授も務めている)

*確信の期間から、感覚がマヒするような確信の無さへ

 だが、聖職者による未成年性的虐待が引き起こした危機は、その「確信」をひっくり返し、打ち砕いた。カトリックの信徒たちは今、過去の教会の業績ー第一(1869-70)と第二(1962-65)の二つの公会議の意義と成果を含めてーに、疑問を抱いている。

 公会議の教えを含むカトリックの教義は、どうやって、私たちが性的虐待による危機ー明らかに(第二バチカン公会議が行われた)1960年代に始まったのではない現象-について学んできたことと、共存することができるのだろうか? カトリック教会は今、「確信の期間」というよりは、感覚がマヒしてしまうような確信の無さ-第二バチカン公会議直後の何年かを特徴づけた「確信の無さからの解放」とは大きく異なることーを体験しているのだ。

 性的虐待の危機の継続的な影響は、第二バチカン公会議の重要な要素の、教会の受容、そして、あるいは、拒絶を実際に条件づけている。この危機は、この公会議の受容と適用の歴史において、”術前”と”術後”を分けるものとなるかも知れない。私たちは聖職者による性的虐待がもたらしている危機と第二バチカン公会議の関係を理解するように努めねばならない。

 粛厳たる事実は、こおぞましい犯罪に、第二バチカン公会議後の期間が対処できなかった、ということは別に新しことではない、ということだ。トレント公会議(1545-1563)を振り返れば「教会改革についての教えと、教会の実際の活動への適用のされ方が結びついていなかった」ことが分かる。

*トレント公会議後の時代の教会の教訓

 トレント公会議後の時代の教会に関する研究によれば、犯罪行為(特に性的犯罪)で訴えられた司祭、修道士が、教会裁判所であれ、国の裁判所であれ、裁かれるのは稀だった、ということだ。歴史学者は、”交渉ごとの正義”という言葉を使う-聖職者を守るために多くの要素と異なる関係者が関与したのだ。

 トレント公会議後の時代は、教皇の強められた”外交手腕”が、犯罪者である聖職者を保護するうえで重要な役割を果たした。教皇庁と外交使節団の代表たちは、そうした聖職者たちを国の裁判所に出廷させないように守り、あるいは現地の司教たちが聖職者の法務官のところに連れて行かないように守った。

 その典型的なものは「異なる司法組織の分断」だ-犯罪と訴追するのに関心を持つ国の裁判制度、そして、カトリック司祭が裁判権を持つ、これとは別の制度(いわゆるprivilegium fori)になっている。

 教会内部にも分断化があった。現地の司教の権力、修道会の権力(司教の管轄権が及ばない)、そして、バチカンの権力-司教たち、修道会、そして国との良好な関係を維持することに関心があるーだ。教皇庁の最大の関心事は「国家の権力を寄せ付けず、教会の事柄についてあらゆる世俗的な干渉を避けること」だった。

 このようなトレント公会議後の歴史は、現在の教会が性的虐待の危機にどのように対面しているかを、裁判権の分断だけでなく、教会の信徒たちを含む一般市民へのそうした危機の伝え方という観点から、よりよく理解する助けになる。

 16世紀と17世紀には、今日と同じように「聖職者が職務を離脱する理由が明らかにされない」という大きな問題があった。そのような”秘密主義”は、聖職者の犯罪、特に性的犯罪を扱う際の、教会の司法的伝統の一部である。この伝統の下で、聖職者には判決に際して、特別待遇が与えられた-有罪とされた聖職者に、刑務所への収監(あるいは拷問)以外の幅広い措置が取られた。判決は極めて象徴的なものとされる傾向があり、同様の罪を犯した一般信徒に課せられるような厳しいものではなかった。

 トレント公会議後の時代と現在には類似点もある-正統派的慣行の最も柔軟性に欠ける執行者だったピオ5世(1566年から72年の教皇)でさえも、教会裁判所から聖職者を保護する必要が出た時に、聖職者の特権を進んで放棄しようとはしなった。

 さらに、トレント公会議後、何世紀にもわたって、「罪人である聖職者に対するよりも、異教徒との闘いが重要だ」とみなされてきた。同様に、現代のカトリック教徒の中には「1960年代から1970年代にかけて沸き起こった社会、文化的現象の産物」として、性的虐待をとらえている者がいるのだ。

*訓話

トレント公会議後の16世紀と17世紀の教会が、性犯罪を含む犯罪者である聖職者との戦いに失敗したのは、教皇とその外交官たち、司教たち、修道者たち、そして一般信徒のエリートたちの間の覇権をめぐる闘争の為だった。18世紀に至るまで、教会が犯罪人の聖職者に対処できなかったことから、当局がこの問題に、より積極的に介入するようになった。

 これは訓話である。今から 3世紀前にトレント公会議の失敗が世俗国家の攻撃的な「管轄主義」につながったように、神の民についての第二バチカン公会議の教会学を、現在の教会が実行できないことが、教会の事柄に対する国家介入の新たな波につながる可能性がある。

 これまで見てきたことは、始まりに過ぎない。

 近代国家にとって、「宗教施設における子どもたちや脆弱な人々の安全」の重要性は、「教会の権力に対する伝統的な服従」をはるかに圧倒している。それは公衆衛生と安全の問題になっている。オーストラリアのカトリック教会に対して、王立委員会が出した勧告の一覧表が、その良い例だ。

