・聖職者による児童性的虐待で、ヨハネ・パウロ二世の対応に疑問の声(LaCroix)

(2020.5.18 La Croix  Céline Hoyeau)

  バチカンは、教皇ヨハネ・パウロ二世の列福を、そして列聖を異例の速さで進めた。確かに、彼はその教皇在位の長さ(1978年から2005年まで)と、その間の神と民への献身、世界的な人気の高まり、それが引き起こした人気の献身、そして並外れた名声と強靭さなど、あらゆる点で際立っていた。

 このポーランド出身の教皇は、多くの点で預言的であり、平和と人権擁護を訴え続け、欧州での共産主義体制の崩壊の主因の1つとなった。世界中を飛び回り、海外訪問の回数は104回、訪問国は129か国に上った。世界青年の日を設立し、若者に手を差し伸べる教会の先駆者となった。

 だが、そうした高い評価の一方で、ヨハネ・パウロ二世について、数十年続く教会における性的虐待への関わりが、特に最近、問題視されている。これに関して厳しい発言をする関係者もいる。「オオカミに子供たちを食わせる羊飼いを、列聖できるのだろうか?」 と。

*被害者の訴えに「顔を隠し、沈黙を選んだ」

 フランスのカトリック進歩派の作家、ジャーナリストのクリスティーヌ・ペドッティは、最近出版した著作で、マルシアル・マシエル(メキシコ人司祭、修道会「キリストの軍団」の創設者でありながら性的虐待など多くの問題行為を働いて被害者たちから告発されたが、教皇ヨハネ・パウロ2世の下では調査が進まず、最終的に前教皇ベネディクト16世が、告発を認め、聖職者のとして一切の行為停止などの制裁措置を取った)の問題への教皇ヨハネ・パウロの対応について言及、「自らの顔を隠し、沈黙することを選んだ」と批判した。

 これに対して、同教皇の伝記作者であるベルナール・ルコントは「マシエルは人を操ることに極めて長けており、ヨハネス23世、パウロ6世と同様に、ヨハネ・パウロ2世の信頼を悪用したのだ」と弁護しているが、マシェルの被害者の多くは「1979年までに、教皇ヨハネ・パウロ2世に警告した」と主張。「私たちの告発状はバチカンの国務長官に届いたが、その後どうなったのか。教皇はそのファイルをお読みになったのでしょうか」とル・コントに問いかけている。

 さらに、マシエルは、当時バチカン国務長官だったアンジェロ・ソダノ枢機卿、教皇ヨハネ・パウロ2世の個人秘書だったスタニスラウ・ジウィッツ神父に”財政的に極めて寛大”であり、彼らは、被害者からの訴えが教皇に届かないように隠すことが可能だった、とも指摘している。

*問題を過小評価、”高潔”の理想が直撃された

 だが、告発された以外の司祭小児性愛スキャンダルが1980年代の終わりに明るみに出た。明らかに、ヨハネ・パウロ2世は事態を過小評価していた。そして、それは、一般社会と宗教関係の団体・組織がこの問題について沈黙を保つことに役立たず、この沈黙は、当時カトリック教会に蔓延していた「秘密主義の文化」によって、さらにひどくなった。

 ヨハネ・パウロは確かに、「聖職者の過ち」を公けに弾劾した最初の教皇となったが、彼は性的虐待を、刑法上の「犯罪」ではなく、宗教上の「罪」と、と捉え続け、こう信じていたー司教たちは、「司祭たちが和解し、良心の平和を見出す」ように、「迷える」司祭たちを「助けるべき」だーと。

 聖職者による性的虐待の悲惨な現実は、ヨハネ・パウロが推進した高潔の理想を神聖さの理想を直撃するものだ。

 「教皇は、性的虐待の問題に圧倒されたのだ… ご自身が(注:神の教えに)あまりにも忠実だったために、現実を受け止めることができなかったのだろう」ー有力高位聖職者の1人、ウィーン大司教のクリストフ・シェーンボルン枢機卿は、オーストリアの有力日曜紙Der Sonntagとの最近のインタビューで語っている。

 教皇の故郷、ポーランドでの経験も、聖職者を強く擁護する彼の傾向を部分的に説明している。司祭を捕えるために虐待の汚名を着せるのをいとわないナチス、そして共産主義体制のもとで、彼は育ったのだった。

*性的虐待枢機卿への度を超した信頼

 ヨハネ・パウロ2世が教皇職に就いている時期に、バチカンは「聖職者の性的虐待について大げさに騒ぎすぎる」とメディアを非難した。同教皇が1986年にウイーン大司教に任命したハンス・へルマン・グローアン枢機卿を例にとると、未成年者を性的に虐待したとして告発された枢機卿に対し、教皇は1995年9月8日に手紙を送り、この告発は「迫害にも等しい”破壊的な試み”だ」と異議を唱え、繰り返し彼に”感謝”を述べた。

 これについて、ル・コントは「ヨハネ・パウロがあまりにも理想主義だったのと、自分の側近に度を越した信頼を寄せたことを、まさに示している」とし、「彼は教皇になる以前、クラクフにいる時から、人をどのように任命するかを知らないことで有名だった」と”弁護”する。

 いずれにしても、教皇は、グローアン枢機卿に”励まし”の手紙を出した数日後に、枢機卿から辞表を受け取らざるを得なかった。枢機卿が罪を犯したことは、彼の後任のウィーン大司教、シェーンボルン枢機卿が1998年に確認している。

 それにもかかわらず、ヨハネ・パウロ2世は、その後も、グローアン枢機卿の犯罪を否定したことを取り消すことも、被害者たちに謝罪することもなかった。

*教理省長官の忠告を聞き入れた時には病状が悪化

 そうした中で、当時のヨゼフ・ラッツインガ―枢機卿(当時、バチカン教理省長官、後のベネディクト16世)だけが、聖職者による性的虐待問題について、教皇に忠告しようとした。教理省の彼のデスクにいくつもの告発状が届いていたからだ。

 ルコントによると、ラッツインガ―はバチカン内部の「この問題を”絨毯の下にたまった埃”にすぎない、と軽視する人々」と真っ向から対立していたが、最終的には、「教皇を説得し、性的虐待の案件を教理省で集中処理するようにした」という。

 転機は、2001年(注:教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなる4年前)に来た。教皇が米国の枢機卿、大司教たちをバチカンに呼び、聖職者の未成年性的虐待に対する”ゼロ・トレランス(厳正な措置を容赦せずにとる)”の基礎を築き、「若者たちを傷つける者に、司祭職の場はない」ことを言明したのだった。

 だが、間もなくヨハネ・パウロ2世の病状が悪化し、2005年に亡くなるまで、側近たちが、彼の言明を実行に移すためのあらゆることを妨げてしまったのだ。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年5月20日