・菊地大司教の「教皇さまが語った言葉から」①②③

教皇様が語った言葉から・その1(2019年12月 3日)

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 日本滞在中に、教皇フランシスコは様々な「言葉」を語りました。様々な人と出会う中で、いくつものスピーチを行い、その中で、多くの課題について触れられました。時間が限られていると同時に、宗教指導者であり、同時に国家元首でもあるという立場を考慮して、聖座(バチカン)によってスピーチは、用意周到に準備されていました。(写真は、東京カテドラルにて。©CBCJ)

 しかし全体のテーマは、「すべてのいのちを守るために」で貫かれています。人間のいのちは、神からの賜物であり、神の似姿として創造されているところに人間の尊厳の根源があるのだという、信仰の根幹に根ざしたいのちへの理解にしっかりと足場を置いて、様々な課題について発言されていたのだと感じました。

 人間のいのちは、その始まりから終わりまで、すべからく護られなくてはならないという信念が、人間のいのちを危機に陥らせている社会の様々な課題に対する教皇様の懸念を、力強いメッセージとして発信させたのだと思います。

 たくさんのことを語られたので、すべてを通して読むことは大変かも知れません。かといって、そのほんの一部を切り出したのでは、本当に伝えたいことは理解できません。教皇様のスピーチの中からいくつかのフレーズを、少しばかりまとまった単位で順番に取り上げて、紹介していきたいと思います。

 まず東京教区での行事から。11月25日の東京カテドラルにおける青年との集いでの教皇様のスピーチから。まず一つ目。

 「皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情と、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。私たち人類家族にとって、皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。私たちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。誰もが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。誰もが、分かち合うべき、自分の物語を持っているのです」

 カテドラルには900人を超える青年たちが集まっていました。その中には、日本出身の人もいれば、諸外国出身の青年もおり、また多文化のルーツを持つ青年も、様々な混乱を逃れて避難生活を送る人もおられ、多様性の坩堝のような集まりでした。社会の全体の姿を象徴するとともに、今の、そしてこれからの日本のカトリック教会の現実をも象徴するような、多様性のある集まりでした。

 その多様性を個々人がどのように生き、「人類家族」として、分裂ではなくて、「調和と平和」のうちに共存する道を探ることが大切だという呼びかけで、教皇様のメッセージは始まりました。メッセージの紹介は次に続きます。

(今回の訪問で分かったこと)

 これは今回の体験からの個人的な推測に過ぎませんが、聖座はこういった教皇様の海外訪問において、教皇様が公式に発言することに非常に大きな注意を払って準備をしていると感じました。もちろん訪問先の国の教会からは様々な情報が寄せられます。今回も、聖座の担当部局から、日時を決められて情報提供をするように、との指示があり、司教協議会の諸委員会はそれぞれの分野での情報を提出しました。

 実際にできあがったスピーチは、現地からの情報を確かに参照してはいるものの、やはり聖座の独自の考えを見事に反映した内容となっていました。なにか、現地の教会がこれを教皇様に言ってほしいとか、例えば私が個人として教皇様にこう言ってほしいとか、そんなリクエストができるようなシステムにはなっていませんでした。

 事前にいろいろな方から、教皇様にはこういうことを言ってほしいのでぜひ伝えてほしいというリクエストをいくつかいただきましたが、それはそもそも無理な話でありました。

 教皇様の語った言葉から・その2(2019年12月7日)

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 東京カテドラルでの青年の集いでは、3名の方々が日本における青年たちの生きている現実を話し、同時に教皇様へ問いかけ、それに対して教皇様が回答する形でスピーチをされました。(写真は東京カテドラルでの教皇様。©CBCJ)

 一人目は、新潟出身で、現在は日本のカトリック青年たちのリーダーの一人として活躍する女性。二人目は諸宗教の青年として、仏教の女性。三人目が、フィリピン出身のご両親のもと、日本で育った青年。

 教皇様が語られた言葉から、その一節です。まず、最初に発言した小林さんの呈した疑問に答えながら、教皇様はこう言います。

 「未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。中身のない、お人形さんのようになるのです。すべてに退屈しています。夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人がいます。なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです」

 日本のマスコミの報道でも注目された「ゾンビ」発言です。いったい何を大切にして生きているのか、疑問を投げかけ、その根底には「他者との人生を喜べない」と、自分にだけ感心を注ぎ、他者に心の目を向けることのない、人間関係の欠如を指摘されます。そして教皇様は、次のように続けられました。

 「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。私は、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていない、という思いこそが、最も恐ろしい貧困です」。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていない、と感じることです」