 

*教会のシステムがいまだに第二バチカン公会議を反映していない

 制度的には、カトリック教会は今日、第二バチカン公会議で想定されたものではなく、450年以上前のトレント公会議とそれを受けた教会のシステムに似たものであり続けている。

 それにもかかわらず、重要な変化はあった。 1つは歴史的な変化、教会と国家の関係に関するものだ。それ以前の時代には、聖職者の犯罪の訴追は、教会と国家の権力闘争と比べれば軽微な問題として、双方に認識されていた。もう一つの変化は、以前は、聖職者の性的犯罪が地域の共同体と一般信徒たちから抗議を引き起こすことはほとんどなかった。抗議しようとしても、司祭が人々に「聖なるもの」へのアクセスを提供していなかったからだ。

 司祭が果たす「聖なる」役割への期待と、実際に司祭が過ごしている私生活の間に大きな乖離が存在している。今、私たちは、カトリック信者と全世界が、教会の指導者に対して、単なる福音の宣言者ではなく、証人になることを期待する時代に生きている。私生活と公生活の区別はほとんどなくなっているのだ。

*神の民の教会学を求めて

 しかし、トレント公会議から今日に至る最大の変化は、教会学に関するものだ。カトリック教徒は、エリートや階層にもはや支配されなくなった教会-というよりも、神の民との交わりにある教会-についての神学的な考えを手にしている。これは、教会での性的虐待や権力の濫用との戦いで重要な役割を果たすことができる教会学の変化だ。

 歴史は私たちに語っている-性的虐待について聖職者だけをとがめたてるのは誤りだ、と。聖職者が罪に問われないのは、「司祭は世俗的な法律を超えたことろにいる」という考えの結果だった。しかし、それはまた、2つの階層-1つは聖職者、もう1つは世俗の人々-が政治的、社会的、経済的な腐敗で共謀したためなのだ。

*協働が、性的虐待が引き起こした危機の克服に欠かせない

 それが、教皇フランシスコが協働性を強調する理由だ。教皇庁から教区および教区制度に至るまで、第二バチカン公会議後の教会の組織の仕組みは、依然として相当部分が「トレント公会議様式」だが、第二バチカン公会議のカトリックの教会学はそうではない。

 教皇フランシスコが2015年10月の「基調演説」で述べたように、協働性は、性的虐待による危機を克服するのに欠かせない。なぜなら、それが「小さいが強力な集団を掌握することに、全ての人の運命を委ねる」という悪に対処するあり方だからだ。このような教皇の協働性に関する演説は、第二バチカン公会議の受容の歴史における重要な瞬間だった。教会が虐待危機にどのように対面すべきかについての通過点でもあった。

 今日のグローバルなカトリックの最良の例は、教区レベルや国レベルで協働性への取り組みを始めた教会から生まれている。さまざまな方法で、さまざまな名称で、性的虐待の悲劇に対処するための特定の政策の明確な表現を全て含んでいる。

 それに代わるのは、新たな循環があちこちの聖職者の下劣な行為が吹聴され、大陪審や司法長官による最新の破滅的な報告書が発行されるのを、恥辱と嫌悪の中で、消極的に立ち止まったままでいることである。

 聖職者による性的虐待のスキャンダルに対応する適切な教会法の手段がない中で、それに関して新たに起こる問題を知ることが、共同体としての教会に対する信頼のさらなる喪失につながる、ということだ。このままいけば、最終的には、大量の信徒が離れていくだろう。

 協働性を、虐待の危機に対する教会の対応の重要なカギとなるものとして考えるのを拒むことは、教会の想像力の破綻だ。それはまた、神の民への背信でもある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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(参考「カトリック・あい」)

①トレント公会議は、宗教改革の混乱を収束させ、カトリック教会の体制の立て直しを図るために教皇パウロ3世が1545年に召集した公会議。1563年まで断続的に開かれ、①救済の原理は聖書だけではなく聖人の伝承(聖伝)の中にも存在する。伝統に基づいた教会が唯一の聖書解釈者である⇒ルターの聖書主義への反論②信仰はすべての義認の基礎であるが、その義認には神の恩寵だけでなく人間の自由意志による行為(洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚の7つの秘蹟)によって有効となる⇒ルターの信仰義認説への反論③秘蹟(上記7つの儀式)の効果は「なすものの業」ではなく「なされた業」によって有効となるーことを確認。また、教会改革として、①司教の監督権を強化すると共に、定住義務の厳守、複数司教区兼任の禁止②聖職売買と贖宥状販売の禁止、聖職者の独身制など③ローマに宗教裁判所によるカトリック教会批判の取り締まり強化ーを決めた。

②第1バチカン公会議は1868年6月29日ピオ9世が召集。トリエント公会議以来300年ぶりの公会議で、関係者の期待も高かったが、教会論などさまざまなテーマについて広く扱う予定だったにもかかわらず、時間的制約によって討議されたのは①近代思想における誤謬を排斥することと②教皇首位説、教皇不可謬説に関する問題のみ。公会議において、 2つの憲章 「デイ・フィリウス」(”Dei Filius” )「パストル・エテルヌス」(”Pastor Aeternus” )が採決されたにとどまった。

 

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2019年12月14日