 昨年12月、前田枢機卿、高見大司教、アベイヤ司教と一緒にローマで教皇様とお会いしたとき、日本訪問への様々な思いを教皇様は語られました。教皇様はそこで、ご自分が心を痛めておられる様々な日本の抱える社会の問題を指摘されたのですが、そのうちに一つが、「孤独と孤立」でした。

 被災者の集いにおいても、教皇様は「孤独と孤立」の問題を指摘されました。物質的な反映だけで人間は幸福にはならない。互いに支え合い、愛されていると感じる人間関係が不可欠だと呼びかけられます。

 教皇様が2013年の就任からしばしば語られる「無関心のグローバル化」。むなしいシャボン玉の中に籠もって、そのかりそめの安住の地から、外への関心を持たない人々への警鐘。教皇様の一貫した主張です。

 

教皇の語った言葉から・その3(2019年12月14日)

 教皇様が日本で語られた言葉は、すべてがインパクトのあるものであったと言って差し支えないと思いますが、特にいくつかの言葉が、教会だけではなく広く一般の注目を浴びました。

 もちろんその一つは、核兵器廃絶に関する発言であり、またもう一つは、帰国の飛行機の中で、『私的な考え』と断った上で語った原子力発電についての考え方でした。もう一つ、あらゆる意味で注目を浴びたのは、『日本も難民を受け入れるべき』と語ったと言われている発言です。

 これは教皇滞日中にすでにメディアに流れ、それに対して、滞在中からすでに、「バチカンがまず難民を受け入れるべきだ」というリアクションがありました。そのリアクションについては後で触れるとして、いったいどこで教皇様は難民について語ったでしょう。

 教皇様の語ったたくさんの言葉を探していくと、一カ所だけ。それも文章にして4センテンス。ほんの短い言及がありました。東京カテドラルでの青年との集いの中での、以下の発言です。

 「さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです」

 確かに当日、東京カテドラルには数名の難民の青年が来ていました。一番前の列にいたことと、後で触れるロゴ入りのTシャツを着ていたことから教皇様もその存在に気がつかれ、握手をして祝福してくださいました。

 この短い言及が、あれだけのリアクションを招くのですから、教皇の語られた言葉の持つ力と影響力には驚かされます。

 教皇フランシスコは2013年の就任直後に地中海のランペドゥーザ島を訪れて、アフリカから逃れてきた人々と出会い、そこで記憶に残る説教をされました。

 「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

 それ以来、誰ひとり排除されない社会の実現は教皇フランシスコにとっての優先課題であり、特に助けを必要としている人たちのいのちを守るために行動することが、今の世界のためにも、そして将来の世代のためにも必要なのだと強調されてこられました。

 カトリック教会はあのバチカンのテリトリーにとどまる存在ではありませんし、東京カテドラルで教皇は国家元首としてではなく、世界13億人の信徒のリーダーである宗教者として発言されています。

 そのリーダーである教皇様の意図を具体化するために、バチカンには様々な機構が設けられていますが、特に慈善活動や助けを求めている人に手を差し伸べる活動を世界的に展開するために設けられているのが、国際カリタスです。教皇パウロ6世によって設立された、国際NGOです。

 世界各地、カトリック教会があるところにはすべてカリタスが存在しており、日本にもカリタスジャパンがあります。カリタスジャパンは、例えば東北の大震災直後から今に至るまで、現地の教会と協力して、被害を受けた地域にとどまりながら復興支援活動を続けています。

 また1970年代後半からインドシナ難民を日本で受け入れたときには、外務省や国連難民高等弁務官事務所と連携して、全国数カ所に拠点を設けて、難民受け入れ事業を行いました。

 世界各地で、今現在も、カリタスは、教皇フランシスコの意を受けて、難民支援事業を展開しています。わたし自身も1995年頃に国際カリタスの行うルワンダ難民支援プログラムに参加して、3ヶ月ほど旧ザイールのキャンプで働きましたが、同様に難民を受け入れ保護する活動を、カトリック教会は長年にわたって実施してきました。

 またこの2年ほどは、『Share the Journey』と名付けたキャンペーンを世界的に展開し(日本では『排除ゼロキャンペーン』)、安全を求めて旅を続ける人たちとともに歩む道を探り続けています。(キャンペーンについてはこちらのリンク

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 このキャンペーンの先頭に立っていたのは、もちろん教皇フランシスコですが、もう一人、国際カリタス総裁のタグレ枢機卿は自ら世界各地の現場を訪れて、現場からの発信を続けています。そのタグレ枢機卿が、カトリック教会の世界宣教の責任者である福音宣教省長官に教皇フランシスコから任命されたのですから、いまや教皇様が目指しておられる教会の方向性は明確です。(写真上、向かって左がタグレ枢機卿)

 

(菊地東京大司教「司教の日記」より)

 

 

 

 

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2019年12月10日